Episode:32 Sequence4



 だから、あたしの名前を知ってたの?
 薫はふらふらと夜の通りを歩いていた。
 旅館へ戻る途中なのだが、少しずつ家並みが古めかしい物になっていく、そのためだんだんと心細くなって来ていた。
「あの時、あたしを助けてくれたのは碇君じゃないの?」
 耳につけたヘッドフォン。
 そこには和子のディスクからコピーした、シンジの歌が流れていた。
 雑音と悲鳴、聞こえにくいが確かにシンジの声だった。
 帰ろう、薫…
 とてもとても優しい声だった…
 薫は何度も反芻していた。
 声しか思い出せないけれど…、今でも忘れてない、もう一度だけ囁いてくれたなら…
 きっと思い出せるのにと、薫は彼の姿を追った。
「え!?」
 頭の中に思い浮かんだのは、やっぱりカヲルの笑顔だった。
「パスパスパス!、だって赤い目をして真っ白で、まるで幽霊みたいだったもん」
 薫は恐い考えにはっとした。
 黒マントなんて似合いそう…
 きゃんきゃんとどこからか聞こえて来る犬の鳴き声。
 ははは、は…
 笑いが乾いてしまっていた。
 早く帰ろう…
 薫は早足で歩き出した。
 もしあの人が人間じゃなかったら?
 例えば吸血鬼とか。
 はまり過ぎ…と、頭の中で想像してみた。
 でも、もしそうならあたしの病気を治せたのも説明つくかな?
 吸血鬼を説明することは避けている。
 チカチカチカ…
 今日は…、月が良く見えないな。
 切れかけた電灯に暗闇が一層際立っていた。
 その向こうから幽鬼のように人影が浮かび上がって来る。
 うそ、うそ、うそー!
 赤い瞳とにやけた口元に恐怖を感じた。
 まさか、ほんとに!?
 薫は一気にパニくった。
 もしかして、女の子に人気があるのも魔法とか…、そんなのいんちきじゃない!
 わけの分からないことに腹を立てる。
「こんばんは」
 薫ははっと我に帰った。
「あ、こ、こんばんわ…」
 今さっきまでのことなど忘れて、薫は間抜けにも挨拶をし返してしまった。
 先輩じゃ、ない…
 ただの酔っぱらいだった。
「お嬢ちゃん、どこ行くのぉ?」
 気がつくと、腕をつかまれてしまっていた。
「あ、あの、旅館に帰る所なんです、だから…」
「あ、ホテル?、だったらちょうどいいやぁ」
 なにがちょうどいいのか分からない、だが抗うことも無駄になっていた。
「離してください!」
「だぁめぇ〜」
 酔った男の力は強い、加減がないからだ。
 あ、あ、あ、やだ…
 恐くなって来る。
 涙が滲んで来る、同年代の女子よりも更にひ弱な薫にはどうしようもない。
 誰か助けて…
 薫の脳裏に、カヲルが浮かんだ。
「助けて、カヲル君、助けてぇ!」
 薫は何故だか力一杯カヲルのことを呼んでいた。
 バチィ!
 電灯がついに切れた。
「お?」
 真の闇に包まれる、薫はさらに恐怖を募らせた。
「月の美しい夜だね」
「あん?」
 男は真上を見上げた。
「あ!」
 半月と重なるように、カヲルが空を見上げて立っていた。
 信じられないことに細い電灯の上に立ち、手はポケットに突っ込んでいた。
「カヲル…、くん」
「来たよ、薫」
 カヲルは優しく微笑んだ。
 耳にその言葉がこだまする。
 カヲルは続いて男を見た。
「…彼女を離してあげてくれないかな?」
「いやら」
 舌が回っていなかった。
「やれやれ」
 肩をすくめるカヲル。
「やはり頼むよ、山岸さん」
「はい」
 暗闇の中で何かが動いた。
 バチッ!
 軽い電気が走ったような痛みを感じて、男は薫から手を離した。
「こらぁ、きたねぇぞ!」
 スタッと飛び降りるカヲル。
「君に必要なのは酔いざましのお仕置きだね?」
「なんらとぉ?」
 ドン!
 薫には何が起こったのか分からなかった。
 ただ確実なことは、男が弾け飛んで電柱にぶつかり、動かなくなってしまったことだった。
「渚さん…」
 薫は自分の両肩に手を置いてくれているのか誰かに気がついた。
「心配ないよ山岸さん、朝には目が覚めるさ」
 カヲルはへたり込んだままの薫に手をさし延べた。
「さ、帰ろう、薫」
 あ…
 いつか聞いた言葉に、ふいに涙がこぼれてしまった。
「…そんなに恐かったのかい?」
 カヲルは分かっていながらごまかした、だが感極まっている薫には関係無い。
「嘘つき…」
 ふいに薫の口から言葉が漏れていた。
「いつでも会えるって、言ったくせに…」
 カヲルは困ったようにはにかんだ。
「いくら人間じゃないからって、記憶奪っちゃうこと、ないじゃない…」
 薫は何かを勘違いしていた。
 人間じゃない?
 マユミはカヲルに首を傾げた。
「僕は人間だよ」
 真剣にカヲルは答えた。
「だって…、あんな高い所に急に現れたり、手も触れずに人を突き飛ばしたり、…あたしの病気を治してくれたり」
 薫は差し出され立てに手を重ねた。
「そんなこと、人間にはできないもん」
 手を借り、立ち上がる。
 薫はそのままカヲルの胸に飛び込んだ。
 !?
 両手で顔を被ってしまうマユミ。
 その指の間から、唇を重ねる二人の姿が見えていた。
 月も恥ずかしげに隠れていく。
 それでも薫の唇は、決して離れようとはしなかった。



続く







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