「シンジ様ぁ……」
 ミズホは携帯電話を抱き締めたままぽつりと呟いた。
 泣いているような、蚊の鳴くような声だった。
「絶対変よ」
 アスカだ。
 だがレイとて異変は感じている。
『カヲル、カヲル!』
『声』が通じないのだ。
 距離も何も関係無い以上、後は意識的に『切断』しているかどうかが問題になる。
(カヲル……)
 何か聞こえないかと耳をすます、実際には耳では無く、心を磨ぎすませているのだが、そうしていると、聞こえて来るのだ。
(なんなの、これ)
 何かが聞こえる、何だろう?
(途切れがちに……、声みたいなものが、ノイズじゃない、『意志』がある)
 だがどうしても意味のある羅列が……、単語が聞こえないのだ。
(違う……、そうじゃなくて、わたし達と違う『言語』を使ってる?)
 それは直感だった、時折音の羅列に同じ配列と音域を感じ取ってそう思っただけだったのだが、あながち間違いであるとは思えなかった。






 恐くて振り返れなかったというのに、カヲルは振り返ってさらに睨み付けろと言う。
 それだけでも勇気が必要だった、カヲルと同じ相手ならいい、自分が気を抜いてもカヲルが制してくれそうだったから。
 だが任された以上、もう気は抜けない、責任は全て自分の肩に掛かるのだから。
(逃げちゃ、駄目だ)
 呪文のようにくり返す。
(逃げちゃダメだ)
 アスカの顔が脳裏を過る。
(逃げるしか無かったんだ、でも逃げても気持ちは晴れなかった、何処に行っても同じだったんだ、当たり前だよね、逃げようとしたのは自分からなんだから、何処に行ったって着いて来るに決まってるじゃないか)
 さらに睨む。
 だが逆に心は落ち着いていく。
 あるいは背中から伝わって来る、カヲルの温もりのおかげかもしれない。
(危なかった、変わろうって思ったのにまた戻りかけてた)
 肩越しにカヲルを見かけて、やめた。
 今はそんな場合ではないのだから。
(ありがとう、カヲル君)
 心で感謝し、一度だけ小さく深呼吸をする。
 そんな風にシンジが落ち着きを取り戻して、雰囲気を変えてしまったからか……
 スウッと……、彼らは一歩だけ退いた、外灯も月明かりもあるというのに、夜の闇に紛れるように薄れて消える。
 それでも暫く、シンジとカヲルは気を張り詰めていた。
「カヲル君……」
「行ったようだね」
 すっと体から力を抜いたのを背中に感じて、シンジは急にへたり込んだ。
「はは……、恐かった」
「大丈夫かい?」
「うん……」
 言いながら、今更ながらにがたがたと体が震えるのを感じた。
 強ばって力を抜く事が出来ない。
「お、かしいね、こんな……」
「そんなことはないさ」
 カヲルは本当に感心した目を向けた。
「良くあれほどの相手に無事で……」
 シンジはただかぶりを振った。
「必死だった……、それだけで」
「それだけでも、十分さ、でも」
「なに?」
「レイ達には、内緒にするしか無いね、これは」
「そうだね」
「シンジ君が浮気をしていたなんて、ね?」
「え?」
「ストリーキングの少女に誘惑されていたなんて、言わない方が良いと思うよ?」
 シンジはカヲルの物言いに、そう見えない事も無かったのだと気が付いて、今更ながらに赤くなった。






 翌朝、登校、通学路にて。
「ほんっとに何にも無かったんでしょうね?」
 アスカはしつこく疑惑の目を向けた。
「何処行ってたのよ?」
「何処って……、別に」
「別にって何よ、怪しいんだから」
「なんだよ、もう……」
「知らないわよ、馬鹿!」
 ぷっとそっぽを向いて少し離れる。
 その隙間に割り込むレイだ。
「シンちゃん」
「何?」
「何があったの?」
「え……」
「『何か』、あったんでしょ?」
 シンジは確信している目に逆らえなかった。
「……ちょっとね」
 レイは嘆息した。
『あんまり心配させないで欲しい』
『ごめん……』
 聞こえた声にギョッとした。
「シンちゃん!?」
「え?、……どうしたの?」
(気付いてない!?)
 レイは愕然とした、これまで聞こえたような気がしたこと、あるいはシンジが聞き取ったことは稀にあった。
 だが今は違う、アスカの『声』を聞き取った時のことが思い浮かぶ。
(シンちゃん、『中和』してた)
『やはり』何かが進行している、そんな気がする。
 確実な変化が見て取れる所に出て来た、そんな気がする。
 余りにも自然に、余りにも意識せずに『力』の一端を用いるシンジに、レイは少しだけ不安になった。
「シンちゃん」
「で」
 と話しに割り込むアスカだ。
「ちょっと、何があったって?」
「あ……」
 ピクピクと引きつる頬、ついでに頭に角が二本から三本ほど生えて見えた。
「あたしだったら嘘吐いて、なんでレイだったら答えんのよっ、あんたわ!」
「そうやって、ぽんぽんぽんぽん言うからじゃないか!」
「当ったり前じゃない!」
「何処が当たり前なんだよぉ!?」
「節操が無くて男でも女でも手ぇ出す所よ!」
 いつもの雰囲気に一応落ち着く。
 アスカはカヲルがだから逃げているのだろうと思っている、レイはそう観察していた。
 だが真実はシンジとの会話から窺い知れた。
(大丈夫なの?、カヲル)
 レイの『漠然』とした『確信』は現実になる。
 そして、運命の日が訪れた。



続く







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