──エヴァンゲリオン弐号機の梱包が開始された。
べたべたと黄色いシールが貼り付けられて、パネルやハッチが目に付くものから次々と封殺されていく。
この後は地下連絡用のトレインで港まで運び出され、そこからは改造タンカーで輸送される手はずとなっていた。
「よかったのですか?」
アンドルフは指揮を執りながら訊ねた。
「副司令との折衝を行わず、全て本部に献上するなど」
はっとゲイマンは笑ってみせた。
「今回の『事故』の最中、我々になにができた? うろたえてみているだけだった。アスカの才能にごまかされていたな。エヴァがこれほどまでに危険なものであったとは、認識が甘かったよ」
そういってこの喧噪のうるさい格納庫から場所を移す。
「エヴァの暴走は、使徒が放つ爆発やセカンドインパクトのような結果を引き起こすものだと考えていた。それがどうだ? 人に奪われて暴れるだけ暴れてくれたよ」
途中の通路は、弐号機の破壊活動の影響によって、封鎖されてしまっていた。
「死者こそ出なかったものの、重軽傷者多数、施設もこの有様だ」
「頭が痛いですな」
「それだ! いっそ放棄するところまで破壊してくれていれば、後顧の憂いなどなかった。こうも中途半端ではな」
「復旧には時間も金もかかります」
「その上で胃を痛くしながらエヴァの管理か? アレクの代わりらしい彼に気を遣いながら」
二人は白い髪をした少年のことを思い浮かべた。
「……まったくですな。確かに、いつまでもとは堪えられない話です」
「本当に……な」
ようやく上に通じているらしい道へと出た。
「本部はなにを考えているのか……。ファーストにサード、問題児を二人も抱えているというのに、セカンドに『フィフス』までよこせとは」
「アレクはどうなさいますか?」
「リタイアだよ。フォースチルドレンの搭乗実験中の事故。それがこの事件のあらましだ」
アンドルフは肩をすくめた。
「……おそまつなシナリオですな。マルドゥク機関を通さずに勝手に選び出していたチルドレンですか?」
「他にごまかせる案があれば採用するぞ?」
もちろんアンドルフは、そんなものはありませんとばかりに口をつぐんだ。
第四話、適者
「碇君」
シンジはフルーツの詰まったバスケットを両手で抱えていたために、振り返ろうとして失敗してしまった。
「綾波?」
見えない。
果物とバスケットの取っ手が邪魔で確認できなかった。
「お母さんのところへ行くの?」
シンジはようやく隙間からレイを見つけた。
「うん……おみまいなんだ」
「そう……」
「綾波も来てくれたの?」
「……ええ」
「ありがとう! じゃあ一緒に行こうよ」
「そうするわ」
レイの口調は非常に歯切れの悪いものだった。そして歯切れを悪くしている原因は、まさしく彼女の存在にあった。
「今日も息子さんがお見舞いに来ているそうですよ」
「そうですか」
「好いお子さんですねぇ」
「ええ……もう大丈夫だっていってるんですけど」
「だめですよぉ。『アレ』がらみの障害は肉体の検診じゃわからないんですから。精神的な障害は自覚できるものじゃないし、外からも判断を付けるのが難しいんですからね」
「はい」
叱られてもにこにことしている。
「それじゃあ息子さんが来られる前に退散しますわ」
「ありがとうございました」
「肩が冷えないようにしてくださいね。それでは」
体を拭いてもらっていたからか、ユイはすこし蒸れた感じが気持ち悪くて腕をさすった。
肩掛けを羽織る……ドアノックがかかったのはその時だった。
「はい?」
「母さん? 入るよ」
「どうぞ」
ユイはくすくすと笑って迎え入れた。
「なにも一々断ることなんてないのに」
憮然としていう。
「あんなのもうごめんだからだよ!」
先日、偶然にも母が着替えているところに出くわしてしまい、大変にからかわれたばかりである。
「ああシンジ」
「なに?」
「りんご剥いてくれない?」
「わかったよ」
シンジはバスケットを見舞いの品が山となっている一角に置くと、りんごを一個だけ持って彼女の隣に椅子を動かした。
腰掛けて、膝の上に置いた皿に、しゃりしゃりと剥いてしまう。
「うまいもんねぇ……」
「そりゃ慣れてるからね」
「へぇ? りんごなんてどこで剥いてたの?」
「そりゃあ……」
「……ごめんなさいね」
「え?」
「もうちょっと母親らしいことができれば好かったんだけど」
「やめてよ……」
シンジは剥いたりんごを手のひらの上で八つにわると、別の小皿に置いていった。
「はい」
「……」
「なにさ?」
ユイは上目遣いに唇を尖らせた。
「あ〜んは?」
拗ねた口調。
「歳考えてよ」
「あ〜〜〜ん」
シンジは根負けして、一つユイの唇へと押し込んだ。
「恥ずかしい気がする」
「ふふ……ゲンドウさんと同じこといってる」
「そうなの?」
「なに嫌そうな顔してるの?」
「いや……なんとなく」
「シンジは嫌いなの? お父さんのこと」
シンジは酷く顔を歪めた。
「好きじゃない……」
「シンジ」
「嫌いでもない。嫌いだって思ってたこともあったけど、それはかまって欲しいのにって思ってたからだった。恨んでたんだと思う」
「わたしのことは?」
「死んだ……と思ってたから」
顔を背けようとするシンジの腕を取り、ユイは息子の頭を抱き寄せた。
「シンジ……」
無理矢理胸に顔を埋めさせる。
「さみしかったのね……」
優しく髪をすいてやる。
「退院したら……また忙しくなってしまうから。こんなことをできるのも今だけだけど……」
「いいよ……もう、気にしてない」
「シンジ」
「僕ももう子供じゃないんだ……だから」
会話だけを追って耳にしていると、それは感動を呼ぶようなやりとりとして受け止めそうになってしまうのであるが、あいにくとレイはそうは感じはしなかった。
なによりこの部屋に入ってから徹底的に無視されているし、目前の、シンジの頭の上で蛇のごとき表情で陶酔している様を見せられては、どうしてもシンジを騙して楽しんでいるようにしか見られなかったからである。
──だが。
シンジはユイが思うほどには感動も感激もしていなかった。
レイが嫉妬するほど甘えてもいなかった。
それどころか、ぐっと辛いものをかみ殺している顔をしていた。
その原因は、この病院に入院している、知っている少女のことにあった。
Bパート
「わるいな碇……呼び出したりして」
「うん……」
シンジはなんだろうかといぶかしがった。
久しぶりの学校である。呼び出されたのだが、休校中である。人の気配は少ない。
教室の中は時折聞こえてくるはしゃぎ声以外静かなものだ。
暇だからと顔を出している人間はいた。だがその程度のものだった。
街に出た被害によって、一気に疎開が加速してしまったためである。
「トウジ……引っ越したよ。疎開だってさ」
ケンスケの話はいきなりだった。
「疎開?」
「ああ……大阪の親戚の家にな。妹と一緒に」
「へぇ……」
「この間な……俺たち、勝手にシェルターから出たんだよ」
「うん……知ってる」
「そっか。その時、委員長を酷い目に合わせちゃってな」
「え?」
「委員長……入院してるんだ。ネルフの病院に」
「ネルフの?」
ケンスケは事細かに事情を語っていった。
これまでにあったこと。自分のしでかしたことでうまれてしまった結果について。
「俺も……疎開することになってる。これ以上ここには置いておけないって。いままで放任してきたけど、そのせいでこんなばかなことをするような子になったんだって泣かれたよ、パパに」
「そうなんだ……」
「うん。笑っちゃうだろ? 使徒と戦ってるのはお前の友達だろう!? それに比べてなんだ! ってさ」
へへっと笑う。
「俺のうちって、母さんがいないんだ……だけどパパも仕事で忙しいから帰ってこれなくて……。だから親戚の家に預けることにしたって言われたよ。大人しくしているんだぞってさ」
「そっか……」
「トウジはごねたみたいだった。委員長のことがあるから。でもどあほう! って殴られたみたいでさ、ここんとこ」と頬を指さし、「酷く青く晴らしてた」
シンジには、ふうんと相づちをうつことしかできなかったが、ケンスケは別に期待していたなにかがあったわけではなかったようだった。
「これ以上人様に迷惑かけられんよう、親戚の道場に預ける。そこで根性たたき直してもらえ! って言われてさ。あいつんとこもおじいちゃんもオヤジさんもネルフに務めてるから」
「うん」
「事情は似たようなもの……だけど、委員長の場合、お姉さんと妹さんがいるんだ。俺たち二人からたまんない目で見られてさ」
「恨まれたの?」
「妹さんにはな……でもお姉さんは我慢してくれてた。だけど委員長の家もお母さんがいなくてオヤジさんがネルフで働いてるんだよ。疎開するにしてもやっぱり親戚の家ってことになっちゃってさ、病人は連れていけないから……」
「ネルフに?」
「らしいよ」
ケンスケははあっとうなだれた。
「おかげで今じゃお見舞いにもいけない」
「そっか……」
「でもこのままじゃ後味悪いからさ……碇と……たぶん綾波もか? この街に確実に残ることになるのって二人だけだと思うから」
「……お見舞い、いっとくよ」
「頼むよ」
ケンスケは深く頭を下げた。
「頼むよ……俺にはもう、なにもできないから」
「うん」
わかった。
シンジはケンスケの態度に感動したわけではなかったが、責任のようなものを感じてしまって、行ってみようと心に決めた。
「それで?」
シンジが退室した後、ユイはレイから事情を聞いていた。
ユイは無視をしたことで文句を言うつもりだろうと身構えていたのだが、肩すかしをくらったような感じがしていた。
しかし話された内容は、肩すかしというには重すぎた。
「シンジはどうなの?」
レイはコクンと頷いた。
「毎日お見舞いに行っています。すこしずつ彼女の症状も回復へと向かっています」
「いいことじゃない」
「でも彼らのことについてはとたんに取り乱すようです。自分がいけないんだと話も聞きません」
「そう……」
「碇君は同情からか彼女に尽くしていますが……」
「自分のせいだと責めてもいる?」
はいと頷く。
「レイはそれがいやなのね? いたいたしくて……」
レイは哀しげに目を伏せた。
「できれば相田鈴原の両名を殺傷したいくらいです」
ユイは慰めの言葉をかけておいた。
「やめておきなさい。それは別の人にやらせるから」
残念そうにレイ。
「お願いします」
今更冗談とはいえないユイ。
「ええと」
続きに困る。
「まあ今後のことも考えると、その子……ヒカリちゃん? も放ってはおけないわね」
「はい」
「シンジが彼女に真剣になる前に手を打たないと」
「手遅れにならないよう、お願いします」
女二人は結託の意志を固めるように見つめ合った。
献身的に看護する少年と病人の少女との間に愛が芽生えては少々困る。
いやかなり困る。
それが二人の認識だった。
Cパート
「碇君」
ベッドの上。ヒカリが気恥ずかしげに体を起こした。
枕を腰の後ろに挟み込むようにして場所を決める。
「大丈夫?」
「うん……ごめんね? 毎日」
「いいよ。母さんのお見舞いだってあるし」
「そう……」
「なに?」
「ううん! なんでもない」
──ついで、か。
そんなちょっとしたことになぜ不満を感じてしまうのか?
ヒカリはどうかしていると自分を思った。
(別に碇君とは特別親しかったわけでもないのに)
ひとりきりでずっと過ごしているからだろうか? 人恋しいのだとヒカリはそう思うことにした。
「お母さんの具合はどうなの?」
「大丈夫だよ。体はもうなんともないって」
「体は?」
「うん……精神的な疲労とかが抜けてないから、もうちょっと休んでいってもらいますって先生がいってた」
「そう……」
「うん……」
微妙な間が空いてしまう。
「あ、座って? いまなにか……」
「いいよ。僕がやるよ」
「でも……」
「病人なんだから休んでてよ。洞木さんの分のお茶も……」
シンジが立ち上がり、備え付けの冷蔵庫へと歩こうとした時、ふいに扉が開かれた。
「ヒカリ……着替え持って」
あ……と立ち止まる。
長い髪を三つ編みにした女性だった。赤いフレームのぶこつな眼鏡をかけている。
「お姉ちゃん」
なぜだかヒカリの姉──コダマは、深呼吸をしたようだった。
「ごめんね。おじゃまだった?」
「もう!」
「はは……あの、洞木さん。それじゃあ僕は」
「え?」
「あれ? もう帰っちゃうの?」
「はい」
シンジは礼儀正しく頭を下げた。
「失礼します」
あっさりと立ち去ってしまった彼の背中に、ヒカリは哀しげなものを見せ、コダマは苛立ちのようなものを募らせた。
「まったく」
「お姉ちゃん……」
「暗い子ね……。あんなのがロボットのパイロットなの?」
「もう……やめてよ」
「でもねぇ」
がたんとシンジが座った椅子に腰を落とす。
「ヒカリがこんな目にあったのもあの子のせいじゃない」
「違うってば……かってにシェルターを出ちゃったあたしの」
──それだって。
クラスメートの馬鹿二人が……そう言いかけて彼女は口ごもった。それは禁句とされていたからだ。
ヒカリには伝えていない。ここが精神病患者を収容している病棟だとは。それを言えるはずがなかった。あの二人についての話題さえ持ち出さなければ、妹の精神は非常に安定した状態を保っている。
(まあこの街からいなくなっちゃったみたいだし、死んだってことにしても)
そうは思うのだが問題があった。
「お姉ちゃん?」
怪訝そうにする妹に、姉はねぇっと問いかけた。
「ヒカリ……あの子のこと、好きなの?」
ヒカリはどきりとしたようだった。
「お、お姉ちゃん!」
「なに?」
「変なこと言わないでよ! あたし、別に碇君とは」
「友達なんでしょ? 別に好いじゃない。友達を好きになったって」
「そりゃ……そうだけど」
「あ〜あ。なんかヒカリに先越されそうねぇ」
「だからそうじゃなくって!」
コダマは妹の訴えを、はいはいとおざなりになってやり過ごした。
妹は人を二人、結果的に殺してしまったと思っている。
それを支えてくれる存在は……誰であろうが必要だった。
「碇君」
シンジはレイを迎えに行くつもりで再び母の部屋に戻ろうとし……その途中でレイと出会った。
「綾波……母さんは?」
「少し眠るそうよ。食べて寝てるだけだから、太っていそうだと言っていたわ」
「そっか」
じゃあ帰ろうかとシンジは誘った。
医療棟は本部の隣に立つビルにある。地下におりて本部に回ることができれば、地上へ向かうリニアレールの駅に出ることも可能だった。
それなりに人の出入りがあるのは、一般にも開放されている駅だからだ。地上の戦闘においては、少なからずけが人を出してしまっている。これはなにもシンジのせいではなく、主にミサトの指揮に原因があった。
使徒の侵攻阻止を第一目標に掲げ、避難を待ち切れずに戦闘を開始しているからである。
それに愚か者はトウジたちばかりではなく一般人にもいた。
数十階建てのビルに隠れ残って、冗談半分で死体になっている人間もいる。
逆に、急いだために怪我をしてしまい、シェルターに逃げ込めなかったというものたちもいた。
第三新東京市の住人の七割は、ネルフに関係するなんらかの職に就いていた。彼らは身内の被害に仕事と看病の板挟みとなって苦しんでいた。
仕事を放り出すわけにはいかない。自分たちの仕事がどんな意味を持っているのか? それを知るにつけて責任感は増していく。
だがだからと言って家族を放置することもできない。看病はしなければならないからだ。たとえ仕事を休んだとしても。
ネルフはこれを解決するために、病棟を職員の家族に限って開放していた。念のためにセキュリティチェックは行うものの、それでもただの市民である家族の見舞いまでも受け入れているのだから、ネルフとしては相当な譲歩であったのは間違いなかった。
それほどまでに、状況は切迫していたのである。
本部発令所。ミサトとリツコである。
「初号機と零号機の改装が決定したわ。ユイ博士も了承したわ」
「改装ねぇ……」
他にマヤとマコトが混ざっていた。
「改装といっても今度のはもっと大がかりなものなんですよ? 汎用決戦兵器といっても、零号機と初号機はオリジナルのカスタムメイドも同然だから、どうせならってことになったんです」
「どういうこと?」
「乗り手の性格に合わせて特化しようというのよ。初号機には若干の装甲の追加と、標準装備としては刀を用意するわ」
「刀?」
「そう……刀とはいっても三十メートル近い鋼鉄の塊よ。それに特殊な波長の電気を流して使徒の体細胞を切断できるものにするの。さすがに固い殻をかぶった使徒には通じないでしょうけど、まあただの棍棒としても使えるものだから」
「他には?」
「強化型のライフル。初号機はそんなところね」
「零号機はどうなの?」
「ドイツのパーツを回してもらったところだったんだけど……アメリカのパーツも接収することになったわ。弐号機のパーツは3号機以降のものとほとんど同じだけど、先行試作型の量産機だけあって、やっぱり微妙な点で劣っているしね。その装備品が届いてから、狙撃型に仕上げていくつもりよ」
「弐号機はどうするの? 手を付けるの?」
付けざるを得ないでしょうねとリツコは言った。
「汎用ということはなにも目立った部分がないってことよ。武器の特化はむしろ必然だから……まあ、セカンドチルドレンの実力を見てから考えることにするわ」
そう……とミサトはアスカを思った。
なぜかキョウコではなく、リツコですらも、やはりアスカをパイロットとして見てしまっていた。
──それはシンジたちを見てしまっていたからかもしれない。
シンジとレイは連れだって歩いていた。
もうすぐ別れることになる。シンジはミサトの家に。レイは碇家に帰るのだ。
「碇君……」
このままではと思ったのか、レイは唐突に問いかけた。
「なにかあったの?」
シンジの肩がぴくりと震えた。
「またなにか言われたのね」
「ううん。違うよ。僕は別に……」
「うそ」
「うそじゃない!」
「なら、なにを苦しんでいるの?」
ギリッと歯ぎしりをする音がした。
「どうして……」
「……?」
「どうしてわかってくれないんだよ!」
「碇君!?」
レイは目を丸くして驚いた。
「なにもいわれてなんていないよ! なにもいわれないから苦しいんじゃないか! なにもいわないようにって我慢されたから辛いんだよ! なんでそういうこともあるんだって、わかってくれないんだよ!」
「碇君……」
レイの呼びかけが、むなしく響いた。
「……あなたは、彼女に、なにを願うの?」
そんなの、決まってる。
しかしシンジは、伝えなかった。
Dパート
「洞木さん」
「碇君」
今日はヒカリが退院する日である。
「今日は、お姉さんは?」
「うん……学校。忙しいみたい」
「そうなんだ。残念だね、大丈夫?」
「だいじょうぶだいじょうぶ! もう平気だから」
「うん」
ヒカリはシンジがそれ以上追求するのをやめてくれたので、ちょっとだけ安堵した。
(もう……お姉ちゃんってば)
ほんのりと頬を染める。
あの子に送ってもらえば? ちゃんとお礼はするように。
お礼って?
お茶でいいんじゃない? 部屋に上げてあげんのよ?
お姉ちゃん!
あんたなに考えてんのよ?
もう!
──そんなやり取りを思い出す。
シンジはいやんいやんと頬に手を当ててかぶりを振っている『委員長』に、『かわらない』んだなぁと感慨をいだいた。
「それじゃあ、お世話になりました」
「はい」
ナースステーション前で、最後の挨拶が交わされる。
それじゃあと会釈をしてヒカリはその場を後にした。少し離れて待っていたシンジと合流する。
その一部始終を見守っていた看護婦たちが、振っていた手を下ろして口々にいった。
「今時珍しい子ねぇ、あの子」
「シンジ君?」
「エヴァのパイロットなんでしょ?」
「もっとナマイキな子かと思ってたけど……やっぱりクラスメートに被害者が出ちゃうと違うんじゃない?」
「お母さんも入院中なんでしょ? 可愛そうに……」
「そういえばそのお母さんがやられちゃったんで、代わりに出撃することになったんだって聞いたけど」
「けなげっていうのかな?」
「やっぱり可愛そうでいいんじゃない?」
特別な措置がとられているために、ジオフロントから上の街へとあがる列車は、そのまま市街地を走るように路線変更がされている。
シンジたちはその中にいた。乗客の姿がまばらなのは、平日の昼間であるからだろう。
「学校はどうするの?」
「たぶん……行く」
「そうなんだ」
「碇君は?」
「僕は行かない」
「どうして?」
「それは……」
シンジは足の間に手を組んで、親指を立ててすりあわせた。
「碇君……」
気にされるのを嫌っているのだろうか?
詮索されるのが嫌なら、こぼしかけたりはしないはずだとヒカリは思った。
言いかけて、なにを言われるかわからない。そのわずらわしさに気が付いたのではないかと考えた。だから。
「……あたしも、学校に行くのやめようかな」
「え? どうして……」
「たぶん……」
ヒカリはうなだれるように下向いた。
いつものように束ねていないから、髪が肩から前に流れた。
「碇君と同じかな」
(トウジとケンスケのことを考えてるんだろうな、きっと)
これが女の子の部屋かぁ……とシンジはほけっと見回した。
あの二人のことについて、いろいろと陰口をたたかれるかもしれない。そのことを考えれば憂鬱にもなるだろう。
(だけど学校に行かないのならどうするんだろう? 洞木さん……一人っきりで)
それがいかに退屈なことかは、自分がよく知っている。
さすがに遊び相手になろうとまでは考えない。相手はなにしろ女の子だからだ。
ヒカリの部屋はごく普通の女の子の部屋だった。
ベッドがあって勉強机があって、申し訳程度に人形が飾られていて、コルクボードには予定を書いたメモや写真が貼り付けられていた。
さすがに化粧品の類は見えない。リップクリームやブラシくらいはありそうなものだが、片づけられてしまっているようだった。
シンジは居心地が悪いなぁと、お尻をもぞもぞと動かした。
部屋はミサトの家に借りている自分の部屋ほどの大きさだった。ただしガラステーブルとクッションが置かれているために狭く感じる。
シンジが座らされているのはそのクッションで、ピンク色のものだった。
ヒカリはお茶を淹れにいっている。『あの日』、使徒が来た日、ヒカリは入院することになるなどとは思ってもいなかったのだろう。
布団の上には脱ぎ散らかされたパジャマと下着……ブラジャーが転がっていた。
(ここで待ってて、すぐお茶淹れてくるからっていわれてもさ)
ちらちらと目がいってしまう。
ミサトのもの、アスカのもの、『ここ』では母やレイのものまで目にして慣れたが、それもまったくの赤の他人のものとなると感覚が違っていた。
気になって仕方がない。
(ヤバ……膨張して来ちゃった)
へんなこと言っちゃったらどうしよう?
シンジは興奮している自分を感じた。
──どうして碇君はエヴァに乗るの?
ヒカリがそんな具合にシンジに聞いた。
「乗らなくちゃって決めたから」
シンジは決意の表情でヒカリを見つめた。
なに考えてたんだよ? なに思ってたんだよ? 大丈夫なわけないじゃないか。
母さんがいるから? 父さんが優しいから? だからってなにをやっていたんだよ?
全然わからないじゃないか。 この先なんて、わからないじゃないか。同じになるかもしれないのに。
またあんなことになるかもしれないのに!
トウジたちが酷い目にあって、綾波が死んで、アスカが泣いて。
──そしてみんなが。
死んでいくようなことになるかもしれないのに……なにを気を抜いて遊んでたんだよ? 馬鹿じゃないのか!?
──それがシンジの結論だった。
「僕は……僕にしかできない、僕にならできるってことがあるから」
「碇君……」
「だから、僕は乗るって決めたんだ……もう後悔なんてしたくないんだ」
洞木さん──碇君。二人は自然と抱き合って……。
「きゃああああ!」
アスカはベッドから跳ね起きた。
黄ばみかけのシーツを跳ね上げる。無骨なだけの壁と天井。ここはオーバーザレインボウの船室である。アスカのための個室であった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
シャツと下着だけの格好のアスカは、寝汗に髪がはりついて気持ち悪かったのか、首筋のそれを掻くようにしてぬるりと取った。
そして呟く。
「なんか……ひっどい夢みたような」
不吉な感じにぶるりと震える。
ドンドンドンと戸を叩く音がした。
「どうしたんだい? なにかあったのかい?」
「なんでもない! 入ってきたらコロスからね」
肩をすくめるような気配がして、『彼』は去ったようだった。
「まったく」
アスカは前髪を掻き上げて、額を空調にさらし、汗を消した。
「なんであんなのが一緒なのよ?」
だから不吉な夢を見たに違いないと……アスカは彼、渚カヲルがすべて悪いと決めつけた。
Eパート
シャワーを浴びて汗を落とし、アスカは部屋の外に出た。
無骨な男たちと挨拶を交わして道を譲ってもらう。人一人通ることがやっとな艦内通路は、まだ子供であるアスカといえども狭かった。
海軍兵士たちはみな屈強で、普通にしていると顔も見えない。自分の視線は彼らの胸元の高さにある。
「HEY! GIRL!!」と呼び止められることもしばしばだが、からかうような言葉に対しては、アスカは中指を押っ立てて、ビッと舌を出して怒ってやった。
同じように黒人、白人問わずに彼らは返してくる。みんな彼女のノリを楽しんでいるのだ。
ドイツ娘とはどんな子だろうかと思っていたのが、乗ってきたのはアメリカ国籍を持つ女の子だった。なんだという拍子抜けの心が半分、あとの半分はネルフに対する好奇心が締めていた。
「ドイツはあの人形を軍に組み入れるつもりはないようだがな」
太平洋艦隊と呼ばれている混成艦隊の旗艦、オーバーザレインボウ。
そのブリッジにある艦長席の男が、副艦長に対して漏らしていた。
「軍需産業としてはどうなんだ? 金がかかりすぎる、手入れに面倒がかかりすぎるというのであれば、それはほどよい金食い虫だと思えるんだがな?」
副艦長は、それはないでしょうと正直に答えた。
「先日のデモンストレーションの中継は見ました。運用そのものについては戦車と同じですな。艦艇とも変わりません。重武装兵器を中心として軽装兵で周囲を固める。圧倒的攻撃力でもって蹂躙しつつ、足回りの悪さを随伴兵にカバーさせる。問題はエヴァンゲリオンが装備しうる兵器についてです。エヴァンゲリオンは確かに無敵の盾を展開できましょうが……その防衛範囲内に随伴兵、あるいはバックアップ部隊を包み込むことができません。無敵というにはお粗末に過ぎます。その上で兵器はあくまでスケールが違うだけの火器に過ぎず、エヴァンゲリオンほど巨大な物体にて運用をさせる意味などどこにもありません」
人一人が構えられるライフルでさえ、高空を飛ぶ機体を狙撃することができるようになっている。それがこの時代の兵器である。
NN爆弾が実用化されている現代においては、巨大な兵器はむしろ邪魔とさえいえるようになっていた。戦車がなくとも戦車並みの破壊力を持ったロケットランチャーなどいくらでも用意できるのだし、戦術NN爆弾になれば、ビル一つ、街一つに限定した破壊を行うことも可能であった。
「戦争における戦闘は、防衛に回った時点で敗北を喫します。しかしながらエヴァンゲリオンが突出しているのはその防衛力においてのみなのです。近代戦での有効力というものがまったくといっていいほど欠けています」
「そんなものを買い付ける人間はいないというのか?」
「装甲についての問題も出ます。あまりに特殊すぎる素材によって組み上げられているエヴァンゲリオンは、いかな技術屋といえども現場レベルでの判断において修復や修繕が行えません。ちょっとした調整ですらも、数万トン規模のプールが必要であり、そのプールに満たされている液体もまた。扱いの難しい薬品であるときています」
「商人にとってはいくらでも値をつりあげることはできようが……そうか」
「はい。あまりにも高価すぎ、対費用効果の点で採算に合いません。それでは買い付けに走る人間はおりませんでしょう」
なるほどと艦長は納得した。
「戦時におけるもっとも安価な兵器は歩兵であるという話があったな……」
「しかし現代のような情報化社会においては、その考えは危険すぎるものでしょうな」
「世界的な批判をかわすためには、どうしたって日々計上される死者の数を、最低限に抑えねばならん。そういう意味においては兵器群を投入しての消耗戦を行うよりも、あのような人形一機でことに当たることの方がめでたいのだろうが……」
しかしなぁと彼はいう。
「子供が世界を救うというのか?」
「まるで冗談のような話ですな」
「あ、いた! かーじさん♪」
「おう」
加持は艦橋中階の外側にあるタラップにて、潮風に吹かれてタバコをくゆらせていた。
「なにしてるの?」
「ん〜〜〜? 遠き故郷に思いを馳せていたのさ」
変なのとアスカはちゃかした。
「加持さんって、ちょっと前に日本から来たばっかりじゃない」
「ホームシックってやつだな」
「ほんとにぃ?」
「ああ。──俺みたいな役職にあると、ほとんど日本にはいられなくてね。いろんなところをあっちへこっちへ、出張ばかりさ」
「寂しくなんない?」
「そりゃ寂しいさ」
「だからそこら中に恋人作って回ってるんだ」
なんのことかな? と加持は空とぼけた。
「まあ男ってのはそういうもんだってわかってるけど」
「大人だなぁ……」
ふふっと笑い、アスカは風邪に広がる髪をなでつけた。
「知り合いにね……そんなやつがいたから。かまってくれそうな人を見つけると、尻尾を振ってなつこうとするの」
「アスカにはどうだったんだ?」
「……うっとうしいからはり倒してやったけど」
「おいおい」
「加持さんはどうなの? そういうことされなかった?」
そりゃあされたさと加持は話した。
「ご婦人方から誘いをかけてもらえるほどには、モテるってわけじゃないからな。となれば自分からきっかけを作ってアプローチをかけて、チャンスを見つけてものにするしかないだろう?」
「……けっこう涙ぐましい努力してるんだ?」
「もてない男は、もてようと思って必死なのさ。だから失敗談もそれなりにあるし、傷つくようなことをいわれたことだって何度もあるよ」
「そのうちそういうことをするのにも慣れてくるもんなの?」
「は?」
「えっと……恥ずかしさとかさ」
「ああ……それは抜けてくるな。最初はやっぱり抵抗感があるもんさ。きざったらしい自分を演じなければならない馬鹿さかげんとかな?」
「でもするんだ?」
「それはそうさ! 俺はアスカほど老成してないんでね。綺麗な方がいらっしゃったら興奮するし下心も持つよ」
別に老成してるわけじゃないんだけどなぁとアスカは漏らした。
「気になるやつがいるだけで」
「シンジ君のことか?」
「は?」
「いや……ずいぶんと入れ込んでるって、あっちの支部じゃ噂になってたぞ? それで『彼』もキレたんじゃないかってな?」
「ああ……」
アスカはタラップに背を向けて、しゃがみ込むようにして抱えた膝に口元を隠した。
「あたしは……それどころじゃないってだけだったんだけどな。アレクが望んでたような関係になれるほど暇じゃなかったってだけで」
「じゃあ落ち着いてからなら考えてもよかったのかい?」
「それはその時の話だから」
「ま、そうだな……」
「うん……アレクもスカした態度なんて取ってないで、もっと情けないとこ見せてくれてたら、あたしもかまってやんなきゃって気になってて、ちょっとは違った展開になってたのかもしれないんだけど」
「そうだな」
「うん」
違う、こんな話がしたくて加持を捜したんじゃないんだと思いながらも、それも心残りとしてきてしまったことではあったから、アスカはやめられずに続けてしまった。
本当は、夢見の悪さから来た不安を解消したかったのだ。なにか嫌な夢を見たような気がする。そういえばシンジとファーストについて、変な話を聞いてたんだっけ?
──許嫁とか。
そのあたりのことについて、もっと具体的に知りはしないだろうかと探りに来たのだ。なのに……。
しかしアスカは、まあいいかと思うことにした。どうせ先は長いのだ。航海はまだまだ始まったばかりの段階であった。
Fパート
「まあ元々ね」
ずずっとマグカップを両手でもって、ユイはココアを口にした。
「はぁ……おいし」
「なんだ?」
「え? ……ああ、そうそう」
──総司令執務室。
「シンジとレイの話よ」
「それがどうした?」
「だからね。シンジとレイのことなのよ」
ちっともわからないのか、ゲンドウは不満そうにした。
しかしそれを口には出さない。口に出した途端に鈍いだのなんだのと数倍の毒をもって返されるのがわかっているからだ。
「レイをシンジのお嫁さんにって思ったのって、元々はレイが妙にシンジの写真に興味を示したからだったのよね」
──それはなんでもない家族写真だった。
シンジを挟んで自分と夫がいた。夫は照れているのか仏頂面で、それでもシンジはうれしそうだった。
レイはその写真を両手で持って、くいいるようにジッと見ていた。
まだこの施設の中で、情操教育を行っている段階の頃だった。十に満たない精神と肉体年齢。知恵はあっても知識はない。そんな幼さで彼女が男の子に対してどんな興味を抱いたというのか?
にふにふと猫口になったユイは、面白いとばかりにたきつけたのだ。
──へぇ? レイってその子みたいな子が好きなの?
ぽっと赤くなったレイに気をよくして、そういうことにしておいたのだが。
「まああたしもねぇ……へたな子にシンジを取られるよりはって思ったし? だけどねぇ」
足を組んで、背もたれに体を預ける。
手は腿の上に置いているファイルの上に軽く揃えた。
はふぅっと物憂げなため息をこぼす。
「あまり趣味じゃないのよね、この子」
「洞木主任の娘か」
「あら? しっかりチェックしてるんじゃない」
「させられたんだ。レイに」
「レイに?」
「ああ。──シンジの素行調査を頼まれた」
「それでちゃんとやるんですから」
クスクスと笑う。
「そんなにレイが怖いんですか?」
「お前似だからな」
「どういう意味です?」
「いや……なんでもない」
「はいはい。そういうことにしておいてあげます。でもねぇ……」
どうしたものだかと彼女は悩む。
「お前も苦労性だな」
「え?」
「わざわざ退院を急いでまですることか? それが」
「それは……そうですけどね」
ふぅっと嘆息をする。
「でもやっぱり、子供達には幸せになってもらいたいじゃないですか……」
「わかってはいるが」
「本当は戦闘にだって参加させたくはないのに……こんなことになってしまっているし」
彼らの持っている特異性が高すぎて、いまさらエヴァから遠ざけることはできなくなってしまっていた。
「しかし今更の事だ」
「あなた……」
「わたしたちがこのような地位にある以上、少なからず悲しませる事にはなる。役目を全うするためにはかまってやれんし、お前が傷つけば不安がらせる事にもなる」
「はい……」
「どこまでも綺麗事ではすまされんさ」
「ならこの子の事はどうすればいいと思いますか?」
ふむとゲンドウは考え込むような素振りを見せた。
「あまり深く悩む必要はないと思うがな」
「じゃああなたはシンジを取られてもいいっていうんですか?」
ゲンドウはびくりと反応を示した。妻から危険な波動を感じたからだ。
「そ、そう急くな……人間そんな簡単に生涯の相手を見つけられるものではない」
わたしのようにな……というかっこうつけはあっさりと無視された。
「それで?」
「うむ」
ちょっぴり傷つき気味のゲンドウである。
「人間気弱になっていれば、優しさに対しては甘えるものだ。しかし立ち直ってくれば目も覚める」
「どういうことですか?」
「……つまらんと感じるようになるということだ」
お前はどうだとゲンドウは目で問いかけた。
「俺は普段から共にいて楽しい相手か?」
「…………」
「自分の趣味を理解して、遊びに連れて行ってくれるような人間か? そこに不満を感じた事はなかったか? そういうことだ」
「それは自虐的すぎやしませんか?」
「わたしにとって幸運だったのは」
皮肉なことだがと自嘲する。
「ゼーレがわたしという存在を認めてくれた事にあった。ゼーレの意向が働いている限り、君もわたしに不満をいうことはできなかったからな」
「はい……」
「だが今は違うだろう。この戦いの後はさらにそうだ」
「あなた……」
──儚い。
あるいは存在感が希薄で、とても心が遠い気がした。
「あなたは」
ふっと笑う。
「戦いの後は幸せな家族を? 俺にそんなことができるとは思えんな。ならお前は俺に不満を持つだろう。理想を体現してくれるような、魅力溢れた男に目移りすることもあるだろう。生涯の伴侶などというものが見つかったのは昭和初期以前の話だろうな。俺は今の関係が将来に渡って続くなどとは思っていない。シンジはさらにそうだろう。まだ十四だ。なにがどうなったからといって……たとえ結ばれたにせよ、その関係がいつまでも続くものだと考えていると思うか?」
「…………」
「あのような形で出会ったのでは、その関係はいつまでもつづかんさ。その娘の元々の性格が開放的であったのならなおさらだ。興味は外へと向いていくだろうな」
「シンジは飽きられてしまうというのですか?」
「シンジにそれほどの魅力があるのか? 普段から共にいて楽しい相手か? シンジが」
「ですけど!」
「お前が死んだと思いこみ、シンジは内向的になっていたからな。友達といえるような相手もいないようだ。そんな人間では相手をつなぎ止める事はできんよ。相手も縛られようとはおもわんだろう」
第一と付け足した。
「シンジに洞木主任の娘と付き合っていくつもりがあるのか? ただ見当違いの責任感からこだわっているだけのことだろう。放っておけ」
「それでもし本当にそんな気になったらどうするんです?」
「その時はその時だ」
「そんな無責任な」
「責任?」
鼻で笑った。
「それはなんだ? 自分の願望通りにいかないことがそんなに不満か? 願望通りにことが進まないからといって不満をいうな。それこそ俺のしったことではない」
「あなた」
ユイは不審なものを感じたのか首を傾げた。
「今日はずいぶんと強気ですね?」
ぎくりとする。
「き、気のせいだ」
その動揺が確信を深めた。
「あーなーたー?」
「むっ、し、仕事が!」
「誰に、なにを吹き込まれたんですか? あなた!」
逃げるなこら!
しかしゲンドウは必死の逃亡を試みて、珍しくもユイの追跡を振り切る事に成功して『しまった』のであった。
Gパート
ばたんと開いた扉に振り返ったのは、白ひげを生やした老人だった。
「碇?」
「すまん。かくまってくれ」
ゲンドウは部屋の隅にあるがらくたの山の陰へと身を隠した。
なにをしているのかと呆れる老人である。そこに雰囲気の似た男がやってきた。
「父さん……って、碇?」
しーっと指を立てるゲンドウに、彼は腰に手を当ててため息を吐いた。
「またか?」
「うるさい」
「お前は……学習能力くらいあるんだろう? いいかげん倍以上酷い目に遭わされるよりはって諦めろよ」
ゲンドウはむっとした様子を見せた。
「うるさいといっている……第一、ほとんどがお前のせいだぞ、鈴原」
「はぁ? どうして俺の……」
「お前の息子のせいだといっているんだ。お前の息子のせいで洞木の娘がシンジと」
「ああ……そのことか」
彼は父に資料を預けると、空いていた椅子に腰掛けた。碇、鈴原、洞木……それに惣流や赤木といった面々は、ゲヒルン時代、あるいはそれ以前からの長い付き合いがあり、とても親しい間柄にあった。だからこそ、彼はユイの恐ろしさも知っていた。
「今さっき、洞木に愚痴られてきたところだよ。何が悲しくてお前の息子に娘を取られなきゃならんのだってな」
「洞木の養子にはお前のとこの子を出す予定だっただろう」
「それはあいつらの約束だったからな……」
「……すまん」
「いや、いい」
それは死んだ妻同士の約束であった。だからゲンドウは謝ったのだし、彼もその謝罪を受け入れたのだ。
懐かしげにする。
「まあ……洞木はともかく、俺はすこしほっとしているところがあるからな」
「なんだ?」
「エヴァのことだよ。参号機か四号機には、トウジを乗せなきゃならないかと思っていたからな」
「順序を言えばそうなるか」
「ああ……お前のところやキョウコ君にだけ、無理をさせているわけにはいくまい?」
「だがな」
ゲンドウは少し楽な姿勢を取った。壁に体を預けて足を伸ばす。
「レイも、シンジも、キョウコ君のところのアスカもそうだが、特別すぎるなにかがある……。いっては悪いが、お前や洞木のところの子とは違う」
「わかっているがな」
「エヴァに関しては数ではない。質だ。質こそが物をいう。たとえ百機のエヴァを揃えられたとしても、展開できるATフィールドの質が一なら、二以上の値を持つATフィールドを前にしては手も足も出ない。そういうものだ」
「うちのトウジや洞木の娘たちでは相手にもならないか……」
「ああ……おそらくはシンジとアスカの一騎打ちになるだろう」
「やらせるのか?」
「させんさ……させるつもりはない。まあ当人たち次第だろうがな」
「次第?」
それはそうだろうとゲンドウはいった。
「アスカがシンジを気に入ればいい……そうでなければ彼女はどこかの支部に回されることになるだろう。本人にそのつもりがなくとも、支部はゼーレの手によって踊らされることになるだろうからな」
「先鋒となって攻めてくるか」
「そういうこともある」
「だが気に入ってくれれば取り込めるか?」
「いや……。その時はその時で、レイとぶつかるかもしれん。そういう意味では、洞木の娘は第三者的存在だからな。矛先としてはちょうどいい……」
悪党め……彼は呻いた。その隣では今の会話の内容をまとめたメールを、別部署にいる洞木宛に送ろうとしている老人がいた。
──そんな話題の二人組である。
「…………」
「…………」
シンジとヒカリは、向かい合って座っていた。
ヒカリは真っ赤になってうつむいていた。足を崩した女の子座りをしているのだが、手は足の上に揃えてきゅっと握りしめている。
シンジはそんなヒカリの様子に、居心地の悪さを感じてしまっていた。
気まずさの原因はあれであった。
ヒカリが片づけ忘れていた汚れ物だ。お茶を乗せたお盆を手にやってきたヒカリは、それに気づいて悲鳴を上げて、あやうく荷を落としかけた。
シンジが慌てて手を貸して、ようやく難を逃れていた。
その後はもうパニックに近かった。ヒカリは必死に隠そうとしたが、そのためにはお盆を置かねばならず、しかし手は手助けしようとしてくれたシンジの手によって包まれてしまっていた。
重ねられた手をどうにもできない。
考えるまでもなく、お盆を置こうとすればよかったのだ。そうすればシンジも動けただろうに、硬直してしまったヒカリに驚き、シンジもまた動けなくなってしまった。
──そんな空気を動かしたのは、ただいまぁという声だった。
ひっと悲鳴を上げるヒカリ。シンジは取り落としそうになりながらもお盆を取り上げてテーブルに置いた。
ヒカリはダイブするようにベッドに飛んで下着を隠した。布団の下に潜り込ませて、慌てて振り返り起きあがり、なんでもない風を装おうとする。
──そこに妹がやってきた。
お姉ちゃん、おやつない? 顔を出した洞木三女の最後の一人は固まった。
姉が布団の上で慌てていた。なぜだか服が乱れて髪もぼさぼさになっていた。
そのうえ下着が布団の隙間から見えていた。
そして知っている男の子がいた。彼が『憧れ』のロボットのパイロットだということは一目でわかった。何度も病院で挨拶をしていたからだ。
この人がお姉ちゃんを助けてくれたんだ……それは誤解であったのだが、彼女──ノゾミは、『メガネ』と『ジャージ』に憎悪を向けて、シンジには主に感謝の念を送っていた。
ちょっと頼りないけど優しいお兄ちゃん……とてもクラスの男の子と同じ生き物だとは思えないくらいに優しい人。
その人が……お姉ちゃんと?
「…………」
ノゾミは真っ赤になって立ちつくしてしまった。もう小学校高学年だ。この状況が二人がなにをしていて生み出されてしまったものなのかは考えるまでもないことだった。
お姉ちゃん……。きっと姉は慌てて服を着たから下着を付けてないんだ。気づいてないってふりをしなきゃいけないんだ。そう思い、非常にぎこちなく、あ、あの……ごゆっくり! っと行って逃げ出してしまった。
──あう!
ヒカリは妹がどういう誤解をしたのかに気づいてあえいでしまった。
──そして現状は今に至る。
いたたまれない……はっきりいってシンジにはこんな時にかける言葉の持ち合わせなどなかった。ピンチだ……これまでにないくらいピンチだ。そう思うのだが、逃げようがない。
(僕は……どうすればいいんだろう?)
そろそろ足がしびれてきていた。
Hパート
「…………」
夕日に染まる小さな公園の小さなベンチに、ほけっと腰掛けている女の子が居た。
ぼんやりとした目にはなにも映り込んでいないようだった。しかし時折顔を手で覆って、いやんいやんと頭を振っているから、ちゃんと生きてはいるようである。
たかしー。ママー。そんなほのぼのとしたやり取りがある中においては、かなり異質な雰囲気である。
「はぁ……」
公園の隣には、併設されている形で遊歩道が流れていた。その道を一人の男が、気落ちした様子で歩いていた。
四十に手が届きそうな男であった。赤みがかった髪は天然パーマがかかってちりちりである。
『はぁ……』
期せずして、二人のため息がそろってしまった。
なんとなくお互いの顔を見て、ああと両方が気が付いた。
「相田のおじさん」
「ノゾミちゃん」
お互い同じマンションに住んでいるから顔見知りである。
「どうしたんだ? 一人で……友達は?」
「あ……いえ」
相田──ケンスケの父親である。彼は二、三度首をひねる仕草をした。
小学校はどんなに遅くても三時過ぎで授業は終わる。それから今までは十分遊び回れる時間がある。
ここは公園なのだから、友達と一緒に来ているのだろうと、彼は自然に考えたのだが……。
「なにかあったのかな?」
彼は公園の柵ごしに問いかけた。
「えっと……その、あの」
ノゾミは脇を締めて両拳を胸元に合わせると、彼を見上げるようにして口にしたのだった。
「一時間って、早いですか? 短いですか!?」
彼は、「はぁ?」っと答えたものだった。
──五分後。
二人は喫茶店にいた。
ちらちらと気にしているのはコダマである。ここは彼女がアルバイトをしている喫茶店だった。それを知っているから彼はノゾミを誘ったのだ。
目の前にはエプロンドレスを身にまとった……かなり特殊な趣味の色合いが強いユニフォームであるが、そんなコダマが置いていったカフェオレとパフェがある。
学校が終わってからアルバイトに来ているコダマは知らないことだが、店長は彼とは親しかった。いつもモーニングを食べていってくれるからである。
「これ、相田さんに持っていって。サービスだから」
「あ、はい」
「あの子、君の妹さんだったよね?」
「はい」
「いいよ。しばらく休んでも」
「あ、じゃあ……お願いします」
「はいはい。どうせお客さんもいないしね」
軽食には程良い品を揃えていても、今は夕飯時である。店そのものも小さいことから、次に客足が向いてくるのは、もうしばらく先になるだろうと見ての言葉であった。
コダマは相田に挨拶をすると、どうかしたんですかとノゾミの隣に席を取った。
ところが彼は、それがどうもと肩をすくめただけなのである。
「公園で見かけたんだけどね……なんだか落ち込んでたみたいに見えたんだけど、わけのわからないことを言った後はこの調子でね」
「はぁ……」
「家に帰らないのかと聞いたら帰れないっていうから……それでここに連れてきたんだよ」
まさか放置して帰るわけにもいかないからと彼は説明した。そしてついでになんとかしてあげてくれないかと目で頼み込んだ。
これにはコダマは困るしかなかった。確かに妹が落ち込んでいるなら、出ていくべきは家族なのだ。彼に頼まれるようなことではない。
しかし現実的には弱っているのは他人であるおじさんで、自分がまったく理由がわからないのである。弱るしかなかった。
「ノゾミ……なにかあったの?」
ノゾミはもじもじと体を動かした。
下向いたまま、股の間に手を挟んで、もぞもぞとする。決して顔を上げようとしない。
「ノゾミ?」
「そういえば」
彼はぽつりと口にした。
「一時間がどうとか……」
「はう!」
「ん? どうしたんだ?」
「一時間? ノゾミ?」
「あの……その」
蚊の鳴くような声で小さくこぼす。
「お……ねぇちゃんがね。碇さんとね?」
「碇ってシンジ君?」
「うん……」
ぎゅっと腿の上に揃えた手に力を込めて、思いっきり下向いたまま頭からしゅうしゅうと湯気を噴きだした。
耳まで真っ赤になっている。
「お姉ちゃんと碇さんがね? お姉ちゃんたちがね……」
──限界点。
ノゾミは両手で顔を覆うと、いやんいやんと頭を振った。
その様はあんまり上の妹にそっくりであったのだが、コダマには末妹の将来を心配してやる余裕などなくなってしまっていた。
(まさかヒカリ……ほんとに誘っちゃったの?)
ちょっとだけ青くなる。
一方で子供たちにはわからないように相田は苦笑してしまっていた。
彼は先ほどまでやりきれない悔しさにうなだれていたのだ。エヴァンゲリオンの搭乗者は専門の機関によって選抜されているということになっているのだが、その実は違っている。
エヴァンゲリオンは搭乗者に合わせて作成されているのである。初号機はユイに、弐号機はキョウコにといった具合にだ。
光のようなものである『素材』を人の形とするために人間の『信号』が使用された。零号機のことである。
パーソナルパターンはユイのものが使われた。
これをさらに発展させて初号機が完成され、弐号機以降はそのノウハウを元に別のパイロットのための機体作成に入る……予定であったのだ。
ところが事故が続いてしまった。
一人は鈴原、一人は洞木、そして最後に相田と名簿は続いている。
パーソナルパターンの取り出しと素材への転写。この実験途中の事故だった。鈴原と洞木については同時実験であったために一度に失うこととなってしまった。これを教訓に相田を被験者として再実験が行われたのだが、やはり失敗したのである。
これによって、ユイとキョウコはアメリカでの実験生活をやむなくされてしまったのだ。事故の原因は接続先であるエヴァからの干渉であると推察されたが、ユイについては二度の実験を成功させており、続いたキョウコについてもなんら問題は見つかっていない。
ならば二者と続いた三者との間にどのような差違があったのか? これが問題となっていた。
──そしてとうとう、その問題が解決されたのである。
しかしエヴァほどの巨人ともなれば、培養はそう簡単ではない。赤子のような状態であれば羊水の中であっても骨格と筋肉がしっかりとしていないために潰れかねない。支えようにもそれだけの自重となればどのように補助を取っても壊れかける。
パーソナルパターンの転写が確実となった今、次に必要なことは増産のための工場の設計と建設だった。
零号機、初号機、弐号機のようなカスタムメイドとは違い、続く機体以降は量産を目的とされているのだ。そのために必要な研究は、また別の人間の仕事となる。
そうして工場の建設が始まり、いざエヴァが量産されることとなったとき、誰をパイロットに選出することになるかについては、かなりの難題となっていた。
本当ならば……当然の事として、大人が選出されるはずであったのだが、それにしてはアスカの存在があまりにも際だちすぎていたのである。
その特異性は無視できないものであった。
いくら大人をパイロットにという考えが当然のものであるにしても、こうなってくると、子供ではどうなのかという意見が出てくる。
そうなれば、数に上がるのは鈴原、洞木、相田の三名のデータであった。
この三者については、事故当時の完全なデータが保存されたままとなっている。あらためて取り直す手間が軽減されることは間違いないのだ。
もっとも事故を起こした人間のデータなどあてにはならないという説もあり、絶対に三者から選び出されるというものでもなかった。
それでも……先のことはわからないものである。
彼はこれまで、いずれはエヴァに乗せることになるかもしれないと思い、わざと息子にデータを盗み見させていた。ところがそんな浅はかな行為がどれだけ親ばかなことであったのか? 息子の馬鹿さ加減を知って後悔することになってしまった。
無用な好奇心を育てすぎてしまったのだ。
そして結果が先日のことに繋がっていく。
事件といってもいい。悪戯というには過ぎていた。あれだけの問題を起こした人間は、人格的に問題ありとして、選抜候補からは外されて当然である。
碇、惣流、鈴原、洞木、相田……もっとさかのぼれば葛城という性もある。データの順序はそうなっている。そしてその順序がそのままネルフ内での地位に繋がっていた。階級ではない。実質的な地位である。
現在はネルフという戦略機関であっても、昔は研究機関であったのだ。ゲヒルン時代の順列は、今もしっかりと生きている。
そして……既にパイロットとして選び出された碇と惣流の地位は、盤石のものとなっていた。
変わって自分はどうであろうか?
此度のことにより、完全に出世の道からは外れてしまったのだ。もはや追い抜かれることはあっても、彼らと肩を並べることはできないだろう。
(だがまあ……大人がなにを考えてなにを企んでいるにしたって、子供たちはこうやって青春をやっているんだからな)
しかしである……。
青春というには、ちょっとばかり春色が桜ではなくドピンクに染まっている気がしないでもない彼であった。
Iパート
「はぁ……」
シンジは無事に洞木邸からの脱出に成功していた。
肩を落として歩き出す。
(なんだかなぁ……)
今になってああいえば良かった。こういえば良かったと、余計なことばかり考えつく。
その一つでも口にできていたならば、多少はもっと気持ちよくお別れをいうこともできたのに……と、できもしないことに落ち込んでしまう。
(結局……ごめんっていうのが一番てきとうなんだよな。当たり障りもないし。相手だってそれ以上はなにも言えなくなるって、それがわかってる。ずるいよな、僕って)
またもはぁっとため息を吐く。
性格の問題なのだろう。生来……いや、『前』から引き継いでいるものだけに変えようがないのかもしれない。
人の顔色を窺って、怯えて、反応を怖がってしまう。だから『それ以上』の反応が戻ってくることのない、『ごめん』を切り札に使ってしまう。
(受け流すだけの言葉なんだよな、ごめんって……。だからアスカはキレてたんだろうな。それじゃあ気持ちの持っていき場所がないから、ちゃんと向き合ってくれってさ)
吐き出しきることができずに、もやもやとしたものを内にため込むしかなくなっていくから。
「だからってさぁ……」
顔を上げる。
もう陽も落ちて時間はかなり経っている。大通りに出ると会社帰りの人たちが流れていた。
その中に紛れ込む。
(はじめての経験……か)
女の子と親しく付き合った記憶がない。
レイとの付き合いはそういうものではなかったし、アスカとはもっとそうだ。
同じ住居。同じ空間でくつろぐことに、非常な緊張を強いられた。
変な妄想に取り憑かれることもあったし、考えちゃダメだと頭を振ったことも一度や二度ではない。
変な気分になったこともあったが、そんなことを感じたと知られた時、後でどんな目で見られることになってしまうのか?
それを考えると、怖くてそんな感情は抱けなかった。押し殺すことが当たり前だった。
(『委員長』って……確かトウジのことが好きだったんだよな。でも『洞木さん』はそういうわけじゃなかったのかな?)
考えてみれば、いつ、どんな風にして気になるようになったのか? それさえ知らない。
(ニブイ……か。確かにニブイや)
はは……。そんな具合に鬱に笑って駅に入る。切符を買うために券売機に向かう。
(人を好きになる。気になるってことすら僕は知らないんだな……。気になってもどうせって思って考えないようにしちゃうんだ。気持ちを育てるっていうのかな……どんどん忘れられなくなる。気になって気になってしかたなくって、忘れられないんだとか、そんなことが全然ないんだよな)
冷めてる。そう思った。
(一度勘違いしてみた方がいいのかな……。洞木さんと友達になって、好きだって思って、痛い目……いや、それじゃだめだから、きっと僕のことが好きなんだってうぬぼれて)
そんなにうまくいくもんかって……。
「だからそれじゃあだめなんだってば」
シンジは改札口を通ったところで、はぁっと本格的にうなだれた。
「どうして僕ってこう……暗いんだろ?」
つくづく嫌気が差してきたシンジである。
「ただいまぁっと」
ミサトはぽいぽいっと靴を脱いで部屋に上がった。
「おおっ、ペンペン、ただいまぁ!」
ギャアギャアと走ってきたペンギンを抱き上げてくるりと回る。
あははと飼い温泉ペンギンを抱きしめる。
「なによぉペンペン。ちょっと」
暴れる様子に辟易する。
「おみやげ? ないけど……」
ぴたっと止まった。
「おい?」
ストンと非常に素直に飛び降りて、ペンギンは自分の冷蔵庫へと去っていった。
ガションと戸を閉じる。
「…………」
このっと思ったが、ミサトはなんとか思いとどまって、はぁふぅと呼吸を整えた。
「なんつー奴。誰に似たんだか」
自分の部屋へと引き上げる。
シンジ君はと考えたが、静かなのでいないのだろうとミサトは思った。
別に注意するほど遅い時間ではないし、保安部の人間がはりついているはずなので問題はない。
もし問題があったのなら、即座に報告が入るはずだからだ。実際、すぐにシンジは戻ってきた。
「ただいまぁ」
上着を脱ぎ、下着のホックに手を掛けたところだった。
「おかえりぃ……シンジくぅん、ご飯はぁ?」
戸を隔てて会話する。
「食べてこなかったんですか?」
「うん……シンジ君は?」
「まだです」
「じゃあ外で食べよっか? たまにはさ」
よっとと脱ぎ捨てていたセーターを着る。
もちろん新しい下着を付けてからだ。
「いいんですか?」
「シンジ君のおごりっつーことでさ」
「イヤですよ。ミサトさんがおごってくださいよ」
「扶養家族のくせにぃ」
「ミサトさんビールとか飲むじゃないですか! 割りが合いませんよ」
「たはは……」
──ビールは高い。
正しくは酒であるが、ミサトほどのウワバミになると大量に積み重なってしまうのだ。一方で未成年のシンジは食べるしかない。しかし二人が気軽に入れるような店では、高い品でも値段は知れてしまうのである。
割り勘でも割に合わないというのが、シンジの学んだことだった。
「大体扶養家族って言葉、使い方間違ってませんか?」
「いいじゃなぁ〜い。だってシンちゃんカード持ってんでしょ? 家族用のカード。それもゴールド」
「……そりゃ、貰ってますけど」
「だったらいいじゃなぁい。パァッとさぁ」
「……何に使ったのかって聞かれたら、ミサトさんの飲み代に消えましたっていいますからね?」
「……イケズ」
「あのですねぇ」
段々こめかみが痛くなってきた。
特に戸をほんの少しだけ開けて隙間からいじけた目でのぞき見るような芸の細かさに。
「ミサトさん、給料出たばっかなんでしょう? なにに使ったんですか」
「失礼ねぇ。ちゃんと貯金してあるってば。無駄遣いなんてしてません」
「貯金! なんのためにです?」
「え!? ええと……それは」
ちょっと予想外の質問であったらしい。
「ほら……結婚資金とか」
「相手いたんですか」
「……シンちゃんとか」
「はいはい」
パンッと隙間を閉めてやる。
「間に合ってるから勝手にいっててください」
それじゃあ。──シンジはそういって部屋に引き上げようとしたのだが。
「シンちゃん!?」
「へ?」
「間に合ってるって、どういうこと!?」
「え? はい?」
「ちょっちそこんとこ詳しく聞かせてくんない!? 保護者的に!」
──どこがだろう?
キッチンテーブルに着かされたシンジは、目前に山とビール缶を積み、サードチルドレン監督日誌を開いてペンを持ったミサトに、今更ただの軽口で通じるかなぁと思ってしまった。
Jパート
夜が明ける。
「ん……」
ごろんと転がって薄目を開くと、そこにはミサトの唇があった。
「うっ、うわぁ!」
慌て、飛び退くように起きあがり、一気に壁際にまで逃げ下がる。
「ううん……」
うるさいと寝返りを打つミサトである。足で飲み散らかした空き缶やつまみの袋などを蹴りどかした。
着ている物はいつものタンクトップにショートパンツの組み合わせである。いつかはジャージになるかもしれない。その辺りがおばさんかどうかの境界線であると、必死にこだわっていることを知っていた。
──もちろん、ジャージの誘惑に耐えていることも知っている。
そんなミサトの胸は、日頃の訓練の成果もあるのか、筋肉によって型くずれすることなく山のようなはりを保っていた。そんなものが無造作にシャツからこぼれそうになっているのだからたまらない。
(だめだだめだだめだ。いま膨張しちゃダメだ。膨張しちゃったらきっとその瞬間に誰か来るかミサトさんが起きるかのどっちかになるんだ。だからぜったいに勃てちゃだめだ!)
青少年らしい欲求に気恥ずかしさを覚えることになるよりも、からかわれることへの恐怖感が先に立つ。
いかに普段から、嫌になるほどからかわれているかが、非常によく知れる反応だった。
──というわけで。
「シンジ君?」
「はい?」
「なんで朝から大根の千切りなんて作ってるわけ?」
それも鬼気迫り勢いで刻んでいる。
ミサトは腹の下から胸の真ん中に手を突っ込んでぼりぼりとかいた。無防備とかそういう問題ではなく、シンジに対して意識するものがないのだろう。余裕のなくなったシャツの一部に突起物の形が浮かんだ。
「…………」
シンジはまたも耳が赤くなるのを覚えて、慌ててまな板に振り返り、急ぎダダダダダッとものすごい勢いで包丁を上下させた。
「……ってなことがあってねぇ」
ちなみにとリツコは確認していた。
その時、あなたどんな格好をしていたの? と。
(自覚がないというのも困りものね)
ハァッと嘆息してしまう。
「もう少し気を遣ってあげたら?」
「はい?」
「あの子だってもう女の子に興味を覚える歳なんだから」
「そりゃガールフレンド作っちゃうくらいだし……」
「馬鹿。そういう問題じゃないでしょ? 『加持』くんのことを思い出せば?」
「う……」
「きつすぎるキャラクターって、一度味わうとくせになるものだしね。まかり間違ってシンジ君があなたのような女性でないと……なんて思うようになっちゃったら」
「あたし困るなぁ……さすがに『十四』歳差は」
「十五でしょ」
呆れつつ続ける。
「それも限りなく十六に近い」
「……無理やりあんたの仲間に入れないでよ」
「ふっ……」
「なによ? その余裕は」
「いえね? さっきの続きなんだけど」
にたりと笑う。
「もしシンジ君があなたのような人でないとだめだ……なんて誰かに漏らしたらどうする?」
「どうするって……」
「シンジ君がどうとかじゃなくてね?」
ユイさんとかレイとかがどう思うとおもう?
……ミサトは一気に蒼白になった。
「まずい……まずいじゃない。そんなの」
右手の親指の爪を噛みながら廊下を歩く。左手は右肘を掴んで、胸をしぼるような形にしていた。
その様子を下に見て、ちょっとだけ眉をひそめる。
いつものタートルネックのシャツだ。それなりに胸の大きさははっきりとわかる。
(もうちょっとぶっさいくな服を着て……)
いやそれではだめかと思い直す。
髪をぼさぼさにして丸眼鏡でもかければ不細工に見えなくもないだろうが、それはそれでどうしたんだろうと思われてしまうだけだろう。
だが中途半端に厚着をしたのでは、逆にシンジの視線を気にしだしているのではないかと思われてしまう。誰に? 決まっている。
(うう……なんであたしがこんな目に)
「だいたいシンジ君が悪いのよ!」
「なぜ?」
「かーのじょができたんならそっちでいちゃいちゃやってりゃいいじゃない! ちょっち興味が出てきたからって、あっちもこっちもって」
「そう……つまり」
何者かがもぎゅうっと背後からミサトの胸をわしづかみにして持ち上げた。
「わきゃあ!?」
「この胸が……碇君を惑わせるのね」
──レイだった。
……そんなこんなで。
「あたし……あたしが悪いんじゃないんですぅ。だって、今日になって急に」
「ということは、いつもそんなだらしない姿で、シンジの前をうろちょろとしていたと」
「うぐぅ……」
「わかりました」
ここは部長格の人間が使うサイズの執務室である。デスクに着いているのはユイであり、その脇にはレイが立ち、ミサトは二人の前に正座させられてしまっていた。
まるで引っ立てられてきた罪人である。
「罰として、あなたには出張を命じます」
「えええええ────!? あたし飛ばされるんですかぁ!?」
くすりと笑ってユイは許した。
「まあシンジって朴念仁っぽいところがあるから? そのくらいのことは好い意味での刺激を与えているものとして見逃しましょう」
「はは────!」
平伏する。
「ただし、いただいちゃおうなんて思ったら」
「思いませんとも! はい!」
そのまま下がる。
「で、この出張なんだけど」
ピッと指で弾くようにしたその紙は、ミサトの目前にひらりと落ちた。
「これ……え?」
「JA……政府が色々と出資しているロボットの完成記念式典があるのよ」
愉快そうに手で作った橋の上に顎を落とす。
「わたしの代わりに行ってきてね?」
(面倒なんだな……)
ちょうどよいタイミングで押しつけられる相手が出てきたくれたと思われている。それがわかっていても口答えなどできはしないミサトであった……が、さすがにユイが企てているたくらみまでは読めないでいた。
(あの人がわたしから逃げ回ってまでシンジにあてがおうとしている子だものね。一度ちゃんと見ておかないと)
手元には、日本近海に近づきつつある太平洋艦隊からの日程表が置かれていた。
Kパート
──ごめん。
『え? ねぇっ、碇君! ちょっと!』
無情にも切れてしまった電話に、彼女が愕然としたのが五十分ほど前のことだった。
することがない。学校の友達とは連絡が取りにくい。不登校について詮索されるのは嫌だった。
そんな時にかかって来たのが、シンジからの電話だった。なんだろうと思いながらも、少々胸が弾んでいたというのに、切り出された話というのが……。
──ごめん。もう、会わない方が好いと思うんだ。
まるで別れ話のような切り出しかただったが、そんな疑問は動揺の前に消え去ってしまっていた。
どうして? なに? いきなり。 え!?
何度も表示されていた番号にかけ直した。最初は取ってくれたがついにはモジュラージャックを抜かれてしまったようで、電話自体が通じなくなってしまった。携帯電話の番号は……知らない。そこまで親しくはなかった。
──どうして?
ズンと体が重くなってしまったような、そんな感じに囚われる。
うなだれるようにぺたんと座り込んで、もう首を上げる余力すら失ってしまっていた。
悲しいとか苦しいとか……痛いとか、そんなことはなくて、ただ混乱……頭がどうして嫌われてしまったのだろうかという、ただその一点のみにとどまってしまっていた。
わけがわからない。
どうして急に、そんなことを?
昨日までは楽しく話せていたというのに……別れ際まで、なんの問題もなかったというのに。
「お父さんが?」
……ふいに姉の交際について、口出しばかりをしていた様子が思い出された。
やはり父がなにかいったのだろうか? あるいは姉かもしれないと……。
ヒカリは悶々としながらも、なんとか納得できる理由を見つけて、少しだけ気力を回復させていった。
──ふぅ。
一方で、シンジはなんとか言えたなと胸をなで下ろしていた。
(これでいいんだ……これで)
思い出すのは、今日の昼食の場のことである。
「洞木ヒカリちゃんって、どんな子なの?」
すすっていたうどんをぶぅっと吹き出したり気管に入ったりで、シンジは危うく死にかけた。
「げっ、げほ……どうして洞木さんのことを」
「あら?」
ユイは食堂の机の下から懸命にはい上がってきた我が子の言葉に、それは心外だわと眉をひそめた。
「シンジのことならなんだって知ってるけど? 例えば本当はレイのことが気になってるとか」
「なんだよそれ?」
「気になってるんでしょ?」
「なってないよ」
「なってるってことにしておかない?」
「なんでそうなるんだよ?」
「シンジの命がかかって……」
「なってる! なってるよ! もうすっごく気になってるよ!」
背後の気配に大慌てで『釈明』するシンジである。
「ちょーっと恥ずかしくってさ! あはははは!」
白々しい笑いでその場を逃れる。
「で」
ユイはススーッと動いて食券を買い行くレイの動きを目で追った。
「どういう子なの? ヒカリちゃんって」
シンジははぁっと息を吐いた。
「なんでそんなこと知りたいのさ?」
「シンジのことだからよ」
「さっきなんでも知ってるって」
「シンジから見たヒカリちゃんのことが聞きたいのよ」
「はぁ?」
なんだよそれ。わけわかんないよ。
そんな思いを顔に表した息子にニヤリとして、ユイはわざとらしく顔を伏せた。
「だって……シンジはきっとわたしに似たレイを好きになってくれるって思ってたのに、全然違う子を好きになるんだもん」
「…………」
「やっぱりだめねぇ……一緒に暮らしてないと。きっとシンジはわたしのことなんて母親だなんて思ってないんだわ。だから家も出ちゃうし全然違う子を好きになるし」
「…………」
「シンジ?」
──ぎくりと。
「どこに行くの?」
実はそーっと逃げだそうとしていたシンジであった。
「色々ともめているようだな」
コウゾウである。
「なんの話だ?」
「シンジ君の周りだよ」
「ああ……」
珍しく書類を整理していたゲンドウである。
彼は手にあった書類を置いた。
「洞木の娘の件でな」
「どうしたんだ?」
「シンジが交際を断ったんだそうだ。どういうことだと問いつめられた」
「シンジ君がか?」
ユイ君に脅されたかなと、なにげに酷いことを考えつくコウゾウである。
「なにがあったかな?」
「わからん……だがシンジの性格からして、断るなどという考えが思いつくとは到底おもえん」
「そうか?」
「ああ」
「だが他に好きな子がいるのかもしれんだろう」
「どこにだ?」
「…………」
レイ……と言いかけてコウゾウはやめておいた。
「セカンドとかな」
「……そうか」
「そうおもわんか?」
「そうだな……いや、そういう問題ではない」
「ではなんだ?」
注意深く言葉を選ぶ。
「……シンジの性格を考えてみろ。モテたからといって喜ぶような性格か? 本当にそういう感情を向けてもらえているのだろうかと、考えすぎ、意識しすぎなのではないかと思うのではないか?」
「なるほど……勝手に盛り上がっては馬鹿を見るだけだから、確認ぐらいは取りそうなものだな」
「二人は交際の確認を取ってはいなかったはずだ。それなのにいきなりか?」
「……おかしいな」
「そういうことだ」
「ふむ……」
考え込むような素振りを見せる。
「なるほどな。交際を断ったかどうかすらも怪しいな」
「……だから洞木に確認させることにした」
「なに?」
「お前も父親なら、娘に詳しく話を聞いて、取り持ってやるくらいのことはしてやれと言ってやった」
それは息子を持っている父親の発想であって、娘を持っている親の考え方ではないぞと……思ったが、口にはしなかったコウゾウであった。
Lパート
「ちょっとシンジ君? 気持ちはわかるけど、いつまでも隠れてたって」
そっと扉に耳をあててみる。
……音がしない。
ミサトはカラッと軽く開いて、無人であることにため息を吐いた。
「はぁ……家出? まさかね」
ぼりぼりと頭をかく。
もともとここに居着いていること自体が家出なのだから、家出の家出を心配するというのもどこかおかしい。
「気晴らしに出かけたか? ま、いっか」
今度はお尻をかきつつバスルームへ向かう。そろそろ出勤の時間だからだ。
──そのころ、シンジは詰問されていた。
「なるほどね」
ビクンとすくむ。
場所は喫茶店である。彼女──コダマが働いている喫茶店だ。
シンジはおそるおそるといった感じで彼女を見て、やっぱりもう一度顔を伏せた。
──正直、コダマは呆れていた。
「でもそれならそれで、きちんと説明するべきだったんじゃないの?」
「だって……初めてだったんです。友達やめるなんていうの」
「そりゃ……そうかもしれないけど」
「じゃあどうすればよかったんですか? 母さんや綾波のことを説明すればよかったんですか? 『変人』なんだって」
あーうーと困ってしまうコダマである。
「僕だって……その、母さんのことだし、綾波も親戚みたいなものだし、あんまり変な噂立てられたくなかったし」
「ううん……」
「せっかく仲良くなれたのに……友達なくすのって嫌だったけど、でも」
「でも?」
シンジは奥歯を噛みしめるような仕草を見せた。
「シンジ君?」
シンジは絞り出すような声で告げた。
「友達に嫌われる方が……嫌だから」
「嫌われる?」
「……前に、居たところで、よく虐められたんです。母さんは父さんに殺されたんだって噂されてました。僕と仲良くしてくれた子はみんなそのことで虐められて」
「どうなったの?」
聞かなければ良かったとコダマは思った。
「お前のせいだって……嫌われちゃいました」
「シンジ君……」
泣いてるの? そう思った。
震えているからだ。
「僕はなにもしてないのに──そう思ったけど、でも」
「でもそれは、シンジ君をイジメの対象にした友達が悪いんでしょう?」
「同じことですよ」
「同じって……」
「僕と仲良がよかったから虐められた。『お前に』友達だなんて思われたから虐められたんだ。そうなるんです」
「そんな……」
「虐められたのは、お前に友達みたいな顔されたからだ。よくいわれました」
「で、でも今度のことはちょっと違うんじゃない?」
「違いますよ」
「でしょう? だったら……」
「でも」
シンジはようやく顔を上げた。
「僕の母さんのことで、洞木さんが嫌な想いをすることなんてないじゃないですか。そりゃ……僕は」
コダマは「ん?」っと首をひねった。
「僕は、なに?」
「…………」
「ねぇ……なにか隠してる?」
「…………」
「やっぱり」
それってなに? なんなの? シンジ君──コダマは必死になって問いつめ、そして……。
シンジが、クラスメートの二人から託された約束のことを聞き出した。
店長と自分だけになった店内は、静かな雰囲気に包まれていた。
夕日が差し込んでくる中、店長はずっとグラスを磨いている。コダマは窓際の席でぼんやりとしていた。
手元にはオレンジジュースのグラスがある店長のサービスだった。
(まさかそんな約束をさせられてたなんて……)
どこまでもと、いなくなった二人を憎む。
シンジに責任がないかといえば嘘になる。戦闘に従事することを承知した以上は、出た被害の何割かはシンジへとかぶせられることになる。
法的にどうであれ、感情はそう向かう。自分もそうだと思う。何割かはシンジをそんな風な目で見ている。
『クラスメートに怪我させたんです。学校なんて行けませんよ』
怖くて。そう言っていた。
「はぁ……」
顔を手で覆い隠す。気持ちはわかる。もし妹の症状がもう少しだけ酷かったら?
今のように落ち着いてなどいられなかっただろう。きっと盛大に罵っていたはずだ。
(あの子……責任感が強すぎる)
もう少しいい加減でもいいと思える。少なくとも怪獣を倒した英雄なのだから、浮かれていても良いはずだ。
なのに……そうはなっていない。
(その理由が……ヒカリだったなんて)
そうではないのだが……コダマはそう感じ取ってしまっていた。
妹のことがある以上、浮かれることなどできないだろう。──いつまでも。
『本当は……最後まで責任取りたかったです。けど、僕のせいでよけいに疲れちゃうんなら、僕なんていたってしかたないじゃないですか』
そんなことはない……とは言えなかった。
お願い。せめてちゃんと会って、話をして。
そう伝えるのが精一杯だった。
──ちらりと時計を確認する。
五時前……シンジはもうすぐ自分の家に着く。ヒカリは出てこない。このところ荒れている。
人の顔を見ると、碇君になにを言ったの!? そればかりだ。
神経質になっているというよりも、思いこみから狂っていっているように見える。
あの子は薬となってくれるだろうか? 妹を癒してはくれるだろうか?
「……最低」
少なくとも……表面上は落ち着いてくれるのであれば、どんな関係になってもいい。
コダマはそんな風に考えてしまっている自分を卑下した。
妹のために人身御供になってくれと頼んでしまったのだ。あの子はいいですよと引き受けようとしてくれている。本当にこれでいいのだろうか?
(よくないに決まってる!)
コダマはやっぱり──と思って席を立ったのだが、扉が開いて客が入ってきた。
その人は……まっすぐにコダマを見てにっこりと笑った。それは怖気が走るようなほほえみであった。
Mパート
──さて。
シンジがコダマの前で震えていたのにはわけがあった。
母は父に殺された。それがイジメのネタであったというのに、その母はのほほんと生きていたのである。
これが感情的にならずにいられようか?
(知られたらなんて言われるか)
だが……シンジの心配は無駄になった。
その当人が、のこのこと彼女に会いに行ってしまったからである。
「…………」
コダマはどうして自分に会いに来たのだろうかと、目前で優雅に紅茶を嗜む女性の顔をのぞき見た。
かしこまっているのにはわけがある。それはユイがネルフの制服を身にまとっていたからだ。
士官相当の人物が着用する黒のスーツは、非常に強い威圧感を相手に与える。ただでさえ妹にとってはボーイフレンドの母であり、父にとっては上司にあたる相手なのだ。
緊張しないわけにはいかなかった。
「あの……」
「ん? ああ……」
ユイはカップを置いた。受け皿にかちゃりと音が鳴る。
「ごめんなさいね。おいしかったものだから」
カウンターにいるマスターに会釈する。マスターは微笑に近い苦笑を見せた。
「あいかわらずね」
「……マスターを知っているんですか?」
「まだ第三新東京市って名前になる前はね……もっと郊外にあったのよ、この店は」
「はぁ……」
「この街を建設してる業者の人たちがたくさん入っていた市営団地のすぐ傍よ。いまちょうど建て壊しをやってる辺りね。団地からネルフ……、あの頃はゲヒルンっていったけど、出勤するときには必ずマスターの店でモーニングを取ってたの」
ユイは、あなたのことも知っていると驚かせた。
「あたしのことを……ですか?」
「そうよ? あなたのお父さんもお母さんも、一緒に研究をしていた仲間だったもの。いつも「保育園に送ってから行くから」って、洞木さんはあなたの手を引いてネルフとは反対の方向に歩いていってた」
いつしかコダマは聞き入ってしまっていた。
カップの縁を指でなぞるユイの表情に、みとれてしまっていたからだ。
薄い微笑は昔を懐かしむものだった。自分が忘れてしまっている時をこの人は知っている。もう忘れかけている母の姿も覚えている。
コダマは胸の内側に、嫉妬に似たものを覚えていた。人はいつか悲しみを忘れられる。そうでないと生きてはいけない。
どうしてお母さんは死んじゃったの? そう考えるたびに言い含められた。
どうして? どうして? どうして?
忘れられるわけがないじゃないかと思った。台所に立つ母はいつも忙しそうに働いていた。
長い髪をゆったりとした三つ編みにして垂らしていた。エプロンを付けて長いスカートを締め付けていた。
はいお弁当! 今日は……そういってしゃがんでお弁当箱の中を見せてくれた。一緒にこれは……と名前を挙げてはしゃいだものだった。その時の笑顔……。
忘れられるはずがなかった。──なのに今は思い出せない。
あの台所の風景も、使っていたお弁当箱も、その器を持つ手も、着ている物も思い出せるのに……。
──表情だけがあやふやで。
母の髪の色も、艶も、瞳でさえ思い出せない。ぼんやりとくすんでしまって、見つけられない。
(いいな……)
大人だからだろうか? そうかもしれない。
大人だから、子供のように、大人になる内に忘れていくようなことがないのかもしれない。色あせるようなことなく、覚えていられるのかもしれない。
「小さなあなたと手を繋いで、一生懸命あなたの歩幅に合わせてたんだけど、それでも少し速かったのか、あなたは跳ねるように歩いてた」
「……はい」
「いいなぁって……思ってたわ。わたしもシンジが大きくなったら、同じようにできるかなって」
ユイはここでようやく休息を入れた。言葉を切って余していた紅茶で唇をしめらせた。
その様子を見ながら……ようやく決心が固まったのか、コダマは言い出せなかったことをたずねた。
「あの……」
「はい?」
存外ににこやかな応対に、ほんの一瞬だけ躊躇する。
「……どうして、シンジ君、お母さんは死んだって言ってましたけど」
「ああ……」
くすりと笑う。
「それは……お父さんが悪かったのよ」
「お父さん?」
「わたしの旦那さん。シンジのお父さん」
「はぁ……」
「あの子を人に預ける前にね……ちょっとした実験で事故にあったの。わたしはそのまま病院行きで、あの人はシンジを人に預けることにしたみたいだったの」
「あの……おばさんには?」
「ユイでいいわ。──わたしはずっと意識不明のままだったの。わたしも悪かったのよ……ついシンジにはどんなことをやってるのか知っておいてもらおうなんてね? 思っちゃって……」
「じゃあシンジ君は……その事故の時」
「ええ……間近に見てね? お母さんは死んじゃったんだって思ったらしいわ」
なるほどとコダマは納得した。
そのまま預けられてしまったのだなと。
「その……シンジ君には誰も本当のことを?」
「それもあの人が悪いのよ」
「はぁ……」
「本当ならあの人が親戚なんかにも説明しておいてくれなくちゃいけなかったのに、そのままにしちゃったみたいでね」
「それじゃあ……シンジ君、ショックだったでしょうね」
「その通りよ。そのおかげでシンジね? 家出しちゃって……帰ってきてくれないのよ」
もっとも、部下に保護して貰っているから、安心してはいるのだかと話す。
「そうですか……」
「ええ……」
そうしてようやく、ユイは本題を切り出した。
「あなたの妹さんのことなんだけどね」
コダマは身を固くした。
「『病状』については報告書を読ませてもらったわ」
「報告書?」
「ええ……シンジはあれでもエヴァ──ネルフのロボットのパイロットだから、いろいろと監視が付いてるの。友人についてもある程度は調査の手が広がってる」
「……そうですか」
「怒ってもいいわよ? でもね。今度のことがそう。シンジがあなたの妹さんのために倒れたら、それこそ大事になってしまうわ。だから必要ならネルフがバックアップしてあげる」
「治療の……ですか?」
「シンジの……よ。間違えないでね? ネルフにとって……わたしにとって大事なのはシンジなの。そのシンジが気に病んでいるのよ。自分のせいじゃないかって。だから助けてあげたいの」
「……わかります。たぶん」
「正直ね──それでいいのよ」
わかろうとしている。言い聞かせようとしている。
不憫にも思えるが、ユイは容赦しなかった。
「ただね? 妹さん──ヒカリちゃんを優先するようになられては困るのよ。わかるでしょ? ヒカリちゃんの傍にいなきゃいけないから、戦えない。そんなことを言い出されては困るの」
「じゃあ……じゃあどうしろっていうんですか?」
「それを話し合いたくてここに来たのよ」
ユイはマスターに向かって、紅茶のお代わりを申し込んだ。
話は長くなる。そんな意思表示としての行為であった。
Nパート
「落ち着いた?」
「うん……」
所変わって、こちらはシンジとヒカリであった。
ベッドの上でタオルケットをかぶり、一人落ち込んでいたヒカリを苛立たせたのは、しつこく鳴ったインターホンの音であった。
──誰よもう!
はぁい! っと乱雑に扉を開きつつ怒鳴ったところ、そこに居たのはシンジであった。
あ、あの……と、困った様子のシンジに、ヒカリは言葉を失ってしまった。
ちょっと……あの、電話じゃちゃんと説明できなかったからって思って……でも。
そんな具合に逃げ腰を見せたシンジのことを、必死になって引き留めた。
シンジにしゃべらせないほどに、なにを言ったかもわからないほどうろたえて、必死になってしがみついた。
──言葉が喉に詰まって、咳き込んだら、涙が出た。
わんわんと泣いてしまった。シンジの両袖を掴み、引き倒すようにして近づけ、その胸に顔を押し当ててしまった。
……改めて考えてみると、恥ずかしい。
「で、さ……」
まだ玄関である。
家の中にも入っていない。門柱の所で二人は座り込んでいた。シンジは人が来るか来ないかと気が気ではなかったが、運良く誰にも見られずにすんでほっとしていた。
「実は……この間のことなんだけどね?」
びくりと反応するヒカリの背をなで続けながら、シンジは母がどんな人間なのかを語っていった。
──母さんには母さんの理想があるんだろうね。
それがシンジの結論だった。
「碇君……」
軒先という場所も考えずに、ヒカリはシンジの顔にどきりとしてしまった。
あまりにも切ない表情をしていたからだ。
(あ……)
そうだと思い出す。
(ノゾミと同じ顔してる)
それはいつのことだっただろうか?
幼い頃に死に別れてしまったからだろうか? ノゾミは母を求めることはなかった。いないことが当たり前だったからだ。だが甘えたいという気持ちはあって、それを時々家族に信号として出すことがあった。
──自分たちは、どうしただろう?
忙しいからと邪険にする父と姉に、ヒカリはどうして自分だけがと相手をしていたのを思い出す。そしてもう一つ……。
甘えることの無くなった時の、妹の顔を。
それは今のシンジの表情と同じだった。
辛いとき、悲しいとき、うれしいとき、楽しいとき。
泣きつきたい。抱きしめられたい。一緒にはしゃいでもらいたい。
そんな当たり前の喜びを封殺してしまうものが見せる顔。
──孤独という言葉が脳裏をよぎった。
(碇君……)
シンジはなにを思っているのか、ぼんやりと道を眺めていた。
唐突に悟る。だから学校へは行かないと言ったのかと、それもわかった。
普通は、友達でも、誰にでも、心を許してしまう瞬間がある。
何気ないとき、どんなに身構えている人間でも、ふとした人の失敗に、ついつい笑ってしまうことがあるように、無防備になってしまう時がある。
なのに、シンジにはその時がないのだ。許せる相手がいない。それが寂しさとなって現れているとわかってしまった。
「……綾波さんは」
「え?」
「あっ! えっと、その……」
ついつい考えが口からこぼれてしまっていた。
ヒカリは慌ててしまったが、シンジの不思議そうにする目に、今更引っ込みはつけられないなと諦めた。
「あの……綾波さんと、噂あったじゃない? 婚約とかなんとか」
「ああ……」
それは母さんが吹き込んだみたいなんだとシンジは説明した。
「正直……綾波がなに考えてるかなんてわかんないよ」
「苦手なんだ」
「……っていうよりも、怖いんだよな」
「え?」
「僕ね……人の気持ちとか読めないんだ。わからないんだ……だから綾波みたいにわかりづらいと、もうどうしていいかわからないんだよ」
「碇君……」
「僕は……『あの人達』と付き合っていきたいとは思ってないんだ」
「なに……言ってるの?」
ヒカリは身を引いた。
そこに居るシンジが別人に見えたからだ。
酷く大人びて、冷めた表情をしている。目はなにもたたえてはいなかった。なにかを写してもいなかった。
──自分のことすらも。
「僕はね? ……なにかがしたくて『ここ』に来たわけじゃないんだよ。ただ一人にされるのが嫌で、まとわりついて後を追ってきただけなんだ」
誰に? ヒカリはそう思ったが、その理解の仕方には間違いがあった。
『ここ』との表現を、ヒカリはこの街のことであると考えた。しかし違うのだ。
(僕は……アスカに捨てられたくなくて、うっとうしいって思われてるのがわかってたのに)
ともにあの海に身を投げたのだ。
(アスカと引き離された形になって、色々と考える時間ができて、そのことをようやく飲み込めて、僕はわかったんだ)
──シンジなのね?
あの電話の時にはそれがもうわかっていたから、正直この街とも関わらずに生きていこうかと考えていた。
ネルフともエヴァとも関係なく、誰かに縋ったりなついたりして、迷惑だと感じられたりしないように、適当に、つつましく、片隅で生きていこうかと考えていた。
──また嫌われるのは辛いから。だが。
(あの電話があったから)
惑わされたのかとも思う。
あれだけ邪険にされたのに、うっとうしいと見限られたのに、なにを今更期待しているのだろうか?
自分の中に『その』感情があることを、シンジはどうしても受け入れられずにいたのだった。
Oパート
「僕は……僕は認めたくないけど、待ってるのかもしれない」
そうすれば何かを振り切ることができるから。
シンジはそんな意味合いで口にした。
「おかしい……かな?」
「そんなことない……と、思う」
「うん……でも、おかしいよ」
「ねぇ……」
「なに?」
「その人は……今は?」
「ずっと遠く。海の向こうに居るよ」
「そうなんだ……」
「もう……どうでもいいかなって思い始めてた」
「…………」
「僕はアスカの後にばかりついて回ってた……後を追いかけてばかりいたんだ。そんなだから飽きたっていわれて置いていかれたんだ」
ヒカリはそれは違うんじゃないかと思った。
置いて外国に行ってしまったという表現がもう理解できない。普通外国に行くというなら親か何かの都合であろう。
シンジの気持ちなどおかまいなしというのが当たり前だ。それともまだ知らない何かがあるのだろうか?
それはおそらく正しかった。
「必死になって引き留めたよ。でもだめだった……その時の言葉がね? おかしいんだ。憎いとか、嫌いとかじゃなくて、ただ邪魔なんだって言われた気がしたんだ。そんな僕の気持ちなんてわかんないでしょ?」
ヒカリはそっとかぶりを振った。
わかるはずもなかったからだ。
「だよね……それでも僕はすがることしかできなかった」
「誰に?」
「アスカに」
「え?」
「アスカとの記憶に……かな?」
「碇君……」
「それからの僕はおかしかったよ……おかしくなってたんだと思う。人間ってね? きっと友達とか、大人とか、付き合ってく中で感じが変わっていくんだろうね……。大人と付き合ってると大人っぽくなっていくし、子供と付き合ってると子供っぽくなっていくんだよね……。好きって感じるのも、顔とか、歳とか、そういうのの趣味とか、趣向? ってのもさ、きっとそういうので変わってくんだと思うんだ」
僕はずっと変わってないんだとシンジは告げた。
「僕はね……アスカと離ればなれになってから、ずっと自分の殻に閉じこもってたんだ。だからかもしれないね、人と話すのが苦手なのも……」
「いっ、碇、くん?」
シンジはヒカリの手を取り、両手で包み込んだ。
「この間……」
「…………」
「洞木さんの部屋でさ」
「あ……うん」
「緊張したし、恥ずかしかったよ? でも恥ずかしいって思ったのに、洞木さんに近づきたいって思わなかった」
「…………うん」
「多分……僕は、止まったままなんだ。心のどこかが、今でもね?」
シンジはヒカリの手を解放した。
「だから……ごめん」
「……もう、いいから」
「……変なことに巻き込みたくなかったんだ……それだけだったんだ。それだけは言っておかなくちゃって思ったから」
「も……いいから。ね? ほら。あたし、もう元気だから」
「……ありがとう。優しいよね。洞木さんは」
「うん……」
ヒカリは優しい顔をするんだなぁと顔を赤らめてしまった。
(でも……)
ヒカリは思った。
(好みが変わってないって……じゃあ、碇君って)
──ロリコンなんだ。
それは酷い誤解であった。
──それじゃあ、そういうことで。
ユイは店を出ると、待たせていた黒塗りの車へと乗り込んだ。
「シンジは?」
「軒先で話し込んでいるそうですが……」
「そう……二人きりになって……なんてこともあるんじゃないかって思ってたんだけど」
「そういう雰囲気ではないようですね」
「悪いわね、こんなこと頼んで」
「いいですよ。どうせ暇ですから」
実は車の運転を引き受けているのは、ケンスケの父親である相田マサトシであった。
「なんですか?」
「いえ……すっかりなじんじゃったなと思って。お互い」
「ああ……誰の目も耳もないんですから、気を遣うことはないんでしょうけどね」
「それはそれで誤解されることになると思うけど?」
「だからですよ。こうして普段から敬語を使ってちゃんと身分差を意識してやっていれば、そういう疑いを掛けられても「まさか」と口にして終わりになる程度ですみます。そういうものです」
昔の研究仲間である。本当ならば親しく話していても良いはずなのだ。
「あなたの息子さんには悪いことをしたけど」
「なぁに。出世の道を絶たれたことの方が痛いですよ」
「エヴァのパイロットにしたかったの?」
「なりたかった……そういうことですよ。俺に無理ならせめてケンスケにってね」
「そういうものなの? わたしにはわからないけど……」
「男親ってのはそういうもんです」
車を出しますと一言断る。後方を確認してギアを入れ、軽くハンドルを操った。
「ゲンドウは違うんですか?」
ひどくゆっくりで、安全を気にしている速度だと思われた。
「違うわね……あの人は必要ならばって感じだから。必要じゃないなら軋轢の生まれない適当なところですませようとするもの」
「ははぁ……わかるような気がします」
「そう?」
「どうせまた難癖付けられるのが嫌だったんでしょう? そう言う奴ですから」
「そうね……」
ユイは苦笑に近い微笑を浮かべた。
「人にあれこれ噂されるのが嫌いな人だから……」
「……他人をパイロットに指名してあれこれ指示して嫌われるのと、自分の妻にその役目を押しつけて噂されるのと、どっちがいいかっていうのはわかりませんが」
「あなたならどっちを取る?」
「そりゃああいつを取りますよ……あいつが死んだとき、泣きましたからね」
「ええ……」
「もし生きてたら……どうかわかりませんけどね。あんな思いをいつかしなきゃならないんだって思って生きるのは、ちょっと辛すぎます」
「それなのに……ケンスケ君を乗せたかったの?」
「あいつは男ですから」
「……わからないわ」
「たぶん……どんな女性でも、男に負けないって頑張ってる人でも、基本的には子供を産んで、育てるって流れになると思うんですよね。自分の夢とか、追いかけてきたものっていうのがどういうものでも、そういう一段落はあると思うんです」
「そうね……その後でまたってこともあるけど」
「ですよね? 基本的にはそうだと思います。けど、男ってのはそういうのがないんですよ」
「そう? 結婚とかは」
「一区切りには違いありませんけどね。それじゃあ終わってます」
「終わってる?」
「男ってのは2タイプいると思うんですよね。適当なところで妥協する奴と、いつまでも夢を追いかけていくタイプとです」
「それは女でも同じだと思うけど……それが?」
「男ってのは難しいって話なんですよ。……男ってのは、中学を卒業する頃にはもう金を稼いでいけるだけの体力があるんですよね。なのにあれもだめ、これもだめって制限を掛けられて、とにかく『全力を尽くす』ってことをさせてもらえない。限界まで挑戦するってことを許してはもらえない。そういう危ないことはやらせてもらえない。これって結構きついんですよね」
「わかるような……わからないような」
「力をもてあます……ってのに似てますね。答えのわかってる実験を押しつけられたら面倒なだけで嫌になるでしょう?」
「それならわかるわ」
「全力を尽くさないまま二十歳を迎えさせられて、するともう大人だからって理由でやっぱり無茶はやらせてもらえない。その内結婚してますます無謀なことはできなくなって……」
「老いて朽ちてく?」
「いいや、もっと深刻ですよ。三十で結婚したとしても残り六十年だか七十年だかあるわけですから。想像しただけで絶望的だとは思いませんか? たった二十年、三十年生きただけでも、無茶をするのは馬鹿のすることだと言われて、結果のわかってることだけをやらされて、やるしかなくて、生きてきたのに、それをあと何倍もの時間、続けて行かなくちゃならないんですよ?」
「想像しただけで嫌になるわね……」
「でしょう? 結果のわかっていることを、無難にやって生きていくのが賢い人間のやることです。それが大人の教えです。でもね? 結果のわかっていることをやってるだけじゃ、先なんて見えてしまうでしょう? どうなっていくか……それが無気力に繋がると思えるんですよね。だからできればエヴァのパイロットにしてやりたかったんですよ。まったく先のわからない、未知の領域ってところで、ぶつかる障害、わき上がる難題、突き当たる課題、そういったものを一つずつこなして、かわして、乗り越えていく。それがやがて自分だけの物語として、心の糧になりえると思えるんですよね」
「あなたにはないの?」
「ないからあいつにはと望んでたんですよ」
「そういうものなのね……」
「死ぬかもしれない。死んでもいいさって感覚は、多分、理解してはもらえないでしょうね。それでもつかみたいものがあるんだって気持ち……それでもたどり着きたいんだって想いが、やっぱり、人の格ってもんを決めると思うんですよ。まあ……あいつにはそれが足りなかったみたいですけどね」
はぁっと軽く落胆の吐息をこぼした。
「なりたいものがあるのなら……やりたいことがあるのなら良かった。そのためにシェルターを抜け出したっていうのなら、ここまであいつに失望したりはしなかったんですが」
「ただの好奇心だったことがそんなに?」
「許せませんでしたよ。親として期待しすぎてたんでしょうけどね……それでもただの子供だった。脇役として彩りを添える程度の人間だったって気づかされると、もう少しはマシな人間になってくれと泣きたくなります」
「なってくれると思う?」
「どうでしょうね……でも子供ですからね。まだ……。懲りないでしょうし」
「いつまでもしょげたままではいないでしょうね」
「それでもやっぱり、特別製の道を逃しちゃったんですから、痛いでしょうね。もっとも、そのことに気が付くことはないでしょうけど」
「教えてあげないの?」
「教えたらきっと後悔だけじゃ済まないでしょうよ」
それもどうだろうかとユイは思った。
この人はエヴァというよりも、巨大ロボットのパイロット……という地位に相当な価値基準を置いているんだろうなと感じたからだ。
(世界を守るために戦う、巨大ロボットのパイロットか……)
そういう役回りこそが『主役』なのだと信じているのだろう。でなければこれからは普通の世界での主役を目指して欲しいと、素直に口にするだろうなと思ったからだ。
子供じみた発想だ……それは口にはしなかった。
そんな綺麗事ばかりではなくて、きっと、主役の父親という、現実的な『名声』にも、未練を残しているのだろうなと、思ったからであった。
Pパート
なんとかコダマとの間に、シンジに関しては不干渉ということで合意を得て来たユイであったのだが、その日の晩の内にかかってきた彼女からの連絡に、眩暈を感じて卒倒しそうになってしまっていた。
「し……シンジがロリだったなんて」
動揺している。
それは電話の向こうにいるコダマもまた同じであった。酷い様子で狼狽していた。
『ど、どうすれば良いと思いますか?』
「とりあえずそれとなく確認してみるわ……本当なら」
『本当なら?』
ユイはわずかな間を持ってから答えた。
「多少の荒療治は……しかたがないでしょうね」
──それって!
コダマは息を呑んだようだったが、ユイの決意は、それほどまでに固かった。
「ただいまぁって……今日もミサトさんはオシゴトか、あれ?」
シンジは人の気配を感じて身構えた。
「まさか……ドロボウ?」
じりじりと下がっていく。
後ろポケットをまさぐって、携帯電話を取り出すと、シンジは緊急通報のボタンを押した。
──そしてそのまま家を出る。
ドアは閉まらないようにロックしておいた。閉じる音に気づいて逃げられても困るからだ。
(保安部の人……早く来てくれないかなぁ)
通路奥にある防火扉を開き、非常階段に腰掛けて、シンジは守りの手がやってくるのをじりじりとしながら待ちわびた。
そうしてガス弾やらなんやらで、害虫のごとくいぶりだされたのは……。
「綾波!?」
シンジを誘惑すべく待ちわびていたレイは、むっとしているような、どうしてこういうことするの? とでも訴えるような、そんな目で、白煙に真っ白になった姿で、シンジを無言で責め立てた。
「僕のせいじゃないのに……」
どうなってんだこりゃ? っと、後頭部を掻きながら保安部の強襲部隊は帰還していった。
当然残されたのは荒れ果てた我が家である。シンジはのろのろと片づけを始めた。最初は白煙にさらされた壁や床や天井を拭くところから入った。
じゃーじゃーと音がするのはレイである。シャワーを浴びているのだ。制圧するためにしこたまゴム弾をぶつけたんだが……と、強襲部隊の隊員達は、しきりに首をひねっていた。
まるで怪我をしていなかったからだ。
(まあ綾波だしな……)
それですませてしまうシンジである。
(綾波って……未だによくわかんないんだよな……綾波ってなんなんだろう?)
ただの人間でないことはよく知っている。ことによると人間ですらない。
ネルフの地下で見たたくさんの綾波レイ。二人目、三人目との口ぶり。そして世界が終わる寸前に現れた巨大な彼女。
それ以外にも、たくさん話したような気がする。夢の中で。
きゅっきゅと冷蔵庫をぞうきんでぬぐう。
(考えてみればここにいる僕も、どうして生き残ったのかとか、いろいろあるし。考え始めたらキリがないんだよな)
ちょっとだけ……余計なことを思い出して笑ってしまう。
──アンタばかぁ!? んなことうじうじ考えてたってしかたないでしょ? 生きてんだからいいじゃん! 他になにが必要なわけ?
そんな彼女と一緒だったから、なんとか生き抜いていけたのだろう。そしてそんな彼女に見放されそうになったから、心細さに追従したのだ。
(独りは嫌だ……でも本当に一人きりになるのはもっと嫌だ。他人が居て、触れあわない程度に冷たい。そんな関係でできあがってる世界が気持ちいい)
だから。
(おじさんの家って、僕にとっては天国だったんだな……)
以前は地獄のような場所だった。
なのに待遇は同じでも、気持ち一つで感じ方はそこまで変わる。
シンジは改めてそのことに気が付いた。
(結局わがままだったんだよな……。いや、今でもわがままなのか。雨をしのげる家があって、お腹が空かない程度に御飯が食べられて、清潔でいられるくらいの着替えがあるんだ。後欲しいものなんて、全部ただのわがままだもんな。我慢しなくちゃいけないことだもんな)
なら後は、どこまで自分のわがままや欲望、欲求といったものを許してやるか? それだけだ。
(アスカ……か。やっぱり期待してるんだな、僕は。洞木さんと親しくなったら、アスカによかったわねって言われるかもしれない。綾波と仲良くしてたら、アスカにふうんって言われるかもしれない。でも全部我慢していれば、アスカに仕方ないわねぇって言ってもらえる。そんな風に期待してるのかもしれないな……)
アスカに再び好かれるように……、冷たくあしらわれたりしないように、そんな風になる原因となりえるものは作らない。
「はぁ……」
シンジはぴかぴかになった冷蔵庫に映った自分の顔に、なんて情けない表情をしているんだろうと嫌気を感じた。
(これがまだ自分には責任の取れないことだから……なんて、そんな理由で自分を抑えてるっていうのなら、恰好良いのに)
僕の考え方の基準なんて、そんなものかと自嘲する。
(いっそアスカに嫌われちゃおうかな……それで好きにするんだ。嫌われても、厭がられても、気にしないで、みんなに見放されるような自分になるんだ。そうすればきっと自由になれる。そうだよ、母さんでもエヴァに乗れるんだし、前の時だって父さんは臆病者は不要だとか言って、僕を先生のところに帰そうとしたじゃないか。またあそこにって……)
なにを考えてるんだよと落ち込んだ。
「はぁ……父さんも母さんも揃ってて、家まであるんだ。ネルフとかエヴァとか関係ないじゃないか。じゃあ更正施設とかって……それもだめだな、僕にそんな度胸なんてないよ」
はぁああああ……っとため息を吐く。そんな施設に放り込まれるような悪いことなどできるはずがない。
そんな哀愁漂うシンジの背中を、一対の瞳が見つめていた。
この人はなにを悩んでいるのだろうかと、しきりと首を傾げているのは……トサカを持ったペンギンであった。
Qパート
シンジはペンペンと手を繋ぐと、バンザイをさせたり、両腕を広げさせたりして遊んだ。
「ぶんぶんぶん……」
上下に振ってみたりする。ペンペンの目が、こいつは大丈夫なのだろうかと哀れんでいた。
「碇君……」
レイはおそるおそる話しかけた。さしものレイにも看過できないほどの鬱状態に思えたからだ。
「あ……綾波」
「なにをしているの?」
「なにって……」
ペンペンに目を戻す。
「遊んでもらってるんだ」
「そう……」
「綾波は……」
「なに?」
「なにをしているの?」
「碇君を待ってる」
「そうじゃなくて……なにをするために……うまく言えないな」
はぁっとため息を吐く。ペンペンは深刻になりそうだという気配を察したのか、そっと両手を取り戻すと、途中の篭に新聞と共に挿してあったビーフジャーキーの袋を手に取り、自室でもある冷蔵庫に引きこもった。
「綾波は……覚えてるんだよね、昔のこと」
「ええ……」
「僕も覚えてる……アスカも」
「そう……」
「僕とアスカはね……一緒にこの世界に落ちたんだ」
「落ちた?」
「そうとしか言えない……そうとしか表現できないけど、そうなんだ」
シンジは立ち上がると、椅子に座り直した。
レイも足を動かして、彼の正面に場所を取った。
「僕はアスカを追いかけてここに居るんだよ……でもお互いどこにいるんだかわからないほど遠くなっちゃって、僕はしばらく気が狂いそうだった」
「…………」
「だってそうでしょう? アスカは今何をしてるんだろうって……もしかすると好きな人ができて笑ってるのかもしれない。僕のことなんてって……その内ね、考えるのをやめたんだ。でないと本当におかしくなっちゃいそうだったから」
「そう……」
「綾波は? 綾波は何を考えてた?」
「なにも……」
「なにも?」
「わたしには、碇君が居る……また逢える。逢うことになっている。それがわかっていたもの」
「わかってたんだ……」
レイはコクンと頷くと、天井を見上げてまぶたを閉じた。
「わたしは……わかっていたんだと思う。あの夏のひととき……あなたがやって来てから、全てが消えてしまうまでのことを」
シンジは眉をひそめた。思い出していたからだ。
人一人いない街で、誰かを見た気がしていたのを……そして、それが誰であったのかを。
──全てが死んだあの世界で、横たわる二人を見ていた人影のことも。
「『わたし』は見ていた……だから気になっていたのかもしれない。あなたのことが」
「綾波……」
レイはまぶたを開くと、驚いているシンジと視線を合わせた。
「だけどそのこととは無縁に、あなたに惹かれていくわたしが居た……。あの街に、わたしの一人が居た」
シンジの脳裏に、壊れていったレイ達のことが思い過ぎった。
「綾波は一人じゃなかった……」
「そう……知っていたの?」
「見ていたんでしょう?」
「わたしはわたしよ……ここに肉の身を持って生きている、それだけのわたし」
「全てを見ていた綾波じゃないの?」
ええとレイは首肯した。
「わたしはその断片を感じて思いとどめているだけ……。あの街に居たわたしでもない。わたしはここに生まれたわたし」
「それなのに……」
シンジは酷く困惑していた。
「僕にこだわって……」
レイはじっとシンジを見た。
「だって……あの人、ユイさんがわたしに教えてくれたもの。わたしはあなたとつがいになる定めにあるって」
「つがいって……」
「だから、夢のように思い浮かぶことは、きっと前世……わたしたちが運命によって結ばれている証拠なんだって、思ってた」
「綾波……」
思ってた……レイはそう言った。それは勘違いであったことを、今では知っていると言うことであった。
「ここはわたしの中」
「そう……なんだ」
「気づいていたの?」
「そうじゃないかって、思ってた」
シンジははぁっとため息を吐いた。
「感じてたんだ……まるで夢みたいだって」
「夢?」
「そう……夢」
小首を傾げるレイに、くすりと笑いかける。
「夢みたいにね……時々時間が跳んでる。そんな風に感じてたんだ」
レイはそれならわかると頷いた。
「そうかもしれない」
「うん……僕は確かに産まれて、育ってきてるのに、細かいところでは……大したことがなかった日なんかの記憶がないんだよ」
だから、今日の次は三日後だった……そんな感覚になることがある。
「おかしいよね? ちゃんと思い出そうとすると、記憶はあるのに……その時間を過ごしたって感触がないんだよ」
「…………」
「だから、タイムスリップなんかじゃないのかもしれないって思ってた。じゃあここはどこなんだろうって思ってた。僕たちが飛び込んだのは綾波の目だった。じゃあ綾波の頭の中……綾波が空想してる世界なのかもしれないって思ったんだ。思っただけだったけどね」
「嫌なの?」
「嫌じゃないよ……それに気が付いたからってなんにも変わらないからさ。僕は逃げ出したんだ。いや、逃げ込んだんだ。それなのに、逃げ込ませてもらっておいて、不満なんて言えないよ」
綾波は……とシンジは続けた。
「嫌じゃないの? 他人にかき回されるなんて」
「どういうこと?」
「だってそうじゃないか! これは綾波の見ている夢なんだろう? なら綾波の楽しいように……うれしいように世界が動いててもいいじゃないか。なのに僕たちが勝手に暗い話を持ち込んでる」
「でも碇君や碇君の抱えているものにふれていると楽しいもの」
「そう?」
「ええ……おかしくて」
「おかしい?」
「面白い……」
「うう……なんか含んでない? それ」
「……気のせいよ」
くすくすくすと後に続く。かなり意味ありげに。
「碇君?」
「なにさ」
「碇君は考えすぎているわ」
「そうかな……」
「ええ……」
わたしには……と、また不可思議な雰囲気をその身に纏う。
「わたしには見える……この夏のできごとが」
「うん……」
「でも……完全ではないわ。だってわたしにはそれほど広く見る目はないから」
「限られているってこと?」
「そう……。そして細部まで見通せているわけでもないの。でもそこに碇君がいる。わたしの望みも、意志も、なにもかもを拒絶し、抗い、自由に振る舞っているあなたがいる」
「それはいいことなの? ……綾波にとって」
「ええ」
元に戻った。
「たぶん……『わたし』は知らなかったんだと思う。見たものと、触れたものとでは、感じ方が違うということを」
「そうなのかな……」
「ただ見ているだけでは、理解することしかできないもの。でも触れられる場所で、共に悩み、過ごすと、思い入れが変わってくるわ……そこには痛みも悲しみもある。喜びも」
「そっか……」
「まだ『わたし』は知らないんだと思う。最初にそれを教えてくれたのが碇君だったから、碇君にもっと教わろうとしているんだと思う……だからまだ。『それ』は碇君以外の人が相手だとしても、学べることだとは気づいていない……」
「でも綾波は知ってるんだろう? なら……」
レイは小さくかぶりを振った。
「でもわたしはわたしと言ったでしょう? わたしは小さな頃から碇君に会えるのを楽しみにしていたわ……その碇君が目の前にいる」
「綾波……」
レイの微笑みに当てられて、シンジはまともに顔を赤くしてしまった。
「碇君……」
レイの手が伸びる。シンジの頬にあてがわれる。
レイはテーブルの上に体を伸ばすと、シンジの顔を引き寄せた。
あてがわれているだけだというのに、シンジは不思議と強い力で引き寄せられていると感じた。それはレイの小さな桜色の唇に魅せられていたからかもしれなかった。
──あと十センチ。
ブシュウ……。
冷蔵庫が開いた。ペンペンだった。
あ……。そんな感じで露骨にまずいところへという気まずさを見せたペンペンであったが、彼は意を決して飛び出した。
隣の冷蔵庫を開けて缶ビールを三本ほど取り出し抱え、急ぎ自分の冷蔵庫に飛び込んだ。
彼は自動的に閉まろうとする扉を途中で止めた。クワッ! それはレイにも「ごゆっくり!」と聞こえるものだった。今度こそガチャンと閉まった。
レイは意を決した。千載一遇のチャンスなのだからと、強引に続きを望もうとした。しかしできなかった。
「ええと! 僕ジュースでも買ってくるよ!」
ばたばたと行ってしまった。
そんなシンジを見送ってから、レイはこっそりと様子を窺っているペンギンをギロリと睨んだ。
──三十分後。
帰宅したシンジが見たものは……ボコボコに殴られて変形した冷蔵庫の中から、助けてくれぇと、クワァア……と伸ばされている黒い弱々しい手であった。レイの姿は消えていた。
「ペンペ〜ン!」
Rパート
メディカルセンターの通路を、緊急ベッドを押して看護婦が走る。
それを追いかけるように走っているのはミサトだった。やがてベッドは分厚い扉を押し開き、その奥へと消えていった。そこは集中治療室で、ミサトには踏み込めない領域である。
彼女は哀れな同居人のことを思って、切ない声で心配した。
「ペンペン……」
空母の上で、空を見上げている少女が居た。アスカである。
レモンイエローのワンピースに身を包んで、彼女は今か今かと待ちわびていた。その足下にはカヲルが居て、片ひざを立て、腕を置いてくつろいでいる。
「その服には、なにか特別な意味があるのかい?」
「……気分の問題よ」
「…………」
カヲルには肩をすくめることしかできなかった。この気位の高い少女が惜しげもなく細くて長い足と、その先にある秘部を覆い包む布地をさらしているのだ。
考えもなしに、波がうねり、風が吹きすさぶ甲板上でするような恰好ではない。それになにより……。
(うれしそうだね)
緩みそうになっている口元を、必死に引き締めているのが面白い。カヲルはそんなアスカの気分が伝染しているのか、同じように心を弾ませていた。
「来た」
アスカの声に、太陽に目を細める。
「ヘリだね……」
「ヘリよ」
「本部からのお出迎えかい?」
「そういうことよ!」
タッと駆けだしたアスカに首を巡らせて、彼はそういうことかいと立ち上がった。
お尻をはたいて、両手をポケットに突っ込み、ヘリを振り仰ぐ。
アスカがいなくなったからか、その表情は彼本来のものに戻っていた。透き通っていながらも、どんな感情もこもってはいない笑みであった。
ヘリがその足を甲板につける。
だが船はヘリの重さを受け止めてさえ逆に浮き上がって見せた。それを為すのが波のうねりというものだった。
彼女──アスカは、以前と同じポジションに立って腰に手を当てた。もうすぐあのヘリの扉から彼らが降り立ってくる。その幻に期待していた。
「え?」
だがそんな彼女の期待は裏切られてしまった。出てきたのはまず青い髪の少女であった。
彼女はぴょんと飛び降りて、制服のスカートを手で押さえた。
「なんで……」
それに続いて、少女を大人にしたような女性が出てきた。こちらネルフ幹部の証である黒いスーツを身にまとっていた。
他には?
その二人で終わりだった。
「あら……」
最初に気がついたのは女性の方だった。
彼女はヘリのローターが起こす風の影響の範囲から出ると、アスカに向かってしゃべりかけた。
「アスカちゃん? あなたアスカちゃんね……大きくなって」
「あ……あの」
「わたしは碇ユイ。ネルフではE計画を担当しているの、よろしくね?」
「ええと……」
「こっちは綾波レイ。ファーストチルドレ……どうしたの?」
レイは奇妙なものでも見るような目をして、アスカの背後でがっくりと跪き、滂沱のごとく涙している少年のことを指さした。
「こ……これが失望というものなのかい? ああ! 再び君と巡り逢える時を待ちわびていた日々! そのはやる心に急かされるような甘美な毎日も、逆にこれからのことを思うと楽しくて楽しくて仕方がない時ではあったよ? けれどもそんな倒錯も、こんどは抱きしめあえるんだという現実の期待を前にしては、ただのスパイスにすぎないのだと思っていたのに……。うう……僕はまた知りたくもなかった人の心をいうものを知ってしまったよ。裏切ったんだ。僕の期待を裏切ったんだ」
「……なんなの?」
「あ……こいつのことはほっといていいです、はい」
なんとかカヲルのおかげで持ち直すアスカである。
「アスカちゃんのカレシ?」
「違います!」
アスカはレイの視線に気がついた。
やけに醒めた目をしているのだが……なにか感じるものがあった。通じるものかもしれない。だから確信のようなものがひらめいたのだ。
「『久しぶりね』」
アスカの不可解な台詞に、レイは平然と返答した。
「そうね」
「今度は仲良くしましょ?」
「許可があれば、そうするわ」
「許可? 誰の?」
「碇君の……」
にやりと笑うレイのいやらしさにムッとしたものの、アスカは負けじと逆襲に入った。
「なら大丈夫ね! あいつはあたしのもんだから」
「なぜそうなるの?」
「アンタの知らない『あたしたち』の時間があるからよ!」
「……それは『わたしたち』にも言えることだわ」
むむっとにらみ合う二人である。その間に、「ええと……」と割り込んだのはユイだった。
「二人とも……知り合いなの?」
「え!? ええと……ちょっと」
「わたしたちは前世でともに戦った仲間なんです」
「へ?」
「そ、そうなんです! 世界を破滅から救うために、力を合わせて戦ったんです! ねぇ?」
「ええ……」
「今度は負けないからね!」
「そうね……今度は負けるわけにはいかないから」
なぜ? その部分に言外の競争があるのだろう。しかしユイにはそこまで見抜くゆとりはなかった。
「こりゃやべーわ」
口汚く焦るユイである。
(シンちゃんとアスカちゃん……それにレイも、なにかあるみたいだって思ってたけど、まさか……まさか『ソッチ方面』の、『ヤバげな世界』がらみだったなんて!)
ユイは真剣に頭を抱えた。
「でもシンちゃんもアスカちゃんも、あたしたちが死んだと思って落ち込んでたみたいだし、変な啓発セミナーとかに通ってなかったとも言えないし、そこで交流があったとかってそんな馬鹿な!?」
でも否定できる要素が見つからない。
セカンドインパクトからこっち、ネットの発展もあって全世界規模で変な宗教が広がっているのだ。
ユイは素早く衛星携帯電話を取り出すと、諜報部に向かって命じたのだった。
「セカンドとサードの過去の行動を洗い直してっ、早く!」
実にはた迷惑な話であった。
──そしてこの件に関して、適任だとして命じられたのが彼であった。
「俺ッスかぁ!?」
加持リョウジの受難が始まる。
−第四話 了−