──バスン!
 派手な音がして、カードに穴が空けられた。
 それはカードの失効を示すものである。カードには『SHINJI IKARI』と記載されていた。
「良いのね?」
 未練を残す確認の言葉に、彼は「はい」と頷いた。
「もう良いんです」
「……これからの生活には、かなりの制限が付くと思うけど」
「慣れましたよ、もう」
「そう……」
 会話しているのはミサトとシンジである。
 場所はネルフ本部の一角であった。
「あなたにはこのまま本部を……街を出て行ってもらうことになるけど」
 シンジは軽く肩をすくめた。
「よく許可してもらえたなと思ってます」
「…………」
「なんですか?」
「ううん……ただね、許可って言い方に不自然さがないなって思って」
「変ですか?」
 だってとミサトは食い下がった。
「おかしくない? どうして好きなところに、好きに出歩いちゃいけないのかって、そんな風に思うのが当たり前なのに」
 シンジは淋しく笑って見せた。
「僕はもう、当たり前じゃないんですよ」

−時と共に在ることを−

第六話、時と共にあることを

「行っちゃったか」
 駅前にはアスカとレイが、ミサトと共にやって来ていた。
 ミサトは車の中に残り、アスカとレイは、ドアの横に立っている。
 フェンスの向こうには動き出す列車があった。だが今出て行く列車は別のものだ。シンジの乗った車両はとっくの昔に駅を出ている。
 アスカは髪を掻き上げた。
「ほんとに置いていかれるとは思わなかったわ」
 レイはいつもと同じく素っ気なく答えた。
「そう」
 横目に睨む。
「あんたは? 平気なの?」
「いいえ」
「でも焦ってないじゃない」
「……碇君らしいと思うから」
「らしい?」
 二人はお互いの目を見つめ合った。
「あいつらしいって……」
 青の瞳に怒りが宿る。
「臆病者らしいってこと?」
「違うわ」
 赤の瞳には憤りがよぎった。
 この程度のこともわからないのかと……。
「思い詰めるときは、自分の中に篭もりがちになる……そういうところよ」


 がたん、ごとんと、古く懐かしい音がする。
 第三新東京市のモノレールとは違い、通常の電車とはこういうものだ。そういった旅の醍醐味を味わいつつも、シンジは窓枠に頬杖をついていた。
 使徒について不安がないわけではない……だがそれもシンジには居残る理由としては弱すぎるものであった。
(洞木さんのことは……心配だけどさ)
 今頃、盛大に罵っているのかもしれないが……。
(もう会えないっていうのはさ、死ぬってことと同じなんだよな)
 今頃どうしているのだろうか?
 そんな埒も明かないことを考える毎日が……気持ちをすり切れさせていく。
 そして、思い出さなくなっていくのだ。
(たとえ僕のことを嫌ったり、憎んだりするようになっていたとしても、僕が忘れてしまえば、なにも気になることはないし、後になって悩んだり、苦しんだりするようなことも、ないはずだから)
 体を起こし、シートに預け直す。
 気が抜けているというのが正直なところであったかもしれない。
 アスカの電話に始まって、彼女の到着を待つまでの間に、ヒカリと奇妙な関係になった。
 それでもやはり、あの奇妙な電話についての疑問が解けてしまった以上は……。
(……母さん以上にわからなかったのは、父さんだったけど)
 そういえばあまり話さなかったなと思い返し、シンジは口元に苦笑を浮かべた。
(前と同じ、それだけだよ)


「それで?」
 アスカはミサトの隣に、レイは後部座席へと乗り込んだ。
「シンジはどこに行ったの?」
「筑波よ」
「ツクバ?」
「そう、実験都市。科学都市でね、セカンドインパクト移行はセカンドインパクトの事実解明を主に行っているらしいわ。ここで倒した使徒の残骸なんかも、サンプルとして送られてるしね」
「へぇ……でも良いの? 情報の漏洩とか……」
「そんなの気にしてちゃやってられない……なんてのは嘘よ。ちゃんと国連監視の下で研究は行われているわ。もちろん古くからの実験も継続されてるから、色々とあるみたいだけど」
「ネルフの監視は?」
「入ってる。だからシンジ君の移住も認められたのよ」
 なるほどとアスカは頷いた。
「じゃあ……あたしたちとの縁が完全に切れたわけじゃないのね」
 ──ミサトは軽く苦笑した。
「あなたちがなんと思っていようとも、あの子はエースパイロットよ……たとえそれが、初号機と組み合って初めてそうなるものであったとしても、あたしたちが最後に頼るべきは彼なのよ」
「つまり……次に会えるのは」
 言いたくもないと濁した言葉を、代わりにレイが口にした。
「わたしたちに何かがあった。その時になるということね」
「彼もそのことは承知しているわ」

−Bパート−

「寂しいものね……」
 ミサトは本部内ラウンジから、夜の森を見下ろしていた。
 ぼんやりと頬杖を付きながら、マグカップを持ち上げる。
 広いラウンジには、ぽつり、ぽつりと人影があるだけだった。皆時間を潰しているだけなのだろう、用のない者は帰宅し、ある者は働いている……そんな中途半端な時間帯でもあった。
「シンジ君?」
 ミサトの独り言に対し、受け答えたのはリツコであった。
 彼女もまた。時間を潰している一人であった。
「確かに……火の消えたような感じはあるわね」
「違うわよ」
 ミサトはそうではないと否定した。
 カップを置いて、まじめな顔をしてリツコに伝える。
「あたしが感じてるのは……あの子が居なくなったってのに、なんにも変わらず動いてる。そのことが寂しいことだっていうことなのよ」
「…………」
「あの子たちも……シンジ君が欠けてもさ、ちゃんと毎日を過ごせてる」
 居ても居なくても変わらない。
 必要と思われていた存在が、実は大したことのないものであり、なんら困ることもない。
 だからこそ……。
「辛いわね……」
「ええ……」
 けど、と彼女は切り捨てた。
「それってさ……所詮はあたしが持ってる感傷に過ぎないのよね。もしシンジ君が今のあたしたちを見たらなんて言うと思う? 僕はいらない人間だったんだ……なんてさ? 言い出されたらと思うと切なくなって、辛いけど、でも本当にシンジ君が落ち込むかどうかっていうのは、単なるあたしの勝手な想像に過ぎないのよね」
 なるほどとようやくリツコは納得した。
「シンジ君だって、こっちのことなんて忘れてるかもしれないものね」
「そういうこと。あたしたちがそうであるように、彼にとってのあたしたちも、簡単に日常に埋もれてしまって、忘れ去られてしまうような相手でしかなかったのかもしれないということ。あれだけきつい時間を一緒に乗り越えたって言うのに、思い出にもしてもらえないような存在でしかなかったのかもしれないっていうこと、それがわたしには辛い。そういうことよ」


 ──おはよう。
 学校へと向かう坂道を登る頃には、彼女はさまざまな人から声をかけられるようになる。
 おはよう、おはようと、名も知らぬ相手からの声に、一つ一つ丁寧に会釈を返し、微笑みも向ける。
「さすがはアスカ……完璧な猫かぶりだね」
 彼女はむぅっと、背後を着いてくる灰色の髪の少年を睨みつけた。
「なによ……なんか文句あるわけ?」
 ──渚先輩! アスカはそう彼のことを呼んだ。
 アスカは二年生であり、カヲルは三年生であるからだ。
「いや、別に?」
 カヲルはしれっとした顔をして言いごまかした。その上で、後輩であろう生徒にやぁっと手を振った。
 きゃあっと喜びの声を上げて少女たちが手を取り飛び上がりはしゃぎ合う。
 アスカはその様子にげっそりとしてしまった。
「あんたってほんと外面良いんだから」
 にやにやとするカヲルに対し、なによと言うと、彼はとんでもないことをのたまった。
「妬いてくれてるわけだ」
「だっ、誰が!」
「そんなに照れなくても良いさ、傷ついている君の心は、ぬくもりを求めてさまよっているんだよ。だからシンジ君の親友であるこの僕が!」
「…………」
「なっ、なんだい?」
「馬鹿?」
 酷く醒めた目をして見つめられ、カヲルはいっそぶってくれないかと泣きついた。
「アスカちゃーん!」
「ええいっ、うるさいのよあんたわぁ!」
 そんなこんなで、アスカの二面性については周知の事実となってしまっていたが、だからといって彼女は嫌われることにはなっていなかった。
 親しい人間にだけ手加減をしないのだとわかるからであった。だからこそカヲルのように扱ってもらえることを願い、遠巻きに見たりしている少年たちの姿が生まれていた。
「へんたーい」
「キモーい」
「ばっかみたい」
 ……比例して、他の女子たちからは、どんどん嫌われていくのであったが。


「おはよう」
「はいはい、おはようさん」
 アスカはぽいっと鞄を机の上に放り出し、どっかりと彼女──レイの前の席に腰掛けた。
「ほんと! いっくら受け取らないって言ってもわかんないんだから」
 横向きに座って、そう思わないとレイに問いかける。
 それは下駄箱に詰められているラブレターについてのことなのだろう。レイは、彼らも必死なのよと、弁護するようなことを言った。
「なんで?」
 素朴な疑問に、考察した結果を述べる。
「彼らはあの人のことを、あなたの恋人……ではないにしても、親しい人だとは思っているわ」
 さすがのレイも、彼女に睨まれると恐いらしい。
 目をそらして言い直した。
「みんなも彼のように、あなたに扱ってもらいたいのよ……でもそれは変態と呼ばれてもしかたのない姿よ? そんな人間……俗に言う下僕となりたがっているなんてことが知られたら」
「まあ、普通の女の子は気持ち悪がって、近寄るな変態! って思うでしょうね……あ、だからか」
 ポンと手を打つ。
「あたしと友達になりたいけど、でもそうすると彼女なんて諦めなきゃいけないわけで」
「でもあなたを諦めたからと言って、彼女ができるとも限らないわ」
「……ありもしない可能性に賭けるよりはって、自棄になってるってこと?」
「そうかもしれない」
「……せめて、他の全部を投げ出してでも、あたしを取ろうとしてるとか、そういう言い方はできないわけ?」
「……それを専門用語で、『ズ○ネタ』と言うのよ」
 ──教室内の空気が凍った。
 どうも皆で聞き耳を立てていたようである。
「レ〜〜〜イ〜〜〜?」
「……な、なに?」
 ビクビクとしているレイに笑顔のままで迫っていく。
「あんたねぇ……」
「……洞木さんが言ってた。アイドルとオカズは同義語だって」
 ヒカッ──アスカはそう叫びかけて言葉に詰まった。
『ここ』ではそんな風に呼び合える仲ではないからだ。
 矛先が逸れてほっとするのもつかの間、レイはアスカの微妙な表情を見てしまった。
 それはとても寂しげなものであった。

−Cパート−

 ──筑波研究学園都市。
 その昔、冷戦というものが存在していた時代の話である。非常時を見据えて都市機能を移転できる街をと計画されたのがこの巨大施設群であった。
 だが現実には首都の移転先として第三新東京市が計画され、この地は今に至るもただの『公務員の街』である。
「もう半世紀以上も前の話だからよくわからないんですけど、街が開かれた当初は大学とかって推薦でばかり人を取ったり……そんなことばかりしてたみたいですよ?」
 なんだかなぁというのがシンジの素直な感想であった。
 街はセカンドインパクトの動乱期を経て、多少なりとも変化はしている。
 泥の中に消えた旧首都圏。それは動乱期に落とされた爆弾が原因であるのだが、この影響は筑波にも多少なりとも響いていた。
 第二東京と呼ばれることになった長野に、暫定的な政府機能が移転されるまでの間は、この街から様々な指示が飛ばされていた。
 そのため、政府高官の家族などは、未だにこの街にとどまっている。同時に、一時的であったはずの駐屯部隊も、常駐し、基地を開いている有様だった。
 シンジを案内しているのは、そんな軍隊に所属している少年兵であり、名前を霧島マナ三等士と言った。
 ──だから、なんだかなぁ、なのである。
 モスグリーンの軍服を着て、赤いベレー帽を被り、胸を張って歩く姿は、どう見てもシンジが知る『霧島マナ』とは繋がらないし、重ならない。
 堅苦しい物腰と、あまりにも規律を重んじる口調……全てが壁となって感じられる。
 ……そんな格好の少女が平然と歩けるのがこの街であるのだが、そのような少女に案内を受けている学生服の少年の姿は、輪を描いて奇異なものとして盗み見られていた。
「どうかなさいましたか?」
「あの……」
 シンジは声を潜めてお願いした。
「なにかちょっと目立ってるんですけど……」
「ああ……みんな知ってるから」
「知ってるって?」
「あなたがサードチルドレンだってことをですよ」
 それ、絶対違うと思うな──シンジは注目されている理由を他に感じていたのだが、それを口にすることはなかった。


 使徒という最高の研究素材は山のように送られてきているし、それを調査する権限も与えられている。
 ネルフからの技術提供も受けているのだ。
 なのに、遅々としてなにも進んでいないのが、セカンドインパクトから十年後、第二ゲヒルンとして出発することになったこの街の中央研究機関の実情であった。
「そこに君のような人材が来たとなれば、みんな少しは浮かれもするさ」
 シンジはジト目で彼を睨んだ。
「なんでここに居るんですか? 加持さん……」
 ここは所長室のはずである。
 地上四階建てのビルの最上階だ。主な研究施設は地下十階、あるいは二十階と言った深い位置にあるという。
 シンジはパリッとしたスーツ姿の加持リョウジに、とても不審げな目を向けていた。
(だって……)
 アルバイト……そして死のメッセージ。
 シンジには心を許すことができない理由があった。
「俺も所長に呼び出された口でね……」
「所長?」
「山岸さんって言うんだが……なんでも国連から研究所の管理を委託されているそうでね、お嬢さんが確か君と同じ歳で……どうした?」
「……いえ」
 シンジはめまいを感じてよろめいていた。
(どこに逃げたって同じってことか)
 いや、知り合わなければ、なかったままになっていたはずのことである。
 事態を面倒にしてしまっただけかも知れない。
 シンジは何かを諦めつつあった。

−Dパート−

「碇シンジです。第三新東京市から転校してきました……よろしくお願いします」
 はいと教師は空席を指さし、シンジに指示した。
「それではそこの空いている席に座ってください」
 視線を感じながらもシンジは歩く。転校生に向けられる好奇の視線には慣れている。問題はその中に、無視しきれない人の目が混ざり込んでいたことだった。
「えと……よろしく」
 シンジは遠慮がちに挨拶をして、無難にすませようと試みた。
 返されたのは、とても戸惑いがちな会釈であった。その少女の気に障らないように、多少態度に気を付けながら、席に着く。
(まあ、それが当たり前なんだよな……)
 隣の席に座る少女は……メガネを愛用してはいなかったし、髪もセミロングにカットしていた。
 それでも口元のほくろは同じように付いていた……彼女は、山岸マユミと、そう言った。


「どう? 調子は」
 ──ネルフ本部。
「最悪ですね……レイはまだ良いんですけど、アスカちゃんが」
 マヤの返事に頷いて、リツコはマイクを握って声をかけた。
「アスカ、集中して」
『やってるわよ!』
 いらだつ声に、確かにだめだと嘆息する。
「うまくいってると思ってたんだけど……」
「いってましたよ」
 カヲルである。
「ただ学校に酷く嫌な子が居ましてね」
「誰?」
「洞木ヒカリさんですよ」
 その名はリツコも知っていた。


「アスカ?」
 カヲルはコンコンと部屋の戸をノックした。
 旧葛城邸、現在の惣流邸である。人の気配は伝わっているはずであったが、勝手に上がった手前もあって、カヲルは丁寧に礼儀を守った。
「みんなも心配しているよ? いつまでも休んでいるわけにも」
 他に、レイも共に訪れていた。彼女は広い部屋だったのだなと、空虚な室内を見渡していた。
 家族で住まうべき居住空間なのだから、広いことは当たり前なのだが、そうなれば一人で住むには無駄が多い。
 自室があれば事足りるというのに、なんのためのリビングなのか?
 広さは寒さを覚えさせるし、空虚さも感じさせるものである。キッチンにはペットボトルやレンジ食品のトレーが積み重ねられていた。人が来る、人を呼ぶことすらもないのだと、今のアスカの交友関係を知ることができた。
「人の気配がないね……」
 カヲルの確認に、レイはこくりと頷き、代わった。
 引き戸に手をかけてがらりと開く。知った仲にも礼儀ありと、カヲルはレイに任せて部屋の中を見なかった。
「どうだい?」
「居ないわ」
「留守……ではないね、逃げたかな?」
「いいえ……」
 レイは戸を閉め、行きましょうと誘った。
「どこかに行っているんだと思う」
「でもその場所はわからない……か」


 ──洞木ヒカリは不機嫌であった。
 惣流・アスカ・ラングレー……転校してくると同時に人気者となった彼女に対し、アプローチは様々な方法で展開された。
 ヒカリが姉から頼まれたのも、そんなパターンの一つに過ぎない……はずであったのだ。
 コダマとしては、シンジが居なくなってしまったことで不安定になっている妹に対し、会話に困ってそのような話もある……と告げてみただけに過ぎなかった。
 そしてヒカリは、そんなの知らないと、気分を悪くしただけだった。
 姉妹としては、そこで終わるはずの話であったのだ。
 なのに先走ったコダマの友人が中学校の校門で待ち伏せをしたことから話はおかしくなっていった。デートへと誘いに来たのだと言うのだが、アスカとしては「はぁ?」っと言う他ないことであった。知らないのだから、無理もない。
 少年はコダマに確認を取っていた。伝えてくれたかと。コダマはその言葉を妹へのものだと勘違いして伝えたと答えた。だが少年はアスカの返事はどうだったのかというつもりで訊ねていたのだ。
 彼は了解が得られたのだと勝手に一人で盛り上がってしまった。自慢した。
 もはや後戻りが許されない状況へと陥ってしまっていたのである。
 校内の……特にアスカに対して妬心を抱いている少女たちは、アスカは実はと、うわさ話を広めていった。無論事実無根の話であるのだが、教師陣は放置はできないとアスカを呼び出し、彼女の素行についてを注意したのだ。
 もちろん、アスカは言い返した。
 自分はネルフに所属しており、その行動の一部始終は護衛名目で監視されてもいるのだから、潔白などいくらでも証明できると。しかしこれはかえって逆効果となり、学校側を引け腰にしてしまったのだった。
 ネルフの名前に怯え、彼らは介入……というよりも、関わること自体を敬遠した。
 これらの事態は、大半の人間にとっては面白おかしいだけの些細な出来事に過ぎなかった……しかし親密な友人のいないアスカにとっては、災難だった。
 庇ってくれる人はおらず、慰めの言葉ももらえず、そして信じていると声をかけてももらえなかったのである。
 彼女は孤独感からむなしさを覚えて、通学をついに拒絶した。
 ──面白くない。
 もちろんそれだけであったのなら、アスカも引きこもりはしなかっただろう。しかしそのように自分を追い込んだのが、かつて親友であった洞木ヒカリであったと知れば、それは平静ではいられなかった。
 ──そこにあったのは、些細なすれ違いではあったのだ。
 ヒカリのところでもみ消されるはずだった願いごとは、勝手に生きて泳ぎ続け、挙げ句にははしゃいだ少年の話を聞いた。第一中学校に弟や妹を持つ少年たちをも動かした。
 洞木って名前の子を知ってるか? その子が話を通したらしい……そう噂が立てば、アスカを登校拒否へと追い込んだ直接の要因である事件の発端が、ヒカリの策謀であると誇張されるのに、大した時間は要さなかった。

−Eパート−

 アスカはぼんやりとゲームセンター前のガードレールに腰掛けていた。
「アスカちゃん」
 車道側に停まった車に顔を向ける。そこにはユイの姿があった。
「おばさま……」
 どうしたんですかと問うアスカに、ユイこそどうしたのかと訊ね返した。
「学校は?」
「つまんないからやめようかと思って」
 そんな簡単にと苦笑してしまうユイである。
「乗って」
「はい?」
「ドライブに行きましょう……暇なんでしょ?」
 にこにことするユイに苦手意識でも持っているのか、アスカはわずかばかりの逡巡をかいま見せた。


(だめだぁ……)
 液晶画面を見つめて唸っていたシンジであったのだが、彼はついに諦めて、体を起こして天井を見上げた。
(ぜんっぜんわかんないや)
 学習内容が高等すぎて、数字の羅列が記号以上の怪しいパズルに思えてしまい、シンジは頭痛を感じていた。
 ふと視線を感じて横を向くと、慌てて目を逸らす山岸マユミの姿があった。


「ふあぁ〜〜〜あ」
 廊下の窓枠に胸を乗せて、シンジはだらだらとした姿をさらした。
「碇さん」
 話しかけてきた少女に目を向けるとマナだった。
「どうしたんですか?」
 シンジは不機嫌な様子を隠しもせずにそれに応じた。
「そういうのやめてよ……」
「そういうのって……」
 おどおどとしているのは機嫌を損ねてしまったのではないかと考えているからだ。それがわかるからこそ、シンジは余計に不機嫌になった。
「あの……」
 はぁっと嘆息し、シンジは体を廊下側に向けた。
「霧島さんが敬語なんて使うから、みんなに避けられちゃってるんだよね」
「あ……」
「どういう奴なんだろうって見られてるんだよ」
 確かに迂闊だったかなと、マナからは反省が見られた。
 戦自に所属している彼女は、エヴァを駆って戦うシンジの戦闘記録をくり返し見ていたのだ。
 エヴァ自体の性能については機密に属することであっても、基本仕様は国連経由で明かされている。そこにはフィードバックシステムの弊害についても記載されていた。
 戦闘を行えば致命傷となりかねないダメージを体感できるシステムだということが、彼女なりの理解と感想の全てであった。
 ──なのに、彼は臆さない。
 戦闘のプロ……訓練を受けた兵士であるのかと思っていたが、こうして直に会えばそれは誤解であったことがうかがい知れる。
 隙だらけであるし、体を鍛えているわけでもないからだ。だとすればなぜに彼はそのような痛みと恐怖を耐えられるのか?
 そこに畏敬の元となるものがあって、マナはシンジに一歩下がった姿勢を取っていたのだが、そんな彼女の内心などは伝わることなく、ただ姿勢についてのうわさ話のみが広まっていた。
「まあ……霧島さんだって、好きでやってることじゃないんだろうけどさ」
「え?」
 マナは反射的に顔を上げた。
「好きじゃないって……」
「違うの? ……命令されてやってるんだろうなって思ってたんだけど」
 それはそうですけどと言いかけて、なんとかマナはとどまった。
 どこで聞き耳を立てられているかわからないからだ。
「わたしは碇さんを尊敬していますし、憧れてもいるんです。それじゃいけないんですか?」
 シンジはぐっと言葉に詰まった。
(マナの顔をして、マナの声でそういう風に言われるとさ、辛いんだよ)
 しかし、それは言ってはならないことであるし、言ったとしても、きっと通じない話である。
 ぼんやりとしてしまうと、彼女の桜色の唇に目がいってしまうのだ。未だにキスの感触を覚えている。しかしそれはもう二度と取り戻せはしないものである……いや、そうではないとわかっていた。
(取り戻しちゃいけないものなんだよな……きっと、あっちのマナの時はどうだったかなって比べて、もっと最低だなって気分に陥って)
 ロクでもない精神状態にまで落ち込んでしまうのだと読めてしまう。
(せめて山岸さんくらい違ってくれてたら良かったのにさ)
 ふいにシンジは……ああ、こういうことだったんだなと理解した。
 綾波レイにとても優しいまなざしを向ける父に、あの頃の自分は嫉妬していた。
 しかしこうして面影を追ってしまうことは、むしろ仕方のないことなのだ。
(よくないことだってわかっていても、それでも懐かしんでしまうんだ)
 思えばそのような葛藤が、ぶっきらぼうな態度として表れてしまうのかもしれない。
 語ることも、明かすこともできず、飲み下すしか無く。
 故に、口を開くことができず、結局はなにもかもを押し殺した姿をさらすしかない。
 それはとても悲しいことであるが、外面から気付いてくれる者などいるのだろうか?
(母さんはそうだったのかな……?)
 父にとって、母は気付いてくれた人だったのかも知れないと思う。
 返してこの少女と同じ顔をしていた人は、自分にとってそのようになりえた人であったのだろうか?
 シンジは考えるだけ無駄な話だと諦めた。
 たとえこの少女が彼女であったとしても、どのみちあの恋は果ててしまっているのだから。
 シンジは黒い肌の少年に嫉妬を覚え、まだ引きずっているのかと、そんな自分に驚いた。
 ──そして、そんなシンジと、シンジに熱いまなざしを向ける霧島マナとを、こっそりと覗き見ていた山岸マユミの姿があった。

−Fパート−

 学術方面に力が注ぎ込まれているだけのことはあって、図書室は中学校のものとは思えないほど、とても充実した内容の本が取りそろえられていた。
 もっとも中学生が読むとは思えない豪華背表紙の本も多かったのだが……。
 シンジはそんな背よりも高い棚の間を歩くうちに、懐かしい感慨にとらわれた。
 窓から差し込む白い日差しに目を細め、ちょうど右隣にあったえんじ色の背表紙に気を引かれる。
 指をかけ、倒すようにして手にとって、シンジは中程のページを広げてみた。
 どこかの国の物語であるらしい。海賊の話のようで、挿絵には陸と海と海賊船と、船が通った航路が軌跡として描かれていた。
「碇君?」
 ふっと日の光を遮った人影に顔を上げると、そこには短い髪型の女の子が立っていた。
 一瞬誰であるのか悩んでしまう。
「山岸です……同じクラスの」
 山岸マユミは、ほんの少しだけ表情を曇らせた。
 それは罪悪感をこみ上げさせるものであったが、シンジには彼女がどうしてそんな顔をしたのかわからなかった。
「ごめん……まだみんなの名前覚えてなくて」
「そうですよね。あの……」
 彼女は焦るように話しかけた。
「本、好きなんですか?」
「好きって訳じゃないけど……」
「どうしてここに?」
「なんとなく」
「そう……ですか」
 やりにくいなぁとシンジは頭を掻いた。
「山岸さんは?」
「はい?」
「本が好きなの?」
「好きでした……昔は」
 そう告げて、本棚に向かい、マユミは並ぶ背表紙をいとおしげに指でなでた。
「この中にはあたしを傷つけるものなんてなにもなかったから」
 くすりと笑う。
「暗いでしょう?」
「そうかもね……」
「そういう自分を変えてくれた人がいたんです……変わろうって思わせてくれた人がいたんです」
 期待しているのか? 上目遣いの……コンタクトレンズごしの瞳に、シンジはなにを言わせようとしているのか、マユミの意図を読みとってしまった。


「はぁ……」
 運動場の隅には鉄棒がある。
 手を伸ばして飛ばなければつかむことができないような高さのものだ。シンジは器用にくるりと逆上がりをして、その上に座っていた。
 青い空と、無邪気な中学生の群れ……サッカーに、バレーボールに、テニスにと、それぞれが昼休みのひとときを楽しんでいる。
「ここにいたんですか」
 よっとという声とともに、隣の鉄棒で少女がくるりと回転した。
 マナであった。
 こちらは片足を引っかけての回転であったので、スカートが多少のはしたなさを感じさせた。もちろん座ってしまえば関係のなくなることなのだが。
「お昼はどうしたんですか?」
「食べたよ」
「嘘です」
「なんでさ」
「お弁当、教室に残したままでしょ? 購買部にも顔を出してないじゃないですか」
「調べたの?」
「つけてましたから……」
 わかっているくせにと、そこには非難めいた色合いがうかがえた。
 もちろんその通りであったのだから、シンジはことさらに反応を示したりはしなかった。この少女はわざと目を引くように配されている監視要員で、ほかにも数名、そうであろうという人物を見つけていた。
 図書室に入ったときにも、そのうちの一人を見つけていた。だからマユミと会話したことは、この少女にも伝わっているはずである。しかしシンジは自ら口にしたりはしなかった。
 ……やぶ蛇となる可能性が、非常に高かったからである。シンジは彼女から訊ねてくるのを待って答えた。
「ああいう子が好きなんですか?」
「山岸さん?」
「はい」
 シンジは好きだよと正直に答えた。
「女の子は、たいていね」
 瞳を丸くし、マナは声を驚きの声を発した。
「碇さんって、そういう人だったんですか?」
「そういう人って?」
「女の子が好きって……」
 ああとシンジは納得した。
「好きだよ? 見てる分にはね……」
 怪訝そうにするマナに、彼女を見ないままで口にする。
「僕って、ふつうよりスケベなんだなって思ってた」
 ──思い出の中に、アスカと暮らした日々のことがよみがえる。
 無防備な彼女の二の腕に、太股に、胸に……欲情しなかったことがあったのだろうか?
「でもそれっていけないことだって思ってたから、隠してた……隠し切れてなかったけどさ」
 アスカには見抜かれていた。責められもしたし、いじめられた。
「気づいちゃったんだよな……僕って抱きしめられたり、膝枕とかしてもらう方が好きなんだ。アス……『カウンセラー』にも言われたよ。女の子とエッチがしたいんじゃなくて、自分の行為に反応する他人の姿が見たい……確認したいんだろうってさ」
「確認?」
「嫌われてない。それを確かめたいだけでしょうってさ」
 マナは首をかしげる。
「でもそれって、いけないことなんですか?」
 わたしの知り合いなんてと口にする。
「あたしの幼なじみなんて、一緒の部屋にいるとすぐごろごろ甘えてくるんですよ? 結構カッコイイのに」
「へぇ……」
「甘えてるみたいに……まあ、あいつはやらしいことがしたいだけなんだろけど」
 ぶちぶちと言い出す。
「想像……妄想してるようなことやりたいだけ……って、なに言わせるんですか!」
 シンジは「自分で言ったくせに」とくすくすと笑った。
「好きなんだ……その人のことが」
「そうじゃないですよ!」
「でも好きでもないやつに甘えられたって、気持ち悪いだけでしょ?」
「それはそうですけどぉ……」
「それに、甘える方だって、知らない人になんて甘えられないよ。気持ち悪いって言われるだけだってわかってるんだから、安心できる相手でないとさ」
 彼女は腐れ縁なのにとぶちぶちと言った。
「あたしって、都合の良い相手に見られてるのかな」
「なんでそうなるのさ?」
「妄想のダシにされてるってことは、対等の相手として見られてないってことなんじゃないんですか? 対等なら、シンジさんが言ったみたいに、こっちの反応をうかがったりするでしょう?」
 シンジは膝裏を鉄棒に引っかけたまま背後に倒れ、くるりと回って着地した。
 見上げて口にする。
「対等だからこそ、相手に選ばれてるんじゃないの?」
「シンジさんは選んでくれませんよね? わたしのこと」
「都合良く甘えさせてくれるような人なんていないって、痛い目にあってきたからね」
「…………」
「ま、泣き言だよ、気にしないで」
「そんな……」
「自立するしかないんだ。それはわかってる。だから他人に好かれようとか、好かれたいとか、人の目を気にしてられないんだよ。君の彼氏がうらやましいよ。疑う必要もない相手がいるんだからね」
「シンジさんには居ないんですか? お父さんとか……お母さんとか」
 その時に浮かべられた表情について、マナは形容する言葉を思い浮かべることができなかった。
 それは、儚いと呼べる表情であった。
「情けない僕を認めてくれるような人なんて……」
 シンジは、全く独り立ちできていないなと、自嘲した。


『気持ち悪いのよね。なんであんたってそうなのよ?』
 どこを思い返してみても、アスカとの生活に甘いものなどなかったのだ。
 なのにどうして、彼女はああも奇妙な思い込みをしていたのだろうか?
「なんだかわかんないよ……もう」
 ──シンジがそんなことを考えている頃、アスカは芦ノ湖のほとりに立っていた。
 浜辺にまで車で乗り込み、ユイはドアに腰を乗せるようにして待っていた。
 正面、少し先の波打ち際に、アスカがじっとたたずんでいる。
 なにを思い、見ているのか? 靴を押し寄せる波にぬらして、白く照り返す湖面をじっと一人で見つめていた。
「ふぅ……」
 ユイはそろそろいいかなとしびれを切らし、アスカの隣へと歩き出した。気配を察し、アスカが少しだけ目を向ける。
 何を見ていたの? そう訊ねられ、アスカは過去をと切り返した。
「過去?」
「馬鹿だった自分……でもいいですけどね」
 自嘲するアスカである。
「それって……あの、転生する前とかって話の?」
 くすりと笑う。
「難しく考えないでください」
「そうは言っても……」
「子供で、前しか見えなかった自分がいたんです。周りなんて見えなくて、そうでなければならないんだって思いこんでる自分がいて、そのためには周りの人を蹴落とすしかなくて」
「シンジとか?」
 神妙な面持ちで彼女はうなずく。
「でも、そんなことをする自分は、自分が目指してる自分とは違うってわかってもいたんですよね……それで行き詰まっちゃって」
 成長してないなぁって、見つめ直してましたと語った。
「この街に来れば……ううん、シンジに逢えば、なにかが動き出すんだって思ってました。でもなんにもならなくて……だったら離れるのもいいかなって思ったのに、やっぱりなにも動かないんですよね」
「周りが動いてくれるのを待ってるの?」
「それじゃあ意味がないですから……動きたいんです。なりたい自分だってあるのに、なれなくて……」
「たとえば?」
「かっこいい女の子」
「かっこいい?」
「男の子を振り回すような……そんな子」
 アスカは隠れて苦笑を浮かべた。
『あの街』を訪れた頃の自分は、まさにそうだったのではなかっただろうか?
 くったくなく男の子を振り回して、はじけるように笑っていた。
「なりたかった自分って、きっとあって、気づいたときにはそうだったのに、意識しちゃったとたんにそんな自分じゃなくなってて……」
 取り返すことはできない……取り戻せたと思っても、それはそうであろうと演技している自分であるから。
「シンジがいなくなるたびにわかるんです。反射的に口にしたり、言い返したり……そんなことをさせてくれるのって、シンジだけなんだなって」
「そう……」
「でもあたしって、ぜんぜんシンジの趣味じゃないんですよね……」
 あ〜あとアスカは空を見上げた。
「でもシンジがあこがれてるようなタイプって、あたしみたいな女の子だから、どうしたもんだか……」
 ユイはそんなアスカの独白に、声をかけるべきかどうか迷いを見せた。
 思っていたよりもずっと切ない女の顔をする子であったのだと、今更ながらに気がついてしまったからでもあった。

−Gパート−

 ──ぼんやりとしている。
 窓の外を眺めているシンジを見つめて、霧島マナは声をかけるかどうか迷いを見せた。
「碇君」
 そんなマナの隙をつくようにして、彼女からきっかけを奪ったのはマユミであった。
「あの……日誌」
「え?」
「今日の日直、あたしと碇君なの」
「そうなんだ……」
 ごめんと謝って、シンジは日誌を受け取った。
「どうすればいいの?」
「男子と女子で、別々に今日あったことを書くことになってるから」
「わかった……」
 日誌を開いて、彼は何事かを悩み始めた。前のページ、その前のページとめくっているのは、なにを書けばいいのかを調べようとしているのだろう。
「書けたら言ってね? 一緒に出しに行かなくちゃならないから」
「うん……わかったよ」
 なにがわかったよ、よ! ──と、マナはわずかに唇をとがらせた。
 おもむろに足を踏み出す。
「碇さん」
「……なに?」
 顔も上げないシンジに、さらに強くむっとする。
「今日、研究所の方に来てくれって、山岸さんが」
「ふうん……なに?」
 生返事をした後になって、ようやくシンジは気づいたのか、顔を上げた。
「どうしたの?」
 あからさまに不機嫌そうなマナに首をかしげる。
「なにかあったの?」
「あったかじゃないですよ」
「なんなんだよ……」
「もう、いいです……わかんないなら」
 ぷいっとそっぽを向いて……だが立ち去ろうとはしない。
 わけがわからないといった様子で、シンジは居心地も悪そうに日誌へと向かい直った。そうすると、今度は聞き捨てならない、妙な会話が耳に入ってきたのであった。
「山岸さぁん、次の発売日っていつですかぁ?」
「新刊期待してまぁす」
 シンジは目だけをちらりと向けて、なんのことだろうかと首をひねった。


「本を出してるんです……新世紀エヴァンゲリオンってタイトルで」
 少しだけ期待のこもった目をして、マユミはシンジを見やったのだった。
 連れ立ち廊下を職員室へと歩く。小説を出しているんです……それがマユミの返答だった。
「男の子がロボットのパイロットで、そこに女の子が転校してきて、女の子はその子に勇気づけられてって……」
「ごめん、読んだことない……」
「先々月に出たばっかりだから……」
 ほんとに本は読まないんですねと、マユミは落胆した様子を見せた。
「第三のこともあるから、ちょっと売れたんですけど」
「小説家なんだ。山岸さんって」
「そんな大げさなものじゃないんですけど……」
「すごいな……そういうの」
 本当にそう思ってのシンジの横顔に、マユミは言葉を失ってしまったようであり、シンジは横目に、彼女のその表情の意味を、ちゃんと読み取っていた。
 ──あなたのことなのに。
 彼女がここにいる自分と『誰か』のことを重ね合わせている。
 直感ですらない、そのようなものすら必要としない低い領域で、察することができるわかりやすさだった。
 使徒に取り憑かれていると知って、殺してくれと頼む彼女を叱ったのだ……。
 今にして思えば、よくもまあそんなことをができたもんだと、当時の自分を振り返る。
「碇君は……」
 しゅんとしてうつむいていたマユミが口を開いた。
 しかし、なにを口にしようとしているのかと自分を叱ったようであった。
 不自然な感じで、彼女は話題を切り替えた。
「クラブ活動をしないんですか?」
「……あんまり興味ないな、そういうのって」
 逃げてくれたと、シンジはほっとした。
「クラブって入らなきゃいけないの?」
「強制じゃないですけど」
「山岸さんは?」
「音楽部です」
「へぇ……楽器、弾けるんだ?」
「リコーダーしか吹けないんです」
「…………ぷ」
 口を手で塞いでそっぽを向いたシンジに、マユミはもうっと怒って頬をふくらませた。
「笑わなくてもいいじゃないですか!」
「ご、ごめん……」
 まだ肩をふるわせている。
「だって……音楽部だって言うから」
「リコーダーだって楽器なの!」
 そういう碇君はと切り返す。
「ハーモニカくらい吹けるんでしょうね?」
 笑うくらいなんだからと、非常に意地の悪い復讐だった……が、彼女はあっさりと返り討ちにあったのだった。
「チェロなら弾けるよ」
 マユミは、そうなのかっと、目を丸くした。

−Hパート−

チェロ−−第四弦、調弦
Johann Sebastian BACH
Suiten fur Violoncello Solo Nr.1
G-dur,BWV.1007
碇シンジ

 けぶるような光の中で、少年は微笑を浮かべて音を探る。
 学園敷地内の片隅にある、とても古い木造校舎の一室は、どこか柔らかな空気を持って、彼と聴衆たちにぬくもりを与えていた。

 ──重い音。

 久方の感触に酔ってシンジは弦の張り具合に手応えを覚えた。
 そして一息の間。

 ──演奏。

 クラシックなどに興味のないマユミにも、その曲には聞き覚えがあった。
(ああ……こんなことなら)
 ピアノくらいは習っておくべきであったなと、後悔してしまう乙女心である。
 短い弾き語りは、何かを物語っているようで、しかしマユミにはそこまでの思いは読みとれなかった。

 特別な曲であるのかもしれない……彼にとって。

 身につまされる音。あるいは心に響く旋律。
 やがて『唄』は厳かにとぎれ、必要十分の余韻を持って、マユミは独演奏が終わったことに気が付いた。
 現実に戻り、拍手をすると、遅れたのは彼女一人だけではなかった。
「綺麗な音を出すのね」
 音楽部部長の栗林モトコである。
「チェロなんて、誰も弾けなかったのよ……ヴァイオリンやヴィオラを弾ける子はいるんだけどね」
 シンジはわずかにこもった期待の色に、苦笑でもって返事をした。
「やった方が良いって言われてやってただけですよ……だから弾けるだけで、ほめられるようなものじゃないし」
「でもいるのといないのとじゃ大きな違いなのよね。どう? 音楽部に入らない?」
「部活は……ちょっと」
「女の子ばっかりなのが気になる?」
 確かに音楽部は女子ばかりで気後れはするが、シンジは別の理由だと説明した。
「放課後は用事があって、残れないんですよ、だから」
「だったら朝と昼があるじゃない」
「…………」
 シンジははぁっとため息をこぼした。
「つまり、なにがなんでもってことなんですね?」
「お願い!」
 ぱんっと両手を打ち鳴らす。
「ちょっとした大会があるんだけど、打楽器と管楽器だけで出るわけにはいかなくて……」
 即戦力ということなのだろう。それでも「でもなぁ」とシンジが渋ると、彼女はさらなる切り札を出した。
「大丈夫! 山岸さんのお父さんには、あたしから話をしておくから……」
「先輩からですか?」
「うん。あたしのお父さんも研究所で働いてるから……碇君の事情は多少知ってる」
 たぶん、それ以上のことも知っているだろうなと感じさせられる物言いではあったが、シンジは彼女を信用した。
 エヴァンゲリオンのパイロット……エヴァがなにかを知らなくても、第三新東京市でロボットが怪獣と戦っていることをみんなは知っている。
 それに乗っていたのがシンジであることは……もちろん知っている側の人間の数が圧倒的に多いのだ。そのために、多くの憶測を呼んでもいる。
 大変な怪我を負ってこの街へ療養に来た。あるいは戦いが怖くなって逃げ出してきた。実は秘密兵器の開発のために……と、噂にはことかかない状態である。
 今更気を遣ったところでと、そこまで話は広がっているのだ。なのに詳しいことは聞かないでくれている。語らなくてもいいのだとしてくれるモトコの距離の取り方に、シンジは心地よいものを感じて了承した。
「わかりましたよ」
「本当に!?」
「ええ……でも、山岸さんのお父さんに許してもらえたら、ですけど」
 わぁっと、部の少女たちが目を輝かせて喜び、はしゃいだ。
(あれ?)
 シンジはふと、そのはしゃぎ方に疑惑を持った。
 入部を喜んでくれているのではない。
 それは女の子たち特有の……。
「碇君……」
 モトコはシンジの肩をぽんぽんと叩いた。並んでみると彼女の方が背は高い。
 あきれた調子でその頭を下向けて、彼女は処置なしと口にした。
「その言い方じゃ……マユミのお父さんの機嫌は損ねたくないんです……言ってるみたいだよ」
 どこが変なんだろうかと、シンジは理解できないで首をひねったが、マユミには必要十分にわかることだったのか? 彼女は赤くなり、うつむいた。
 研究所所長の山岸さんと、マユミのお父さんの山岸さんとでは、機嫌の意味は果てしなく変わる。
 そんな論理展開をする少女という生き物をわかっていなければ、慣れてもいないシンジであった。

−Iパート−

 ──かくして、噂は先走る。
「どういうつもりなのか、って聞いてるんだけど?」
 腕組みをして、まっすぐに立ち、にらみつける。
「霧島さんこそ、なんなの?」
 こちらはお上品に、前で手を組み合わせて小首をかしげ、にこやかにしてはいるものの、似たようなものだ。
 一歩も引かずに対峙している。
 ゴゴゴ……と音がするようなせめぎ合う圧力の狭間──正確にはその向こう側で──シンジはあうあうと言葉をかけられずに慌てていた。
(なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ)
 廊下に魔空間が現出していた。
 ──確か、研究所の所長である山岸さんのお父さんに許可をもらうために、「山岸さんのお父さんに会いたいんだけど」と、霧島マナに頼み込もうとしたのが発端だった……ような気がする。
 シンジはそろそろと声をかけた。
「け、けんかは……」
 ギンッとにらまれ、すみませんと謝った。
(なんでこうなるんだよ)
 意気地のかけらもなくすごすごと引っ込んでいく。
 先に仕掛けたのはマユミだった。
「碇君が、どこのクラブに入るかなんて、碇君の自由じゃないかって、思うんだけど?」
 マナには、その通りだとうなずけない理由がいくつもあった。
 なによりも、聞こえてきたこの女とシンジの噂が認められない。
「碇さんには、部活に入ってる暇なんてないのよ」
「でも、碇君はお父さんが許してくれたらって言ったもん。それって、暇があるってことなんじゃないの?」
 怖い、怖いよと逃げようとするシンジの背が、ぽよんと弾力のあるものにぶち当たった。
「あ、先輩」
「もう、シンジ君ってば、エッチ」
『栗林先輩!』
「ほらほら、そんなに怖い顔してると、シンジ君が逃げちゃうゾ?」
 はっとし、二人は取り繕うように態度を改めた……が、遅すぎた。
「霧島さんだっけ?」
「え? ええ」
「シンジ君の友達?」
「えっと……」
 マナはとっさに答えられず、シンジにちらりと目線を送った。
 マナにとってのシンジはとは対使徒戦闘をくぐり抜けていた英雄であり、とても同列に立つわけにはいかない相手なのだ。
「碇さんは、尊敬してる……」
 なんだろう?
 だが明確にする必要もなく、モトコはああっと手を打った。
「だから、マユミちゃん程度の子が馴れ馴れしくしてるのは我慢ならない、と」
「先輩!」
「怒らないでよ……思ってるのはその子なんだから」
 またマナをにらむマユミに、にらみ返すマナである。
 シンジはあおらないでくださいよとぼそりとお願いしたが、無駄だった。
「やーよ。命は惜しいし」
「煽っておいて何を……」
「だって、あたしとしては、シンジ君がほしいし?」
『先輩!』
 二人がハモッたのは、モトコがシンジの首に腕を絡めたからだった。
「ちょ、ちょっと離れてくださいよ!」
 あわてるシンジに、腰をすりつける。
「碇君ってぇ、全然やってないって言ってたけどぉ、アタシ的にはイケてたと思うしィ」
「なにがですが!」
「ア・レ」
 きゃっ、恥ずかしいっと頬を染めて離れて駆け去っていったモトコを追い切れず、シンジは仲良くしてくれる人がいないことは寂しいことだが、ろくでもないかまい方をしてくる先輩がいるよりははるかにマシだとかみしめ──そして、振り返ることができなかった。

 ゴゴゴゴゴ。

 そんな嫉妬に立つ炎の音が、確かに聞こえた気がしたからであった。

−Jパート−

 卑怯者とののしられようが、こういうときに人が取る行動は一つである。
 すなわち逃亡であり、シンジが選んだ逃亡先とは自宅であった。
 ──ドサリとベッドに身を投げる。
 キングスサイズのベッドは、きしむことなくシンジの体を受け止めた。
 それはあまりにも大きな物であったが、部屋の広さから見れば妥当と言えるサイズであった。
 某高級ホテルの最上階、スイートルームである。
 街の中心でも、外れでもない位置にあり、高さは六十階建てである。シンジにはこの最上階の部屋が買い与えられていた。
 ホテルの一室を専用に買い取るということについて、どれほどの金額が必要であるのか?
 シンジは考えることを放棄していた。そこには大人の事情があったからである。
「なんですか……ここは」
 数日前。
 加持に案内され、つれられてきたシンジは、エレベーターから降りたとたんに呆然とした。
 とにかく広かった。六十階建てのビルのワンフロアーの広さが、何平方メートルあるのか、想像もしたくない。
 いくつかの木戸のしきりがあって、部屋は分けられてはいたが、どこも一般家族が暮らせるほどの広さがあった。
 その一つ一つがベッドルームであり、娯楽部屋でありと、一つの目的のためだけにしつらえられている場所であった。
「こんなとこで暮らせってんですか?」
 風呂一つとっても、大浴場といえる広さがあるのだ。
「まあそう言うなよ」
 加持は遠慮なしにたばこを吸った。
「いろいろともめたんだ……君の保護者をどうするか、とかな」
 シンジはいぶかしげに彼を見上げた。
「加持さんじゃないんですか?」
 肩をすくめる加持である。
「俺はお目付役。保護者との違いは生活監督をするかどうかだな」
 シンジは首をひねった。
「やっぱりわかりませんけど……」
「見守りはするけど、口出しはしない。それが俺の仕事。でも保護者は違うだろ?」
「そうですね……」
「口出しするってことは、自分の考えを押しつけるってことでもあるからな。それでもめたんだよ……」
「なんでです?」
「思想漬けにする気かとか、マインドコントロールにかける気か、なんてな」
 シンジは非常に嫌そうな顔つきになった。
「そういうもめ方ですか……」
「まあ仕方ないだろう……ネルフから移ることになったって言っても、レイやアスカになにかあったら君だけが頼りになるんだから、そのときのことを考えるとな、シンジ君の価値は落ちるどころか上がってる」
 だから誘拐などについても考慮しているのだという。
「その点は第三と変わらないけどな」
 加持はそう言って笑った。
「問題は、だ。君に下手な監督を付けるわけにはいかないってことなんだよ。誰を付けたってどこからか文句が出てくるんだから。実際マナちゃんや山岸さんの娘さんのことだって問題になってる」
「そうですか……」
「だけど一人きりってわけにもいかないだろう? 倫理上の問題なんかじゃなくて、君は学校に行って、時々研究所にもいかなくちゃならない。そうなると食事の準備と部屋の掃除になんて手が回るわけがないからな」
「それでホテルですか……」
「洗濯も全部やってくれるよ。金は君への給与からさっぴくことになってるから気にするな」
 シンジははでな嘆息をした。
「通帳……見せてもらってないんですけどね」
「普通に暮らしてる分にはなくなりはしないよ」
 ──それじゃあなと言って、加持は去っていったのである。
「ふぅ……」
 シンジはごろんと仰向けになって、仕切り戸の向こうのリビングへと目を向けた。
 おなかと足先の向こうにある引き戸の先に、とても広い部屋がある。
 だがシンジはこの部屋だけで物事を極力すませていた。その表れはベッドサイドのパソコンにあった。
 デスクトップタイプのパソコンである。盗聴を恐れて無線は許されなかったため、LANケーブルでつなげられている物だった。
 シンジはそれを立ち上げると、今日のニュースを検索した。それは政府公報が流しているものではなくて、本当の事件の情報である。
「今日も使徒は来なかったのか……」
 去るときには気にならなくなっていたというのに、去ってしまうと逆に気になるようになる。
 シンジはおかしな感じだな、と、第三新東京市へ思いをはせた。

−Kパート−

「ま、人気があるのはしかたのないことよね」
 報告書をダッシュボードの上に投げ出して、ユイはそんな調子でため息をこぼした。
「隠していると言ったって、噂は広がっているんだろうし……世界の救世主で、大金持ちで」
 二人の前には、車の窓越しに芦ノ湖の湖面が広がっている。
「高級ホテルの最上階に住んでいて……って、そんな場所に招待されたら、女の子なんて誰でもコロンといっちゃうでしょうね」
 天にも昇る気持ちで、夢の中にいるような気分になって……。
「情けない部分も……魅力的に思えちゃって」
 アスカはユイの捨てた報告書に視線を落として、きゅっと唇をかみしめた。
(なによ……)
 シンジは自分を……『過去』から抜け出すために街を離れたのではなかったのか? ところがそこには、アスカにも覚えのある少女たちがいた。
 一人は髪型を変えているが、雰囲気は違っても目立つほくろは見間違えようがない。
 ユイはそんなアスカの表情をじっと観察してから、彼女の視界を遮るように、一冊の本を差し出した。
「これは?」
「その子……ほくろの子が書いた本よ」
「小説家なんですね……え」
 手に取り、アスカはタイトルに目を丸くした。
「新世紀エヴァンゲリオン……」
「そうよ……そして主人公は髪の長い女の子で、その子はある日ある街で、一人の男の子と知り合いになるの。その子はロボットのパイロットで……」
「シンジ……」
「ええ」
 ユイはうなだれるようにハンドルの上に体を置いて、頭が痛いわと髪に指を差し込んだ。
「出てくるロボットはまるでエヴァよ。名前もエヴァンゲリオン。街はこの街。彼女が知るはずのないプラグの概要までそっくりだったわ」
「…………」
 ユイは思い切って訊ねた。
「アスカちゃん……知ってるんじゃない? その子のこと」
 山岸マユミという名前を……ユイは彼女らのいう『前世』に絡んだことを訊ねた。まるで本当は答えを知りたくはないと言うように。
 そしてアスカは、もっとも彼女が聞きたくもない回答をしたのであった。
「はい……彼女は『以前』、使徒に寄生され……」
 ユイが聞かされた話は、彼女の想像を超えているものであった。

−Lパート−

 鏡を前にしてマユミは思う。
 髪を切ったし、『前』よりもずっと外に出るようになった。
 相変わらず本屋に出かけることが多いけれど、学校と本屋と家のトライアングルをぐるぐると回っていた『あのころ』に比べればずいぶんと活動的になっている。
 それでも、嫌な面も残っているのだ。
「いけない」
 彼女は自分の頬を、両手で挟み込むように音を立てて叩いた。
 そのままじん……とくる痛みに耐える。
「よし!」
 以前と違った生き方をしているのに、以前と同じ『考えすぎ』に陥ってしまう。
 それはもう、以前とは違った生活をしていたはずなのに、同じように口元にできているほくろのように、昔と変わらぬままだった。
 ──そういった点での自分らしさ、変わらない点というものは嫌いなのだ。
「悩んでないで、まず行動!」
『生まれ変わって』、一つだけ学び取ったことがある。それはとても重大で重要なことだった。
 悩んでいたって、時は過ぎる。時間が過ぎれば、周りは進み、自分は取り残されることになる。
 悩んでいたってしょうがない……迷っていたり、おびえていても仕方がない……のではなく……。
 自分に酔っている人間は、想像の中でむなしく自分を満たすだけで、現実にはただおいてきぼりを食うだけなのだ。
 想像の中で、いくら好きな人とお話をしたり、抱き合ってみたりしてみたところで、そんなものは気恥ずかしくなる程度のものだ。
 生の挨拶にはとうてい及ぶものではない。
 身もだえするほどのものではない。
「おはよう」と一言交わせただけで、どれほどその日一日を、浮かれた調子で過ごせることか?
 これ以上とない幸福感は、きっと親密さを確かめられるからだろう。挨拶を交わせるほど近いと言うこと……友達だということ。
 しかし、欲というものは際限がない。
 他人であるときは友達である状態を夢想する。
 挨拶をして、お話をして……。
 しかし友達となれば、次なるステップを想像する。
 抱きついたり、組み付いたり、腕を絡めて歩いたり。
 では、自分が今求めているのは、なんなのだろうか?
「マユミ……」
 マユミははっとして振り返った。
「お、お父さん!」
「さっきからなにやってるんだ?」
 洗面所の鏡を相手に、百面相を披露している娘の頭を、この義父は真剣な様子で案じたのであった。

−Mパート−

「まあ、彼女を作っちゃいけないって話はないんだもんな」
 唐突な台詞に、加持は目を丸くして驚いた。
「どうしたんだいきなり?」
 加持の車の中である。今日の午後の予定を知らせるついでにと、彼は送迎を買って出ていた。
「なにかあったのか?」
「そういうわけじゃないですけど」
 抑えてくれよと加持は頼んだ。
「派手なのは勘弁してくれ」
「まずいですか? やっぱり」
「全面的にってわけじゃないさ」
 なるべく優しくハンドルを切る。
「でもな、金があって顔が悪くなくて、それなりに勉強ができれば普通は人気者にされるだろう? 運動もできないってわけじゃないならなおさらな」
「はぁ……」
「そうなると、女の子なんて放っておいても寄ってくる……と。それで女にはまるってのは、シンジ君の歳じゃ言い方が悪いけどな」
 まじめに伝える。
「素行不良がネルフに伝わると、俺も首が危なくなる」
 シンジはあきれた調子で口にした。
「そういう指導も仕事の内ですか?」
 まさかと加持。
「もっと個人的な話だよ」
「はぁ?」
「ネルフよりも司令よりも君のお母さんが怖い」
 そんなもんかなとシンジは尻を軽くずらした。


『母親ってのは理由を求めるものなのさ。子供が不良になったら誰のせいだってわめいて責任を押しつけようとする。そういうもんだろう?』
 母に育てられたという実感がないだけに、シンジにはその感覚はわからなかった。
「なに?」
 授業中、じっと見られて、マユミは教科書をシールドにこっそりと訊ねた。
「え……っと」
 シンジは口に出そうとして思いとどまった。
 端末をちょいちょいと指さして、マユミに接続を許可するよう求めた。
 個人チャットは相手の了解が必要なのだ。
 マユミは頷くよりも先に姿勢を直して、キーを押した。
 とたんにシンジからのメッセージが届く。
『山岸さんは、僕が第三でなにやってたか知ってるんだよね?』
 マユミはどきりとしたようだった。
『うん』
『あっちから保護者とか保証人代わりにってついてきてくれた人が、女の子とつきあうなら気を付けろって』
 ぼっと赤くなったマユミにシンジは焦った。
 勘違いをさせてしまったと気づいたからだ。
 これまでにない速度でキーを打つ。
『お金があるからって派手なつき合い方をすると親にうるさく口出しされるぞって脅されたんだよ。山岸さんって本書いてお金稼いでるんでしょ? 親に使い方でなにか言われたりしてないのかなぁって思ったんだ』
 どうだろうかとマユミの様子を盗み見ると、なんだかがっくりとしているようであった。
(なんでか……じゃないか)
 まあこうやって回避行動を取ろうとしている内は、彼女なんてきっと作れないなと、自己分析をしてみたりする。
(女の子って、そういうの怖くないのかな?)
 マナやマユミを見ていると、探りながらであったりしても、行動自体は積極的であるし、時には無謀なこともする。
 相手に好感を持たれていると思っていなければ、嫌悪感を引き起こすことになるだけの行動ですら、確信的に大丈夫だと、盲目的に信じている……ように見える。
(僕がお子様なだけか?)
 考えてみれば……と思い返す。
『昔』は卑屈であったから、女の子に欲情したり、妄想を抱いたりしても、それを知られて嫌われることを恐れて、避けた。
 逃げ回っていた。
 今は対峙できるようになっている。それでも逃げているのは同じかもしれないが、だからと言って隠しているわけではなく、マナにも明かしたように、簡単に口にしたりもする。
(少しは変わっているってことか。でも変われてない部分もある)
 綾波レイや、アスカから逃げた。
 予感はあるのだ。予測かもしれない。
 どれだけ離れようとしてみても、いつかはネルフとエヴァに連れ戻されることになる。
 そのときがいつになるのかわからない以上は、第三を離れた決意を行動に変える必要はあった。
(それが恋愛ってわけでもないけどさ……)
 話せる相手は欲しいな……。
 シンジはそんなことを思ってしまったのだった。

−Nパート−

「お待たせ!」
 明るい笑顔にははみかみで……と、シンジは霧島マナに遅かったねと言った。
「ごめんなさい……でも」
 ちょっとすねた様子で、唇をとがらせる。
「こういうときって、僕も今来たばかりだから、とか、フツウ気を遣ったりしませんか?」
 女の子に──きっとそう言いたかったのだろうが、シンジは最後まで言わせなかった。
「ごめん……でも」
 駅前である。シンジはロータリーの中央にある時計を見上げて口にした。
「待ってないっていうのも、ちょっと白々しいよ」
 そう……。
 もうすでに約束の時間から、十五分は経っている。
 これでそれほど待っていないと口にしたのなら、それは自分も遅刻したという話になる。
「三十分も前に着いちゃったからさ、色々考えたんだよ? 霧島さんはそんなに楽しみにしてないから、きっと遅れてるんだなって」
「そんなことないです!」
「ホントに?」
「はい!」
 元気よく、胸の前で握り拳を作って、彼女はいかに今日の『デート』を待ちわびていたか力説した。
 白の袖無しブラウスと、砂地のショートパンツ。
 それに黒のバッグ。化粧気は少ないが、健康的な中学生の恰好と言える服装だった。
(って、太股見てるあたり、僕ってオヤジかもな)
 少年期とは違った意味で目をそらし、シンジは苦笑してマナをせかした。
「それより急ごうよ、映画始まっちゃうよ」
「え? あっ、はい!」
 あわてて後に続くマナ。
 そんなマナとの距離を意識しながら、シンジは今日のデートの最終目的を確認した。
(フツウに腕を組めるような状態になること!)
 実に控えめな目標であった。

−Oパート−

「碇さん、こっち!」
「ああ、うん……えっと」
 第一目標は三階、四階、五階にミニシアターの入っているビルだった。
 それぞれの劇場への券は、一階にある券売所で購入するシステムとなっている。シンジはそのそばにある柱のポスターを確認し、これなのかと顔をゆがめた。
「うわぁ……」
 そんな顔を不安げにのぞき込むマナである。
「こういううの趣味じゃないですか?」
「趣味じゃないって言うかさぁ」
 赤くなる顔を手のひらで隠す。
「こういうの、恥ずかしくない?」
 特に珍しい分野ではない。
 戦時中に、兵士と町娘が恋に落ちる。ただそれだけの内容である。しかしそれをカップルで見るということにどんな意味が込められているのか?
 その点に置いて、シンジは気恥ずかしさを覚えるのだった。
「なん……っていうかさ、他のにしない?」
 消極的に提案する。
「こっちのとか」
「だめですかぁ?」
「こういうの見て、どうしろっていうのさ」
 そりゃあと赤くなる。
「碇さんって」
「なに?」
「いじわるですね」
 もはや降参して従うほかないシンジであった。


「今日はデートだそうですよ」
 こちらは場所変わって加持である。
 正面にはマユミの父親が居た。ここは彼のオフィスなのだ。
「マユミとか?」
「いいえ、マナちゃんとですよ」
「そうなのか……」
 おやっと加持は、にやけた顔つきでつっこんだ。
「残念そうですね」
「そりゃあどうせならマユミを誘ってもらいたかったよ」
 さらににやにやとする加持である。
「ふつう男親ってのは、ボーイフレンドに嫉妬するものだと思うんですけどね?」
「あいにくと普通の親じゃないからな」
 微妙な言い回しではあったが、加持はちゃんと了解した。
 マユミの実父は他にいる。彼は育ての親に過ぎない。事情はともかく、その事実については承知していた。
「それにシンジ君なら申し分ない……んじゃないかな?」
 探る言葉に、加持は肩をすくめて見せた。
「やるときはやる子ですが……」
「性格にでも問題があるのか?」
「あくまでネルフのカウンセラーの判断ですが。そのやるときというのが、けっこう女の子がらみだったりするもんで」
「ふん?」
「ファーストとセカンドチルドレンが女の子なんですから、女の子がらみ……となるのは、当然と言えば当然なんですが」
 がんばり具合がと失笑をこぼす。
「実は今回の件に関しては、俺も一枚噛んでましてね」
「ほぉ?」
「女の子に慣れたいのなら、お嬢さんよりも彼女の方が良いと薦めたんですよ」
「慣れる?」
「ああ見えても彼は奥手でね。デートプランを聞き出したんですが、笑っちゃいましたよ。喫茶店で待ち合わせをして、映画を見て、公園を散歩して……なんて、まともに女の子とつき合ったことのない連中が作ったような、恋愛ゲームみたいなコースしか頭の中になかったんだから。……この街のどこに映画館があって、公園があるのか知ってるかって訊ねたら、その場で青くなってましたよ」
 山岸はあきれたような、それでいて同情するような顔つきになってため息をこぼした。
 繁華街と大きな公園は、少し離れた場所に作られていた。
 移動するだけでも時間がかかるし、第一散歩ができるほど広い公園でもない。
 道中の行程のこともある。ゲームのように、一瞬で目的地に移動したりもしないのだ。
 その合間をどう持たせるのか? きっとそんなことにすら、気が回っていなかっただろう。
「年の差かなぁ? 俺たちの頃はもっと積極的だった気がするが……」
 そう嘆息する。
「俺たちはセカンドインパクトがあったんで……今の子供たちはつるむってことはあっても、ね……。ペアで出かけるとしても友達感覚の延長みたいですよ。普段からつき合ってるから、どこに行くかってのも成り行きに任せられる」
「それで?」
「マナちゃんやお嬢さんみたいに、積極的に出られるとパニックを起こすみたいですね。どうしていいのかわからないから、臆病になって遠慮して逃げ回る。意気地がないんですね。実際のところ、無理をする必要のないことでもありますし」
「恋愛がか? それじゃつまらんだろうに……」
「でも、彼の育ちのことはご承知ですよね? 少なくともなんの疑問も抱かずに青春をやっていられる環境じゃなかった。その上、今度は戦争ですよ」
「戦争か……」
「普通の男の子が、普通の感覚でいられなくなるには十分すぎる出来事でしょう? 戦闘の興奮に比べたら、日常なんてつまらない日々でしかない……」
 ではと訊ねた。
「代償行為か? 今日のデートは。戦闘に費やせないエネルギーを他へ向けようと言う……」
 いいえと加持は弁護に回った。
「そこまで女の子に失礼な子じゃありませんよ。彼はね。でも、なにかを焦っているような感じはありましたが……」
 ふうむと山岸は唸った。加持も同じように考え込むそぶりを見せた。
 二人にはシンジの悩みなどわかるはずもなかった。第一、シンジにとって使徒との戦いとは、必死になるたぐいのものであっても、興奮するようなものではない。
「で、だ」
 山岸は不毛な詮索だなと話題を戻した。
「マユミより霧島君の方が良いって言うのは?」
 若干ですがと断りを入れる。
「彼女の方がと思ったんですよ。こういうことに免疫があるみたいだったんで。でもお嬢さんとだと二人でぎこちなく過ごしたあげくに、どうしていいかわからないまま終わってしまって、よけいこの手のことに苦手意識を持つんじゃないかと」
「うちの子はそんなに奥手ってわけでもないと思うが……」
「それでも男の子と普通にはしゃげるタイプじゃないでしょう?」
 確かになぁと顎を撫でる。
「俺は振り回されるくらいでちょうど良いんじゃないかって思ったもんで。お嬢さんには、シンジ君とデートだってだけで、あそこまで浮かれることは無理でしょうしね」
「それはわからんが……そうなのか?」
「お嬢さんはちょっと頭が良すぎますよ。気を回しすぎるんですよね。あげくに袋小路にはまりこむ。マナちゃんはそういうとこ、すっきりしてますから」
 ざっくりかなと、くくくと笑う。
 山岸は少し目を細めた。なにかよからぬ事を吹き込んだなとわかったからだ。
「なにをたくらんだ?」
「たくらんだわけじゃありませんよ。ただちょっと浮かれすぎてたなと思い出しただけです」
「…………」
「あの調子なら、シンジ君のことなんて気にもしないではしゃぎ回るんじゃないでしょうかね。シンジ君は女の子と出かけるなんてしたことないから、リードしてやれよとはハッパをかけてはやりましたが」
 山岸はあきれた目をして加持を見た。
「……やっぱりたくらんでるじゃないか」
「いやちょっと、緊張感を演出してやりませんとね」
 お嬢さんとの板挟みが最終作戦目的ですよと、加持はおどけて見せたのだった。


「はぁ……」
 シンジは眉間に皺を寄せていた。
 幸いにも、先を歩く少女に気付かれてはいないものの、それも時間の問題だなと感じていた。
(だって、しょうがないじゃないか……)
 劇場の席で手を握られたときはどうしようかと思ったほどである。
 涙ぐみながらスクリーンを見ていたことから、無意識の行動であったのだろうと推察できたが、エンディングに入ったところで「あっ」と赤い顔をしてあわてられると、もはや混乱してなにも口にすることはできなかった。
「は〜〜〜あ……」
 落ち込む。
 ──ごめんなさい。
 照れ笑いとともに、これ以上となく魅力的に見えるはにかみを見せつけられても、鼓動を高鳴らせるばかりで全く身動きができなかった。
(なんて言ったっけ? 僕……)
 ううん、とか、いや……別に、とか、まあ当たり障りのない返事ですませた気がする。
(半分こうなるのがわかってたから、嫌だったんだよな)
 いくらなんでも、あのような映画を選択する意味くらいはわかる。感動を共有すれば、自然と気分は盛り上がる……というのだろうが。
(僕としては腕を組まれたって大丈夫だってくらいになれればよかったんだ)
 なのに彼女はいきなり腕を組むのが当たり前の人たちが見る映画を選択してきた。
(じゃあそのあとどんな状態になるつもりなのかなんて、わかりきってるじゃないか。それが僕には無理だっての)
 だからため息をこぼしてしまうのだ。
(しまったなぁ……加持さんに乗せられちゃったかな)
 考えてみれば、自分と同程度の歩調の相手と道を探るのも悪くはないのだ。ただシンジの記憶には霧島マナという少女とのことがあった。
 彼女に引き回してもらえれば楽だろう……と考えてしまった部分がなかったとは言えないと気付く。
(僕はその程度に慣れることができればって思ってたんだけど)
 彼女はこれで一気に親密になれると思っていたのかもしれない。となればその先にはなにがあるのか? なにを目標に今日のデートに望んでいるのか?
(ちょっとまてよ?)
 今更ながらにシンジは気付いた。
 ──キス?
 シンジは顔を手のひらで覆った。
 過去の記憶がよみがえる。
 青い空。緑の山。そして白く照り返す湖と風。
 瞳を閉じた彼女の──。
(霧島さんと、できるわけないじゃないか!)
 彼女と同じ顔をした。彼女と同じ顔の、同じ名前の別人と……。
「あっ」
 どんっと肩が当たったので、シンジはごめんなさいとすれ違った人にあやまった。
「ああ。悪いね」
 向こうもあやまり、それで終わる。
 と、マナがにこやかに話しかけた。
「こういうとき、テレビとかだと「どこみてるんだよ!」って突っかかられたりするのにね」
 多少言葉遣いが雑になってきていた。
「そんなのそうそうないよ」
「そうだけど……ま、テレビやゲームとは違うか」
 特に意図した言葉ではない。
 だがその感想は、シンジに大きな痛みを感じさせるものだった。

 ──痛みの名前は、自己嫌悪と言った。

−Pパート−

 だめだとシンジは感じてしまった。
 先を歩くマナが居る。時折振り返っては、明るい顔をして弾んだ声をかけてくる。
 その一つ一つの仕草に対して、どうにもぎこちなく応じてしまう。シンジにはこれを回避する術が思いつかず……デートは特に大した盛り上がりを持たぬまま、今日は楽しかったです、ありがとうございましたとの無難な評価を得るにとどまり、終わってしまった。


「は〜〜〜あ」
 一人寂しくホテルに帰る。
 シンジはロビーを抜けてエレベーターに向かい、そこで山岸マユミを見かけてしまった。
「山岸さん?」
 声が小さかったからか、聞こえなかったようだった。
 そのままエレベーターに乗って消えてしまった。
「…………」
 気になったのは、知らない男性と一緒だったことだった。二十台の前半だろうか? 非常に親しげな感じだった。
 ホテルにはレストランもあるから、知り合いを見かけることは珍しくない。実際クラスメートの姿を何度も見ている。
「つき合ってる人かな?」
 想像し、軽く憤ってしまい、そんな自分にこそ腹を立てる。
 彼女が誰とつき合おうと、それは彼女の勝手であろう。
 確かに彼女は、好意を持ってくれているかもしれないが、だからと言って、自分はどうか?
 はっきりとはせずにごまかして、ちょっと好かれているだけの分際のくせに、裏切り者との感情を抱いて憤って。
(こういうの……どう考えれば良いんだろ?)
 ぼんやりとして、彼は『あちら』で彼女に嫌われていたころのことを思い出した。
 ──あんたって、世界が狭いから嫌い。
 二人だけで、心細かった。
 そんな自分を、彼女はよく、足蹴にしてくれたものだった。
「だって、全部が全部、言ってることが自分中心じゃない」
「そんなことないよ」
「どこがぁ?」
 疑わしげに目を細くして彼女は言った。
「あたしって、あんたのなに? ……なんだっていいけど、あんたの基準って、全部が全部そうじゃない。あんたにとって、なんなのか。そうでしょ? あんたにとって、アタシはなにか。それはアスカって記号なのよね。でも、アタシは記号で表記できるほど簡単じゃないの。違うものにだってなってくわよ。成長してるんですからね! なのにあんた。それが怖いからって、アスカって記号のままでいろなんて、よく言えたもんね? 反吐が出るわ! あたしはあたし! あたしには形なんてないのよ。あたしがアスカって存在なの! それを認めようともしないで、あんたに優しい、都合の良いアスカのまま、変わらずにいろだなんて、何様のつもり?」
 その罵倒が終わったのは、何十分後のことだっただろうか?
 長く時間をかけて理解した『アスカ』。しかし理解したと思ったときには、アスカは変わってしまっていた。大人に育っていた。妥協とあきらめを知り、なおかつくじけず、曲がらない意志の力をも手に入れていた。
(そんなアスカに、卑屈になるしかなくて、だから嫌われたんだよな……)
 きっかけは、アスカはアスカじゃないかと言ってしまったことだったと思う。シンジはそう思い返した。
(確かそうだったよな……なんでそんなことを言うことになったのかは忘れちゃったけど、アスカには僕と一緒に居なくちゃならない義務なんてなにもなかったんだ。それでも一緒にいてくれてたのに、僕は離れることになるっと言われて、それは嫌だって言い返して……)
 過去に渡る方法が見つかったとき、離ればなれになるかもしれないとわかったときに、最大のけんかをやらかしたのだ。
 ──そんなの、あたしの勝手じゃない。
 酷く冷めた目をして口にされた。それが返事のすべてだった。
 親密であるのも、他人になるのも、決定権は彼女にあって、自分にはなかった。
 自分が思っていたほど、自分が抱いているほど、彼女は自分に執着してくれてはいなかったのだとわからされてしまった。
 自分という世界から、彼女が欠けるのは嫌だった。それ故に一緒で居たいとわがままを言ったが、彼女にとってシンジはシンジという他人だった。
 他人がどうしようが、それは他人の勝手であって、気にはならない。そういうものだ。
 彼女には彼女の世界があって、彼女はその世界を無限の領域に広げようとしていた。
 ところが自分は、自分の世界から何かが欠けていくのを怖がって、引き留めようと見苦しくあがいているだけだった。  彼女にただの足かせに過ぎないのだと言い渡されて、あとは捨てられることを恐れ、びくついて過ごすほかなにもなかった。
(僕のアスカで居て欲しかったってことなんだろうけど……)
 最初から自分のものではなく、彼女は彼女自身のものだった。それだけだった。
(そういうわがままを、妬いてるんだって思って、喜んでくれるような人とだったら、うまくつき合っていけるのかな)
 シンジはエレベーターを降りたところで、あれっと少し驚き、身を退いた。
「アスカ?」
 ドアの前には、くたびれているのか? 小さく身を丸くしてうずくまっている彼女が居た。
 それも、近所にちょっと出かけるような、酷く簡単な服装であった。

−Qパート−

 招き入れられた部屋の内装をぐるりと見渡し、アスカは酷く居心地が悪そうに顔をゆがめた。
「場違いよね……こんなの」
「そんなことはないよ」
「あんた平気なの? こんなとこ……」
 まさかとシンジは肩をすくめた。その両手にはコーラの瓶が握られている。栓はすでに抜いてあった。
 はいと片方をアスカに手渡す。
「ふだんはあっちの、寝室だけだよ。寝室って言っても、ミサトさんの部屋くらいはあるかな」
「でしょうね……」
 ありがとうとジュースを受け取る。
 酷く間の抜けな感じだった。
「なんだかあってないわね。これ」
「そっかな……」
「ネックレスとか、腕輪とか、じゃらじゃら言わせてそうな人が、ワインとか飲んでそうな感じの部屋じゃない?」
「そうだね……」
 たしかになぁと、非常に貧相な瓶の先を口に含む。
「それでも、こういう部屋に住んでもらわないと困るんだってさ」
「誰が?」
「いろんなとこ」
 政治的な話だから、興味がないと切り上げた。
「少年兵とかにはウケが良いらしいよ……英雄、なんだってさ」
「そ……」
「興味ない?」
 アスカは露骨な嫌悪を浮かべた。
「そうやって、志気を高めて、戦地に派遣にしようってんでしょ? 英雄志願なんて言うのは、馬鹿のやる事よ」
「なんでさ?」
「あたしがそうだったから、そう言えるのよ」
 自己嫌悪が立っていた。
「欲を満たすには、功を立てるのが一番よ。でしょ? でもそういうのって、都合よく利用されて終わるだけなのよね」
「まあ……そうだね。でも、僕はそれでも良いと思うな」
「よかないわよ」
「どうして? 平凡な毎日なんて、腐ってくのと同じだって言ったのは、アスカじゃないか」
 アスカはきょとんとして見返した。
「あたし……そんなこと言ったっけ?」
 言ったとシンジは断言した。
「毎日さ、だらだらと過ごせるのは良いことだけど、でも、平和だからって、なにも心配がいらないからって、なにもしないでいるのは、なんだか生きながら腐ってくみたいで、嫌だって言ったんだよ。……だから、いろんなところへ行くとか、探すとか、調べるんだとか」
「そうだった……かもね」
「いっつもそうだった」
 シンジは気のない返事に、少しばかりムキになった。
「覚えてないの?」
「ん?」
「僕がちょっと待ってって言っても、今良いところなんだからとか、早くしなさいよとか、そんなの後にしろとか言って、ちっとも聞いてくれなかったじゃないか」
「ちょっと待ってよ」
「アスカはいつも、気になることを見つけたら、行くぞとか、これを調べるからどうしろだとか、そんな風な言い方をして、僕の意見なんて」
「ちょっと待ってって言ってんでしょ!?」
 アスカは大声を出してシンジを止めた。
「好き勝手にやってたのが気にくわなかったってのはわかったわよ! けどっ、だからって今になって責めることないでしょう!?」
「……責めてない」
「責めてる!」
「責めてない!」
「責めてるじゃない!」
 カッとシンジは熱くなった。
「じゃあ責めてるでも良いよっ」
「やっぱり責めてるんじゃない!」
 感情的になったときには、昔の自分が現れる。
 シンジは一瞬、おびえ、言い負かされそうになってしまった。
「そりゃ……僕は、びくついてて、だから」
 それでも、昔とは違うのだ。
 シンジは伏せかけた顔を上げてにらみ返した。
「捨てられるのが怖かったから……なにも言えなかったんだよ。ひとりぼっちにされるよりは良かった。だから、言えなかった。けど、今は一人じゃないから、言える」
 アスカの顔が、怒りにふくれて朱に染まった。
「つまり、あたしはもう用済みってこと?」
「怒ることはないだろう?」
「……あの子がいるから、もう用なしってことなのね」
 今度はシンジがきょとんとする番であった。
「あの子?」
「山岸よ!」
 アスカは強く吐き捨てた。
「山岸マユミ! あの子が書いた本を読んだわっ、あの子もそうなんでしょ!?」
 それでかと、シンジは彼女がやってきた理由を察した。
「だったら、どうだってのさ?」
 ふんっとアスカ。
「どうしてあの子まで……わかんないけど、でも、あの子、気が弱いもんね。あたしより……」
「比べてないだろ?」
「じゃあなんなのよ!」
 嘆息する。
「被害妄想が激しいんだよ! 第一、さっきも言っただろ!? アスカはいっつも勝手だった! 勝手に気になるものが見つかると、こっちの意見なんて聞かないで、行くぞとか、次はとか、僕がついていくのが当然って、そんな感じだった!」
 それはとアスカは反論した。
「それはあんたが、はっきりしなかったからでしょうが! いっつも、「そうかな」とか、「かもしれない」とか言って、ぐじぐじぐじぐじして、煮え切らないから!」
 そうだよと認める。
「そうだね、僕が悪いんだね。……でも最後までそうだったじゃないか。こっちに来るとき、あっちじゃもう調べるものがなくなって、飽きたから、海に飛び込むって言い出したよね?」
 シンジは確認を取らなかった。
「僕には、勝手にしろって言ったよね?」
「……ええ」
「それからはどうだったのさ?」
 珍しく言い負かす。
「どうせ、こっちに呼ばれるまでの間には、さんざんエヴァとか使徒のことについて調べてたんじゃないの? 僕のことなんか思い出しもしないでね」
「それは……」
「それで、やることがなくなって、ふっと思い出したとか、そんなところだったんでしょ? どうせ、ああ、そういえばそろそろ使徒が来る時期だなとか。それで、僕が、『僕』なのか、着いてきてるのか確かめてみようと思ったのが、あの電話だったんじゃないの? ねぇ?」
「…………」
「別に、それがアスカだって言うんなら、僕にはなにも言えないよ。言う権利もないしね」
 アスカの眉がぴくんと跳ねた。
「権利?」
 そうだよとシンジ。
「僕には、アスカにどうこう言う権利なんてないしね」
「なんでよ?」
「だって、つき合ってたわけじゃないし、友達だったのかどうかも怪しいし、そうでしょ?」
 そんなことはないと反射的に叫びそうになってしまったのだが、シンジの表情にはそれを言わせぬものがあった。
「……子供だった僕は、アスカのことが……っていうより、女の子ってものに興味があった。でも、アスカはそういうのが気持ち悪いって思ってたよね? 別に、悪く言うつもりはないよ。そういうものだって今じゃわかるし、実際そんな目で見られてたら、気持ち悪いだろうなってわかるもん。でもね? あんなに過剰に反発されたら、どうしようもないじゃないか。二人きり……あそこでは、アスカしか居なかったから、嫌われたり、置き去りにされたり、逃げられたりされたら嫌だから、どんどんそういう気持ちを抑え込んでいったんだ。アスカのせいだって言ってるんじゃないんだよ。そういう流れがあったってこと。だから、僕は、第三を離れたんだ」
「……わかんない」
 実際、話が飛んでいた。それだけ感情的になっている証拠だった。
「……アスカ、綾波、あそこに居るとね、ネルフにダメにされると思ったんだよ。ネルフがらみの人間としかつきあえないんじゃ、失敗なんてできないじゃないか」
「失敗ってなによ?」
「……うまく話せるようになりたくても、話す相手が居なかった……笑いものにされると思った」
 考え過ぎよと言ったアスカに、シンジは経験があるんだよと返した。
「どこでよ」
「ずっと昔の話だよ……まだエヴァのことなんて知らなかった頃のね」
 それは大昔の話であった。
「学校で、女の子に笑いものにされたんだ。でも学校には毎日行かなくちゃならないだろう? 逃げ出す場所なんてなくて、僕はもうそれ以上馬鹿にされないようにって、するしかなかったんだ」
 表情を消してシンジは語った。言葉としては口にできても、情景を思い出したくはないのだろう。
「ネルフでそうなるのは嫌なんだよ。アスカと話す、失敗する。口も利いてもらえなくなる。みんなの笑い話にされて、いたたまれなくなるっていうのかな? でも、エヴァのパイロットである以上は逃げられないんだ」
 だからかとアスカは理解した。
「だからパイロットを辞めたって言うのね?」
 そうさとシンジ。
「こっちでなら、多少嫌われたって、どうにでもなるんだ。特に、こんな」
 両手を広げて、部屋を指す。
「こんな、お金があるぞってだけでも、多少は目をつむってもらえる。これなら、少しは『慣れる』こともできるだろう?」
 アスカはくっと顎を引いて、くやしげにシンジを見た。
「それが……あたしから逃げた理由なの?」
「そうだね……」
 逃げたという表現を否定しなかった。
「そうかもしれないね」
 言いたいことを言った反動か、興奮が半分ほど薄くなっていた。
「アスカとうまくやっていけるようになったって、他の人とうまく話せないままじゃなんにもならないんだよ。アスカは、今は、調べたかったことは全部調べて、満足して、だから、余裕があるのかもしれないけどさ、僕は、もう、アスカに側にいてもらいたいって気持ちが、わからないんだよ」
 それはおかしな言い回しであった。
「あのころは、ひとりぼっちが怖かった。だからかな? こっちに来てから、僕はどんなにいじめられても、嫌われても、ひとりぼっちよりは良いって思えたんだ。いつか一人くらいは好きだっていってくれる人が現れるかもしれないって、そんなことも考えたよ。でも、アスカのことを考えたことはなかったんだ」
「なんでよ……」
 悔しげにしている。
「あたしは、あんたのことをよく考えたわ。あんた言ったわね? あんたのことなんて忘れてただろうって。勝手なことを言わないでよ! あたしのことを本当に知ってて、わかってて」
 ぐすっと鼻をすする音が、シンジに顔を跳ね上げさせた。
「アスカ?」
「あんたほんとに覚えてないの!? なんで寝るとき、くっついてたと思ってんのよ!?」
 眠るときは、色々だった。
 廃屋、あばら屋、ビルもあれば、発電機が生きている建物があれば、発電所が稼働したままの土地もあり、あるいはなんら明かりのない山の中と言うこともあった。
 眠るときは、いつもシンジが先だった。アスカはいつも本を読んでいるし、論文のような物を書いていて、シンジはそんな、本をめくる音を子守歌代わりにしていたのだ。
 そして、起きると、隣にアスカが丸くなって眠っていた。
「心細かったからよ!」
 赤い目をして告白する。
「あたしだってね! 自分の性格が嫌んなる時くらいあったわよ! こんな性格のせいで、礼も言えなくて、下手したら愛想尽かされるんじゃないかって思って、あれが……」
 小さく、うめくようにこぼした。
「あたしには、精一杯の……」
 表現だった。
 信号だった。
 シンジはアスカとつぶやいた。
 触れるな、近寄るな、アスカは全身で怒気を発した。
「……帰る」
 握りしめていた瓶をドンッとシンジの胸に突き返し、彼女は玄関へと向かった。
「アスカ」
「あんたなら……あんたは、あたしが、あんな風にしかできない人間だってこと、わかってくれてると思ってた」
 突き放すような言葉は、すでに終わったものと判断された口調であって、シンジに行動のすべてを中断させる効果があった。
「じゃ、さよなら」
 出て行く彼女を止める術は、もはやなかった。

−Rパート−

 大股でホテルから出てきたアスカは、自分へと向けられたクラクションに、うるさいと大声で怒鳴り返した。
「加持さん!?」
 よぉっと運転席で手を挙げている男性に、アスカは怒鳴り声を途中で飲み込んで歩き寄った。
 助手席側の窓からのぞき込んで、確認を取る。
「なにして……シンジのおもり?」
「いや、君を待ってたんだよ」
 乗ってくれと彼は促した。
「碇博士の命令でね」
「おばさまは?」
「帰った。シンジ君もアスカも居ない状態で、博士まで抜きとなると、さすがに問題になるからな」
「そうですか……」
 苦労させてしまったのだなとため息をこぼしてから、アスカは車に乗り込んだ。
「どこに……」
「君のためのホテルだよ……ホテルからホテルって言うのは、ばからしい話だけどな」
 彼は後方を確認してから、ギアを入れ、車を出した。
 ロータリーから、道に出る。
 加持はそんなことをしながらも、アスカの様子も伺っていた。
「首尾は……って、聞くまでもないかな?」
「はい」
「けんか別れか」
 アスカはこれ見よがしに嘆息して見せた。
「相互不理解ってやつですよ!」
「相互?」
「ええ……」
 物憂げに、窓枠に頬杖をつくアスカである。
「あたしは、シンジって、居心地が良くって、甘えてたんだけど……」
「シンジ君は、そうじゃなかったわけだ」
「どうしてだろ……」
 わずかに、声が震えている。
「あいつは……あたしと居ても、ちっとも安心できてなかったみたいで……なのにあたしは、安心してて」
「…………」
「信じてちゃってた……あいつも、あたしと一緒にいるときが、一番幸せだって思ってるって、でも」
 そういうものだろうなと加持は語った。
「恋愛とか、高尚なものじゃなくてな、利用価値の問題だ」
「利用してたつもりはないんだけど……」
「でも結果的にはそうだったんだろ? アスカはシンジ君に、なにかを期待して、甘えてた。でも、アスカはシンジ君の期待には応えていなかった」
「…………」
「それでも、側に居るんだから満足してくれてはいるはずだ……と、思ってた。とかな」
 アスカは目を細めて加持を見た。
「なんだか、実感こもってますね」
「そりゃあ実体験に基づく話だからな」
 ああと納得する。
「ミサトか……」
「……そうなんだけどな」
「ミサトの昔の話は……知ってます」
 そう言えばと彼女は思い返した。
 ミサトのことは、シンジから聞かされたのだ。
 赤い海を、緑の萌えるがけの上から、涼やかな風に吹かれながら聞いたのだ。
 ──ミサトさんも、悩んでたんだよ。
 そのときの大人びた顔は忘れない。
 胸が高鳴ったのも本当のことだ。
 あれ? アスカはおかしいなと思った。
 そんな具合に、大人びた顔を見せ、時にはどきりと鼓動が跳ね上がるようなことをしてくれるシンジに、惚れていったのは本当のことだ。
 小さな街だと油断して迷子になって、不安に泣いてしまった自分を慰めてくれたのもシンジなのだ。
 ──おかしいと思った。
 何かが大きく食い違っている。
「……ってわけで、葛城に対しては俺の根性が足りなかっただけさ」
 話は続いていたらしい。
「それで、聞けたのか?」
「え?」
「山岸マユミちゃんのこと」
 そう言えば、そうだったなとアスカは思った。
「聞ける雰囲気じゃなかったか」
「そうです……」
 勝手に考えてくれたので、アスカは加持の想像に任せることにした。
 アスカはユイに、自分がどうやってこの世界に飛んだのか? その行程を包み隠さず明かしてみたのだった。
 そうなれば、山岸マユミのことが不可解になる。彼女は違った形で記憶か……あるいは魂ごと飛んできているという話になる。
 これは確かめねばならないことであった。ともすれば、他にも似たような人間が居るかもしれないことだからだ。
 あるいは、使徒にからんだ現象なのか?
(でもなぁ……)
 今更聞けないと思った。
 シンジに言われてしまったことが引っかかっている。気になることがあったら、人のことなんておかまいなしで、没頭する。
 それがアスカという人物で、そうなると、もう気にしてくれなくなるから、寂しかったのだと、シンジは言ったのだ。
 そんなシンジに、彼女はおかしい、調べなくてはなどと語れば、どういう反応が得られるだろうか?
 決まっている。
 またかと、うんざりとされるだけだ。
 ──はぁ。
 これ以上は幻滅されたくない──アスカはため息をこぼした。


(あれは……)
 戻って、ホテルのエレベーターである。
 中にはマユミの姿があった。彼女の腕には封書が抱えられている。
 下部には『──文庫』と明記され、出版社の住所と電話番号が記載されていた。
(あれって、惣流さん……)
 確か、そんな名前の人だったなと、彼女はホールで見た人のことを考えていた。
 名前に自信はない。
 元々、2−Aに居たのがわずか数日のことである。その中で名前を覚えるほどつき合いのあった人物など、シンジだけであったのだ。
 綾波レイと、惣流・アスカ・ラングレーの二人だけは、エヴァのパイロットと言うことで、嫌でも名前が耳に入った。
 だから、なんとなく記憶している。それだけである。
 どうして彼女がと胸騒ぎがして、こらえきれず、エレベーターへと乗り込んでしまっていた。
 ──目的は最上階である。
 父親という最大のコネを持っている彼女は、ちゃんとシンジの住所を突き止めていた。
 もしかすると、偶然会えるかもしれないと期待して、出版社にはこのホテルのレストランで打ち合わせをしたいと打診したのだ。
 ぐるぐるぐるぐると思考は巡る。
 あげくに答えは出そうにない。
 チンと音がして、顔を上げる。
 そこは最上階……シンジが住居としている階であった。


 エレベーターを降りれば、ちょっとした住居の玄関口のような扉が出迎えてくれた。
 それだけでも二の足を踏んでしまうと言うのに、これ見よがしな監視カメラがとても威圧してくれるのだ。
 マユミは内側に呼びかけるための機械……インターホンのようなものを探して、うろたえた。
 なにもない。
 きょろきょろとする。そもそもがアスカの後ろ姿を見てしまったことで、思いあまってエレベーターに飛び込んでしまっただけなのだ。
 後ろ姿を見、はっとしてエレベーターの階数表示を見て、見ている内にもやもやとした気分になって、我慢しきれなくなって乗ってしまった。
 それだけに、決意があってのことではなかった。
 帰ろう……今ならまだ間に合うと後ろ足を引く。だが遅かった。
『はい』
 きょろきょろとする。
『山岸さん? ちょっと待って……どうぞ』
 かってにロックが外れた。
 そのときになって、ようやくカメラの理由に気付いた。
 監視の意味もあるのだろうが、この階に存在するのは一室のみである。なら、来訪者は必ず正面の部屋の主に用があると言うことになる。
 機械が自動で来訪を告げ、来訪者を確認させる仕組みとなっていたのだ。
 マユミはため息をこぼし、あきらめて、ドアノブに手を伸ばした。


「どうぞ」
 コトンとコップがテーブルに置かれる。
 氷の入ったコップは、すでに汗を掻いていた。琥珀色に透けて見える炭酸飲料水が、細かく泡を弾けさせていた。
「ごめんなさい……」
 マユミは後ろめたさからか、しゅんと萎縮してしまっていた。
 土足で踏みつけるのがためらわれるような絨毯である。その上ソファーはお尻が深く沈んで、座っているのに転びそうになってしまうし、テーブルは硝子製で、いくらコースターを敷いていても、傷をつけてしまいそうだった。
 値段を考えると、とても慎重になってしまう。
「なんで謝るのさ?」
 シンジは心底不思議に思った。
 あの調子で出て行ったのだから、アスカだとは思わなかった。
 だから、たいていの相手であれば、居留守を使おうと思ったのだが、マユミだったので招き入れたのである。
「ええと……」
 シンジは弱り果てた顔をして、とにかく話題をと思いついたことを訊ねた。
「さっき、帰ってきたときに……ほんとは見かけたんだけど」
「え?」
「いや……男の人と一緒だったから、話しかけちゃ悪いかなって思って」
 違いますとマユミは悲鳴を上げて弁解した。
「そうじゃなくて! あの人は担当の人で」
「担当?」
「本の! じゃなくて、こんどのお話のことで、打ち合わせがあって、それで」
「そうなんだ」
 失敗したなぁとシンジは思った。
 これでは弾けすぎである。少し弾みがつけばいいと思っただけであったのだが……。
「大変だねぇ……すごいや」
「すごいって……」
「だって、山岸さんって、自分でお金を稼いでるってことだよね?」
「そんな……」
 それを言ったらと、部屋を見渡す。
「碇君だって、こんな……」
「これは」
 苦く笑う。
「利用されてるだけだよ」
「利用?」
 うんとうなずき、前屈みになる。
「ちやほやされて、こんな部屋にも住めるようになるんだってところを見せておけば、これからの『勧誘』が楽になるでしょ?」
 マユミは当然の反応を示した。
「勧誘って……エヴァンゲリオンの?」
「エヴァだけじゃなくて……ネルフのスタッフとかさ」
 そういうものかと、大人の世界の汚さを知る。
「住んでるんじゃなくて……、住まわされてるってことなの?」
「これで、うかれてはめをはずすようなら、まだ可愛いってことらしいけど……」
 マユミは眉間に皺を寄せた。
「なんだか……」
「なに?」
「いえ……」
「はっきり言ってよ」
 やはり先のことでまだ苛立ちが残っていたのかもしれない。
 いつにないきつい口調に、マユミはおびえて観念した。
「碇君、変わったなって、思って」
 シンジは「はっ!」っと自棄になって言い返した。
「そりゃあ変わるよ。あれから二十年近く経ってるんだ」
「あれ……って、え? 二十年」
「山岸さんにふられてからだよ」
 マユミは目を丸くした。
「それじゃ……やっぱり」
 見開かれた目が潤み出す。
「ほんとに?」
 ぐっと手のひらで涙をぬぐうマユミに、そうだよと頷く。
「たぶん、僕は、山岸さんが知ってる碇シンジだよ」
 マユミは、「うう」とか、「ああ」とうめくように嗚咽を漏らした。
 感極まってしまったようだ。
 シンジはその様子をじっと眺めた。
 そしてうらやましいと顔に出していた。
 ……彼女はきっと、なにかしら叶わない夢を思い描いていたに違いない。
 それが期待するだけ無駄だとわかっているものであっても、期待せずには居られなかった。
 そして、それが、、きっと今、満たされたのだろう。
(だから、泣けちゃうんだな……)
 自分に会えたこと……が、その夢の一つであったのだと思うのは、なにも思い上がりではないだろう。
 それにしても……。
(わからないよ)
 ねぇとシンジは問いかけた。
「なにがそんなにうれしいの?」
「え……」
 マユミは信じられないという顔を上げた。
 なにを言うのかと驚いたのだ。
 そんなマユミに、かぶりを振る。
「昔から……あのときから、山岸さんにはついていけないことがあるよ」
 シンジから見た山岸マユミという少女は、少し思いこみの激しいところがある女の子であった。
「山岸さん……覚えてる? 見送りに行ったときのこと」
 はいと言いかけて、マユミはよけいなことを思い出し、赤くなった。
「ええと、その……はい」
 こくんと頷く。
 思えばあのとき、恥ずかしいことを言ったのだ。
 そしてシンジが言いたいのは、その言葉についてであった。
「山岸さん……言ったよね?」
 ──知ってますか?
「似たもの同士はうまくいかないから、似てない方がよかった……だっけ?」
「…………」
「それって、……そういうことだよね?」
 マユミは真っ赤になったが、こくんと頷いた。
 そして期待した目でシンジを見たが、シンジにはそういう話をするつもりはなかった。
「……僕はにぶかったし、そういうのに縁もなかったら気付かなかったけど、逆に言ったら、山岸さんって、勝手に期待して、勝手に結論作って、僕が理解する前に……っていうか、気付く前に、勝手に終わりにしちゃったんだよね」
 焦った声をマユミは発する。
「それは……」
「なに?」
「ええと……」
「…………」
 シンジは待ったが、ちゃんとした言葉が聞けそうにないので、話を続けた。
「……女の子の、そういうところが、僕にはわからないんだよ」
 顔を上げたマユミに、実はとシンジは明かした。
「さっき、アスカが来てね……あ、アスカって言うのは」
「知ってます」
 じゃあ良いかと、シンジはマユミの微妙な表情の変化に気付かなかった。
「アスカも、僕に何か期待してたみたいなんだけど、僕にはわからなかったよ……いや、話を聞いても、やっぱり理解できなかった」
 じっと見つめる。
「アスカは……僕が、期待してしまうようなことをしたって言ってた。でも僕にはそんな覚えがないんだ。山岸さんにもそうだよ」
「あたしにも?」
「僕が……なにかした?」
 マユミは椅子を蹴って立ち上がった。
「『シンジ君』はっ、あたしを助けてくれたじゃない! 自分から死のうとしたあたしを叱ってくれたのも、シンジ君で、生きてみようって思わせてくれたのも!」
 そうなのかと、シンジは少し顔を伏せた。
「でも、それは、そんなの嫌だって思ったからだよ。山岸さんがいなくなるのが嫌だったんじゃなくて、人が死ぬとか、怪我をするとか、そういうのが嫌だったってだけで、そういうのって……なにか違うんじゃないのかなって」
 わかりづらいねとシンジは言う。
「僕が嫌なのは、後で気分とか、気持ちが悪くなるようなことをするんじゃないって、しないでくれよって、そういう話で、山岸さんをなくしたくないって、そんなのじゃなかったんだ。ねぇ? それでも山岸さんはうれしい? 喜べる?」
「…………」
「どうしても僕にはわからないんだ……そういう、どうして自分に都合良く脚色できるのさ? その上、裏切るんじゃないとか、期待に応えろだとか言われたって、なんだよそれって思うだろ? だから、僕は、付いていけないなって気になったんだ」
「それって……」
「ネルフを離れた理由だよ……パイロットを辞めた理由かな?」
 マユミは酷い困惑を覚えた。
 シンジの話は、どこか飛躍していて、真意がつかめなかったからである。

−Sパート−

「パイロットを……辞めた。って」
 理解できない。
 わからない。
 だからマユミは、把握できた部分をおうむ返しに口にした。
「そう……なんですか?」
「そうだよ」
 シンジはここにも誤解があったのだなと応じた。
「僕がなにかネルフの都合で、ここに来たと思ってたの?」
「それは……うん」
 マユミは正直に答えた。
「パイロットが、新兵器の開発とか研究とかで、って、お父さんも、そんなことを言ってたし……」
 半分はあたってるよと肩をすくめる。
「でも本当の理由は、残りの部分あるんだよ」
「本当の?」
「うん。そういう仕事もあることはあるよ、今までは母さんがやってたらしいけど……」
 アメリカでねと付け加えた。
「本当なら、エヴァのパイロットになるのは母さんのはずだったんだ。僕にもできたから、やってただけで」
「そうなんですか……」
 ただし、シンジは、『以前』のことは意図的に説明しなかった。
 したくもなかったからである。
 解説しようとすれば、なぜ母が死んだのか? いつ、どうやって……どうして、そのように、どこまでも内情を語らねばならなくなるからである。
 それは億劫なことだった。
「どうしても、僕が……って、そういう気が、ね……」
 マユミは眉間に皺を寄せた。
「シンジ君は……」
「ん?」
「悪い意味で変わったのね」
 マユミは口調を崩せるだけ崩した。
 面倒になったからである。あるいは失望したためだった。
 じっと見る。シンジの顔を。
 彼女の目は、在りし日のシンジの姿を重ね合わせていた。あのとき……自分に使徒が取り憑いているのだと、訴えたとき、そこは町中、戦場で、隣にはコクピットであるらしい巨大な筒がおろされていた。
 彼は奇妙な光沢の全身スーツを着用していた。そして殺してくれと頼む自分を、そんなこと、できるわけがないだろうと怒鳴りつけてくれたのだ。
 あのときのシンジは、とても感情的だった。
 その怒りとは、自分では死ねないから、殺してくれなどという身勝手さに腹を立てたものだった……のだろうか?
 それはともかくとしても……。
「あのとき、あたしは、なにかが変わったと思ったの。自分からはなにも言えない、そんな人間だった。我慢すればいいと思ってたし、わざわざ人に話して、理解してもらって、なんて、それこそ面倒だったから」
 その訴えは、比較的素直にシンジの心に響いていた。
 シンジもかつては同じ思いを抱いていたからである。
「そんなだったから、あのとき、あたしは、自分が死んでそれで終わりになるなら、簡単で良いじゃないかって思ったのよ」
 ──でも。
「そんなの、勝手だって叱られて、叱られたってことは、少し、怖かったけど、うれしかった」
「うれしかった?」
 こくんと頷くマユミのことが、信じられなかった。
「なんでそうなるのさ!?」
「そんなに、真っ正直に返してくれたのって、『シンジ君』がはじめてだったから」
 そういうことかとシンジは浮かしかけた腰を下ろした。
 かつてはシンジも体験したことだった。小父の家で、第三新東京市で、ネルフで。
 小父の家でのことだった。
 小父や小母は、当たり障りなく接してくれた。
 それはなにを話しても、受け流すような接し方だった。
 ──テスト、どうだった?
 点が良くても悪くても、叱ることも、ほめることも、とても中途半端だった。
 それこそ、上辺だけのものであった。
 学校でもそうだった。
 班を組むときには、まあ良いだろう、入れば? そのように、拒絶するでもなく、喜ぶ風でもない応対だった。
「話しかけたら、返してくれるって、そんな当たり前のことが、夢みたいで……」
 そう語るマユミのことを、ああとシンジは懐かしく思った。
 かつては自分も経たはずの感動である。
 それはミサトの家でのことだった。
 ──家族。
 それまでが、そうであったから、ミサトとの距離がつかめなかった。
 話しかけても、無駄だった。
 学校に行って来ますと話しかけても、行ってらっしゃいの一言すらも、期待させてはもらえなかった。
 だが──ある時をきっかけにして、ミサトは声を返してくれるようになったのではなかっただろうか?
 あの、第三を離れると決め、そして離れられなかった時に、おかえりなさいと迎えてくれたときから。
 話しかけることが怖くなくなったのは、彼女が無視をせず、ちゃんと話し返してくれる相手だとわかったからではなかっただろうか?
「今の『碇君』は……あたしが嫌いだった大人そのものよ」
 シンジは目を剥いて驚いた。
 じっと見つめるマユミの目に、恐怖すら感じてとまどった。
 それは図星を指されたことを示す反応であった。

−Tパート−

 ──あたしが嫌いだった大人そのものよ。
 言い放って消えてしまったマユミのことを、追いかけようとは思わなかった。
 シンジは一人になった後で、空いていた席へと崩れ落ちた。
 嫌いだった大人……シンジはその絵図を思い浮かべようとして、できなかった。
 ただぼんやりと、あの人は嫌いだと、そう思ったことはなかったなと、邂逅に成功しただけだった。
 誰それのことを嫌いだと、はっきりと意識したことは一度もない。
 小父にも、小母にも、ただ。好かれたかった。
 そしてあきらめた。
 それだけで、嫌いだと避けたくなったことは一度もなかった。
 シンジは頭を抱えるようにして、一人だけ、嫌いだと、強く思った相手がいたことを思い出した。
「父さん……」
 徐々に、少しずつ、顔を上げていく。
 ──エヴァ参号機事件。
 あの直後、初めて人を嫌悪した。


「碇」
 じっと夜の森を眺めていたゲンドウであったが、コウゾウの呼びかけに、飽きが来ていたのか素直に応じた。
「なんだ?」
「セカンドチルドレンが戻ったそうだ」
「そうか」
「シンジ君は、戻らなかったな」
 ふんと鼻を鳴らして応答する。
「つまらんやつだった……それだけのことだ」
「つまらないやつに育ってしまった……そういうことだろう?」
 やり返すコウゾウである。
「想像していたよりは、ずっとマシに育っていたのではないか?」
「どうしてそう思う?」
「別に、おびえて逃げたわけではあるまい? ただ。ここにとどまる意義を見いだせなかった。それだけに思えるがな」
「…………」
「いつかの……」
 遠い目をして語り出す。
「いつかのお前が、そうだったな。お前はユイ君がアメリカに渡った後、ゲヒルンにどれほどの価値を認めていた? 気もそぞろで、なにもかもが適当だったろう」
 それこそ、そのときの地位もなにもかもをかなぐり捨てて、彼女の転属先であるアメリカ極秘研究所に異動しようとしたほどに、だ。
「いずれ彼女はこの本部に戻り、パイロットになる。そのとき、ここにいなければならない。その制約がなければ、お前はどうしていた?」
「さあな」
「シンジ君には、ここに居なければならない理由がなくなったのだろうな」
「それは……」
 ゲンドウはわずかに言いよどんだ。
「アスカのことか?」
「ほかになにがある?」
 うさんくさいと言わんばかりであった。
「前世だの、生まれ変わりだの、わけのわからん話で煙に巻いているようだが、シンジ君自身、なにかを確かめるために待っていたのだろう。そしてその確認が終わった」
「シンジがアスカから、なにかを知り、悟ったというのか?」
「だからこそこの地を離れたのではないのか?」
「…………」
「思えば……彼は最初から、他に興味を持っていなかったのだな。ユイ君に似たレイ、エヴァ、ネルフ……なにもかもに興味を示さず、ただ受け入れていた」
「あきらめていただけだろう」
「それほど気概のないものが、あれだけの戦いをこなせるのか?」
「…………」
「俺は、お前ほどシンジ君を過小評価していないよ」
 コウゾウはなにかの資料を手渡した。
「アメリカ国防総省からだ。次の使徒だ。おそらくな」
 ゲンドウの眉が、わずかに跳ねた。


 ──それは巨大な生物であった。
 黒い空に、ゆうゆうと巨体を広げて泳いでいた。
 直径は一キロに及ぼうかという化け物である。月に影を落とし、位置する姿は、肉眼でも確認できるものであった。
 この映像は、マスメディアによって報道され、すぐにも政府の広報活動が盛んになったが、順序としてはおかしく、なにか意図的なものを感じさせた。
 使徒関連の情報が、なぜこうも簡単に、そして検閲も受けずに放置されることになったのか。
 作為があるとしか思われない対応具合であったのだ。

−Uパート−

『ではこのような怪生物が突然、なんの前兆もなく現れたというのですか?』
『予兆はすでにあったとのことですが』
『セカンドインパクトですか』
『当時、南極には調査団が派遣されておりまして』
 シンジはいくつかのチャンネルに合わせ、コメンテーターの芸のない意見交換を流し見ていった。
 ベッドの端に腰掛け、リモコンを握っている。
 やがて見る場所が無くなったのか、リモコンを放り捨て、じっと考え込むように手を組み合わせた。
 陰に顔を隠し、黙考する。
 リンゴーンと、とても大きな音が鳴った。それは来客を告げるものだ。
 音は自由に選べるのだが、シンジは初期設定のまま、放置していた。
 誰だろうと、わずかに首を横向ける。
 来訪者を感知するセンサーが、小型の液晶テレビにカメラからの映像を流していた。
 そこには少し思い詰めた顔をしている、軍服姿の、霧島マナの姿があった。


 ──ほんとうなら。
 マナも女の子である。
 それも積極的なタイプであったから、後詰めの必要性は感じていた。
 最低でも電話はかける。今日は……と、もう少しだけ、延長時間を持ちたく思う。
 しかし彼女は、さらに積極的であったから、彼の部屋に押しかけてみるもの良いかなと考えていた。
 なにか気に障るようなことを言ってしまったこともわかっていたから、それが気になって気になって、どうしようもなくなってしまったのだと、理由付けも確かにあった。
 しかし、このような理由で来たいとは、彼女は考えていなかった。


(わたくし)、霧島マナ三等士は、本日フタフタマルマルをもちまして、特別任務を解除、本隊に復帰します」
 見事な敬礼でシンジに伝える。
 シンジの真正面で敬礼をしているのだが、視線はやや上を向いていた。
 彼の頭髪を視界ぎりぎりに納めて、顔を見ないようにしているのだろう。
 口元は引き締めるようにして、歯を食いしばっていたし、何かに耐えようとして必死だった。
 ──実際、悔しいのかもしれない。
 半分は任務であったが、残りの半分は、純粋に好意があったからである。しかし命令が下れば好意を切り捨て、任務を優先しなければならない。
 そのような人間に対して、彼がどう思うかなど、わかりきったことである。
(これで終わりか)
 無事に日常が帰ってきたにしても、彼はきっと、どこかぎこちなくなっているだろう。
 あるいは露骨に避けられることになってしまうのか?
 そうなったならば、自分以外の誰かが彼の相手を務めることになる。任務を引き継いで、お相手を務めるのだろう。
 自分のように──あるいはきっと、自分よりも、ずっとうまく。
「……あ」
 あのっ! ──そう叫びそうになって、マナはなんとかこらえた。
「え……と」
 下を向く。ベレー帽が落ちそうなくらい顎を引く。
 前髪で顔を隠し、マナはぽつぽつとこぼした。
「一応、治安維持目的の出動になってますけど、あんな大きなものが落ちてきたら、もし迎撃に成功したって……」
 衝撃波は確実に生まれるだろうし、それに吹きさらされて生き残れるなど、楽観的に考えられることはなかった。
 違う、こんなことを話したいんじゃない。
 その想いが、体の震えに出ていて、見ていられなかった。
「霧島さん……」
 使徒に対して、シンジはあまり恐怖心をおぼえていなかった。
 エヴァに乗って、使徒と戦うことに慣れすぎたシンジには、初期の使徒に対する恐怖心を思い出すことはできなくなってしまっていた。
(なにか……)
 言わなくちゃいけない。
 声をかけてあげるべきだ。
(それはわかるのに)
 なにも言えない。
「…………」
 マナの沈黙につられるように、シンジもまた口ごもりそうになってしまった。
 ──しかし。
(駄目だ!)
 何か言いたい、言わなくちゃいけない……なのに言えなくて、後になって悔いる。
(逃げちゃダメだ!)
 そんな自分に嫌気をおぼえる。
 シンジはぎゅっと拳を握った。
 握り混み、握りしめ、爪を立てた。
 ぎゅっと音がしたほどだった。
(逃げちゃ……ダメだ!)
 顔を上げる。
 ──それはシンジが、人生の中で、一番学んだことでもあった。
 ここで何かを口にしなければ、後にはなにも繋がらない。
 後になって、また顔を合わせても、そのときのことがしこりになって、きっとうまくは話せないのだ。
 逆に、ここであきれられるような、たとえ嫌われるようなことでも口にしておけば、それは縁となって残り、きっかけとなって後を引く。
(霧島さん)
「霧島さん」
 シンジは、はぁっと深呼吸をした。
 それは自分を落ち着かせると同時に、なるべくうまく、なにかを伝えるために、集中しようとする行為であった。

−Vパート−

 待機室は、重苦しい沈黙に包まれていた。
 零号機パイロット綾波レイは、じっと正面の壁を見つめていた。
 弐号機パイロットはせわしなく足を揺すり、そして初号機パイロットである碇ユイは、まぶたを閉じてやや顎を上向きにしていた。
 それぞれが、それぞれのシートに腰掛けている。
 だが誰も他者に意識を向けようとしていなかった。
 ──勝てない。
 すでに結論は出ていたからだ。
 直径一キロを越える物体が、成層圏から落ちてくる。
 それを物理的に止める方法など、どこにもありはしなかった。
 たとえ迎撃に成功したにすれ、これまでの戦闘記録から、使徒は消滅時に、かなりの熱量へと変換消失するだろうことが予測されていた。
 ……どうなろうとも、関東一帯は焼け野原となるのである。
 これは世界的な問題であった。
 すでにセカンドインパクトによって、南半球が失われている。現在、国家レベルで経済活動が行われている国は、そう多くはないのである。
 そんな救済を受け、救済する側に回るまで復興した日本が、この戦闘によって脱落する。
 ネルフはすでに、Dレベルでの特別宣言を行っているはずであった。
 これはあらゆる資産、資源の運用、取引を停止し、同時に国連加盟国に存在するすべての施設、設備、装備の運用権を徴発する、というものである。
 今頃国連では、大きな騒動となっているはずであった。新開発されたn2高空爆雷が、なんの痛痒も与えられずに終わっている今、次は核しかないと言う発想が、当たり前のように浮上してしまっているからである。
 しかし、頭上……数千メートルで、ATフィールドの向こう側へと衝撃を伝えられるほどの核の花を咲かせたならば、どうなることか。
 残るわずかな生息圏……北半球は核の放射能に汚染され、失いかねない事態となるのは明白であった。
 あげく成層圏での核爆発は巨大な電磁波を発生させ、地表にある電子機器を破壊する。
 そうなれば復興も何もない。文明の消失が待っていた。
 ユイは考える。
(だからと言って、このままではね……)
 落ちてこないかもしれない……そんなことを言い出す者まで現れている。
 それはあまりにも希望的な観測に過ぎるのだが、ユイは、放置することもまた問題であると考えていた。
(使徒の成長は続いているわ……初期ほど爆発的なものではないにしても、このままでは……)
 太陽が遮られ、地表の一部は影の差す世界となるだろう。
 そうなれば、気温は氷点下に達し、世界的な異常気象の元となる。
(ジオフロント……いいえ、ネルフはそれでも耐えしのぐことができる。地下数キロの地点から引き上げている熱があるから、森も……日を必要としない植物の類は生き残ってくれるわ。人工太陽だってあるし。でも補給が途切れたら機械は止まる)
 S2機関の搭載後であったなら……それがユイの心境だった。
 機械が止まろうとも、人造人間であるエヴァには、新陳代謝という機能がある。
 本体は自己メンテナンスによって、補給なしに調子を整え続けるだろう。
 だがそれも、戦闘が無くばの話であった。
 戦闘を行うためには、待機状態と違って、大きなエネルギーが必要となる。
 その発電を行うのは……機械である。
 地表が滅んだとしても、人類という種が永劫に抵抗を続けるための最後の砦。
 この発想から、最終的なビジョンが決められ、設計されているのが本部である。
 人という種が立てこもるための施設と、補給もメンテナンスも必要としない防衛兵器。
 だが今だ本部施設は建設の途中であり、決戦兵器も未完成のままであった。
(このままじゃ……)
 勝てない。引き分けにすら持ち込むことができない。
 ユイは記録で見た。初号機──シンジの戦いぶりを思い起こした。
 特に、業火の翼を開いて、天空に舞い上がろうとしたあの悪魔のような姿の時を。
(やはり……わたしが乗るよりも)
 しかし、ユイには、もはやシンジを呼び戻すだけの、説得材料が見あたらなかった。


 ──マナは、シンジの告白に、眉間に皺を寄せていた。
 別段、シンジの話が信じられなかったからではない。
 それは信じる、信じない以前の話であった。シンジは一度、この『時間』を体験し、その中で、霧島マナ……自分と会っているという。
 その自分は、戦略自衛隊からスパイとして現れ、そしてムサシとともに去っていった。
 シンジがムサシのことや、ケイタ、トライデントのことを知るわけはないから、ある程度の信憑性はある。
 しかし、事前に調査して、話を作ることはできるのだから、嘘だと言ってしまえばそれまでのことだ。
 が……問題は、そこにはない。
 シンジが、その話を通じて、なにを言いたかったのか、だった。
「シンジさん……」
 シンジは、どうせ嘘だと思われているだろうなという顔をしていた。
「僕は、だから……君になら慣れがあるから、少しはうまくつきあえるかもって思ってた。ごめん」
「…………」
 とぎれとぎれに、話は続く。
 それは、シンジが、なるべく嫌われないようにと、おびえながら話しているがためのことでもあった。
「霧島さんが、わざわざお別れを言いに来てくれたことはうれしいけど、でも」
 だからと言って。
「僕には、君を、好きになることはできなかったよ」
 やっぱり……と、彼は遊覧船の上で見た。霧島マナの姿を思い浮かべた。
 風邪にスカートが足に張り付き、揺れていた。
 飛びそうになる帽子を手で押さえて笑っていた。その顔は、ワンピースの服も、湖面の照り返しを受けて、とても白く光っていた。
 ──でも。
 それはお別れであるからと告白するような話であり、だからこそ、とても居心地が悪くなっていく流れでもあった。
 マナは、そんな状態から、じゃあ、行ってらっしゃいと口にされ、部屋を出ることも、とどまることもできなくなった。
 心の奥に、嫌なものが残ったからだ。
(これで……良いの?)
 シンジの話が、嘘か、本当か、それは違う。どうでも良いと、彼女は思った。
 問題は……。
「霧島さん?」
 動こうとしない彼女の顔を、シンジは怪訝な思いでのぞき込んだ。
「どうしたの?」
 マナは、形にならない想い……考えを、口走った。
「シンジさんは……」
 マナは、とても苦しそうに、シンジに訊ねた。
「わたし……に、ね? 前のわたしを見て、前のわたしのことを考えながら、今のわたしと、うまくつき合おうとしてくれてたんですか?」
 シンジは罪悪感に満ちた顔をしてそれを認めた。
「そうなるね……」
「でも……」
 マナは、でもと、強く、強く、繰り返した。
「わたしは、『前』の碇さんを、知りません」
 なにをとシンジは目を丸くした。
「それは……そうだよ」
「そうじゃなくて!」
 うまく言えないと、マナは帽子を取り、胸の前で両手で持って握りつぶした。
「あたしにとって、シンジさんは、一人です!」
「う……ん」
「だから! 今、ここに居るシンジさんが、あたしの好きなシンジさんで、そのシンジさんは、色々あったみたいだけど、そういう経験をしてきたシンジさんで」
 言葉と気持ちが空回る。
「シンジさんは、その、キ……キスしたって、あたしと、ここに居るあたしと、二人の女の子を比べてて」
「…………」
「シンジさんが、好きになったあたしは、あたしとは別人で」
 髪に手を差し込み、頭を掻く。
「シンジさんが、考えすぎるのは……仕方のないことかもしれないけど」
 手を抜き、顔を上げ、彼女はまっすぐにシンジを見つめた。
「あたしからは、シンジさんは、一人なんです!」
「え……と」
「あああ、そうじゃなくて!」
 うまく伝えたいと、彼女はシンジに詰め寄った。
「シンジさんがうまくあたしを好きになれなくても、あたしがシンジさんを好きでいることに、なにか関係があるんですか!?」
 シンジは思わず言葉に詰まった。
「……それは」
「ないですよね!」
 その気迫に、シンジは押された。
「はい……」
「そうですよね!」
 念を押して、マナはにんまりとし、シンジから離れた。
「正直、シンジさんのいうことは、わけがわかりません」
 がっくりとくる。
「そうだろうね……」
 マナは逆ににっこりと笑った。
「でも、シンジさんが、なんとなくあたしを避けたくなってて、距離を置こうとしてるのはわかりました。けど」
「けど?」
 聞き返したシンジに、マナは不意をつくようにキスをした。
 さっと唇をかすめ取るように触れ合わせて、彼女は再び離れていった。
 そして言った。
「シンジさん」
「え……はい」
 にっこりと笑って……。
「シンジさんの知ってるあたしがどうして、どうなったかなんて、関係ないです」
「…………」
「ここに居る」
 胸に手を当てる。
「あたしは、一人だけだってこと、それをちゃんと気付いてくださいね」
 それじゃあと彼女は身を翻した。
 やはりどこか、逃げるような、悲しみに似たものが感じられたが、それはシンジの感じ過ぎだったかもしれない……それでも。
「…………」
 シンジは唇に指を当てて、顔を落とした。
 しかし目は扉を……マナが出て行った先を見ていた。
 あるいは彼女の言葉から、とても重要な何かに気付き始めていた。

−Wパート−

 ──シンジから見たマナは二人いる。
 ここにいる霧島と、過去に出会ったマナである。
 それは、シンジにとって実に当たり前で、彼の中ではふたりは一人であり、別人でもあった。
 ──しかし霧島マナから見た時に、碇シンジは一人であった。
 これもまた。実に当然の話であった。なのにシンジは、そのことに今の今まで、まったく気がついていなかったのである。
 以前に知り合った霧島マナと、ここでつき合いができた霧島マナとは別人なのだ。
 少なくとも、別人ではなくとも、繋がってはいない。重なりはない。
 重ねようとしまっていただけだと、ようやく彼はそこに至ることができていた。
 ──二人目の霧島マナと、いったいどうつき合っていけばよいのだろうか?
 そのことにどれほど悩んでみようとも、『初対面』である霧島マナには、意味不明な苦悩であるとしか認識できない。
 これは、そのような類の問題であった。
 そう──。
「それだけのこと……か」
 シンジはどっかりとソファーに倒れた。
 いや、体から力が抜けて、座り込んでしまった。
「それだけの……」
 二人はまったくの別人である。
 シンジの中の天秤が、傾いた。


『使徒の反応を確認。パイロットは所定位置に』
 放送を聞いて、アスカはゆっくりと顔を上げた。
 彼女はなにかを決断していた。
(あたしは期待しすぎてた)
 だから、彼女は、シンジを忘れた。
 思い煩うことはないと、くだらない少年であったと切り捨てた。
 ──事実、そうであったのかもしれない。
 いつも彼は、一つばかり遅いのだ。
 あの夏もそうだった。そして赤く染まった湖のそばでもそうだった。
 自分はいつも、そこに生きていた。その場所で、自分はどうやって生きてゆけばよいのかを悩み、そして決め、邁進して来た。
 一生懸命にやって来た。
 だが彼はどうだっただろう?
 どうしてよいのかわからずに、自分で見定めようとはせずに、他人にあわせて、生きているつもりになっていた。
 だから、取り合うのが面倒なのだ。つきあうのは楽だが……合わせてくれるのだから。
 しかし、それは駄目な類の楽であろう。
 そんなシンジであったけれど、今世ではどうだろうかと思っていた。使徒と戦う様を見て、少しは治ったかと思っていたが、それもどうもだめだったようだ。
(なら、あたしはあたしで生きていくだけよ。もうこだわらない)
 アスカの足取りに迷いはなかった。


 ユイは颯爽と出て行くアスカを見て取り、シンジは捨てられたなと感じ取った。
(それもまたやむなしか)
 彼女は前世の話など信じてはいない。
 だが、もし仮にそれが本当のことだったとするならば、想像できることが一つだけあるのだ。
(すべてが終わった世界で生きていく……その寂しさの中で、あの子は寄り添い合うことを覚えたんでしょうけど、シンジは依存を覚えただけだった。そういうことなんでしょうね)
 人を怖がっていたシンジは、甘えたがりな自分を隠して、一人でも生きていけるさと強がっていた。
 だが、すべてが終わった後で、そんな強がりさえも吐けない、とてももろい存在に堕ちていたのだ。
 アスカに頼り、頼られる存在になろうとはせずに、頼られたことはこなせる程度になり……そうした生き方を、なんとかできるようになっていただけだった。
 アスカの想像するたくましいシンジの姿は、結局、そんなアスカに合わせた演技であったのか、あるいは、情けない姿をさらすアスカに耐えきれなかったシンジの、憤る姿であったのではないかと想像することができる。
 ──でも。
 ユイは気むずかしい顔をしていた。
(それでは便利なだけの人間よ。……その上、失敗して、見下げられることを怖がって、ほめられることを望んでるんじゃ、動物と差がないじゃない)
 シンジは変わるきっかけを得られるだろうか? アスカは自分の選択を良い方向へと持って行けるだろうか?
 彼女は母親としての観点から、子供たちを見守った。


 ──見下ろせば人と車が逃げていく。
 列をなし、群れとなって流れていく。
 しかしどこか混乱していて、スムーズさにかけていた。
(きっと、間に合わなくて、みんな死ぬ)
 ──それだけのこと。
「は……、はは」
 シンジは前髪に手串を差し込み、わしづかみにして力を込めた。
 頭皮に強い痛みを感じる。それはしびれにも似ていた。
 情けなさに涙がにじむ。
(考えてなかった! 考えたこともなかった!)
 小父の家で、ただ時間が流れていくに任せていた。
 以前と同じく、時が流れ、過ぎ去っていくのを眺めていた。
 しかし、違うのだ。
 皆、今、このときを生きているのだし、歩んでいる。
 アスカもそうである。
 見知った道を、違う歩き方で、進んでいた。
 ただ。自分は、そんなみんなの背中を、知っている背中を見て、追っているだけで、道を歩いてなどいなかった。
「そんなんで、僕は……」
 なにを悟ったつもりになって、わかった気になっていたのか?
 しかし、もう遅いのだ。
 誰も彼もに見放され、捨てられている状況で、今更悟ってなんになるのか?
 ──天を見上げる。
 そこには巨大なものがいる。
 夜が過ぎ、昼になろうというのに、世界は不自然に暗く、灰色の夜の中にあった。
 列島は闇に包まれ、その影響は世界規模に及んでいる。
 太陽光が一日二日当たらぬだけで気温は耐えられぬほどに下がるものだ。
 その冷気にあてられ、世界各地で異常気象が発生している。
 海には大雨が降り、風が荒れ、雷が落ち……。
 陸地には暴風が渦を巻き、ハリケーンとなって横断していた。
「だから……?」
 シンジは薄暗い空と、白む雲の向こうにいる使徒へと問いかけた。
「だから、僕を殺しにくるの?」
 この時代に生きようとしていない者だから。
 使徒は人と覇権を賭けて戦う存在だから。
 だから、次世代の人となる可能性を持った生き物たちを、むやみに戦いへとは巻き込まない。
 だが、認められる者は敵として認めて戦う。
 ──そんな中に、自分がいるのだ。
 戦うべき価値すらない存在として。
 同じ種として、認められないものとして。
「僕は……」
 なんて情けないんだろう?
 シンジの右手は、小刻みに震えていた。
 シンジはそれを押さえるように、わずかばかりに指を動かし、そして強く握り込んだ。
 決意を表すようにして、だが。

 ──それでも、すべては遅いのだ。

「僕は……」
 シンジは、天を揺れる瞳でじっと眺めた。
 もし……もう一度、チャンスがあるなら。
 そんな情けないことを、それでも考えながら、じっと天を眺めたのだった。

−Xパート−

 ──使徒が来る。
 アスカは空の悪魔に集中し、シンジのような些末事を忘れた。
 ──ユイはかまえた。
 アスカが先手を取るという。
 今のアスカならば空も飛べる。
 ただし、S2機関があるわけではないから、電力供給ケーブルの長さが許す高度になるのだが……。
 それでも、ケーブルは、曲がりくねった都市部の道路を歩き回ることを想定して、数千メートルの長さを持って用意されている物である。
 十分な高空で、迎撃ができる。
 アスカが受け止める。それをユイがねらい打ち、レイが爆発から大地を守る。
 それが作戦の流れである。
 そして……来た。
「いくわよ……」
 これは自分と弐号機を発憤させるための言葉であったが、ユイとレイは、自分たちにかけられた言葉だと思い、うなずいた。
「Gehen!」
 五歩の助走と、強い踏切り。
 弐号機は、甲板でもある第三新東京市のメインストリートを踏み割って、離陸した。
 まさにかき消えるように、そしてその動きを追って、電力供給ケーブルが上っていく。
 ギュルギュルと音をさせて、空の頂へと登っていく。このケーブルの重さは何十トンにもなるだろうが、弐号機は意に介さずに引き上げていく。
 ──使徒と接触します!
 マヤの叫びと前後して、空に金褐色の波紋が広がった。
 ゴーン……と、荘厳な音が鳴った。
 雲が払われ、一種幻想的な光景が演出される。
 ──黄昏の空。
 だが、それは破滅と紙一重の時間でもあった。
「ユイさん!」
 アスカの声に、ユイはねらいを定めて飛ぼうとした。
 シンジほどではなくとも、彼女も十分にエヴァンゲリオンを使えるのだ。空を飛び、使徒のコアを破壊することくらいはできるはずであった。
 しかし──レイが、ぽつりと彼女たちの邪魔をした。
「ずれているわ」
 初号機はたたらを踏むようにして止まった。
 ユイに合わせて兜を上向け、空を見上げる。
「まさか!」
 予測では、第三新東京市のどこかに落ち、大地をえぐり取るのだと思われていた。
 そうして、本部を根こそぎ破壊しようとしているのだとも……なのに、使徒は、別の方角へと向かおうとしていたのか、傾いていた。
「マヤ!」
「はい!」
 リツコの悲鳴にマヤはあわてた。
 受け止めるためには、水平でなくてはならない。でなければ、傾いでいる方向へと、ずれ落ちていってしまう。
 計算が……間違っていたのだ。
「解析、でました!」
 マヤは叫んだ。
「軌道を確認! 使徒は直前でコースを変更しています! これって!」
「どうしたの!?」
「使徒は筑波を狙っています!」
「学研都市を!?」
 次いで、モニターに、もし、弐号機のじゃまがなければ、使徒がどこに落ちたのか?
 その最終到達地点が映し出された。
 実際の映像も……ふと、ミサトが口にする。
「どうして落下地点の映像が出せるのよ?」
 つまり、そこには、あらかじめMAGIがモニターできるように許された。特別なカメラがあったということになる。
 国連の一機関であるネルフが、日本国内をモニターするためには、それ相応の許可がいるのだ。
 そして、ミサトは、その映像が映し出している建物と、建物の最上階、窓枠に映る少年の姿に、唖然となった。
「シンジ君!?」
 ──そして。
「どうして彼があそこにいるのよ!?」
 その背後に、渚カヲルの姿があった。


 ──二人は、じっとたたずんでいた。
 シンジは空を見上げ、カヲルはその背中を見つめていた。
「驚かないんだね」
「僕? ……だって、カヲル君は使徒だろう?」
 論点が違うと、カヲルは肩越しに見るシンジに笑い返した。
「どうしてと、思わないのかい? どうして今、ここに、君のそばに現れたのは、なぜなのかと」
 つまらないことをと、シンジはそっけなかった。
「僕を殺すためでしょう?」
 視線を戻す。
「あの使徒が……」
 ここからでも、使徒ははっきりと見える。
 それを受け止めているなにかがいることも、わかる。
「僕をつぶすまで、待てないの?」
 僕はとカヲルはやり返した。
「君を助けに来た……つもりだったけどね」
 歩き、水差しに手を伸ばし、コップを探す。
 そして見つけて、水を注いだ。
「アスカちゃんは……あと、よくて二十秒か」
 使徒を獲り逃すまで。
「今は、君の、死に際の姿を見たいだけさ」
「カヲル君……」
 彼はとても酷薄に笑った。
「君に夢見てた」
 空の均衡が崩れ、金色の円環が八方に消える。
「なのに、夢は壊れた」
 使徒がまた近づき出す。
「君は、とてもくだらなくなってしまっていた。だから、もう、良い」
 人のように夢見ていたことが、人のように夢破れ、彼は、人のように落胆し、人のように自棄を起こしていた。
「君の自棄につきあって、僕も自棄を起こして、死んでみるのも、一興だろう?」
 だが、それを許さない存在があった。


 ──碇君!
 レイは、突然に零号機の身を翻させた。
 彼女は、違っていた。
 アスカのように、見限るわけでも、ユイのように、落胆するわけでもなかった。
 なぜならレイは彼女たちほど、シンジのことを深く思ってはいなかったからだ。
 ──彼女は、恋する乙女ではなかった。
 恋とは、相手に強要することである。
 夢や、理想があって、それにつきあってくださいとお願いするものだ。そしてアスカにとって、シンジはそれを頼むつもりの相手であったが……。
 破綻した。
 しかし、レイにとって、シンジは愛すべき人であった。
 愛とは、無償の行為である。
 代償を求めず、ただ。そうしてあげたいから、するだけのことだ。
 深く愛しているわけではない。
 それでも、守ってあげたい、助けてあげたい、聞いてあげたい、わかってあげたい……つまりは、『かまってあげたい』と思う程度には、愛すべき親人であった。
 ──エントリープラグの内部が、赤く変わる。
 それは、彼女にとって、決して良くない兆候であった。

−Yパート−

 紅く染まるエントリープラグ。
 その中に人の姿はない。
 だが人の在った場所に、赤い二つの光が爛々と輝き、怒りに満ちて天空より来る覇者の姿を捉え、にらみつけていた。


 ──エヴァが駆ける。青いエヴァが。
 疾駆する姿は人から獣へと還っていく。二つの足では遅いというのか、前傾姿勢からそのまま倒れ、四つの足で駆けだした。
 二本の腕が、太くなり、長くなる。
 二の腕が腿ほども丸くなり、手のひらは縦に長くなって、地をえぐりつかむための爪を生やした。
 肩が一つ後ろに下がる。関節が外れたのではなく、移動したのだ。まさしく地を駆ける獣のように、足よりも胴が長くなり、腰を激しく振って、その伸縮さえも速度上昇の手助けとする。
 運動量が余すところなく地に伝えられ、今や彼女となった機体は、爆発的な加速を持って空気の壁を突破した。
 ──地上を疾走するという形で、音の追いつけない世界に突入したのだ。恐るべき加速であるが、それでもまだ使徒の墜落には間に合わない。
 シンジの住む土地を破壊するには、その数十キロ手前に落ちてさえ十分に間に合うのだから。そして、使徒にとっては都合が良く、彼女にとっては不幸なことに、シンジは衝撃波の余波を受けやすい、高層ビルの、それも最上階に位置していた。
 ──巨大質量の落下は地を這うような衝撃波を発生させる。その波動は遠く山さえも越えて駆け抜けて、シンジのビルを揺るがせるだろう。
 倒壊するビル。シンジが逃げ延びる方法はない。それは確実に死亡することを意味していた。
 ──獣の首がごきごきと鳴る。
 人の首は、四つ足で前を見るには向いていない。
 そのための措置なのであろう、首がのびて見えた。背骨の異常発達に連動してのことだった。
 仮面の前方にひびが入る。内側の頭骨が成長しているのだ。内部からの圧力によって押し割られた仮面の隙間より、獣の瞳がのぞかれた。
 赤く、赤く、それはプラグに残されていた光と同じく、爛々と輝いて見えた。
 ──発令所にて、ミサトが叫んだ。レイはどうなっているの、と。
 そしてリツコが、絶望にうちひしがれた答えを返した。
 変形した肩胛骨と、背骨に挟まれ、背部の装甲は壊れ、もげかけている。
 そのようなブロックに固定され、延髄へと打ち込まれているはずのエントリープラグである。
 へし折れているのは明白であった。
 ──あれじゃあ、レイは、もう。
 それが答えである。
「じゃあどうしてエヴァは動いているのよ!」
「暴走……」
 ただ一人、この現状を正しく理解している人間がいた。
「まさか……」
 アスカである。
 彼女は、この現象に、過去のことを思い出していた。
 直接見てはいない。自身のちっぽけなプライドを守るために、現実を直視することができず、逃避してしまって、確認することができなかった現象だった。
 パイロットを取り込み、そのパイロットの意志を具現化し、動く機体。
 今、零号機はその状態にあった。
「シンジを、守るって言うの?」
 ぶるりとふるえる。
 四つ足で走ることさえもどかしいというのか、零号機の四肢が地から離れた。
 そして後ろへと流れ、胴部と一体化する。
 こねるように、ねじれるように絡みついて、ついには一本の槍となり、光となって加速した。
「まさか!」
 ユイが絶叫する。
「ロンギヌスの、槍!?」
 なぜユイがそんな連想を行ったのか、アスカに想像する暇はなかった。
 ただ。記憶の中にあるレイが投げた物体と、今、地表を疾走し、天に矛先を向けようとしている光の剣が、アスカには同じ物と思え、ふるえてしまった。
(ロンギヌスの槍って……ロンギヌスの槍って!)
 二叉の矛のことを指すのではなく。
(レイが持って初めて意味のある槍だってことなの!?)
 その意味するところはどこにあるのか?
 アスカは本能で悟ってしまった。
(あたしは……)
 レイは、そこまでの意志を内に抱いて、行動できるのだ。
 司令を信じるのであれば、司令を思って自爆もできるし、シンジを大切に思うのであれば、シンジを守るために槍にも化ける。
 だが、自分はどうなのであろうか?
(あたしには……)
 首をうなだれるようにして、弐号機は、その場の宙に漂った。
 機体の正面では、灼熱する大気をまとわりつかせた巨大な円盤形の物体が地表に到達しようとしている。そして、それを下部より撃ち抜くべく、閃光が寸前にまで迫っていた。
 ──自分は、矮小な人間だと感じる。
 レイは、人に思いを馳せて、素直にそれを表している。
 だが自分はシンジを思っていたようでいて、やはり自分を思っていたようだ。
 だから、シンジが、自分を見限るのであれば、シンジのことを気に病む必要はないのではないかと捨ててしまった。
 捨てられたからといって、見放されたからといって、だからどうだというのだろうか?
 彼のことを思っているなら、それでもと気にかけ続けるのが普通だろう。だが、自分は、見返りをくれない彼のことを、嫌ってしまった。
 ──その差が、今ここにある。
 いや、ずっと昔からあったのだろう。
 レイはそのことを見せつけてくれている。
 自分をかまうシンジのことは好きでも……。
 情けない彼のことを愛せなかった自分との差を。
 アスカは、使徒が閃光に撃ち抜かれ、一瞬浮き上がるのをぼんやりと眺めた。
 ──レイである物は、使徒の寸前で止まっていた。
 そして彼女が放出していた閃光は、慣性の法則のままに天に昇って、使徒を撃ち抜き消えていった。
 使徒は、爆発し、レイである物は光の人、金色の少女の姿となって、四肢を広げ、翼を開くように障壁となって地を守った。
 ──綾波!?
 アスカは、シンジの叫びを聞いた気がした。
 そして、馬鹿……とつぶやいた。
(また……後悔してる。死ぬことなんて、たいしたことないって、それだけだって思ったんでしょうけど……)
 彼には、自分のために、死のうとする人間がいることを、想像することができなかったのであろう。
 だから、この結末に至ってしまった。
 自分の身勝手から陥ってしまうことになったこの結末に、彼はなにを思うのだろうか?
 アスカは、底なしの敗北感の縁から、彼のことに思いを馳せて、自分を考えないようにした。

−Zパート−

 アスカがうなだれ、誰もが唖然とする様子の外に、シンジはいた。
 レイが犠牲になったことを、シンジが悔やんでいるといった光景は、アスカの勝手な想像にすぎない。
 シンジに認識できたことは、ただ使徒の真正面になんらかの光が立ちはだかり、その光が人の姿を取ったことがわかっただけであった。
 ──だから、渚カヲルは、シンジのそばに立ったのである。
「散ったね」
「え?」
「綾波レイ……彼女がさ」
 シンジは最初、その言葉の意味がわからなかった。
 シンジが見たのは、光が飛んできて、それがATフィールドのように、あるいは人のようになったこと、それだけである。
 レイが風となったのは、シンジの立つ場所からは見えぬ、山の向こうの話である。
 だが、そんなシンジにも、徐々に徐々に、カヲルの言葉の意味が見え始めていった。
「まさか……」
「そうさ」
「綾波だったの!?」
 目を丸く剥くシンジに、でもと続ける。
「死んだわけではないよ、ただ還っただけだ」
「え……」
 困惑するシンジに、お得意の、遠回しな説明をぶる。
「君たち、第十八使徒、人類は、進歩する能力を手に入れたことで、進化することを忘れてしまった」
「…………」
 なにを言ってるのさと、いぶかしげにするシンジである。
「だが、僕たちは、根本に置いて進歩するということを知らない『人種』だ」
「それがなんだよ……」
「と同時に、進化する能力を持ち合わせている……彼女は、『以前』のことで、記憶と感情、『心』をよみがえらせる方法を学習したのさ」
 以前というのがいつのことなのか、シンジは思い出すために数瞬を要した。
 そしてそれが三人目のことだと思い出し、思わず顔を跳ね上げ、視線を合わせた。
 そこには渚カヲルの目が待っていた。
「僕と同じようにね」
 シンジは一瞬、迫力に飲まれた。
「それが、今、君たちが記憶を持っている理由だって言うの?」
「シンジ君たちとは違うんだよ」
 だが同じでもあると語る。
「彼女は、君の婚約者として想定し、作られたそうだね」
 シンジは眉間にしわを寄せた。
「ここでの話だよ」
「そうさ。でも、そのことが彼女に運命といった夢を感じさせた。その感情が連鎖を生んで、以前の彼女の記憶をよみがえらせた……わけだけれども」
 彼はシンジの隣に立つと、遠くの峰の、その向こう……ネルフのある方角へと顔を向けた。
「彼女は、死んでも、予備のボディがある……そちらに還ればいいと考えたのだろうけれど」
「そんなことができるの?」
「簡単なことではないよ」
 なによりもと告げる。
「あらたなボディには、あらたな記憶層が存在している。たとえ同じように、君のことを夢に見る少女になったとしても、今度のように、『以前』の記憶を取り戻すとは限らない……こればかりは運だからね」
「運……」
「なんらかの強い刺激が、そのきっかけとなる引き金を弾くかも知れないけれど、期待できるほどのものではないんだよ。まさに奇蹟と言うにふさわしい確率の低さなのさ」
 その確率を埋められる何者かの介在があれば別だがと口にするカヲルに、シンジはなにが言いたいんだよと、とても不満そうに唇を尖らせた。
 だからなんなのさと言いたくなる。
「わからないかい? わからないだろうね……」
 カヲルは嘲笑を隠すように、不自然な笑みを口元に浮かべた。
「君には、二つの道があるということさ」
 向かい合う。
 そしてまっすぐにシンジを見つめた。
「君は、変われるかい?」
 え……と、シンジは動揺した。
「変われたかい?」
 シンジは顔を背けた。
「なんでいま、そんなことを言うんだよ……」
「進化することを忘れた人類の中で、進歩することができない。それでは最低だとは思わないかい?」
 馬鹿にしてと、シンジは唇を噛み、拳を握りしめたが、それがまた紛れもない事実なだけに、言い返せない悔しさにふるえた。
 ごんっと、彼は背後の窓にその拳をぶつけた。
「やめてよ」
 カヲルは容赦しなかった。
 いや……ここからが本題だったのである。
 薄ら寒く、彼は笑った。
「良いことを教えてあげよう……君が……君と惣流さんだけが、どうして生き残ることができたのか」
「それは……」
 シンジは、アスカの考察を持ち出した。
「それは、僕たちが、エヴァに乗っていたから……エントリープラグに」
「違うよ」
 あっさりと否定する。
「確かに、葛城さん……葛城ミサトは、エントリープラグの試作品に乗せられたことで、南極での災害を逃れることに成功した……だけど、それは、計算された……そう、アダムの意志にすぎなかった」
「アダムって……」
「なんのために? 決まっているよ」
 他の世界のためさと、カヲルはシンジを唖然とさせた。
「他の世界のためって……」
 シンジはあえぐ。
 パラダイムシフトを知っているかいという問いかけに、シンジは小さくうなずいた。
「アスカから聞いたよ。ゼーレはそれを狙ってたんだって」
「正しくは、アダムさ」
「アダム……また、アダムなの?」
「そうだよ。アダムは始祖だ。人類の、使徒のね? そしてアダムは人に次なる段階を求めた。そのためには、盲目的に、何かを信じて、ひた走るような、そんないくつかの人間を求めた」
「それが僕?」
「いいや、ゼーレと呼ばれた組織にいた人たち。そして、葛城さんだよ。そのような流れの果てに、君という人間が生まれたんだ」
 シンジは怪訝そうにした。
「僕という人間? 生まれた?」
「そう……笑えるよ。君という……そして、惣流さんという落ちこぼれが誕生したのさ」
 カヲルは本当に笑った。笑って言った。
「パラダイムシフトによって、人は次の段階へと飛翔する。けれども、アダムは一つであって、一つではない。あまねくすべての次元、空間に、同時に存在している唯一の個体だ」
 そしてと語る。
「アダムは幾つもの世界を抱えていた。中にはこんなにもそっくりな世界があった。アダムは一つ一つの世界が昇華し、自分という存在を確たるものとする足場となってくれることを望んでいたんだ。だから、似たような世界なら、似たような要素を配置すれば、同じような結末へと至るのではないか……と考えんだ。それはそうおかしな発想でもないだろう?」
「…………」
「だから、アダムは、選んだんだよ。その世界が昇華に成功した最たる理由となった者たちを選んだんだ。統合する人類の中から、君と、惣流さんという、二人を選んで置き去りにしたんだ。すべての命をさらい上げ、統合した『第十八使徒・人類』の中から排除して、死の星となった世界に置き去りに捨て去ったのさ」
「理由となったから、捨てられた?」
「そうさ。君たちは世界昇華のための引き金となった。だけど、君たちの価値については、それだけでしかなかったんだよ。一つとなった後には必要のない存在だったんだ。君たちは、そういう存在でしかなったんだよ。アダムという名の、『世界』にとっては、再利用を考える程度には惜しいけれども、絶対と言うほどには必要のない存在でしかなかったんだよ」
 シンジは、急に、膝から力が抜けたのか、腰を抜かし、へたりこんだ。
「そんな……」
「ショックかい?」
 だから、笑えるのさと口にする。
「自分たちが特別だと思っていた? だから、巻き戻った時間の中に居るとでも? 違うよ。特別なところが何もない、きっかけとはなったけれど、この先も必要とするほどには価値もない、廃棄してもかまわないような存在であったから、君たちは『大統合』という名前のサードインパクトから除外されたのさ。それが事実のすべてだよ」
 上半身を、シンジの上にかぶせるように倒す。
「そして君たちの世界の住人が上っていったように、下にもあるのさ。この世界のように、アダムが昇華を願っている世界が、まだあるんだよ」
「アダムが……」
「一次元ほどじゃない、ナノ以下の数値でずれている違う次元の世界。平行世界」
「それが、この世界の正体だっていうのかよ」
「そう。そして君たちは、この世界の人たちに傷つき、傷つけられながらも、傷つけ、傷つき合って、彼らと彼らの内に、それまでにはなかったメンタリティや、発想というものを与えていく。そう、刺激物としての役割だね。そしてそれらの行為は、やがて来るサードインパクの瞬間に生かされることになる」
 もっとも……と口にする。
「アダムはともかく、『リリス』は君たちに、別の役割を望んだようだけどね……だからこそ、君たちがこの世界へと飛べるように、導いたんだよ」
 シンジは、巨大なレイの眼球に、なぜこの世界が見えていたのか、ようやく知った。
「そんな……そうなの? 綾波が? 僕に?」
「そうだよ」
 ぽんとシンジの肩に手を置く。
「彼女が望むもの……望むこと。それがなんなのか、僕は知らないし、知る術もない。それは彼女に認められている君だけが聞き出せることだが……あいにくと、ネルフで『起動』させられることになる次の彼女は、君の知る彼女ではないだろうけどね」
「どうしてさ! 同じなんだろ? だったらなんとかして……そうだ。思い出すように、ショックを与えるとか」
「偶然や、必然の問題ではないのさ……この世界が誕生したとき、彼女はすでに在った。だからこそ、彼女はあの体の奥、意識の底に住み着くことができた。だけど次に生まれてくる彼女には、すでに深層に至るまで意識層が形成されてしまっている。空だけどね? でも他人でしかない存在が入り込むことはできない。空の意識しか持たない、ただの肉のかたまりであっても、それが綾波レイの形をしているのは、綾波レイの形を維持しようとする力が働いているからだ」
「ATフィールド……」
「そうさ。そして魂はあやふやで、とても希薄で弱いものなんだよ。だから人形程度の希薄なATフィールドであっても、透過することなどできはしない」
「じゃあ……綾波は、死ぬしかないの?」
「このままではね」
 そこでだと口にする。
 もちろん、余裕のないシンジには、話のロジックにおかしなところがあることには気づかなかった。
 宿るところがないことで、消えてしまうのならば、以前の世界でレイはとっくに消えているはずの存在である。
「君には、これから取るべきことのできる、二つの道が存在する」
 表情を消す。
 それは笑ってしまいそうであったからだった。
「一つは、人として、生きること」
「人として?」
「そうさ」
 大仰に語る。
「人として、綾波レイの死を真摯に受け止め、なぜネルフを離れたのか、逃げ出したのかという非難の嵐の中で、それでも前を向いて生きていくこと」
 いつか許し、認めてもらう日までと、困難を強調する。
 彼の語り口調に対して、シンジは明らかな躊躇を見せたが、それは仕方のないことであった。
 そのように、カヲルは誘導しているのである。
「もう一つは?」
 すがるような口調のシンジに、カヲルは、かかったと密かにほくそ笑んだ。
「わからないかい? わからないだろうね」
 すがるような情けない眼をしたシンジに、ぞくぞくと背徳に快感を覚える。
「これだよ」
 カヲルは握った手をシンジの前に出し、首を返して手のひらを広げた。
 ──そこには赤い玉があった。
「これ……」
「コアと呼ばれているもの」
「え!?」
「あるいはS2機関をもたらすものか……まあ、同じことさ」
「同じって」
 にやりと笑う。
「君に、これをあげよう、そして君は、第十八使徒・リリンから、第十九使徒へと進化するのさ」
「進化……」
「そう……進化だ。そしてたった一人の戦いを始める」
「戦い?」
 困惑するシンジに、端的に答える。
「人類との」
「────!?」
 仰天するのも当たり前のことであった。
「そんな!」
「当たり前だろう? 本来使徒同士は戦うものさ……君と、僕もね」
「そんな……」
「だけども君が、君のために二度、三度と消えてしまった綾波レイに、幸せな人生を歩みなおしてもらうためには、これしかないよ」
「二度……三度」
 シンジは苦しげに胸元をつかんだ。
 自爆したレイ、その後、サードインパクトの時にも、レイは会いに来てくれたような気がしている。
 そして今度と……。
「僕は……」
「問題は、誰のために、君は生きるのか、といことさ」
「誰のため?」
「そうさ……自分を抜いてね」
 体を起こす。
 そしてシンジを睥睨し、観察する。
「一つは、みんなのために」
「…………」
「自分がどれだけつらくとも、苦悩しようとも……傷つこうとも、人が皆幸せでいられるのならと、綾波レイはいなくなってしまったものと諦める」
「それのどこが、みんなのためなのさ」
「君が使徒になった……あるいは、使徒であった、なんて話よりは、ずっとマシじゃないか」
 そして許されざる罪の呵責に耐えて生きることと付け加えた。
「もう一つは、綾波レイへの贖罪の道……」
「贖罪?」
「そうさ!」
 両腕を広げる。
「このまま消えてしまったのでは、彼女は何のために生まれ、そして何のために君にこのような場所……機会を与え、そして居たのか? すべてに意味がなくなってしまう」
「でも、綾波は、もう……だめだって」
 そんなことはないさと吹き込む。
「綾波レイ……そのバックアップの存在がじゃまをするなら、それを破壊してしまえばいい。そうすれば、彼女は自力で、自身の移し身を用意できるようになる」
 シンジは脳裏に、以前、リツコが泣き崩れる寸前に見た。あの人形たちの崩壊の絵図を思い浮かべた。
「僕に……僕に、あれをやれっていうのかよ!?」
「あれ……というのが、よくわからないけど」
 でもとささやく。
「ネルフの人間は、誰一人、そんなことは認めないだろうね」
「でも、それで綾波が帰ってくる可能性があるのなら……」
「けれどその根拠は僕の言葉だけだよ。信じるはずがないさ。それに、彼らはこう言うだろうね」
 演技を入れる。
「綾波レイは死んだのさ。そしてここに居るのは別人。この子にはこの子の生きる権利がある。それを奪うことは誰にもできない。できはしないし、許されることじゃないってね」
「…………」
「ね? そのための十九使徒化なのさ」
「どうしてそうなるんだよ」
「人が我を通すためには、何かしらの力が必要だ……それも、何者にも負けないほどの、思い切りもね?」
 もし、それだけの意志の力があるのなら、これを手にしても狂うことなく、別の道を模索することもできるだろうとそそのかして、カヲルはシンジへとコアを突きつけた。
「これは、君と、綾波レイと、二人だけになる道だよ。世界は君を敵と見て、その敵が側に置く綾波レイのことを、決して仲間だとは認めないだろうからね」
 それでも、と口にする。
「生きていてくれれば……生きてさえいてくれるなら。そうは思わないかい?」
 さあ、とカヲルは結論を求めた。
「君は、誰のために、生きるんだい?」

……そしてシンジは。

 ──ゴクリと、のどを鳴らしたのであった。

−第六話 了−


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