──その瞬間のことが、彼の結末を決定づけたといえるだろう。
雨が降っていた……とても強い、雨だった。
工事半ばで放棄された高架線の脇にある土砂の山。うち捨てられた鉄骨がさびを浮かせてうずたかい山を築いているその谷底で、少年は銃を手にしてふるえていた。
……少年の目は、おびえに満ちて、定まらず、手先と同様に小刻みに揺れていた。
倒れている。
目前、十メートほど先に、黒いレインコートを身にまとっているものが倒れていた。
フードははだけて、その者の顔は、薄暗い中にもあらわとなっていた。
少女である。そして少年は、その少女の顔をよく知っていた。
「……嘘だ」
ようやく、声を絞り出す。
「嘘だ」
偶然である。
少年が暗殺者の狙撃を避けることができたのも、逃げまどう最中に銃を手に入れることができたのも。
そして──ほんのわずかな隙をつくことができたのも。
……もっとも、少年に素養がなければ、おびえ、ふるえて、恐怖に硬直して、ただ死を享受するだけであったはずだった。だから、彼が今ここにこうして生き延びているという現実は、確かに彼の中には、生き延びようとする意志と、それを実行に移せるだけの度胸と技術が備わっていたことを証明していた。
だから、故に──この事態は、ただの運がなせる偶然ではなく、彼自身が招き寄せた未来、必然的な結果とも言える状況にすぎなかった。
「こんなの、嘘だ!」
だからこそ、彼に、この現実を受け入れることはできなかった。
「こんなの……嘘だよ、綾波ぃ!」
彼──碇シンジは、一週間ほど前に、公式に死亡認定がなされていた。
そして今日、数時間前に、告別式が行われ、数十分前に、事実と真実を合致させるであろう襲撃を受けたのである。
彼は、銃を取り落とした。
つんざくほどの、降りしきる雨の轟音に、耳が遠くなっていく。
倒れ伏した者の顔が、フードが外れて見えていた。
短い、頬にかかった髪。独特の薄い色。
ぷくりとした、あまりにも生々しいうす桃色の唇と……口の端より流れる血の筋。
シンジは、両手で顔を覆い、えぐるように爪を立てて、頬を掻いた。
剥けた目玉には、銃を撃つ瞬間の光景が、克明にリフレインされている。
銃を突きつけられた自分と、突きつける暗殺者……。
引き金を弾くタイミングを計って、彼は飛んだ。わずかでも早ければ、ねらいを定め直され、遅ければ、この身に銃弾を受けることになる。
そんな絶妙のタイミングだった。しかしシンジにとっては、非常に慣れたタイミングだった。
──使徒と呼ばれた怪物との戦いにおいては、生き延びるために必要な間のはかり方であり、最も早くに彼が身につけたスキルの内の一つでもある。
飛んで避けたシンジに、少女がねらいを定め直す。ねらいを定め直す少女にシンジが、シンジを輸送していた者たちから奪った銃を相手に向けた。
銃口をあわせる。少女が引き金を弾くために指に力を込めたときには、シンジは引き金を弾ききることができていた。
パン……と、あまりにも軽い音だった。
しかしシンジは、眉間に穴をあけ、のけぞった暗殺者のフードが外れ、その下にあった顔があらわになる瞬間を、余すところなくその目に焼き付けることになってしまった。
「綾波ぃ!」
信じられないと……目を剥いて倒れていったのは、確かに間違いなく彼女であった。
だが……彼女は死んだはずの人である。最後の綾波レイは、確かにこの世から消えたはずであったのだ、なのに……。
どしゃりと、泥の中に跪いて、シンジは今を放棄しようとした。だから、彼は、すぐそばに現れた女の子の存在に、しばらく気がつくことはなかったのである。
──それから、三年の月日が流れ去る。
アスカ──と、呼ばれて、少女は振り返る。
豪奢でありながらもゆったりとしたデザインの服は、楚々とした立ち居振る舞いを身につけた彼女の身に、とても似合うものだった。
女性としては身長は高いであろうが、男性にとっては高すぎるという相手でもない。そんな彼女の前に立った男は、柔らかな笑顔で彼女を──娘を抱きしめた。
「パパ」
どうしたのかと、娘はとても不思議そうに父を見上げた。
「いや……」
アスカにとっては、あくまでも義理の父親であるのだが……彼、アドルフ・ラングレーは、泣き出す寸前のような顔をして娘を見下ろし、そして彼女の額に接吻した。
「少し、感傷的になってしまっているようだよ」
ああとアスカは、父の気持ちにようやく気づいた。
「お姉様、きれいでしたものね」
「うん、そうだね」
アスカの手を借りながら、アドルフは窓際に近い椅子に腰掛けた。ここは市内にあるホテルの一室であり……隠さないのであれば、結婚式場の親族のための控え室でもあった。
「僕にとっては、二人とも本当の娘ではないけれど……とても幸せな子供時代を送らせてあげることはできなかったけれど」
「パパ……」
その言葉だけで十分であると、アスカは彼の元に跪いて、手に手を重ね合わせた。
「あたしは、今は幸せよ?」
どうしてかしらねと彼女は笑った。
「昔は、なにをあんなにこだわってたのか、もうわからないの」
「アスカ……」
「こんな言い方は、嫌だけど……ママの妄執にとらわれていた、そんな気がするわ」
別れたとはいえ、元の妻のことである、愛していた人のことを、そのように認めることはできずに、アドルフは言葉に詰まらされた。
「あたしはね」
父の心のを察したのか、アスカは先手を打つようにして話を続けた。
「知ってたの……ママが……お母様に対抗意識を燃やしてたこと。そのために、あたしが生み出されたことも。だから、あたしは負けるわけには……ううん」
アスカは顔を伏せてしまった。
「戦わなければいけなかったの……戦って、戦って、戦い抜いて……でないと」
「アスカ」
「あたしに、生まれてきた意味なんてないって」
アスカ……と、父以外の声がした。
「お姉様」
そこに立っていたのは、アスカとは全く違った容姿をした人であった。
長い黒髪、美麗さはアスカには及ばないものの、それを補ってあまりあるほどの愛嬌があり、そしてなによりも……。
アスカは思わず赤面してしまった。
宝石のちりばめられたウエディングドレスに包まれながらも、決して埋没せぬ艶やかさを振りまいていた。
そんな色香は、大人の入り口に立つ者でなければ身にまとえない雰囲気でもある。
「アスカ」
彼女はもう一度、愛する妹の名を呼んだ。
今の幸せの中に、どこか憂いを含ませている。
「それはもう、過去のこと、でしょう?」
「はい、お姉様」
そのとおりですと、アスカは涙をぬぐいながら立ち上がった。
そんな妹のそばに寄り、彼女は妹を抱きすくめる。
「あなたが思うほど、わたしたちはあなたのことを、心配していなかったわけではなかったのよ?」
「わかっています……わかって」
……墓の前で、父と、父を母から取り上げた女と、その娘は笑っていた。
これからは、この四人で生きていこうとのたまう人たちに、たまらない嫌悪感を感じたものだった。
──自分で生きるの。
もうせっぱ詰まった生き方はしなくて良いのだと諭そうとする彼らの言葉は、おとなしくお人形になれと言っているように聞こえて、反発心を抱くことしかできなかった。
でも、そのようなことは、すべて自分の思いこみであったのだ。
彼らは、本当に心配してくれていたのだし……わずかばかりのすれ違い……ある夜に聞いた、いつでもあのこの母親をやめられるという義母の言葉も、扱いの難しい娘に対して及び腰になっている夫を激励するものであったのだと知った。
「次は、あなたの番よ……アスカ」
妹の顔を豊かな胸の谷間から解放し、その瞳をのぞき込んだ。
「あなたが幸せになる番なの」
アスカは小さくかぶりを振った。
「あたしは、もう……」
ううんと彼女は否定する。
「この世には、あなたの知らない幸せがたくさんあるわ……あなたはこれまでたくさん辛い思いをしてきたのだから……」
祝福のキスを贈る。
「両腕に抱えきれないくらい、いっぱいの幸せを見つけなさい」
アスカはこれ以上とない幸福さに包まれて、姉の顔を見つめ上げた。
「はい、お姉様」
──しかし、この二時間後には、彼女の表情は悲嘆にくれることとなったのである。
─Bパート─
「ネルフに対する示威行為……かどうかが問題ね」
日本ネルフ本部──発令所。
ここでは作戦部を統括している葛城ミサトが、気むずかしい顔をして報告を聞いていた。
「直接アスカを狙えばネルフが動く……だけど家族においては原則その限りではない、か」
部署替えに合い、去ってしまった日向マコトの後任担当官が、これに答える。
「……可能性については、以前より懸念されていましたが」
まあと、ミサトは調子を合わせた。
「ネルフが出張るのを嫌ったのは、向こうなのよね。ま、実際あちらがたの方が、よっぽど優秀な諜報部隊と工作班を抱えていらっしゃるわけだし」
ネルフは純粋な軍隊でもなければ、諜報活動隊でもないのである。だが、だからこそ憂鬱であるとも言えた。
「その選任の護衛部隊を出し抜いての誘拐……ですか」
よほど自分たちよりも優秀な彼らに、気取られることなく誘拐を実行に移し、成功させたとなれば、これは問題であった。
ミサトにたちにとって、せめて、生きててくれればという願いは、とても口に出しては言えない本音であった。
「それで、犯人の目星はついたの?」
さてとと担当官には答える言葉がなかった。
「なにしろ陸続きで、どこへでも移動できる土地ですから……三年、四年前のこともありますし」
ミサトは苦虫をかみつぶした。
──ゼーレ侵攻作戦。
ゼーレを名乗る一党が、最後の籠城戦を挑んだのがドイツ第三支部だったのである。
この戦争には、各国の軍隊、国連軍、ネルフ、それに私設団体が、各々敵と味方に分裂して激しい闘争を繰り返した。
情報──コンピューターをハッキングし、情報操作することを得意とするゼーレ側が、ダミー情報を流してかく乱をはかり、同士討ちを行わせたのである。
戦闘自体は、ゼーレ側を敗北させるに至っていたが、戦争の傷跡はひどく、今もあちらこちらに残されていた。
国境封鎖一つままならないのも、そんな名残の一つである。
「アスカ……かわいそうに」
かつての部下のことを想い、彼女は嘆いた。
現在のアスカは、予備役扱いの一少女にすぎない。それでもネルフの最高機密であるエヴァンゲリオンの中枢に、最も近い場所にいた人物なのだ。
……最後には、家族の真似事すらもしてやれず、薄情な別れを行うことになってしまった間柄ではあったが、それでも心配してやるくらいのことはしても良いだろうと、ミサトは自身にいいわけをした。
「犯人の目星もつかない……か」
「なにしろ、ドイツ側がネルフの介入を嫌ってますから」
「親ゼーレ派の工作でしょう? まったく、連中が未だに議席に座ってるって言うんだから、ドイツ政府ってのは」
「ゼーレって後ろ盾を失っても、なにも問題ないんだからすごいですね。まあもっとも、国民側は後ろ盾があったことなんて知らないんだから」
「表向きの姿だけを見て、以前と同じく投票するか」
それにしてもと思うのだ。
「今になって、どうしてこんな動きが発生するのよ」
「隙をつく……という意味では、格好のタイミングではありました。気のゆるみ具合からも上等でしょう」
「とにかく、ネルフとしては、いつでも介入できる状態を整えておきたいわね」
「そうおっしゃるんじゃないかと、国境付近に部隊はすでに配置済みです」
「圧力を掛けすぎない程度にしておいてね」
いらぬ気をもませたくはないと願う上司の言葉に、心得てますよと彼は応じた。
──ドイツ。
ラングレーの実家は、英雄、惣流・アスカ・ラングレーが住まうにしては、平凡すぎる家屋であった。
郊外に近い一軒家で、ちょっとした庭があり、中をのぞける程度に低い石垣に囲まれている。
そんな建物の中は、悲嘆と、殺気によって彩られていた。
「なんで……」
アスカには身の置き所がなかった。
物々しい男たちは、政府から派遣されたスペシャリストたちである。
誘拐、テロ……そのどれもがアスカを基点に作戦を立てているようであった。
それはすなわち……この誘拐劇が、彼女に対する何らかの目的を持って行われたものであるという証明にもなっていた。
アドルフは、二人の娘のことを心配していた。
拐かされてしまった長女のことはもちろんであったが、今最も不安をかき立てられるのは、目前でうなだれている次女の精神状態である。
そんなに自分を責めるなと告げてやりたい。
だがそんな言葉が慰めにならないことはわかっている。事実、この家族に誘拐される理由など無く、あるとすればそれは、唯一セカンドチルドレンとして世界的な勇名を誇る、この大人になりかけたばかりのか弱すぎる少女の親族であるということ以外に存在しない。
「地元警察は?」
「動きはつかんでいないようです」
「ホテルのことを考えると……地上を逃げたとは思えないが」
そんな会話が耳に入る。
式場として選ばれた高級ホテルは小高い丘の上にあって、周囲に遮蔽物となるような背丈のものは何もなかった。
逃げ出そうとするものがあれば、丘を監視するカメラのどれかには写っているはずなのである。
ならば、空かと考えても、そのような飛行物の報告は上げられていなかったし、地下には逃げ出せるような坑道もない。
「下水道かとも思ったが」
排水物をクリーンにする浄化システムが組み込まれており、潜水できる旧来の土管方式ではない。通り抜けできようはずがなかった。
ガス、電気等も似たようなもので、人が道の代わりに通ることができるような形式ではない。
「ネルフに……とは言わないが、せめて国連軍の出動を要請できれば」
「……無理よ」
口を挟んだ者に視線が集まる。
声には彼らが無視できない重さがあった。
「国連軍でも……ネルフでも、大規模なテロや、戦闘に対応できる能力はあっても、人一人を誘拐するような小さな犯罪を摘発できるようなノウハウはないわ」
それこそ、警察の仕事であるのだからと彼女は言った。
はぁっとため息混じりに体を起こし、うつろに笑って天井を見上げる。
「英雄だとか何だとか言われたって……本当のところは、こんなとき、頼っていい相手もいない、ただの子供なのよね」
「アスカ」
さすがにアドルフは心配になって声をかけた。
アスカの言葉遣いが、昔の生意気な調子を取り戻して感じられたからだった。
「心配するなとは言わない。だが、まだ何もわかっていない状況であきらめるのはやめてくれ」
「…………」
わかっていながら、わかっているとは言えずに、彼女は唇をかみしめた。
そのころ、アスカの姉──オルガの身は、小型車両の中にあった。
サングラスをかけ、ラフなシャツとスラックス姿の日系人の隣にである。着ているものはウエディングドレスのままであり、目立つことこの上ない様子であったが……しかし。
体を縛られているわけではなく、彼女は確かに自由であった。
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