Air
「髪、伸ばすことにしたのかい?」
 そう口にされて、シンジはようやく口を開いた。
「少し……、子供っぽいのが嫌になったんだ」
「君はもう大人だよ」
「そうなのかな?」
 相手はカヲルだ。
 夜の学校、その屋上。
 静か過ぎる夜風、遠くの街の灯。
 どこかその営みが息づく世界に、少年達は羨望の目を向けていた、まるで……、そう。
 捨てられた子供達のように。
「僕は君に好意を抱いていた」
 カヲルは唐突に口にした。
「わからなかったからだね、《単体の種》である僕には、伴侶となるべき《雌》は存在しなかった、だから純粋に好意を他人に向けられた……」
「今はダメなの?」
「簡単に好きとは言えないね、例え種の保存本能に基づくものであったとしても、小鳥が囀るように気を引くためにこそ言葉があるとしても、今の僕は誰にそれを向けるべきか、知っている」
「……」
「聞いてくれないのかい?」
 シンジは苦笑し、ひらりと柵を飛び越えてから、その上に腰かけた。
「聞きたくないんだよ、僕は」
「怖いのかい?、含まれていないかもしれないから」
「それはそれで良いよ、僕が怖いのは、応える術を知らないって事についてさ」
「……失望させてしまうから?」
「いつかカヲル君が僕に言った通りだよ、僕は愛し方も、愛され方も知らない、わからないんだ、だからどうして良いのかわからない」
「それで逃げているのか、君は」
 こくりと頷く。
「君はどれほどこの時をくり返したとしても、君のままなんだろうね……」
「え?」
「人は苦しみを乗り越える事で成長する、悲しみを糧とする事で強くなる……、怖れてばかりじゃ、本当に大切な物は守れないよ?」
「……わかってる」
「……ほんとうに?」
「わかってるさ、守れないってことだけは」
 カヲルはそれ以上を言及しなかった。
 シンジが受けているショックを思えば、とても口にはできなかったから。


 それは先日、シンクロテストの後、リツコとの会話に端を発していた。
「そう、アスカまで……」
 リツコはショックを隠し切れない様子でマグカップを手にした。
 震えから波紋が生まれて、跳ね落ちる。
「リツコさん?」
「ごめんなさい……」
「いいですけど、手」
「そうじゃないのよ、そうじゃ」
 リツコは顔を上げると、真っ直ぐにシンジの目を覗き込んだ。
 学生服姿のシンジに、おどおどとした、彼女が見た事の無い筈の姿を重ね合わせて。
「……わたしにもね、あるのよ」
「え……」
「以前の記憶が」
 ガタン!
 シンジは倒れ掛け、咄嗟に机に手をついた。
 乗っていた資料の類がばさばさと落ちる。
「いま……、なんて」
 リツコはくり返さない、シンジがその意味を咀嚼し、受け入れるのを待った。
「……リツコさんにも?」
「……あの人にもね」
「あの人?」
 まさかと目を丸くする。
「とう、さん……」
 喘ぐように。
「どう、して……」
「信じたくなかった、わたしは信じたくなかったし、確証も無かった、でもね?、わたしに相談に来る人の数は毎日増えているのよ、妄想か、錯乱かって」
「増えてる?」
「そう……、わたしたちだけじゃないの」
「どうして!」
「答えは簡単」
 端的に告げる。
「補完は未だに続いているのよ、いま、この瞬間もね」


 シンジは布団に身を投げ出して、どうしたものかと頭を抱えた。
(この世界そのものが嘘だなんて)
 碇シンジと言う核があり、核は幸せを今一度摸索させ、満たされた人間は過去の自分を振り返る。
 振り返り、咀嚼し、また前に踏み出せる強さを身につけた者が、次々と以前を思い出している。
 アスカならまだいい、でも?
(僕は……)
 それはシンジにしかわからない悩みであった。


「あん?」
 アスカはレイの質問の意図を計りかねた。
 二人お揃いのパジャマだった、長めの袖と裾は折られている、ベースは白で、折り返し部分はアスカが水色、レイはピンク。
 ペットボトルの水から口を外してアスカ。
「どうしてシンクロ率が上がったのかって?」
 コクリと頷くレイ。
「教えて……、どうすればもう一度エヴァに乗れるの」
「どう……、って言われても」
 アスカには答えられない。
「だいたい、そんなのアンタの方が知ってんでしょうに」
「……今は、わからない」
「ふうん?」
「わからないもの」
「でもエヴァが無いじゃない、肝心のあんた専用機が」
 レイは顔を逸らした。
「そう、だけど……」
「ま、あんたのことだから理由なんて知れてるけど」
 ふたたび一口、ばしゃっと中で音が鳴る。
「そんな状態じゃ、だめね」
「だめ?、そう……」
「勘違いしないで、エヴァがどうのこうのじゃないの」
「?」
「シンジにはもう、あたし達を気にする余裕なんて無くなってる、それをわかれって言ってるのよ」


 日増しに思い出す人間は増えていく。
 その中には当然のごとく、クラスメート達も含まれていた。
「ネルフからの発表、聞いたか?」
「ああ」
 ブスッくれた顔で音を鳴らして椅子に座ったのはトウジだった。
「鈴原」
「委員長か……、シンジは今日も来とらんのか」
「うん……」
 日誌を胸に抱いて口にする。
「色々と口にされてるから、碇君」
「ほんまアホちゃうか?」
 ヒカリはどちらが、とは訊ねなかった。
 アスカとレイ。
 二人を想う人間は多い。
 それにプラス、以前の記憶。
 知識。
 邪魔な者はシンジ。
 誰かが口にした。
 碇シンジは卑怯者だと。
 誰が言ったかは問題ではない、ただの憶測にすぎない、それでもだ。
『今回』の始まりより、明らかに『以前』とは違った少年の態度。
 それは誰よりも早く記憶を取り戻していたからではないのかと……
 故に、自分に都合よく展開させ、今の状況を作り出したのではないのかと。
 もちろん、シンジに近い立場の人間ほど、それはない、と考える。
 しかし学校で、人垣の向こうから生卵を投げ付けた人間がいた。
 噂が観光客にまで波及した。
 こうなるとマスコミも動く。
 そしてネルフ内でもだ、一パイロットにしてはやけに大きな権限と発言力を持っているのが災いした。
 自分達は操られている。
 不安は拭えない。
 それで十分だった。
「シンジ……」
 心配げに問いかけたのはアスカだった。
 パイロットルーム、タオルを頭に……、いや、顔に被せてシンジは仰向いていた。
 口が中途半端に開いて空気を求めていた。
 喘ぐように。
「あんた……」
「ダミープラグ」
 遮ってまで伝える。
「もうすぐ完成するよ」
「……だから?」
 アスカにとっては嫌悪の対象でしかないのだろう。
 かつてトウジを殺し掛け、そして自分を殺したシステム。
 好感を持てと言う方がおかしい。
「わかってるよ……、みんなだろう?」
 下半分、口元だけで笑って見せる。
 自嘲。
「戦自やね、政府でも同じように記憶を取り戻してる人達が出て来てるんだってさ、それで前の、騙された時の罪悪感があるから、今度は僕達……、ネルフに協力してくれてる、大丈夫だよ、もう」
「だからって……」
「ダミープラグが実用化されればパイロットはいらなくなるんだ、そうなったら」
「あたしやレイは用済みってわけ?」
「違うよ」
「どこが……」
「全然違う、だって……」
「なによ?」
「用済みになるのは、僕って事さ」
 アスカは怖れから息を呑み……
 何も言い返す事が出来なくなった。


 −−まずいことになってる。
 アスカの不安は、先の会話で急激に育ち始めた。
 そう、確かにシンジがもがき苦しんで、以前とは違った状況を作り上げた、そこに私怨や個人的な願望が反映されていないかと言えば嘘になる。
 いや、むしろあって当然だろうし、ない方がおかしい、ただ、それも程度によっては許されてしかるべきだろう。
 けれどわからない人間がいる。
 アスカは歯痒かった、どうにもできない自分に。
(あいつもずっと、こんな想いしてたってぇの?)
 シンジの部屋に引き上げて待ち受ける。
 ベッドの上、膝を抱いて座り、親指の爪を噛む。
 すっかり癖になっていた。
(どうにかしなきゃって思うのに、何にも出来ない、流されてく……)
 一時間、二時間、一日、二日。
 それだけ記憶を取り戻す人は増え、加速度的にサードチルドレンの悪評は膨らむ。
 経過はどうであれ……
(バカシンジはやってくれたってのに)
 自分は恩も返せない。
 不安、それ以上に恐怖。
(シンジは死ぬ……、ほどじゃなくても消えるつもりなんだわ、誰の心からも、辛いから、ここにいるのは辛いだけだから)
 登校を拒否する、その程度の感覚で。
「バカ……」
 アスカは膝頭に頬を預けた。


 その頃、綾波レイは一人広い部屋に残されて脅えていた。
 真っ暗な部屋の中、テレビの明かりだけがちかちかとレイを照らす。
 報道特別番組、サードインパクトの真実。
 憶測交じりでありながらも、記憶を回復させた戦自隊員などの証言を元に構成されたそれは、幾つかの真実を告げていた。
 が、それは重要な問題ではない。
(何故?)
 自分だけは未だにその記憶とやらを取り戻せないのだろうか?
(わたしが……)
 ヒトではないから?
 その考えを振り払う。
 それが真実なら、絶望するしかないからだ。
 だから拒絶する。
 レイの中では、アスカの言葉が渦巻いていた。
 −−そんな状態じゃ……
(なに?、なにがいけないの?、わたしのなにが)
 答えが見つかるはずもない。
「人の営みと言うものは……」
 そしてここにも一人、思い悩むものがいた。
 カヲルである。
 マンションの屋上、その縁に腰かけて月を見上げていた。
「かつてはゼーレ、補完委員会、ネルフ、今では隣人か、人は自分にとって不都合があり、そして不快である人物を常に排除しようとする……、悲しいね、それが人の本質ならば、そして」
 月は丸く、とても大きい。
「だからこそ、シンジ君の変革もあり得ないのか」
 本質は変わらぬままに世間は変化し。
 そして歪みはシンジへと集約される。
 終息した世界へと投石された小石がシンジならば、確かに変わるはずが無いのだ、シンジは基準点であり、中心、周囲の波、広がる波紋こそがアスカ達なのだから。
 どうにでも揺らぎ、渡っていける、それは遠ざかるようにも見えるし、果てがあるなら戻っても来るだろう、しかし。
 シンジは常に、同じ所に沈んだままだ。
 追いかける事もできずに、置いて行かれたままで、待つ事しか出来ない。
「ならば誰かが拾い上げてあげなくてはならない、でも」
 −−誰が?
 この補完を受け続ける人々で溢れ返った世界で、シンジを抱き挙げて、共に世から外れる事を望むのか。
 カヲルは彫像のごとく思案し、答えを導き出せない自分に、とても深い落胆をした。



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