「そうなのよぉ、ほら、懐いてくれないって言ってたじゃない? あれって自分は捨てられたんだって思ってたらしいのよねぇ。ほんとゲンドウさんもシャレにならないんだから、ちゃんとフォローしておいてくれればよかったのに」
 シンジは母の電話に聞き耳を立てて溜め息を吐いた。相手はどうやら自分が世話になっていた先の家のおばさんらしい。
 拗ねていた。母は死んだのだと思っていたから、その心の壁が養父母に苦手意識を植え付けてしまっていたらしい。
(結局悪いのは僕か)
 あの待遇の悪さは自業自得の結果だったのだ。そう思うと、鬱になって、シンジはそっと、家を出た。



第三話、死にそうな不吉



「家出!? シンジ君が!?」
 保安部に連絡したのと喚こうとするリツコを制し、ミサトは大丈夫だからと安心させた。
「ちゃんと保護しておいたから」
「保護って……」
「うちに連れこんだのよ、ついでに掃除を頼んどいたわ、何かやってる方が気が紛れるだろうしね」
「そう……」
 まあそれも仕方のないことかという共通の認識が流れた。
「まあ、無理もないわね、死んだと思っていたお母さんが、実は生きていただなんて」
「あたしもさぁ、変だとは思ってたのよね、離婚してるくらいに思ってんのかなぁとは思ってたんだけど、まさか死んでるなんて信じてたとはねぇ」
「誰も説明しなかったの?」
「説明なんてする必要ないでしょ?」
「それもそうね……」
「改まってさ、あなたのお母さん、生きてるからね? なんて変じゃない、預けられてた先でも、ただ拗ねてるだけだって思われてたらしいわ」
「酷い話ね」
「司令も司令よ、嘘を吐くならフォローしとけってのよ」
 それでとミサトは本題に入った。
「あれ、調べておいてくれたんでしょ?」
「これよ」
 リツコは紙を一枚手渡した。
「MAGIから記録を抜いておいたわ、アスカとシンジ君の通話記録」
 ミサトは目を通して驚いた。書面一枚の十分の一も埋まっていない。
「これだけなの?」
「それで全てよ」
 僅か数行で書き記されてしまう会話の内容。
「悪いわね、あたしの権限じゃ手に入んなくてさ」
「それはこっちだって同じことよ、チルドレンとエヴァに関係する考察という名目で、やっと閲覧許可を取り付けたんだから」
「それでリツコ博士としての見解は?」
「目立って怪しい点は二つよ」
「どこ?」
「一つはシンジ君、迷わずアスカの携帯電話に連絡を入れたの」
「それのどこがおかしいの?」
「おかしいわ、だってシンジ君がアスカの連絡先を知るはずがないもの」
「前に電話があったんでしょう?」
「どこから?」
「え?」
「それはどこからかけられたものなの?」
「どこって……、そっか」
 不審な点に気がついた。
「そういうことか」
「ええ、確かにアスカの携帯電話は、MAGIのオンラインを通じて世界中どこでも使えるようになってはいるわ、けれどそれだけにセキュリティも固いのよ、以前の電話でその番号が通知されているはずがないのよ」
「なのに知っていた」
「ええ、覚えていたからと言っていたけど……」
 それともう一つと、不審な点をほのめかす。
「シンジ君にね、訊いてみたのよ、だからって、どうしてその番号がアスカに直接通じると思ったのかって、アスカは寄宿舎に住んでいるのよ? 寄宿舎備え付けの電話にかかったなら? ドイツ語で仲介されたとしたら? アスカは日本に住んでるって思ってたの? 色々と質問したけど戸惑ってたわ、どうしてその番号がそんなところに通じるなんて話になるんだろうってね?」
「……」
「でもそんなことは些細なことに過ぎないわ」
「なに?」
「重要なのはシンジ君の反応よ」
「だからアスカのことわかってるって……」
「そっちじゃないの、ネルフに対してよ」
「え?」
「わからない? あなたたちの会話は全て盗聴させてもらいましたって、伝えたのよ?」
「あ……」
「なのにシンジ君は、まるでそのことを当たり前の事実のように受け入れて反応したわ、嫌悪もなにも示さずにね」
「そっか……」
「監視されてることを知ってる、変じゃない? 誰か話したと思う?」
「調べてみる価値はありそうね」
「そうね……」
 ミサトは呻くようにして呟いた。
 やはり普通に見えるシンジもまた。エヴァに関わるものに対しては、どこか普通ではないのだな、と。


−Bパート−


 使徒が四散する映像に、誰もが息を飲んで顔を強ばらせた。
 何度も目にした映像だというのに、頬の引きつりを止められない。
 使徒の頑強な肉体を千切り飛ばし、血と肉が乱舞する中を、狂気の鬼が浮上する。
 ──笑っている。
 ごくりと生唾が飲み下された。
 何よりも恐ろしいのは……。
「翼」
 老人達は、委員長の言葉にぎくりとした。
「これを発現と見るのは早計だな」
 末席に控えていたゲンドウが、彼の言葉に注釈を加えた。
「全てはサードのコントロール下で引き起こされた事象です」
「そのサードはお前の息子ではなかったか?」
 鷲鼻の男の揶揄に不敵な笑みを浮かび上げる。
「お褒めの言葉として受け取りましょう」
「ふん! 大体だな、戦闘指揮と指示! それに作戦そのものが稚拙過ぎるのではないのかね!?」
「だが有用な人材を組み込むわけにはいかなかった」
 別の老人が落ち付けと諭す。
「知恵の働く者は、組織に対し疑念を抱き、探りを入れようと動き出す、現在のネルフの人事は淘汰による結果だよ、それは我々の認めたところでもある」
「その通りだ。この僅かな時間でネルフを成立させるには、碇の強引さは必要だった」
「使徒は来た。そして今更の人事は無用の混乱を引き起こすだけだ。組織の成熟を待つ時間ももはや残されてはおらん」
「ならば言及すべき問題は、エヴァンゲリオン初号機のこれであろうな」
 皆の目が注目をする。
「予兆……、と見るべきだろうな、覚醒の」
 ふうむと一斉に唸り声が上げられた。
「今しばらくの時間はあるということか」
「やはりサードは遠ざけるべきであろうな、セカンドがそうであるように」
「チルドレンを?」
「そうだ。エヴァのパイロットは『初期計画』の通りとする」
「わかりました」
「弐号機の接収についてはドイツ支部長との間で決定しろ、委員会は関与しない」


「……わかった。わぁかったから」
 ──ドイツ支部。
 ソーセージとビールが出れば極上とされる土地柄だけに、ネルフのラウンジは非常に好評を博していた。
 日本色が強く、無意味に清潔であり、整頓されていながらも、くつろぎを得られるだけの騒々しさも混在している。
 そしてなによりも豊富なメニューが、沢山の客を惹き付けていた。和洋中、この地ではめったに食せないメニューが、リーズナブルに提供されているのである。
 アスカは正面の席で、うどんをすする女性に対し、諸手を上げた。
「つまりママは、アメリカで極秘の研究をするために、ダミーの自分を置いていった。ところがママのダミーは、自分を本物の人間だと思って実験に参加して、そうしてエヴァに汚染されて壊れたと」
「そうよ」
「じゃあなんで帰って来てくれなかったのよ」
「だから言ったでしょ? 極秘の研究をしてたって、一切の外出は禁止! 情報も遮断されててね……、気が狂うかと思ったわ」
 彼女、アスカの母であるキョウコは、シンジの母親であるユイも一緒に居たのだと告げた。
「まあ、外に出て見て驚いたけどね、あたしは死んでることになってたし」
「でしょうね……」
「そりゃあ? アスカのことだから、あたしが死んだくらいのことで、へこたれたりはしてないでしょうけどねって思ってたけど」
「ママ……」
 アスカははぁっと溜め息を吐いて、目玉焼きを切り分けていたナイフとフォークをテーブルに置いた。
「言葉に説得力がないわよ? そんな寂しそうに言われたって」
「だってアスカってかまい甲斐がないんだもん、あたしよりしっかりしてるし」
「はいはい」
「でも……、アレクまで死んじゃったなんてねぇ……」
 とても寂しげに口にした。
「せっかくもう一人くらい作ろうって思ってたのに」
 ぶぅっと吹き出す。
「ちょっと……、やめてよね、子供の前で」
「ん? でもアスカだってもうすぐでしょ?」
「……もうすぐってなによ」
「子供」
「……」
「若い時に作っとくのも良いものよぉ?」
(まさか隠し子なんていないでしょうね?)
 疑ってしまうアスカであった。が……。
(シンジ、大丈夫かな?)
 アスカの中では、まだ以前のシンジの印象が強いのか、想像したのは打ちひしがれて逃げ出そうとしてしまっている姿であった。


「ふふふふふ……」
 その頃、シンジは……。
「ほぉらペンペン、ごはんだよぉ、あ、だめだってば、ちゃんと飛ばないと、大丈夫だよ、人は飛びたいと思って思って、今じゃ月にまで行ってるんだよ? ペンペンは鳥じゃないか、翼だってあるんだ。きっと空高く飛べるはずだよ」
(これは重症ねぇ……)
 殺伐とした食卓で、引きつり笑いをしてしまうミサトである。
(重症と言えばもう一人……)
 レイのことを思い出す。
『……』
『な、なに?』
『……』
『そんな恨めしそうにしないでよ』
(せめて学校には行かせないとねぇ)
 どうしたものだかと頭が痛い。
(もうシンジ君に戦ってもらう必要もないわけだしね)
 ミサトは自分が普通の世界に戻してやらねばならないのだと、そんな具合に、多少むりやりな感じで、使命感をたぎらせた。
 どうにも気合いの篭らない話ではあったのだが……。


−Cパート−


「よし!」
 ミサトは無意味に気合いを入れると、通路を大股で歩き出した。
 向かうはリツコの部屋である。


「あら、ミサト、どうしたの?」
 今は休憩していたのか、いつもとは違ってリツコは柔らかく彼女を迎えた。
 さらには立ち上がって、ミサトのためにコーヒーを注いでやるほど機嫌が良い。
「リツコ……」
「なに?」
「なにか好いことでもあったの?」
「ちょっとね」
「ふうん?」
 なんだろうかと思ったが、機嫌を損ねたくはなかったので、ミサトは比較的素直な態度で、来訪の理由を切り出した。
「ちょっと気になったことがあってね、確認を取りに来たのよ」
「初号機のこと?」
「そっちは『正規パイロット』との調整結果を聞いてからにするわ、シンジ君のことよ」
 リツコは椅子に戻ると、で? と先を促した。
 心持ち表情が険しくなっているのは、仕方のないことだった。
「どのことを聞きたいの?」
「守秘義務と学校の様子、かな? とりあえずは」
 やはりそのことなのかと頷きを返し、まずはとリツコは前置きをした。
「学校の様子については、微妙な問題ね」
「微妙?」
「ええ」
 軽く頷く。
「前回の戦闘はかなり派手なことになったでしょう? それで感情的に危ない方向に向かってる気配があるのよ、少なくとも報告からはそう受け取れるわ」
「ネルフがだらしないせいだって?」
「こっちにして見れば十分過ぎる成果でも、家を奪われた子供にとっては、諦めることなんてできないでしょう? 子供がそうなら、親なんてもっとそうよ」
「シンジ君が犯人だなんて知られたら……」
「気付いている子はいるでしょうね、親の勤務先がネルフだって子も多いんだから」
「伝わってるっての?」
「隠す方が無理よ」
「……」
「それから……、守秘義務って、何が聞きたいの?」
「あ〜〜〜」
 ミサトはぼりぼりと頭を掻いた。それは言いづらいとの意思表示のつもりだったのだが、リツコの視線に結局は負ける。
「ほら……、エヴァに乗ってもらったのって、緊急避難的な意味合いが強かったわけでしょう? ネルフにとってさ」
「それが?」
「後一ヶ月二ヶ月使徒の襲来が遅かったら? その時出撃してたのはユイさんだったわけでしょう? シンジ君はエヴァなんてものに乗ることもなく、レイと一緒に仲良く学校に通ってた」
 なるほどとリツコは頷いた。
「それが二度の出撃のために、束縛しなければならなくなった。そう言いたいのね?」
「そうなのよ……、でも締め付け過ぎるのも問題でしょう? だからあの子に強制しなくちゃなんない守秘義務の範囲を確かめたくてさ」
 リツコは自分で規程を調べなさいとは言わなかった。それはやむを得ないことだったからだ。
 とにかくエヴァに絡むことは微妙な問題が多過ぎて、一々明文化することは不可能だと言えた。昨日までは大したことではないと考えていたものが、今日には重要度が増している。
 そんなことは珍しくもない。
「一口に言ってしまえば……、洩らして良いことは何も無い、これにつきるわね」
「何も話すなって、言えっていうの?」
「もしシンジ君が使徒を倒したことで安っぽいヒーロー願望に囚われているなら、今頃は自分がパイロットなんだって吹聴して回ってるはずよ? それをしてないのは?」
 ミサトは渋いものを口にしたような顔をした。
「誇ってないってことか……」
「シンジ君にとってエヴァはお母さんを殺した仇だったわけだから、それが解消された今となっては、どうなのか……」
 そう言えばとミサトはあることを思い出した。
「ユイさんが助けたっていう男の子たち、どうしたの?」
「仲良く病院で療養中よ、『三人』ともね」


「う……」
 少年は呻きを発して薄目を開いた。
 ぼやけた視界に天井が写り込む、ぐにゃりと歪んでとても気分が悪くなった。
「どこや……」
「起きたか?」
「ケンスケ?」
 鈴原トウジは頭を横向けて、ベッドの上に体を起こし、本を読んでいた相棒を見付けた。
「なんやお前、病人みたいなかっこしおって」
「あのなぁ」
 パタンと本を閉じて不機嫌に返す。
「俺は病人なの、病人」
「ほぉか……」
「それに、病人だってんなら、お前の方がよっぽど重傷なんだぞ?」
「そうなんか?」
 身じろぎをして確かめる。
「……体が動かんわ」
「一週間近くも寝てればそりゃそうなるよ」
 一週間、その長さにトウジは顔をしかめた。
「えらい長ぁ気ぃうしのぉてたんやなぁ……」
「妹さん、泣いてたぞ? このまま起きなかったらどうしようかって」
「さよか」
「おじさんとおじいさんがなだめてたけどな」
「すまんかったの……」
「あん?」
「迷惑かけてしもて」
「ばぁか、それを言ったら、俺があんなことに誘わなきゃ……」
 トウジは悔しげにするケンスケの態度に訝しさを感じて追求した。
「何があったんや?」
「ああ……」
 教えとくよと口にする。
「学校、な……、疎開とかで結構みんな居なくなってるんだってさ、戦闘に巻き込まれて死んだんじゃないかって話もあるくらいだよ」
「ほんまかい」
「わかんない、それに」
「なんや……」
 無言のケンスケに苛立って、トウジは無理矢理体を起こした。
「なんやっ、はっきりせい!」
 顔を背け、告白する。
「委員長だよ……」
「イインチョ……」
 はっとする。
「そや……、委員長はどないしてん!」
 ──あの時。
 自分ははっきりと見たのだ。
 自分たちを怒鳴りつけた彼女の姿を。
「それがな……」
「なんやねん」
「委員長、今、入院してる」
「どっかやられたんか!?」
「いや、そうじゃないよ」
 ケンスケは辛そうに告げた。
「精神科」
「は?」
「委員長な、俺たち、死んだって思ってるんだよ、あの時、俺たちに向かって怒鳴ったりしなかったら、俺たちが死ぬようなことにはならなかったのにってさ」
「なんやねんそれは……」
「駄目なんだ。委員長、シェルターの入り口でへたり込んでぶつぶつ言ってたんだってさ、なに言ってるかはわからなかったけど、頭がおかしくなったんだって」
「……」
「俺たち、あの時の爆発に巻き込まれたんだって、そう思ってるみたいで、だめなんだ……」
 同じような内容を、何度も何度もくり返す……。
 それでもトウジは不満を覚えず、ヒカリのことを心配した。
 ──あの時、何が起こったのか?
 一つ一つ、思い起こしながら、後悔を胸に募らせた。


−Dパート−


「かんぱーい」
 ──葛城邱。
 コップのビールで口の中を湿らせて、リツコはシンジに声をかけた。
「悪いわね、シンジ君、つまみの用意なんてさせちゃって」
「いえ……、もう慣れましたから」
「そうよぉ、人間の適応能力をあなどっちゃいけないわ」
(こいつは)
(この人は)
 ジト目を向ける二人である。
「ん、ところでシンジ君」
「はい?」
「学校の方はどうなの? もう慣れた?」
「あの……」
「サボってるのね?」
「はい……」
「やっぱりね」
「え?」
「まあ、気持ちはわかるわ、そんな時じゃないものね」
(どれの話をしてるんだろう?)
 もちろん口には出さないのがシンジである。
「行きづらいんでしょう? 学校」
「はぁ……」
「実はね、ミサトに頼まれたんだけど……」
 ちらりとミサトに目を向けると、ミサトはビール缶を口に当てて顔を隠していた。
 見えた目は笑っていない。
 はぁっとリツコは溜め息を洩らす。
「でもやめておくわ」
「え?」
「ちょっとリツコぉ……」
「サボりたければ、サボっていても良いじゃない、どうせ学校は学級閉鎖寸前なんだから」
「え? そうなんですか?」
「ええ、疎開とか、色々とね、今や学校どころじゃないわ」
 諦めたのか、ミサトも乗った。
「そういや、副司令がごねてたっけ、市議会の方がうるさいって」
「当然よ、この街の市政を管理しているのはMAGIだもの、責任はMAGIにあるわ」
「じゃあ直接の責任ってあんたにあるんじゃないの?」
「それはそれ、管理職というシステムがわたしを守ってくれているのよ」
「あ、あの」
 わからなくて口を挟む。
「MAGIが管理してるってどういうことなんですか?」
「ん? ああ、だってこの街には兵装ビルとかあるわけでしょう? エヴァの射出口とかもあるわけだからね、だから市長とかが勝手な開発計画を立ち上げられないように制約を付けてあるの」
「ああ……、だからネルフが管理してるんですか」
「そうなるわね、全てはネルフ、いえ、エヴァのために用意された街なのよ」
「エヴァ? 使徒じゃなくて?」
「使徒のこともあったわね」
 付け足すような物言いに不審を感じてしまったシンジであったが、疑問の解消には乗り出さなかった。
 面倒ごとが増えてしまう気がしたからだ。
「でもねぇ、矢面に立ってるのは市長なわけだからねぇ」
 酔いが回って来ているのか、呂律が妖しくなって来ている、リツコもだ。
「そうね、ネルフからの保険金や慰謝料だけでは賄い切れなくなって来ているみたいだものね、このままじゃ住民税が上がるかも」
「げぇ……」
「どうせこの街に残るのはネルフ関係の人間だけになるんだからってね? 向こうもヤケを起こすかもしれないわね」
「そうなったらジオフロントに畑つくっちゃる」
「あなたが? 何を育てるのよ」
「芋」
「いもぉ?」
「そ、芋、適当にやってても育つしね」
「いい加減ねぇ……」
「子供と同じよ、適当にやってても勝手に食べられるところまで育っちゃう」
「ミサト……」
 コトンと底の音を立てて缶を置く。
「あなたシンジ君を……」
「え? いやねぇ、違うって……、って、シンジくぅん? どこに行くのかなぁ?」
「……え? あ、あはははは、ちょっと荷作りでもしようかなって」
「どこに行く気よ?」
「うちに来る?」
「リツコ……」
 ジト目で睨む。
「あんたね、人をショタコン扱いしといてそれはなによ」
「あら? 別にシンジ君に手を出したりしないわよ」
 だってと続く。
「シンジ君は、いずれわたしの子供になるんだものね?」


 ひゅうっと吹く風が冷たい。
 山の上にある崖っぷち。
 シンジは世の無情を儚んで、放浪の末にそのような場所に立ってしまっていた。


「あんたねぇ……」
 きりきりとこめかみが痛む。
「シンジ君をはげますつもりで呼んだのに、よけいに追い詰めてどうすんのよ」
「だって……」
「だってじゃないでしょうが、だってじゃ」
 職場で言い争う二人である。
「だいたいどういう流れでシンジ君があんたの子供になるわけよ」
「その点については今ユイさんと争議中よ」
「はぁ?」
 リツコはにやりと陰湿に笑った。


「待て、待ってくれ、ユイ!」
 にやりと笑って、ユイは手に持っている鉄パイプを振りかざした。
 ──ごしゃごしゃと嫌な音が総司令執務室の中に響き渡る。
(無様だな、碇)
 コウゾウはそっと部屋を出ていった。
「さぁ! どういうことなのか話してもらいましょうか!?」
「ど、どうと言われても……」
「ばあさんは用済みだそうですね?」
「だだだ。誰がそんなことをっ、いや、そうではない! お前のことでは!」
「誰がばあさんですか!」
 ──ギャアアアアアアア……。
 聞くに堪えない悲鳴が上がる。
「まったく!」
 とんとんと鉄パイプで肩を叩く。
 ……付着していた血が白衣に付いた。
「リッちゃんに手を出すなんて、どういうつもりなんですか!」
「……」
「わたしはお払い箱だそうですね! リッちゃんがなんて言ったと思います? シンジのことは任せて下さいと言ったんですよ!? あなた!」
 もはやピクリとも動かない。
「死んだふりしたってだめですからね!」
 ふんっと死人に鞭を打つ。
 パンプスがぐしゃりと血まみれの体を踏み抜いた。
「離婚なんて冗談じゃありませんからね! リッちゃんとはちゃんと話を付けておいてくださいね!」
 鼻息荒く歩き出し、ユイは足音をドスドスと立てて去って行った。
 無情な音を立てて扉が閉まる。
 そして後に残された憐れな男は、ほどよく利いた冷房によって固まりつつある血溜まりの中で、確実にあの世に向かって旅立とうとしていた。


−Eパート−


「まったくもうあの人は!」
 ずかずかと廊下を歩く、その肩は怒りによって上がっていた。
(本当に離婚してやりたいところだわ)
 だがここで離婚だなどと言い出せば、それこそリツコの思い通りであろうとユイは堪えた。
 シンジのことなどどうせ本当はどうでも良いのだろうと予想する、別れたら負けだ。これは女の意地なのだ。
 ……彼女の意識の中からは、夫へのいたわりが欠けていた。


 その頃、リツコは……。
「つまり寝取れば勝ちなのよ」
 ふんふんと頷くのはレイである。
 手には生徒手帳、ページを開いて熱心にリツコの言葉をメモっていた。
「ポイントは……、そうね、同情ね、優しく慰めてあげようとすること、大抵の人はそれだけでコロッといくわ、だって寂しいんですもの、おいしい餌を前にしては堪えられないのが男なのよ」
 レイは「ん?」っと小首を傾げた。
「関連性がわかりません」
「本能なのよ、孤独に堪えられる神経を生物は持っていないの、だから甘えられる相手にはどこまでも甘えようとしてしまうだらしなさを持っているの、切なさとも言うわね、性欲もその内の一つなのよ、心だけでは埋まらないから、代償行為としてセックスも要求する」
「それは錯覚ではないのですか?」
「もちろんそうだけど、そこから育まれるものもあるわ、『愛』よ」
「『愛』ですか?」
「そうよ、まず愛があって、次の段階にあるのが子作り、でもセックスは別物なのよ、セックスは相互の認識を確認するために行う作業に過ぎないの、ところがセックスも子作りもやることは同じだから、一方はだらしのないこと、他方は神聖なことであることと位置付けてしまうのね」
「なるほど」
「一度や二度はただの遊びだと気軽に誘うのがポイントよ、やってしまえばこっちのもの、一転して責任を追及する、それが上手なやり方よ」
「……ってねぇ」
 呆れ果てているミサトである。
「あんたなに講義してんのよ?」
 たっぷりと間を取って、煙草に火を点け、ふぅっとふかす。
「ミサト……」
「なによ」
「あなたもわかるわ、三十を越えればね」
 うぐぅと唸ったミサトであった。
 ──しかし。
「僕はいらない子供なのかな?」
 ひゅ〜るり〜、ひゅ〜るりぃ、ららぁ〜♪、と懐かしい歌を口ずさむ。
「みんなしてさ、僕は馬じゃないんだよ」
 どうやら将を射んと欲すればどうのこうのという言葉を思い出そうとしているらしい。
 しかし思い出せないので諦めた。
「大体父さんがモテるってこと自体が変なんだよな、あんなののどこが良いんだよ」
 母さんにリツコさんに……、親子揃ってとかってそういえば言ってたから、リツコさんのお母さんもなのかな? それに綾波だろ、と何気に加えてしまっているシンジである。
 携帯電話を取り出し、時刻を確認する、へっくしとくしゃみ、体が冷えてしまっているからか悪寒がした。
「風邪ひかない内に帰るか」
 別に家出して来たわけではない。
 ただ一人になりたかっただけである。
「なんだかんだ言ってミサトさんの家の方が落ち着くんだよな……」
 あの散らかし具合がなどと妙な感じに毒されている。
「まあ父さんが誰と付き合おうと勝手だけど、巻き込まれるとたまんないし、ミサトさんの機嫌取って、居候させてもらえるようにしておかないとな」
 何か買って帰るかと、あまり中学生らしくない機嫌の取り方を考えてしまうシンジであった。


「生き返ったか、碇」
 そのシンジに間接的に疎まれてしまっている父である。
「お前も懲りない奴だな、いい加減にしておかないとユイ君に殺されるぞと忠告しておいただろうが」
 碇ゲンドウらしいミイラがもぞもぞもぞもぞと身じろぎをした。
「とりあえずな、溜まっていた懸案事項はわたしの名前で処理しておいたぞ」
 また動いた。
「お前は暫く隠れていろ、おおっとこんなとこにわたしの有給休暇の申請書があるじゃないか、処理しておかないとな」
「……」
「こっちはお前に押し付けられた仕事で残業した時の超過勤務手当てだな、これもきっちりと処理せんとな、それから」
「……」
「これも忘れてはいかんな、ドイツへの出張、お前に代わってわたしが行くぞ」
 派手に動いた。
「なに? それはいかん? 碇、お前な、今ドイツにはキョウコ君が居るんだぞ? それだけの目に合わされてまだ懲りないのか? 今度こそキョウコ君に犯されるぞ、それともそれが望みか? これ以上シンジ君に嫌われたくあるまい、……なに? 彼女の勘気に触れてはそれこそ生命の危機に陥ってしまうことになる? どの道死ぬことになるんだから、これ以上余計な汚名を被ることはあるまい、愛想をつかされるぞ、まったく、昔からその場凌ぎの逃げを打ちおって、後始末に走り回らされるのはいつも俺だ。大体だなぁ、ユイ君との結婚式の時、ウェディングドレスを着たキョウコ君が乗り込んで来て、どれだけの惨事になったと思ってるんだ。あの後両方の親族に誰が頭を下げて回ったと、おい碇、聞いているのか?」
 まったくまた無視しおってと憤慨するのだが、ゲンドウのそれは余力を振り絞っての抗議であったのか、完全にガソリンを失い、沈黙していた。


−Fパート−


『この人、碇ゲンドウさん、わたしの好きな人!』
『どうも』
 ──彼との出会いは衝撃的だったと彼女はのたまった。
(うわぉ、ヤクザ?)
 百人中九十八人がまず間違いなく思うようなことを、彼女も例外に違わず彼に抱いた。
 それがキョウコのゲンドウに対する第一印象だったのだ。


「アレク……」
 彼女は夫の墓の前に居た。
「あなたも馬鹿ね、あたしのことなんて忘れて生きればよかったのよ」
(ママ……)
 アスカはそんな母の背中に、かける言葉を見つけられず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
 空は晴れ、寒々しさを晴らしてくれてはいるのだが、それでも墓場の空気が重過ぎた。
「まったく……」
 キョウコは口中で毒づいた。
(結局、あなたはあたしの才能に嫉妬することしかできなかったのね……、でもそれが少しばかり鬱陶しかったのよ、だから人形を置いてアメリカに渡ったの、それだけだったのに)
 まさか思い詰めた余り、死んでしまうとは思わなかったと謝罪する。
(でもアレク? あなたはどういうつもりであの人形を作ったの? アスカになにをもたらそうというの?)
 振り返る。
「じゃあ帰りましょうか」
「ママ……」
「なに?」
「ううん、なんでもない」
 アスカは訊くのをためらい、質問を引っ込めた。
 二人でならんで墓の間を歩く、小道からやってくる牧師に頭を下げて会釈をし、通り過ぎる。
「アスカ」
「なに?」
「アレク……、あの子、どういう子なの?」
「気になるの?」
「ちょっとね……」
「ふうん……」
 怪訝そうなアスカに、キョウコは何かと問い返した。
「変? こんな質問をするのは」
「そりゃあね」
 肩をすくめる。
「パパの浮気相手より、そっちを気にするって言うのは」
「あら? あの子がアレク本人だって言うのなら、あの子はあたしのものでしょう?」
 若いツバメと口にする母に、アスカはぶぅっと噴き出した。
「ママ!」
「なに?」
「そういう冗談はやめて!」
「どうして? 良いじゃない、パパもママも若い方が良いでしょう?」
 アスカはまさかと目を細めた。
「ママまで若返りなんて考えてないでしょうね?」
「……」
「ママ!」
「冗談よ」
 一欠けらの信用も見えない娘の瞳にちと焦る。
「ママの興味は若返りよりも不老不死にあるからね」
「ママ……」
「でも両方ともユイに遅れを取ってるから」
 アスカはぴくんと反応を示した。
「ユイ? シンジのお母さん?」
「そうよ」
 シンジ、その馴れ馴れしさに興味を示すも、おくびも出さないキョウコである。
「使徒に始まる強靭な生体構造の調査と研究、それに基づいた新造生命体の開発、アレクが自分の人形に仕込んだ頭脳回りの仕組みもこの辺りから来ているはずよ」
「……」
 アスカは複雑な表情をした。
(アレクが……ね)
 確かに少しばかり馴れ馴れしい奴だとは思っていたが、まさか父親のコピーであったとは思っていなかったのだ。
 キョウコの帰還によって明るみに出た事実であるが、彼女には未だに受け入れがたい真実であった。
 しかし、知るものは知っていることであったらしい。だのにアレクは姿を消してしまっている。
(どこに行ったんだろ? あいつ……)
「結局は全部が全部、エヴァがらみの応用技術なのよね」
「ふぅん……」
「ところでアレクとはもう寝たの?」
 がつんとアスカは爪先を段差に引っ掛けた。
「ママ!」
 危うく転びそうになったじゃないかと訴える。
「……その様子じゃ、まだみたいね」
「あったりまえじゃない!」
「どうして? あの子がアレクのコピーだとは知らなかったんでしょう? それじゃあなに? 『彼女』の弟だったから付き合わなかったの?」
 心苦しそうに返答する。
「そういうわけじゃ……」
「でも彼女は知っていた。あの子自身もね? そうなると何故あなたにだけは秘密にされていたのか、気にならない?」
「……」
「何か企んでないなら良いんだけど……」
 だがアスカは、その理由をなんとはなしに理解していた。
(あたしはパパに犯されかけた)
 きっとそのことを気にかけていたのだろうと、アスカは雲の出始めた空を見上げた。


 狭い窓、その中を雲が勢いよく流れて行く。
 アレクは自分の部屋に閉じこもり、一人膝を抱えていた。
「怖い? 恐れているのか? この僕が」
 ベッドの上で必死になり、自分の心理状態の把握に努めている。
 くり返されているのは、キョウコ、彼女に動揺した時のことだった。
 彼女の顔を見た瞬間に、様々な想いが脳裏を過ったのだ。それは自分のベースとなった人間のものではなく、間違いなく自分自身の動揺からもたらされた感情だった。
 ──彼女は一体、自分をどのように見るのだろうか? 彼女は自分をどう扱うのだろうか?
「これが僕のオリジナルが感じていた感情なのか……」
 彼は自分の腕の中にある、卑小な心に怯えを抱いた。
「果てしない劣等感、自分が他人よりも劣っていると言う事実がもたらす卑屈な心、僕はアスカよりも彼女の視線を恐れている」
「アレク」
 アレクはノックも無しに入って来たベアトリーチェに顔を上げた。
「姉さん……」
 わずかに彼女の顔に険が入る。
 キョウコが戻って来てからというもの、彼の態度が変わったからだ。
 ことさらに姉という立場を自覚させるような物言いをして、牽制をかけて来る。
 少なくともベアトリーチェは、そう感じていた。
 フゥッと一つ溜め息を吐く。
「出かけて来るけど、いるものはある?」
「ないよ……、どこに行くの?」
「気晴らしに出かけて来るだけよ」
「そう……、行ってらっしゃい」
「行って来るわ」
 彼女は嫌悪を隠しもしなかった。
(男に会いに行くとわかっててとめもしない、今やキョウコ以外の女なんて眼中にないというわけね?)
 その立場はかつてキョウコのものであったはずなのだ。
 それが今は逆転してしまっている。
 ──彼女はギリと唇を噛み鳴らした。
 そのようなことが腹立たしくて、彼女は二人に与えられている家を出た。もっとも、先に裏切ったのは彼女であったのだが。


「さむ……」
 街の中、彼は己の身を抱きしめた。
 小刻みに震えるのも仕方が無い、気温はそこそこに温かいのだが、人目を避けての逢い引きとなると、どうしても陽の下に出るわけにはいかなかったのだ。
 そこで選んだのが、アスカとアレクが散歩に選んだあの森林公園であった。
 人が来ないほど奥まった場所で、加持は寒さに震えていた。湿気が酷く、光も枝葉に遮られているため、冷えている。
「それにしてもな……」
 彼、加持リョウジは周囲に目を走らせた。素早く隠れる影が見える、一つ、二つ、影は三つ確認できた。
(質が悪いのか、それとも牽制のつもりで、わざと目につくようにしているのか)
 微妙だよなと考えを起こす、なによりもこれから会う相手にこそ問題があった。
 ──ベアトリーチェ。
 彼女の顔を思い浮かべた時、ちょうどその彼女がやって来た。
「ああ、ここに居ましたの」
 加持は苦笑寸前の笑みを浮かべて、やぁと気さくに片手を上げた。
「迷いましたか?」
「少し……」
 小走りに駆け寄ろうとして、彼女はよろけた。
「あ……」
「危ない」
 大丈夫ですかと慌てて駆け寄り、膝を突く。
「わたしったら、みっともない……」
「いえ、それよりお怪我は?」
「大丈夫ですわ」
 笑顔を上げる。
「でも……、服が」
 彼女は悲しげに膝元を見下ろした。スカートに苔まじりの土が着いてしまっている。
「これでは街は歩けませんわ」
(これが計算なら凄いもんだな)
 加持はあえて彼女の誘いに乗ることにした。
「なら今日は、この森でのんびりするというのはどうでしょうか?」
「でも……、退屈ではありませんか?」
「いえいえ、日本じゃこのような穏やかな森に出逢うことはありませんからね」
「まぁ……、そうなんですの?」
「はい」
「嬉しいですわ、わたし、この森が好きなんです、とても心が落ち着いて」
「そうですか」
 もし仮に、この場にアスカが居たのなら、彼女はあまりの白々しさに、げぇっと唸っていただろう。
 塗り物に、香水、彼女ほど清廉な森の雰囲気を汚す人間は珍しかったし、彼女ほど似合わない人間もまた珍しかった。


−Gパート−


「やあ、悪いな、遅くなって」
 寄宿舎の玄関先で、ぼんやりと彼の到着を待ちわびていたアスカだったのだが、風に乗って漂って来た香水の匂いに、彼女は鼻先に皺を寄せて顔をしかめた。
「あの女と会ってたんだ?」
「おいおい、一応君のお母さんだろう?」
「法的にはね、ママは死んだことになってるし」
「本当のお母さんが帰って来たら用済みかい?」
「そういうわけじゃないけど……」
 心苦しそうにアスカは告げる。
「もう子供じゃないんだから、パパがどうしてあの人に走ったのか、わかるつもりよ?」
「そうかい?」
 行こうと加持は表に停めてある車へ誘った。
 まだ何か言いたいことがあるのか、アスカは加持の顎の髭を見上げたが、とりあえずは口を噤んだ。
 促されるままに車に乗り込む。
 苛立ちから少々強くドアを閉めてしまったのは、それは仕方の無いことだったかもしれない。
 走り出す車からの荷重に、締めたばかりのシートベルトが胸に食い込む。
 加持はその胸にちらりと視線を送ってから、先程の会話の続きを促した。
「さっき……」
「え?」
「わかるって言ったな? お父さんとお母さんのこと、どうしてだい?」
 アスカはお尻をズリ下げると、小さく体を丸めて唇を尖らせた。
(シンジを知ってるから……、なんて言えないか)
 正確にはシンジと『あの女』のことをだ。
 窓の外の景色に目をやる、くすんだ灰色の世界が流れている。
(目の前の現実が辛かったら、辛くない方向に逃げたくなる、それも弱い人間ほど、水が高い所から低い所へと流れ落ちるみたいに、ね)
 止めようが無いのだ。
 本人には。
「最低……」
「ん?」
「ベアトリーチェがよ」
 おいおいと加持。
「お母さんとは呼ばないのかい?」
「なんで?」
「さっきも言ったが、一応はお母さんだろう?」
「紙の上のね?」
「……」
「あたしたちの間にそれ以上の繋がりなんてなかった……、あったと言えばアレクくらいよ」
 アレクかと加持は口の中で呟いた。
「彼とは……、会ってるのかい?」
 アスカは小さくかぶりを振った。
「このごろは全然、顔も見せようとしない」
「見せられないんだろうな……」
「加持さんは……」
 アスカは一旦言葉を切った。それは思い切るための間の取り方だった。
「アレクのこと、どれくらい知ってるの?」
 そりゃまあと加持。
「司令に報告しなくちゃならないくらいのネタは訊いたよ」
「そう……」
「まあそう悪いことにはならないさ、何しろ本部には彼と似たような子が居るからな」
「誰?」
「知ってるだろう? ファーストチルドレン、綾波レイ」
「……」
「もちろん真実を知ってるのは一部の人間だけだけどね、おっと、アスカに話したのは、そんなことで差別するような人間じゃないと思ったからだぞ?」
 しないわよとアスカは愚痴る。
「そのくらいのことじゃ……」
「そうか?」
「うん、人間とか、人間じゃないとか、そういうのってもう気になんないから」
 加持はアレクのことで割り切ったのかと思ったが、そうではなかった。
「それより、ベアトリーチェみたいに、いい加減な奴の方が腹が立つのよ」
「腹が? いい加減って?」
「パパよ……」
 アスカはふてくされた様子で窓に頬杖を突いた。
「パパはね、ママに追い付けなかったの、だから逃げた……、人間って不思議よね、息苦しくなったら息ができる場所に逃げ込もうとする、それは当たり前なんだけど、本当に欲しいものは深海の底にあって、苦しさを快感に変えないと手に入れられないの」
「それが恋ってもんだろう?」
「でも逃げ出したって良いと思う」
 加持はアスカの横顔にドキリとした。
(女の顔だな)
 この歳でもうか? と驚く。
「けどね」
 アスカはふうっと嘆息した。
「ベアトリーチェは最悪よ、パパはママよりベアトリーチェの方が気楽だって思ったから逃げ出した。そうでしょう? なのにベアトリーチェはパパに負担を強いた。本当にパパのことが好きなら、ちゃんとパパを受け止めるか、それとも少しばかり無関心で、居心地の好い相手で居てやるか、どっちかにしてやるべきだったのよ」
 ふぅむと加持は唸りを上げた。
「つまり、君のお父さんは、惣流博士から逃げ出したんだが、逃げ出した先でも一時の逃避しか得られなくて、また惣流博士を求めに走ってしまった。と?」
 こくんと頷く。
「きっとね……、だって」
「ん?」
「だから、パパはあたしを求めたんだと思うから、襲おうとしたんだと思うから」
 加持は様々な思いを押し隠して訊ねた。
「憎んでないのかい? お父さんのことを」
 うんとアスカは頷いた。すんなりと。
「そりゃ痛いだろうなとか、そういう意味じゃ恐かったけど、気持ち悪いとか思ったし、でも」
 アスカはぼそりと口にした。
「パパ……、あいつに似てたから、あたしにも」
(あいつ?)
「まるで足して二で割ったみたいだった……」
 ──誰か僕に優しくしてよ!
 ──だからあたしを見て!
 車中に沈黙のとばりが下りる。
 加持はこれ以上は触れるべきではないなと踏み込むのを止め……。
 アスカもまたそれを良いことに、自分の世界へと落ちていった。


 エヴァンゲリオンのケージ。
 アスカは弐号機を見上げて、その顔を見つめていた。
「あら、アスカちゃん」
「ママ……」
 どうしたのかと、プラグスーツ姿のキョウコが現れた。
「今日はテスト?」
「うん、ママの後でね」
「そう……」
 ごめんねとキョウコは謝った。
「本当はあたしが乗る予定だったんだけど……」
 わかっているとアスカは謝罪は要らないと苦笑した。
 存外に高い適性値、シンクロ値のみならず運用能力までもが桁外れの値を示しているとなると、正規パイロットであるキョウコの復帰があったとしても、アスカがその候補から外されることはなかった。
「みんな恐いんじゃないかって思うから」
「え?」
「シンジのこと……」
「サードチルドレンのことが?」
 アスカはこくんと頷いた。
「あの力……、きっと、誰も制御できるなんて思えないんじゃないかって、思うから」
 キョウコはおかしな物言いをするなと感じた。
(あれは、初号機の暴走じゃなくて、シンジ君がなにかをした結果だと思っているの?)
 キョウコもまた。一人の科学者ではあったのかもしれない。
 彼女は自分の娘に対して、非常に興味深いと視線を投げかけた。そしてまた。そんな二人に物憂げな、それでいてどこか追い詰められた瞳を向けている人物が、ケージの端に潜んでいた。


−Hパート−


「それではこれより、エヴァンゲリオン弐号機の実動テストを開始します」
 広大な緑の敷地。丘の中央に赤い巨人が膝を突いて駐機している。
 のどかな風景の中に、あまりにも自然に溶け込む様子に、見学に来ている軍関係者もどこか表情を緩くしていた。
 平坦な緑の芝が続き、時折林があり、遠くには古城もある。そんな土地だった。
「エヴァンゲリオン弐号機、起動します」
 その瞬間。
 何かピリリとしたものが走り抜けた。今まで和んでいた政府、軍、広報などの人々の顔が緊張で引き締まる。
 巨人が顔を上げる。ゆっくりと膝を地から離し、立ち上がる。
 特に目立った装備を付けているわけではない。それでも皆はおおっと唸った。
「スムーズに動くものだな」
「緩慢な動作にも見えましたが、あの程度の速度でも、頭部付近の上昇速度は、相当なものになっているのではありませんか?」
「コクピットの位置は?」
「首の後ろということですが」
「パイロットはそれだけの荷重に堪えられるのかね? 何か特殊な訓練を?」
 さっそく手短なネルフの人間へと質問が飛ぶ。
「続いて歩行に入ります」
 足を上げ、下ろす。たったそれだけの動作でも、彼らの好奇心を刺激するには十分だった。
「総重量のことを考えると、震動が少ないようだが」
「足跡の深さも大したことがありませんね。周辺部分の傷みも少ない」
「足の裏で上手く重量を分散しているにしてもだ。不可思議この上ないな」
 よくよく見て見れば、人間と同じように左右の足を交互に使って体重を逃がしている。足が疲れるのを避けているのだろう。
 それと同じく、歩き方にも特徴があった。
「右利きだな」
「右利きですね」
「あれはパイロットの癖かな? それともエヴァの?」
「パイロットでしょう。無意識のものかと」
「ふぅむ……」
 そんな様子を傍で見ているのはアスカであった。
 どこか複雑な気持ちを抱えているようで、表情が堅い。
 ふいとそっぽを向いて、歩き出す。その隣に加持が並んだ。
「お母さんの晴れ舞台を見ないのかい?」
「見る価値なんてないし」
「悔しいのかい? 自分の出番を取られて」
「出番? これが? あたしの?」
 アスカははんっと鼻を吹いた。
「こんなのがチルドレンの仕事なの?」
「さあ? どうかな……」
「大体なんのためのデモンストレーションなのよ。使徒と戦うためだけにエヴァはあるのに、なんで軍に性能を披露する必要があるのよ」
「……」
「とまあ、あたしの考えはそんなとこ」
 アスカはおどけて見せると、一転して軽い調子で語り出した。
「本当のところなんてわかってる。どんな性能があってどれくらい使える物なのか知りたいんでしょ? あの人たちって」
「そうだな」
「日本での戦闘記録ってどれくらい出回ってるか知ってます?」
 加持はアスカの改まった口調に対して緊張を強いられた。
「そうだな……。各国。少なくとも常任理事国には広がってるだろうな」
「その全部が現有戦力の通じない使徒って化け物と、その化け物を退治して見せたエヴァって兵器に興味を持ってる。あの人たちが本当に知りたいのは、エヴァの性能じゃなくて、敵対した時に対応できるものなのかどうか、それなんじゃないの?」
 加持は内心で舌を巻いた。
「その通りだな、連中はエヴァを兵器として利用するつもりはないよ。だが日本がどうするつもりかはわからない。だから分析材料が欲しいんだろうな」
 あ〜あとアスカは声を出した。
「つまんない。来るんじゃなかったな。もっと面白いことやるのかなって思ってたのに」
「例えば?」
「こう。戦闘機で、ばーっと」
 両手を広げて空に振る。
(こういうところは歳相応なんだが)
 加持の口元に微笑が浮かんだ。
「アメリカならやるんだろうな」
「ママたちが作ってたって、3号機と4号機の話?」
「ああ、それだけのエヴァが今はあるんだ。本部には零号機と初号機。パイロットは三人。ドイツには弐号機。パイロットは二人」
「二人余るんだ……」
「けどアメリカ支部にはパイロットが居ない」
「どうするの?」
「わからないさ。ま、司令辺りが強引に接収するかもしれないけどな」
 アスカは「そう」と小さく答えて口を閉ざした。加持はどうしたのかと思ったが、アスカは今になって重大なことに気がついたのだ。
(あたしが異動することにはならないってことも、あるんだ)


「休校か……」
 届いた通知を口に挟んで、シンジは自分の部屋に戻ろうとした。
 部屋と言っても、ミサトの家の空き部屋である。
 衣裳ケースはミサトから貰ったものだった。他に買ったまま放置していたらしいちゃぶ台を持ち込んでいる。
 布団は一枚。せんべい布団だ。さすがにこれは買っていた。
 ミサトの家には、予備の布団など無かったのである。
「あ〜あ」
 シンジはその布団の上にばたんと倒れた。
「毎日毎日、こことネルフを往復して。でも、それも母さんが帰って来てくれたおかげで行かなくても良いようになって来たし」
 やることがない。
「暇だなぁ……」
 そんな風にうだうだとしていると、インターホンが静かに鳴った。


−Iパート−


「あっ、綾波……」
 ぎくぎくと非常に気まずく後退する。
 玄関の扉を開けると、そこにはレイが立っていた。非常に不機嫌な様子で目つきが悪い。
 顎を引いて前髪で半分隠し、覗き見るような感じにしている。
 ──じー。
 ──たらっ。
 ──じー。
 ──たらたらたらっ。
 先に進めよと三角形のものがシンジの尻をぶっ刺した。
 ザシュ! あいったぁ!?
「なにすんだよペンペン!」
 前から後ろからお尻を押さえて振り向けば、そこには凶器として使ったフリッパーをしょうがないなぁと振っているペンペンが居た。
「なんだよもぉ……え? 女の子を玄関に立たせてなにやってんだって? なにって……ああもう良いからさっさと上がってもらえって? わかったよ。綾波、とりあえず……うっ」
 赤い瞳は嫉妬を孕んで二人を猛烈に睨み据えていた。
(鳥の癖に)
 種族の間を越えて意思の疎通を完了しているシンジとペンペンに、レイは強い妬心を覚えてしまった。
 ──それはともかく。
「で、何しに来たの?」
 レイはシンジなど無視して葛城邱の探索に入った。
 リビングを見渡しクッションをめくり、ここではないと移動して、ミサトの部屋の戸を開く。
「……汚い」
「そ、そう? って腕まくりしてどうするの?」
 それも制服の袖だったのでそのまま下がった。
「掃除……」
「は?」
「嬉しい?」
「は……はぁ」
「じゃ、する」
「はい……」
 気合いを入れるレイに首を傾げるシンジであった。
「そりゃミサトさんの部屋って汚すぎだし、ゴミだけでも掃除してもらえたらありがたいんだけど……」
 背中越しに見やる。
「ミサトさんの部屋なんて掃除してなにが嬉しいんだろう?」
 相互の誤解が溝を深めた。


 だーーーっはっはっは!
 太鼓腹を叩いてミサトは笑った。
「そっ、それでレイ、あたしの部屋を掃除して来たの?」
 ぷうっと頬を膨らませてそっぽを向いているレイである。
「残念ねぇ……シンジ君の部屋はもう一つ奥よん」
 教えないで下さいよとシンジは赤く腫れている頬をさすった。
「叩かれたんですよ? 僕」
「はぁ……あたしの下着を見て、シンちゃんが誰かを連れ込んだんだって思ったわけね」
「なんで僕が叩かれなくちゃならないんだよ」
「知らない」
「知らないって……綾波ぃ」
 ミサトは腹痛に身をよじって悶えた。
「どうでも良いけど」
 痛むこめかみ、ひくつく口元。
 リツコはマグカップを持つ手に力が入るのを止められなかった。
「コーヒーが呑みたいのならラウンジに行ってくれない? わたしは忙しいのよ」
「良いじゃない。どうせ経費で落としてるんでしょ?」
「もちろんよ」
「……ちなみにどこ産?」
「ブラジル」
 直輸入なのかなぁと思ってしまったシンジであった。
「ところでリツコさん、さっきからなにやってるんですか?」
 シンジは勝手にモニタを覗き込んで怒られた。
「だめよシンジ君。機密文書を開いてることだってあるんだから、不用意に覗かないで」
「あ、ごめんなさい……」
「ってまあ、あなたたちが居るのにそんなの開いたりはしないけど」
 ふとリツコはシンジの動きが止まってしまっていることに気がついた。
「エヴァンゲリオン弐号機……」
 リツコとミサトの目つきが変わる。同じく不審に思ったレイが問いかけた。
「どうして弐号機だとわかるの?」
「え? だって……」
 小さなウィンドウに一時間前の時刻付きで弐号機の姿が映されている。
 弐号機は点在する林の間にしゃがみこみ、戦車砲を数本繋げて作ったような、粗雑なライフルを構えていた。
 もしつむれたならば、片側の目をつむっているところだろう。スタイルとしては鴨撃ちに近い。そして狙っているものは鴨よりも大きな無人飛行機だった。
 ──ダォン!
 火薬の質が悪いのか、それともスピーカーが安物なのか、あるいは音声データの圧縮率の都合なのかもしれないが……。とにかく不細工な音が鳴った。
 砲身が跳ね上がる、砲身後方右側より外に向かって大きな薬莢が排出された。どうやら戦艦用の火薬と砲弾を無理矢理薬莢で纏めて使用しているらしい。
 大きな弾丸が放物線を描いて飛んだ。プレーンを粉砕して山なりに落ちる。画像が縦に揺れたのは、着弾の震動でカメラが浮いてしまったためだろう。
「無茶するわねぇ」
 ミサトは追及すべき時ではないと考えたから、わざとらしく声を発した。
「これって即席のランチャーなわけでしょう? それも相当雑に作った」
「そうね、良く当てられたものだわ」
「あの……これって、セカンドチルドレンが?」
 あらんっとミサト。
「気になるのシンちゃん。アスカのことが」
「アスカ?」
「そうよん」
「そっか……やっぱりアスカが乗ってるんだ」
 迂闊な独り言の多い少年である。
「ところがそうじゃないのよ」
「え?」
「乗っているのはこの人。アスカのお母さん。惣流・キョウコ・ツェッペリン」
「お母さん……」
「なに?」
「あ、いえ……あの、じゃあアスカは?」
「さあ? でもパイロットから外されたという話は聞かないから、多分今回のデモンストレーションではってことなんでしょうね」
「外されてない……」
「そうよ」
「でも僕たちはもう乗らなくてもいいんですよね? エヴァに」
「乗りたくないの?」
「ちょっとリツコ」
「ミサトは黙ってて」
 リツコはわざわざ立ち上がると、シンジの手を取ってしゃがみ込んだ。
「良い? シンジ君……。あなたが乗りたくないのならわたしも乗って欲しいなんて言わないわ。でもね、わたしは乗った方が面白いと思っているの。そりゃあ死ぬような目にも合うかもしれない。でもエヴァが負ければわたしたちにはもう成す術が無いわ。その時には使徒によってサードインパクトが引き起こされるのよ。わたしも、あなたも、みんなが死ぬの。ならやるだけやってから死んだ方が納得できるとは思わない? この地球上のどこにも逃げ場なんて無いんだから、戦って死ぬか、怯えて死が訪れるのを待つか……」
 リツコはわたしは嫌よとシンジの手を握り締めた。
「どうせ死ぬのならその前に好きな人を手に入れて思いっきり甘えてねだって幸せになって死にたいわ。でももし生き残ることができるのなら……」
 非常に嫌な感じのする笑みを浮かべる。それはシンジに警戒感を抱かせるには十分だった。
 ──邪過ぎた。
「あああっ、あの! だからって僕は」
「乗るの? 乗らないの?」
 血走った目は脅迫しているのと同じであった。
「乗ります! 僕に乗らせて下さい!」
「そう……本当に乗るのね?」
「あはははは、嫌だなぁ、それじゃあ僕、嫌がって逃げたがってるみたいじゃないですか」
「そうね、ありがとう、シンジ君。わたしを、わたしを、わたしを信用してくれて」
「は? ……あのぉ」
「というわけで、司令とユイさんにはわたしから報告しておくわね」
 うんうんと立ち上がり、リツコは背を向けてにやりと肩越しに笑みを見せた。
「やっぱりシンジ君はユイさんよりわたしを選んでくれるのね」
 え……。どういうことなんだろう? そう思ったシンジの肩をミサトが叩いた。
「ユイさんが乗らなくて良いって言ってるのに、リツコの言うこと聞いたんじゃねぇ」
「あ……」
「こぉりゃ家庭争議がもめるかも」
 しまった。はめられた。そう思ったがもう遅かった。
 その上シンジは墓穴を掘った。
「はぁ……」
「どうしたの?」
「いえ……父さんも大変だなって思っただけです」
「そうね……」
「母さんに、リツコさんに……綾波に」
「は?」
「一体父さんは誰が一番好きなんでしょうか?」
「ええと……」
 まだそんな勘違いしてやがんのかこのガキャあ。
(ああ、レイが、レイが)
 そんな殺気がひしひしと感じられる視線に曝され、寒気がすると震えるシンジに、ミサトは他人事ながらに彼の生命を憂いたのであった。


−Jパート−


 ──ドイツ。
 加持リョウジは一足先に退散しようと車に向かう途中で、キョウコに見つかり呼び止められていた。
「どうも、惣流博士」
 加持はだらしなく目尻をたれ下げた。
「その格好で歩くのは、少し問題があるのでは?」
「見苦しい?」
「その逆で」
「あら、うれしいことを言ってくれるじゃない?」
 プラグスーツ姿である。アスカのものとにデザイン的な差違はないのだが、それでも身長と、年月だけが与えてくれるふくらみというものが、アスカにはない扇情的な艶とでも表現すべき色香を加味していた。
 そんなものを、惜しげもなくふるまってみせるキョウコである。
「うん。加持君、どう? 十四の子持ちとなると、もうだめかと思っていたけど。まだいけそう?」
「人生これからでしょう? まあ、お子さんも微妙な年頃ですからね」
「アスカがそれくらいのことでヒネたりするようなことはないと思うけど」
「それは希望的観測でしょう?」
「事実よ。だってあの子の母親はあの女だったわけだから、今更、ね? そう思わない?」
「俺にはなんとも……」
「でも今は付き合っているんでしょう?」
 曖昧に笑ってごまかそうとする加持を、キョウコは許さず追いつめた。
「それともあの女はただの当て馬で、ねらいはアスカ?」
 たばこをくわえ、火をつけようとしていた加持は、ボウッと火柱を噴き上げたオイルライターにのけぞった。
 くすくすという笑いはもちろんキョウコのものである。
「そんなに焦らなくても……」
「はは……。ご冗談を」
「そう? でもベッキーはもうおばさんよ? わたしと歳はそう変わらないわ。でもアスカは違うわ。これからですもの。男としてどちらが好み? おばさんだなんて言わないでね? そんなこと言うと」
「特殊な趣味とでも蔑みますか?」
 いいえとキョウコは猛禽類の目つきになった。
「つまみ食いをしてあげる」
 加持はごめんなさいと頭を下げた。


 子を産んだ女性の体型は崩れるものだが、乳房や腰回りには扇情的なほどに肉が付く。
 プラグスーツはこれを適度な位置に矯正し、キョウコの年齢では絶対にあり得ない張りというものを作り出している。
「反則っちゃあ、反則なんだけどね」
 加持と別れたキョウコは、移動用のバスの中で、薄いコーヒーの入った紙コップを手に、アスカに対してそう口にした。
「まあ、脱がさなきゃ分からないことだし、脱がしたときにはそんなことは二の次になってるだろうしね」
「なにが言いたいの?」
「ただのスケベじゃなさそうねってこと」
 コーヒーで唇をしめらせる。
「体……。ただの女狂いなら、コナくらいはかけておくものよ。そうでしょう? なのにまた今度って誘いもなかった」
「怖かっただけなんじゃないのぉ?」
「なにが?」
「ママが」
「どうして?」
「ミイラにされそうだって」
 ま、下品っとキョウコは目を丸くした。
「アスカもそんなことを言う歳になったのねぇ」
「いくつだと思ってんのよ」
「でも子供を作る気はないんでしょう?」
「当ったり前じゃない!」
「じゃあセックスは?」
「相手が居ないってば」
「居たらするの?」
 アスカは答えなかった。先日の話の蒸し返しになるからだ。
「アスカ……」
「なによ」
「人によって感覚が違うし、生理的な問題もあるし、これが正解っていうのはないものだと思うから、わたしはなにも口にしないけど……。でも一生セックスはしないなんて言わないでね」
「ママ!」
「怖いのよ……」
 アスカは母の目が笑っていないことに気が付いた。
「あなたは枯れ過ぎてるわ。まだ子供なのに。大人になるしかない状況を与えてしまった当人だから、こんなこと言う権利はないのかもしれないけど……」
 違う、違うのよ、ママ……。アスカはそう言いそうになってしまったが、なんとかこらえた。
「大丈夫よ……ママ。あたしだってちゃんと考えてるから。あいつなら……って」
 キョウコにはその科白の誰かを、海の向こうにいる少年と結び合わせることはできなかった。しかし、存在を知っていたとしても、結び合わせることはできなったに違いない。
 早く解放されたい。それがアスカの思いだった。この鬱屈するしかない状況から……他人に真実の自分を隠し、常に演技をしているしかない環境から。
 あらゆることを好き勝手に口にできる相手の側へと旅立ちたい。
 口を軽くすると、うかつなことを言いかねない。同時に口が滑りやすくもなる。
 どんな会話でも、口を開くためには科白を熟考しなければならない。だからこそ会話も億劫で……。
(シンジとだったら羽目を外せるってのは、好きってのとは違うんだけど)
 好意や好感ではない。だが秘密を共有している友人であることには違いない。
 だからこそ、アスカはシンジの存在を熱望していた。


−Kパート−


「補佐官殿のご到着だ」
 姿を見せてのいきなりな挨拶に、アンドルフは不機嫌さを隠そうともしないで切り返した。
「今更支部長席に未練でも?」
「ふん。こんな椅子、欲しければいつでもくれてやる」
 はらはらとしているのは司令室に詰めているオペレーターたちだった。彼らまで巻き込むことはないかとアンドルフはため息をつく。
「訪問が決定したのは総司令ではなく副司令とお聞きしましたが? 支部長の進退ごとにまでは発展せぬはず」
「だが軍の本意が見えたからな。軍はエヴァをあてにはしていなかった。ただ兵器としての特性や機能が知りたかっただけだ。当たり前だな。パイロットを選ぶ特選兵器などに価値などない。たった一機で戦場を支配する? そのためにはどうしても交換用のパイロットが必要になる」
「常に出撃体制が取れなければ意味がありませんからな」
「しかし誰にでも動かせる代物ではない以上、無理だ」
 その通りですとアンドルフは頷いた。
「頼れないというのが本音なのですよ。お分かりになられますでしょうか? エヴァによってもたらされた勝利は、エヴァによってのみ恒久的に成立させることが可能なのです」
「つまりはエヴァが動かなくなれば終わりなのだろう?」
「はい。もしエヴァが誰にでも動かせる兵器であったなら。量産は不可能でも戦術的な兵器から戦略的な兵器へと地位は繰り上がっていたでしょう。世界大戦における戦車と同じですよ。いついかなる時にでも投入できたからこそ、著しくその価値は上昇したのです。しかしエヴァは違う」
「チルドレンが倒れたならば、その場でただの屑になる」
「ご承知の通りです」
 エヴァによる支配を成立させるためには、エヴァは常に起動可能な状態でなければならない。
 だが現実的には、パイロットを選ぶのだという特性が、それを不可能にしてしまっていた。
「兵力は恐怖の象徴でなければならないか」
「それが民衆に服従と屈服を強制するのです」
「制圧には向かない。純粋な戦力としては有効であるが、運用に難がありすぎる」
「その上、キョウコ、アスカと二世代に渡って運用可能ではありますが、これは血によるものではなく、キョウコの遺伝子サンプルを用いた結果に過ぎません」
「三代目では起動すら危ういか」
「赤木レポートによりますと、コアの交換によってある程度の効果は認められるようですが」
「クリーンインストールというわけにはいかない。それがシンクロ率に影響を及ぼす」
 アンドルフはゲイマンに向かって、もうこれ以上の説明は不用でしょうと説いた。
「エヴァを攻略することはあまりにもたやすいのですよ。一世代、あるいは二世代目の血縁者を手にかければそれで終わってしまうのです。このようなものを主力兵器として接収する意味合いなどありません」
「だからこそ本部にさっさと引き取らせろというのか」
「金食い虫ですからな」
「作るだけ作らせておいて……」
「すべての情報を日本に独占させるわけにはいかなかった。それが真実でしょう。それでは幻影に怯えてありもしない幻の恐怖に怯えなければならなくなっていた」
「いまでも十分に恐怖だと思えるが?」
「武力としては。しかし攻略法が見えていることで安心はできます」
「そのための情報公開の意味を含めた意図的な漏洩なのかな?」
「本部……いえ総司令、あるいは国連にはその考えがあったのかもしれません」
「……軍事的、政治的な価値などないということを知らしめるためか」
「問題は……なぜ総司令ではなく、副司令が訪独されるのかということです。まさかそのような軍の判断をも考慮して?」
 まさかなとゲイマンはシートに体を沈め、腹の上に手を重ねた。
「……ところで」
 やや剣呑な瞳で場を支配する。
「ベアトリーチェはどうした?」
「リョウジのところでは?」
 それがなにかというような声に、ゲイマンは不可解なのだと彼女に行動についてを示唆した。
「……彼女の男好きは昔からのことだが、それにしてもな」
「なにか不審な点でも?」
「リョウジは若いが、地位があるわけではない。将来が嘱望(しょくぼう)されているわけでもない」
「なるほど……しかし総司令への渡りをつけようとしているのだと考えれば、それも理解できるでしょう」
 そんなことを口にしたのだが、アンドルフはゲイマンの表情を見て首を傾げた。
 彼にはわからなかったのだ。
(もしそうであれば彼女はまたもキョウコに負けることになるな)
 碇ゲンドウという男が選ぶにはアクが弱すぎる。
 ゲイマンはそんな具合にベアトリーチェを評価していた。


「アスカ」
 本部内の通路を歩いていたアスカは、呼びかけた女性に対して怪訝そうな顔つきになった。
「なに?」
「あの子を知らない?」
 ベアトリーチェである。
 珍しくネルフの制服に身を包んでいるのだが、皮肉なくらいに似合っていない。
「姿が見えないのよ」
 アスカはかすかにかぶりを振った。
「アレクなら知らないわ。あたしも避けられてるから」
「そう……」
 しようのない子。その態度はうっとうしさを見せていたから、アスカは顔をしかめた。
「あんなのでも、いちおうあんたの弟でしょう?」
 ベアトリーチェは宇宙人でも見るような目つきになって言い返した。
「あなたももう知っているんでしょう? あの子の秘密を」
「ええ」
「だったらどうしてそういう発想が出てくるの?」
「弟だったんでしょう? 今までは」
「ええ。でも同時にお荷物でもあったわ。分かる? あたしはあの子の飼育を押しつけられたのよ。誰も面倒を見たがらなくてね、夫のしでかした不始末だからというだけの理由でね」
「あたしのことも?」
 きょとんとする。
「すねてるの?」
「まさか」
「でしょうね。あなたがそんなにかわいいはずがないもの」
 しかしアスカの表情には微妙なかげりが浮かんでいた。それはベアトリーチェの神経に引っかかることはなかった。
「どうでもいいのよ、もう」
 そう言って払いのける仕草をする。
「わたしは女としてあなたのお父さんを求めたわ。わたしだけを見て欲しいとね? でもあの人はわたしに傾きながらも結局はキョウコに心を奪われたままで逝ってしまった。あの子を見ているとね、わたしの中には憎悪に近い感情がわくのよ。だってあの子はそのことの証拠そのものじゃない。その上わたしではなく、あなたの後を追っている」
 自分ではなく。そう告げる。
「彼の遺伝子は、キョウコの影に惹かれるようね」
「それがあたしを疎ましく思っていた理由なの?」
「そうよ? 女が女を嫌うには十分な理由でしょう?」
「そうね」
 アスカはそれ以上蒸し返そうとは思わなかった。やはり寄宿舎に入って正解だったと思ったからだ。
 シンジとの同居で知ったことだった。嫌悪感を抱かせる存在は疎ましくなる。それも同じ屋根の下に住まねばならないような状態に置かれていると、関係を断てないことがストレスとなって、異常な心理状態へと追いやられていくことになる。
 殺意さえ芽生えてしまうのだ。
(前は違ってた。あたしはママを追いつめたあんたが嫌いだった。だから避けてた。でも今度はそうじゃなくて分かろうとしたのよ?)
 結局は拒否されてしまったのだが。
 二人はじゃあと離れようとした。しかし向こうからやって来た男が、穏やかに別れるきっかけを奪い去ってしまった。
「よ、よぉ」
「リョウジ! どうしたの?」
「いやぁ……キョウコさんにしぼられてね」
「キョウコに?」
「ああ」
 よほど責められたのだろう。ぐったりとしている。
 精神的にもきているのか、彼はうかつなことを口走った。
「あなたとアスカとどちらを取るのかとね。まったく」
「キョウコが……で、リョウジさんはどちらを?」
 しなを作って流し目をくれる。しかし加持はそんなベアトリーチェにいつもの姿勢を作ることさえできなくなっていた。
「すみませんね。仕事の都合上、アスカを選ばなくてはならなくて」
「それは残念」
「じゃあ行こうか」
「デートですか?」
「いいや。支部長のところだよ。デートはまた今度な」
「期待しないで待ってます」
「食事くらいはおごるさ。では」
 和やかに手を振り、二人を見送る。
 しかしベアトリーチェは唇を強くかみしめていた。
 二人が遠くなると、目に殺意すら込める。
「姉さん」
 そんなベアトリーチェに呼びかけたのは、自宅からも姿をくらましていたアレクであった。


−Lパート−


「失礼します」
 姿を見せた加持とアスカに、支部長は怪訝そうな目を向けた。
 それを受け、加持が軽く首を傾げる。
「なにか?」
「いや……軍であれば敬礼して名乗るところだろう? なぜ謝罪するのかと思っただけだよ」
 加持は苦笑を交えて教えてやった。
「日本人の習慣の一つなんですよ。スクールの頃から目上に対する礼儀をたたき込まれるんです。たとえば講師の準備室などに入室する時にはまず挨拶を、とね」
「その癖が出てしまうのか」
「小部屋になるほどそうですが、部屋というものは誰かの支配する場でもあります。そこに無断で入り込むことは無礼であると考えるわけです」
「相手の癇に障らぬように、まずは許可を求めると?」
「そういうことです……が、まあ形骸化していて、本当のところは違いますがね」
「というと?」
 加持は肩をすくめて見せた。
「大昔は、なにがし参りましたと頭を下げていたわけですが、これが戦国時代辺りからは、権力者が優越感に浸るために、弱者に強要する習慣になったわけですよ。そしてその慣習が、二十一世紀になっても続いているわけです」
「……みごとな教育方針だ」
 ふんとゲイマンは鼻を鳴らした。
「ならばわたしも見習った方が好いのかな」
「は? どういうことで……」
「正式に副司令の訪独スケジュールが決まったんだよ」
「副司令の」
「ああ」
 彼は加持の表情を盗み見た。
「目的はおそらく弐号機だろう」
「初号機の代替機として接収する目的で?」
「それは君の方がよく分かっているのではないのか?」
 加持はわざとらしくおどけて見せた。
「こちらはしがない使いっ走りですよ。指示が下ってくることはあっても、説明をいただけるような立場では……」
「どうだかな」
 黙って聞いていたアスカであったのだが、加持の薄い笑みを見てしまい、それが話術の類であったのだと気づいてしまった。
(わざとらしい演技で、本当は知っているんだと思わせたんだ)
 その目的までは分からないが、アスカはいつか自分もやってやろうと、心の中にメモをした。
「で、それを知らせるためだけにわざわざ?」
「いや……君たちに意見を聞きたいと思ってね」
「これは?」
「第四次整備計画の概案だよ」
「エヴァの?」
 加持は訝しく思いながらも受け取り、一通り目を通してからアスカへと回した。
「弐号機の接収に応じ、五号機の建造に着手するよう、政府からの申し入れがあった」
「……おかしな話ですね」
「ああ。エヴァに軍事的な利点が少ないことは明確になった。だからこそ手放すことに異存はない。わたしも以降は交換用の部品整備や武器の開発へと、この支部の動きを変えるつもりになっていた。ところがだ」
「……無駄であるはずの兵器の増産に着手せよと通達が来た」
「わたしには『上』がなにを考えているのかが分からないんだよ」
 アスカは「ん?」っと首をひねった。加持とゲイマンの物言いがなんだか妙だと感じたからだ。
(まるで支部長は政府の言いなりになってるみたい)
 支部と政府は密接に関わってはいても、そこには国連と国家という図式が重なってもいる。決して言いなりにならなければならないわけではない。
(上ってどこのことよ?)
 そしてドイツ軍がエヴァに見切りをつけた以上、政府が増産の指示を下すはずがないのだ。
(ならドイツ政府を動かした奴が居るってことなの?)
 それがゲイマンの言う『上』なのかもしれない。
 白いエヴァが脳裏をちらつく。
「で、支部長はそれに従うおつもりであると?」
「むろんだ。逆らえるはずがない」
「では意見を聞きたいというのは?」
 うむと彼は頷いた。
「問題は……弐号機と共に、誰を本部へ向かわせるべきなのかと言うことなのだよ。建造のためには二人の内のどちらかには残ってもらわなければならない。せっかく親子揃ったところに悪いとは思うがな」
 ああ、そういうことかとアスカはゲイマンと視線を合わせた。
 テストパイロットとして残るか、兵士として戦場へ向かうか?
 もちろん、アスカの腹は決まっていた。
 戦場を知らないわけではないのだから。慣れているのは、親しんだのは、やはり戦場なのだから。


「うっ……」
 暗闇の中で、女がくぐもった声を上げた。
「アレク……」
 驚愕に似た言葉を漏らして崩れ落ちる。
 ベアトリーチェを見下ろしているのはアレクだった。酷く冷めた目をしているのだが、頬には涙がつたっていた。
 何か言葉を吐こうとする。しかしアレクはぎゅっと噛みしめて耐えた。
 背を向けて、遠ざかる。見上げた場所には弐号機がたたずんでいる。
 ここはケージである。そして今は作業も終わりを迎えて、光は落とされていた。
 すっと視線をそこからそらす。
 彼は弐号機へとエレベーターに乗り込もうとした。
 そこに警報とアナウンスが発せられる。
 ──南太平洋上に使徒を発見。現在本部へ向けて進行中。
 アレクは少し考える素振りを見せたが、やはりエレベーターに乗り込んだ。
 それを止められる者はいなかった。


−Mパート−


 本部発令所は大きな喧噪に包まれていた。
「情報が止まっているぞ!」
「国連軍の哨戒機はどうなっているんだ!?」
「碇……」
「ああ」
 ゲンドウは軽く頷いた。
「今までの使徒とは違う」
「警戒しているのか……哨戒機の連絡途絶は落とされたと見るべきだな」
「こちらの目を奪ったつもりだろう」
「衛星からの画像入ります!」
 メインモニターにほぼ直上からに近い映像が届けられる。
「これも使徒か……つくづく常識というものを疑うな」
 穏やかな南洋を正八面体の物体が浮遊している。その姿がワイヤーフレームに変換されて、画面は斜めに倒された。
 進行方向を示す矢印が伸びて、縮尺が切り替えられる。先にあるのは日本だった。
「間の艦隊はなんだ?」
「UNじゃありません。戦自の艦隊です」
 即座に返された答えに対して、コウゾウはいぶかしげに問い返した。
「……戦自にそんな数の船があったのか?」
「国防整備計画の一環で、UNに吸収された海自の代わりに編成された部隊です。艦の大半は巡洋艦ですね。それと駆逐艦が少数」
「妙な編成だな」
「それだけじゃありません。潜水艦まで組み込んでいます」
「艦隊にか!?」
 通常、潜水艦は独自に行動させるものである。それ故の驚きだった。
「意味がないだろう!? 隠密性を生かすからこその潜水艦だ」
「それが今回の行動は、どうやら哨戒行動ではないようで」
「ではなんのために?」
「周辺国への威圧行為かと……」
「無駄なことを……」
「たぶん政府の意向なんじゃないですかね。セカンドインパクトからこっち、不穏な行動が多いですから」
「ここらで威圧をか。緊張が増すだけだろう」
「多くの政治家は未だにセカンドインパクト以前の感覚でものを考えているんですよ。下手をすると戦中の気分かもしれませんが」
「ま、良い……どうする碇? おい、碇」
 ピクンと包帯男が反応した。
「ああ……」
 ちっとコウゾウは舌打ちする。
「お前、寝ていたな?」
「……」
「こんな時になんて奴だ」
 違う、意識が飛んでいただけだ。言い返したいがそれはできないゲンドウである。
 なぜなら無理をして出てきたのは自分だからだ。
『ゆっくり寝ていらしたらどうです? 幸い看病してくださる人もいるようですし!』
 妻に冷たく言い放たれては、おちおち入院しても居られない。なによりベッドの上にいると襲われかねないからだ。
 ──彼女に。
「どったの?」
「なんでもないわ……」
 そういうわりには、リツコはなにか感じたなと落ち着きをなくして見えた。


「使徒……か」
 ──太平洋上。
 航跡を引いて七隻の船が陣を作り上げていた。
 前方に二隻、続いて三隻、後方に二隻の陣形である。
 呟いたのは中央の艦で双眼鏡を覗いていた男だった。
「司令部より入電。侵攻を阻止。以上です」
「簡単に言ってくれる」
 彼は艦橋の顔ぶれを見渡した。
「勝てると思うか?」
「無理でしょうな」
 副長は答えた。
「それができるようであれば、交戦権をネルフに奪われるようなことはなかったはずです」
「だな……しかしあれが使徒であるという確証はなにもないんだぞ? ネルフが使徒だと断言しているだけでな」
「……使徒ではないかもしれない。だからこそ功を掴むために使徒であるかもしれないものと戦うと?」
「そうでなければ現状の回復は望めん」
 副長は生真面目に答えて返した。
「しかし臆病であることと慎重であることは似て見えるものです。どう受け取られようと我々が戦うべき相手は怪物ではないと思われますが」
「では司令部の指示はどうする?」
「従うしかないでしょう……」
 だがしかしと続けようとした彼であったのだが、顔を照らした青い光に意識を奪われ、言葉を切ってしまった。
「なんだ!?」
 使徒から天に向かって光の柱が屹立していた。それは雲を貫き円形に蹴散らし、遙かな高みに抜けていた。


「衛星からの通信途絶……」
「馬鹿な……使徒が衛星を破壊したというのか?」
「使徒は衛星の意味を把握していると?」
「偶然ではないのか? ただ人工物を破壊しただけとも取れるが」
 それはどうでしょうかねぇと加持は告げた。
「進行方向には艦隊が居ます。あのビームだかレーザーだかがどれほどの威力のものかは計りかねますが、それでも大気圏を撃ち抜くのと正面をなぎ払うのとどちらが簡単か。それは言うまでもないことじゃないんですか?」
 ふむと黙考し、アンドルフは推論を述べた。
「……使徒は衛星を嫌ったということか」
「それが妥当な理由でしょうね……もっとも攻撃兵器と捉えたか偵察機械と認識したかは分かりませんがね」
 あわただしく情報回線の切り替えが行われる。ドイツ支部が手にしている情報は、本部から衛星経由で回されてきているものだった。
 セカンドインパクト以降、使徒に対する備えとして、失われた数以上の衛星が現在では天上に打ち上げられている。
 作業は電磁波の影響を受けていない衛星を見つけだしたことで一段落をつけた。
「どのみちこれで、偵察に関しても方法を考えねばならなくなったな」
「本部にそれができるかどうか」
「無理でしょうね」
「ほぉ? 君がそれを言うか?」
 加持は隠すまでもないことだと明かした。
「本部は支部と違って国の軍部との結びつきがありません。これは本部であるからでもありますが……」
「よくわからんな」
「つまり本部はネルフそのものであるということですよ。支部と違い、どこかと結びつきを作ればそれは疑われるだけの行為となります」
「なるほどな……」
「それに関係して、本部は行動の範囲を第三新東京市近郊に限られているんですよ。兵器の飛距離もこの制限に合わせて調整されています」
「それは知らなかったな……」
「そんなわけでして。偵察兵器なんて戦争利用できそうなものは保持していないんですよ。UNか戦略自衛隊に協力を願うしかない。司令がこの使徒の行動についてどんな判断を下すか……俺もちょっと興味がわきますね」
 そう言って笑う加持の様子を、アスカは気づかれぬよう盗み見ていた。


 ──加持リョウジ。
 アスカはその評価の基準に苦慮していた。
(もうちょっと格好いいと思ってたんだけど)
 以前の感覚で付き合おうとしてみたのだが、どうにもしっくりとかみ合えないのだ。
(それもあたしの感覚がおかしくなってるからなんだろうけど)
 むぅんと唸る。
(加持さんが好き……だったとは思うんだけどなぁ)
 だが改めて見れば誰でも良かったのかもしれないと思い当たってしまうアスカである。
 自分の中の感覚で、自分が恋人とするにふさわしい年齢の大人。それも自分の影や裏側を知らず、見透かすほどには親しくない人間となれば、加持はまさに最適だった。
(ドイツの人間じゃ、誰を選んだってあたしの過去とか今とかって部分を知ってる。その気持ち悪さやうっとうしさから逃げ出したくて、あたしはあたしを知らない人間を選んだ。そういう意味じゃ、加持さんでなくてもシンジで良かった)
 そうよねと納得する。
(あたしはシンジに対して無防備になりすぎたんだ……だから嫌悪感がわいた時に、そんなあたしを知ってるシンジの視線とか馴れ馴れしさに耐えきれなくなった。拒絶に走った)
 ──では加持はどうだろうか?
(嫌いじゃない……けど加持さんに好かれたいとは思わない。思えない?)
 アスカはふぅと吐息を漏らして、気が付いた。
「え?」
「いや……」
「なんだ?」
 皆の目が自分へと集まっていた。
 思わず赤面してしまうアスカである。
「な、なんでもありません!」
「なんなんだ?」
「わかりかねます」
「まあ女の子の事情ってやつでしょう」
 ではわたしの手には余るなとゲイマンが投げたために、この問題について口出しする者は居なくなった。


−Nパート−


「……貴重な情報を送ってもらえたわね」
 ミサトは通信業務を担当している青葉シゲルに命令として伝えた。
「国連軍にねぎらいの言葉を贈っておいて」
「わかりました」
「で、ミサト……どうするの?」
 そんなリツコの問いかけに、ミサトは唇の端をひきつらせた。
「国連軍の離脱を確認」
「指揮権の委譲手続きに入りました」
「国連軍より入電。幸運の女神のほほえみが与えられんことを、以上です」
「……幸運か」
 小声で皮肉ったのはコウゾウであった。
「幸運をもたらす神が女神だとすれば、我々はその加護にあやかれんだろうな」
「……」
「女神は嫉妬深いと古来より決まっている。さて」
 やたらと奇妙な性癖のある女性ばかりを惹きつける男のなれの果てに見切りをつけて、コウゾウは階下の者たちへと声をかけた。
「使徒の到着予想時刻は?」
「およそ……まってください! 使徒の進行速度が上がりました。こりゃ速いッスよ」
「なにが起こっているんだ?」
「……そういう使い方もあるのね」
「リツコ?」
「使徒の周辺に強力な磁界の渦が確認できます。電磁的なスクリューを形成して推力に換えているのよ」
「また奇妙なことを……」
「前方から後方へと回転させてる……そのくせ本体は安定した状態を保っている。確かに奇妙ね」
 注目している観点が違うのだが、ミサトはあえて触れるのを避けた。
「でもこの調子だと、そう長くかからずに到着しそうね」
「ますます対抗手段が減ったわね」
「こちらの武器は?」
「一応陽電子砲が間に合ったわ。後はソニックグレイブ」
「……長距離から片をつけたいところだけど」
「使徒の情報が欠けているわね。ATフィールドの出力次第ではパレットガンと同じで対して役に立たないでしょうし」
「やっぱりあれなのよね。フォワードとバックアップが揃わないことには話にならない」
「一機が中和を担当、そしてもう一機が攻撃? でも矢面に立つ機体の負担は馬鹿にならないんじゃない?」
「……毎度初号機に暴走されるよりはマシでしょ」
「それもそうね」
(まあそれも『どちら』を矢面に立たせるかで変わる問題だけど)
 リツコは果たしてこの悪友が、どこまで計算しているのだろうかと考えてしまった。
 初号機の暴走を抑えるためには、この機体を後方に配置するしかない。しかしこれには難がある。なぜなら零号機のATフィールドの出力係数は、初号機によるものには遠く及んでいないからだ。
 そんな零号機に中和を担当させることには難がある。そしてもう一つ、初号機を後方に配するのであれば、銃撃の腕が問題になる。
 かといって前面に出せば、窮地に陥りやすく、また暴走を引き起こしてしまうかもしれない。
「初号機にはユイさんで行くの?」
「当然でしょう? あの人が正規パイロットなんだから」
「じゃあ零号機はどうするの?」
「……とりあえずは様子見ね。初号機だけを出すわ」


『そういうわけです』
 通信機越しのミサトの言葉に、ユイはこくりと頷いた。
 ユイが着ているものは白いプラグスーツであり、ここはエヴァのコクピット、エントリープラグの中である。
 シートのサイズが大人用にセッティングされているからか、シンジに比べて空間に余裕がない。しかしそれもLCLの電化が行われるまでのことであった。
 周辺が外の画像に切り替わると、閉塞感は解消された。
「子供たちは?」
『シェルターに』
「そう……零号機、余ってるのよね?」
『呼びますか?』
「いいわ。わたしでケリをつけちゃえばいいんだから」
『了解です』
 ミサトが苦手だなぁと思っているのを見透かして、ユイは通信モニタを閉じた。
(部署が違うんだし、どっちが上ってわけでもないんだけどね)
 お互い階級では比べられない位置にいる。ミサトは作戦部としてユイを使う立場にあり、ユイは学者として使徒とエヴァの運用について口出しをする権限を持っている。
(シンジと組ませた方が円滑に動くのかもしれないけど)
 ユイの唇から意味不明な科白が漏らされた。
「一度エヴァの本当の性能っていうものを見せておかないと、それもね」
 さあ初号機とユイは頭の上の壁を撫でた。
「帰ってきたわ。シンクロしましょう……一つとなって戦いましょう」
 初号機の瞳がギンと輝き、あごが外れて咆哮が放たれ、ケージの壁を揺るがした。


「初号機が出るようです」
 そしてその異常な光景は、ドイツ支部にも伝えられていた。
「何度見ても慣れないな」
 ううむと唸るゲイマンである。
 そしてアンドルフもまた唸って見せた。
「しかるに……やはりあの暴走はエヴァが原因ではなく」
「サードが原因か?」
「もちろん初号機がプロトタイプだという問題もありましょうが……エヴァはブラックボックスの固まりです。現在でもまるで解明が進んではおりません」
 この人はなにを語ろうというのだろうかとアスカは見つめた。
「我々は起動に支障の出ない範囲を探り、不確定な要素を削り落とすことで弐号機の開発に成功しました」
 まるでテレビやビデオ並みですなと加持が揶揄する。
「テレビやビデオの入出力端子を削ってもチューナーさえ生きていれば番組は見られる。そしてそれで十分だという人たちがいる」
 加持はそんな喩えはという顔をするアスカに苦笑して見せた。
「だけどそれで正解なのも確かだろう? 使徒に対抗できる兵器としての性能さえ残っていれば、自律行動する機能とか、自己修復や自己進化能力なんてものは必要じゃあない」
「むろんそれがあれば戦いが有利になることも事実だろうが……」
 ゲイマンは見ろとあごで指し示した。モニタの中の初号機の姿を。
「エヴァの建造費は莫大な額に達する……維持管理に、修復に。しかしリスクを考えた時、あの状態はとうてい受け入れられるものではない」
 画面の中の初号機は、未だケージでの拘束を受けている状態にある。しかしよく見ればわずかに肩を上下させ、あごを軽く揺らしていた。荒い息を吐いているのだ。興奮しているように感じられる。
「それにだな……君はあのようなエヴァとシンクロし、制御下に置くことを受け入れられるか? 嫌悪感を抱かずにいられるか?」
 アスカは正直に答えた。
「自信はありません……」
「恥じ入ることも悔しがることもない、それが当然だ。だがエヴァとのシンクロにその感情はマイナスになる」
 アスカはああと感慨にふけった。
 ──あたし、こんなのに乗ってるの?
 黒い球体を割いて咆哮を上げた初号機を前に、怯えてふるえたことを思い出す。
 確かに不安を抱いてしまうと、とても親和など望めなくなる。
「あれはそういうものだと理解しているが?」
「その通りです」
「本部はむしろ冒険が過ぎると言えるな。そういった意味では量産型の建造は急務なのかもしれん」
「ま、今は彼女のお手並みを拝見と行きましょう。なにしろエヴァが発現できる力の限界を知るものは、やはりそれを開発した当人だけでありましょうからね」
 加持はそう言ってにやりと笑った。エヴァのパイロットに問われる資質は二つある。一つは親和性であり、そしてもう一つはいかに理解しているかであった。


「発進!」
 ミサトの号令に従って、エヴァンゲリオンが射出される。
 地上に出たところで使徒はまだ稜線の向こうである。ミサトはゆっくりとユイに配置についてもらうつもりであった。
 ──しかし。
「え?」
 モニタに映されていた景色の一点に光が生まれた。それは一瞬にして長い距離を駆け抜けて、郊外に立ったエヴァンゲリオンの元へと到達した。
「ユイさん!」
 山を、大地を融解せしめて、くりぬいて、吹き散らし、閃光は容赦なく初号機に襲いかかった。
 初号機にぶつかって光の奔流は激しく舞い散る。ミサトたちには影としかエヴァンゲリオンの姿を望めなかった。
「ユイ君!」
 ふがふがと声を発することのできない夫に変わって、老人が声を上げる。
「すごい……」
 そんな中、マヤが呆然といった(てい)で言葉を漏らした。
「エヴァ初号機、健在です。まるでダメージを受けていません」
「なんですって?」
 リツコは信じられないとマヤの手元をのぞき込んだ。
「ATフィールドが展開されてる?」
「これはそんな生やさしいものじゃ」
 粒子の束が弱々しくなり拡散を経て霧散する。
 するとそこには、金色のまゆとでも表現すべき物体がうずくまっていた。
「あれが初号機なの?」
 正しくは翼であった。先日顕現したものと同じ電磁の翼だ。
 しかしその質は違いすぎた。
「きれい……」
 陶然とした表情をしてマヤが口にした。
 ゆっくりとひもとくように翼を広げる。内から外へ、幾枚も。
『やってくれるじゃない』
 しかしそれを成している人物の言葉は、とてもぞんざいなものであった。
『先手必勝ってわけ? なめたことをして』
 時に二枚、時に十二枚と、重なってはまとまり、また広がっては離れる。
 そんな翼たちを大きく羽ばたかせて、ユイは初号機を飛翔させた。ただし身長の三倍程度の位置にである。アンビリカルケーブルの都合であった。
 ユイはぺろりと唇をなめた。まさに舌なめずりであった。
「い、く、わ、よぉ?」
 エヴァがゆっくりと水平に腕を交差させる、右腕を上に、左腕を下に。
 接触部分に奇妙な発光現象が見られた。エヴァの消費電力が目に見えて上昇し、ピークを維持した。
 恐ろしいほどの電力が初号機の体内に蓄電される。
 本来アンビリカルケーブルの接続中は無制限を示すはずであるバッテリーのカウンターが、不安定な表示を行った。
 両腕の筋肉がふくれあがる。初号機は吸い付いて離れなくなった腕を、無理矢理引きはがそうと試みた。
 あごをのけぞらして何事か吼えた。勢いよく腕が開かれたことによってそこに発生していた磁場が恐ろしい速度で回転した。
 錐のように尖って前へと飛ぶ。それは使徒が推力を()るために見せた能力とまったく同じものであった。
 低い山のいくつかをえぐり取って雷光は飛んだ。望遠レンズでも捉えられない遙かな果てに、巨大な火球が誕生する。
 青い空が一瞬白くなり、次には赤々と燃え上がった。
「衝撃波来ます!」
「衛星からの回線に切り替えて状況把握を!」
「巨大な核パルスが電子機器を……」
 悲鳴のような報告が次々ともたらされる。
「なんてことを……」
 キノコ雲が立ち上る。リツコはこんな真似ができるものなのかと唖然としながらも、それでも責任者としての責務を果たした。
「ユイさん……」
『なに?』
「戻ってください」
『どうして? これからじゃない』
 ぞっとするような笑みに、こんな人に喧嘩を売っていたのかと空恐ろしくなる。しかしそれでも言わなければならなかった。
「このままではブレーカーが落ちます」
『……そう』
 それは残念とユイは諦めた。
 通電に電線を使っている以上、時間あたりのエネルギーの供給量には限界がある。それをプールすることで先のような攻撃を行ったのだが、充電時間が必要となるのはやはり致命的な問題であった。
 これをカバーするために、常に最大電力の供給を促していたのだが、今度はその大本が悲鳴上げているというのだ。
 ユイも初期からの職員であるからか、この無茶がどれだけの無理を強いているのか知っていた。だからおとなしく引き下がろうとした。しかし。
『何事なの!?』
『ドイツ支部でっ、弐号機が!』
 通信機から聞こえた動揺と狼狽の声に気を取られ、ユイは作ってはいけない隙を作ってしまった。


−Oパート−


 ──きゃあ!
「ユイさん!」
 小さな悲鳴、しかしそれは轟音によってかき消されてしまった。
 天上より雲を貫き、光の柱が降り落ちた。あたかも屹立したかのような形で成り立って、実に静かに大地を責めた。
「高々度からの熱照射ですっ、焦点温度上昇中!」
「エヴァのATフィールドがまるで役に立っていません! 装甲外皮に融解確認!」
「攻撃は使徒からのものです! 都市上空に『端子』を確認!」
「端子!?」
 使徒の様子が映し出される。水平方向の一角から放たれた光は空を目指して消えている。
 そして第三新東京市の上空約二千メートルの地点に、奇妙な物体が浮かんでいた。一見してクリスタルであるそれは、小型の使徒そのものであった。
「ミニチュアの使徒!?」
 それは吸い込んだ光を屈折させて真下へと落としていた。
「波形パターンはあれがコピーであることを示しています!」
「どういうことよ!?」
 解説しましょうとリツコが口を開いた。
「天空の使徒は地表の使徒の端末だと思われるわ。使徒はそれをリモートコントロールすることであのような攻撃を……」
「のんきに話している場合ではないぞ!」
 副司令が一喝した。
「弾幕を展開しろ! 初号機の回収を急ぐんだ! 国連軍にも協力を要請しろ! このままではエヴァはともかく『装甲板』がもたん!」
 はっとしたマヤが別のモニタを呼び出した。
 それは天井都市の土台として積層されている特殊装甲板の状況モニタであった。
「既に三割が溶けてしまっています! ……ああ、すごい」
「ぼっとしてる場合じゃないわね、日向君牽制の方よろしく。青葉君はUNと……」
「もうやってます!」
「ユイさんの状態は?」
「心理グラフに乱れはありますがまだ……でもそう長くはもちません。使徒の攻撃によってアンビリカルケーブルが切れてしまっていますから」
「こうなるとユイさんが蓄電なんて特殊な運用を行ってくれていたことが幸いしたわね」
「使徒の誘導兵器とエヴァとの間に弾幕を張って。爆煙で少しでも減殺を行って。均衡がATフィールドの側に傾けば……」
「了解!」
 マコトは説明はいらないと実行に移した。


 初号機を中心にすり鉢状に地面が沈んでいく。
 溶かされた鋼材が熱波によって生まれる激風に外側へと弾かれてくぼみを深くする。
 その周辺にあるいくつかの兵装ビルは火薬に誘爆したのか、大きな爆発を発生させていた。周囲に火災を広く生んでいる。
 そのさらに離れた場所にある兵装ビルの外壁が開かれる。
 そして無数とも思えるミサイルが途切れなく発射された。
 通常の炸薬弾に限らず、煙幕、照明と、種類を問わずに放出されている。低くはない空で弾けて、火球の落下傘を大きく広げた。
 火の雨が降る……しかし空に生まれた黒煙は、わずかな間だけでも光を弱めた。
「くっ……」
 ユイはもうろうとする意識をなんとかつなぎ止めてレバーを握る手に力を込めた。
 反応したエヴァが翼を広げる。
 ATフィールドの盾を頭上に掲げた初号機は、力を振り絞って跳躍し、くぼみの中より飛び出した。
 ──ユイさん!
 熱い……LCLが熱によって変質している。電化状態からただの液体へと戻り始めている。
 像がぼやけ、伝わる音も判然としない。あげくにはエントリープラグの冷却能力を超える温度上昇に、目と口と鼻と耳と……特に喉から食道にかけてが焼けついて痛い。
 それでも届いたミサトの声に、ユイは自分を待っているエヴァ射出口の穴を見た。


「初号機回収完了!」
「至急シンジ君とレイを呼び出して、それからリツコは初号機の状態確認をお願い」
「わかったわ」
「日向君は零号機の出動準備よろしく。青葉君ドイツはどうなってるの?」
「……最後の連絡は弐号機の無断起動となってます」
「無断?」
「はい……正規登録されているパイロット以外の者が動かしたと」
「まさか!? エヴァを……そんなこと」
「あり得ないとも言えないわ」
「リツコ?」
 リツコは発令所から去る前に、一つの可能性を示唆しておいた。
「ドイツには……特殊な育ちの子供が居るから」
 ──レイのようにね?
 その付け足しの直後に、包帯の隙間から覗けるゲンドウの瞳から、異様な輝きが発せられた。


 ──状況を報告しろ!
 そう叫びたくなる衝動を、アンドルフは必死になって抑え込んでいた。
 この場のトップであるゲイマンをさしおいて、勝手な真似はできないからだ。
「どこが爆発したって!? エヴァンゲリオンの格納庫!?」
「付近に重傷者多数? 爆発の規模がわからないんです。教護班は……いるだけ送れって、そんなに酷いんですか!? あ、もしもし!?」
「通信が途絶えたぞ!? どうなってるんだ!」
「有線は使える!」
「電波障害か? どこかの機械に異常が?」
「いやこれは……」
 ドイツに配備されているマギクローンが警報をかき鳴らした。
「今度はなんだ!?」
「パターン青!」
「使徒!?」
 一瞬、沈黙に閉ざされた。
「そんな……」
 ぎちぎちと嫌な音が通信機を通して耳に触った。
「なんの音だ?」
「隔壁? 隔壁がどうしたんだっ、おい!」
 その時になって、ふいにカメラが回復した。
 そして誰もが唖然とした。
「エヴァンゲリオン弐号機?」
 隔壁の隙間に両手を突き入れ、無理矢理左右に押し広げようと歪めている。
 合間から覗けた顔はフェイスガードが開かれており、異常な眼光を確認させた。
「誰が動かしているんだ……」
「まさか使徒が?」
 シンとなる。
 だが下位の者と上位の者とでは、あまりにも沈黙の意味に差があり過ぎた。
(アンドルフ)
(わかっています)
 二人は小声で確認し合った。
 エヴァンゲリオン。その生成には使徒の細胞を母胎として使用している。しかしそこには重大な欠陥が存在していた。
 エヴァンゲリオン、しいては使徒を構成している未知の物質については、なんら解明が進んでいないのが現状だったのだ。
 粒子と波の両方の性質を併せ持った光のような物。だがこの固有波形パターンは人の遺伝子が持つ物と酷似していた。
 99.89%という高い一致率でである。
 ただ一点……その点だけを頼りに使徒の細胞より生成されたのが人造人間エヴァンゲリオンである。形而上学という分野から発生したATフィールドに関する考察などという荒唐無稽な論文を元に、未知の物質に人の遺伝子の固有波形パターンを転写して生成した。
 そうして生んだのがエヴァンゲリオンなのだ。
 決してその体躯を構成している物質はタンパク質などではない。当然遺伝子情報などというものも持ち合わせてはいない。そもそも染色体などというものすら存在していない、まさに未知なる物質の塊なのである。
 それを人が扱えるように操作機械を組み込み、そしてATフィールドが崩れないように、そして強度に展開できるようにエネルギーの供給機関を搭載した。
 これがエヴァンゲリオンである以上、いつ外郭を形成しているATフィールドから人の固有波形パターンが失われ、使徒のものに写し代わっても少しもおかしくはなかったのである。
 そしてコントロールが簡単に失われてしまうことは、実は容易に想像できる問題であった。
 人と同じ物質で、人と同じような器官を持って、人を等倍にしたサイズで存在しているものではない。まったく別種の存在である以上、本当に『それ』に意志や意識といったものが存在していないのか?
 誰にも確かめる術はなかったのだから、何が切っ掛けで意識が浮上し、使徒化するかはわからなかったのである。
 ──しかし。
「待ってください」
 そんな二人が抱いた懸念は、あっさりとその報告によって否定された。
「プラグのエントリーが確認できました。誰かが乗っています」
「誰だ!? ……まさかキョウコか?」
「いえ、違います。起動ログを確認しま……え?」
 そのオペレーターは、我が目を疑いつつ報告した。
「……乗っているのは」
 そのモニタには、アレクサンデル・ジークフリードの名が刻まれていた。


 ──そして。
「歌は好いねぇ……歌は人の心を潤してくれる。まさにリリンの生み出した文化の極みだよ、そうは思わないかい?」
 彼はついと気を失っているベアトリーチェのあご先を指でなぞった。いやらしく。
 隔壁を突破して外へ出ようとする弐号機の背後、爆発によって壁が外側へとふくらんでいる格納庫の中、熱によって呼吸することすらできない世界の空中に、金色の光に包まれて、ベアトリーチェを左のももに組んだ右足の台に抱き寝かせ、彼はそうのたまった。
「さて彼はどんな前奏曲を奏でるつもりか? 僕のために場を暖めておくれ」
 ベアトリーチェごと彼を包むまゆは小さくなって弾けて消えた。後は光の粒子のみが、火の粉と混じって巻かれて散った。


−Pパート−


「どうなってるの!」
「惣流博士は司令室へ!」
「でも!」
「ここの処置は我々がやります!」
「……わかったわ」
 苦渋の顔をさらに歪めて、キョウコは患者の治療に見切りを付けた。
 消毒と包帯を巻くことしかできない……それでも時間と共に患者は増える一方なのだ。
 止血のための手さえ足りていない、そんな現場から離れることには、抵抗を感じずにはいられなかった。


「電源は?」
「作動中です」
「しかしアレクがどうして?」
「わかるものか!」
 ゲイマンは吐き捨てた。
「元々アレクについてわかっていることは少なかった! わかっていることはと言えば、碇博士とキョウコの研究レポートを元にして作られたということぐらいだ!」
 この表現に反応したのは加持だった。
「ファーストチルドレンとは違うと?」
「あれは……あれは独自に生成された存在のはずだ。だが同じところから端を発しているのなら、どうかはわからん」
「その発生元というのがレポートですか」
「そうだ! ……アスカ?」
 今のものは加持の質問ではなく、アスカだった。
「使徒から作られたエヴァンゲリオン……エヴァから作られたファーストチルドレンとアレク? アレクが使徒化した? それともエヴァとの融和? 親和性の問題? ……わからない。ママのレポートって言うのが」
「わたしが研究していたのは、エヴァとパイロットとの親和性向上の問題よ」
「ママ!」
 遅れましたとキョウコは支部長に頭を下げた。
「……アレクなんですね?」
「そうだ」
 ゲイマンは深く椅子に尻を預けて憤慨した。
「どこまでも問題を起こす男だよ!」
「昔も今も……ですか?」
「そうだ!」
「ママ! 親和性の向上って?」
 キョウコはオペレーターの一人に席を譲ってもらいながらアスカに……というよりも、その場のみなに聞こえるように説明した。
「始まりはユイのレポートだったわ。エヴァンゲリオンを構成している物質についての変化と変質。人のパターンを取り込ませることによってどのような変化をきたすか」
「同調率を上げるために波長を組み込んだ?」
「問題になったのはATフィールドが人のオーラと変わらないものだったということよ。ほら、葉の半分を切り取ってもオーラ測定器にかけると切り取った部分にはオーラが元の形のままで現れるでしょう? つまりそれは遺伝子のように便利なものではないという証明になったわ」
「どういうことよ?」
「染色体は便利なものよ……髪の毛一本にも人体すべての情報(ジーン)が詰まっているんだからね? でもオーラは情報体ではないのよ」
「そっか……頭なら頭のパターン、腕なら腕のパターンがいるから」
「そう。エヴァを人の形に……いえ、生物の形にまとめるためには、その生物一体分のパターンが必要になるのよ。波長の一部を転写しただけでは形にはならないわ。その上でパイロットが同調することを考えなければならなかったから、必然的にその『生け贄』は人が適していると判断されることになった」
「じゃあママの研究って!」
「いいえ、ユイの研究よ。いかに自分に近い自分のダミーを作り出し、それをエヴァに組み込むか……でもユイは失敗したわ」
「失敗?」
「そう……あまりにも精巧に作り過ぎて、人形に魂が宿ってしまったのよ」
「それがファーストなの?」
「ええ。魂が宿ってしまった人形は、一個の人格を形成したわ。そうなるとその物体が放つ波長は、変調をきたしてオリジナルとは違ったものになってしまうから、エヴァに組み込むだけムダということになってしまった」
「使い物にならなくなったっていうのね……」
「だからって殺すことはないから、ユイは娘……いえ、シンジ君のお嫁さんとして育てることに……どうしたの?」
「……なんでもない」
「そう?」
 親指の爪をかむ娘のいらだった姿に、キョウコは軽く首を傾げた。
「まあ……だからわたしに与えられることになった研究テーマは、いかにして魂の宿らない物体を作り上げるかというものになったのよ。魂を持たず、それでいて限りなくわたしに近い複製品を育て上げるか……残していったダミーのわたしもその内の一体だったのよ」
「サイテーね」
「そう? でもエヴァを実用品にするためには仕方のないことだったわ」
 はっとアスカは蔑んだ。
「幻滅……」
「え?」
「ママがそんな女だったなんて思わなかったわ」
「そう……」
「勘違いしないでね。別にやってたことなんてなんとも思ってないわ。たとえあたしがエヴァとの親和性を見越して作られた人工胚からの産物だったとしてもね」
「アスカ!」
 だから、そんなことは気にしてないのよと切り捨てた。
「でもね、お願いだから仕方がなかったなんて言葉、使わないで欲しかったな……。だって仕方がなかったって言葉は、免罪符の代わりとしてある言葉なんかじゃないでしょう? 仕方がないって言葉はね、迷惑をかけられた側が許してあげるよって気持ちで使うためにある言葉なのよ。許しの言葉なの。自己弁護するようなことはしないで欲しかった。それだけよ」
「アスカ……」
 悲しそうにするキョウコの表情を目にしても、アスカはその態度を変えなかった。それは仕方がないんだと口にしていたミサトやシンジの姿が、心のどこかに浮かび上がってしまっていたからだった。
(そうよ……ごめんなさいって言えないからって、逃げるために使う言葉なんかじゃなかったのよ……良いよ。仕方のないことでしょう? だから許してあげるって、そう口にして欲しい言葉だった)
 アスカは監視カメラの中に入った弐号機の姿を見上げ、それからきびすを返した。
「アスカ! どこに行くの!!」
「……弐号機のところよ」
「アスカ!」
「大丈夫……きっとね」
 アスカは肩越しに苦笑して見せた。
「エヴァにはママの知らない可能性もあるんだから……あたしがそれを見せてあげるわ」


「母さん!」
 駆け込み、咳き込み気味に言葉を発したシンジに対して、ユイは疲れた微笑をなんとか返した。
 ガラス越しにである、その瞳は少しミスッちゃってと笑っていた。
 それでもユイが担ぎ込まれているのは集中治療室なのだから安心はできない。
「母さんは大丈夫なんですか!?」
 医師に食ってかかる、その背後にはレイが居た。
 ぽんとシンジの肩に手を置く。
「綾波……」
 シンジは何か言い返そうとしたが、諦めて肩から力を抜いた。
レイの背後にミサトが現れたからだ。
「シンジ君……悪いんだけど」
「はい……」
 力なく肩を落として従う。
 未練の残る様子で立ち去るシンジの背中を見送り、レイはユイへと視線を向けた。
 ユイの目が何かを語る。
 レイはそのメッセージを受け取って、彼女にこくりと頷き返した。
「……碇君は死なせない、わたしが守るから」


「……」
 しかしシンジとは違って、守ってくれる者の居ないアスカの戦いは孤独だった。
(大見得切っちゃったけど、運が悪ければエヴァに近づく前にこの天井が落ちてきて、あたしは瓦礫に埋もれて死ぬことになるかもしれないんだ)
 アスカは大股に歩いてその意気地のなさを吹き飛ばそうとした。
 必要以上に胸を張り、毅然とした態度を取る。
 しかし天井のみならず壁までも震えれば、それは怖くなっても仕方がないと言えてしまう話であった。
 今にも壁が押し迫ってきて、圧死させられてしまうかもしれないのだ。
(……でもあたしはまだ。死ぬことにはならないはずだって確信してる。だってこんなところで死ぬことになっているのなら、どうしてここでこうしているのが『アタシ』なのよ? 別にアタシでなくて、普通に生きているあたしでもよかったはず……それがあたしである理由は一つ。もう一度あの街で何かが起こることになっているからよ。行くことになっているからよ。シンジとあたしが揃う必然性があるからよ)
 だからここは乗り切れる。アスカはそんな根拠にならない論理を展開して虚勢を張った。
(エヴァは……止められる。止まるはず。だってあれはあたしの弐号機なんだから!)
 アスカが向かったのは司令所から通じている格納庫だった。そこは弐号機が収容されていた場所とは外への搬出口を挟む形になっている。
 そしてちょうどアスカがそこへたどり着いた時、向かい正面になる隔壁が破られ、のっそりと弐号機がその顔を割り入れるようにして現れた。
「さあ……来なさいアレク。それの本当の(あるじ)が誰であるのか教えてあげるわ」
 弐号機の首がアスカへと向く。
 それは搭乗しているアレクがアスカを見つけた証拠であった。
「アスカ……」
 アレクはタラップに立つアスカを見つけて小さく唸った。
 その顔には様々なものが浮かんでいる。愛憎だけではなく、後悔の念もまた含まれていた。
「アスカ……」
 アレクは二度目のつぶやきに、最初のつぶやき以上の思いを込めた。
「でも、僕はもう戻れないんだ」
 ──プラグの中は変質していた。
 LCLは乾くと同時に高質化し、繊維状の鉱物となってプラグ内を駆けめぐっていた。
 枝のように分岐し、そして壁に床に張り付いている。時折震動にパキリと折れる。
 もちろんシートに座っているアレクの体にも張り付いていた。硬化して、彼の体を拘束している。
 しかし同時に彼の神経をエヴァへと伝達する神経束となって働いているのか、その枝の中には多量の光が走っていた。
 アレクの瞳は白く濁っていた。それでいて白目は毛細血管が破れて赤く染まっていた。
 白と赤が反転している。しかし彼はアスカの姿を確実に捉えていた。
 徐々に……徐々に彼の顔に狂気の相が現れる、浮かび出す。
 それは彼本来の表情からはかけ離れているものだった。
「さあ……おいでアスカ、僕のアスカ」
 彼は恋人へと手を差し出すように、エヴァの手をアスカへと向けた。
 内からあふれだしている想いは、ここ数日の、悶々としたものが歪んでしまったものだった。


−Qパート−


 巨大な手がアスカへと伸びる……そしてそれを止められる者は誰もいない。
 アスカは巨大すぎるエヴァの迫力に息を呑んだが、それを表情や態度に表すことはしなかった。
 殺そうというのではない。捕らえようというのだろう。しかしエヴァの手のひらにそんな繊細な真似ができるのかどうかが疑問だった。
 優しく握り込むつもりでも、そのまま潰してしまうかもしれない。自分ならきっと潰してしまうだろうと想像して、さらにはシンクロ率とハーモニクスが高ければできるのだろうかと考えた。
 ──それは現実逃避だった。
「ぐっ、う!」
 体を掴み上げられる、想像以上の圧迫感に襲われたが、案外エヴァの指には隙間が多く、潰されてしまうことにはならなかった。
 特殊樹脂のグローブにはしわが寄っていた。アスカはなんとかその隙間に体を入れて安定させた。
 涙目になってしまうのをなんとかこらえて顔を上げる。巨大な顔。普段は何気なく見上げていたその顔が、今はとてつもなく怖く感じた。
 それはフェイスガードが開かれ、エヴァ本来の目が見えているためだった。
(笑ってる……)
 細長くなっている。
(まるで初号機みたいに)
 悪寒が走る。
 しかしアスカは、シンジが自分の乗る機体に対しておかしな感想を抱いていないように、自分もまたこの機体の本当の姿についてを、客観的な視点から見たことがなかっただけなのだと言い聞かせた。
 ──アレク!
 アスカはそう呼びかけようとしてやめた。ここで安っぽい説得を行ったところでどうなるというのか?
 刺激してしまうだけで終わるだろう。
(ならあたしを提供する?)
 アスカの頭脳はそれも無駄だと否定した。
(論理的な思考が働いている状態なら、こんな真似はしないはずよね。エヴァを使わなくてもあたし一人くらい、力ずくでなんとでもできたんだから)
 では何故エヴァなのか?
(力の象徴……そうね、エヴァを使って二人だけの王国を作る……っていうのが順当か)
 つまりは目先のことに囚われているのだとアスカは読みとった。
「アレク……」
 アスカは静かに語りかけた。
「一つだけ教えて……あたしとどうしたいの?」
 こわばった。アスカはそう感じた。そしてやはりかと確信を深める。
(あたしの体に用があるんじゃない……かといって何がしたいってわけでもない。ただ焦りからあたしの確保に走った? そんなところね)
 だがアスカの想像は大きく外れてしまっていた。
「くっ、う……」
 アレクはシートの上で額に手のひらを押し当てていた。
 爪を立ててしまっている。皮がむけて血がにじみ出していた。
「アスカ……」
 もうろうとした視界にアスカの顔が写り込む……いや、アレクの頭の中に直接アスカの姿が生の信号として送り届けられていた。
 目は彼女への思慕の念があふれているのに、口元に浮かぶ笑みはいやらしいものになっている。
 引きつっているのは、そのあふれ出てくる感情に対して、必死にあらがっているからだった。
 ──ベアトリーチェとのやり取りが思い返される。
「それで? わたしを捨ててキョウコの元へ走る気になったの? それともアスカ?」
 そうじゃないと訴えたかった。
「どちらでもかまわないわ……元々がそういう関係だったものね。でもあなたは結局いってしまった。わたしじゃ物足りないと人を馬鹿にした態度でね」
「それは僕じゃない……」
 ベアトリーチェはそんな彼の言葉をあざけり笑った。
「そう思っているのはあなただけでしょう? 一つ一つの行いがあの人と重なるのよ、考え方も、仕草まで……。そのくせ別の人間だと主張する。わたしにとってはあなたもアレクも変わらないわ、同じに見える……そして事実同じ人だものね」
 気が付けば、彼女に襲いかかっていた。
「わたしを殺すの? 殺せばいいわ。誰も彼も殺して、一番欲しい女と二人だけで暮らしなさい」
 ベアトリーチェがどういうつもりだったのかはわからなかった。首にかけた手に力を込めすぎて、彼女を気絶させてしまったからだ。
 泡を吹いて気を失ってしまっていた……殺してはいないが、死んだだろうとアレクは想像していた。弐号機の破壊の余波に巻き込まれて。
「くっ!」
 彼はグリップに力を入れそうになってしまう右腕に左腕を添えた。
 そして懸命にわき上がってくる衝動に耐えた。
 殺せと半分重なり……そして半分ずれている誰かが脳裏で囁いている。
 科学者としての名声、資産家としての富、そして母に向けられる敬愛と、女としての性の喜び。
 男にあって、女に無く、男に無くて、女にはあるもの。
 それらすべてを浅ましくも手にしようとする女という生き物を許すなと、心の誰かが喚くのだ。
 身勝手な生き物──女。
 だがそれに振り回された自分自身こそが情けなく、そして軟弱であったと冷静に見る自分もいる。
 それは祖であるアレクと、今居るアレクとの葛藤だった。
(アスカ……)
 飲み込まれるところだったと焦りを抱く。もしアスカが訊ねてくれなければと思うとゾッとする。
 寄宿舎での生活がそうであったように、アレクはさほどアスカとの間に特別な関係を築きたいなどとは願ってはいなかった。
 いや……平凡な毎日すらも望んではいなかった。ただ楽しんでいただけだった。
 何も知らないアスカの傍に立ち、会話をすることでおもしろがっていた。そんな独りよがりの愉悦感を楽しんでいた。
(ここまで……狂った感情を抱いて『父さん』は死んだのか)
 エヴァと同じ技術を持って作られたアレクという複製体には、エヴァを生産するために不可欠である工程が組み込まれていた。すなわち元となる存在の、ATフィールドの焼き付けである。
 その波長に狂おしいほどの思念が波紋となって浮かび上がる。残留思念……そして狂気。
 それらはまさに怨霊が取り憑いているに等しい形になっていた。
「アスカ……逃げろ!」
 アレクはアスカを解放しようとして、できなかった。
 タイミング悪く、崩落が起こったからである。
「うわ!」
 天井から鉄骨が振り落ちてくる。アレクはアスカを守ろうとした……しかしエヴァはそのアレクの意志には従わなかった。


−Rパート−


 それがエヴァの意志であったのか、それとも搭乗者の思考が正確に実行(トレース)された結果であったのか、それはあまり重要ではなかった。
 駒落としの映像を観ているように、アスカの姿が宙に舞って……消えてしまった。
 ──ATフィールド。
 降り落ちる瓦礫を払いのけるよう展開されたそれは、破片とアスカを区別できるほど優秀ではなかった。
「アスカぁ!」
 身を乗り出したアレクの全身からパラパラと粉が床にこぼれ落ちた。
 身を固めていた結晶体も一度に折れる。
 しかしアレクは気にもとめずに、ただアスカが居たはずの場所を凝視し続けた。
「アスカ……」
 体を折るようにして吹き飛んでいった。壁に当たって跳ね返り、コンクリートの塊にもまれながら消えた気がする。
 ──ボクが?
 彼の無意識の気持ちは、その前にも、後ろにも位置付くことのできる言葉が思い浮かんでくるのを拒絶した。
 コロシタ……と。
 ボクがコロシタ……と、そしてコロシタ? ボクが? と。
 ……どすんと、彼はシートの上に腰を落とした。しかし見開いた目には現実は写り込んではいなかった。
 アスカの幻影だけが残されて……。
 ──レッドアラーム。
 プラグ全体に亀裂が入り、その隙間から金色の液体が染みこんできた。
 壁を伝って底へと溜まる。徐々に深さを増していく。
 そして彼を飲み込んだ時、プラグの中は赤色に染まった。……それはかつて、碇シンジが初号機に取り込まれた時と、まったく同じ光景であった。


「アスカ!」
 キョウコは半狂乱になって喚き叫んだ。なぜ行かせてしまったのだろうかと今更悔いてももう遅い。
 アスカは死んでしまったのだから……少なくともモニタで確認できた様子では、アスカはタラップから落ちたように見えた。
 今更ながらにただの子供であったのだと思い出す。言動の怪しさから妙な考えを持ってしまっていた。だがやはり子供であったのだと彼女は悔いた。
「終わりだな……」
 こぼしたのはゲイマンだった。
「たとえこの場をおさめることができたとしても、アスカを失った以上はネルフドイツは終わりだよ」
「は?」
 なにを言っているのかとアンドルフは気色ばんだ。それをわからんのかねとゲイマンは揶揄する。
「エヴァンゲリオン? あんなものは囮にすぎんよ。われわれにとって重要なのはチルドレンだ。違うかな? キョウコ……惣流博士」
 キョウコは聞いていないようだった。
「アスカ……」
「ふん……人はエヴァに興味を示す。そしてチルドレンとはエヴァとの親和性を持った個体のことを指し示す。だがその個体はエヴァ生成の段階でどうとでも選べる仕組みになっている」
「……形而上学の問題ですか? 先のお話にあったエヴァ生産のための人のATフィールドを転写することによる形状固定の」
 そういうことだとゲイマンは頷いた。
「わかるだろう? エヴァは搭乗させる予定の子供を選抜した後で、専用機として生産すれば好いだけの代物なんだよ。それが証拠に『委員会』からこんな情報が漏れだしてきたよ」
 アンドルフは委員会との言葉に眉をしかめながら書類を手に取った。
「戦略自衛隊の……少年兵?」
「表向きはな」
「そうではないと?」
「何年後かには戦争に使えるからと十四・五歳の子供を集めているそうだが……真実は違う。ネルフのチルドレンの情報を故意に漏らして、子供を集めさせているようだ」
「なんのために?」
「その中からチルドレンの適正を持った子を選び出すためだろうよ」
 まさかと彼は驚きをあらわにした。
「我が国でもこのようなことが?」
「あり得る話だよ。少年兵に限らず、国やボランティア団体でも、青年団でもなんでもいいんだ。適当に刺激になる話をばらまいて、集めさせておけば、適正値の高い子供を効率よく発見できる」
「第三新東京市では……いや」
 そうかと気が付く。
「学校……」
「世界中の学校が対象とは思えんがな」
「ですがどうしてそんな真似を?」
「中にアスカのような……サードチルドレンのような子供がいるとすれば?」
「……」
「アレクやファーストチルドレンとは違う。自然発生の個体だ。それも特殊すぎる親和性を持った個体だ。十四歳という年齢に得に意味はないんだろうな。強いて言えば子供過ぎては生体磁場情報があやふやすぎて使い物にならず、逆に大人になってはサンプリングはしやすくとも、いざ搭乗する事態となった時に、同期を行わせても柔軟性が発揮されん」
「シンクロに問題がでるわけですか……」
「大人は他人に合わせるのがヘタだからな……だが子供はどこの誰とでもうまくやる」
「柔軟性を失っていない年代となるとそうなるということですか」
「もちろん、セカンドインパクトでまき散らされたという、特殊な生体波の存在も無視できないがな」
「そして我々の手元にあったサンプルは失われてしまった?」
「その言い方はアスカに失礼だろう? 彼女はサンプルなどではない。違うか?」
 アンドルフは失敬と居住まいを正した。
「……少々動揺してしまっていたようです」
 それはわたしもだよとゲイマンは口にした。
「つい暴露話をしてしまったな……緊張の糸が切れたのかもしれん」
 そして誰かが悲鳴を上げた。
「弐号機が動き出します!」
 やれやれとアンドルフはため息を吐いた。
「で、どうしますか?」
「N2の準備でもさせておくさ」
「ここごと消し飛ばしますか」
「ああ……どうせこの不祥事で俺たちの首は飛ぶだろうからな。だったら不始末はこの手でけりを付けておくべきだろう」
「本部ほどではないとは言え、キロトン級のN2が常備されていましたな」
 その確認の仕方にトゲを感じて、ゲイマンはなんだとアンドルフに問いただした。
「言いたいことがあるのなら言えば良かろう」
「いえ……」
 歯切れ悪く、彼は言った。
「大きくないとは言え、周辺地区には町があります。巻き込むことを考えると胸が痛みます」
「嫌みか……」
「そうなるからこそ、黙っていようと思ったのですよ」
 だがそれもまた嫌みではないかと、ゲイマンは苛立ちを込めて睨みつけてやった。


−Sパート−


「碇君?」
 瞑目しているシンジに対して、何かしらの懸念を抱いたのか、レイはおそるおそる呼びかけた。
「なにを考えているの?」
「……」
「あなたはただ……引き金を弾く、それだけよ」
「でもそれだと綾波に盾になってもらう必要がある」
 シンジとレイは自然に昔のことを持ち出して会話していた。
 その妙な言動をいぶかしむようなこともない。もうすでにわかりきっているからだ。
 ──シンジがシンジであり、レイがレイだということを。


『アスカ!』
 しかしそんなレイであっても、彼女の知らないシンジが居た。
「アスカってば!」
「……」
 アスカはがけの上に立って、海の底に見えるものに目を細めていた。
「ほんとに『行く』気なの?」
 どこかで拾った白いワンピースの裾を強風にはためかせ、アスカは振り返った。
「……こんなところであんたと二人っきりでいるよりはマシでしょう?」
「ごめん……」
 何かをこらえると、アスカはあ〜あと肩をすくめた。
「なんであんたってそうなのよ! いつまでたってもわかりゃしない……別にあんたのせいじゃないっての! あんたがなにしてくれたって、こんなところじゃ堪えられないのよ!」
 崖下で潮が弾ける。青く戻った海の底には、遠くに落ちた巨人の半顔の残りが沈んでいた。
 顔は上を向いている……しかし目玉があった位置にはくぼみがあって、その奥底では眼球や神経や筋肉ではないものがちらついていた。
 ……それは景色だった。自分が知っている街並みと空だった。
 アスカにはアメリカに見え、シンジには箱根に見えた。
(なんっでわかんないのよ! ばかシンジ!)
 すぐに自分のせいだと決め込む……その態度がいらつくのだとアスカは内心で吐き捨てた。
(あたしが帰りたいのは……退屈だからよ!)
 それは別段シンジが悪いというわけでない。
 シンジがなにかをしてくれないから、相手をしてくれないからというのでもない。
 大学を卒業した自分……学力の、学歴のあるアスカという個人を満たしてくれる、探求心や好奇心を刺激してくれるものがないというこの現実が嫌だった。
 頭の回転が良すぎ、働きも悪くないアスカであったから、知的好奇心もまた旺盛だった。
 しかし電気の止まった世界で得られる情報などは限られていたし、求める本を見つけられたとしても、そのどのページになにが記されているかを知らない以上、確認する手間は激しすぎた。
 結局、時間ばかりが過ぎ去ってしまった。
 アスカの探求はコンピューターによる検索という効率の良さの上にこそ成り立っていたものだった。それゆえにか、本を対象にして知識の探求を行うような、そんなまどろっこしい手段には、彼女の感性は堪えられなかったわけである。
 知りたいことがあったとしても、遅々として進まない……そんな苛立ちがアスカに過去への郷愁の念を募らせていた。
(だからあんたが悪いってわけじゃないのよ……)
 アスカは思う。
(でもね……魅力がなかったっていうのは当たってる。あたしはあんたに興味なんてなかった。だってあたしは……)
 子供だったとは思わない。
 ただ異性に満たしてもらうようなことを望むタイプではなかったと気づいただけだった。
 異性から与えられるようなものだけでは、とうてい自分は埋まらないのだと知ったのだ。
(だからあたしは死んでも好いと思った……それでも試してみたかったのよ)
 帰ることができるかもしれないからと。
 彼女は海に飛び込んだ。
 潮の渦に飲み込まれ……。
 そして彼女は海の底にある懐かしい街へ向かって……。
 深く深く、沈んでいった。
 そして今。
 ──あ、懐かしい。
 アスカはあの時と同じ浮遊感を味わっていた。
 全身を包み込む柔らかく暖かなもの。それは粘度をもって体を縛り、抵抗感を味合わせるのだが、だからといって不快なものとは違っていた。
 それは穏やかな海の包容だった。
 上にも下にも空があり、その中央をくるくると回った。やがて二つの空は一つとなって、天に太陽、地に地球の姿が見えた。
 ──アスカはその狭間の世界を通り過ぎた。
 途中でシンジの姿を見た気がした。シンジは横になり、その上にはレイがまたがっていた。
 だがそれは一瞬のことであったから、錯覚か、さもなくば幻影を見たのであろうと考えた。
 ……その時の記憶があったから、アスカは自然と、シンジの姿を捜してしまった。
(居た……)
 そして見つける。
(シンジ?)
 だがアスカが見つけたシンジは、あの時のシンジとは違っていた。
 なによりも世界は金色をしてはいなかった……あの、海の底から見上げた。太陽が金色の世界をかもしだしてくれていた世界とは違っていた。
 いつしか浜辺に立っていた。
 濡れそぼった姿をして、足を波に取られながら、アスカはその不思議な光景を眼前に眺めることとなってしまった。
 浜辺の先には……なんの変哲もない住宅街が広がっていた。
 団地があって、小さな公園があった。常緑樹が植えられていて、その根元で、男の子がお母さんに、なにかを差し出し、口にしていた。
 ──もう、いいのね。
 不思議と、その女性の声だけがよく通った。
 少年がなにか言ったようだったが、それがなにかはわからなかった。
 ただ……幼いシンジの無邪気な横顔が見えた時、彼女が誰なのかはっきりとわかった。
(ああ……ママなんだ)
 そして彼女は顔を上げて、アスカに訊ねた。
 ──お母さんは、どうしたの?
(ママ?)
 ──あなたのお母さんは、向こうでしょう?
 ママ!
 アスカは母の気配を感じて、振り返るなり叫んでいた。


「止まった?」
 呆然とこぼされたつぶやきに、もっとも強く反応したのはキョウコだった。
「どうしたの!?」
「エヴァが止まりました……いえ、活動自体は止まっていないんですが」
「それじゃわからないでしょ! どいて!」
 無理矢理オペレーターの席を奪う。
「どういうことなんだ?」
 ゲイマンは別の人間に尋ねた。
「ATフィールドは現在も展開されているのですが……エヴァのパターンが変化しています。パターンがブルーからレッドへと不安定に揺れています」
「なんだと?」
「どういうことですか?」
「使徒とエヴァとの間に差はない……が大きく差を付けるのはやはり人のパターンを転写してあるという点だ。そして人のパターンはレッドなんだよ」
「なるほど……」
「他に変化はあるか!?」
「ATフィールドの波長が変なんです……まるで質量を持ってるみたいに濃密になって」
「濃くなっている?」
「はい……あ、フィールドの一部に妙な反応があります。他はきれいな波を作っているのに、異物でもあるのか歪んで……あ!」
「なんだ!?」
「セカンドです! 異物じゃない、これ、セカンドです!」
 次の瞬間、メインモニターにアスカの姿が大写しにされた。
 まるで大事な物を捧げ持つかのように差し出されたエヴァの巨大な手のひらの間に、彼女は眠るようにして浮かんでいた。

(ママは……ここにも居た)

「作戦、スタート!」
 ミサトはリツコの視線に口を開いた。
「どう思う?」
「わからないわ」
 二人が気にしているのは、初号機が持っている武装についてだった。
 戦自研から徴収してきたという大出力の陽電子砲は、ライフルへと姿を変えて、零号機に任せることになっていた。
 狙撃がレイに任されたのは、得に意味のあることではなかった。零号機には不安があったが、だからといってシンクロ率の観点から言えば、どちらに狙撃を任せても大差はなかった。
 若干……シンジの『暴走』についてが、考慮に入っただけである。
 そして初号機はといえば……右肩にライフル、左には大きな盾を装備していた。それはエヴァ専用に開発された陽電子砲と、スペースシャトル(SSTO)の底部を流用して作られた。急造仕上げの盾だった。
 盾もいい加減な造りであるなら……銃も未だに調整段階にある代物であったのだ。
「実戦には堪えられない……くどいくらいに説明したけど、だめだったわ」
「シンジ君にはなにか考えがあるみたいだったけど?」
 赤木博士にもわからないのかとミサトは期待したが、だめだった。
「あのユイさんの攻撃をしのぎきったATフィールドを相手にするには、レイに持たせたライフルでも弱小すぎるのよ? それを試射程度のレベルでしか使えないものでどう戦うって言うのか」
「来ます!」
 マヤが叫んだ。
「使徒、山間部から姿を見せました。光学で確認」
「零号機ポジションに着きます」
 零号機が程良い高さのビルの上に、長大な砲身を持ったライフルをすえた。
 脇に挟むようにして固定する。
「初号機は囮役に専念して。レイはATフィールドの中和を確認してから攻撃」
「市内に侵入!」
「作戦スタート!」
 ──くっ!
 シンジは盾を捨てようかと思ったが、なんとか肩口に乗せるようにして持ち上げた。
 鈍重に駆け出す。
『使徒の外周部に加速を確認!』
『シンジ君!』
 ──ミサトさんは余計!
 マコトの注意だけで十分だと頭の中で罵って、シンジは軌道から斜めにずれるように移動した。
 盾に閃光が直撃する。それを受け流しつつ軸線から逃げる。
『シールド強度30%減!』
 視界の右隅に円形のカウンターが表示され、三分の一ほどメモリが減った。
「綾波!」
 シンジは叫びつつフィールドの中和を開始した。ビルが見えない手に押されて歪み、倒壊する。
 ビルの谷間を青い閃光が駆け抜けた。それは一直線に使徒へと向かった。
 ──天空から、光が落ちる。
『衛星!? そんな!』
『さっきの攻撃に紛れて、上にも撃っていたの!?』
(言ってる場合じゃないよ!)
 光はレイが放ったポジトロンスナイパーライフルの斜線上に突き刺さった。
 ──衝突する。
『第二射用意!』
 ミサトの声は悲鳴のようだった。
 散らされた大出力のレーザーは散華して巻き沿いを望み、街を業火の中に沈めてしまった。
 細かな粒子となってガラスに、コンクリートに無数の穴を空ける。その数は知れない。大きな穴になればビルの半分をもぎ取っているし、小さなものになれば何ミクロンという世界でスポンジ状に犯していった。
 ビルが崩れる、火の手が上がる。
 シンジと初号機はその朱に照らされながら駆けた。
『使徒の第二射が来ます!』
『レイ、避けて!』
 ライフルをどうするのかという疑問は誰も抱かなかったが、攻撃の続行を望んだ人間が一人だけ居た。
「だめだ!」
 レイはビクンとすくんだ様子を見せて、逃げる間を失ってしまった。
 そのために照準合わせが間に合ってしまった。
 そしてスコープの向こうでは、使徒の中心に白い発光現象が確認できた。
『レイ!』
 ミサトの絶叫。
 マヤあたりの悲鳴も聞こえた。しかしレイは無事にすんだ。
 ──シンジによって。
「うわぁああああああ!」
 盾を投げ捨てて、シンジはライフルを使徒に向け撃った。その攻撃は使徒を直撃したとしても、表面を撫でる程度の威力しか持ち合わせてはいなかったが……。
 ──ビームに干渉を引き起こし、軌道をずらすには十分だった。
『これを狙って!?』
 リツコの驚愕が耳朶を打った。
 それがレイに引き金を弾かせる切っ掛けになった。
「くっ!」
 カチリとスイッチが鳴った。
 ライフルから凶悪な閃光が放たれた。
 距離はあった。ビームの干渉の問題もあった。それでも大きく外れることにはならなかった。
 使徒の下方やや右に閃光は炸裂した。
「うわぁああああああ!」
 再びシンジが吼えた。
 ポジトロンライフルを乱射して突っ込んでいく。使徒から断末魔の声の代わりか弱々しいビームが放たれたが……これもまたねじ曲がって初号機の肩を避けるように後方へと流れていった。
 取りつき、銃口を使徒の傷口から中に突き込む。
 無茶くちゃに引き金を弾く。ビームが撃ち放たれるたびに使徒がびくんと痙攣する。
 落ち始める。落下しながらも内部でビームが爆発しているのか、びくんと上に跳ね上がる。
 二度三度そのような動きを見せて、使徒はビルを押し倒しながら、ようやく横倒しに地に落ちた。
「やった?」
 ミサトはやや呆然として、その顛末を見届けた。
「やったの?」
 初号機は……肩で息をしていた。
 使徒から降ってきた血に赤く濡れていた……そしてこともあろうに、初号機はその血を腕でぬぐった。
 ──目に入る血を二の腕でぬぐった。それはパイロットがする必要のない仕草であった。


−Tパート−


「ママ……」
 アスカは小さく呟いた……弐号機が生み出しているATフィールドの海の中に漂いながら。
 薄目を開き、エヴァを見る。
 グォオオとうなり声のようなものが発せられた。それは喉から出たようなものでもあったし、ただ肉が凝縮しただけの音にも聞こえるものだった。
 だが……目、開かれたフェイスガードの奥に光るその瞳だけは、間違いなく優しげな光をたたえていて……。
 アスカは大きな安らぎを覚えて、再び眠りへと落ちていった。


 ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……。
 どっくんとっくんと鼓動が耳にまで響いてくる。
 おかげで音が聞こえない。
 荒く荒く息を吐く。
 しかし得られたのは酸素ではなく、喉詰まりのようなものだった。
 液体であるLCLの中ではそうなるのだ。
 空気のように簡単には入れ替わってくれない。
「くっ」
 シンジは喉を締め付ける感じに嫌気を覚えて、プラグスーツの襟元に指を差し込み引っ張った。
 新鮮な酸素が欲しいと思った。
(母さんは……)
 無事だろうかと、疲れの中、もうろうとする意識の縁で考える。
(綾波は……)
 どこにいるのだろうかと……視線を巡らせ、見つけられない。
 頭がうまく働かない……それだけ気が抜けてしまったということだろう。
 緊張からの虚脱が意識を奪い去ろうとする。
 ……まるで確信などはなかったのだ。
(本当にうまくいくなんて……)
 それがシンジの本音であった。


「リツコ!?」
 がくんと崩れた同僚に、ミサトは慌てて手を貸した。
「大丈夫!?」
「ええ……」
 リツコは軽く頭を振った。
「信じられないわ……あんな無謀な真似をするなんて」
「え?」
「ほんの少しでも出力が足りなければ、相互干渉なんてとても期待できなかったのよ!? より強いビームによって跳ね散らかされていただけよ。 回避用に使うなら……使うと言っておいてくれればっ、ちゃんとそれ用に!」
 少々錯乱してしまっているのか、リツコはミサトのむなぐらを掴んで揺さぶった。
 引き倒されないように踏ん張りながら、ミサトはリツコをなだめようと試み、それでもよくやったもんだと感心していた。
(お母さんをやった相手だから? ここまで思い切ったことができる子とは思わなかったわ)
 そしてもうひとつ……重大なことがわかってしまった。
(今までの暴走まがいのことも……あたしたちが感じていたこととは違ったのかもしれない)
 なにしろ今回の『暴走』は、これまでと違ってちゃんと銃を使用して行われてしまったのだ。
 使徒の内腑に銃口を突き込み、血まみれになっても臆することはなかった。
 暴走が暴挙の範疇に収まったことは大きな収穫でもあった。
(普段見せてくれている感じほどには繊細じゃない)
 恐怖に慣れてきている。
 だから必死でやったという範囲内に収まったのではないか?
 ミサトはそう感じて、シンジが見た目よりもずっとしぶといのではないかと思ってしまった。
 こんな戦場に堪えるばかりか慣れることのできる精神を持っている。
 それは特異な資質であった。


 ──そしてドイツでは、さらなる混乱が巻き起こっていた。
 静止した弐号機。
 その目前には、光のまゆに包まれ、ゆっくりと降りてくる眠れる少女を出迎えるために、数十人からの人間が押し寄せていた。
 先頭にはキョウコが立ち、続いてゲイマンやアンドルフがおり、背後には武装した保安要員が居並んでいる。
 キョウコを含む幾人かは、間違いなくアスカに駆け寄りたい心境にかられていたが……できないでいた。
 彼らの前に、少年が立ちはだかっていたからだ。
 足下には一人の女性を横たえている。その女性とはベアトリーチェであった。
「あなたは……誰?」
 少年は告げた。
「渚カヲル……そう名乗ることを義務づけられた存在ですよ」
 そしてベアトリーチェに並ぶように、アスカの体が床へと落ちた。

−第三話 了−


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