──誰か僕に優しくしてよ。
 そう言うと、何をされるかわからない恐さがあったと、少年は語った。


 慣れない作りに難儀しながらも階下に下りて、台所らしき場所を覗き見ると、そこには見慣れない光景が展開されていた。
 見たことがないのではなく。
 未だに慣れないのである。
 制服姿の少女がエプロンを着けて、なにやらざくざくと刻んでいる。
 レイである。
 ふと、気配に気がついたのか、振り返った。
「おはよう」
「あ、うん……」
 ふっと鼻で笑うのが聞こえた。
「挨拶もできんのか」
 むっとして顔を向ければ、父だった。テーブルについて新聞を広げて、くつろいでいる。
 シンジはなにかをぐっと堪えると、それを抑えつけて口にした。
「おはよう、綾波、父さん」
「ああ」
 ばさりと音を立てて次のページへと移る、レイもまた調理の続きをし始めた。
 シンジは小さくかぶりを振った。
(似たもの夫婦……)
 このふたりはこのくらいのつれなさでちょうど良いのかもしれない。
 シンジはそう判断すると、必要以上に関り合いになるのを避けることにした。
(そうだよな、向こうではそうやって暮らしてたんだし、その方が楽だよな)
 気も落ちつくしと、寂しいことを勝手に決める。
 平穏無事に過ごすこと。
 それが彼の処世術だった。



第二話、いきついて



 エヴァが練習を行っている。
 ジオフロント、ネルフ本部、訓練用擬似射撃場。
 ライフルを構え、引き金を弾く、実砲ではない、先端からはレーザー光が発せられるだけである。
 目に見えない者を相手にしている様は、何やら間抜けたものがある。
「でも良く乗ってくれる気になったわね、シンジ君」
 エヴァが相手をしているのは、プラグ内に映し出されている映像である、そしてシミュレーション中と表示されている操作板を操っているのはリツコであった。
「あれだけの目にあったのに」
「そうね……」
 ミサトは何を思い出したのか、ぷくくと笑った。
「でもま、あの子、家に帰りたくないみたいだから……」
「ここに来ていれば、あの家には帰らなくてすむから?」
「そ」
 リツコもまた明るく笑った。
「まるで本当の家族みたいね……」
「そうなのよねぇ」
 二人の会話に緊張感が欠けているのも当然だった。
 家には帰りたくない。
 それこそ、子供がごねるだだだからだ。
「それで」
 ミサトは表情を引き締めた。
「ドイツの方はどうなってるの?」
 リツコもまた顔つきを変えた。
「初号機のデータを寄越せと言って来たわ」
「とうとう動かすつもりなのね、弐号機を」
「そうね」
 緊張感がいやまして、空気が僅かに張り詰め出す。
「今まではシンクロテストのみに収められ、実動試験は一度も行われなかったエヴァシリーズ」
「やっぱり、初号機なの?」
「あれが弾みになったのは間違い無いわね」
 すんなりとは行ってないようだけどとリツコは付け加えた。
 運用する場所の問題、それによって漏れる情報。
 そういったことを考えるに、とても試験運用などできないのが実情だった。
 動作をさせたのは、恐ろしいことに、先の初戦がまさに初めてのことだったのである。
「上辺だけなら、エヴァは予定通りの性能を発揮して、使徒を殲滅したってことになっているけど……」
「実際は綱渡りだった?」
 そうよとリツコは頷いた。
「本当に、上の懸念を後押ししたような形になっているでしょう?」
 過度のストレスによるパイロットの暴走がもたらした結果。
 それはあらゆるコントロールを、不可能とするものだった。
「一切のシステムを無視してね」
「そうね……」
 思考制御システムの弊害がここにもあった。
 搭乗者の思念をプログラムに変換し実行する、新世代型のコンピューターを、エヴァは制御機構として搭載している。
 先日の戦闘においては、これが本部からのコントロールを拒絶する方向で働いた。強固な意思を体現し、実行しようとして、システムは本部からの命令よりも、より上位の指示であるとして変換したのだ。
 その結果、エヴァは完全に独立し、パイロットのみの制御下に置かれる事態となった。
「確かにね、確かに、そのことに対しての懸念もあるのよ」
「?」
 リツコは呻くようにして口にした。
「セカンドのことよ」
 アスカかと、こぼされる。
「じゃあ、リツコも見たんだ。あの記録を」
「ええ……」
 渋面になる。
 それはたった一度だけ、セカンドチルドレンが行った。国際電話に対する通話記録のことだった。
 守秘義務の問題もあり、当然のごとく、その内容は記録されている。
「『アスカ?』『シンジなのね』、か……」
 ふたりは黙り込んでしまった。
 両者には接点も面識もなかったというのに、その馴れ馴れしさには、何とも言い難いものがった。
 親しんだ者のみが発することのできる声音は、実に特徴的だった。
神童The child
 ミサトがこぼした。
「ことエヴァに関しては、まるで予言者めいたことばかり口にする子だったわ」
 そうかとリツコは顔を上げた。
「あなた。向こうに居たんだものね」
「ええ」
 ──惣流・アスカ・ラングレー。
「……レイもだけど、あの子もやっぱり、どこかエヴァに乗るために生まれて来た子って雰囲気があったわ」
「そう……」
「不思議な子だったわぁ……、妙に冷めててね、みんなからも恐がられてた」
 知ってるわ、とリツコ。
「そのせいで、本当ならファーストに選ばれてもおかしくはなかったのに、セカンドとなってしまった……」
 皆が皆、存在そのものを忌避して、登録を渋り、避けたのだ。
「わたしの懸念はね、エヴァの性能が、こちらの予想数値を遥かに上回った原因が、もしパイロットにあったとしたらってことなのよ」
「どういうこと?」
 怪訝そうにするミサトに、良い? とリツコは切り出した。
「もし、シンジ君のせいだったとしたら? シンジ君もまたスペシャルなのかもしれないわ」
「シンジ君が!?」
「そうよ、だとしたら、シンジ君以上にスペシャルであるはずのセカンドは、一体エヴァから、どんな性能を引き出すのか」
 ミサトはごくりと生唾を呑み込んだ。
「……恐いわね」
「恐いどころじゃないわ、ドイツ政府はね、それで渋ってるのよ、弐号機のテストのための土地供与をね」
 身長が六十メートルにも達するエヴァである。
 その実動試験ともなれば、非常に大きな土地が必要になる、それはネルフや軍の一存で、どうにかできる面積ではない。
 そのような広大な敷地が、どのような理由から、どの程度荒されることになるのか? 考えれば、波風が立つのも当然だった。
 二人は期せずして、揃って初号機へと目を向けた。相変わらず、ぎこちない様子で、訓練用のレーザーガンを操っている。
 その中で、シンジは次々と現れる使徒の虚像に、弾を撃ち込み続けていた。
(この、この、この、このっ、この!)
 まるでそれをしている間は、余計な事は考えずにすむと、逃避を計っているかのように。
 シンジは単純作業に、没頭していた。


−Bパート−


 ドイツという地は、比較的穏やかな空気の流れる、とても大人しい気配に満ちた土地だった。
 ほんの少しばかり市外に出れば、そこには緑の景色が広がっている、点在しているのは工場であり、あるいは牧場であり、城であった。
 そんな内の一つに、館と呼ぶには大きく、城と呼ぶには堅固さの足りない、大きな建築物が存在していた。
 木張りの廊下に、温かな陽が差し込んで、とても柔らかな雰囲気をかもし出している。
 そしてドアからは、こつこつと黒板をチョークで叩く音がしていた。
「……それでは」
 教壇に立っていた女は、一世紀ほど過去からやって来たのではないかと思えるほど、古めかしい衣裳に身を凝らしていた。
 ゆったりとした。ドレスと見紛う洋服に、インテリジェンスを強調するための、小さな丸眼鏡をかけている。
 手には教科書と、教鞭、だが彼女の表情は、本来あるべき険というものが欠けていた。
 鬱によって彩られている。
 はぁっと溜め息が洩らされた。
「アスカ? アスカラングレー」
 両腕を机の上に置いて、うなだれていた少女の肩がピクリと震えた。
(やっぱり眠ってたのね)
 そう考えていたことはおくびにも出さずに、彼女に命じる。
「前に出て、この構文を正しなさい」
 赤い髪のアスカは、まるで人形の様に、言われたままに動いて教壇に立った。
(この子は……)
 そんな動きにも苛立ちを感じてしまうのだ。
 ──アスカの知能指数は、180にも達している。
 とは言っても、あくまで学力年齢と、実年齢の差を、%で表したものに過ぎないのだが。
 実際に検査を行ったのは、彼女だった。ロレッタ・ローゼン、行ったのは、アスカが十歳の時のことである。
 親に見放されて、このパブリックスクールへと収監されて来た問題児には、必ず実施されている検査である、が、そんな型通りに行われた検査結果に、教師の誰もが愕然とした。
 通常、この学校に入る者は、虐待などによって精神に傷を負い、幼稚なままに育っている。
 だが、彼女は逆だった。賢し過ぎるがゆえに親に煙たがられたのだ。多くの教師がそう思った。
 ──そんなロレッタが、考え違いだったと知る迄には、少しばかりの時間が必要だったのだが。
 当時ですらも、大学生なみの学力を備えていたアスカである、そんな彼女なら、跳び級で大学に入学することもできたはずだった。
 通信教育という手段もある。
 金銭なら、特待生になれば良い、そう思い、ロレッタはアスカに薦めたのだが、許されなかった。
 アスカの行動の全てには、恐ろしいばかりの制限が設けられていたからである。
 飼い殺しと言っても差し支えない状態であった。
 アスカの未来や、将来、そして夢の全ては、親である男の手によって、身動きすらできぬように、包囲網が敷かれていたのだ。
 ──目を移す。
 そこにある空席は、アレクという名の、アスカのボーイフレンドのものである。
 婚約者だということになっているのだが、その実が、アスカの父によってあてがわれた存在だというのは、誰もが知っているところだった。
 だからこそ、アスカは彼に心を許そうとしないのかもしれない。
 ──カツッと、チョークを置く音が鳴った。
「終わりました」
「そう、ごくろうさま」
 席に戻らせる、これでまた暫くは眠らないでくれるだろう。
 彼女の明晰過ぎる頭脳に、この程度の授業がいかに退屈なものであるのか? それはわかるのだが、他の子たちの手前、許すわけにはいかない。
 居眠りだけは、見逃すわけにはいかなかった。


「しかし、ね……」
 ここはこの寄宿舎の、総責任者の部屋である。
 小太りな男が机に座って、執事に入れさせた紅茶を嗜んでいる、その前にある来客用の応接椅子に座っているのは、アレクだった。
「もったいのないことをする」
「なにがだい?」
「アスカ……、『君の娘』の保護者が、もう少しばかり常識人であったならと思ったんだよ、そうであれば、なにもこんな場所で、腐ったように生きることなど、強要されずに済んだだろうに」
 アレクは、小さな笑いを洩らした。
「確かにね……、『まとも』な親さえ、得られればね」
 男はアレクの言葉に顔をしかめた。
「それが、『父親』としての言葉かね?」
「君は勘違いをしているよ、アレフ」
 アレクは、受け皿にカップを戻した。
「アレフ? 人格移植OSのことは知っているね?」
「なにを今更……」
「これと人造人間にまつわる研究成果があれば、僕のような『クローン』体に意識を写し込むことができる」
「そうして君が生まれたと言うのだろう? 君はアレクが作った検体の一つだ」
「そう、でも知識や、記憶までは写し込めなかった。それが問題でね」
 どういうことだと訊ねる視線に、皮肉を浮かべる。
「知っているかい? アスカはね、強姦された経験を持っているんだよ、未遂だけどね」
「なんだと?」
「それも、父親にだよ」
「『アレク』が? まさか……」
 本当さと、嘲った。
「血の繋がりのない親子だとは言え、まあ、それもあまり関係無いけどね」
 打ち明ける、いや、暴露した。
「キョウコはね、子供が欲しかったんだ。だから精子バンクから遺伝子を買い取って子供を生んだ……、そんなキョウコに惹かれたのは、彼女の生き方に光を見たからだよ」
 一目惚れは本当にあるんだ。ロマンチックだよねとアレクは笑った。
「だけど、それが不運を招いた。彼女と一緒になって見せつけられたのは、格の差だった。そしてその鬱屈は愛人を作ることに逃げを生んだ」
「今の君の妻だろう?」
「『オリジナル』のさ、オリジナルは彼女によく囁いていたそうだよ、キョウコと別れて、君と一緒になるってね? 彼女もその言葉に浮かれていた。けれど現実はどうだろう? キョウコを失ったことで、彼の価値もまた下落したんだ。彼はあくまでキョウコの夫だった。キョウコの研究の手伝いをしていることで、彼女の研究を一番よく理解しているだけの存在だった。でもね? それはデータさえあれば代用が利く存在だということなのさ」
 首を傾げる。
「……キョウコが死んだ時、『創造性』のない『アレク』は、役立たずとならざるをえなかった?」
「発想し、研究し、結果を出すのが科学者なら、彼はあくまで助手に過ぎなかったと言うことさ、そんな自分の『価値』を知らしめられて、狂ったんだね……、彼はストレスの解消を、キョウコの娘に求めたんだよ」
「だから襲った?」
「十歳のアスカにね?」
 そして体を起こして、楽しげに笑った。
「でもね? それはそれは見物だったらしいよ、ボールペンを握って、頬をざっくりと裂いてやったんだってさ、恐かったんだろうね、恐くなったんだろうね、オリジナルは十歳の少女に恐れを成すと同時に、自分が何をしたのか、何をしようとしたのかを知って、追い詰められた気分になって、エヴァのケージで自殺した」
 弐号機の胸元にあるブリッジから跳び下りたのだ。
「それから人格移植関係の研究題材だった僕が呼び起こされた。後は知っての通りだよ、アスカの養育権も、オリジナルが持っていた財産も、全てが僕のものになった」
 ふんと男は鼻を鳴らした。
「なら、なぜアスカを拘束するんだ? 彼女を締め付けて……、『親』の敵討ちか?」
「まさか、僕は僕、オリジナルはオリジナルだよ、だから何度も言ってるだろう? 僕はオリジナルの記憶までは持ち合わせていないんだ。知ったことじゃないよ」
 肩をすくめた少年に、アレフはもうひとつ突っ込んだ物言いをした。
「……アレクの妻の、『ベアトリーチェ』の弟だとして、『公開』されていてもか?」
 緊迫したものが間に流れる。
「真実はどうであれ、今の君はアスカの婚約者だろう? クォーターだが、アスカは『血の因習』を覆しても、余りあるほどの輝きを持つに至れる存在だ。だが今のままでは蔑まれるだけの不良品だ」
「……」
「君はラングレーの妻として、少なくとも、一族に相応しいレディへと育てなければならない義務があるはずだ。違うか? ラングレーの頭首として、父として、夫になる者として」
 長い沈黙の後に、ふうっとアレクは、胸のつかえを吐き出した。
「アレフ……、僕は僕なりに、アスカのことは愛しているよ」
 アレフは声の調子を落とした。
「なら、自由にしてやれ……、彼女はこのような場所に留まっているべき人間ではない、せめて淑女として育ててやれ、そして立派なレディに」
 だめだよとかぶりを振ったアレクに対して、アレフは激昂した。
「何故だ! 今のままではアスカはラングレーの者たちに鬼子として忌み嫌われ続けることになるんだぞ、そんなことになれば彼女は!」
「それでも」
 アレクは、はっきりとした物言いで告げた。
「それでも……、あれは、アスカはここに居るべきだ」
 わからないだろうねと、アレクは冷めた目を向けた。
「君には……、理解できないことかもしれない、同じ場所、同じ空間に居ながら、同じことを、同じように感じられないわびしさを……、君たちはたくさんいるからわからないんだ。でも、アスカは違う、アスカは君たちとは、なにも共感できない人間なんだ」
 違うとアレフは訴えた。
「それは錯覚だ! お前がお前と同じになるように仕組んで、仕込んだからに過ぎない!」
 ほらとアレクは微笑した。悲しげに。
「君はわかっていないんだよ、アレフ……」
 かぶりを振ってから、アレフを見つめた。
「いいかい? アスカは元からそうだった……、初めて会った時から、彼女の瞳は僕の向こう側を見ていたよ」
 遠い目をして語り出す。
「彼女の青い瞳は、いつも遠くを見ているんだ。僕たちを素通りして、その向こう側にある景色をね」
 それはたしかに感じさせられる事のあることだったから、アレフはアレクが饒舌になるのを止められなかった。
「彼女の瞳には、一体何が見えているんだろうね……」
 アレクは告げた。
「僕にはわかるような気がするんだよ……、それは僕がアスカと同じ『異邦人』だからだ。きっと僕がそうであるように、彼女も疎外感を感じているんだよ、口を利いても同じ言葉を同じ意味合いで交わしているとは実感できず、どんな気持ちを抱いても正しく伝わらないのだと絶望を知る……、嘆き、諦めるしかない生、それはね、きっと、味わっている人にしかわからないことなんだよ」
 アレフは大きく溜め息を洩らした。
「だから……、彼女を繋ぎ止めているというのか」
 今度は睨む。
「結局、仲間が欲しいんだろう、お前は、お前だけが良き理解者になれる存在なのだとうそぶきながら」
 アレクは薄い笑みを浮かべて本音を話した。
「そうだね……、確かに僕が離れたくないだけなのかもしれない」
 けれど、いつかは行ってしまう……。
 同じ時を生きられる人の元に、同じ言葉を交わせる人の元に。
 ──元の世界に、彼女の居た世界に。
 いつかは旅立ってしまうのだと感じられるから……、だからこそ、勝手に歩き出してしまわないように……。
 ──歩き出したりはしないように。
 篭の中に入れているのだと……。
 アレクは、翳を見せながら、訴えた。


−Cパート−


 授業が終わり、教室に居場所が無いのか、アスカは廊下をぶらついて、ちょうど理事長室から出て来たアレクにぶつかった。
「やあ」
 挨拶されて、顔をしかめる。
「あんた。今度はなにやったのよ?」
 苦笑した揚げ句に肩まですくめる。
「酷いよ、僕ってそんなに信用がないのかな?」
 そりゃあとアスカ。
「あんたのお姉さんが、自分は清廉潔白な淑女だって訴えるくらいにね」
 そして連れ立って校舎から出ていく、時々二人はこうして無断外出をする、もちろん後で『折檻室』と呼ばれる独居房に閉じ込められるのを覚悟の上でだ。
 そんな二人を見送る影があった。アレフである。
 彼の表情は、とても複雑なものによって彩られていた。
(アレク……、お前はアレクとは違うと言うがな、同じ時を、時間を生きてくれないと嘆く姿は、キョウコに縋っていたお前のオリジナルとそっくりだよ)
 その女の才能と知力を前に、卑屈になることしかできなかった男と変わらない。
 そして彼女はその才能のままに、夫の手が届かないほどの地へと去ってしまったのだから。
 ──そんな光景が重なり合って来る。
 アレフはそんな印象を抱いてか、キョウコの娘に縋る、アレクの分身を見送った。


「で、どこに行くんだい?」
 問われてアスカは頭の後ろに手を組んだ。
「べっつにぃ? あんたが歩いてる方向に歩いてるだけだけど?」
「それじゃあ、公園にでも行こうかな」
「勝手にすれば?」
 とても連れ立って歩いているようには見えないのだが、それでも苦々しく観察している女が居た。
 ベアトリーチェだ。
「君の感情は異常なものだよ」
 助手席に座るアンドルフが口を開いた。
「弟に寄せる感情じゃない」
「……ただの弟じゃないわ」
「そう、ゼーレ肝入りの少年だ」
 双眼鏡を下ろし、ベアトリーチェはきつく睨んだ。
「ちがうわ、あの子はあたしの子よ」
「自分の夫だ。そう言いたいんだろう?」
「……あの子はあたしのものよ」
 誰にも渡さない、そう言外に聞こえた気がして、アンドルフは黙り込んだ。
(正直、理解したくはないな)
 だがわからされてしまう、彼女はアレクに夫を見て取り、そしてアスカにキョウコの影を重ねている。
 このままでは、自分はまた。日陰者の立場においやられてしまうと恐れている。
 そんな感情が見え透いている。
「車を出してくれ」
 まったくと毒づく、寄り道をするというから何かと思えば、ストーキングだ。
「何が悲しくて、そこまでアレクにこだわる?」
「……」
「あえて口にするが、故ラングレー氏は、女性が傾倒するほどの男ではなかった。妻の実力を己のものだと錯覚するような、時代錯誤な夫権主義者でしかなかった」
 女は男に付き従い、敬えばいい。
「昔はそんな男ではなかったが……、惣流博士が偉大過ぎたな、周囲の比べる視線に堪え切れなくなり、博士に妻としての態度をわきまえろと強要するようになった。しかしそれこそ人に失笑を買うだけだと言い諭されて、とてもそんな理性的な真実を受け入れられずに、道を誤った」
 惣流・キョウコ・ツェッペリンは、夫に男としての矜持を望んだ。
 だがアレクサンデル・ラングレーは、お前までわたしを愚弄するのかと吐き捨てた。
 夫婦間に横たわった溝は深まり、亀裂は広がり、キョウコは夫に昔の優しさを望んだが戻っては貰えず、夫は夫で、キョウコのような頭の良い女性ではなく、女としての媚びを持つ、軽い女性に救いを求めた。
「さぞかし心地好かっただろうな、馬鹿にされ続けた男にとって、敬われ、慕われ、褒められることは」
 それがたとえ、娼婦のような女が吐いた。社交辞令であったとしても。
(この女なら気持ちをわかってくれるはずだ。そんな勘違いをしたのだろうな)
 結局、それもまたキョウコの存在の上に成り立つだけの関係だった。彼女、ベアトリーチェは、上司との隠れた恋に溺れただけの女であり、ラングレーは、ベアトリーチェに慰めと癒しを求めただけの、甘えた男だった。
 ……残されたキョウコの憤りと悲しみなど、見向きもしないで。
(そして博士は仕事に逃げ場を求めて死んでしまった。娘の存在が災いしたか……、あるいは母であったことが呪縛となったか)
 腹を痛めて産んだ子であるが故に意識することをやめられず、母親として娘と二人きりでも暮らせるようにと思い悩む他なかった。
 もし娘のことを放置できるような女であったなら、夫と同じように、男に逃げ出して、今頃離婚調停で、もめたりしていたことだろう。
(憐れだな)
 誰にでもなく、隣の女にその言葉を手向けた。
 妻の権勢を失い、没落した男と、いま彼女は同じ道を歩んでいる。
 夫を失い、今や彼女の地位は、弟とされている夫の形見によって支えられている。
 そして弟であり、夫でもあった存在の写しであるが故に、切り捨てられず、新たな男には逃げ出せずに居る。
 これについては、キョウコの呪いではないのかと、彼は思っていた。
 キョウコと同じく、『研究成果』に懸想して、自滅への道を、まっしぐらに進んでいるのだから。
 そうとしか思えず、彼は再度、彼女に告げた。
「早く車を出してくれ、今日到着する本部の特殊監査部の人間から目を離すなとの、支部長直々の願いなのだからな、君の趣味に付き合って、出迎えることができなかったとなれば、何を言われるかわからない」
 それについては、確かに彼女もまずいことだと思ったのか、双眼鏡をしまってハンドルを握り、ギアを入れた。


−Dパート−


 空港はとても閑散としていた。
「いつ来ても陰気なところね」
「そうだな」
「気が滅入るわ」
 ちらりと案内板に目を向ける、国際便の運行は数えられるほどである、それは観光地としてはこの土地に、まったく魅力がないからかもしれない。
 二人はぱらぱらとしている、人待ち顔の男たちの中から、彼だという人物を探し当てた。
「失礼」
 話しかける。
「加持リョウジ?」
「ええ」
 ネルフの上級士官を示す黒のスーツがピシリと決まっている、しかし頭はあまりそれらしくなく、だらしなく伸ばした髪を無造作にまとめているだけだった。
「そちらは?」
「ドイツ支部長の命で迎えにまいりました。ベアトリーチェです」
「アンドルフです」
 怪訝そうな顔をして訊ねる。
「ドイツ支部長の? しかし……」
「ああ……」
 アンドルフは自分の制服について説明した。
「わたしは軍から出向している身分ですので」
「ネルフに?」
「日本の方針とは反するでしょうが、ここドイツでは、民間と言えども立派な戦力を有するとなれば、軍の監視下に置かれます」
「いえ、そうではなく……」
 加持という男は、疑問について問い直した。
「なぜ軍から出向なされている方が、人の迎えなんて仕事をと思ったもので……」
「不服かな?」
 互いに、やや口調を崩した。
「いえね? 少しはきっちりとした格好をして行けと、こんな服を着せられましたが、俺なんて下っ端も好いところですよ、せいぜいタクシーで……、失礼? タクシーで迎えに来て頂ければ御の字で、運転手付きのリムジンなら上等の部類だと思っていたもので、まさか……」
 ベアトリーチェへと目を向ける。
「ドイツ支部はおかたいと聞いていましたが、女性の歓待を受けられるとは」
「まあ」
 口元に手を当てて、ころころと笑う。
 そんな彼女に握手を求める加持の動きを、アンドルフはさり気ない仕草で牽制した。
「本部の特殊監査部が人を送り込んで来るともなれば、自然ドイツにも緊張が走る、そういうことだ」
「アンドルフ……」
 ベアトリーチェは拗ねて口を尖らせた。
「失礼ではなくて? お客様に対して」
 さあ、っと、腕を組んで加持をいざなう。
 困ったような顔をしている男に対して、アンドルフは実に鋭い目を向けた。それは加持リョウジの瞳というものが、まったく油断していなかったからだった。


「これが、本部からの要請書です」
 支部長の執務室。
 加持の手から差し出された書類に目を通して、ゲイマンはギロリと睨み付けた。
「『武器』に関する支援要請だと?」
「はい」
「本部には、支部よりもよほど優秀な技術陣が居ると聞いていたが?」
「わたしは書簡の配達を申し付けられただけですので」
「民間のルートでかね?」
「予算の都合でしょう」
「ならばMAGI経由のメールで済む」
「日本人には、直接頭を下げて回るという、礼節を重んずる心がありますから」
「司令にも?」
「……」
 加持には曖昧に笑うことしかできなかった。
「まあ、いい」
 苛めていても仕方がないと感じたのか、鉾を収める。
「それで? 君の仕事はこれで終わりかね?」
「いいえ、弐号機の具合を見て来いとも、許可を頂ければですが」
「弐号機の?」
「なにしろ初号機があれでしたんで……、神経質になっているんですよ、どこも」
「弐号機の性能に興味があるのだと、素直に口にすればどうだ?」
 加持はそこまであからさまにはと言葉を濁した。
「比較するものが欲しいということでして、こちらでも弐号機の性能比率を割り出すために、初号機のデータを検証しているんでしょう? 本部は弐号機のデータを欲しがっています、それも決してMAGI経由では確認できない情報を」
 それはつまりと脅す声になる。
「セカンドとの接触を認めろと?」
「そのつもりでの監査部です」
 ……はたでその会話を聞いていたアンドルフとベアトリーチェの反応は様々だった。
 アンドルフはやはりかと警戒心を強くして……、ベアトリーチェは少々熱っぽく横顔を見つめた。


−Eパート−


 自然公園はとても広く、ちょっとした森の様相を呈していた。
 木漏れ日の中を、二人は歩く。
「どんなに寂れている街にだって、一つや二つ、好いところがある……、けれどそこに住んでいる人には何の価値も無い、ここもそんな場所の一つだね」
 アスカは詰まらなさそうに呟いた。
「だからって、わざわざ余所の奴に教えてやることなんてないんじゃない? 観光客なんて、土地の慣習に従おうとしないで、自分のルールを押し付けて、穏やかな空気を無為に荒すだけだもの」
「そして反発や締め出しを食らうと、その程度のことで、そしてこの国際社会の中でと差別し、無理を迫るか、まあ、確かにそうだろうけどね」
 知らなかったよと彼は口にした。
「アスカがそんなにも、この土地を愛してくれていたなんてね?」
「……愛してなんて」
「ん?」
「いないわ」
「……なら、先の台詞は?」
「ただ好きでいたいだけよ、この空気を、景色を、光景を」
 そして今をと口にするアスカの心を、彼がわかることはない。
「そう言えば」
 彼は理解できない苦しさから逃れるために話題を変えた。
「この頃、考えるようになったんだ」
「なに?」
「君は、気にしていたよね? 本部のエヴァを、本部のチルドレンを」
「……」
「あれはサードを、碇シンジを気にしていたんじゃないのかい?」
 冷たい風が、二人の間を駆け抜けた。
「……妬いてるの?」
「否定はしない」
 彼は真剣な目をしてアスカを見つめた。
「……初めて垣間見えた君の心、それが僕以外の男の子のことだったとなれば、妬くくらいのことは許してくれたって良いんじゃないのかな?」
 アスカは彼の問いかけに、困惑するような言葉を返した。
「ねぇ……」
「なんだい?」
「あんたは……、野良犬ってどう思う?」
「野良犬?」
 そうよと、アスカは付け加えた。
「それも、自分の家の周りに住みついてる野良犬、誰を傷つけるわけでもない、餌は近所の優しい人から貰っていて、みんなに撫でられているから毛並みも奇麗で、だけどただ一つだけ難点があるの、それは毎回決まって、あんたの家の軒先で用を足すのよ」
 彼は戸惑いの感情を浮かべた。
「それが皆の嫌われものでないのだとすれば……、僕は彼の粗相の後片付けをするだろうね」
「うん……、でもね? それが毎日毎日続くわけよ、それも一日に何回も、あんたは毎回掃除する、するといつしかあんたが片付けるもんだって認知されるようになって、犬だって、ここですれば怒られないって思い込むようになるの」
「……」
「きっかけは簡単、あんたは用があって街に出かけるの、すると半日は放置されていることになるわけよね、近所の人は苦情を言いに来る、どうして片付けてくれないんだって」
「……理不尽だね」
「だけど、はい、わかりましたって言えば、それだけのことだから、あんたは片付けるでしょうね」
「そうだね」
「けど心の中には、どうして自分がって不満が募るわ? それが段々と膨らんで、どうして自分が片付けなくちゃいけないんだ。どうして押し付けられなくちゃいけないんだって、全てが疎ましくなって来るの」
「……」
「だからって、嫌うほどのことじゃないでしょう? 憎くなるほどのことでもない」
「けれど確実に……」
「そう、いつかこう考えるようになっても当然よね? こいつさえいなくなれば、もう周りからわずらわしいことを言われないですむようになるのに、面倒なこともしなくてよくなるのに、ってね?」
「……」
「嫌いなんじゃない、憎いわけでもないのよ、でも疎ましくて、関り合いにはなりたくないって」
「君は……、サードを」
 殺すつもりなのかと言いかけて、慌てて動揺を押し隠す。
 さすがにそれは、口にしてはならないことがらだと感じたからだ。
(そうなのか? アスカはサードを同じチルドレンとして認識するに見合う相手なのかどうか、『品定め』をしているのか? 不適当ならわずらわしい想いをしないですむように……)
 自分の想像にゾッとする、しかし、そんな彼には、首を撫でさするアスカの心境など、見抜くことはできなかった。


 大したことじゃない、だからこそ本気で嫌えないのだし、憎めない、でもだからこそストレスは溜まるしフラストレーションも蓄積していく。
 鬱陶しさは疎ましさへと、そして拒絶へと発展し、ついには排斥へと働くのだ。
(キモチワルイ)
 あの瞬間……。
 自然と口から吐いて出た。
 ──キモチワルイ。
 もう、どうだって良い、殺されそうになってる、でもどうだって良い。
 辛いのも、苦しいのも、どうだって良い。
 心を閉じ込めてしまえば、体の痛みも、心の痛みも。
 ──なにもかも。
 なにも感じなくて済むから、そう……。
 ──楽になれるから。
「ふぅ」
 アスカはベッドの上に体を投げ出し、しばらくそのまま動かなくなった。
 それはさも自分を殺そうとしている少年がしてしまいそうな発想で……。
(あたしは……、あの時)
 知ってしまった。
(シンジがどういう奴だったのかって……、知ってしまった)
 どんな気持ちで、あのように振る舞っていたのか。
 どうして卑屈な態度を取っていたのか。
 碇シンジという名の『他人』と同じ発想をした時、冷めた心を手に入れた時。
 ──客観的な、第三者的な視点を手に入れた時。
 急速にその心を理解してしまった。
(あんなに気持ちの悪いことはなかったな……)
 喉がかゆい。
 痛いのではい、ただ。かゆいのだ。
(シンジもあたしの気持ちがわかったんだろうな……、でないと泣くはずないもの)
 瞼を閉じると、思い出せる。
 首を絞めるシンジの顔が、目が思い出せる。
(シンジの奴……、ミサトの家で、風呂場の鏡に向かって、シンジやミサトを嫌ってた時のあたしと同じ目をしてた)
 ──いなくなれば良いのにと思っていた。
(気持ち悪かった)
 自分が、自分の一番嫌っていた相手のようになってしまうだなんて。
 一番嫌っていた相手が、自分とそっくりになるだなんて。
(シンジは……、どうだったんだろ?)
 我慢していたんだろうな、と思う。
 ──『それだけ』のことだから。
 自分が我慢すれば、すべてが平和にすむだけのことだから、でも。
(限界を越えて、シンジはあたしのやり方に行き着いた)
 周りよりも、自分のことを優先するようになって……。
(シンジは、今、どう思ってるの?)
 自信は無い、だからこそこの『十四年』もの間、ずっと悩み続けているのだから。
 ──してはならない電話をしたのも、そのためだった。
 ……そんなアスカの思索の時間は、コール音によって妨げられた。


−Fパート−


(なんだろう?)
 急な呼び出しというのも珍しい。
 エヴァンゲリオンに絡んだテストは、どれも大勢の人員を必要とする、急なスケジュールが発生するなどと言うことはないのだ。
 調整ミスが、どんな惨事を引き起こすのか? それは想像に難くないから。
 そんな裏の事情があるから、アスカは呼び出しの理由がわからず、困惑していた。
「失礼します」
 ──だからだろう。
 支部長室に入室した時、そこにあった懐かしい姿に、思わず目を奪われたのは。
「やあ」
 気さくな態度にも、動けなかった。
「今日から、君の担当保護を受け持ってもらうことになった。加持リョウジ君だ」
 支部長の声も耳に入らない。
「どうした?」
「そんなに珍しいかな? 俺の顔って」
 ……不意に、視界が白くぼやける。
 握手を求められても、アスカは動けなかった。もう少し先だと思っていた。『再会』は。
(だって、前は……)
 鮮烈な記憶、弐号機と共に乗った船に居た男。
『加持先輩!』
「お、おい」
 慌てた声に、はっとする。
「あ、やだ。なんで……」
 ぽろぽろと涙がこぼれて止まらない。
「や、やだなぁ、俺、なにかしたかい?」
「いえ……、『知ってる人』に、似てたから」
「そうか……」
 ポケットを探る、が、当然のごとくハンカチなどと言った洒落たものが出て来るはずもなく……。
「これを使いなさい」
「……うん」
 ベアトリーチェは、あまりにも従順に頷くアスカに、虚を衝かれたような顔をした。
 てっきり、いつものごとく、冷めた感じであしらわれると思ったからだ。
「ごめんなさい」
「いや、良いんだ」
 加持は照れ臭そうにした。不覚にも、少女の涙に対応できなかったからである。
「ええと……、加持さんは、日本の方なんですよね?」
「ああ、そうだよ」
「でも、どうしてあたしの担当に?」
「それはもちろん……、いや、嘘は好くないな」
 苦く笑い、正直に明かす。
「不安だからさ、本部としてはね、サード以上のセカンドが、どんなものだかわからない、それで俺が送り込まれた」
「サード以上?」
「ああ」
「……かいかぶりだと思いますけど」
 そうか? と加持は意外な顔をした。
「ま、一度の出撃くらいで計れるものじゃないんだが」
「そうですよ……」
 あの……、とアスカは加持に訊ねた。
「あたし、日本に行くことになるんですよね?」
「なんでそう思うんだい?」
「だって……、使徒が日本に現れたから」
 はっはっはっと、加持は笑った。
「だからって、日本だけに現れるとは限らないさ、万が一のことを考えれば、エヴァの集中配備もどうかってことになるんだからな」
「はい」
「では、後は君たちで話してくれたまえ」
 追い出すような言葉に、ゲイマンへと敬礼をする。
「では」
 ゲイマンはベアトリーチェと共に、加持とアスカを見送った。
 それから、振る。
「……意外だな」
「はい……、リョウジもそう感じたようでしたが」
「天才ならではの謙遜……、ではないな、確かにそう思っているようだったし」
 ──自分よりも、サードは上であると。
「それからもう『二つ』」
「……そうだな」
 一つは、加持が知っている男に似ているというものだ。
 アスカの記録に、そのような男の姿は出て来ない。
 それからもう一つ、それは日本に行くことになるのかと言う発言だった。


 セカンドは、ことエヴァに関しては、まるで予言めいたような発言をする。
 これはもう、ドイツ支部では、半ば共通の認識となって蔓延していた。
 それだけに、真実味を持って、受け止められる。
「アスカ!」
 アスカの部屋に飛び込んで来たのは、アレクだった。
「日本に行くって、本当なのかい!?」
「え?」
 きょとんとする。
「なによ、急に……」
「急じゃない、急なのは、君の方だ」
 大袈裟に言って、アレクは部屋へと押し入った。
「どうして今まで隠してた? 日本に行くことになるって」
「ちょっと待ってよ、なによ隠してたって?」
「今更そんなことを言うのかい!?」
 アレクは失望と落胆と憤りを混ぜ込んで訴えた。
「君がエヴァがらみの予言を行うのは公然の事実だよ、出ていたんだろう? その予言も」
 あんたねぇ……、とアスカは頭を痛くした。
「あたしは別に、予言をしているつもりなんてないわ、ただ当たり前の予測から、当然帰結するだろう結論を先読みしているだけのことよ」
「……じゃあ、日本には行かない?」
 いいえとアスカは否定した。
「行くことになると思う」
「どうして!」
「使徒は……、現れたわ、ここじゃなく、日本に」
 わからない、という顔をするアレクに、アスカは語った。
「考えてみて? エヴァはここにもあるのよ? なのに使徒は日本の本部を襲った……、それには理由があるはずよ」
「理由?」
「そうよ、例えばエヴァが二機あったからだとか」
 エヴァが誘因となって使徒を引き寄せているというのかと驚く。
「そんなことが?」
「ないかもしれない、でもあるかもしれない……、あたしはあると思ってる、だからエヴァは分散するよりも、一極に集中させた方が良い、電気の供給を必要とする、拠点防衛用のエヴァで使徒を迎撃するには、それが一番の選択だもの」
「だから……、呼び掛けがあれば、行くと?」
 アスカは、それがあたしの仕事でしょう? と口にした。


−Gパート−


 ──穏やかな時が過ぎ去った。
「ここに居たの?」
 シンジは薄く瞼を開いた。
「綾波……」
 校舎、屋上、昇降口の屋根の上。
 コンクリートが日の光によって焼けている、シンジはそんな場所に横になっていた。
 シャツが汗を吸って透けている。
「なに?」
「別に……」
「別にって」
 シンジは眉根を寄せて、怪訝なものを浮かべた。
 意味も無いのに、隣に座ろうというのだろうかと、膝の裏にスカートの裾を折り込んで。
 ここは決して、居心地の好い場所ではない、風は強いし、日差しもきつい。
(ニガテなんだよな、綾波って……、なに考えてるのかわからなくてさ)
 シンジは横向きになろうとして、込み上げて来たおかしさに顔を歪めた。
 笑ってしまう。
「なに?」
「え?」
「いま、笑ったわ」
「うん……」
 ごろんと仰向けになって、頭の下に腕を敷く。
 それから素直に打ち明けた。
「昔は……、綾波が好きだったのになって思ったんだ」
「え……」
 明らかに色素の薄い肌が色付いた。しかし、シンジは気付かない。
「でも……、あれって、何を話しても、何をしても、綾波は気にしないでいてくれたからなんだよね、だから居心地が好かったんだ」
「……」
「普通なら、邪魔だなって思ったよね? うるさいって思うよね? でも綾波は何も気にしないでくれた。喜んでもらえたことも、楽しんでもらえたこともなかったけど、……できなかった僕が悪いんだけどさ、でも特別嫌われたり、笑われたりすることがないってわかってたから、安心できてたんだよね、ほっとしてられたんだ」
 なのに、今は。
「今は……、気になって仕方ないんだ。綾波はどう返して来るんだろうって、返事をしてくれるんだろうって……、それを気にすると、気になって……、だから、綾波は変わったんだなって思ったんだ。僕の知ってる綾波じゃなくて、うまく言えないけど、適当にかまってくれる人の方が落ち付ける僕って、おかしいなって」
 レイは、そう……、と口にした。
「なら、わたしが居ると、落ち着かないのね」
「ごめん……」
 本当にごめんとくり返そうとした時、二人のポケットでコール音が鳴り響いた。


 ──ウウウウウ……。
 警戒警報が市中に響く。
『ただいま、東海地方を中心とした。関東中部全域に、特別非常事態宣言が発令されました。速やかに指定のシェルターへ避難して下さい、くり返します……』
 街中に警報とアナウンスが響き渡る、そして遠く、陽炎立つ洋上より、巨大な怪物が上陸を果たそうとしていた。


 ──ネルフ本部。
『目標を光学で捕捉、領海内に侵入しました』
「総員第一種戦闘用意っ!」
『第三新東京市、戦闘形態に移行します』
『兵装ビル、現在対空迎撃システム稼働率48%』
「完璧ではないけど、上々ね……」
 それでも不満は残るとミサトは顔に表した。
(ケチ付けてても、仕方ないんだけどさ)
 それでも援護すらできなかった緒戦に比べれば雲泥の差なのだ。
「シンジ君! 用意は良い?」
『はい……』
 ミサトはシゲルに目で通信を切るよう指示してから、リツコへと問いかけた。
「どうなの?」
「いけるわ、少なくとも、前回よりは安定しているから」
「この間みたいなことにはならないのね?」
「ええ」
 少しばかり安堵する、暴走の危険は低いかと。
 またビルを落とされては堪らないからだ。が……。
(初号機は未だシンジ君のコントロール下にある、か……)
 訓練でも、十分に使いこなせるようになっている。
 使徒に対する恐怖心も薄れているはずだ。だが楽観はできない。
(十年の時をかけて開発とデバッグを行って来たシンクロシステムのプログラムを、たった三週間で改訂できるはずがないものね)
 となれば、シンジ次第で、またも前回同様の事態になりかねない。
「それにしても」
 ミサトは口を尖らせた。
「司令の留守中に、第四の使徒襲来か……、思ったより早かったわね」
 マコトが受け答える。
「前は十五年のブランク、今回はたったの三週間ですからね」
「こっちの都合はおかまいなしってところね、女性に嫌われるタイプだわ」
「……」
 ふと、妙な気配をミサトは感じた。
「なに? 言いたいことでもあるの?」
 リツコである。
「いえ……、つまらないことを思い出しただけよ」
「なによ? 気になるじゃない」
 じゃあ言うけど、と周りを気にする。
「携帯の番号を渡されて、暫くは期待して待って……、音沙汰無しかって油断したところに急な訪問をかけられて、ころっと落とされた子のことを思い出したのよ」
「……」
「どこかの誰かの、得意な手口だったじゃない?」
 あ、そっと、ミサトは何故だか不機嫌になった。


「へっくしゅ……、風邪でも引いたかな?」
 ──ドイツ支部。
 くしゃみをした加持に、いたわりの目を向けたのはベアトリーチェだった。
「日本は暑いそうですからね……、ドイツとの気候の差にはまいりますでしょう?」
「はは……、そうは言っても、世界中飛び回ってる身ですからね、この程度でまいるような柔な体じゃないはずなんですが……」
 おかしいなぁと首を捻った。
 二人が見ている画面では、派手に爆発が広がっている。
 宙を漂う巨大な原始生物に、何十と言う爆発物が叩き込まれているのだ。
「さすがは日本だな、あれだけの『税金』を惜し気もなく注ぎ込めるとは」
「本部が接収……、いえ、臨時徴収したはずですが」
「どこから金をしぼり出したのか、気になるところだが」
 ゲイマンとアンドルフが毒を吐く。
「委員会からの出撃命令が出たようですな」
「当然だろう、現有兵器の無力さは前回で証明済みだ。憐れだな、一縷の望みさえ断たれているというのに、それでもあがこうとする様は、見るに忍びない」
「軍は敵に対して戦うものです、そして軍はそれぞれの分野に対する専門の部隊によって成り立つものです、我々ドイツ軍はネルフを軍の一部として取り込むことで、対使徒戦に関しては任せられるよう融通を付けておりますが、それが戦略自衛隊と本部には当てはまらないということなのでしょう」
 ふむと頷く。
「戦略自衛隊には、対使徒専門の部隊が無いか」
「ですから総力戦となるのです」
 ドアが開いた。
 ちらりと目を向けて、二人は誰が入って来たのかを認識した。
「やあ」
 だが、挨拶したのは加持一人だった。
「遅かったな」
「……宿舎からここまで、どれだけ遠いと思ってるんですか?」
「ははは、悪い」
「そう思うなら、もっと腕の良い運転手を用意して下さい」
「おいおい、ドイツ支部には、そんなに人材が……」
 言いかけて、加持はアスカの微妙な態度に気がついた。
 それと、背後で苦笑しているアレクにもである。
「まさか……」
「そのまさかです!」
 まったくっとアスカは喚いた。
「迎えを待つより早いって……、無理矢理ですよ、無理矢理!」
「はは……、そりゃ災難だったな」
「ですよ! こういうこともあるんだから、誰か張り付けておいてくれたっていいのに」
「諜報部は? 保安部とか……」
「居ますよ? でもそれは」
 ベアトリーチェが口出しする。
「リョウジ? このようなことがある度に姿を現していては、警備体制を知られることになるとは思わない?」
「なるほど……」
 だが、と加持は考えた。
「確かに、これからはこんなことも増えるだろうしなぁ、そうだ」
 加持はぽんと手を打った。
「これも仕事だ。明日からは俺が待機してやるよ、アスカの傍でな」
「え……」
「どうせ他にやることもないし、良いだろう?」
 な? っとウィンクする、そして赤くなってしまったアスカに対して、ベアトリーチェとアレクが同時に、非常に面白くないと、不満に口を尖らせた。


−Hパート−


「これでわかるね……、君が日本へ行く必要があるのかどうか」
「……」
 モニタの向こうで、使徒が悠々と街に迫る。


「ちえ」
 これからまさに、戦禍に包まれようとしている街の地下シェルターに、大勢の子供たちの姿があった。
「ちっ、まただよ」
「なにがや」
「見ろよ、ほら」
 少年はデジタルムービーカメラの液晶画面を突きつけた。
 アンテナを伸ばして、チューナーをオンにしているのだが、テレビ放送は情報を規制してしまっている。
「また文字ばっかし、ぼくら民間人にはなんにも見せてくれないんだ」
「おまえ、ほんっまに好っきゃなあ、こーゆーの」
 きらりと少年は眼鏡を光らせた。
「トウジ」
「なんや?」
「ないしょで外出ようぜ」
 鈴原トウジは絶句した。
「あほか! 外出たら死ぬやないか!」
「バカッ! し〜〜〜っ」
 周りを気にする。
「こんなビッグチャンス、次にいつチャンスが来るかわからないじゃないか、それに……、転校生が居ないし」
 トウジはきょろきょろと辺りを見回した。
「そういやそうやな」
「気にならないか?」
 鼻息を荒くする。
「あいつの父親って、ネルフの司令だろ?」
「綾波の保護者やっちゅうんやから、そうなるわな……」
「じゃあ綾波と碇ってどこに行っちゃったんだよ? 自分たちだけもっと安全なところか?」
「ほんまかい!」
「ばっか、そんなわけないだろ? だったらどうして、どこに行ったんだよ?」
 声を潜める。
「思うんだけどな……、碇って、ネルフのパイロットなんじゃないのか?」
「マジかい?」
「綾波だってそうなんだから、違うって言い切れないじゃないか」
 それにと一つ、付け加える。
「碇の、綾波との婚約疑惑、晴れたわけじゃないだろう?」
「う……」
「あの時の綾波の怒り方って尋常じゃなかったぜ? おかげでみんな怖くてその話題に触れられなくなってるだろう?」
「そやなぁ……」
「だったらさぁ、綾波の婚約者かもしれない奴が乗ってるかもしれないロボットの戦いって、見ておいても良いんじゃないのかな?」
 少年、ケンスケの言い草に、トウジは呆れつつも降参した。
「お前……、ホンマ自分の欲望に素直なやっちゃな」
「……とかなんとか言っちゃって、負けず嫌いなんだからなぁ、トウジも」
「あほぉ! そんなんや……」
「あ、委員長、俺らトイレね!」
 口を塞いで無理矢理移動する。
 委員長こと洞木ヒカリは了承したものの、何か怪しいなぁという目で二人を見送った。


「税金の無駄遣いだな」
 酷評したのはコウゾウだった。
「先日あれだけの弾薬を巻き上げたというのに、まだこれだけ残していたとはな」
「在庫処分では? 国会が臨時予算を了承したところですから」
 ミサトの言葉に報告が被る。
「委員会からエヴァンゲリオンの出動要請が来ています!」
 うるさい奴らねとミサトは吐いた。
「言われなくても出撃させるわよ、良い? シンジ君」
 リツコが引き継ぐ。
「敵のATフィールドを中和しつつ一斉射、練習通り、大丈夫ね?」
『はい』
 シンジの返事に、ミサトは思い切るように大きく叫んだ。
「エヴァ初号機、発進!」


 ミサトの声に身構える、エレベーターシャフトの壁面が高速で下方に流れる、そして地上へ。
「くっ!」
 シンジはロックが外されるのももどかしく動かした。
「銃を」
 武器格納庫から取り出し構える。
「ATフィールド中和、えい!」
 気の抜けるような気合いの声、だが、エヴァが操るパレットガンの迫力は凄まじかった。
 火花が散る、砲身が赤く焼ける、そして。
「バカ! 弾着の煙で敵が見えない!」
 使徒の姿が爆煙に包まれる。
 シンジはミサトの喚きを完璧に無視して銃を撃ち続けた。
(いける!)
 それは確信に近かった。
 心のどこかに不安はあった。昔の記憶では通じなかった覚えがあるから。
 しかし今は違う、ずっと強力なATフィールドを展開できる、中和できる。
 十分敵を『削って』いるという手応えがあった。
「一旦攻撃を」
「いえ、そのままよ」
「リツコ!」
 リツコは無言でコンソールを操作した。とたんにメインモニターの映像に、解析画像が重ねられる。
 幾重にも線が編まれて、ワイヤーフレームが形成される、それは煙の向こうの使徒の姿を浮き彫りにするものだった。
「全弾、命中してるの?」
「それもコアを中心としたごく狭い範囲にね」
 使徒の動きに合わせて、初号機が微妙に銃口の角度を変える。
「凄い……」
「まったく、どうやっているのか興味ぶか……」
 しかし、余裕もそこまでだった。
『うわっ!?』
「シンジ君!」
 煙を切り裂き、二本の鞭がシンジを襲った。


−Iパート−



「くぁあああああああ!」
 シンジは声を振り絞り、自分がどれだけ熱血しているかもわからないで畜生と吼えた。
「こんの!」
 まるでアスカのように叫んで鞭を弾く。
 右腕で、二本揃えて横に払った。
「シンジ君!」
「損害は!」
「腕部固定具破損! ですが本体の損傷は軽微です!」
 リツコはマヤの言葉にモニタを凝視した。
 エヴァの右腕からは血が滴っている、しかしそれは破れた外皮の下にできた『擦り傷』から滲み出している血であった。
 その血が外皮でもある特殊素材に弾かれ、滴となって垂れ落ちているのだ。
「なにをしたの?」
 リツコはマヤに命じて調べさせた。
「マヤ! 接触時のデータを」
「はい!」
 素早く手元に表示させてリツコを呼ぶ。
「これです」
「ATフィールドね」
「どういうことなの?」
 ミサトの声に振り返る、ミサトは鞭を振り牽制している使徒から目を離してはいなかった。
「シンジ君がうまくやったの?」
「そうなるわね」
 説明する。
「鞭を上手く『滑らせた』のよ、腕部を覆うATフィールドでね」
「ATフィールドで?」
 ミサトはそんな便利なのものなのかと心中で思いながら、口からは別のことを問いかけた。
「じゃあ次を期待するわけにはいかないのね?」
「偶然か、それとも反射的に展開された防衛本能の成せる技なのか、どちらにしろ意識しては無理でしょうね」
 それだけ聞けば十分だった。
「シンジ君」
『はい』
「距離を取れる?」
『逃げろって言うなら……、でも』
「気持ちはわかるけど、素手じゃどうしようもないでしょう?」
 エントリープラグの中、シンジはじくじくと痛む右腕に目を向けた。
 プラグスーツを着用しているために確認はできないのだが、『被害』は直接伝わって来ていると感じられた。
(どうも上手くいかないよな……)
 使徒に注意を戻す。
 ようやくまともに動かせるようになったかと思えば、今度はフィードバックが過剰に響いている。
(あんなことには、もうなりたくないんだけどな……)
 嫌な記憶が脳裏を過った。
 忘れられるはずが無い、覚えていた。
 のちに親友になるクラスメートに殴られ、ふてくされたまま出撃した。
 その後のことは、今はもう良い。
『ケンスケに乗せられてしもうたんやけどな』
 そう言って笑って話してくれた。どうしてあの時、シェルターから出て来たのか、その訳を。
 だから、今度も同じバカをやるとは思えない、出て来る理由は無いはずだから、だから、そのことに関して、何かを心配している訳じゃない。
(でも)
 思わず腹筋に力を入れてしまう。
 撃ち抜かれた。
 貫かれた。
 今のフィードバックの度合から見て、あのような痛みを受けた場合、そのまま意識を刈り取られかねない。
(電気ショックは……、嫌だな)
 そう思うのだ。
 もし戦闘中に意識を失ったのなら、非常事態だとしてそういう『スイッチ』を押されかねない。
 気付け代わりに。
(なら……、なんとかするしかないんだけど)
 シンジは誰にも聞かれないように呟いた。
かあさん……


「おお!」
 その頃、シンジの信用などなんの関係も持たずに、二人の少年が穴蔵から這い出し、驚いていた。
「すっごいすっごいすっごい! すっごいじゃないかぁ!」
 ほんまや……、と、鈴原トウジは唖然としてしまっていた。
 街中を巨大な化け物が鞭を振り回しながら徘徊している、それをバックステップでかわしている紫の巨人が、この友人の言うエヴァだろうと悟る。
「なんや……」
 なんだろう? 口にしかけて、できなかった。
 巨人が小器用にかわしているのはなんだろうか? ビルだ。下から見上げれば空に混ざってかすれてしまうほど高かったビルのはずだ。それがまるで柱のようだ。
 それを粉砕する怪物、スケール感が完全に狂う。
 人形の街、玩具の街、まるで現実感が伴わない。
 実際の大きさよりも小さく感じてしまうのは、距離があるから、それだけではないだろう。
 そんな錯覚が、危機感をも喪失させる。


 ──ミサトは叫んだ。
「弾幕張って! リツコ! なにか武器は無いの!?」
 リツコはエヴァの現在位置を横目で確認してから答えた。
「使徒に追い立てられて、武器庫から離れて行ってしまってるわ、このままじゃ」
 先を奪う。
「日向君お願い! ミサイルは使い切って良いから、適当に使徒を誘導して、それから?」
「近接戦闘は避けた方が良いわね」
「何故?」
「考えてみて? 二メートルの鞭なら誰にでも振り回せるわ、打ちすえるんじゃなくて、新体操のリボンのように回すのよ」
「それが?」
「でも十メートルの縄ならどう? リボンのように扱える?」
 そういうことかと臍を噛む。
「重くて……、まともに振ることもできない」
「そう、本当の脅威は」
「それを可能としている本体の膂力か」
 そうよとリツコは頷いた。
「触手の長さを考えてみて、末端をあれだけの速度で振るために動かしているのは腕じゃない、加速させるために振るような運動もできない『筋肉』なのよ? 本体側の筋組織の強靭さは想像を絶するわ」
 ──想像を絶する。
 その響きに、ミサトは初号機のことを思い、重ね合わせた。
(コントロール下に置きつつ、勝つ、できるの? 本当にそんなことが)
 だがやらねばならないのだ。
 できなかった時は、今度もまたシンジの暴走を期待せねばならなくなる。
(どこまで行っても、偶然、偶然、偶然、それを期待してあやかって、嬉しがってるようじゃね……)
 エヴァは金槌と同じなのだとミサトは仮定した。金槌は釘を打つためにあるものだが、凶器にもなる。
 そしてタチの悪いことに、ただ振り回すだけでも十分に利用できるのだ。
(でも意識して訓練通りに扱えれば)
 もっと効率の良い殺傷道具に変貌する。
『もの』は使いようなのだと思考する、ただ。ミサトの頭の中には、未だエヴァをどのような『もの』だとして捉えておけば良いのか?
 そのためのビジョンが、形を整えてはいなかった。
「とにかくシンジ君、ビルを使って上手く逃げて、懐に飛び込んだりしないで、力負けする可能性大よ」
『わかりました』


−Jパート−


「対応が場当たり的だな」
 辛辣なことを口走ったのはゲイマンだった。
「マニュアルがまだできていないのでしょう」
 アンドルフが弁護する。
 言葉遣いが丁寧なのは、加持の存在を意識してのことだろう。
「ふん、能力もなにもかもが未知数の敵相手にマニュアルか?」
 しか、ゲイマンは意図を汲みかね、いつからそんな話し方をするようになったと目で問いかけた。
「アンドルフは前提の違う話しをしているのですよ」
 そんな争いを諌めたのはベアトリーチェだった。
「日本の首相制の限界なのでしょうね、所詮は意見の取りまとめ役でしかない首相は、リーダーとはおそまつにも呼べる代物ではありませんから」
「ただの代表でしかない、それが?」
「はい、筆頭は皆に推挙されただけのお飾りに過ぎませんわ、実権を握っているのは下部にひしめいている多数の民意ですもの、そんな彼らに我ら支部と軍部のような繋がりを持たせることなど」
 わかっているとゲイマンはやめさせた。
「総司令が日本政府の介入を拒絶している理由などはな」
「ならばおわかりになられるでしょう? 本部は実戦を行いながら情報と経験を蓄積し、マニュアルの作成をしようとしているのですよ」
「後手後手に?」
「後のことを考えてね」
 つまりは。
「彼らは勝てるつもりなのでしょう、今回は」


「作戦の順序は了解してくれた?」
 ミサトはシンジを相手にしながら、同時に発令所の全員に向かって問いかけた。
「一斉攻撃による足留め、一時退却、武装して再出撃、それはわかりますが」
 日向はあえてその先を続けた。
「もし、使徒がエヴァを追いかけようとしたら」
「その時はその時よ」
 ミサトはその可能性を認めて全員を不安に陥れた。
「でもね、わたしはむしろその方が願ってもないことだと思っているわ」
「理由は?」
 それは反論する口調ではなかった。リツコである。
「良い? エヴァ射出用のエレベーターシャフトは、ここに直結してるのよ? エヴァが暴走した時のことを考えて、特別厚く隔壁が設けられているここにね?」
「誘い込めれば、それはそれで良しということね」
「硬化ベークライトでもなんでもくれてやるわ、閉じ込めて動きを封じるには、これ以上の檻なんて無いでしょう?」
 そんなことを口走るミサトの気迫は、狂気にも見える。
(僕がもっと上手くやれてればな……)
 シンジはそんなミサトの様子に、自分こそが悪いのだなぁと、自分自身を虐めていた。
 どうにも体が強ばってしまうのだ。何も知らなかったあの頃とは違う、何も考えずにその場の雰囲気と勢いだけで動けたあの頃とは違ってしまっている。
 だらだらと生き直して来た時間が、痛みに対する恐怖心を呼び覚ましていた。
 怖いのだ。
 どうにも。
 だから正面を向いて戦えない、逃げ回ってしまう、距離を取って倒そうとしてしまう。
(僕が負けたら終わりなんだ……、なんて思わないけど)
 あえてそんな情けない言い訳を、隠そうとはしなかった。
(そうだ。認めるんだ。情けない自分を、そうでないとまた逃げ出そうって考えてしまうから)
 言い訳を封じることで、逃げ場を無くし、自分を追い詰めて行く。
 そうして、自分を奮い立たせる、鼓舞をする。
『シンジ君、いい?』
 シンジの頷きに対して、ミサトは頷きを返した。
「作戦、開始!」


 ビル群が左右に開いて、無数の爆発物を放出する。
 正体不明の巨大生物に着弾し、それらは一つの巨大な火球を生み出した。
「お、おい……」
 トウジは呻いた。
「まずいんや……、ないか?」
 普段生活している時には気にもしていなかった。こんな、街中のビルのほとんどが、これほど危険なものだったなどとは。
 ドン、ドンと、爆発の衝撃が音となって轟き届く、空気が震える、焦げ臭い匂いが風と衝撃波に乗って漂って来る。
 ──だがトウジが脅えたのはそのようなことにではなかった。
 巨人が動くのに合わせて怪物も動いたのだ。爆発の余波を食らって見慣れた街が壊れていく、なのに怪物は全く小揺るぎもしていない。
 平然と動き、巨人を追いかける、それも、『こっち』に向かって。
「に、逃げよう!」
 カメラごしに見ていたからか、今ひとつ危機感の乏しかったケンスケも、ようやくその危うさに気がつき、慌て出した。
 二人は身を翻すと、転がるように山肌を走った。雑木を抜けようと幾つもの茂みに突っ込み、最短距離でシェルターの入り口に戻ろうとした。
 爆発音が近づいて来る、自分たちの影が閃光によって前に伸びる。
 後少し、もう少し。
 やっとのことで辿り着き、二人は安堵の吐息を洩らし掛けた。入り口へと飛び込もうとして……。
「こらぁ!」
 ──女の子の声。
「勝手に外に出ちゃだめ……」
 ──クラスメートの声。
 委員長の声。
 ──洞木ヒカリ。
「あ……」
 二人の背後に、何かが落ちた。
 それは爆発し、炎が舐めるように広がった。爆風が全てを薙ぎ払った。
 ──見慣れた二人が、火と土砂の中に消え去って……。
 ヒカリは、今、自分が何を見たのかわからなかった。
 二人がどこに消えたのかわからなかった。
 自分がどうして突き飛ばされるようにして通路に転がっているのか、体が痛いのかわからなかった。
 どうして髪が縮れているのか、独特の焦げた嫌な匂いがしているのかわからなかった。
 ヒカリを突き飛ばした爆風が、シェルターのドアを押し閉じる。
 ガコンと大きな音が鳴って、ヒカリは暗闇の中に閉ざされた。
 それでも彼女の瞳には、赤と、白と、黄色の中に溶け込んでいった。二つの黒い人影が、はっきりとした形で焼きついていた。
いやああああああああ!


「ミサトさん!」
 シンジの叫びに合わせて射出用のゲートが口を開く。
 しかし回収途中にハプニングに見舞われた。
「ぐっ!」
 シンジは思わず喉を押えた。
 逃がすものかと使徒が『手』を届かせたのだ。その鞭はちょうど穴の中に消えようとしていたエヴァの首を巻き付き捉え、絞め上げた。
「降下中止!」
「だめですっ、間に合いません!」
 マヤは泣くように叫んだ。
「ぁああああ!」
 シンジの喉にもはっきりとした痣が浮かび上がる、降下するエヴァの重量に負けて使徒は引きずられ、エレベーターの入り口に横倒しになって引っ掛かった。
 そのため、初号機はシャフトの途中で首吊り状態を余儀なくされた。
「初号機の首が折れる!」
「その時にはシンジ君も死ぬわ!」
「エレベーターを上げて早く!」
「やってますけど!」
 ──運は使徒に味方する。
 降下途中のベースが急ブレーキに火花を散らす、停止し、再び上り調子になろうとしたところで、ギチギチと異音を放って停止した。
「どうしたの!?」
「だめです! 電磁レールに歪みが生じて引っ掛かってます!」
「なんですって!?」
 シンジは喘いだ。
「カッ、ハッ」
 鞭を掴もうとして、鞭と喉の間に隙間を作ろうと指を入れようとして、必死になる余り首の皮を傷つける。
 皮が剥け、血が滲む。
(ちくしょう、ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう!)
 吊り上げられて、顎を上向きにされて、シンジは嫌でも上を見るよう義務づけられた。
 涙に潤んで良く見えない、それでもここが暗い穴の中で、見上げた先に光の世界があることはわかった。
(ちくしょう……)
 ──死ぬ、かな? これは。
 そう思った時、何かが見えた。
 それは天井の蓋となっている使徒の腹にある光球だった。シンジの目には、何故だかそれが自分を嘲り笑っているように見えてしまった。
(ちっく、しょう!)
「あああああ!」
 何も無いというのに、何かを引き剥がそうと自分の喉を掻きむしっていた。
 だからこそ空を切り、ただ喉を傷め付けるだけに終わってしまっていた。そのシンジの手が、指が、今度は確かに何かをはっきりと掴んで見せた。
 ──爪の間の首の肉が、ぐっと深く詰まるようにして食い込んだ。
 エヴァの目の輝きが変わる。
 ガクンと額部ジョイントが外された。
 壊れたのではない。
 ロックがプログラム的に排除されたのだ。
「え、エヴァが……」
 マヤは呻くように報告した。
「拘束具の除去を要求しています、MAGIにアクセス、駄目です、信号拒絶できません!」
 ──またなの!?
 ミサトが喚かなかったのは、周りに対する配慮ゆえのことではなかった。
 またも事態は自分たちの手の届かぬ世界に行ってしまうのかと言う……。
 恐れ故に抱かされた。無念さがためのことであった。


−Kパート−


 ──どうして暴走する前に、シンクロカットと叫ばなかったのかとミサトは悔いた。
「シンジ君!」
 ミサトの声はもう届かなかった。
 初号機の目が白熱する。
 内側から吹き出すエネルギーが装甲を吹き飛ばす。
 そして爆発。
 熱の全ては奇妙な形に捻り上がり、天を鋭く突き上げた。
「あ、あ……」
 呆然とする。
「どうして……」
 炎の中に踊り砕ける使徒の影。
「どうして!」
 四散する中に内蔵とおぼしきものが千切れ飛ぶのが確認できた。
 炎は伸び上がったところで左右に割れて、十字の形を作り上げた。
「どうして初号機から『あの形』の火が噴き上がるのっ、リツコ!」
「知らないわ! わたしだって、そんなこと……」
 さらに炎は形状を変える、炎から雷光へ、のたうちながら左右に別れ、地に倒れた。
 電磁の翼を形成する、形状の固化に伴い中央に引き上げられて来たのは、本体である初号機だった。
「悪魔……」
 粉塵と炎が風に噴き上げられて渦を作る。
 黒煙の嵐の中に初号機の目と口のものとおぼしき光が見えた。
 翼とともに小揺るぎもせずに座している。
 風にビルが倒れる、砕ける、山が削れる、木が巻き上げられる。
 嵐を現出し、初号機はゆっくりと浮上した。が。
 ──ガクン。
 そのまま天に登るのかと思われた初号機であったのだが、突如力尽きたのか糸の切れた人形のようになって落下を始めた。
「危ない!」
 衝突にビルが砕ける、だがそれがクッションとなって、初号機の被害は最小限に食い止められた。
 竜巻が散る。
 青空が戻る。
「目標は!」
 引き裂かれた肉片が破壊された街並みを彩っていた。
「反応消失!」
「地上班を出して! パイロットの回収よろしく」
 ミサトは前髪を掻き上げて、ふうと一つ息を吐いた。
 ぬちゃりと嫌な感触を手のひらに感じる。
 ねっとりとした汗をかいていた。
(あの翼……)
 ミサトは記憶の中に封じていたものを引き出した。
 それは三十年近い彼女の人生の中で、最悪とも思える光景を彩っていたものに非常に良く似ていた。


 ──避難勧告が解除された。
 だが人々は街に出て唖然とする他なかった。
 ビルが、家が、山までも無くなってしまっている、良くても形を変えていた。
 どこにも元の姿が無い、あのそびえ立っていた巨大なビル群も、無残に倒壊して粉塵の山に化けてしまっていた。
「う……」
 それでも街中に初号機の姿は無かった。回収され、今はケージに格納されている。
 人々が忙しく整備に駆け回っている、パイロットは既に医務局へと運ばれていた。
 無意識の内に打とうとした寝返りに痛みを感じて、シンジは薄目を開いてしまった。
(綾波……)
 ぼやけた視界に人の影が覗き込む。
 シンジは前にも、どこかで似たようなことがあったなぁと、おぼろげながらに思い浮かべた。
(あれは……)
 ──全てがぼやけた黄金の世界で。
 瞼を閉じると、目元を指で拭われた。
「なに泣いてるの?」
 指を払いのけ、自分で必死に拭い去る。
「辛いの?」
「違う、怖かったんだ」
「そう……、でも勝ったんでしょ?」
「使徒なんてどうでも良いよ、前はこんなことなかったのにっ、終わるのが怖いなんて!」
『彼女』は顔を手で覆い隠してしまったシンジに対して、とても優しく語り掛けた。
「死にたくなかったのね」
「そうだよ、勝ちたいとか、そんなのどうでも良かった。ただ腹が立ったんだ。なんでって、なんでお前なんかのためにって、そう思ったら……、ごめん、後は良く覚えてない」
「そう……」
「なにやってるんだろうね、僕……」
「……」
「学校でも、無難に、何もないようにって過ごしてる……、でもちょっとだけ期待もしてるんだ。何かが起きないかって」
「それは突然パイロットに選ばれるようなことではなくて?」
「違う、僕が望んでるのは、もっと普通の……」
「普通?」
「うん……、母さんが死んで、父さんに捨てられてから、ずっと迷惑をかけないようにって、そんな風に自分を抑えてた。そんなこともうしなくても良いようにって、弾けるみたいな……」
「ちょ、ちょっと待って?」
『その人』は突然に焦った声を発し、戸惑った。
「誰が死んだって?」
「え? だからかあ……」
 シンジは何かに気がついて飛び起きた。
「母さん!?」
「え? ええ……」
 目を丸くして驚いている。
 ずっとレイだと思って話していた相手、それは……。
 死んだはずの、母だった。


『だって母さんはあの時事故で!』
『え? ええ……、だからその後入院することになったのよね、あの人はシンジは親戚に預けたって言ってたけど』
 そう言えば墓参りとか葬式をしなかったなぁと思い返す。
『でも……、父さんは』
『ああ、シンジ、また騙されたのね? 昔っからよく騙されてたものね』
『え……』
『また嘘吐いたなぁってお父さんに怒って……』
『……』
『お母さんもねぇ……、やっと第三に戻って来たばかりなのよ、今日までアメリカに居たから』
『アメリカって……』
『向こうでもエヴァを作ってるの、それでね……、ああ、それでどう? レイは』
『え?』
『あの子はあの子で思い込みが激しくて……、お父さんが冗談で、お前は将来シンジのお嫁さんになる人間なんだって言ったの、信じ込んじゃってて』
『はぁ……』
『まあそれはあの子の頑張り次第だから好きにすれば良いんだけど』
 それよりもシンジは母が着ているスーツのことが気になった。
『母さん、それは……』
『うん、プラグスーツ、さすがにこの歳になるとちょっとねぇ……』
 恥ずかしげに身をよじる。
『でもシンジが気絶してるんじゃ、わたしかレイが初号機を『片付ける』しかないでしょう? それでね』
 シンジははっとした。
『じゃあ父さんが言ってたパイロットって!』
 うんとユイは肯定した。
『お母さんのことよ』
 暗くなった病室、じっと天井を見上げていたシンジだったのだが、思い起こしたようにベッドの中から抜け出した。
 部屋を出て、ロビーへ、夜の静けさの中、電話機の前に立つ。
 ネルフ本部内の医療施設だからか、お金を取られるようなことはない、シンジは覚えていた番号をプッシュした。
 ──初めて、彼女に電話をかける。
 数度の呼び出しコールの後に繋がった。
『はい?』
「アスカ?」
 さすがに驚いたようだった。
『シンジなの?』
「うん……」
 何を察したのだろうか?
 アスカはシンジに問いかけた。
『そっちもなのね?』
「アスカもか……」
 二人の間に確実な何かが通じ合った。
 それ以上の言葉はもう必要なくて……。
 お互い、頭の中で、架空の人物を相手に会話をした。
 自分一人で悩み続けて。
 相手の息遣いだけを聞き続けた。


 てっきりそうだと信じ込んで来た歴史と言う名の舞台が根底から崩れ去る。
 そうなると僕は何のために何をして来たんだろうと言う不安感のみに苛まれた。
 ──誰か僕に優しくしてよ。
 よほどそう口にしたかったのだが……。
『シンジぃ!』
『うわ!』
『ごめんねぇ! 寂しかったでしょう? 十年分くらい甘えたっていいからねぇ!』
『か、母さん、恥ずかしいよ、やめっ』
 ──ガン!
『いったぁ! 蹴った? レイ!』
『『それ』、わたしの』
 睨み合いに発展する。
 シンジは苦悩の末に溜め息を吐いて、おやすみと口にして電話を切った。
 ──誰か僕に優しくしてよ。
 そんなことを言えばどうなるか?
 何をされるか、何をやらされることになるのか?
 とにかく怖くて、言えなかった。

−第ニ話 了−


[BACK] [TOP] [NEXT]