シンジは考えていた。
「なぜ僕はここにいるんだろう」
「まったくね……」
 こめかみをぴくぴくと引きつらせているのはリツコである。
 二人は大きな丸テーブルに着かされていた。正面の演題でははげかかった男が声高にJAと名付けられたロボットのアピールを行っている。
「ミサトのやつ……」
「やっぱり僕は……いらない子供なのかな」
「……必要? ここに?」
「ですよね……」
 はぁっと同時に嘆息する。
「で?」
「はい?」
「なんでシンジ君がミサトの代わりにここに来てるの?」
「はぁ……ペンペンがケガしたんです。ミサトさんはペンペンと一緒に病院に……」
「それは知ってるわ」
「その時に、あとよろしくって言われたんです」
「それで?」
「迎えの人が来たんです」
「迎え?」
「はい。ネルフの人でした」
「あなたを迎えに?」
「はい」
「ミサトの迎えじゃなくって?」
「はじめはそうだったらしいんですけど……」
 シンジは頭痛をこらえて説明した。
「でもあとを頼まれたんでしょうって」
「はぁ?」
「頼まれたというのなら、それは正式な命令ですって」
「……杓子定規なのも考えものね」
 やる気の萎える話だった。
「常識っていうのが通用しないんでしょうか?」
「……一応、あなたは作戦部……つまりミサトの直属の部下ってことになっているから」
(まあ、お手並みを拝見しましょうか……)
 リツコは無駄話に興じている内に、演壇の男に質問する機会を失してしまっていた。
 だから、そのまま傍観することに決めたのである。……少しはつついてやろうかと思っていたのだが、シンジと話していた方が面白いかもしれないと思い始めていたからだった。



第五話、天使と小悪魔の狂想曲



 一方でここにも苦悩している男がいた。
「俺はなんでここに居るんだろう」
 加持である。
「俺の仕事はこいつを運ぶことだったのにな……」
 船室の一つに彼はこもっていた。ベッドに腰掛けているのだが、足下にはトランクケースが置かれていた。
 それをこんと足で蹴る。
「ま、仕方ないな」
 割り切らねばならないと自嘲する。時間がないのだ。
 小窓の外では戦艦が二つに折れて砕け散るところだった。海面に上がる水柱が巨大な何かの存在を知らしめている。
 ──それは使徒という名の生き物であった。

 ──十五分前。

「俺ッスかぁ!?」
 もともと加持はその緊急コールに不審な物を感じていた。
 それでもこの回線にかけてくるのは総司令だけである。無視することはできないのだ。
「で、でもあの、俺にはこいつが」
『荷物はユイに持たせろ』
「ですが!」
『君には第二東京に飛んでもらう。その後はドイツだ』
「ちょ、ちょっと待ってくださいって!」
『ユイからファースト、セカンド、サードについての話は聞いているはずだ』
「それは聞きましたが……でも」
 見られていないのを好いことに、加持はたばこに火を点けた。
「サードはともかくファーストとセカンドについては保護下にあったわけで」
『それはチルドレンとして認定されたあとに限られることだ』
「それもそうでしょうが……」
『君はなかなか便利だからな、それに旧東京のことについてもなかなかの資料をそろえてくれた。ドイツへの出向命令が出ていたというのに、短期間でよくやったものだ』
「…………」
『それが嫌ならば嫌でかまわん。別の者にやらせるまでだ』
「わかりましたよ」


 ──旧東京。
 そこは泥の世界となりはてていた。
 シンジはどうしてそうなったのか、詳しいいきさつを知らなかったが、それでもセカンドインパクト直後に落とされた爆弾が原因だということは知っていた。
 これは歴史の授業で習うからである。
 破壊された土壌は海面上昇などに伴う地下水の浸食を受けて地盤沈下を起こしていた。かろうじて残っていたビルや家屋の残骸も、その中に飲み込まれて消えようとしている。
 そんな中にこの施設は建てられていた。
「わぁ……」
 シンジは巨大なタワーが左右に開いていくのを見て、宇宙基地のシャトル発射施設みたいだと漏らした。
「テレビで見たのとそっくりだ」
「たぶん同じところが設計してるんでしょ」
「え?」
「利権の関係よ。セカンドインパクトのおかげで宇宙開発はのきなみ停止状態にあるから、うちか、こういうところに売り込むしか生き残る術がないのね」
「へぇ……」
「さっきの演説聞いてた? うちのおかげで餓死者が出てるって奴」
「はい」
「その人たちのやってることがあれよ。利権あさりで金を集めて、あんなばかげたものを作り上げて、もっと大きく稼ごうとしている」
「悪いことなんですか?」
「あの人たちはお金を儲けることは考えていても、それを寄付して回ろうなんてこと考えていないもの。まあ、経済効果とか社会貢献なんてものを考えていないのは、うちも同じことだけど」
 そんなことを話しながらも、リツコはシンジの様子を確かめていた。
(驚かないのね)
 開発施設に驚きはしても、目玉であるロボットにはまるで反応していないのだ。
 それもそのはずで、シンジはあのロボットがどういうもので、どのくらいのものなのか知っていた。だからこそ、シンジは特に大した感想を抱かなかったのである。


−Bパート−


「しかし、日重もよくやる」
 説明会が終わり、休憩が挟まれたところで、各軍事、政府、企業関連の出席者たちは、それぞれにグループを作って散っていった。
 ──自動販売機がガコンとコーヒーの缶を排出する。
「所詮はネルフの利権にあぶれた連中のやることだと思っていたが」
 購入しているのは戦略自衛隊の将兵たちであった。口にしたのは四十がらみの男である。
「その金の亡者をたきつけたのはうちじゃあありませんでしたか?」
 彼は自分よりも一回りばかり若い部下の言葉に苦笑を見せた。
「そんなこともあったかなぁ……」
「またいい加減な」
「しかし使徒が来る前の話だからなぁ」
 彼は遠い目をして口にした。
「使徒があれほどのものとは思ってなかったからな……上の連中も政府の連中も、使徒はもう現れないと言うのが口癖だったろう?」
「今となってはお笑いぐさですか」
「エヴァンゲリオンに匹敵する利潤を生み出してくれるもの……というのがJAの開発理由だったからな。ネルフがテクノロジーの一端でも排出してくれていれば」
「結果は同じじゃないですか?」
 彼はぼりぼりと後頭部を掻いた。
「人の欲には限りがない、か」
「哀れなのは誰も期待していない実戦兵器君ですよ」
 そりゃなあとつぶやく。
「ネルフと使徒の戦闘記録を見れば、誰も期待などできんだろうさ」
 そうなるとと二人は先の様子を思い起こすこととなった。
「ネルフの扱い……あからさまでしたね」
「どうかキレないで欲しいがな」
 二人の心配は単純なことに向いていた。
 多少の確執はあるものの、敵対するほどの関係でないのが戦略自衛隊とネルフである。しかし戦自がJAの開発に関わっていたとなると話が変わる。
 戦自はネルフに成り代わろうと画策している……JAの開発はそうとも読みとれてしまうのだ。そしてそのような目で見てみれば、先のネルフに当てつけたような待遇は、戦自からの挑戦状だとしても読みとれる。
「どうせならいつまでも完成しないで欲しかったんだが」
「しかし上の人たちはあれに期待してるって話ですがね」
「あんなものにか!?」
「株価が安定してきているからじゃないですかね? ネルフのオーバーテクノロジーを狙ってるんでしょう」
「……どう繋がるんだ?」
「つつくことができれば、多少は人類補完委員会も譲歩する。そう思ってるんじゃないですかね?」
「人類補完委員会か……言っちゃあなんだが」
「なんでなくても、怪しいですよね」
 ああと彼は生返事をした。


「人類補完委員会?」
 シンジの疑問に、リツコは丁寧に解説した。
「国連の中にある一機関よ。ネルフはその下部組織に当たるの」
「なんだか怪しい名前ですねぇ」
 ほんとにねぇと、リツコは同意しかけて慌ててしまった。
 両手で持っていたコップからコーヒーが跳ねる。
 ネルフにあてがわれたのはロッカールームだった。随分と汚い。ろくに清掃されていない……どころか、普段使われているのかどうかも怪しかった。
「コホン……シンジ君? 地球の南側がどうなってるか知ってる?」
「……よくわからないです」
「なぜ?」
「だって……南極に隕石が落ちて、そのせいで滅んだって話だったけど、本当は使徒のせいなんでしょう?」
 リツコはきらりと目を光らせた。
「その話、誰から聞いたの?」
「え?」
「まだ誰もしてないんじゃない?」
「……母さんから」
「そう……」
 苦しいいいわけだったが、リツコは追求しないでおくことにした。
「……使徒が南半球を滅ぼした。情報操作や航路や空路の封鎖によって、南半球がどうなっているのか? 本当のことを知る者は少ないわ。そして本当の南半球は」
「…………」
「死の世界よ」
 シンジはリツコの重い言葉に、ある連想をしてしまっていた。


 ──ザァ!
 舳先が波をかき分ける。
 その様子をタラップから眺めていて、アスカはもう少し小さな船に乗りたいなと思ってしまった。
 この船──空母では大きすぎて、舳先に立つことなどできはしない。どうせなら波を蹴って走る船に乗ってみたいというのはわがままだろうか?
 こんな船では、大きく上下する巨大なグラウンドにいる……そのような感じがするだけだった。
「青い海……」
「なに?」
「青いって、当たり前なのにね」
 アスカは隣のレイの髪を見た。
「ドイツでもね……緑の森があったわ。緑色をしてた。それだけだけど、うれしかった」
「そう……」
「ここも南に向かえばあの海と同じ海があるのよね……いつか行ってみたい。きっとオーストラリア辺りはあの気持ちの悪い世界にそっくりなんじゃないかな」
「…………」
 レイはなにが言いたいのだろうかといぶかしげにした。
 それを満足げにして、アスカは手すりに手をかけ、背後にやや体を倒した。
「なんでもない!」
 ますますわからないレイであるが、だからこそアスカには十分だった。
 ──この女は、あの世界のことを知らない。
 それだけで十分だった。であれば、彼女はあの世界でシンジがどう変わったのか?
 どんな風に変わったのか?
 その底の底まで、全部を知っているはずがないからであった。


−Cパート−


「それでは、エヴァの受け渡しを……」
「まだだ! 海の上は我々の管轄だ」
「しかしですね……エヴァの管轄は佐世保で引き継ぎが終わっていると思っていましたが? そのために自衛隊と戦略自衛隊の艦が輸送船の護衛に出張ってきているのですから」
「新横須賀の基地までというのが命令だ」
「それでは都合というものが……」
「我々には!」
 叫ぼうとした艦長の言葉を遮ったのは、場違いな加持が放ったものだった。
「相変わらずお美しいですねぇ、碇博士」
「あら加持君……どこに行ってたの?」
「いやいや、司令から特別任務を言い渡されましてね。俺が運ぶ予定だったものをお預けしたいんですがね」
 えっと……っと艦長を見る。
「まだかかりますかね?」
 なぜだか蒼白になっている艦長が居る。
「あの……」
 心配になって問いかけるユイ。
「ご気分でも?」
 ぶるぶるぶると首を振る。
「いいい、いま、なんと言った?」
「はい? ……いや、だから任務が」
「その前だ!」
「はぁ……」
「いいいいい、碇、と言わなかったか?」
「ええ……って、IDの確認してないんですか?」
 艦長は副長に後を任せようとしたが、さりげなく副長は距離を取っていた。ついでに乗組員も微妙な距離を開けている。
「あの……」
「いや! なんでもない。引き渡しは今すぐ行う。書類を!」
「こ、これですけど……」
 困惑するユイとは正反対に、加持は理由がわかるのか笑っていた。
「それでは艦長。博士は俺が案内しますんで」
「うむ! くれぐれも失礼のないようにな」
 よろしく頼むとまで付け加えた艦長の態度に不審な物を感じてか、ユイは通路に出てから加持に訊ねた。
「なんなの?」
「みんな恐ろしいんですよ……旦那さんがね」
「ああ……」
「『あの』碇司令にご機嫌を窺わせている奥さんってのは一体? ってなとこですかね」
「わたし、そんなに怖く見られてるの?」
「碇司令の恐妻家ぶりは有名ですからねぇ……」
「そうなの……」
「まあ実際には博士に浮気されては困るって睨み利かせてたというのが副司令の見解ですが」
 おっとこれは内密に……と茶化して口に指を当てる。
「ま、そうやって脅しをかけて回ってたんで、結構なところから怖がられてるんですよ、碇司令は」
「へぇ……」
「その司令の奥さんだって言うんでね、みんな博士を敬遠してるんですよ」
「一度あの人に言っておいた方が好いと思う?」
「やめときましょうよ……浮気できないと言ってるのかって思われたらどうするんです?」
「困ったわね……」
「こんなこと吹き込んだって、俺も殺されますよ」
「殺されてみる?」
「ヤケドするようなことは避けてるもんで」
「嘘ばっかり」
 くすくすと笑う。
「わたしが誰かも知らないでナンパしようとしてたのは誰だっけ?」
「いや、赤面する思いですね。若かったということですよ」
「どうせ直してないんでしょう? その性格……ミサトちゃんが泣いてるんじゃない?」
「一度負けてますからね。無理はしませんよ」
「無理ねぇ……女の子っていうのは、いつでも無理をして欲しいと思うものよ?」
「そうですかね」
「あの人もね……」
「はい?」
「わたしのために無理をしてくれたのよねぇ……ほら、わたしってそれなりの家のお嬢様だったじゃない? だから結構ゲンドウさんには家からの嫌がらせや脅迫なんかが行っちゃって、わたし、泣きながら謝って身を引こうとしたのよ? なのにあのひとったら」
 しまったと思ったが遅かった。
 流れるように始まってしまったユイののろけ攻撃は、加持に逃げる隙など与えないようなものだった。


「あれぇ?」
 間抜けな声を発したのはシンジである。
「迷った?」
 確かこう来て、トイレに入ってと流れを確認する。
「だめだ……わかんないや」
 どうしたものだかとおろおろとしていると、そんなシンジが気になったのか、大柄な男が話しかけた。
「どうしたのかな?」
「あ……えっと、道に迷っちゃって」
「君は確かネルフの」
「はい、そうです」
 堅くなったシンジに、男は表情を軟らかくして、緊張するなと安心させた。
「君たちの休憩室はこっちだよ」
「ありがとうございます……」
「なにかな?」
「あの……どうして僕たちの休憩所を知ってるのかなって思って」
 おかしいかな? 歩きながらも、男はシンジの疑問に逆に問い返すような真似をした。目には試しているのだというものがちらついている。
「だって……僕たちの部屋ってロッカールームでした。みなさんの部屋からは随分と離れてると思うし」
「なるほど……」
「確かめてないとわからないような場所だと思います」
「君も迷ったわけだからな」
 無言になるシンジに、確かにその通りだと彼は明かした。
「俺は見ての通り、戦略自衛隊の人間でね。ネルフのことは監視させてもらってる」
「はぁ……」
「驚かないのか?」
「どうせそんなことだろうと思ってましたから」
 やけに醒めたことをいうなと怪訝に思ったのか、彼は率直に訊ねた。
「どうかしたのかな? シンジ君」
「僕の名前を?」
「そりゃあ知ってるさ。世界にたった三人のエヴァンゲリオンのパイロットの一人だ。ここに来てる連中でそれを知らない者はほとんどいない……どうした?」
「別に」
「別にって雰囲気じゃないがな」
「…………」
 シンジはふっと笑って肩から力を抜いた。
 男は変容ともいえるほどの、シンジから感じられていた雰囲気の変化にとまどった顔をした。
 見上げてくる目の冷え冷えとした光にゾッとさせられる。
 知らず警戒心を表面に出してしまう。
「ど、どうしたんだ?」
 シンジは薄く、薄く笑って見せた。
「だって、貴方達が殺しにくるんだから……僕を、ネルフの人たちを」
「どういうことだ?」
「わかってないんですか?」
「意味が……」
「簡単なことですよ」
 元に戻る。
「エヴァは……初号機はサードインパクトを起こせるから、それが怖いから、みんな僕を殺そうとするんだ」
 みんなとは誰のことだろう? いや、それ以前にエヴァがサードインパクトを誘発する?
 男はその情報に困惑した様子を見せたが、取り乱しはしなかった。
 本当のことなのか、嘘なのか?
 それを見極めようとする目をしてシンジを見つめた。


−Dパート−


 シンジは少し悩んでいた。
(どうしてあんなこと言っちゃったんだろう……)
 あれでは警戒されて、本当に殺されることになるかもしれないのにと思う。
(本当は……わかってるんだ。あの言葉……知らない者はないって、加持さんが言った言葉だった)
 だから思い出してしまったのだ。
(加持さんは人に言えないような仕事をしてた……そして死んだんだ。死んだんだよな……きっと。僕は銃を突きつけられたとき、何も感じられなかったけど)
 思い出せば、怖くはなる。
(結局……みんな僕や、初号機……チルドレンや、エヴァや、ネルフがどういうものかって観察してるんだ。それでちょっとでも怖くなったら消してしまおうって狙ってるんだ)
 顔を上げる。ここは指令センターである。
 壁際にリツコとともに立っているのだが、メインモニターの明かりからは遠くて薄暗い位置である。
「JA起動します」
 おおっという歓声が上がったのだが、シンジは醒めた目をして見ているだけだった。
(アスカの電話……どういうつもりだったんだろう? 未だにわかんないんだよな)
 エヴァに関われば、否応なくそういった目に遭わされることになっていく。そのことは十分わかっていたというのに、どうしてそんな目立つ真似をと思うのだ。
(リツコさんの雰囲気……きっと疑ってるんだ。僕や……アスカのことを。綾波もかもしれないけどさ。解剖とかされるのかな? 検査とか言って閉じこめられたり……やだな。せっかく楽しく生きていけるかも知れないと思ってたのに)
 はぁっと嘆息してしまう。
「なに?」
「いいえ……」
「気になる感じだけど」
「贅沢だなって思っただけです」
「贅沢?」
「はい。……こっちに来るまでは、静かで……だらけた生活をしてたんです。なにもなかったけど、不安になるようなこともなかったし」
「アレのことじゃないのね」
「すみません」
「いいわ……で?」
「はい。……こっちに来たとたん、いろんなことがあったんですよね」
「そうね……」
「面白いことがありました。怖いこともありましたけど、でもやっぱり楽しくて……そういうのをなくしたくないなんて、どうしてそんな、わがままなこと思い始めたのかなって」
 リツコは思わず首をひねってしまった。
「いけないことじゃないでしょう? 少なくともここにいる人たちはそうよ……。なくしたくないものがあるからこうして必死になっている。それは不純な動機の人たちだっているでしょうけど、おおむね平和を願っているわ」
「……そうですね」
「シンジ君?」
「それはきっと……いいことなんだと思いますよ」
 シンジは目を閉じると、あごを上げるようにしてごんっと後頭部を壁にぶつけた。
「痛いや」
「なにやってるの?」
「これが現実の痛みなんだなって」
「なにを……」
「夢のような毎日っていうのが……想像できないんです。好きな人に好きっていわれて、嫌われないで笑って遊んではしゃいでいられる……。どうして僕はそういうのが想像できないのかなって思うんです」
「じゃあ……あなたが想像してる明日というのは?」
 シンジは上向いたまま苦笑した。
「赤い海……」
「赤?」
「はい……。全部が赤く染まってるんです」


 夢判断に頼るつもりはないが、それでも一面が赤く染まっているというのは尋常ではない。
 だが恐れている、あるいは不安になっているというのならともかく、シンジは受け入れているように見えるのだ。
 それがリツコには怖かった。
「ふうん? シンジってミサトと住んでるんだ」
「ええ」
 食堂で話し込んでいるらしい二人の会話が、通路を歩いているユイたちの耳にも聞こえてきた。
「なんで? ママがいるのに」
「わからない……」
「……なに暗くなってんのよ」
「別に」
「あんたってそういうとこ、シンジそっくりよね」
「そう? よくわからないわ」
「……照れるところじゃないんだけど」
 これが年頃の女の子の会話かと感動するどころか呆れてしまう加持である。
「よっ! お二人さん」
「加持さん、おばさま」
「一声かけとこうと思ってな」
「え?」
「一足先に行くことになったんだ」
 え〜〜〜!? っと驚くアスカである。
「先に行っちゃうんですかぁ?」
「……なんか不満そうだな?」
「べっつにぃ?」
「悪いな。仕事の都合ってやつだ。じゃあ後はお願いします、碇博士」
「はい」
 じゃあねと手を振って送り出す。
 そんなユイと加持とのやりとりを見て、アスカはなんだろうと小首をかしげた。
「知り合いなんですか?」
「そりゃ同じ職場で働いているんだから、初対面ってわけじゃないもの」
「ああ……そうですね」
「なに?」
「いえ……自分の考えが足りてないなって思っただけです」
「どういうこと?」
「ミサト……葛城さんのことだってあるんだし、本部だからってあたしの知らない人ばっかりってわけじゃないんですよね」
 それは当然だとユイは認めた。
「技術者レベルになると各支部で人員の交換は頻繁に行っているし、人事異動に絡んだ職場異動もしょっちゅうよ? 特に開発部になると部長が直接どこそこから引き抜いてきたメンバーで足場を固めていたりするから、その部長一人の異動に何十人が付き従っていくってこともあるもの」
「へぇ……」
「こういうところは軍事機関になる前の、研究機関だった頃の慣習が息づいているのよ。今でも消えずに残っているわ。それがこの船の艦長さんたちには鼻につくんでしょうね」
「どういうことですか?」
「彼らはネルフを軍として認識しているのよ。だからおままごとみたいで認められないと思っているの。子供をパイロットにしていることもね? だけど研究機関としては子供を調査の対象にすることなんて珍しくもないことだから」
「実戦への投入も?」
「嫌ならわたしかキョウコが乗るけど?」
「嫌なわけじゃないですけど……」
「不満なの?」
 アスカはぱたぱたと髪を振り乱すようにしてかぶりを振った。
「あたしでなくてもエヴァは動く……ならあたしが乗る意義ってなんだろうって思うんです。戦うだけなら誰にでもできる。あたしでなければいけないってわけでもない。人類のためにとか言われても今ひとつ真剣になれない。生きるか死ぬかなんですよね? 死にたくないから勝ちたいとは思いますけど、勝ったからどうなるってわけでもないし……じゃあ乗せられ損じゃないかなって」
「ご褒美が欲しいわけね?」
「はっきり言っちゃうとそうです」
 ふざけているようであっても、真剣であった。
「無理して乗らなきゃいけないってわけでもないから、根を詰めることができないんですよね、思い詰めることもできないし。それだとどうしてもいざって時の踏ん張りがきかないんじゃないかって怖いんです。勝ったからってご褒美がもらえるわけじゃない。それどころか真っ先に死んじゃう確率が高いなら、他の人に任せて逃げ出すのもいいんじゃないかってことまで考えちゃうし」
「そうねぇ……」
「あたしをエヴァにこだわらせてくれるようななにかがあると別なんだけどって」
 ちょっとだけ考える。
「じゃあ……どうしてキョウコに任せようと思わなかったの?」
「それだと日本に来れなかったから」
「なるほど……シンジなのね?」
「はい」
「それはもうすぐ達成できてしまうから」
「その後の自分を……パイロットとしての自分をどう維持するかなってのが悩みなんです」
 責任感が強いのかとユイはアスカの印象に一つ付け加えることにした。
 シンジとの邂逅を目指しているようだが、だからといって手段として利用させてもらったものを、もう関係ないからと放り出したりするわけでもない。
「使命感を促してくれるもの……か、とりあえずはなにかないの?」
「そうですねぇ……」
 唇に指先を当てて考える。
「……気が済まないかもしれない……ってことかな?」
「え?」
「だって……あたしが乗って、戦って……それで負けたんならあたしは納得できるじゃないですか。でも人任せにして、もしこれからってことになってたら? その時に、これからだったのに、終わり? ってことになったら、あたしは納得できないなって思うから」
「確かに動機としては弱いわね……」
「はい」
「じゃあ……シンジはどうなの?」
「え゛」
 にやりと笑う。
「シンジが好きなんでしょう?」
「ああ……」
 アスカはほっと胸をなで下ろした。
「それじゃあ全然足りないから」
「はい?」
「ええと……日本じゃ二世の契りっていうでしょう? あたしとシンジ……さんは、そういう関係なんですよぉ」
 やだなぁと赤くなってぱたぱたと手を振る。
 おばさん臭いなぁとあっけにとられるユイ。そしてレイは、むっすぅと頬をふくらませていた。
「だからシンジさんの気を引くための時間が必要だとかってこともないんですよねぇ」
 ──そのころ、シンジは言いしれぬ気持ち悪さを感じていた。


−Eパート−


 ゾクゾクゾクゾクゾクゥ!
 壁により掛かって自分と同じく腕組みをしていたシンジのふるえに、リツコは思わず冷えたのかと訊ねてしまっていた。
「学生服じゃね……」
「いえ……そういう感じでもなかったんだけど」
 おかしいな? そう首をひねっている。
「どうでもいいけど、あれってしゃがむことできるんですか?」
「え?」
「いえ……エヴァの武器って、銃とかでしょ? 結構拾い上げるものって多いから」
「ああ……」
 なんとなくつらつらと答えてしまう。
「無理……だと思うわ」
「そうですか?」
「ええ。あのボディの重量を支えて屈伸させるのはかなり困難なんじゃない? その上、物を拾い上げるみたいに前に傾けさせると」
「転ぶんですか?」
「転ぶでしょうね」
 なるほどと納得する。
「エヴァって凄いんだ……」
「というよりも、JAはきっと巨大ロボットを制作する上でのアーキテクチャの集大成なんじゃないかと思うわ。二速歩行するための動力や重量配分、オートバランサー、そういったもののね?」
「はぁ……」
「ただ戦闘をさせるためにはもう少し工夫が……」
「なんでしょうか?」
 急に騒がしくなってきたのだ。
 政府の人間や戦略自衛隊、あるいは国連の人間までもが携帯電話を耳に当てている。
 そのうち、リツコの胸ポケットのものまでふるえだした。
「はい?」
 耳に当てると、とたんにマヤの悲鳴が帰ってきた。
 ふぅっと嘆息してポケットに戻す。
「どうしたんですか?」
「使徒よ」
「え!? どこに」
「太平洋上、弐号機の近く」
「そんな! アスカは大丈夫なんですか!?」
「……ええ」
 シンジがレイや母ではなくアスカと口にしたことに疑問を感じたが、今は黙っておいた。
「すぐネルフに戻りましょう」
「はい!」
 だが、彼らはそのまま立ち去るわけにはいかなくなってしまったのだった。
「なんですって!? JAを出撃させる!?」
(なんですって?)
 それはJAを開発した男、時田主任の悲鳴であった。


『……状況を説明します』
 なぜだか疲れ切った様子のミサトの声が痛ましかった。
『日本政府より、画期的な戦闘兵器による未確認生体への攻撃が提唱されました。国連はこれを受諾』
「でも使徒の管轄は」
『目標は使徒と認定されておりません』
 彼女たちを運んできてくれたヘリの無線機を使って、ユイは発令所とコンタクトを取っていた。
 指揮権が委譲されていない艦のブリッジには入れないためである。
「洋上じゃMAGIの判断も何も無しか……シンジと赤木博士は?」
『呼び戻している最中です』
「赤木博士からなにかない?」
『産業廃棄物を海中投下して洋上を汚染するつもりよ。だそうです』
 所詮はそんなものだったかと安堵する。
 本当は自分がエヴァのパイロットとして出席するはずだったからだ。
「レイとアスカちゃんはエヴァに乗せておくから、いざとなったら回収よろしく」
『碇博士は?』
「艦隊が交戦に入り次第、このヘリを臨時の空中指揮所とします」
『わかりました』
 彼女は一旦通信を切って、タンカーに向かうヘリを窓から見上げた。
 そこには女の子たちがかしましくも乗ってわめいているはずであった。


 ──コォン……コォン……コォン……。
 陰鬱な音が響くブリッジ。
 最新鋭と言っても原潜である以上、それほど前世紀の物とは変わっていない。
「目標には」
「追いつけません」
「だろうな」
 しかたないだろうとすでに諦めている。
「魚雷よりも速いのか」
「撃たなくて好かったんですか?」
「弾の無駄だろう?」
「またどやされますよ?」
「ふん。魚雷で沈んでくれる相手なら驚異ではないさ。それでは沈められない相手だからこそのネルフだろう?」
 艦長はネルフのシンパだったのか? そんな目で副長は見た。
「随分と信頼されているようで……」
「ネルフにな……娘がいるんだよ。使徒は怖いってさんざん聞かされたからな」
「そうですか」
 あの子がなぁ……と、その黒人の副長は、艦長の娘のことを思い出そうとした。確か最後にあったのは二十歳(はたち)の時だったはずだ。
「今は二十歳の半ばでしたか?」
「おかげでネルフとの癒着を疑われてしかたないよ」
 そんな愚痴とおさらばするかのように、巨大海棲生物は浅い深度で身をくねらせる。
 ──ゴォオオオ……。
 水流に気泡が立つが、水の乱れに揉まれて置き去りとされていく。
 どんな推進機関も搭載していない。持ってもいない。ただ身をくねらせている。
 それだけなのに、原子力潜水艦ではおいつけないのだ。
「こちらホーク1、目標を確認」
 だから、その任は戦闘機が引き継いだ。
 あまり深くない場所を泳いでいてくれるから、生物の影は中空を飛ぶ戦闘機の中からでも確認できた。
「大きい……空母ほどもあるぞ、これは」
『鯨ではないんだな?』
「影が違う」
『了解した。日本政府からの許可は出ている。N魚雷投下』
 機体の下部に増設燃料タンクの代わりに取り付けられているのがそれだった。
 一旦は高度を取って、旋回し、目標の前に回り込む。
 そして再び降下し、魚雷を発射。
 ──ボシュ!
 波間に突き刺さったミサイルは、そのまま目標に激突して、海面下に巨大な発光現象を発生させた。
 波しぶきが蒸気とともに屹立する。その中をパイロットは突っ切って、どうだと興奮した面持ちで振り返った。
 爆発が予想よりも大きかったからだ。立った水柱は直径が数百メートルにも及んでいる。飛んだ水は数万トンに達したかもしれない。そんな水量に巻き込まれては、墜落していてもおかしくはなかった。
 だから、生きていると興奮したのだ。


「やったか!?」
 遠くで発生した爆発の痕跡は、数キロ離れた船の艦橋からでも確認できた。
 艦長が双眼鏡を覗いている。
「オキナハバスより連絡。目標以前健在!」
「化けものめ! Nの直撃にも耐えたのか」
「日本政府より連絡!」
「今度はなんだ!?」
「受け入れ態勢を、とのことです」
 艦長は双眼鏡を覗いたままで、右から左へと百二十度ほど方向を変えた。
 そこに、三機の輸送ヘリにワイヤーでつるされて運ばれてくるものを見つけた。
「ふん……おもちゃの人形を運んできおった」
「デモンストレーションのつもりなのでしょう。本国の兵器産業も注目している物らしいですから」
「あんな人形にか!?」
 悪趣味な、そう思う。
 あれならまだ預かっている赤い人形の方が遙かにマシだと、そこまで思う。
「バカ共め、そんな金があるのならこっちに回せば良いんだ」
「その時は新造艦が建造されることになって、この艦は就役を終えることになりますな」
 かなり辛辣な副長であった。


−Fパート−


「…………」
 誰しもが言葉を失ってしまっていた。
「沈んでく……」
 端的にアスカが状況を言い表す。
 ──ぶくぶくぶくぶくぶく……。
 冗談のようだと皆が思った。
 JA──正式名称ジェットアローンは、随伴する空母に着艦後、そのままバランスを崩し……。
 船ごと沈没して波間に消えようとしている。
「あああああ……」
 それを見て真っ白に燃え尽きているのは時田シロウであった。
「わたしのJAがぁ! おろせぇ!」
「やめてください!」
 ヘリのハッチを開いて飛び降りようとする彼を、戦自の隊員が抱きついて止めた。
 高度二百メートルである。飛び降りれば確実に死ねる高さだ。
『オートバランサーね』
「ユイさん?」
 通信機の感度を上げる。
『あれだけ大きいと足場の問題が出てくるのよ。その上波もあるから計算と駆動が追いつかない』
「それで……」
「船の人たち……逃げ出せれば良いんだけど」
(何しに来たんだろう?)
 ぼんやりとしているレイの感想こそが、もっとも全員の根底にある気持ちを言い表していた。
「っと、そんなことを考えてる場合じゃないわね」
 起動シークエンスに入る。
「L.C.L. Fullung.
 Anfang der Bewegung. Anfang des Nervenanschlusses.
 Ausloses von links-Kleidung.
 Sinkio-start!」
 ブゥンと音がして、起動に成功する。
 アスカはちっと舌打ちをした。
(やるわね)
 ──フッ。
 密かに冷笑で応えるレイ。
 彼女がドイツ語に堪能なことには訳があった。
 人造人間であるエヴァは基本的に外科的な用語でやりとりされることが多かった。ドイツ語である。
 その上で本部に続いて開発が活発であったドイツ支部からは、多くの人間がレイの情報を欲しがって来日してきていた。これがレイにドイツ語漬けの環境を与えていた。
 日常的に交わされる言葉。そしてエヴァを動かすために必要な言葉。そのすべてをドイツ語で知っているレイである。
 ──もし英語であったなら、起動はおぼつかなかっただろう。
「エヴァンゲリオン弐号機、起動!」
 赤い巨人が立ちあがる。

 焦ったのはオーバーザレインボウの彼だった。

「大変です! 弐号機が起動しています!」
「なんだと!? まだ出撃許可は出していないぞ! 止めろ!」
「無茶いわんでください! ただでさえビューイックの乗組員の救助で忙しいんです!」
「くそ! 敵はもうすぐそこまで来ているんだぞ!」

 ぺろりと唇を舐め、彼女は背後のレイに対して口にする。
「ねぇ」
「なに?」
「通信は切ってあるわ──あんた。使徒なの?」
 レイの身が固くなる。
「どうして……そんなこというの?」
 警戒感をあらわにするその言葉に、アスカは静かに語り始めた。
「あたし、見たのよね……あんたの顔したものが死んでるの」
「…………」
「下手な山脈よりも大きいのが横たわってた。半分は水の中だったけど」
「…………」
「別に……ね、使徒でも人でもどっちでもいいのよ」
「そう……」
「ただ。あたしはあの世界で一つだけ学んだの」
「なに?」
 アスカは振り返って、後ろのスペースに収まっているレイを見た。
「使えるものは、シンジでも使えってね?」
「…………」
「なにもかも死んでる……そんな世界だった。寂しくて悲しくて辛かった。でもあたし気づいたの、一人じゃないって」
「碇君?」
「風よ」
「風……」
「そう! 風が吹くとね、木がざわめくの。知ってる? 草原ってね、風が吹くとザァって波を走らせるのよ」
 それは枯れ草の草原であったが。
 レイはそんな情景を語るアスカの顔に見入ってしまい、いつしか完全に聞き入ってしまっていた。
「とても気持ちよかった……。人がいない。生き物も。それでもあたしは空の青と雲の白をずっと眺めた。寝転がって、いろんな音がするのを聞いてた。幸せだったな……」
 ほほえみが浮かんでいる。
「空が、飛べたらって……寝ころんだまま、手を伸ばしたの。そこには太陽があって、つかめそうに見えた。その太陽を遮ったのが、シンジだった」
「…………」
「どうしたのって、不思議そうな顔があたしをのぞき込んで心配してるの。でもあたしはなんでもないって笑って……、ううん。微笑むってことがようやくできてたの。きっと……心の余裕って」
「……なに?」
「人の間では、生まれないのよ」
 だからとまた前を向く。
「人同士の関係は、いつもぎすぎすするものだから。でもそれでも離れたくないって思いがあるから、耐えられるのよ……あんたはどう? 使徒? それでも離れたくないんじゃないの?」
「…………」
「アタシと同じか」
「アスカ?」
「離れたくない……離れてみてわかったわ。どんなに物足りなくなるのかって」
 勝手な話だと自嘲する。
「あたしは退屈しきってた。だから別の場所に行こうって思った。シンジには悪かったけどね? 飽きてたって言えるかもしれない」
「酷いのね」
「うん……だからあたしは一人になって、なにを今更って思ってた。それでもシンジでないとって思う部分があって、いつも消せなくって」
 ──森を歩いて。
「だから、あたしは」
 地平線の向こうに航跡が見えた。
「来た……」
「使徒?」
「そうよ」
 再びレイに口にする。
「……フィフスチルドレン。人型の使徒だったそうね」
「……ええ」
「弐号機を操ったって聞いたわ、シンジから」
「ええ」
「あんたにはできないの? その……同化とか」
「……たぶん、可能よ」
「その場合、あたしがコントロールを行うことは?」
「できるわ」
「電源の問題は?」
「解決されると思う」
「上等じゃない!」
 じゃあ頼むから。あっさりとアスカはそう口にする。
 驚きに目を丸くしているレイに笑いかける。
「言ったでしょう? 使えるものはシンジでも使えってね?」
「でも……」
「あんたあたしにとってシンジがどれだけ大事だったかわかってる? 嫌われたらそれで最後だったのよ? あの広い世界で捨てられたらどうなると思ってんの? たぶん、もう二度と会えない。一人きりのまま、あてどもなくさまよってしまうことになってたかもしれないのよ? そんな環境でシンジにわがままを言うことが、どんなに怖いことだったか」
「あなた……」
「それでもあたしは口にしなきゃいけなかった。シンジがそれを望んでたから……元気なアタシを望んだから」
「そう……」
「あんた……シンジが好きなんでしょう?」
「ええ」
「シンジは?」
「わからない……」
「嫌ってる?」
「いいえ」
「上等じゃない」
「…………?」
「あんたがどういうやつかって、シンジは知ってるのよ? どうしてあたしが『アレ』を見て平然としてられると思ってんの? シンジからあんたが何者だったかって聞いたからよ」
 あっと驚くレイ。
「それでも……あなたは」
「おびえない」
「…………」
「昔のあたしたちは、自分に課せられた職務を全うするためにエヴァに乗ってた。今はどうなの?」
「碇君のためよ」
「違う、そうしなきゃシンジと一緒にいられないからよ」
 言葉をなくす。そんなレイに、アスカはでしょう? と笑いかけた。
「あたしたちを結びつけてくれるもの、それがエヴァよ。そして仲間にしてくれるもの、それが使徒よ。だから一緒に、この恋の巻き添えを減らしましょう?」
「巻き添え?」
「そうよ!」
 声高に口にする。
「あたしや、あんたが! シンジとの恋を燃え上がらせるためだけにあいつらは出てくるのよ! でもそのために人が巻き添えになって死ぬなんて、後味ってモンが悪いでしょう!?」
 レイはアスカの視線を追った。
 使徒がさらに接近している。上がる水柱は魚雷か爆雷である。
「だから、こんなとこで負けてられないのよっ、アタシたちは!」
「……ええ」
 頷いたレイは、シートにつかまる手に力を込めた。
 瞳孔がキュッと縮まる。
 ブンと何かの音がして、プラグの中が赤く染まった。
 まるでかつて……シンジがシンクロ率の限界を超えてしまったときのように。
「さあ……行くわよ?」
 レイの返事はない。
 だがプラグ全体から伝わる気配が、その気分に同意していた。


−Gパート−


 ──ドォン!
 使徒の背が輸送船オスローの船底を引きずり二つに砕いた。
 エヴァンゲリオン弐号機が宙を舞う。
「レイ!」
「────!」
 急な負荷にレイの眉間に皺が寄った。

「なんなの!?」
 ユイが悲鳴のような驚きを発する。
 宙を舞った弐号機はそのまま海面に着地したのだ。
 わずかに滑りつつ体勢を整える。
 曲げてしまった膝を立てて、回頭してくる使徒を睨んだ。
 よく見れば足は海水には浸ってはいなかった。それどころか海面はあわただしく波立ち、まるで弐号機の足に吸い込まれるかのように動いている。
「まさか、ATフィールドを展開して浮力を得ているの!?」

「その通り!」
 アスカが叫ぶ。
「あたしだったら空だって飛べます!」
 しかし言葉ほどの自信はなかった。
 重力の束縛を断ち切っての運用については、多大な問題が存在するからである。
 光のようなもので構成されているエヴァンゲリオンには重さがない。
 完全にないわけではなく、大気よりも軽いのだ。
 これを地に縛り付けるためにも、総重量二百トンもの特殊装甲を拘束具として装着させている。
 しかしこの装甲も、停止状態時の拘束を目的としたものであって、起動時にはさして意味のないものとなっていた。ATフィールドと呼ばれる位相空間のエヴァ側は、外側とは違った次元の法則が働いてしまうからだ。
 確認されてはいないが、別の宇宙とも言える異次元空間が形成されており、そこにおいては物質の変換なども行われているふしがある。
 装甲というものの堅さ、重さの定義が、再設定されてしまうのである。
 ならばなぜ堅く、重いのか? それはアスカという人間の常識がそう囚われているからであった。彼女は無意識の内にエヴァは重いものであると仮定していた。この仮定がエヴァに大地を歩かせていたのだ。
 しかし位相差空間内にこもるエヴァンゲリオンには、事実上の制限はなにもない。
 ならば問題点とはなんであるのか? それは彼女が無重力状態での飛行術について、まったく精通していないと言うことにあった。気を抜けばどこまでも上昇し、あるいは下降する。そんな状態を戦闘中に制御することは困難である。

(だから簡単にこうするのよ)

 なるべく派手な運用を禁じて、自己をその場に固定する。
 今、エヴァを支えているのは、足の裏に発生させている、二重のATフィールドであった。
 ATフィールドは通常は脳を中心とした中枢神経を軸に発生している。パイロットは集中することによってこれを体外にまで広げて戦闘に使用するのだ。
 ATフィールドの発生そのものは、非常に簡単なものである。細胞を活性化させるとそこに流れる電流が変化し、電磁場が発生する。
 これを強力に増幅させると、ATフィールドと呼ばれるものに変質する。ならば特定部位にのみ強力なATフィールドを発生させることは不可能ではない。
 アスカは足の裏に意識を集中させていた。
 足の外側と土踏まずで、彼女は別のATフィールドを同時に発生させていた。
 一枚は外側にあり、海中に潜り込んでいる。
 そうして取り込んだ水に電流を流して、彼女は磁石を作り上げていた。
 そしてもう一枚のATフィールドは内側に。
 このフィールドの磁力を用いて、反発力を発生させ、浮いているのだ。
「ATフィールドの外殻には、電磁場の層だってあるから、こういう真似もできるのよね」
 ぺろりと舌で上唇を舐める。
 しかし軽口を叩いたのはただの強がりだった。彼女にとってもこれは容易なことではない。
 使徒の細胞……と呼べるものには、S機関が内蔵されている。今はレイが同化することによって、これを起動してくれている。
 出力調整をしてくれているのはあくまで彼女なのだ。そしてアスカにはS機関についての知識がない。
 わけのわからない発生機関と出力機関を、さらにわけのわからない能力を持った人間に頼って調整を任せ、なんとか利用だけをしているのである。
「飛ぶわよ?」
 だから、これから何をするかと言うことを、きちんと伝える必要があった。
 これがシンジであったなら……以心伝心、なにも言わずに通じるのにと思いながら。


「飛んだ!?」
 ジャンプして、弐号機は使徒の突撃を一旦かわした。
「この!」
 肩からナイフを抜いて投擲する。
 使徒は身をくねってそれをかわした。海中に没するプログナイフ。
「生意気に!」
 ATフィールドの出力を上げて、『世界』の束縛から一時逃れる。
 浮遊状態で上半身をねじ曲げ、使徒の前方に足止めを撃ち込む。
 手から光弾。強大な電磁力を用いての使徒独自の攻撃。アスカは弐号機でそれを行う。
 ──十字の炎が海面に立つ。

「なんてこと……」
 ユイは目を疑ってしまった。
「これが……弐号機だって言うの?」
 どちらが使徒なのかわからない。

「いちいち水底に隠れるなぁ!」
 アスカは潜ろうとする使徒の背に突撃させた。自在な機動は行えずとも、目標に突貫するのは非常にたやすい。
 ──ドン!
 使徒の背にぶつかる。一瞬使徒がもがくように暴れた。
 ──グシャ!
 エヴァの腕が使徒の背に突き刺さる。赤いしぶきが海上に噴く。
 ──ゴン!
 振り回された弐号機の胸が使徒の背に衝突して潰れた。同時に左肩のパーツが砕けて後方に置き去りになった。
 走り回る使徒。暴れ狂っている。もはや生き延びるのに必死に見える。
 互いにATフィールドは中和状態にある。だから戦いは肉を引き裂き合う原始的なものへと退行している。
「あっ!」
 振り回された弐号機が、ついに海面に放り出された。頭から落ちて数十メートル滑り、回転し、そして波しぶきにかき消える。
「この!」
 水中で姿勢を整える。正面に回り込んでくる使徒が居る。
 突っ込んでくる。大口を開いた。かみ殺そうというのだろう。
「あたしだって!」
 両腕を広げるエヴァンゲリオン弐号機。
 ──ガン!
 衝突する。上あごの歯を片腕ずつつかみ、足は下あごの歯の間に入れて踏ん張ってみせる。
 背中からは使徒の泳ぎに併せた水圧が来る。とても踏ん張りが利かない状態に陥った。
(前より、悪い?)
 決め手がない。
(でも、大丈夫)
 ──あたしは負けない。
 アスカはにやりと笑うと、右肩の武器庫をやや前に倒して展開した。
 ──撃ち出される七本の針。
 グキャア! 使徒が痛みに大口を開いた。今よと叫んで口腔に飛び込み、奥へと潜る。
 ──コアに接触。
「でぇえええええやぁああああああ!」
 左手を添えて、右拳を打ち込む。砕けるコア。
 ──爆発。

「アスカちゃん、レイ!」
 ヘリのハッチを開いて、ユイは直接下を覗いた。
 巨大な水柱が発生している。
「あ!」
 上を見る。陽光の中に影。それは徐々に大きくなって、ついにはオーバー・ザ・レインボウの甲板に落下した。
 ──ドン!
 何機の戦闘機が踏まれて壊れる。激震に数機のヘリが滑り落ちて波間に消えた。
「……生きてた」
 ユイは唖然としてしまった。
 ATフィールドの中和は、使徒に致命傷を与えるまで必要である。だが致命傷を与えたときには使徒は爆発してしまうのだ。これは存在のすべてがエネルギーに転換されてしまうからだろうと推察されている。
 この爆発から逃れるためには、やはりATフィールドを張るしかない。しかし中和から防御へと、瞬時に切り替えが利くものだろうか?
 同じくパイロットであるユイにはできないことだった。だから彼女は驚いていた。
 タイミングを見切る能力と、一瞬でその出力をトップに持ち上げることのできる、アスカという少女の技量に──。


−Hパート−


 ──映像の終了と共に、室内に光がともされる。
「以上をもちまして、洋上での戦闘記録の再生を終了します」
「ユイ」
「はい」
「何かあるか?」
「はい」
 ユイは腰掛けたままで、口にした。
「わたしは今回ほど、子供たちの異常性について感じさせられたことはありませんでした。以前よりチルドレンの不可思議な言動と行動については、幾度も考えさせられてきましたが」
 会議室の最上段にいるゲンドウは、彼女の感傷をばっさりと切り捨てた。
「報告は聞いている。前世だと? くだらん」
「はい……。ですがなんらかの交感が行われているのは事実です。セカンドはわたしたちですら知らなかった。ファーストのエヴァへの融合能力を把握していました。それどころか、その際に発動するS機関なみの出力についても承知していました」
「レイにはそれだけのポテンシャルがあったと言うことか……」
「はい……。人と同じ形状に行き着いた個体は、人と同程度の能力に落ち着くものだと考えていたのですが……まさか」
「レイはわざと隠していたのか?」
「いいえ。必要になるようなことがなかったから、と」
「そうか……。シンジは?」
「特に驚いた様子はありませんでした。ただ……」
「ただ。どうした?」
「……渚カヲル。彼との顔合わせの方が、よほど反応がありました」


「────♪」
 どこかで聞いたようなクラシック曲を口ずさみ、彼はネルフ本部前にある公園のベンチシートに腰掛けていた。
 そのそばの木には、シンジが背を預けて立っている。
 カヲルは寂しげな目をして彼に問いかけた。
「こないのかい? こっちに」
「…………」
「昔のままなんだね、君は……。極端に接触を避けたがる。でも離れてしまうこともできない。そうして曖昧に悩み続ける」
「…………」
「悪かったよ。君には酷いことをしたと思ってる……。それでも僕には他に選ぶべき道がなかったんだ」
「……今は?」
「うん?」
「思ってた……。アスカと綾波がそうなら、カヲル君はどうなんだろうって」
「そうなのかい?」
「うん……でも今の僕には前のようなことはできないよ。前は思い詰めていたから、苦しくて、ああしてしまった」
「…………」
「でも今は違う。今はどうだっていい」
「そうかい?」
「僕にとって大事なのがなんなのかわからないんだ。ただここにいる。そんな感じがする」
「そっか……」
 カヲルは両腕を背もたれに預けて天井を見上げた。
 白くかすむようにしてビルがぶら下がっているのが見える。
「まあ、この世界にはこの世界のルール、法則があるからね……。僕は使徒に近いけれども使徒じゃあない。それは彼女と同じだよ」
「彼女?」
「綾波レイさ」


「なに話してんのよ? あいつら」
 本部ビル入り口。
 隠れるようにしてアスカが覗いていた。そしてアスカの下にはレイが同じような格好をしている。
「ねぇ」
 そのレイは、アスカの呼びかけに顔を上げ、彼女の顎になにと訊ねた。
「あの二人のこと、あんた知ってるの?」
 それが気になっているのかと、レイは再び二人に目を向けた。
「渚カヲル……フィフスチルドレン。あなたが姿を消してから、あなたの代わりに現れたわ」
「そう……」
「詳しくは知らない……でも彼は碇君に興味を示し、とても仲良く振る舞っていた」
「…………」
「そして……彼は裏切ったの」
「裏切った?」
「彼は最後の使徒……第十七使徒だったわ」
「使徒!? あいつが!?」
「そう……。知らなかったの?」
「知らない……それでか」
「なに?」
「あいつ……最後の使徒のことだけは、どうしても話してくれなかったのよ」
 そう……。レイはアスカの物思う顔に、あまり深くは訊ねなかった。


「もう、友達には戻れないのかい?」
「誰と?」
「僕と、君だよ……だめかい?」
 シンジは思い悩むようにかぶりを振った。
「僕たちの間に……なにがあったのか、もう僕には思い出せないんだよ」
「そっか……それは残念だね」
「ごめん……。でもそれはカヲル君に限ったことじゃないよ。綾波も、アスカだってそうだ」
「彼女たちはあんなにも純粋なのに?」
「だからこそだよ。僕にはなにを考えてるのかわからないんだ」
「矛盾してるねぇ……」
「そうかな? 僕にはアスカと二人っきりで過ごした時間の記憶があるんだ。綾波とは……綾波とも色々とあるよ。でも今のあの二人が思ってること、話しかけてくること、それがどうしても繋がらないんだ」
「お互いに離れて過ごした時間があれば、思い出は美化されるものさ」
「でもその気持ちのずれがある以上、僕は二人を理解できない」
「僕の願いと君の心がすれ違っているように?」
「その通りだよ」
「遠いね……気持ちが」
「うん。ごめんね」
「君が悪いわけじゃないさ。こんな状態になっていること事態、反則のようなものなんだからね」
「それでもだよ……。元々僕は、戻ってきたかったわけじゃないんだ。ただ一人にされるのが恐かったんだ……。だからアスカに引っ付いて」
「…………」
「そのアスカとも離れてしまって、結局僕は一人でも生きていける僕を見つけたんだ。その諦めが、どうしても心を軽くしてくれないんだよ」
 シンジは木から離れるために勢いを付けて体を起こした。
「行っちゃうのかい?」
「今日はミサトさん帰れないから……ペンペンが待ってる」
「今度紹介してくれないかな? 君の友達なんだろう?」
「いいよ? ペンペンに聞いてみる」
「ありがとう」
「じゃあ」
「また明日」
 去っていくシンジの背中をしばし見送ってから、カヲルまた天井を見上げた。
「人の難しさか……」
「渚」
 苦笑する。
「もうかくれんぼは終わりなのかい?」
「うるさいっての……で、なに話してたの?」
「秘密だよ」
「ほぉ? あたしに隠し事するっての?」
「そうじゃないさ」
 びくびくとしているのは、アスカが恐いのではなく、その背後に控えているレイが手にしているものが目に入ったからだった。
 ──無数に釘の刺さったバットである。
「説明しがたい……んだよ。僕にとっても、ショックだからね……」
 そう言って、彼は背後へと言葉を放った。
「あなたはどう思いますか? 加持リョウジさん」


−Iパート−


「洞木さん……」
「碇君……」
 どうしてここに? シンジは戸惑い、困惑した。
 ネルフ地上施設正面ゲート前である。
 その周辺には人を集めるような店も建物もない。
 偶然出会うような場所ではなく、もちろん、人が待ち合わせに使えるようなところでもなかった。
「ええと……」
 ヒカリは右の耳周りの髪を掻き上げながら口にした。
「碇君のお母さんに頼まれて」
「母さんに?」
 シンジはそんな彼女の何気ない仕草にドキリとしていた。
 髪をほどいたのではなく、髪型を変えたのだとようやく気づく。
 切りそろえ方が違ってしまっている。少し暴れるような感じになっていて、新鮮だった。
 着ているものは砂色の生地のもので、長いスカートはともかくとして、ノースリーブのベストは少しばかり刺激的だった。
 ああ……。シンジはちょっとした感動を覚えた。
(可愛いんだ。洞木さんって)
 自分には似合っていないと思っているのかもしれない。脇を締めて身を小さくしている。
 シンジは彼女の両隣に、レイとアスカの幻を立たせた。
 腕を出し、足も出すが、それでも人の目など気にもせず、逆に見せることを楽しんでいるかのように颯爽としているアスカの像。
 そして、いつも同じ制服で、人の視線や評価になど興味を示さない綾波レイ。
「母さんを知ってるの?」
「ううん。でもお姉ちゃんが働いてるお店によく来るんだって」
「そうなんだ……」
 でも頼まれたってなにを? シンジはそう訊ねようと思ったが、途中で思い改めた。
「じゃあ……」
「え?」
「母さんに用なら、そこのところで聞いた方がいいと思うよ? 会議とかで時間の守れない人だから……」
「ちっ、違うの! あたし、碇君と話したいこともあって」
「僕に?」
 なんなんだろう?
 その疑問符を顔に出してしまったからか、ヒカリにごめんなさいと謝られてしまったシンジであった。


「いやぁ、悪いなぁ、出歯亀なんてしちゃって」
「使えない人」
「ぐっ……きついな、レイちゃんは」
「ふっ……。ちゃんなんて付けて呼ぼうとするのは、媚びている証拠よ、おじさん」
「おじ……」
「だって、お義父さんが言っていたもの。あなたは今はお義母さんに惣流博士に赤木博士に葛城さんにと節操がなく、以前はお母さんというような歳の赤木ナオコ博士にまで手を出していたって」
「そ、それは司令の方だろう!」
「へぇ! じゃあミサトって司令のお手つきなんだ」
「いや葛城は違うぞ、葛城は!」
「じゃあ赤木博士や惣流博士は碇司令のお手つきなのかい?」
「だとすればアスカは碇君の妹だという可能性が出るわね」
「ないっての」
「そうなのかい? それはおしいことをしているねぇ」
「なんでよ!」
「シンジ君のことだからねぇ……。今更妹だと知らされても、アスカはあくまでアスカじゃないかと、結論づけると思ったんだよ。その時はそれを証明するために君を……なんだい?」
 左手を腰に当て、右手で彼の肩をぽんぽんと叩く。
「いやぁ、あんたって良い奴じゃない!」
「釈然としないねぇ」
「その調子であたしとシンジがうまくいくように知恵しぼるのよ!」
「そんな無茶な……」
「なにが無茶よ!」
「そもそも僕は君とシンジ君がどんな関係なのか知らないんだよ? それはレイにも言えることだけどねぇ」
「どうしてこちらに振るの?」
「僕は僕の中にある思い出の修正に忙しいということさ……。僕が『殺された』あともシンジ君は生き続け、思い悩んでいた……。その間で一体僕との思い出をどう消化してしまったのか? 謎は深いねぇ」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ?」
 加持が割り込む。
「殺されたって、誰が?」
「僕がですよ」
「誰に?」
「シンジ君にです」
 こう、きゅーっとと、ニワトリの首をしめるような仕草をする。
「おや? 聞いているはずでしょう……レイとアスカとシンジ君のことは」
「じゃあ……」
「ええ。僕も彼とは、前世の因縁で繋がっているんですよ」
 渚君、君もなのか……。
 加持は本気で頭痛を覚えたのか、有給もらえないかなぁと遠い目をした。
 ──もちろんもらえるはずがなかったのである。


−Jパート−


『ねぇアスカちゃん』
「なによ」
『パパ欲しくない?』
「加持さんなんて嫌よ」
『ちえー。じゃあシンジ君とか』
「なんでそうなんのよ!」
『ケチ……』
 謎の通話相手に腹を立て、アスカは苛立たしげに電話を切った。
 そしてどうよと、隣のレイに問いかける。
「シンジは見つかったの?」
「だめ」
「なんでよ!」
「わたしのパスじゃ、ブロックされる」
「はぁ!? チルドレン同士、互いの居場所はわかるようにって、MAGIが」
「ええ。あなたの居場所は確認できるわ」
 ほらっと彼女は、携帯電話の液晶画面を覗かせた。
 そこにはここ、ネルフ本部正面ゲート付近の地図が表示されており、ちゃんと1と2のナンバーが点灯されている。
 さらにレイはカーソルキーを操作し、渚カヲルのナンバー、『5』も映し出した。
「ほんとね……」
「なにが起ころうとしているの?」


 シンジはヒカリと共に歩いていた。
 バスを使わずにぷらぷらと。隣にはヒカリがいる。お互い腕を組まないのが不思議なくらいの雰囲気だった。
「じゃあドイツから来たのって女の子なんだ……。かわいい?」
「かわいいよ。それに綺麗な子だよ」
「へぇ……」
「どうしたの?」
「なんでもない……」
「ふうん」
 おかしくなって、吹き出しそうになってしまう。
 そんなシンジに、ヒカリはふくれ、もうっと肘で突くような仕草を見せた。
(楽しいな……なんでだろ?)
 思うともなしに考える。
(ああ、そうか。僕、洞木さんってよく知らなかったから……)
 せいぜいがアスカと仲の好い子というくらいの感覚で……だからかと酷く納得した。
 レイともアスカともカヲルとも違う。ほとんど初対面であるかのように、少しずつお互いを知っていける。
 ところがネルフがらみの人間となると、全員に対してなにかしらのわだかまりがあるから、そうはいかない。
「どうしたの?」
「なんでも……ごめん、ちょっとお腹空いたなって思って」
「食べてないの?」
「ううん。今日は緊張することがあってさ」
「え?」
「緊張するとさ、胃がきゅーって小さくならない? そんな感じで……」
「大丈夫なの?」
「うん……たぶん。胃の動きが活発になるからだって昔教わったから」
「ふうん……」
「本当なのかどうか知らないけどさ、ほっとしたらお腹空いて来ちゃって」
「ほっとって……あ」
 ヒカリは勝手な想像をして赤くなった。
「でも……」
 シンジが重い声を出して顔を上げさせる。
「なにか話し……あるんだよね?」
「うん……あ、でもそんなに大したことじゃないから」
 ヒカリはつとめて明るく振る舞った。


「ねぇ……お姉ちゃん」
 ──前日。
 食卓についていた時のことである。
 最近は持ち直してきていたはず……。コダマは妹の発した深刻な声に、わずかに緊張して箸を止めた。
「なに?」
「えっと……」
 しかし、ヒカリの緊張の意味はまったく別のところにあった。
(こんなこと、聞けないよね……)
 はぁっと嘆息してしまう。
 ──男の子って、若い子の方が良いのかな?
 男の人ならわかるが、男の子が若い子とはどういうことだろうかと怪しまれるだけになる。だから、聞けない。
 では小さな子と聞いてみれば? だめだ。よけいに怪しい。
 ではオブラートに包んで可愛い子……これでは普通の話になる。
「はぁ……」
「なんなの?」
 そしてこの状態をいぶかしがったコダマがユイに連絡を取ったのである。


「そう、わかったわ」
 コダマから連絡を受けたユイは、机の上でうなだれた。
 ──ユイには想像が付いたからである。
 シンジからなにかしらの事情を打ち明けられたというヒカリ。
 そして船上で知ったレイとアスカとシンジの関係。
 ならばそこに原因があると考えるのは……実に自然なことである。


 ──そんなわけで。
「で、用事ってなに?」
 もちろんユイが期待したのは、彼女がシンジの社会復帰のための手助けとなってくれることである。
 これはレイにもアスカにも任せるわけにはいかなかった……いや。
 関わらせることはマイナスになるだけだと考えたのだ。
 もちろんレイやアスカについても考えねばならないが、とりあえずはシンジである。
 これは肉親であるからと言うことではなくて、最も軽傷に思えたからだ。
 幸いにも、シンジはヒカリという手助けを得ている。
 立ち直らせるためにも、まずは自覚を促さねばならない……。現実の世界で、彼女と生きたいと考えるようになってくれるのなら、その後は簡単なことだ。
 素直にカウンセリングを受けてくれるだろう。
 ──それはカウンセリングという名の、洗脳行為だと理解していつつも。
 だが問題はズレていた。
 ヒカリが考えているシンジの病気とは、ロリコンだと思っていた。
「碇君……」
 ヒカリはテーブルの上に置いていた手をもじもじと動かした。
 入った店はどこにでもある喫茶店で、ヒカリはオレンジジュースを、シンジはパスタとコーヒーを注文していた。
 まだ来てはいない。
「あたし……よく考えたんだけど」
 上目づかいをするヒカリである。
「碇君のこと……みんなが心配してるの。でもそれをどうすれば治せるのかって、そのことは誰にもわかってなくって」
「…………」
「あたし、その、碇君が、みんなが心配しなくても良くなるように、ちゃんとした碇君になるお手伝いができたらなって」
「……どうして?」
「え?」
「どうして、洞木さんはそんなことをしようなんて思うの?」
「え? だって……」
「僕は……今のままじゃいけないって思ってるけど、でもこれは誰かにどうにかしてもらえるものじゃないって思ってる。だから、自分でがんばるしかないって思ってる」
「うん……」
「でも、それは僕の問題だし、洞木さんに迷惑をかけて……」
「迷惑だなんて」
「でも……そうだな。僕は学校に行ってないよね? 今」
「うん」
「じゃあ、手伝いって、いつしてくれるのさ」
「え……」
「学校じゃない? じゃあ僕の部屋まで来てくれるの?」
 ヒカリの顔が赤くなる。
 しゅーっと湯気まで噴きそうな勢いだ。
 シンジはちょうど注文したものが届いたので間を空けた。
 なにやらほほえましい目で見られてしまったのだが、我慢する。
「洞木さん」
「は、はい!」
「僕は葛城さんのところに居候してるんだよ?」
「うん……」
「全然、赤の他人なんだ。友達を呼ぶのも抵抗あるんだ。気軽に来て欲しいなんて言えない。じゃあ洞木さんに頼るとして、僕はどうすれば良いの?」
「…………」
「いちいち洞木さんを呼び出すの? その時もし洞木さんに用事があったら? 面倒だなってちょっとでも思われたりしたら?」
「そんな、あたしは」
 ううんとシンジはかぶりを振った。
「僕はそう言うことに関しては、冗談が利かない人間なんだよ」
「冗談って……」
「例えばだよ? ちょっと今手が空いてなかった……そう口にされただけで僕は恐くなるんだ」
 右手を見せる。震えている。
「ああ、悪いことをしたな。次はどうしよう。いつなら良いんだろう? そうやって考えすぎて、動けなくなる」
「碇君……」
「もう、どうして良いのかわからなくなるんだ。そう思ってる間に相手からの連絡もなくて、特に用事のある相手じゃないんだな、僕はって、そう思っちゃって、縁なんてなかったんだって思えてきて」
「もういいから……」
「でも、それが僕なんだよ。僕はね……」
 ヒカリはドキリとした。
 何度目かの感覚、ヒカリはこの目を何度も見ていた。
 ヒカリには、その目の意味などわかりはしない。
 しかしそれは、シンジがアスカに捨てられたときの目だった。
「洞木さん」
 ゆっくりと、そしてはっきりと語る。
 アスカに置き去りにされると思い、焦ってしまった。その後のことを。
「僕は二度……捨てられたんだ」
「二度?」
「そう……最初は父さんだった」
 ──逃げてはいかんぞ。
「僕は父さんを追いかけることができなかった。置き去りにされて、泣きじゃくることしかできなかった」
 ──そして。
「あの子は前だけを見てどこかへ行っちゃったよ。僕は寂しくて寂しくて、さっき言ったみたいに考えて、それでようやく気が付いたんだ……悲しいのも、寂しいのも、待ってってお願いしてるのに、僕を待ってくれないからだって」
「碇君……」
「でもそんなの当たり前だったんだ。みんな自分の好きなように生きてるんだから、僕みたいに情けない奴に足を合わせてさ、時間を無駄にしてたら、楽しいことも面白いことも、なにもできなくて逃がしちゃうじゃないか。そんなのないよね」
 口を開こうとするヒカリを手で制す。
「ひがんでるわけじゃないんだ。僕にだってそう言うわがまま……身勝手なところあるよ。でもそれが許せないのも本当で……」
 うまくまとめられないんだと続きを語る。
「そういうの、さっきの話と同じなんだよ。考えて、考えて、考えて……いつの間にか、面倒になっちゃったんだ」
「じゃあもう一人で良いって言うの?」
「うん」
「そんなの悲しくないの?」
「わからない……でも面倒だってのよりは、洞木さん!?」
 シンジは焦った。
 ヒカリがうつむた状態で泣き始めたからだ。ぽたぽたと涙が落ちる。
「ちょ、ちょっとどうしたの!?」
「だって……碇君があんまり寂しいこと言うから」
「そんなこと言ったって、洞木さんには関係ないじゃないか」
「あるもん!」
「え? え?」
「あたしシンジ君のこと、好きなのに!」
 泣きはらした目で真剣に告げられると反応できなくなるもので……。
 シンジが我に返ったときには、すでに好奇の目の的になっていた。


−Kパート−


 ヒカリ自身、どうして逢い引きを手引きするなどという話をもちかけられたのか? 理解などはしていない。
 興奮状態の中で彼女の精神は急激にシンジへの想いを構築していく。
 好意……を育む機会はあったが、だからと言ってまだ好きではなかった。
 こだわりはあっても思い入れはなかった。ではただの顔見知りから親しい間柄に変化したのはいつからだろうか?
 思いがけずお見舞いに現れてくれたとき?
 違う、その後だと思い出す。
 子供の脳とは不思議な物で、大人が驚くほど細かなことを記憶している。
 退院するとき、姉にからかわれたのだ。お茶に誘えと。
 思えばそれが彼を気にし始めた。きっかけになった出来事であった。
 そしてそのすぐ後に、自分の部屋で、ちょっとしたハプニングがあって、確定的になって。
 ──どきどきし始めて。
(なのにこの人って)
 ロリコンで。
(あたしのことなんてちっとも気にしてなくて)
 自分はこんなに意識して。
(それって)
 ズルい。
(だから)
 ──勝つ!
 めらめらと乙女の瞳に闘志が宿る。
 こうなるともはや止まらないのが女の子というものだ。
 好きだと言ってしまった以上は仕方ない。
 それが勢いだけの言葉で、ついこぼしてしまっただけのもので、絶対の本音でなかったとしても、そんなことは関係ない。
 それは些細なことに過ぎないのだ。
 ──今もっとも重要なことは、いかにしてこの少年を言い負かすかである。
「『シンジ』君!」
「うっ、え!?」
「黙ってないでっ、なんとか言いなさいよ!」
「な、なんとかって」
「シンジ君が言わせたんじゃない! 責任取りなさいよ!」
 そうだそうだと店内のあちこちからの視線が痛い。
(誰か僕を助けてよ……)
 シンジは泣きそうになってしまった。


 ──夜。
「どったの?」
 シンジはキッチンテーブルに突っ伏していた。
 それを見つけたのは帰宅してきたミサトであった。
「ミサトさん……」
「なんか辛そうねぇ……風邪?」
「そんなんじゃないですよ……」
「ああ、そういえばマヤちゃんがデートしてるとこ見かけたって言ってたんだけど」
「……そうですか」
「なんかもうラブラブだったそうじゃない? 腕なんか組んじゃってさ」
「そう見えましたか……」
 冷蔵庫から缶を取り出したところで、彼女もさすがにおかしいなと気が付いた。
「どうしたの? ほんと……なにがあったの?」
 シンジはけだるく頭を上げた。
「ミサトさん……」
「なに?」
「お酒って……おいしいですか?」
「はぁ?」
 シンジはとつとつと語り始めた。


「……おかしいじゃないですか、そんなの」
「そうねぇ」
「もし鈴原君たちのことを思い出したりしたら」
「まあその時のこともあるしねぇ」
「あるしねぇじゃないですよ!」
 だんっと缶の底でテーブルを叩く。
(酒乱か)
 飲ませるんじゃなかったと思う。
 しかしこれも必要なガス抜きではある。
「でも状況だけ追っていけばおかしいってことはないんじゃない? 付き合い始めなんてそんなもんよ」
「そうですか?」
「たまたまシンジ君だった。そのシンジ君には嘘があって、隠しごとがあって、洞木さんはそれに興味を覚えて、引き込まれていった。そういう共有意識が仲間意識を芽生えさせるのよ、アスカやレイと同じね」
「アスカや綾波と?」
「そうよ。シンジ君のこと、随分捜してたみたいよ? ホント、仲良くなっちゃって」
「そうですか……」
「あの二人にとっては、シンジ君って謎そのものなんじゃない? どうやって話しかければいいのか? 気を引けばいいのか」
「そんなの知りませんよ」
「まぁねぇ……その前にシンジ君は掴まっちゃったわけだしね」
「はぁ……」
「ため息吐かなくてもさ」
「趣味じゃないんですよ」
「洞木さんのこと?」
「好きとか嫌いとか、そういうこと全般です」
「醒めてるのねぇ……」
「難しいから嫌いなんですよ。機嫌取って好かれたからってなんになるんですか?」
「そういうものじゃないでしょう?」
「じゃあどういうものなんですか?」
「だって……女の子に興味ないの?」
「ないです」
「エッチな本とかに目がいかないの? そういうのと洞木さんとが重ならない? 想像しちゃったりとかさ、意識しちゃって」
「それで洞木さんにそういう目を向けろ、っていうんですか?」
「そうよ……。女の子なんてねぇ、男の子が思うほど潔癖なもんじゃないんだから。そういう目で見られるのを嫌がったりしてても、ちゃんと注目されたいって気持ちもあるのよ?」
「それは洞木さんだからって気持ちじゃないじゃないですか」
「でもその人がどんな目をして見てくれているのか? それを決めるのは女の子よ」
「そんな……」
「好きな人が見てくれている。どんな目で見てくれているのかなんて勝手に決めつけちゃうもんなんだから……。もしそうじゃなかったんだなんて考え出したりしたとすれば、それは気持ちが醒め始めた時でしょうね」
「その時まで……騙せっていうんですか?」
「恋愛なんて騙しあいよ。錯覚したい自分と騙したい相手で成り立つのが恋愛なのよ」
「……ミサトさん」
「ん?」
「気づいてないんですか?」
「なにが?」
「好きでなくても女の子がその気なんだから、適当に騙しておいしい目を見とけなんて、中学生にいうことですか?」
「あ────……」
「普通に恋愛なんてできそうじゃないなって、そう思ってるんでしょう」
「そうね……ごめん」
「いいですけど……」
「なに?」
「いや……ミサトさんはそんな感じだったのかなぁって思ったんです。……加持さんと」
 ブッと吹き出す。
「ななな、なんで加持君が出てくんのよ!?」
「え? 昔付き合ってたんでしょう?」
 ミサトはシンジの両肩をガシッと掴んだ。
「それ! 誰に聞いたの!?」
「え!? えっと……」
 鬼気迫るミサトの形相に、思わず恐くて目を逸らしてしまう。
「……リツコさん」
「あいつはぁ!」
 シンジは逃げようと思ってしまった。
(嘘吐いてごめんなさい)
 しばらく帰れないななどとも考えてしまった。


−Lパート−


 ──泥沼にはまっていく。
「シンジ君?」
「ええっと……コダマさん」
「どうしたの? こんな時間に……」
 きょろきょろとする。
 深夜の児童公園である。
 常夜灯の明かりからも外れたベンチに座っている少年の姿は、遠くからでもあまりにも目に付くものであった。
「あ……えっと」
 ぽそっと。
「一緒に住んでる人が、恐くって」
「確か、ネルフの人よね?」
「そうなんですけど……知ってるんですか?」
「ヒカリから聞いたんだけど……恐い人なの?」
「いや……えっと、お酒入っちゃってて」
「ああ……」
 彼女は確実に何かを勘違いした。
(酒乱なんだ……)
 きっと暴力を振るうような人なんだ……と想像する。
「あ、じゃあ、うちに来る?」
「え?」
「ヒカリも喜ぶと思うし」
「で、でももうこんな時間だし」
「でも帰れないんでしょう?」
「はぁ……」
「まさかこのまま野宿する気?」
「それは……そうなんですけど」
「あ、なにかエッチなこと想像しちゃってる?」
「してませんよ!」
「そうよねぇ? ほら行きましょうよ」
「はぁ」
 逆らうと本当にそんな妄想を働かせてしまっていたと思われそうだ。
 そう思ったのがシンジの未熟さというものであった。


 ──翌日。
「ちょっとリツコ、聞いてんの!?」
「ええ」
 曖昧な返事。
「加持君とのこと、黙ってればいいんでしょ?」
「そうよ!」
「でもあなたたちのことなんて、ユイさんたちも知ってるんだから」
「そうだけど……」
「まあユイさんたちもそれどころじゃなさそうだけどね」
「なんのことよ?」
「シンジ君よ」


「泊まってしまった……」
 それもヒカリの部屋にである。
 隣のベッドは空である。ベッドとテレビの隙間に布団を敷かれてしまい、逃げられなくされてしまったのだ。
 ──昨日。
『シンジ君!?』
『あ、うん……こんばんわ』
『どうしたの!?』
『その……コダマさんがね』
『お姉ちゃん?』
『まあ良いから』
 くししと笑って、彼女はさあさあとシンジの背を押し、押し込んだ。
 ──そして。
『シンジ君ご飯まだなんだって、ヒカリなにかある?』
『あ、そうだ。シンジ君ゲームってやる? ヒカリの部屋にあるからさ』
『ごめんねぇ? うちって空いてる部屋がないの。ヒカリ、泊めてあげてね?』
 その時だった。シンジは彼女がにやりと笑ったのを見てしまったのだ。
(罠だ!)
 公園での『エッチな想像うんぬん』のところからして罠だったのだと感づいたのだがもう遅い。
 照れ恥じらいうつむきながらも、期待しているヒカリを振り払えるほどの意志力もない。
 見事に彼女の誘導策術に引っかかって、ヒカリの部屋に押し込まれてしまったシンジであったのだ。
 ──そして今。
『シンジ君……』
 暗闇の中でもはっきりとわかるほどに頬を染めて、ベッドの端、布団の隙間から手を伸ばし、繋げることを求めるヒカリに逆らえなかった。
 ……その指に指を絡めて、いちゃつくような、そんな真似を。
「はぁあああああぁぁぁああぁぁあぁぁああああぁ……」
 カチャッと音がして、扉が開いた。
「あ、シンジ君起きたの?」
「うん……」
「これ、タオル。顔洗ってきてね」
「うん……」
 はっとする。
 そうか、綾波の台詞。こんなときどんな顔をすればいいのかわからない……か。
 遠い目をしてふふふと笑う。
「ようやく綾波の気持ちがわかった気がする」


「うぅ〜〜〜〜〜〜」
 そんな調子で洞木邸より出てきたシンジとヒカリ。
 二人の背後を追いかける影が三つほどあった。
「くやしぃいいいい! なんでヒカリとシンジが!」
「ふ……手遅れなのね、もう」
「まだだっつってんでしょうが!」
「君は諦めが悪いねぇ……」
 電柱の裏に下からレイ、アスカ、カヲルの順で重なっている。
 背後では井戸端会議中の奥様方がひそひそと噂し、犬がきゃんきゃんと吼え立てていた。
「大体なんでこんなことに……ああっ、手ぇ! 手ぇ繋いだぁ!」
「……腕を組んだというのよ、あれは」
「随分積極的な子なんだねぇ」
「くっやしぃいいいい! あああああ! 今っ! 今ほっぺにチュッてぇええええ!」
 シンジの浮気者────!?
 叫ぼうとしたアスカの口を、とっさに二人が手で塞ぐ。
 ──フッ。
「……いま、こっち見たわね」
「ええ」
「ヒっカリの奴ぅううう!」
 ──そう、ヒカリはこの三人の存在に気が付いていた。
 なにしろネルフの貴重なパイロットたちである。護衛だなんだで一人に三人は最低でも張り付いているのだ。つまりはこの閑静な朝の住宅地は、不自然なほどに人口密度が増していた。
 普段車の停まらぬ所に一台姿があるだけでも違和感は増す。
 そして姿を見つけられぬとも、気配は確実に感じられるもので、そうなればヒカリがこの三人の存在に気が付くまでには、多少の時間も必要とはしなかったのである。
(勝つ!)
 今やヒカリの目には闘志が宿り、その炎をめらめらと燃やしていた。
 後の二人のことはわからない……だが綾波レイは知っている。
 この隣で困っているシンジと同じパイロットだ。
 ならば後の二人の素性も知れたものだろう。どういう意図を持って張っていたのかも想像が付く。
 勝負モードに入った乙女とはこんなものだ──という状態をヒカリは体現していた。
 魂の炎にくべられた物はなんであろうか? すでに少年の気を引くことなど二の次である。いや、むしろどうでも良いのかもしれない。この少年と自分とがどのような関係であるのか? 周囲がそれを認め、事実として受け入れ、そして盛り立ててくれるように持って行ければそれで良いのだ。
 というわけで、横恋慕組にも必要十分にわかってもらえるよう振る舞わねばならない。そのための腕組みであり、キスである。
(負けられないんだから!)
 ──ゾクリ。
 シンジは悪寒に身を固くした。


「あたしがあの子に負けるなんてっ、ヒカリなんかに負けるなんてぇ!」
 いつかシンジとプライドについて語った公園。
 そこでもやはり奇異な目で見られている三人。
「これってのもあんたがボケボケっとしてたからよ!」
「そう……」
「反省しなさい!」
「どうしろというの?」
「そうねぇ……責任取って邪魔してきなさい!」
「わか……やっぱり嫌よ」
「なんでよ!」
「碇君に嫌われたくないから。あなた行って」
「嫌よ! あたしだってイタイ女だなんて思われたくないしぃ?」
「ここに至るまでの経緯が十分にイタイと……」
 アスカの裏拳が静かに炸裂し、カヲルを沈めた。
「もう! あたしっ、どうすれば良いのよ!」
「奪い取ると口にしたのはあなたよ?」
「それはそうだけど……あんたヒカリの顔見なかったの!? 嘲笑し(わらい)やがったのよっ、あいつ! あの勝ち誇った顔……きっとシンジの奴」
「なに?」
「あああああ、口に出して言えないようなことまでさせられたに違いないわ!」
「……シンジ君がのぼせているのかもしれないよ?」
 鼻血の垂れる顔面下部を隠して起きあがったカヲルをまたも沈める……丁重に。
「くっ、こうなったらとにかく! 直接シンジに迫るしかないわね」
「いつ?」
「こっちにはエヴァのパイロットって仕事があるんだから!」
「……でも初号機にはシンジ君のママが乗るかも」
 無駄に消されるカヲルであった。


−Mパート−


「先の戦闘によって第三新東京市の迎撃システムは大きな打撃を受け、未だ復旧は見込めていません。そこで今回は上陸間際のところを一気に叩きます。アスカ、レイ、シンジ君。お願いね?」
『了解よ!』
 ミサトはぱちくりと瞬きをした。
「き、気合い入ってるわね……」
『ふふふふふ……。今日のアタシはひと味もふた味も違うんだから』
 不安だなぁと思ったのはシンジであった。


 ──十五分前。
「シンジ!」
「アスカ」
「今日はあんたが出るの?」
「うん……母さんがそうしてくれって言うから」
「あ、そ」
 ふんふんと鼻歌を唄いながらアスカはシンジの隣に跳ねるようにして並んだ。
「ねぇシンジ?」
「なに?」
「んっ、ふふ〜〜〜♪」
 この先にあるのは格納庫だ。プラグスーツ姿のアスカはシンジの顔をのぞき込むようにしてドキリとさせた。
「シ〜〜〜ンジ?」
「なにさ?」
「ヒカリとどこまで行ったの?」
 ──グッと詰まる。
「げへっ! 急になに言い出すんだよ!」
 半眼になる。
「……やっぱりあんた」
「なにもしてないよ!」
「嘘よ! キスしたくせに!」
「してない! 本当だよ!」
「ほんとにぃ?」
 ぶんぶんと上下に首を振るシンジに、アスカはまだ脈ありかと見て取った。
 キス……したかどうかはともかくとしても、ごまかそうとしているのはありありとわかる。ではなぜ自分に対して隠したがるのか?
(かっわいいんだから! もう♪)
 こっちにも縁を残しておきたいのだろう。ならば話は早い。
 あっちのもの、こっちのものというところにまでは進んでいない。今のシンジはまだ天秤の状態だ。ならば傾けるだけである。
「ねぇ……シンジ?」
「なに……?」
 嫌な予感がすると顔に出ているのだがアスカは照れ恥じらうポーズを作るのに必死で目にできなかった。
「あたしね? シンジと離れてわかったの……シンジのことが好きだったんだって」
「え゛」
「ちょっとなによその反応は!?」
「いっ、いやあのその!」
 胸ぐらを掴み上げられて戦慄する。
 ジャストフィットするプラグスーツは掴んで引っ張るだけのゆとりなどない。なのにアスカの指はスーツの胸座をぎゅうっとひねり上げているのだ。
「だってアスカは僕のことなんてどうでも良いんだって思ってたから!」
 必死である。
「なによそれはぁ!?」
「だから僕を置いて行っちゃったんでしょ? 違うの?」
「はぁ!? あんたもここにいるじゃない」
「僕は……置き去りにされたくなかったから、それだけで」
 アスカの手から力が抜ける。
「シンジ?」
 シンジはアスカの目を直視できず、顔を背けた。
「ごめん……わかってる。鬱陶しい奴だってことは」
「はっ、はぁ!? 誰もそんなこと言ってないじゃない!」
「でもアスカは退屈でどうしようもなくなったから試してみるって言い出したんじゃないか。僕なんて居ても居なくてもどっちでもよかったから、来るなら一緒に来ればって……」
「あたしはそんなつもりで誘ったんじゃないってば!」
「ごめん……。でももうそんなことはどうだっていいんだよ」
「どうでもって……」
「その後だよ……僕はこっちでやり直しながら悟ったんだ。きっと深く考えないことが一番良いんだって」
「え……?」
「昔の僕は自分の境遇って言うのかな? そういうのをきっと考えすぎていたんだよ。アスカと二人だけになったときも置き去りにされるのが恐かっただけなんだ。結局考えすぎだったんだよな、自分の立場とか、周りのこととか、今のこととか……。深く考えないでいれば楽になれることだったんだよ。ああそうかって、そうなんだって、そこで頭を止めちゃえば良かったんだ。なのに必死にすがろうとしてさ」
「シンジ……」
「だからそう考えるようにしたんだよ。でもさ、これに慣れてくるとね? 今度は好きとか嫌いだとか、そういうことがわからなくなって来ちゃったんだよ。アスカを好きだったと思う。でも今はどっちでもいい……嫌われてるなら顔を合わせなきゃ良いだけだ。好かれてるなら……よくわかんないから、やっぱり顔を合わせなきゃ楽だと思う。今の僕はそんな奴だよ」
「だったらなんでヒカリと付き合ってんのよ?」
 シンジは驚き目を見開くようにした。
「知ってたんだ?」
「……なんでよ?」
「知らないの?」
「なにがよ!」
「洞木さん……病気なんだ」
「病気?」
 こくんと頷く。
「二匹目の使徒が来たときに、トウジたちがシェルターから抜け出して外に出たんだ。それを追いかけようとして洞木さんはトウジたちが目の前で爆発に巻き込まれたのを見たんだよ」
「死んだの!? あいつら」
「生きてたよ……でも洞木さんは死んだと思いこんで、アスカみたいに……、壊れた時のアスカみたいになったんだ」
 アスカは眉間に皺を寄せた。
 皺だらけで、自棄を起こしていた自分。ヒカリが同じような状態に?
「洞木さんは今でもトウジたちは死んじゃったんだって思ってる。トウジたちを見るとお化けや幽霊が出たって怯えるんだよ。どうしても認められないみたいで」
「二人は?」
「疎開した……させられたよ。あの二人さえ居なければ洞木さんは普通だから」
「そう……」
「それからだよ……。顔見知りだってことで僕に話が回ってきたんだ。洞木さんの面倒を見て欲しいって」
「誰に頼まれたのよ?」
「洞木さんのお姉さんとか……いろんな人に」
 アスカはあの人か……と、『以前』世話になったときに挨拶を交わしたことのあるヒカリの姉のことを思い返した。
「でもそれってあんた。犠牲にされてるってことなんじゃないのよ!?」
「そうかもしれない」
「しれないじゃなくって、そんなのおかしいじゃない!」
「でも結構な役得もあるよ? 普通の恋愛ってこういうものなんだって経験させてもらえてるから」
「……それ、役得なんかじゃない」
「そっかな?」
「そうよ! あんたそんなさめた状態で、どこが恋愛してるって言えるのよ!? 冷え切ってんじゃない!」
「だけど考えるのが面倒くさいんだよな……。あまり深く考えようとすると、前の僕が出て来るからさ」
「……今でも十分出てるわよ」
 シンジは儚い笑顔を見せた。
「そう? そうかもね」
「シンジ……」
 ああ……そうだった。アスカは都合良く書き換えてしまっていた思い出を、客観的な視点から見直した。
 あの時……、海に飛び込んだ時、死んでも良いと思っていた。過去か異世界か? どこかにたどり着けるかもしれないという可能性があった。自分はそれに賭けたくなって、この少年に見切りを付けた。
 どこにも繋がっていなかったとしても、あるいは溺れ死ぬことになったとしても、それならそれで仕方がない。
 シンジが悪いわけではない。だけどこの気持ちは止められない。だから引き留めるのではなく見送って欲しい。
 そう考えたのに、情けなくって……。
 そんなシンジが追ってきてくれていたことを知って、なんだあいつと、やっぱりと顔をほころばせた。
 ──それがすでに思いこみであったのだと彼女は感づく。
(こいつ……ただ逃げ込んできただけなんだ)
 アスカには想像できてしまった。長いつき合いがあったから。
 行ってしまった自分の背中に、ただ一人取り残されてしまったという孤独感に、恐怖と絶望がない交ぜになった表情をして、衝動的に崖から飛んだ。
 そんなシンジの姿が克明に思い浮かんでしまった。
 自分はこの世界にたどり着けて喜んだが、シンジはどうであったのだろうか?
 このような世界にたどり着いてしまって、シンジはなにを感じたのだろうか?
 ──追いかけたはずの相手が居ない場所で。
(あたしは、あたしが触れたかった思い出の場所にたどり着けたけど、こいつは……?)
 少年期、シンジがいかにろくでもない環境で過ごしてきたのか? アスカはそれを知っていた。
 知っていたから、想像が付くのだ。世慣れてしまい、変に悟ってしまった『十五歳』の碇シンジが、同じ境遇、環境に対して、どのような判断を下したのか?
 対処の仕方を見いだしたのか?
「ごめんなさい……」
「アスカ?」
「あたしが悪いのよね……あたしが自分勝手だったから」
「なんでそうなるんだよ?」
「でもあたしがシンジに手をさしのべてれば」
 シンジは軽くかぶりを振ってから微笑んだ。
「その時は僕は情けない僕のままだったんだろうから、どっちが良いってことはないよ、きっとね?」
「だけど!」
「大丈夫……。今の僕はうまくやれてると思うよ。洞木さんのこともきっとなんとかなるさ、大丈夫」
 そんなわけないじゃないと彼女は叫んだ。
「そんな言い聞かせるみたいにして! どうにかなるわけないじゃない!」
「その内……きっと、なんとか。言ってることは昔と同じでも、違うところもあるよ。逃げ回るしか脳の無かった僕とは違うさ」
 ──セカンドチルドレンとサードチルドレンは、至急ケージまで。
 放送にシンジは話を切り上げさせようとした。
「行こうよ。時間がないよ」
 アスカはシンジの手首をグッと掴んで引き留めた。
「これだけは教えて、あんた……ヒカリのこと、好きなの?」
「…………」
「どうなのよ!」
 シンジははぁっと嘆息した。
「可愛いと思うよ」
 愕然とするアスカに、じゃあさよならと、シンジはレイばりの冷たさを持ってお別れを告げた。


 ──そして今。
(なんであんなにハイなんだよ?)
 あんな別れ方をしたのだから、こう復活してくるのはおかしいのだ。
 だからシンジは怪訝に思う。


 そのアスカはと言えば──。
(ふっふっふっふっふっ……)
 カメラに撮られないように顔を背けて、非常にいや〜〜〜ん♥ な感じでほくそ笑んでいた。
(可愛い? このあたしよりも可愛い? あんた自分でなに言ったかわかってんでしょうね? 馬鹿シンジ)
 くっくっくっと、こみ上げる笑いが押さえきれない。
 飛行ユニットより地上に降下。三体のエヴァが待機状態に。
 接続を待って電源のチェックを行い、運ばれてきた武装を手にして立つ。
 ちょうど波打ち際に水柱が上がったところだった。浅瀬に来て泳ぐよりもと使徒が立ち上がったのだ。
(良し!)
 アスカはミサトの指揮が入らぬ内にと指示を飛ばした。
「レイはバックアップ! シンジ!」
「うん!」
 シンジはアスカの意図を正確に読んだ……つもりだった。
 あの使徒は同時攻撃でなければ倒せないのだから、自分とアスカが前に出るのは正しいことだと──しかし。
「おーっと足がすべったぁ!」
『弐号機転倒!』
『アスカ!?』
 信じられないとミサトの声。
(ふふっ、これでユニゾン作戦に!?)
 そんな弐号機をぶぎゅるっと踏んで、強化改修を施され、カラーを青に変更されたエヴァンゲリオン零号機が飛んだ。それはもう華麗に陽光の中にとけ込むように。
「碇君はそのまま、わたしがサポートを!?」
 着地し、そのまま最高速度に移行しようとした零号機の足を砲弾が払った。
 すっころぶ零号機。
「ごっ、めーん! 狙いがテヘ♥
 弐号機のライフルより硝煙が立ち上っていた。
 液状化した大地、汚泥の中に顔面を突っ込んだ零号機が、はいつくばったまま首だけ起こして振り返る。
「……なにをするのよ」
「ミスよ、ミス! 凡ミスってやつぅ?」
「……嘘、狙ったわね?」
「だから偶然だってば」
「なにを考えているの?」
「だから考えてないってば」
「じゃあどうしてこっちを見ないの?」
「へ? ちゃんと見てるじゃない」
「心は嘘を吐けないものね……。弐号機の頭は横を向いているじゃない」
「あ……」
 意識下での反応がダイレクトに現れてしまうシステムのことをシンクロシステムという。
「ちょ、ちょっとしたジョークってやつよ! ジョーク!」
「なにを企んでいるの?」
「だから企んでなんてないってばぁ!」
 そんなことをやっている二人を尻目に、シンジは重い疲労感を味わいながら長刀を抜いた。
 ──エヴァンゲリオン初号機専用ソード・マゴロクエクスターミネートソード。
 シンジはそれを上段から振るって使徒を二分割した。
 正中線に沿って正確に。
 そして使徒は、左右に倒れ込む途中で足りない部分を発生させた。
 敵は初号機一体のみ。だからか? 使徒は初号機の手の届きやすい位置に、鏡に映されたもののように正確な角度を保って位置した。
 ──刀を捨てて手を伸ばす。
 シンジはそこにあるコアを二つ同時に握り込んだ。
「ぁあああああ!」
 グリップを強く握り込む。
 割れる音、感触。
 割れたコアと、めり込んでいる初号機の指。
 そして明滅と、停止。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……ふぅ」
 額の汗をぬぐう。
「……終わりました」
『ご苦労様』
 疲れてるのかな? シンジはミサトの覇気のなさをそう考えたが、すぐにその理由を思い出した。
「あんたのせいで終わっちゃったじゃないのよ!」
「碇君の邪魔はさせない。碇君はわたしが守るもの」
「くぁああああ! あたしはシンジの敵かコラァ!?」
(なにやってるんだかもう)
『シンジ君』
「あ、はい」
『初号機から先に引き上げるから』
「わかりました」
 まだぎゃあぎゃあとやっている。
 それもエヴァ二体が向かい合って、外部スピーカーを使って盛大に喚き合っているものだからたまらない。
「まったく恥をかかせおって」
 どこかの老人が口にした。


−Nパート−


 ──ガシャン。
 暗い部屋に明かりが灯る。
「反省した?」
「…………」
「もう一度だけ聞くわ……なんであんなことをしたの?」
「…………」
「はぁ……。もういいわ、次にあんなことをしたらエヴァから降りてもらうから」
「わかったわ」


 ミサトの言葉もなんのその、アスカは次なる作戦を考えようとしていた。
「……で、シンジとヒカリの間になにか進展は?」
「ないよ」
「本・当・ね・?」
「ほ、ほんとうだからそう念を入れないで欲しいんだな!」
 ──ジオフロント森林公園。
 かなり本気で怯えるカヲルである。言葉遣いがかなり怪しい。
「ねぇ……」
「なにかな?」
「あんたってあたしの味方よね?」
「おおむねそうだね」
「それじゃあシンジのことは好き?」
「好きさ、大好きさ!」
「……なんか引っかかるんだけど、まあいいわ」
 だったらと口にする。
「サードインパクトを起こすから手伝って!」
「はぁ!? 僕には君が何を言っているのかわからないよ!?」
「だってぇ♪」
 身をくねらせるアスカに、後頭部でダリダリと汗をかく。
「なにか悪いものでも食したのかな?」
「違うわよ! ただ思ったのよ……今のシンジは不幸だってね!」
「だから?」
「すべてをリセットするにはそれしかないわ!」
「つまりサードインパクトを起こして再び一からやり直そうと?」
「そうよ!」
「……それは無理だよ」
「なんでよ!」
「そうか……君は経緯というものを知らないんだね?」
「……なんのことよ?」
「……事の起こりはE計画さ」
「E計画?」
「エヴァンゲリオン……福音計画。要は使徒を倒すためにエヴァンゲリオンの開発を行おうとしたんだよ。そして碇博士と惣流博士が死亡した」
「あたしのママが死んだ直接の原因は違うでしょう?」
「でも間接的なものはあるよ。まあ君のママのことは関係ないけどね」
「関係ない?」
「そうさ。……悲嘆に暮れた碇司令は、ゼーレのメンバーに人類補完計画を提唱する」
「補完計画ね……」
「名前くらいは知っているのかな? それは過去に葛城博士によって提唱された。神へと至るための計画だった」
「碇司令は神になろうとしたの?」
「違うよ。必要だったのはアダムさ」
「アダムって第一使徒のことよね?」
「そう……あの人の目的のためには必要不可欠な物だった。……ところが使徒を復元するためには膨大な時間と莫大な研究資金と大量の人手が必要になる。そこで司令は補完計画を餌にして、ゼーレの面々を釣ったんだよ」
「補完計画にもアダムは必要……そうか、サードインパクト、使徒との接触」
「司令はこれを自分の体に埋め込んで、リリス……第二使徒と融合するつもりだったんだ」
「でもママは……シンジのママだってエヴァに、使徒に取り込まれたのよ?」
「媒介となるものはあった」
「媒介?」
「使徒、母、子……。エヴァのシンクロシステムを簡単に口にするとそうなる。だからリリスについても碇司令とリリスとを取り持つ者が間に居れば問題なかった。愛情や恋愛に関わるA10神経に根深い存在感を刻まれた者がね?」
「まさかレイ!?」
「その通りさ」
 遠くを見る。
 ピラミッドの最上階を。
「だがレイの心に刻み込まれたのはシンジ君だった」
「だからシンジが寄り代に……どうしてシンジなのかずっとわからなかったけど」
「つまりはそういうことさ」
 さて……と話を彼は戻した。
「ここまでを理解してもらえたところで質問するよ? 一番悪いのは誰だい?」
「え? それは……」
「いや、もっと根本的なところまで戻そう……。どうしてサードインパクトは起こされたのか? 司令が起こそうとしたから? それとも望んでいるものたちが攻め込んだから? いやいや、碇司令が補完計画を提唱したからさ。その理由は?」
「……シンジのママが、取り込まれたから、あっ!」
 にやりと笑う。
「そう……そして彼のお母さんは生きている、この世界ではね?」
「じゃあ、じゃあ……」
「人類補完計画という名の計画はあるけれど、それはサードインパクトとは真逆の位置にあるものだよ。この世界ではアダムは必要とされていないんだよ。だから当然のごとく、アダムの復元は行われてはいないんだ」
「じゃああんたはなんなのよ!?」
「エヴァと同じだよ……。使徒の力を利用してまで生き残るのがE計画だ。『アレク』がそうであったように、ヒトサイズでのE計画関連技術の試験的導入実験もまた行われたんだよ。その完成品が僕さ。……もっとも『あちらでのこと』がなければこんなものに『僕』が宿ったかどうかは怪しいけどね」
 苦笑する。
「あの世界でのシンジ君とのしがらみがあったから、僕はこの形態形状を『僕』の姿形としてこだわることを覚えてしまった……。お笑いだね、自由天使の名を冠されている『僕』が、こんな束縛を喜ぶなんて」
「あんたの変態趣味なんてどうでもいいわよ」
「ヘ、ヘンタイ……」
「とにかく、じゃあ! サードインパクトでリセットは無理だってこと!?」
「人の意志、使徒の意志、あらゆるものがうまく絡んでこうなっているというのが真実なのさ。だから二度目を試しても思い通りの結果が得られるとは思えないね」
「じゃあ現状は最悪なんだってことなんじゃないのよ!」
「まさにね」
「だったらなんとしてもシンジを取り返さなきゃ!」
「そうだねぇ……。でも今回のことでレイは君に対して疑念を覚えているからねぇ、協力はもう得られないだろうし」
「あああああ!」
 軽率だったと今更に悔やむ。
 ミサトの説教には屈しなかったが、これには反省しきりのアスカであった。


「……碇君」
「なに?」
「えいっ」
「えいって……」
 やったことは可愛いかもしれない。
 突然少年の腕に組み付いて、その手を握り、身を寄せ甘える。
 女の子ならまずやることだ。
 しかしレイの場合は、ただただ似合わぬ行為であった。声には抑揚がなく、平坦であったし、表情もさほど変動なく、頬を染める程度のこともしていないのだから、どうしてもなにがやりたいのかと疑ってしまうような感じとなる。
 そんなレイの行動に、シンジもやはり戸惑った。
(今度は綾波がおかしくなった)
 レイが与えた衝撃はそんなものだ。
「碇君」
「なに?」
「えいっ」
 今度は跳ねるようにしてシンジの頬に接触した。
「ななななな、なに!?」
 頬に手を当てて大げさに焦る。この反応もまた照れたように見えてしまうものではあるが、現実は違う。
 キスなどしたことのないレイが見よう見まねでしたことである。当然『チュッ』などという可愛らしい音を立てる術も知るわけがない。ただ口を『ぐん!』っと押し付けただけである。……というより、シンジにとってはほとんど『どんっ!』っとぶつかられたに近く、首をグキッと鳴らしてしまっていた。
(ななななな、なにがどうなって壊れたんだ!?)
 レイもまたそんなシンジの様子に困惑している。
(勝手が違う……思ったような効果が得られないわ。なぜ?)
 要はヒカリの真似をしているのだが、微妙どころではない差異のために、同じ反応を求められないでいるのである。
(人間、慣れが必要なのね)
 レイはそう結論づけた。
(問題ないわ……だって協力者兼実験台は減るものではないから繰り返せるもの)
 そっぽを向いてにや〜〜〜りと笑う。
 シンジは顔を背けたレイの頬に、その歪んだ口の端を見た気がして戦慄した。


−Oパート−


「恐いんです、アスカもレイもなにを考えてるのかわからなくて」
 泣きついているのはミサトであった。
「ふっと気が付くと屋上からロープ垂らして窓から特殊工作兵みたいに突入なんてしてくるし! お風呂に入っててもここかぁって入ってきて! あげくに本当に居ないのかって荒らすだけ荒らして出て行くし!」
「そう……災難ね」
「災難ですませないでくださいよぉおおおお!」
 通路である。人目もある。
「ちょ、ちょっと離してって、ミサトちゃん!」
「ユイさぁああああん!」
 えぐえぐと泣きながらユイの白衣の裾を掴んで離さない。
 ひそひそと聞こえてくる声と、こちらを怪しく見る皆の目が恐い。
「だ。だからね? レイたちはただシンちゃんを……」
「そんなことはわかってます!」
 立ち上がる。
「大体! 話を聞いたら煽ってたのってユイさんだったんじゃないですか! 責任取ってくださいよ!」
「責任って……」
「シンジ君をください!」
「し、シンジを!?」
 ひぃっとユイは悲鳴を上げた。
「いくらなんでも年の差ってものがあるでしょう!?」
「そうじゃなくって! レイもアスカもシンジ君を与えておけば」
「うちの子は餌ですか! 第一猛獣じゃないんだから」
「動物の方がマシです! 撃ち殺せる分だけ」
 そこまで追いつめられてしまったのかと哀れむ目になる。
「ミサトちゃん……」
「寝ようとしても音させるし、寝てても一時間おきには起こしに来て、シンジはどこだって尋問しようとするしで! あたしここんとこ連続して二時間以上寝たことないんですよぉ?」
 もう若くないものね……と、同情する。
「でもシンジを餌扱いするだなんて許せないかも♥」
「は? あ? ユイさん?」
「ん〜〜〜? ちょ────っと付き合ってもらっちゃおっかな?」
「ちょ、ちょっと! どこに連れて行く気ですかぁ!?」
「お楽しみ♥」
「いやぁああああ! 折檻は嫌ぁ────!」
 おっしおっき、おっしおっき♪
 決して軽くないミサトを引きずりながらスキップをして去るユイの姿に、ギャラリーたちはまたもヒソヒソと噂し合った。


「……またデートしてしまった」
 恥ずかしい……とシンジはエレベーターの中で火照る頬を撫でさすっていた。
「洞木さん……可愛かったなぁ……」
 アスカを見慣れているからか? すでに可愛いと思う基準が顔ではない。
 仕草や、態度だ。
 やはりアスカと付き合っているとそうなってしまうものなのかもしれない。
 決してアスカが小憎たらしいとか思っているようなわけではない。
 だがやっぱりそうなのかもしれない。
「僕もちょっとは変わったんだな」
 シンジは嬉しげにつぶやくと、あ〜あともたれている壁に後頭部をぶつけた。
 浮かんでいるものは苦笑に近い。
 少年期、自分は戸惑いからは逃げ出していた。恐かったからだ。未知なるものが。
 理解できないものに対して、不安になって怯えて暮らさねばならなくなるよりも、触れあうことを避けた方が無難であると、そう思っていた。
 それが……開き直りによるものなのか? 今では関わる内に慣れるということを覚えてしまっていた。
(無防備ってんじゃないんだよな……明らかに誘われてるし)
 大体、今時のデートに公園もないだろうと思うのだ。それも郊外の公園で、森があって、人気のない深さがあるなど、一体どういうことかと思ってしまう。
「危なかったな……」
 緑の匂いが濃い森の中。
 苔むした木にもたれ、柔らかく微笑むヒカリを見ていると、そのまま迫りたくなってしまう。
 それは牡としての本能と言うよりも、ただの青少年の衝動だろう。
 キスくらい良いかな? いやいや……もうちょっとだけと、かつてアスカと過ごすために封印したはずの欲望が、じわりじわりと心の間隙(かんげき)を衝いて蘇ろうとする。
「可愛いんだよな……」
 ふぅっとため息をこぼしてしまう。
 空気が湿気ていたからか? 木漏れ日が温かくて、一緒に浴びようと、ついつい近い位置に立ってしまった。
 それは触れ合うには都合が良すぎる距離であって、ちょっとした会話の隙間に、目が合って……。
 彼女は一体、自分の視線になにを読みとってしまったのだろう? そう、ヒカリは恥ずかしげに一旦目を伏せ、そして……。
 まぶたを閉じ、唇を差し出すように……。
「はぁはぁはぁ……」
 シンジは胸元を掴み、耐えた。
「危なかった。本当に、危なかったよ……」
 もし、シンジが『あれ』を踏まなかったら?
 誰かが置き捨てて行ったらしい、フケツなものを踏んでしまわなかったら?
 薄いピンク色で、風船みたいな……。
「うう……汚れちゃったよ」
 というわけで必死になって靴を洗い、それ以上はデートという雰囲気でもないと早々に切り上げて帰宅したのである。
 シンジは自分の部屋の前まで来ると、ただいまぁと扉を開いて……驚いた。
「なんだこれ!?」
 段ボール箱でいっぱいだった。
「ああ、おかえりぃ」
「おかえりって……アスカぁ!?」
 ゆったりとしたLLサイズのシャツとスパッツを身につけているアスカが、段ボール箱を持って移動していた。
「なにやってんだよ!?」
「なにって……あたしもここに住むのよ」
「え!? そんなの聞いてないよ!」
「ま、あたしとしては? シンジの部屋でもよかったんだけど……」
 シンジはアスカの目線を追って、ああっとあわてふためいた。
「ミサトさんの!」
「そ! まったくもう……ゴミばっかりで捨てた方が早いかもって思ったんだけどねぇ……」
 ミサトの荷物は下駄箱(そば)にうち捨てられていた。中には万年床化していたせんべい布団まで混ざっている。
 アスカが荷を運び込んでいるのは、ミサトが寝ていた部屋であった。
「ミサトさんに怒られたらどうするんだよ!?」
「そんなことないって」
「なんでだよ!?」
「だってあいつ、今日から国連に出張だから」
「え?」

 ──空の上。
「栄転ですかぁ────!?」
 悲しげに窓から吼えている女性が居たとか居ないとか。

「ま、そういうわけだから、またヨロシクね?」
 ブイッと古めかしいサインを見せて部屋に消えるアスカを見送り、シンジは重苦しくため息を吐いた。
「はぁああああ……大丈夫かなぁ? 僕」
 ヒカリの積極的な攻撃に、ただでさえ防波堤が決壊寸前なのにとシンジは右手で顔を覆った。


−Pパート−


 やっぱりこうなるのかと言った感じで、シンジは激しく苦悩していた。
「説明して」
「説明だなんて……そんな」
「この子誰なの!?」
「だから、惣流さんは、同じパイロットで」
「じゃあどうして腕なんて組んでたの!?」
「そ、それは……」
 もちろんアスカも負けてはいない。
「シンジぃ……言ってやったらぁ?」
「なにをだよ!」
「性格のキツイ女は嫌いだって」
 むむっと火花を散らし合う。
 お互い何がと思っているのは明白だった。
 ヒカリの場合、誰と罵る必要もなく、アスカのことは以前見かけてすでにあたりは付けていたし、アスカもアスカで、自身の性格は棚上げしている。
「良い!? はっきり言って迷惑なの! シンジはネルフでもトップパイロットなのよ!? あんたなんかが釣り合うような人間じゃないの!」
 負けられないのよ! はヒカリも同じだ。
「そんなの押しつけじゃない! シンジ君にパイロットをやらせようって、そんなのってないわよ!」
「なにがよ!?」
「シンジ君はロボットのパイロットなんてやりたくないって言ってた!」
 アスカはぐっと言葉に詰まった。
 同時にシンジはそんなこと言ったかなぁと首をひねった。
「でも……シンジがこの街で待ってくれてたのは、あたしが電話したからよ!」
「電話? 待ってた?」
「そうよ!」
 このあたしがっと胸に手を当てる。
「惣流・アスカ・ラングレーが逢いたいって電話したから! シンジはこの街に」
 アスカ……アスカ。どこかで聞いた名前だと引っかかりを覚えた。
 外国の子。海の向こうからやって来た子。そんな話を確かに聞いたと思い出す。
(あ!)
 シンジが引き留めようとしたという女の子の名前だった。
 青ざめる。
(じゃあ、この子が?)
 シンジが今でも思っている子なのだと思い至った。
「シンジがどう言おうと、あんたが何を思おうと! シンジの運命の相手はあたしなのよ!」
 勝ち誇る。
「どう!?」
 ヒカリはうつむき、ぷるぷると震えた。
 勝った! アスカはガッツポーズを取ろうとした。
 しかし、それは軽率というものであった。
 ──なぜならヒカリは、『アスカ』という少女こそが、シンジを追い込んだ張本人であるのだと理解していたからである。
「だめよ!」
「なにがよ!」
 ヒカリは胸を張って答えた。
「あなたがシンジ君の言ってたアスカなら、あなたがいなくなってシンジ君がどれだけ落ち込んでたか想像つくの!? 今更出てきてなに勝手なこと言ってるのよ!」
「そんなの関係ないじゃない!」
「ある!」
「あたしは帰ってきたわ! この街にっ」
「でもおあいにく様……シンジの隣にはもうあたしが居るの」
「キ────ッ! にくったらしいわねぇ!」
 一方、身の置き場がないのはシンジであった。
(視線が痛いなぁ)
 コンフォートマンション17の正面玄関を出た場所での喧嘩である。
 道行く人だけではなく、見上げればマンションの窓や渡り廊下から身を乗り出して観察している野次馬もいた。
(空が高いや)
 ある意味においては達観してしまっているシンジである。
 ぎゃあぎゃあと自分を取り合う女の子たち? そんな無縁であった世界に、どうしても馴染むことができないでいるのだ。
 だから、シンジは決意した。
(逃げよ)
 二人が彼の逃亡に気づいたのは、喉が枯れて声が出なくなってからであった。


「ふぅ」
 どさりとベッドに身を投げ出す。
 ここは葛城家ではない。碇家の部屋である。
 律儀にも母はこの部屋を残してくれている。もし無くされていたなら? やっぱり僕はいらない子供なんだな……とそこまでは落ち込まないにしても、それなりにショックは受けたかもしれない。
 生活感がないのは仕方のないことだ。
 埃が鼻につくのもまた仕方がない。
 そしてベッドのシーツが真新しいのも……おや? シンジはそんなことはないなと気が付いた。
「……なんか寝やすいな……なんでだろ?」
 そうしてシンジは寝入ってしまい……。
 そして起きたときには、なぜだか添い寝の相手を得ていたのであった。


−Qパート−


「……どうしてここにいるの?」
「僕のベッドだから」
「でも碇君はこの家から出て行ってしまったわ」
「じゃあ帰ってこない方がよかった?」
 ううん、違うのとレイはかぶりをふって、柔らかく微笑んだ。
「お帰りなさい」
「ただいま」

 ──その日の碇家では宴会が催された。

 とは言えシンジとレイ、それにユイだけのこじんまりとしたものであり、騒ぐというほどのものでもなかったのだが。
「でも嬉しいわ、シンジが泊まりに来てくれるなんて」
 帰ってきて……と口にしなかったユイに、レイはぷっと頬をふくらませた。
 ほんのりと色づいているのは酔っているのだ。
「どうしてそういうこと言うの?」
「シンジはもう余所にお嫁さんに行っちゃった子だからよ」
「お嫁……葛城一尉のところに?」
「そうよ」
「…………」
「始末しにとか考えないようにね? ただの比喩、表現よ」
「そう……よかったわね」
「ぽんって……肩叩かれてもさ」
 困り顔でジュースをあおる。しかしただのジュースでないのは、シンジの顔もまた赤くなっているのを見れば明らかであった。
 リビングというよりも居間である。畳の上にカーペットが敷かれている。三人はジュース缶とお菓子の山を中心に車座となっていた。
「母さんには悪いと思うし……綾波にも悪いことしてるのかもしれないけどさ、やっぱり落ち着かないんだよ、ここは」
「そう……」
「ずっと他人の家で暮らしてきたからね。緊張感っていうのかな? そういうのがないと落ち着かないんだよ」
 寂しい話ねとユイが言う。
「シンジと一緒に暮らせるようにって、あの人に頼んでおいたのに」
「父さんに?」
「ええ。この家で」
 首を巡らし、一眺めする。
 まるでテレビの前で談笑し、キッチンで今日はなにを作るのかと会話し、そして早くお風呂に入りなさいと会話している光景を夢見るように、口にした。
「きっとこんな風に、こういう風にって想像してたのよ」
「そう……」
「シンジは? って聞くだけ無駄ね」
 うんと頷くシンジに苦笑し……ユイはお猪口を口に運んだ。
「もし生きてるってわかってたら、期待してくれてた?」
「どうだろ?」
「それでもだめだったの?」
「その時はきっと……待ちくたびれて、やっぱり捨てられちゃったのかなって思って」
「…………」
「もし呼んでもらえたとしても、呼ぶんじゃなかったなんて思われないように、良い子でいようとしてたかもしれないな」
 苦笑するシンジの頭へと、レイの手が伸ばされた。
 ぽんと置き、撫でようとする。
「碇君は良い子よ……」
「ありがと。でも僕はやっぱり悪い子なんだよ」
「シンジ?」
 ユイはなにか話があるのだろうかと首を傾げた。
「どうしたの?」
「うん……」
 シンジは思い切って口を開いた。
「また……先生のところに戻してはもらえないかなって思ったんだ」
 ユイとレイ……歳の差はあっても似ている二人は、揃えたように動きを止めた。


「ちょっとシンジ!」
 うん? シンジはネルフへと向かう途中の道で、アスカに捕まることとなってしまった。
「ちょっと話があるんだけど?」
 顎をしゃくる彼女の態度に、シンジは機嫌が悪いなと身構えた。


 ジオフロント・森林公園へと場所を移す。
「シンジ……」
 アスカは十分人気のない森の奥へと進んでから、彼へとくるりと振り返った。
「あんたなに考えてんのよ!」
「え?」
「東京に帰るって話……本気なの?」
 そのことかと苦笑する。
「うん、本気だよ」
「なんで……」
「もともと、ここに居着く気ってなかったからね」
 シンジは両手をポケットに収めると、天井を見上げて目を細めた。
「アスカの電話があったから……どういうつもりなんだろうって、確かめたくなって来ただけだったんだ」
 アスカはそれを質問と受け取り、答えを返した。
「あたしは……、ただ。確認したかっただけよ」
「確認?」
「うん、本当にまた会えるのかなって」
 それもよくわからないよと首を傾げる。
「どうして十四年も経ってからだったの? 電話ならもっと前でもよかったのに」
「……我慢してたからよ」
「我慢?」
 うんと頷く。
「アンタは知らないかもしれないけどね……、『以前』と違って、あたしの周りはおかしなことになってたわ……。パパはあたしを犯そうとするし、そのパパを元にしたクローンはいるしで、あたし自身、おかしくなりそうなのをなんとかしようと思って、時を止めてなきゃならなかったのよ」
「時を止める?」
「時間をね……成長って言い換えたらいいのかな? 諦めたみたいにして、なるべく物事を深く考えないようにして、ひたすら待つしかなかったのよ」
 シンジは「ああ」と理解した。
 自分も似たようにしていたからだ。ヒカリに胸の内として語ったように。
「そっか……」
「そうよ。でももうすぐ使徒との戦いが始まる……そう考えたときに、どうしようもなく不安になったわ。あんたはほんとにあたしを追ってきてくれてるのか? 追ってきてくれてたとしても、あたしとは違う場所に行ってしまっているかもしれない、だから」
「本当に僕が僕なのか確かめようとしたっての?」
「そうよ」
「そうか……」
 シンジはふっと鼻息を吹いた。
「それだけだったのか」
「なによ?」
「気になってたんだよ……十四年も無視してたくせにさ、今更なんだよって思った。それが気になったからここに来たんだ。しばらくは我慢してようって思った。そうしたら母さんとか、洞木さんのこととかあって、どんどんここから離れられなくなってきて」
「そう……」
「先生のところ……っていうのはただの理由だよ。父さんか母さんに頼んで口座作ってもらって、お金入れてもらおうと思ってるんだ」
「それでどうするのよ?」
「わかんない……でも先生のところを出たいんだ」
「一人暮らしをするってこと?」
「違う……日本に居たいってことでもないし、どこかに住みたいってことでもなくて、ええと」
「旅に出るっていうの?」
「ああ……そうだね、それに近いかもしれない」
 はぁっとアスカは嘆息した。
「あんたバカぁ?」
「なんでだよ……」
「仮にもネルフの機密に触れた人間に、そんな自由なんてあるわけないじゃない」
「そうだろうけどね……」
「どこの誰に狙われるかもわかんないのに……」
「でも……」
 遠い目をして語り出す。
「最近考えが変わってきたんだ。僕はなんのためにここに居るのかってさ」
「なんのためって」
「だってそうだろう? アスカに逢いたかっただけなんだ。会ってどういうことなのかって確かめたかっただけなんだ。あとのことはなんとなく流されてこうなったってだけで、こだわりなんてなんにもないよ」
「ヒカリのことも?」
「後味は悪いだろうけどね……、でもこのままだと僕は洞木さんとどこまで進めばいいんだろうね?」
「…………」
「キスだけじゃだめなんでしょう? ついでにいうと、僕は別に付き合っても良いかなって思い始めてるんだよ」
 アスカは仰天し、目を見開いて悲鳴を上げた。
「シンジ!?」
 肩をすくめる。
「思い始めてるだけだよ……だって拒絶する理由がないんだもん」
 受け入れなくちゃならない理由と同じくらいにね……とシンジは続けた。
「女の子で、エッチなコトさせてくれるってんなら僕だってね?」
「あたしよりも?」
「だってアスカはなにもさせてくれなかったじゃないか」
「そうだけど……」
「それどころか、僕がそういう目で見るのを嫌ってたじゃないか」
「そうだけど!」
「もちろんあの頃と今とでアスカが違ってるのはわかるよ。だからそういう目で見られても平気だって言うならそうなのかもしれないけどさ、でも」
「でも……なによ?」
 シンジは表情を引き締めて、まじめな顔をしてアスカに告げた。
「僕が変わってない」
 え? と聞き直す。
「どういう意味よ?」
「アスカが僕のそんなとこを受け入れられるように……大人になったんだって言ってもさ、僕は嫌われてた……違うな。嫌がられてた時のイメージしかないんだよ。こうしてても凄く緊張してるんだ」
 言われて初めてアスカは気づいた。
 シンジの目線が非常に落ち着かないのだ。
 顔を見ていたはずなのに、こちらが動くと一旦は空や木などのどうも良い方向へと向けられる。それも観察していれば一つの法則に気が付いてくる。
 胸を……男が欲望の目線を向ける部位を見ないようにして、決して女性が不快に感じるであろう視線を作らないように避けているのだ。
「あんたって……」
 シンジは元の苦笑に戻った。
「も、ね……わかるだろ? 僕……いや、『俺』だって『前』と合わせて二十年以上生きてるんだよ。小さい頃は良かったんだ。知識はあっても身体が子供だったから、未発達って言えばいいのかな? だからこんな欲求起こらなかったんだ。ただ恥ずかしいって、そういう気持ちになるだけだった」
「それが……そういうことができるようになって、急に抑えが効かなくなってきたっていうのね?」
「ここに来るまではほとんど引きこもりと同じだったからね、女の子の友達なんて居なかったよ。それが……」
 レイに、ヒカリに……アスカにと、彼は指折り数え上げた。
「心がバラバラになりそうなんだよ。その気持ちを解放したいよ……。けど拒絶されるのが恐いんだ。それだけじゃないな……受け入れてもらえたにしても、そう大したことじゃないって思われたらって恐いんだよ」
「よくわかんないんだけど……」
「それが普通だ……付き合ってるならそういうことをして当たり前だって言われるのが恐いんだよ」
 ますますわからないとアスカは首を傾げる。
「どういうことよ?」
「僕の中じゃね、好きだからそういうことをしたくなるんだなんて理屈がないんだよ。アスカには話したことあったよね? 僕が意識の戻らないアスカになにをしたかって」
「今更……」
「そうだよ。だけどそういうことなんだよね。したいって気持ちは僕の中じゃ単に汚いだけの気持ちなんだよ。相手が居てしたくなるんじゃないんだ。したくなるから相手を捜すものなんだって感じなんだよ」
 それは男の生理なのだろうかとアスカは首をひねった。
「でもね……」
 話は続く。
「したいって言われたら? 僕はきっとするだろうね。したいんだからさ……。でもきっとその後で気持ち悪くなってるんだよ。ヤラせてくれるって言うからヤッただけなんだろうってさ。……そんなことを何度も何度も繰り返すなんて冗談じゃないよ、吐きそうだよ」
「でもしたいんでしょう?」
「しちゃいけないってことも……倫理とか道徳? そういうのもわかってるんだよ」
 だからバラバラになってしまいそうなんだとシンジは告げた。
「普通はさ? そういうことは『大人』になる途中で自分にとってどういう意味があるのかって学ぶものなんじゃないのかな? 誰かとするってことがどういうことなのか? 僕にとってはそれがエッチなことをするっていうやつに対しての答えなんだよ。だからそんな関係にはなりたくない。誰ともね?」
「それって変よ……じゃあ恋なんてしないってこと?」
「したいよ……したい。凄くね?」
「まるでちぐはぐじゃない!」
「だからだよ。好きってどういうことなの? 欲しいって気持ちってそれと同じことなの? そういうことについての理解とか学習とか……うまく言えないんだけどさ、経験、かな? まるでよくわからないんだよ」
 シンジはそう言って自分の両手を見つめた。
「普通なら……僕たちが普通じゃなかったあのくらいの歳の頃に経験するようなことのはずなんだ。そこから覚えることだったのかもしれない。アスカは……アスカは女の子だから、僕よりちょっとだけそういうことを覚えるのが早くて、加持さんとかにじゃれついたりしてたけど」
 視線を戻す。
「僕はその前に機会を失った。……僻んでるわけでも恨んでるわけでもないよ。自分で潰したのも事実だから、結局自分が馬鹿なだけなんだけど」
 でも──。
「なんだか唐突なんだよ、綾波のこともアスカのことも、洞木さんのことだってさ。想像もしてなかった。なのにいきなりこんな展開になって、戸惑うしかないじゃないか。なのに僕はこのまま流されたってかまわないかななんて思い始めてて……」
「ばらばらね……。このままじゃいけないって思ったり、このままでも良いんじゃないかって口にしたり」
「だから落ち着いて考えたいんだよ。一人になってじっくりと考えてみたいんだ……自分なりの結論ってやつを見つけたいんだよ」
 アスカははぁっと吐息をこぼした。
「それがあんたなりの答えなのね」
「流されて後悔するのはもう嫌だからね」
 アスカはシンジを切なく見つめた。


−Rパート−


「行くのね」
「うん」
 ──空港。
 人が流れ行く中で、彼と彼女は見つめ合う……。
「でもなんでよ……なんでアメリカなの?」
 少女はどこか必死であった。
「他に選べる場所がなかったからだよ」
 少年は酷くそっけなかった。
「嘘よ!」
 少女はすがるようにして泣き叫んだ。
「それなら別に、この街のどこかでもよかったじゃない」
 しかし少年は振り払う。
「でもそれじゃあ君が……君たちが我慢できなくなるだろう?」
 少女は悔しげに唇をかみしめ、うなだれた。
「そうだけど……」
 言いつのる。
「あたしじゃだめなの?」
 かぶりを振った。
「……そうじゃないよ」
 少女は顔を跳ね上げ叫んだ。
「じゃあなによ! どうして……」
 だめなんだ。と彼は言う。
「なにもかもをやり直したいんだよ……僕は。でも過去に戻れない以上は、白紙になれる、誰も僕のことを知らない、どこにも頼れる人が居ない場所に行くしかないだろう?」
 けど……少女の手はさまよった。
「待たなくて良いよ」
 彼は荷を担ぎ上げた。
「自信が持てたら……帰ってくるさ。でもいつになるかはわからないしね」
 泣きそうになる。
「でもあんたが帰ってきたときに、あたしは寂しくて誰かと付き合ってるかもしれないのよ?」
 そうだね……と彼は答える。
「君は綺麗で、可愛いからね……」
「そうよ!」
 だから行かないでと彼女はすがった。
「あたしはその人とエッチして、いっぱい子供作ってるかもしれないのよ!?」
「うん」
「一人と付き合ってるんじゃないっ、適当に付き合ってたりするかもしれない、それでも良いのね!?」
「その時は……」
 振り返った彼の瞳は、とても悲しげに揺れていた。
「ちょっとだけ、失恋したなって、泣きそうになるよ」
 少女はくっとうつむいた。
「ほんとに馬鹿よ……あんたって」


 ──ウガァ────!
 どこかから聞こえて来た奇声に飛び起きて、シンジはなんだなんだと部屋を出た。
「アスカ!? どうしたの! アスカ!」
「だらっしゃあ!」
 ──バン!
 意味不明の叫び声と共に、ブォンと唸りを上げて飛んできたのは雑誌であった。
 ガンッと顔面を強打され、シンジはなにすんだよっと言い返した。
「いったいなぁ! もう!!」
 雑誌を拾い上げる。彼は気づかなかったが、開かれているページはちょうど先ほどのシーンが展開されているところであった。
「なんなんだよ、もぉ……」
「全部アンタが悪いのよ!」
「なんなんだよ、それ……」
 げんなりとするシンジである。
 どういうことなのだかリビングは全体的に荒れ果てていた。もちろんやったのはアスカである。
(まったくもぉ!)
 今すぐシンジが居なくなると言うわけでない。だから彼女は気を落ち着かせようとして漫画を読んでいたのだが……。
(なんでこんな話を載っけてんのよ!)
 苛立ち、がりがりと爪を噛む。
 考えてみれば普通どこにも行けないはずのサードチルドレンが、唯一移動できる場所があったのだ。
 ──国連本部。
 そのお膝元でもある街だ。そこには今まで彼と同居していた。元作戦部長殿が生息しているはずである。
 VIP待遇はもちろんであるし、政治的な意味合いでも歓迎されるであろうし、それだけに警備も厳重に行われようし、挙げ句にはミサトというマネージャーまで付録でつくはず……。
(ああくそっ! ほんとになんとかしないと、こいつ行っちゃうじゃない)
 もしそうなったならばどうなるか?
(せっかくドイツから来た意味がなくなっちゃうのよ!)
 これでは追いかけっこになってしまう……。
 ドイツから日本に渡るまでに十四年もかかったのだ。もしシンジが居なくなったとして、今度シンジを追えるまでになるのは、一体何年後のことになるのであろうか?
(そんなの嫌よ!)
 しかしシンジの言い分もわからないではないのだ。
 自分はドイツでやり直した。だがそんな自分を追いかけてやって来たにもかかわらず、シンジは遠い異国……彼にとっての故郷で、答えの見えぬ日々を、ただ悶々としてやり過ごして来ていたのだろう。
 そんな彼は、先日、ようやくこの自分から、一つの答えを見いだしたのだ。
 旅とはすなわち、変わりたい、変わるんだという、彼なりの気持ちの表れでしかないのだろう。
(それを引き留めるのは無理よ……)
 こんな気持ちだったのかな? アスカはシンジをじっと見つめた。
 彼が悪いわけではない……だがあの赤い世界で、自分は彼にはない、彼に求めても無駄ななにかを満たしたくなって、彼を振って、この世界へやって来たのではなかったか?
 それをやり返されたからと言って、彼になにを言えるだろうか?
 彼もまた同じ道を辿ろうとしている、それがわかっているというのに……。
 一体何を言えるだろうか?
(言えるわけがないじゃない……)
 ──だから、とりあえずは、ヘッドロックをかましてみた。
「痛い、痛い、痛いってばぁ!」
「ああもう! みんなあんたが悪いのよ!」
「僕がなにしたっていうんだよ!?」
「なんにもしないアンタが悪いの!」
「はぁ!? わけわかんないよ! 人の顔じっと見たかと思ったら今度はこれで、どうしろっての!?」
「そんなのあんたが考えなさいよぉ!」
「うわぁああああ!」
 ドッスンと凄い音がして、後には静寂が訪れた。


−Sパート−


 二人だけの家である。
 それももう寝ていても不思議ではない時間帯である。
 ……そればかりではない。
 元々このマンションには住人が少ない。高級マンションであるばかりでなく、度重なる怪獣の襲来に、疎開する人間が増えたからだ。
 各階に一つ二つの灯りが点っているのが普通であった。
 そんなマンションの……最上階である。
 シンとした空気は耳に痛く、物音一つ聞こえない。
 階が低ければ車の音くらいはするのだろうが、それもない。
 不自然なまでに二人は息を殺していた。
 ──シンジとアスカ。
 もつれ合うようにからまったままで倒れた二人は、どこがどうなったのか、シンジの胸に、アスカが覆い被さる状況となっていた。
「ちょっとアスカ……重いよ」
 むっとしたのか、アスカはもぞもぞと動いて足を絡め……さらに腕まで決めた。
「痛い痛い痛い!」
「女の子に重いとか言わない!」
「わかったよぉ……」
 どうしたんだろうと、ほっと力を抜いたアスカを見下ろした。
 とはいえ、髪にむせることになって、顔を見ることはできなかったが。
「ねぇ……アスカ」
「なによ」
「なんだか変だよ……おかしいよ」
「だからなにがよ?」
 つい不機嫌な調子になってしまったのは、どうしてこう雰囲気というものを察することができないのかと、苛ついてしまったからであった。
「なんでそんなに甘えん坊なの?」
 思わぬ攻撃に、アスカはぐっと大きく唸った。
「う゛……な、なによ、良いじゃない別に」
 とたんに黙り込むシンジである。
「なによ?」
 不安になったのか、アスカはシンジの体を小刻みに揺すった。
「なんとか言いなさいよ」
「ごめん……」
「いきなりなによ」
「勝手なことを思っただけだよ……こっちに来て、アスカはいろんなことあったんだろうなって思ったんだ」
 アスカは小さく顔を上げた。
「妬いてくれてんの?」
「そうかもしれない……胸がうずくんだ」
「……なんにもないのに」
「でも今のアスカと、昔のアスカが、僕には繋がって見えないよ」
「だからあんたの知らないようなことがあったんだろうなって思ったんだ?」
 そうだよとシンジは首肯した。
「だってさ……、あの頃のアスカは恐かったじゃないか? ちょっとでも機嫌を損ねたら捨てられるんじゃないかって感じだったよ。でも今はアスカから甘えて来るじゃないか」
「あたしだって、我慢してたんだからね」
「じゃあ今は我慢しなくても良いんだ?」
「そうよ」
「それってどうして? みんながいるから?」
「馬鹿ねぇ」
 シンジの胸に耳を当てる。
「あそこじゃ、二人で潰れるしかなかったから、どっちかがしっかりしてなきゃならなかったじゃない……。でもここじゃあちょっとくらい甘えてたって、みんながなんとかしてくれるもん。だったら素直になったって良いじゃない」
「そっか……」
「そうよ」
「みんなが居てくれるから……か」
「シンジ?」
 アスカは再び顔を上げた。
 シンジの顎元から彼を見る。
「どうしたの?」
「……あの頃と変わらないんだな」
「あの頃って……」
「あの頃のアスカも、今のアスカも結局は同じだ。安心してなんでもできるようにしてしまってから、興味を次々と移してくんだ。あの頃はよく僕を叱ってくれたよね? 面倒も見てくれたよね? でももう大丈夫だろうって思ったら、かまってくれなくなったよね? 今度も同じかな……」
「今度は……違うわよ」
「なんでそう言い切れるのさ?」
「だってあたし……あんたと付き合って、結婚してさ? コドモ作るつもりだもん」
 はぁ!? っとシンジは驚き起きあがろうとしたが、逆にアスカに組み伏せられてしまった。
 両手首を押さえつけられ、真上からじっと青い瞳に見つめられ、射すくめられて動けなくなる。
「アスカ……」
 左右にかかる金色のカーテンが、奇妙な空間を作り出す……とても狭く、息苦しくて……気恥ずかしい世界だった。
「シンジ……」
 アスカはことさらに意識させるよう、唇をなまめかしく動かした。
「あんた。アタシをオカズにしてたじゃない……やーらしいことしちゃってさ」
 シンジは眉間に皺を寄せた。
「それが……なんだよ」
 あくまでも真面目に、アスカは訊ねた。
「今はもう……してくれないの?」
 シンジは顔を横向け、背けた。
「しない……違うな、できないよ、もう」
「なんでよ」
 どこか泣きそうな声でアスカは責めた。
「ねぇ? なんで……」
「思い出しちゃうからだよ……」
 両腕はアスカに掴まれて動かすことができない。アスカの股が股間の上に乗っているので、シンジの顔色はとても悪くなり始めていた。
 ──興奮とは真逆の方向へ落ちている。
「僕だって我慢できなくなることはあるよ……でもできないんだ。すぐに冷めちゃうんだよ。あの頃のことを思い出すから」
「それって、萎えるってこと?」
「そうだね……」
 顔を歪める。
「今は……、二人っきりだから、正直考えるよ。好きだって言えばどうなのかなって、アスカはさせてくれるのかなって」
「…………」
「想像するよ、受け入れてもらえて、抱かせてもらえるかなってさ? でもね、だめなんだ……。どんなに想像しようとしたって、あの頃のことが思い浮かんで……。アスカに、アスカにいやらしいって目で見られて、馬鹿にされてた頃のことが思い浮かんで、そんな自分に嫌気が差して……わかるだろ?」
 それともわからないかなと自分を笑った。
「自分で自分がおかしくなるんだ……なに考えてるんだって、また馬鹿にされたいのかって、あれだけ馬鹿にされてまだ足りないのかって、情けなくなるんだ……」
 どうせまた何を考えているのよって言われるだけなのにって……シンジはそう告白した。
「でも」
 アスカはそんなシンジの答えに、わかる、と小さく呟いた。
「あたしだって……、加持さん、好きだもん」
「そう……」
「うん……でもだめ。どうしても足踏みしちゃって、覚えてるようには甘えられなかった」
 ドイツで彼に『再会』したときのことを思い出す。
「もう、昔みたいにあこがれてるワケじゃないけど、甘えたいくらいには好きだもん。でもできないのよ……あたしに冷たかった加持さんのことを思い出しちゃって、最後にはあたしなんて置いていなくなっちゃったしね? そういうこと全部思い出しちゃって」
「じゃあなんで僕なんだよ……なんで」
「だってあんたじゃなきゃ、だめじゃない」
「…………」
「今更他の男をあたれって言うの? あんたより楽に恋できるから? でもあんたほどあたしを理解してくれる人間は現れないわ。あんたくらいにその人を理解できるようになれるとも思えないしね?」
 シンジは独り言のようにつぶやいた。
「だから……僕だって言うのか」
「そうよ」
 凄いなとシンジは力を抜いた。
「アスカはまだ前に進めるんだ」
「どういう意味よ」
 小首を傾げる。ついでにそろそろ辛くなってきたのか、アスカはシンジの胸に乳房を潰した。
 重さを預ける。
「あんたっていっつもそうよね……勝手に結論出すから着いて行けないのよ」
「……そうかもしれないね」
 言いにくいけどと、シンジは答える。
「一番簡単なのはさ……僕はもう諦めてるってことなんだ」
「諦めてる?」
「そうさ。誰かを好きになって、好きになってもらえるように努力して、喧嘩することがあっても、頑張っちゃってさ……そういうの、もう面倒で嫌なんだよ」
 だからとアスカは問いかけた。
「あたしには期待しないっていうの?」
「吐きそうだよ……正直ね?」
 それがシンジの答えであった。
「恐いんだ。なにもかもが……だったら一人の方がまだ気楽だよ」
「そんなの逃げてるだけじゃない」
「そうだね……でもあそこじゃ逃げ場所なんてなかったけど、ここにはいくらでもあるから」
 アスカは悔しげに問いつめた。
「その一つが、ヒカリなの?」
 ううん、違うよとかぶりを振って否定する。
「洞木さんは関係ないよ」
「嘘! あんた期待してるじゃない、ヒカリには」
 落ち着いてと目で諭す。
「だって洞木さんとは……あんまり話したことがなかったからね。さっきアスカが言ったじゃないか、洞木さんとなら楽に恋ってできるんだよね、する気はないけど」
 でも最近、妙な雰囲気になることが多いんだよなぁと邂逅する。
「流されてそういうことをしちゃうとか……なっちゃうっていうのが、一番僕らしいんだろうな」
 嫌よとアスカは訴えた。
「あたしが好きだってこと、もう伝えてあるのに、それでもあの子を選ぶの?」
「アスカに好きって言われても、僕には信じることなんてできないよ。温度差があるって言えばいいのかな? アスカはあの頃、僕のことをどう思ってくれてたの? ……僕はただ。アスカの後をペットみたいについて回ることしかできなかったよ。かまって欲しいって訴えてることしかできなかった……。アスカだってかまってくれたのは気が向いた時だけだったじゃないか。僕は最後までそれを反芻してるだけの毎日だったよ」
「シンジ……」
「好きとか、恋なんていらないよ。どうせなら愛して欲しい。でもアスカに人を愛することなんてできるの? 慈しむとかできるの? 愛情ってものは知ってる?」
「……あたしには、ないっていうの?」
「あったとしても、アスカは子供が欲しいんでしょう?」
 僕は父さんと同じだとシンジは言う。
「愛情を二分割されるくらいなら、子供なんていらない」
「シンジ……あんた」
「僕だけを包んでくれればそれで良いんだ。でもそんな都合の良い人がどこにいるのさ?」
「それはそうだけど」
「父さんも母さんもさ? 綾波もアスカも洞木さんもそうじゃないか。自分達で勝手なこと想像してさ、自分勝手に幸せってこういうものだっていうのを考えちゃってさ、そこに収まってくれって僕に言うんだ。でも僕には窮屈なだけじゃないか。アスカたちはそれで嬉しかったり楽しかったりするのかもしれないけど……僕はもう、あの頃みたいな生き方は嫌なんだよ。ごめんだ。かまって欲しいって、でも鬱陶しいって思われるのが嫌で、気まぐれを起こしてくれないかなって泣きそうになりながら、寂しさを堪えてじっと振り向いて欲しいなんてこらえてるのなんて、もう嫌なんだよ」
 ──それなら。
「それなら……、一人で自分勝手に生きてく方がいくらも気楽だ」
 アスカはスンと鼻を鳴らした。
「あんたは……それで良いの?」
 切なすぎるという訴えは通じなかった。
「……この間も話したじゃないか。いくら話したって同じだよ。母さんなんかは僕が欠けたら意味がないって言ってくれるよ。でもさ? 僕には未来なんて夢見ることはできないんだよ、恐いから……そんな僕に欠けて欲しくない人なんているわけがないだろう?」
「シンジ」
「どうせ切なくなるだけなんだ……悲しくなるだけなんだよ。寂しくなるだけなんだ。どんな未来を思い描いたって、僕は」
 アスカは右手を、そっとシンジの頬に当てた。
「あんたが思ってる未来ってどんななの?」
「……なんでもないよ」
「いいから聞かせて」
「……ろくでもない未来だよ」
 目を伏せる。
「寂しくなったときに……気が付いてもらえたらそれで良いんだ。どうしたのって言ってもらえる、そんな人が僕を好きでいてくれないかなって、それだけさ」
 だが、そんな人は現れなかった。
「いつだって僕は……」
 ぐっとこらえる。
「……かまって欲しいときにはさ? 話しかけてみたりとか、よけいなことをしてみたりしたんだよ。でも怒鳴られただけだった」
「それが悲しかったのね……」
「アスカだってそうだったじゃないか、僕が話しかけても鬱陶しいって言ったじゃないか」
「…………」
「だから、もう、アスカに期待するつもりはないよ。無駄だってわかってるからね? 母さんや綾波にもしないさ、あの二人も結局は自分の人だから。居て欲しいときに居なくなったもの。仕方ないなんて知るもんか。洞木さんは論外だよ、最初はトウジのことがあったからだった。でも今は僕のことなんて見てもいないよ、一人ではしゃいでるだけなんだよな。結局、いつもそうだ……僕の好きになる人は……あこがれる人はみんな自分勝手で……、いや、自分勝手なことを僕もしたいんだな、だからあこがれちゃってたのかな?」
 わかんないな。──シンジは目を閉じた。
「自分勝手だって言うんならそれでも良いよ。今はもう好かれたいって気持ちよりも、嫌われてる方が楽なんだよなって悟ってるから。好きになって欲しいって願ってたって、良いことなんてなにもなかった。好かれるように振る舞ってたって、ホントの自分はいつも泣いてた。だったら、もう、望まない、期待もしない」
「おこぼれにあずかって生きて行くっていうの? これから……」
「そうだね」
「そんなの」
「洞木さんのことは、おこぼれの範疇だよね? 元気になったら、きっとトウジたちのこととも向き合うようになるだろうさ。その時になったら僕のことなんてどう思うか」
 煮詰まってるのね……アスカはキスして、口を閉じさせた。
「もう良いから……」
「追いつめたのは、アスカじゃないよ。僕が勝手に」
「でも絶望させたのはあたしなんじゃない……あたしがあんたのことを気にしてたら」
「アスカは十分気にしてくれたよ」
「どこが……」
「本当なら、僕のことなんて捨てちゃうのが普通だったんだ。アスカが一人で戦ってたとき、僕はもう嫌だってしゃがんでた。アスカが助けてって言ってるのがわかってたのに、いつも僕は臆病になって逃げてたんだ。僕が言ってることなんて、自分勝手な甘えなんだよ。それもわかるんだ」
「わかるわかるって……」
「いつからだろう……心がばらばらになって来てる。甘えが出そうになると、それを馬鹿にする僕が出るんだ。でも最初から興味を持たれないようにしようと思うと、今度は寂しいって気持ちになるんだ」
「そんなの、当たり前じゃない」
 そっとシンジの首に抱きつく。
「あたしだってそうよ……でもあたしは信じてる。あたしにはシンジが一番なんだって気持ちは、思いこみなのかもしれないけど、それでもシンジが一番なんだってこと、あたしはどこまでも信じるつもりよ」
「でも僕は、いつも弱虫で、泣き虫で……臆病者だ。このままアスカが同情してくれてれば良いなって思っているよ。そんな僕の本心を知ればきっと情けない、ウジウジするなって苛つくんじゃないかってことも考えている。僕はもう、単純に生きたいのかもしれないな……目の前のことだけを消化してさ」
 アスカの背に腕を回し、シンジは彼女の首元に顔を埋めた。
「初めてだね……アスカが抱きつかせてくれたのって」
「…………」
「でも……ちっとも、温かくないよ」
 シンジは呻くようにそう言った。


−Tパート−


 アスカは弐号機を見上げていた。
 この弐号機には母を感じない。母の匂いはあっても、心地よさは感じられない。
 だがこうして見つめ合っていると、なんとも言い難い親しみがわいてくるのだ。
「アスカちゃん?」
 そんなアスカに話しかけた者があった。
「ユイさん……」
「どうしたの? こんな時間に」
 もちろん不夜城であるネルフ本部だ。だが夜はそれなりに静かである。
「帰らなくて良いの?」
「弐号機と話したくなって」
「弐号機と?」
 ユイは首を傾げてから、彼女の視線の先を追った。そこには弐号機の顔がある。
 顎を見上げるようにして、四つの目が揃っていた。
 彼女はアスカの横顔と、弐号機の面を見比べた。
 ──緑のレンズの内側で、ぎょろんと眼球が動くのが見えた。
 ユイはぎょっとした後ずさった。
 はっとする。
 アスカが見ていた。
「あ、えっと……」
「恐いですか? 恐いですよね」
 でもと告げる。
「シンジと初号機は、もっと」
「え……」
 ユイはゴクリと喉を鳴らした。
 少なくとも、シンジがこんな風に会話していたという情報はない。
「アスカちゃんは……」
 アスカは小首を傾げてユイを見上げた。
「なんですか?」
「その……前? 前世って言った? そこでシンジと暮らしてたのよね」
 アスカはこみ上げてくるおかしさを堪えるのに苦労した。
 加持を見ていれば、おかしな勘違いをさせてしまっているなとわかるからだ。それでも否定はしていないのだが。
「はいって言っても、全部で二年か三年か……そんなところですけどね」
「え!? たったそれだけ!?」
「おかしいですか?」
「でも……アスカちゃんはシンジのことが好きなんでしょう?」
「はい」
「たったそれだけで、そんなに好きになれるものなの?」
 時間が愛を育てるものだというのが彼女の持論であった。
 故に短期間で燃え上がった恋は、間が開けば冷めるものだとユイは考えていた。
「わたしにはわからないわね」
「そうでしょうね……でも」
 かぶりを振った。
「あたしとシンジは、愛し合っていたわけじゃないから」
「そうなの?」
「好きでもなかった。ただ甘え合ってたんです。でも甘え方が下手で、甘えさせるのも上手じゃなくて、結局近づくことができなくて」
「今も?」
「あたしは甘えん坊なんですけどね……」
 シンジがと苦笑すると、ユイはそうねとそれを認めた。
「シンジはなんだか大人すぎて……」
「…………」
「自分の考えがしっかりしてて」
「扱いづらい?」
「正直ね」
 そっかとアスカは嘆息した。
「だからか……」
「え?」
「あいつ……ここを出て行きたいって言い出してるでしょ? みんながかまい過ぎるからかなって思ってたんですけどね」
 非難する口調で告げる。
「あいつ、息苦しくなったんだ」
「……あんまりべたべたしようとするから?」
「違います」
「違うの?」
「はい。あいつ、結構なおしゃべりでしょ?」
 それが変わってないって証拠なんですよと解説した。
「ユイさんは知らないかもしれないけど、あいつって臆病で、弱虫で、いじけてて、ほんと、ロクでもないやつだったんですから」
 想像もできないわねとユイは答えた。
「それが今じゃあんなにしっかりとしてるってこと?」
「いえ、変わってません」
「変わってない?」
「はい……よくしゃべるのは、自分に自信がないからですよ」
 自分を隠そうとしているのだという。
「本当の自分がどんなに意気地なしなのか? あいつは理解しているんですよ。だから必死に言い聞かせてるんです、自分にね? これはこうなんだ。あれはああなんだって、みんなに聞いてもらうことで、それは正しいなって認めてもらいたがっているんですよ。そうすればこれで良いんだって確信を持つことができるから」
「でも……」
「ずっと考えてたんでしょうね……いろんなことを。その一つ一つをくり返し検証してきてるから、すらすら口から突いて出ちゃうんですよ」
 ユイは彼女の青い瞳をじっと見つめた。
「それは作られたシンジなのね……」
「シンジが作った。シンジ自身ですよ。嘘じゃないけど……」
「本当でもない……か」
 ねぇとユイは問いかけた。
「そんなシンジの、どこが良いの?」
 アスカは口元に微笑を浮かべた。
「良いっていうか……しっかりしろって、発破をかけてやりたいって言うか」
 難しいなと口にする。
「ほっとけないし、放っておかれたくないっていうか……」
「そう……」
「でも、あたし、本当は……」
 弐号機を見上げる。
「パパになってくれる人が欲しいんです」
「……え゛?」
 パパ? ユイは彼女の横顔を凝視した。
「パパって言った?」
「はい」
 彼女はしっかりと頷いた。
「あたし……あたしをしっかりと抱きしめてくれるような、甘えさせてくれるような……そんなあたしの『パパ』になってくれる人が……欲しいんです」
 あ、ああ、そう……。ユイは非常にぎこちなく、それじゃあと引きつった笑みを浮かべながら退散していった。
 そんな彼女を通路で見かけた職員は、夢遊病者のような足取りで、彼女は奇妙なことを呟いていたと証言した。
「そう……そうだったの。おかしいと思ったらアスカちゃん、ゲンドウさん狙いだったのね? そう言えばレイもあの人には懐いているし、わたしも若い頃は入れ込んでたし。あの人って箱入りの子には妙にウケが良いから」
 ──そんなことは言っていない。
 アスカはただ。しっかりとした男の人を恋人に欲しいと言っているだけで、別にシンジ経由でゲンドウを狙っているなどとは一言も言っていなかったのだが……。
 ユイはこれまたいつものように、早とちりの勘違いをし、またしても完璧すぎるほど完全な誤解をしてしまったのだった。


「冬月先生」
「ああ?」
 コウゾウは将棋盤から顔を上げた。
 だがそこには、人に話しかけておきながら、いつものように仏頂面でポーズを取っている上司が居た。
「なんだ?」
「最近……肩身が狭いのですが」
「気のせいじゃないのか?」
 もちろんコウゾウは知っていた。
(レイばかりか、あの子までなぁ……)
 もちろんそれが誤りであるということは知っている。
(みんなも面白がっているからなぁ)
 本気で心配しているのはユイくらいのものだろう。
 しかし本部の人間は、みんなその噂に尾ひれを付けて楽しんでいた。
「モテモテだな」
「…………」
 ゲンドウはなんとも言い難い、情けない表情をして、腹心でもある家臣にすがるような目を向けたのであった。

−第五話 了−


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