──多分、その日から、平穏にやっていた僕の日常は崩れ始めたのだと、彼の少年は述懐する。


「ただいま帰りました」
 遠慮気味の挨拶をすると、奥から小太りな女性が顔を覗かせた。
「お帰りなさい、おやつ、置いてあるから」
「はい」
 小学生にしては妙に礼儀正しい、そのことを気にしてか、彼の叔母は呟いた。
「そんなに嫌なら、出て行きゃいいのに」
 少年の部屋は、家の裏手に別棟として建てられていた、通称は勉強部屋、実体はただの倉庫である。
 それでもテレビにコンポ、携帯電話など、必要なものは一通り取りそろえられていた、もっとも、それが善意によるものか、悪意によるものかは微妙であったが……。
 彼はランドセルを机に置いて、その中身を取り出し始めた、教科書、ノート、それに筆箱……、答案用紙もあった、誰も見てくれない、確認もしてくれない、八十に円を書かれた答案用紙が。
 暫く数字を眺めてから、くしゃっと丸めて、ごみ箱へ、その時だった。
 ──電話が鳴った。
 携帯電話ではない、内線からの取り次ぎだ、携帯電話の他に、子機の一つも置いてある。
 嫌そうに手に取ったのは、今頃叔母が、何を言っているか分かったからだ、どうせ家の電話は使わないで欲しい、誰かが掛けて来たらどうするんだ、そんなことを言っているに違いないのだ。
 一呼吸して、外線ボタンを押す、ノイズ、酷く遠いようだった。
「あの……、もしもし」
『はい?』
 声が小さ過ぎた、向こうも分からなかったようである。
 しかしその高い声は、彼、シンジの脳裏に、少女の顔を思い出させるに十分だった。
「『アスカ』?」
『……『シンジ』、なのね?』
 ああと、シンジは眩暈を感じて、よろけ、机に手を突き、なんとか堪えた。



第一話、どうしてこんなにも



「やっぱり、だめかぁ」
 受話器を戻し、吐き出されて来たテレホンカードを手に取りかえす。
 それから街の様子を眺めて、シンジは込み上げる懐かしさに目を細めた。
「……」
 バッグを放り出し、誰も居なくなった駅の改札口前の階段に腰を下ろす。
 心中は複雑なものによって彩られていた。
 懐かしい、そう、ここに来るのも、このようになるのも二度目のことだった。
(どうせろくな目に合わないってのが分かってるのに、どうしてまた、僕は)
 鞄を漁り、封書を取り出す、差出人の名は葛城ミサト、同封されているのは父の殴り書き付きの書類だ。
 ──それと、写真。
「何もかも同じでなくて良いのにさ」
 言葉の意味は単純だった、同じでないなら、希望が持てる、それだけだ。
 封書と写真を別にしまい込む、なんとなくそうした、彼女と父の存在を切り分けたかったのかもしれない。
 ぼんやりとして、埒の明かないことを考える、あの街に行って、僕はなにをするんだろう、したいんだろう。
 僕は今でも父さんを憎んでるんだろうか? 恨んでるんだろうか?
 それはないなとかぶりを振って、自嘲した。
 鈴原トウジ、友達に対する所業を見た時、裏切られたと感じた、きっとそれまでは期待していたんだと思う。
 表面上は、どうであっても。
 だから父さんが嫌いになった、もう甘えたことを考えないようになった。
 ──渚カヲル。
 それでも、憎むだけでは虚しかったから、彼の優しさにほだされた、けれども、それもまた幻想で……。
 信じるだけ、期待するだけ、無駄で、だから無気力になって、もうどうでも良い、死にたいとさえ思って……。
 ──ミサトさんに迷惑をかけて。
 ふっと微笑を浮かべてしまう、それは『今』を生きての感想が後に続いたからだった。
 裏切られた? それは相手にとっては迷惑なだけの感情だろう、勝手に懐かれても困るだけだろう。
 期待? 少しばかり優しくしてもらえたからと言ってなんだろう? 勝手に特別なのだと勘違いされて、どれだけの鬱陶しさを感じさせてしまっていたのだろう?
 結局、甘えに起因するのだ、何もかもが。
 父だと、母だと、姉だと、仲間だと、友達だと。
 なれあおうなどと、おこがましかった、向こうがどう思っているか、どう見ているのかも考えないで。
 ──甘かった。
(だから、一人で生きていこうって、決めたのに)
 なんだよと愚痴る。
「アスカ……、どういうつもりで」
 空を見上げる、いや、山の向こうに、後ろ向きに飛んで現れた飛行艇を視界に収めた。
 ──続く、巨大な怪物も、だ。


 モニターの中、巨人に数発のミサイルが突き刺さる。
 赤く、そして白く、黒く、閃光と煙が入り乱れる。
 だが巨人は止まることなく、歩み進んだ。
「化け物が!」
「全弾直撃のはずだぞ!」
「ミサイル程度では歯がたたんのか!」
 三人の将官が口々に喚いた。
「なんて奴だ!」
 彼らは国連軍に対して、唾と共に指示を下していた。
「空挺師団を下げろ!」
「陸戦隊もだ! あれを使う!」
 彼らの足元にて、オペレーションを行っていた青年は、その発言に対して体を強ばらせた。
(街一つ、本気で消し飛ばすつもりで!?)
 日向マコト、対『使徒』迎撃機関ネルフ、その戦術作戦部部長付きの、専属オペレーターである。
 彼はモニターに視線を投じて、祈るように呟いた。
「葛城さん、早く!」


 巨人、『使徒』がねり歩く街中を、一台の車が疾駆していた。
 避難勧告に伴って、住民はみなシェルターに避難している、それでも時折行き違う車に出逢うのは、警報を故意に無視していた連中がいたのだろう。
 なぁにが避難警報だと甘く、軽く見ていた連中が、今頃になって大慌てで逃げ出しているのだ。
 市街地から出る車はあっても、市内へ向かう車は無い、おかげで彼女は存分にアクセルを踏むことができた。
「こんな時に見失うだなんて」
 葛城ミサト、特務機関ネルフの戦術作戦部、作戦局第一課の部長である。
 本当ならば数駅先で『彼』を待ち受けるはずだったのが、使徒の侵攻によって待ち合わせ自体が、『おじゃん』となってしまっていた。
(こうなると、情報規制ってのも善し悪しね)
 突然の使徒の出現に、国連軍の展開は実に慌ただしいものとなった。
 それに反して、反応が遅かったのは、関係各省庁の対応である、それは例えば、交通規制などに現れていた。
 旧箱根駅などという、正にいま使徒が立っている地に来て、ようやく列車は運行を停止させられたのだ。
 本当ならば、もっと安全圏で停車してくれていれば良かった、それを何万人の足に影響が、などと、儲けに目が眩んで……。
 限りない愚痴を切り上げる。
 問題は、『待ち合わせの相手』に対して、連絡が付かないことにあった、どうにも几帳面な性格らしく、彼は朝一番の列車に乗って出てしまったのだ。
 ならばと彼女、ミサトは列車が停まった駅に向かって、車を飛ばしていた。
 ──死なせるわけにはいかないからだ。
 正直、顔も合わせたことがない少年のことなどどうでも良かったが、これでは死ぬように呼び出したようなものだ、後で寝覚めが悪くなる。
 それに……、と大義名分を抱え直した。
 彼には『価値』がある。
 それは、この世に三つだけの、非常に貴重な価値だった。


Bパート


「おい、本部からの映像、流してるんだって?」
「会議室で見られるらしいぜ」
 狭い通路に、騒々しく大勢の人間の足音が響く、ここはドイツ支部である。
 その本部とは似ても似つかない発令所では、支部長であるゲイマンという男と、アンドルフ補佐官が会話をかわしていた。
「これが使徒か!」
 驚いたのはゲイマンであった。
「事前に資料で知らされていたとは言え、信じ難いな」
「そして実際に信じなかったのが国連軍だよ、ゲイマン」
 ゲイマンはアンドルフへと目をやった、それはアンドルフがやすりで爪の手入れをしているのが癇に触ったからだ。
「君ならどうする? アンドルフ」
「愚問だな」
 ふっと粉を吹き払い、爪の尖り具合を確かめる。
「僕は軍から出向してここに来ている、君達と協力体制にある以上、自己利益のために無駄な損失を出すつもりはないよ」
「しかしそれも、傍観者だからこそ言えるのではなくて?」
 赤毛の女性が口にする。
「ベアトリーチェ、君の意見は辛辣過ぎるよ」
「そうかしら? 小馬鹿にするのはいいけれど、実際に使徒が現れた時、まず最初に交戦すべきは軍隊よ、そうでしょう? 決戦兵器の投入はそれからになるわ。今の国連軍の立場が、いつ輝けるドイツ軍の明日になるか分からない、違う?」
 アンドルフは肩をすくめた。
「認めよう、もし万が一、この地方にあのでかぶつが現れた時、エヴァが運用できるポイントまで誘導しなければならないのは、僕たちなんだからね」
「その時のことを考えれば、馬鹿にするよりも健闘していると褒めるべきよ」
「しかし、それも会話を聞けばどう思うかだな」
「会話?」
 三人にだけ聞こえる程度にゲイマンはボリュームを上げた、すると、国連軍将校の下品な蔑みの言葉が流された。
「なにこれ、ゲイマン? あなたなにをしているの?」
「MAGIによるホットニュースだよ、碇め、リアルタイムに情報を流して、国連軍の印象を悪くしておくつもりだ」
「後の交渉を有利に運ぶためか?」
「悪辣なのね」
「だからこそ尊大でいられるのさ」
 ゲイマンのゲンドウ嫌いが有名だからか、二人は互いに肩をすくめ合った。
「ところで、うちのお姫様はどうしているの?」
「姫なら君の弟が呼びに行ったよ」


 コトリと取り出し口にコップが落ちる。
 続いて流し込まれたのは黄色い液体だった、オレンジジュースだ。
 狭いスペースである、その前後には自動販売機があり、そして中央にはベンチが据え置かれていた。
「アスカ、ここに居たのか」
 顔を見せた少年に、惣流・アスカ・ラングレーは顔を上げた。
「なに?」
「誘いに来たんだよ」
「誘い?」
「見に行かないのか?」
 アスカは冷めた目をして彼に訊ねた。
「エヴァは?」
「まだ出てない、センジ……、国連軍がでしゃばってる」
「そ」
 あからさまに興味を失くした彼女に、少年はこれだからと肩をすくめた。
「アメリカーナってのはみんなアスカみたいなのかい?」
「ドイツに居た時間の方が長いわ、生まれただけよ、アメリカで」
「でも君はいつもそうだ、普段は格好を付けていて隙が無いのに、ライバルのことになると途端に熱くなる」
「ライバル?」
「本部の、ファーストチルドレンのことさ、レイ、日本語でゼロって意味だろ? 零号機と同じ名前、凄い偶然だよな」
 偶然ね……、とひとりごちた。
「それで、アレク、いつまでここにいるつもりなの?」
「いちゃいけないのかい?」
「使徒ならあっち、ここにはいないわ」
「でも、アスカが居る」
 真剣に、真摯な瞳で、しかし。
「おあいにくさま」
 アスカは立ち上がると、半ば飲み干したジュースの紙コップをごみ箱に捨てた。
「あたしの興味は、他にあるから」


「うわぁああああ!」
 少年、シンジは両腕を組み合わせて逃れようとした。
 真正面に機体が落ちて来た、爆発は機体だけのものではなく、積んでいたミサイルの誘爆も引きずっていた。
 腕だけでは決して避けられない炎になめられそうになる、それを間一髪で救ったのは、彼女の乗った車であった。
 へたり込んだシンジの上方に、爆風に後押しされた炎が車を乗り越え吹き荒れた。
 バタンと戸が開かれる。
「ごめん、おまたせ」


 ネルフ本部。
 発令所のメインモニターの隅に、カウンターが表示された、数字は勢いよく減少していく、そしてゼロカウント。
 閃光と、爆発、それに続く衝撃波と電磁波が、電波障害を引き起こした。
 画面がノイズで埋め尽くされる。
「見たかね! これが我々の力だよ!」
「これで君の新兵器の出番はなくなったというわけだ!」
 国連軍の将校は、よほど彼、総司令に対しての隔意があるらしい。
 場所が場所であり、そして時が時だというのに、ゲンドウを名指しで罵った、しかし。
「センサー回復」
「爆心地にエネルギー反応!」
「なんだと!?」
 回復する画面、赤く焼けたクレーターの中央に、怪物、『使徒』は焼けただれた姿を晒していた。
「効いているじゃないか!」
「いえ! エネルギー量は減少していません、むしろ、増大しています!」
 次の瞬間、映像を送っていたヘリが消滅した、寸前に使徒の眼窟が光ったことから、光線のような兵器であると推測できた。
「自己進化だな」
「ああ、知恵もつけたようだ」
 苦々しい会話に腹をたてつつ、将校達はどこかと連絡を取っていた、その結論をゲンドウに告げる。
「碇君、本部からの通達だ、以降から本作戦における指揮権を君に委ねる」
「我々国連軍の所有兵器が無力であったことは認めよう、しかし、君なら勝てるのかね」
「ご心配なく」
 当然と言う顔をして、ゲンドウは言い放った。
「そのためのネルフです」


(ネルフか……)
 その頃、シンジはネルフ本部へと向かうカートレインに車ごと乗っていた。
「なに? どうしたの?」
「いえ……」
 渡されたパンフレットを膝の上に置く。
「何をするところなのかなと思って」
「人類を守るところよ」
「人を?」
「そ、さっきの怪物、『使徒』からね」
(人か……)
 シンジは喉が渇いたなと水を欲した、それだけ緊張しているということだ。
 やがてカートレインはトンネルを抜けて空中へ出た、黄金に染まる光景に、シンジは懐かしさ、郷愁のようなものに囚われて、ついつい言葉を漏らしてしまった。
「ジオフロント……」
 ──人の作り出した究極の汎用人型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン、これはその……。
 ──どいてくれる?
 ──あんたバカぁ?
 ──なぜここに居る。
 ──さあ僕を消してくれ。
 ──許さないからね!
 次々と沸き上がる記憶の中の光景に、軽い眩暈さえも覚えてしまう。短くもあった時間の中の濃密な経験が心を縛る。
 締め付ける。
(ああ……)
 シンジは苦しげな呻きを発した。
(忘れられないんだな、僕は)
 ──すべては、心の中だ、今はそれでいい。
 ……父親の言葉が、身に染みた。


Cパート


「そう、国連は引き上げを……。それで外の方は?」
 耳に当てた通信機からの報告に、葛城ミサトは急かすように続きを頼んだ。
「こっちの防衛線は? どうなってるの?」
 相手をしているのはマコトである。
『それが、稼働率が低過ぎて問題にならないんですよ、司令の命令でとめてあります』
「それが懸命、か……」
 第三新東京市とそれを取り巻く防衛線の兵器群は、完成を見ずして半ば放置されていた。
 それもこれも、来るか来ないかも分からないと、使徒対策予算を出し渋りされて来たからに他ならない。
 稼働可能な兵器についても、充填されている弾薬の数がまるで足りていなかった。その総数を足したところで、国連軍の残存兵力の足元にも及ばないのだ。
 NN兵器でさえも耐え切った化け物を相手にするには、絶対数から言って無駄に終わることは目に見えていた。
「それじゃあ、使徒は?」
『自己修復の終了を待って侵攻を再開、一時間とかからずに市内に侵入するものと思われます』
「わかったわ。じゃあ、なにかあったら報告よろしく」
『はい』
 ミサトは通信機をしまうと、隣のシンジに目を向けた。
(なんだったの?)
 ジオフロント。
 そう呟いた彼の横顔には、さまざまなものが浮かんで見えた。一番色濃く浮いていたのは、『郷愁』であったように思われる。
(ま、ここにはお父さんも居るわけだし、懐かしさにとらわれるってこともあるか)


「使徒前進! 強羅最終防衛線を突破!」
「進路ベクトル五度修正、予想最終到達地点、第三新東京市!」
 次々ともたらされる報告に、冬月コウゾウは溜め息を吐いた。
(うわついているな)
 自分もそうであるように。
 どこか高揚してしまっている、落ちつかない。
(まあ、初の実戦だ、気もたかぶるか)
 国連軍の撤退に伴い、これからは自分たちが矢面に立つことになるという緊張感があった。しかしだ。
「どうする、碇」
 現在、このネルフには戦力と言えるほどのものがなにもなかった。それでも大口を叩いて見せるのだから、この男は肝がすわっていると思えてくる。
 そしてネルフの総司令である男は、こみあげてくる喜びからか、口元を歪めて見せた。
「初号機を起動させる」
「しかし、パイロットがいないぞ」
「問題ない、もう一人の予備が届いた」
 コウゾウは彼が見ているものに気がついた。
「いきなり実戦に出すつもりか?」
「ああ」
「使えるのかね?」
「動き出しさえすればかまわん、レイよりは役に立つ」
 ゲンドウはつまらないことだとでも言うように、それでも律義に答えると、コウゾウの脇を通って背後にあったエレベーターシャフトの上に立った。
 使い慣れた操作板のボタンを押す。
 コウゾウは床の下へと潜っていく彼を見送ると、またゲンドウが見ていたものに視線を戻した。
「三年ぶりの対面か」
 そこには廊下を歩く、シンジの姿が映されていた。


「まったく、今は人手も時間もないっていうのに」
「ごめぇん、あたしもまだここに来たばっかで、慣れてなくてさ」
 前半の言葉は迎えに来た女性に対して、後半の言葉は連れ迷うことになってしまった、シンジに向けての言い訳であった。
 道に迷っていた二人を迎えに来たのは、技術一課、E計画担当博士、赤木リツコと名乗る女性であった。シンジには明かされるまでもないことだったのだが、シンジはあえてはじめましてと平凡に返していた。
(なんだろう、この感じ……)
 シンジにとって、赤木リツコとは、奇妙な感覚のする相手であった。
 最後に見た彼女のイメージが、一番強く焼きついている。
 それはあの暗闇の底で見せられた、泣き崩れた姿である。
(余裕があるから、っていうんじゃないだろうけど)
 リツコとミサトの会話そのものには、見るべきところ、聞くべきところはなかった。
「ちょっと、対地迎撃戦用意ってどういうことなの?」
「決まってるでしょ? エヴァの準備よ」
「でもパイロットが居ないじゃない……、まさか、レイを?」
「……」
「司令はいったいなに考えてんのよ」
 舌打ちと共に漏らされる言葉、何を考えているのか、それは今更問うべき事柄ではない。
 シンジの疑問とは、リツコから感じる風当たりの柔らかさにあった。『あの頃』と違って、酷く落ち着いて感じられるのだ。
 そして、案内された場所は、やはりあれの待つ場所だった。
 ──エヴァンゲリオン初号機。
 シンジの目は、記憶の中のものとは違うエヴァの顔に釘付けになった。
 違うと言っても、多少の差である。破損に、修復、改造をくり返した装甲は、初期段階と後期のものとで、基本的なデザインは同じでも、細かい部分では変わっている。
(こんな顔だったんだな、最初は……)
 そしてそんなシンジの様子を窺っているのは、葛城ミサト、赤木リツコだけではなかった。
 この初号機の発進準備を急かされていた作業員たちも注目している。この場に子供が連れてこられた意味を、彼らは誰よりもよく理解していたからだ。
「よく来たな」
 そして。
 もうひとり、高みから見下ろした人物が居た、ゲンドウである。
 シンジはエヴァの頭の向こうにあるボックスの、ガラスの向こうに父を見付けた。
「父さん」
「久しぶりだな」
「うん……、三年ぶりだね」
 ──今の父さんの目には、僕はどんな子供に見えてるんだろう?
 不意に不安が込み上げてくる。
 父と母に苦手意識を持って、自然に甘えようともしなかった可愛くない子。
 親戚の家に預けると口にされた時も、泣きもせず、嫌がることさえなく従った子供。
(そういえば……)
 エヴァに乗れと言われて、逆らい、ならいらないと突き放されたことを思い出した。
(父さんは、そういう人なんだな……)
 使えるものは使うが、使えないのなら用はない。少なくとも端から見る限りでは、そう考える人だと捉えるしかない人。
(でも本当は……、どうなんだろう?)
 決してなにも感じない人ではないのだと今では知っている。それは改めて十四歳の視点から、父と母の関係を見つめ直して来たからこそ理解できていることであった。
 多感過ぎる人だからこそ、無関心を装っているのかもしれない。そうも思える。
(不器用、そうだ、リツコさんはそう言ってたっけ)
「シンジ」
「え……」
「おまえがこれに乗るんだ」
 どうやらぼうっとしている間にも、話は続いていたらしい。
「僕が……」
「そうだ」
 シンジの悩みをまじえた呟きを、驚きとして捉え、彼は続けた。
「おまえがこれに乗って、使徒と戦うのだ」
「ちょっと待って下さい!」
 ミサトが割り込む。
「レイでさえエヴァとシンクロするのに七ヶ月もかかったんです、今来たばかりのこの子には無理です!」
「座っていればいい、それ以上は望まん」
「葛城一尉」
 リツコが諌める。
「今は使徒の撃退が最優先事項なのよ。そのためには誰であれ、わずかでもエヴァとシンクロする可能性のある人間を乗せるしかないの。それくらいわかっているでしょう?」
「けど、無駄にエヴァを失うことになるかもしれないのよ? 貴重なパイロットまで!」
 シンジは思った。
(しっかりパイロット扱いしてるじゃないか。自分の中じゃ、もう確定事項にしちゃってるくせに)
 意識を周囲に向ければ、皆が固唾を呑んで見守っていた。誰しもが仕方がないと割り切れずに居るのがよくわかった。
 同時に無茶だと思いながらもだ。
(わずかな希望……、すがるしかないってことなんだろうけど)
「シンジ」
「うん?」
「おまえがやらねば、人類すべてが滅亡することになる。人類の存亡がおまえの肩にかかっているのだ」
 シンジはゲンドウを見つめ、父親は息子から目を逸らさなかった。
 その様に口を挟むことはできなかった、誰にも。
 シンジは眼光の鋭さに、負けるように顔を背けた。
「……わかったよ」
 その一言で、すべてが慌ただしく動き始めた。
「よく言ったわ、シンジ君。さ、こっちよ。簡単に操縦方法を説明するわ」
「作業班各員はエントリーの準備に入れ」
「排水作業を開始する、総員待避!」
 シンジは隣を歩くリツコに背を押されながらも、一度だけ父親の方へと振り返った。
 だが、そこにはもう、父の姿は見つからなかった。


−Dパート−


(やるしかない、でも、やるってなにを?)
 エヴァンゲリオン初号機の、エントリープラグと呼ばれるコクピットの中で、シンジは自分に対してなにかしらの答えを求めていた。


「発進準備急いで! 使徒の到着までの時間は?」
「後十分で攻撃可能距離です」
 発令所の雰囲気は非常に慌ただしいものになっていた。
 誰もが落ちつきなく、騒ぎ、喚いている。それが癇に触って、さらなる苛立ちを引き出しているのだから、たちが悪い。
 その中でも一番うろたえていたミサトが、戻って来たリツコに向かって問いかけた。
「どう? レクチャは終わった?」
 いいえとリツコはかぶりを振った。
「大体の概念を伝えただけよ、実際に乗って確かめるまでは、なんのことか分からないでしょうね」
「そう……、それも仕方なしか」
 ミサトは恨みがましく愚痴を吐いた。
「ファーストチルドレンですら、ようやく起動に達したところで暴走、動かしたとは言い難いものね」
「ええ、未だ誰も動かしたことのないエヴァだもの。本当に、設計通りの操作で動いてくれるのか、疑問だわ」
 それだけじゃないでしょう、とミサトは口の中で呟いた。
(思考操作とフィードバックシステムには危険が伴うわ。神経系にかかる負担は医学的にも危険視されてる。普通は『慣らし』を入れることで耐性をつけたり、鍛えることで順応させるものだけど、それらを飛ばしていきなりなんだから)
 下手をすれば、神経が焼き切れてしまってもおかしくはない。
 もし、そのような状態に陥れば、人の思考は苦しみにのたうつものに変わる。そんな『意識』を『命令』としてエヴァが受け取ったならばどうなることか。
(起動するかどうかすら疑問だってのに、起動したらしたでどの程度もつのか不安が尽きまとう、まったく)
 そうした不安材料に悩まされている間にも、発進準備は整っていく。
「発進準備完了!」
 ミサトはくっと顔を上げ、背後の塔を振り仰いだ。
「よろしいですね」
 それは嫌味のつもりでの言葉であった。


『エントリープラグ、注水』
「うっ……」
『心配しないで、肺がLCLで満たされれば、直接酸素を取り込んでくれます』
(そんなこと言われたってさ!)
『十数年前』には慣れていたものも、再び行うには抵抗があった。溺れる、その恐怖心から、シンジは暫く抵抗した。
 ──ガボッ。
 堪え切れずに口を開いた。空気が外に抜け出していく。喉を押し広げ、狭い気道でLCLと入れ代わろうとする。
 苦しいというより、痛い。
『発進!』
「くっ!」
 かかる荷重に、首を傷める。
(もう少し、時間をかけてくれたって!)
 まさか、こっちの事情を知っているのではないかと勘繰ってしまう。だから端折っているのではないのかと。
 しかし、もちろんそんなことはなく、全ては時間と余裕がないだけのことであった。
 がくんと特有の震動が来て、加速の苦しみから開放される。
「……」
 シンジはまず、そこから見える景色に目を奪われた。
 懐かしい街並み、見慣れた風景。
 真っ暗な空と、山の稜線。自らを取り巻く異質な人工物は、足元からの光によってライトアップされている。この景色。
 そして……。
 ──ごくりと生唾を呑み込んだ。
 実際にはLCLだったのかもしれない。だが肺ではなく、胃に落ちていく塊を感じた。
 使徒が、居た。『ひとり』でぽつんと立ち尽くしていた。
 不思議なことに、攻撃を控えて、エヴァが出て来る場所に体を向けて待っていた。


(地下のこちらの動きを察知していたみたいだ。まんまといぶり出されたってこと?)
 ミサトはそう判断した。
(難敵であるってことがわかるの? 感覚で、エヴァの存在を見抜いていた)
 ミサトもまた生唾を呑み込んだ。
「シンジ君、とりあえず、歩くのよ」
『歩くって……』
「意識を集中して、歩くことだけを考えて!」
(きっかけだけでも……)
 それでコツを掴んでくれればもうけものだ。
 子供の順応性には侮れないものがある。驚くほど慣れるのは早い。しかしシンジの躊躇は違うところから来ているものであった。


(こんなのに、無防備に近づけって言うの!?)
 この距離で一歩を踏み出せば、もう寸前と言った位置になる。
 シンジはまさに『慣れた調子』で、恐れから背後に下がろうとした。
 ──ガガンと何かにぶつかった。
「あっ」
『なにやってるの!』
「なにって……」
 振り返って気がつく、エヴァを固定していた台にぶつかったのだ。
『シンジ君!』
「え? うわぁ!」
 咄嗟に首をひねってよける、頬をかすめて光の剣が固定台を貫いた。
 使徒は大きく手を振って、台を引き裂くようにして壊した。破片が辺りに飛び散った、台も倒れる。
「あの細さであんな真似をするなんて! 応力というものを知らないの!?」
「今は驚いてる場合じゃないでしょうが! シンジ君逃げて!」
 だがまたも遅れた。使徒の眼窟がチカチカと光って、閃光を爆発させた。
 ──ドン!
 エヴァの左肩のパーツが弾け飛ぶ。
「ナイフが!」
 リツコとミサトは同時に悲鳴を上げた。唯一の武器が地に落ちたのだ。
「動け! 動けよっ、この!」
 一方、シンジは必死になってレバーを前後に動かしていた。
「なんでちゃんと動かないんだよ!」
 ミサトはやはりぶっつけ本番じゃ、などと舌打ちした。
「無理だったのよ、やっぱり」
「そうね」
「そうねって、リツコ!」
「頭で考えろと言っているのに、レバーを動かしてる、パニックに陥っているわ」
「シンジ君、落ちついて!」
(でも変ね)
 リツコは数値の異常さに気がついていた。
 脳波に乱れが少ないのだ、つまり、コントロールするために必要な状態を保ち続けているのである。
(これは……)
「くっ」
 シンジはまるでミサトの指示に従ったかのように距離を取った、本当はただの偶然である、必死になって逃げただけだ。
(思い通りに動いてくれない、なんで)
 久しぶりだからかと訝しむ。
(『前』はもっとちゃんと動いたじゃないか!)
 だが現実に、エヴァは動いてくれないのだ。


「一方的じゃないか」
 ──ドイツ支部。
 初号機が出て来たとのことで、ようやくアスカも顔を出していた、ただし、会議室にではなく、発令所にである。
「これでは、君が必要とされるのも、そう遠い日のことではないだろうね」
 アレクの言葉に、アスカはちらりと横目を向けただけだった。
 押し黙ったままで、むすっとしている。
(なにやってんのよ)
 アスカは酷く苛立っていた。
(あんたは、そんなもんじゃないでしょうが)
「動いた!」
 おおっと歓声が上げられた。


「うわぁあああああ!」
 激震を上げてエヴァンゲリオンが突進する、武器もなにもないのだ、他にやりようなどあるはずがない。
『だめ! シンジ君待って!』
 待てるはずがない。相対するものだけが囚われる緊張感と恐怖心は、冷静さを忘れさせるに十分過ぎるものだった。
 肩からぶつかりに行く、激突、背後に倒れる使徒の上を、エヴァ初号機は転がった。
「くっ……」
 頭を振って、シンジは体を起こした、脳震頭だろうか? ぼんやりとする。
 だが、次の瞬間には目が冷めた、警告音が頭に冷水を浴びせかけたからだ。
 カウンターが動いている、電源ケーブルが切れたのだ。
「あっ!」
『シンジ君! 早く逃げて! 起き上がるのよ!』
「え? え、あ!」
 電源、使徒、ビル、いくつものことに囚われて、とっさに判断がつかなかった。
 なにより、内蔵電源のことだった。次にケーブルを繋ぐまでどの程度もつのか、ケーブルを繋ぎ直せる場所はどこだったのか? まるで覚えていなかったからだ。すっかり忘れてしまっていた。
 ──シ、死ぬ? 死!?
 ふわりと浮き上がって、使徒はあらためて立ち直した。そしてゆっくりと振り返る。
 緑の肉体がねじれからかぎゅぶっと鳴った。
「あ、ああ、あ……」
 一歩一歩、地響きを上げて近寄って来る。そして立ち止まり、左手を上げた。
 ──その瞬間、フラッシュバックがシンジを襲った。
 掴まれる頭、持ち上げられる体、折られる腕、貫かれる目。
「うわぁああああああああああ!」
「シンジ君!?」
 ミサトは見た、信じられない光景を。
 リツコは唖然とした、あり得ない事態に。
 寝転がったまま、エヴァは体を丸めたのだ。そして両足で使徒の腹を蹴飛ばした。
 ドズゥンと、浮き上がった使徒が尻餅ついて地面に落ちる。
 エヴァはさらに反動を用いて前転すると、四つんばいの状態になってから跳びかかった。
 使徒を捕まえて、勢いのままに絡まり、一緒に転がる。
「シンジ君がやってるの!?」
「まさか、不可能よ! 彼にこんな戦い方ができるわけないわ!」
 抱き合うような形で横倒しになったまま、初号機は使徒の脇腹、エラに手を突き込んだ、血が吹き出す。
 ──カッと使徒の目に光が灯った。
 爆発、のけぞる初号機が爆煙に見えなくなる、光の筋がぼんやりと見えた、剣だ、長く伸びている。
 ──グルォオオオオーン!
 悲鳴が聞こえた。
「エヴァ、顎部拘束具に破損!」
「いいえ、自ら引き千切ったんだわ」
「エヴァが悲鳴を上げてるの?」
 あまりの暴れ様に煙が散らされる、初号機の右肩に剣が突き立っていた、貫通している。
 悲鳴を上げながら、もがき、初号機は指で使徒の目前を引っ掻いていた、つかみかかろうとして、しかし、金色の干渉壁が邪魔をしている。
絶対領域ATフィールド!」
「ATフィールドがある限り、使徒には接触できない!」
「あああああ!」
 シンジは痛みから完全に我を忘れた。そうなれば引き出されるのは、刷り込まれていた、限りなく本能に近い、反射的な行動である。
 初号機を中心に、爆発的な渦が発生する、金色の波動が使徒を、ビルを薙ぎ倒す。
 ──竜巻のような力が吹き荒れた。
 地には渦巻がはっきりと刻印され、半径五百メートルにわたって、まったくの空白地帯が生まれ出た。
 ドズゥンと、何かが響いて、足元を浮かされた。
「なんなの!?」
「今の初号機の『攻撃』で、収納していたビルの何本かが落ちて来たようです!」
「なんてこと……」
 再び初号機へと目を戻す。
 ──フゥ、フゥ、フゥ……。
 肩で息をしながら、初号機は右肩に突き刺さっていた、今はただの棒になっている折れた剣を引き抜いた。
 左手に、逆手に握り込む。
 ──フルォオオオオオーーーン!
 吼え、そして瓦礫に埋もれている使徒の姿を睨みすえた。
 怒りに、体を震わせる。
 盛り上がった筋肉が、肩からの血を止めた。
 何をする気なのかと、誰もが固唾を飲んで見守った。
 ──グン。
 右手を振り上げ。
 ──ブン!
 振り下ろした。
「なっ!?」
「ATフィールドを!」
 不可視のなにかがATフィールドを引き裂いた、使徒の体に傷痕が付く。
 使徒から吹き出した鮮血が、障壁の内側を赤く染めた、跳ね上がる使徒の体に巻き込まれ、埋めていた瓦礫の山も噴き上がった。
 ──ガン!
 誰も、いつ、初号機がそこに移動したのか、分からなかった。
 だが気がつけば、初号機は使徒の脇に立っていた。
 誰もが微動だにできなかった。
 仰向けに倒れている使徒。それは既に事切れていた。
 体の下に、赤い血の海が広がっていく。
 コアを打ち抜き突き立っている、剣だったものの杭によって、縫い止められて。
 使徒は完全に事切れていた。
 ──そして。
「あ」
 オペレーターの一人が、気が付いた。
 予備を示す内蔵電源のカウンターが……。
 とっくの昔に、ゼロカウントを行っていた。


−Eパート−


「あ、ああ、あ……あ!」
 最初に正気を取り戻したのはミサトであった。
「初号機のっ、シンジ君の様子はどうなの!」
「ぶ、無事です、生きてます!」
 ヒステリックなものが伝染していく。
「パルス正常!」
「酷い興奮状態です、早く回収を!」
 ミサトに躊躇するものが見られたのは、彼に帰還を命じることにするか、あるいは回収班を向かわせることにするか、どちらの選択かで、僅かに迷ったからだった。


 ──翌日。
「碇君」
 ネルフ本部。
「ネルフとエヴァ、もう少しうまく使えんのかね?」
 ある会合。
「零号機に引き続き、君らが初陣で壊した初号機の修理代、及び兵装ビルの補修、国がひとつ傾くよ」
 一方的に責めたてられているのは碇ゲンドウであった。ネルフにおいて最も高い地位にあるはずの彼が責められている。
 それだけで、ここに集っている五人の老人が持つ実権のほどが、窺い知れた。
「だが僥倖と言えるな」
 一人が話題を和らげる。
「うむ、つぎ込んだ予算が無駄にはならなかったと言う点に置いてはね」
「しかし」
 場の緊張がいやました。
「人類補完計画」
「さよう、君の仕事は、使徒への対策のみではない」
「だからこそ、予算については一考しよう、スケジュールの遅延については認められん、以上だ」


 シンジはどこか、自分を見失ってしまっていた。
「天井……」
 懐かしい天井だった。
「外……」
 窓から見える景色も、また、記憶が思い出されていく。
「忘れてたのに」
 ここは病院で、ここは病室、そんな当たり前のことをくり返す、だが、思考が行きつく果ては、常に同じところであった。
「僕は……」
 右手で顔を被いかくす、指の隙間から覗ける左目に見えるのは、使徒をなぶりものにした時の光景だった。
『うわぁああああああああ!』
 必死にハンドルを前後させた、爪が割れ、指が折れた感じがあった、それでも現実の自分の手はしっかりとしていて、レバーを痛いほど握っているのだ。
 暴走とは違う、しっかりとした意識があって、その上でやったことだった。
 指を動かし、瞼を下げる。
(僕は……)
 憂鬱になる。抑え切れなかった。自分を。感情を。
 ──蛍光燈の灯が透けて、視界が奇麗な血の色に染まる。
 本音が見えた気がした。どうでもいいと生きているつもりだった、でも本当は?
 本当は、死にたくなかった。
 シンジは体に反動をつけて起き上がった。


 ──爆心地。
 他に呼びようがなく、そのように名付けられた場所に、ネルフの調査団が乗り込んでいた。
「放射能反応はなし、他の有害物質も認められず」
「あっつー! はぁ! これでようやくこいつを脱げるってわけね」
 仮設テントの下、赤木博士の報告に、葛城ミサトは大袈裟に言って椅子に座った。
 半分脱いでいるのは防護服である、黒いアンダーウェアは汗を吸ってより黒くなっていた。
「まったく! 汚染物質の心配なんてするくらいなら、市街戦なんかやらせるなっつーのよ」
 リツコは苦笑するにとどめて、コーヒーを入れ、友人を労った。
「ごくろうさま」
「ありがと」
 ちらりと横目を向けると、そこにはテレビがあった。
「発表はB−22か」
「ようやく仕事ができるって、広報部はよろこんでたわ」
「お気楽なものねぇ」
「本音は、みんな怖いのよ」
「使徒が? それともエヴァが?」
「……シンジ君が、よ」
 ミサトはリツコの答えに対して、酷く渋い顔をした。
 ──初号機から降ろそうとした時、シンジはうつむいて、ぎゅっと唇を噛み締めていた。
『君』
 救護班の人間が手を差し出すと、その手に脅えて、急に暴れ狂いもした。
 目は正気を失っていた、ただ悲鳴を上げて、来るな、近づくなと恐れていた、揚げ句……。
 ──それに呼応するかのように、初号機が抵抗を示したのだ。
「エントリープラグは排出されていたのに」
「それだけ親和性が高いということでしょうね、シンクロ用のサブユニットが必要ないくらいに」
「サブ?」
「そうよ、ヘッドセットも、プラグスーツも、エヴァとパイロットが必要な信号や刺激の相互通信を的確に行えるよう、媒介、触媒として用意した物なのよ」
「脳波を電気信号に変換したりするシンクロシステムが全部?」
「そういうことね」
「じゃあ、究極はエントリーそのものが必要ないってこと?」
「シンジ君が証明してみせたじゃない」
 それを肌で感じ取っているからだろうか? 皆が恐れているのは。
 ミサトははぁっと溜め息を吐いた。
「それで、シンジ君はどうしてるの?」
「さっき報告が入ったわ。取り押さえる時に打った鎮静剤の効果がようやく抜けたみたいね、今は食事中だそうよ」
「食事?」
「病室でね」


「う……」
 シンジはスプーンで離乳食のようなものを口に含み、顔をしかめた。
「まずい……」
 運んでくれた看護婦さんには悪いとおもうが、不味かった。
 興奮状態が酷くて、頭に負担がかかり過ぎて……、色々なことを説明された。
 偏頭痛のようなものはしないか、あるいは乗物酔いのようにくらくらとしないか。
 よほど自慢のシンクロシステムに自信がないのだなと思ってしまうほど、シンジはしつこいくらいに心配されていた。
 シンジはスプーンを放り出し、食事の続きは諦めた。
「シンクロ、か……」
 食事台をどけて横になる、今度は別の不満に顔を歪めた。
「うまく動かせなかった、なんでだろ……」
 具体的なことなどわからない、だがキレた後の動きは、自分でも満足のいくものだった。
「勝手が違うな、……なにもそういうところで違いが出なくてもいいのに」
 他人が聞けば不可解なだけの発言を残して、シンジはベッドから抜け出した。
 もちろん、もっとまともな食料を手に入れるためである。


「しかし」
 よくもまぁ、と口にしたのは冬月であった。
「これだけの予算をふっかけたものだな」
 総司令のための部屋である。
 どこの機関を真似たものか、ここネルフでも、上級勤務者に割り当てられる部屋の大きさは、特異な法によって決定されていた。
 本来はそこに豪奢な応接のための場がしつらえられるものなのだが、あるじの性格がそれを嫌ってか、無機質で広大なだけの空間を作り上げてしまっている。
 ゲンドウは冬月の言葉にふっと笑うと、当然だと尊大に語った。
「遅れていた開発全てを、本来予定されていた期日に間に合わせられるよう、増額を申し出ておいたからな」
「なにが申し出てだ」
 どうせ水増し請求をしたに決まっていると蔑んでやる。
「しかし、国連軍からの武器弾薬の接収は、やり過ぎじゃないのか?」
「その程度のことは認めさせるさ」


 ──武器が足りない。
 ネルフの第一の言い訳はこれに尽きた。またその言い訳が後々にも生きることを考えれば、国連軍としては、武器を与えておくことこそが得策だった。
 後に、手段が無かったからなどと言い逃れできぬよう、逃げ道を塞いでおくためである。
「ま」
 兵装ビルに巻き上げられたミサイルが収納されていく。
「初号機とこの街が完全に稼働すれば、いけるかもしれないわけだしね」
 腰に手を当ててミサト、そんな姿に溜め息を吐いたのはリツコであった。
「楽天的ね」
「そう?」
「そのシンジ君の説得、どうするつもりなの?」
「説得?」
「まさかあの乱暴な乗せ方で、彼が納得してくれていると思ってるの?」
「う……」
「時間が空けば空くほど、落ち着いて今の状況を鑑みるわ、おかしいってね」
「その前にたたみかけておけってこと?」
「それが誠意を欠く行為だとしてもね」
 まったくと頭を掻きむしる。
「司令も司令よね! そんな役までこっちに振るこたないでしょうに」
「……」
「なによ?」
「あの人に、誠意ある説得なんて真似を期待するなんて、あなたも無謀ね」
「う……、そうね」
 ふたりの間に、それは気まずい空気が流れた。


(あ……)
 しかし、時は全く別な方角に向かって流れ始めていた。
 病院の廊下、おかしの袋を胸に抱いたままの状態で、シンジは正面から歩いて来る男の姿に立ち尽くしてしまった。
「……父さん」
 嫌な記憶が思い出される、その時、シンジは逃げようとして顔を逸らしてしまった。
 ──カツ……。
 しかし、父の靴はすぐ傍で止まった。
「起きたようだな」
 シンジは激しく動揺した。
(なんで……)
「怪我は」
「あっ、してないよ! なにも……」
「そうか」
 シンジは複雑な心境に囚われてしまった。
(気にして欲しかったくせに、気にされると、早く解放して欲しいなんて願ってる)
 右手に力が入ってしまう。
 苦手意識が、どうにも抜けない。
 カツッと靴音、はっとして顔を上げると、もう父は脇を通り過ぎてしまっていた。
 行ってしまう、その後ろ姿にいつかの記憶が呼び覚まされる。
(逃げてはいかんぞ)
 瞼をつむる、ぎゅっと唇を噛み締める。
 シンジは無意識のうちに握ってしまっていた拳を、さらに強く握り込んだ。
「とっ」
「声をかければいいのに」
 言おうとした言葉は、背後からの声に潰されてしまった。
 今そうしようとしてたんじゃないかと怒鳴ってしまいそうになり、振り返ったところで、シンジはうろたえ、慌ててしまった。
「え? あ!?」
 余りにも懐かしい制服と、余りにも見覚えがありすぎる顔。
 そして特徴的な髪。
「綾波っ……」
 少々、咳き込み気味にそれだけを口にする、と……。
「おかえりなさい」
 いつか見た笑みで迎えられ……。
 シンジは言葉を失った。


−Fパート−


 ──なにがどうなっているんだろう?
 混乱している間にも、話は勝手に進行していく。
「君の住居は、Aブロックになる」
「Aブロック?」
「そうだ」
 シンジが迎えに来たミサトに案内されたのは、ネルフの庶務課というところだった。
「Aブロックは、特に重要人物の住む区画になっている。そのため、生活には不便かもしれないが……」
 シンジはミサトに、良いのかと問いかけられて、首を傾げた。
「なにがですか?」
「だって、あなたが望めば、一人暮らしだってできるのに」
「え?」
 一人暮らし?
 なんのことだろうかと戸惑ってしまう。
「なにも、お父さんと一緒に暮らさなくても」
「はぁ?」
 絶句する。
「ええ!? ちょっと待って下さいよ、それって!?」
 ま、とミサト。
「レイも一緒だから、それはそれでオッケーなんでしょうけどねぇ?」
 ふふぅんといやらしい目をしてからかう、だがシンジはもうそれどころではなくなってしまっていた。
「綾波と、一緒……」
 横向くと、レイの瞳とぶつかった。
「手ぇ出しちゃ駄目よぉん?」
 ふぅっと耳に息を吹きかけられて、飛び上がる。
「な、なんですか!」
 ミサトは耳を押さえるシンジに笑った。
「先走っちゃ駄目よってこと。そうでなくても、レイはあなたの叔母さんにあたるんだから」
「おば……」
 またも言葉を失ってしまった。


 ──与えられた情報に、頭の処理能力が追いつかない。
「心の……、でしょ?」
 そう口にしたのはリツコである。
「それは、しかたないでしょうね、捨てられたも同然で置いていかれて、呼び出されたかと思えば同い年の女の子も入れての同居。今更の家族ゲーム、戸惑って当然だわ」
「冷めてるのねぇ」
 そう言うと、ミサトは勝手にコーヒーサーバーに手を出した。
 空いていたカップに注いで、口をつける。
「でも、あたしの心配もわかってくれるでしょ? あの年頃の子って、血の繋がりとかどうとかって以上に、相手は女の子だって意識が先に立つものだもん」
 リツコは辛辣に総評した。
「……猿?」
「うっさい!」
 ミサトがどなったのは、リツコの目線に何かを感じ取ったからだった。あるいは昔の痴態を、揶揄されたと感じたのかもしれない。
 その頃、シンジは夢遊病者の足取りで、前を歩くレイの背中を、必死になって追いかけていた。
(叔母さん?)
 レイの説明はこうだった。
『わたしは、あなたのお母さんの遺伝形質を受け継ぐ形で、作り出されたものだから』
 位置付けとしてはクローンに近い、ならば母碇ユイの双子の姉妹にあたるということになると言う。
(なんで?)
 その疑問符は、決して彼女自身が理解している、その立場の解釈に対して浮かび上がったものではなかった。
 簡単に自分が作り出されたものだと口にするレイの態度に、強い疑念を抱いたのだ。
(そりゃ……、今更だけどさ)
 自分はレイが何かを知っている、正確には、レイが異常な存在だということを知っている。
 科学的な詳しいことなど知りはしないが、リツコに見せられたものだけは覚えていた。そのために悩み、苦しんで、重さに堪え切れなくなっていってしまったのだから。
 ……さすがに、『あれ』から十四年である。うじうじと思い悩むことはなくなっていた。意識的にその辺りの疑問を封じなければ、神経がとても保ちそうになかったからである。
 だからレイも同じような心境で、自分の生い立ちについて悩むことを止めているのだとすれば、それについては理解を示せる。
 ──わたしには、替わりがいるもの。
 あの言葉を聞かされるよりは良い、しかし……。
(綾波は……)
 数々の綾波レイが朽ち果てた後、自分はリツコを支えるミサトと共にあの場所を出た。
 その後のことは、詳しくは知らないが、ミサトから、自分たちはあの場には居なかったということになったからと、釘を差された。
 あれはリツコが一人でやったことだと。
 だから、レイが知るはずがないのだ。自分が崩れさる彼女の形を見ていたことなど、眺めたことなど。
 あの場で、綾波レイと同じ姿をした者達が死んでいくのを、看取ったことなど。
 ──綾波レイが、人でないことを知っているなど。
(なんで……)
 なのに、このレイは、どうしてそのことについて、さも自分が知っているということをわかっているかのように、あまりにもあからさまに暴露して来るのだろうか?
 シンジには、その神経がわからなかった。
「着いたわ」
 はっとする。気がつけば、もう大分と駅から歩いて来ていたようだった。
「ここが」
「そう……」
 何故だか並んで見上げるレイ。
「あなたの……、そしてわたしたちの家よ」
「家……」
 シンジはそっと目を伏せた。
 ──帰るべき家、ホームがあるという事実は、幸せに……。
「家か」
「ええ」
 レイはシンジの声が、微妙に冷たくなっているのに気がつき、そっと横目に様子を窺った。


 シンジが心を堅くしたのには訳がある。
 シンジは自分の部屋だと言う『スペース』に案内されて、入り口に立って中を眺めた。
 第三新東京市でも、かなり豪奢な内に入るマンションであろう、その最上階の部屋で、マンションの一室だというのに、中は二階に別れていた。
 シンジの部屋は、二階にあった、窓からの景色が普通ではないことを除けば、得にさして、見るべきものはなにもない、いや……。
 備え付けらしいベッドがある以外、まだなにも置かれてはいなかった。
「お父さんから、カードを預かっているわ」
「カード?」
「ええ、これで身の回りのものを揃えるようにって」
「そう……」
 ありがとうと、カードを受け取る。
 赤いカード、ネルフのものだった。親のものに付く家族カードらしい。
 シンジは表、裏とひっくり返して眺めた。それからポケットにしまい込み、部屋に背を向ける。
 レイから声がかけられた。
「どこに行くの?」
「買い物」
「……」
「いいよ、着いて来なくても」
「どうして?」
「迷うと思う?」
 レイは追いかけず、立ち止まったままで見送った、シンジの言うことにも一理あるからだ。
 シンジが、自分の想像していた通りのシンジである以上、この街の地理には詳しい。心配するようなことなど、何も無い。
 だが、レイは一つだけ心配するべきであった。
 ここが、父と同居する予定の場所であり、そしてその父が、彼と出くわす可能性の心配をである。


「停めろ」
 キィッと、急な命令を聞くために、ブレーキ音がきつめに鳴った。
 ゲンドウがスモークガラスごしに見付けたのは、道端でうなだれている息子の珍妙な姿であった。
 ガードレールに腰かけて、ジュースの缶を両手に持ち、落ち込んでいる。
 あまりにもあからさまなパフォーマンスだ。気にしてくださいと言わんばかりの。
 ややあって、ゲンドウは何も言わずに車を降りた。運転手も心得たもので、それについて口出しするようなことはしなかった。
 車のナビには、MAGIを経由しての警備情報が、逐一報告されている。それを一目見れば、ざっと眺められる通行人の実に七割が、サードチルドレンの護衛隊と、総司令の近衛部隊の面子であることが分かってしまう。
 シンジはふと、落ちた影に顔を上げた。
「父さん……」
 そこには、威圧的な空気を纏っている父が居た。
 だが……、シンジは屈託のない笑顔を作った。
「おかえり、早かったんだね」
「ああ、今日はお前の引っ越し祝いをするのだと、レイが騒いでいたからな」
 シンジは、脅えることはしなかった。父の威圧感の正体を、苦手意識から来る錯覚であると、今では気付いていたからだ。
 それよりも、レイのはしゃぐ姿というのを想像して、そこに父を加えて、どうしたものだか困ってしまった。
 放送事故でも起こってしまいそうな長い沈黙と、片言に近い、単語。
 間が持たない。
「……シンジ」
「え?」
「お前も、もう帰れ、レイが待っている」
 シンジは、苛立ちからか、愚痴ってしまった。
「レイ、レイって……、なんだよ」
「……」
「なんだよ、父さんは、僕が必要になったから呼んだだけじゃなかったの?」
 言ってから、後悔してしまった、『子供』でもあるまいし、このような傷つけるだけの愚痴は吐くべきではないというのに。
 だが、父はそんな我が子に対して、寛容だった。
「嫉妬しているのか?」
「ちっ、違うよ!」
「ふっ、気にするな」
 笑った!?
 父さんが!?
 何故だか愕然とするシンジである。
「使徒のことは、ついでに過ぎん。全ての準備が整い、お前を呼び出したところに、運悪く事が重なってしまっただけだ」
 おかげで、本来のパイロットを準備することができなかったと、父は告げた。
「パイロット?」
「そうだ、お前にも動かせることはわかっていた。それ故に予備としての位置付けを行わざるを得なかったが、まさか実戦に出さなければならないところまで進むとは思っていなかった……」
 シンジはここに来て、ようやく一つの疑問に辿り着いた。
 綾波レイ。
 彼女は、怪我ひとつしていなかった。
 なのに、出撃は自分のところへと回って来た。
「どうした?」
 唐突に黙り込み、何か悩み始めた息子の態度に気がついて、ゲンドウは声をかけたが、シンジはそれでもまとまらない考えに苦しんでいた。
 自分が戦いに出ることになったのは、あくまで都合の問題だと言う。ならば、父の言う準備とは、一体なんのことなのであろうか?
「綾波さん……」
 シンジは思い切って、彼女のことを絡め、遠回しに訊ねた。
「パイロットって、綾波さんなの?」
 ゲンドウは、そうだと告げた。
「彼女は、テストパイロットだ」
「テスト?」
「そうだ、彼女は戦闘要員ではない、お前と同じ、予備だ」
(なんだか、もう……)
 混乱に拍車がかかって、追い付けなくなる。
 なまじ、『以前』の記憶があるからか、その差に戸惑わされて、受け入れることができないのだ。
 先入観がある故に、現実とのギャップが埋められない。
「だが」
 シンジは、父の重い声に顔を上げた。
「彼女は、わたしにとって……、そしてお前にとっても、大事な人だ」
「……」
「彼女は、お前の叔母に当たる」
 シンジは、再び体を強ばらせた、ミサトから暴露された時のことを、思い出してしまったからだ。
「そして、彼女はお前の母親になる人だ、だから、仲良くするようにな」
「…………………………………………え?」
 シンジは、ようやく妙な言葉を聞いたなと気がついた。
「いま、なんて?」
 見上げれば、父はにやりと笑っていた。
「そういう、ことだ」
 愕然とするシンジである。
(なんだよ、それ)
 冗談じゃない、いや、シャレにならないじゃないか。
 母さんを元に生まれて来た子が母さんになるの?
 ──膝ががくがくし始めた。
 血の気が引いて、倒れそうにまでなってしまう。
 ──柱に頭をぶつけたい。
 がんがんとぶつけて、痛みを感じて、自分は正気であると確かめたい。
 ──気が変になりそうだ。
 シンジは、そんな言葉の意味を、体感によって知ってしまった。
 ──だが、気を抜くには、まだまだ少しばかり、早かった。


−Gパート−


 ──ぼくにはもう、なにがなんだかわからないよ。
 あるいは頭が変になりそうだった。そんな状態でも、シンジは学校への登校を余儀なくされて、酷く陰鬱になっていた。
「碇シンジです」
 自己紹介。
 そんな覇気のない様子から、ぱっとしない、冴えない奴だという印象で、彼はクラスへと受け入れられた。
「それでは席は適当に、空いてるところに……」
 担任の言葉に、シンジはふらふらと……、無意識の内に、廊下側、つまりは窓際のレイの席から、もっとも遠い場所に踏み出そうとした。
 ──ヒュン!
 何かが黒板に突き刺さった、ビィンとおしりが揺れている、それはブック用のペンだった。
 ぎこちなく、かすったのか、赤く張れる頬をひきつらせて、シンジはわずかに後ずさった。
 誰が、と問うまでもなく、皆の目が綾波レイに向いていた、みんなシンジと同じく引きつっていた。
 そして肝心のレイはと言えば。
「……」
 早くしなさいと、怒っていた。


 ──昨夜。
「葛城ミサト君と、赤木リツコ君だ」
「あらためて、よろしくね」
 シンジはミサトとは握手をし、リツコとは会釈を交わして挨拶に変えた。
 ──なにか違う、なにか。
 シンジはくらくらとしながらも、主役だと一等席に座らされ、無理矢理かんぱいさせられた。
「でもよかったわぁ、なんとか間に合って」
「そうね」
「半分がた日向君におしつけて来ちゃったけどさぁ」
「そうね」
「でもこういう時でもないと、家庭料理になんてありつけないしねぇ」
「そうね」
 骨付きの空揚などという面倒なものは、普通の家庭では作られることがないからか、それを右手に、左手にはビールの注がれたコップを持って、ミサトは乾杯と高々と上げた。
 リツコもである、こちらもミサトのことは言えないのだろう、せっせと胃の中につめこんでいる。
 シンジは恐る恐るたずねた。
「あの……、良いんですか?」
「ん? なにが?」
「いえ……、仕事、放り出して来てって」
 シンジは上司であるはずのゲンドウに目を向けたが、無駄だった。
「ふっ、かまわん」
 トップが許す。
「腹心とは、そのためにいるものだからなぁ」
「そうですねぇ」
「そうね」
 三人して遠い目をする、シンジは呆れた、父さんもかと。
 今頃ネルフでは、日向マコト、伊吹マヤというミサトとリツコの腹心と同じように、冬月コウゾウと言う名の老人が、恨み言を吐き捨てていることだろう。
 溜め息を吐く。
「わりといいかげんなんですね、ネルフって……」
「そうよぉん、悪い?」
「ミサト」
 さすがにリツコはたしなめた。
「もちろん、仕事をする時にはするわ。けどこの数日……、使徒が発見されてから、休む暇もなかったのよ。今の内、休める時に休んでおくようにってね、うるさくて」
 シンジは怪訝に思い、首を傾げた。
「誰がですか?」
「組合が」
「く……」
「ミサトには、別の意味でうるさいんだけど」
「ぷはー、なにか言った?」
 いいえとリツコはすまし顔で答えた。
「別に、なんでもないわ」
「そう?」
 シンジはくっと何かを我慢するように、考え方を改めることにした。
(この人たちは、別人なんだ)
 同じに考えちゃいけないんだと、精神の均衡を取り戻しにかかる。
 料理にもだ、やっと手を付ける気になる。
 ──サラダや、パスタ。
『あの』綾波レイが作ったとは思えない品の数々。そう考えるからこそ落差が生まれて混乱してしまうのだ、食欲が失せてしまうのだ。
(そうだ、赤の他人なんだ、初めて会った人なんだ。その人が作ってくれたものなんだ、だから食べなくちゃ失礼なんだ)
 無理矢理自分に言い聞かせる。
 そんなシンジの様子にまるで気付かず、呑気で陽気な声が上げられる。
「ん〜、おいしい! ねぇ、レイ? お金払うからお弁当も作ってくんない?」
「嫌です」
「そんなこと言わないでさぁ、どうせ司令の分も作ってるんでしょう? なら一人も二人も同じじゃない」
 これは、リツコが口を出した。
「ミサト、無理言わないの」
「なによぉ」
 ふくれっつらになる。
「リツコだって羨ましいくせにぃ」
「そりゃあね、でも」
 ちらりとシンジに目を向ける。
 それだけでミサトはああと了承した。
「そっか、シンジ君のことがあるもんね」
「そうよ」
 会話の流れからか、ゲンドウが立ち上がった、隣の部屋から箱を一つ持って戻って来た。
 平たいのだが、一抱えはある。
「これをやろう」
 シンジはあまりの唐突さに呆気に取られた。
「なにこれ?」
「制服だ」
「制服?」
「ああ」
 にやりと笑う。
「中学校のな」
「……」
 ……なんで笑うんだ?
 よくわからない。
 あるいは妙な仕掛けでもしてあるのかもしれない。
 恐る恐る受け取った。
「お前はそれを着て、中学校に通うのだ」
 シンジは反射的に突っ込みかけて咳き込んでしまった。
 中学校の制服を渡されて、中学校に通う以外、どこに行けというのだろうか?
 いや、その前に服なのだから着るのが当たり前であろうし、他にどうしろというのだろう?
「お前のことはレイに頼んである、レイ」
「はい」
「シンジを頼む」
「わかりました」


(よろしくって、こういう意味なの?)
 シンジはATフィールドというものの意味を思い出していた。
 かつての友人が言っていた。
 ATフィールドは心の壁だと。
 今まさに、隣の少女から発せられるものがそれだった、心の壁が自分をも巻き込んで展開されている。割り込むなと。おかげで周囲から酷く浮いてしまっている。みんなの視線がとてもイタイ。
 今は良い。だがこのフィールドの外に出た瞬間、どういう関係なのかと問い詰められることになるのは明白だった。
 考えるだに恐ろしい。
 だが、その『時』は、フィールドを犯すという方法によってもたらされた。
「あの……」
 話しかけられて、顔を上げる。
「あ……」
 シンジは思わず、うかつな反応を示してしまった。
「洞木さん……」
「え!?」
「え?」
「あ、えっと、名前……」
「あ、ああっ、その……」
 シンジはちらりと目にとまった、授業用の端末に言い訳を見付けた。
「その……、クラスの名簿が見れたから、さっき覚えてて……」
「あ、そうなの」
「うん」
 あははと、お互い微妙に引きつった笑いをこぼした。
「それで……」
「あ、うん……、ごめんなさい」
 ヒカリは何故だか、周囲に対して視線を送った。
 彼女の目的などは明白だった。
「あの……、碇君と綾波さんって、知り合いなの?」
「え゛」
「違ってたらごめんなさい、でも……」
 ヒカリがううっと呻いたのは、シンジの背後から来るプレッシャーに負けてしまったからだった。
 赤い目がぎらぎらと睨みつけて来る。
 それはシンジも感じているのだろう。
 だらだらと脂汗をかいていた。
「その……」
 シンジは迷った。
 迷った末に、はぐらかすことにした。
「どうして、そんなことを?」
「うん……、そのね」
 ヒカリはすぐ傍にいるレイにも聞こえないよう、注意するために苦心した。
「あんまり、綾波さんとは仲良くしない方が良いと思うの」
「え……、どうしてさ」
「だって」
 ヒカリは最後まで言うことができなかった。
「いかぁりく〜ん!」
 ヒカリを押しのけ、男子生徒その一、メガネが押し寄せた。
「君、綾波さんと知り合い?」
「ほ〜お〜? そりゃごっつい話やなぁ」
 何故だかジャージを着ている、男子生徒その二まで寄って来た。
「な、なにさ……」
「なにやないでぇ」
「そうそう」
「お前まさか」
「綾波さんが言ってた、婚約者っちゅうやっつやないやろなぁ?」
 はぁ!? っと驚愕する。そしてクラスメートの、好奇とぎらついた視線の意味に気がついた。
 ぽっと赤くなっているレイが居る。彼女はシンジがなんと答えるだろうかと期待したのかもしれない。
 周囲もその様子に気がついた。ただごとではないと緊張感がいやました。
 そして……、だが、渦中の少年の答えは、全員の予想を遥かに裏切るものだった。
「ち、ちがうよ……、誤解だよ!」
 レイから沸き立つ殺気のようなものが、限界数値を遥かに超えた。
 それに気付かず、シンジは続ける。
「綾波の婚約者って、とうさ……」
 シンジには、最後まで訴えることができなかった。


 ──放課後。
「お、来た来た」
 校門前、青い車で乗り付け、ミサトはその車体にもたれかかり、腕組みをして待っていた。
 サングラスに指をかけてわずかに下げる、と、とぼとぼとやって来るシンジの様子が、少しおかしいことに気が付いた。
「シンジくぅん」
 ぎくりとしたようだった。
「ミサトさん……」
「どうしたの? その顔……」
「これは……」
 撫でさすろうとして、いてっと痛みに顔をしかめる。
 平手、もみじの痕ではない。
 ぐーで殴られた痕だった。
「綾波に」
「レイにぃ?」
 驚愕する。
「あの子が手を上げるなんて……、なにやったの?」
「なにって……、それは」
 シンジは事情を打ち明けた。
「だから、ぼく、違うって思って、ちゃんと答えたのに」
 顔を上げると、ミサトは失笑を堪えていた、爆笑寸前の状態だった。
「し、シンジ君……」
「はい」
「あなた、かつがれたのよ」
 きょとんとしたシンジの様子に、ミサトはついに吹き出した。
「ぷー! あっはっはっはっは! い、碇司令とレイが、そんな関係なわけないじゃない!」
「え? え……、えええええ!?」
 それってどういうと詰め寄るシンジに、ミサトは気の毒にと肩を叩いた。
 ばんばんと。
「だから言ったでしょう? なにもあんなお父さんと一緒に暮らさなくてもって。司令ってさぁ、あの顔で趣味が人をからかうことだったりするのよねぇ。でも真顔で言うから、誰も本当かどうかわかんなくてさぁ、結構ひっかかって、泣いてる人多いのよねぇ」
 シンジは呆然と立ち尽くし、そしてあまりの情けなさからか俯いてしまった。
「し、シンジ君?」
 肩を震わせている、泣き出してしまったのかとミサトは狼狽えた。
「ごめん、あたし、言い過ぎた?」
「ミサトさん……」
 シンジは腕で涙を拭った。
「ぼくは……、ぼくは」
 悔しさからか、歯噛みをしているようだった。
「ぼくは、その言葉を、あの時、あの場所で聞きたかった……」
 ファイ、オー、ファイ、オー、ファイ、オー……。
 体操着姿の女の子たちが、背後を通り過ぎていく。
 ──なにも、お父さんと一緒に暮らさなくても。
 どうしてあの時に、もっと詳しく説明してはくれなかったのかと。
 夕日の中、どうしてこんなにも、変なところばかり変わってしまっているのかと……。
 何かを呪うシンジであった。

−第一話 了−


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