「流れ星……?」
山岸マユミは隣県へと続く山間の道路上を歩いていた。
親が特別な職業に就いているからと言って、特別に保護をしてもらえるわけではない。
彼女はネルフから発令された避難命令に従って、バスで都市を離れ、渋滞を起こした位置からは、徒歩で一歩でも遠くへと歩いていた。
人の流れは延々と続いている。若い者もいれば年老いた者も居て、歩調が合わずに苛立った雰囲気が漂っていた。
しばらくして空が赤くなった。大気の摩擦によって燃え上がる巨大なもの、使徒。その姿は肉眼ではっきりととらえることができた。
その使徒を、地上から流星が駆け上り、打ち抜いた。
ATフィールドの消失によって形状を維持できなくなった使徒の肉体が崩壊し、個々に大気摩擦によって炎上、消滅していった。
空を彩っていた朱が去り、闇の色が戻り出す。
穏やかな月明かりに照らされるが、人々はまだ安堵できずにいた。
なんだあれはと空を指さしざわめいている。
天に漆黒の染みが生まれていた。まるで黒い月であった。
(なんだろう?)
それは槍と化した零号機が残したものであったのだが、彼女たちにはわからない。
終わったのだろうかと誰かが口にした。
(シンジ君?)
なぜそう思ったのかはわからない。
峠からでも街の様子は見下ろせた。延々と続く人の流れの先に街があり、街灯と車のランプが川のように続いていた。
だがその先に、いくつかは光をともしたままの建物があって、その中には彼の居住場所でもある、この街でも一際高いビルがあった。
そこに、まだいるのではないかと思えてしまったのだ。
「どうして? わたしには、もう関係なんて……」
縁は切ることにしたはずなのに、どうしてこんなにも気にかかるのだろうかと思い悩む。
それは、人の顔色をうかがうことに慣れすぎていたことからくる、回避行動であったのかもしれない。
攻撃的な情動に耐えられる精神力を持ち合わせていなかったために、気弱な面が表に出てしまったのだろうと思えた。
マユミは、自分の心が、バランスを取ろうとしているのだと、そう思うことにしたが、だからと言って、シンジのことを思う、そのことに関しては、停止せずに思考した。
(変……だったのかな?)
どうだっただろうと、彼女は思う。
今の彼と、昔の彼、その違いがわかるほど、彼のことを知っているわけではないのだから、なんとも言えない。
それでも落ち着いてくると、小説家として培ってきた思考回路が働き出した。
シンジのこわばった表情に違和感を覚えたのである。そこに理由を結びつけようとしてしまう。
彼は何故、唐突にあの頃のことに触れたのだろうか?
そして今になって、どうして現在のことを語ったのだろうか?
自分のような人間に対して、緊張するいわれなどあるのだろうか?
一つだけ、自分たちが饒舌になってしまう時があると、思い当たった。
(泣き言?)
まさかと思う。
だが口を開いて他人にはぶつけないだけで、自分たちのような人間にはよくある行為だ。
空想の中で、自分を語り、守って貰おうとすることなんて。
……マユミは後ろに足を引いた。
気がついたときには駆け出してた。
「すみません、ごめんなさい!」
へたり込んでいる人を靴の端で踏んで謝り、疲れて愚痴っている者の肩にぶつかっては言葉だけを残して……。
もしあれが泣き言であったのなら? 誰かに口にしたりはせずに、内にため込むだけの、自分たちのような人種が……。
(それでも聞いて欲しくて、わかってもらえなくても、伝わらなくても良いって気持ちで、それでも吐き出したいくらいの感じになっちゃってたんだとしたら……)
臆病さ故に、そんなことはないと、考え過ぎだと、違うかもしれないと、勘違いをしているだけで、会いに行っても、恥を掻くだけだと足を止めてしまいそうになる。
(でも!)
そんな風に立ちすくんでいたのでは、以前となにも変わらないと。
それはマユミが学んだ幾つかのことの内の一つであった。
だから気まずさや、考えることは後に回す。
先ずは感情に従うこと。
従うべき時を間違えないこと。
それは今の彼女に備わっている、今の彼女が手に入れることのできた、とても大きな力であった。
−時と共に在ることを−
最終話、第一節、時と共に在るために -Part Death-
「動くな!」
リョウジは銃を手に飛び込んだ。
筒先は渚カヲルを捉えている。位置関係は突入前に監視カメラの映像で確認していた。
リョウジの声を受けてカヲルが振り向く。だがリョウジが叫んだ相手はカヲルではなかった。
シンジである。
保護対象である彼に動かれ、射線軸に入られることを嫌ったのだ。
リョウジはためらうことなくカヲルの眉間を狙って引き金を弾いた。
弾丸が障壁にぶつかり、砕けて小さな白煙を舞い上がらせた。
金色の瞬きが薄れて消える。
リョウジは驚きに目を見張ったが、それは渚カヲルに対するものではなかった。
カヲルが委員会の肝いりで本部入りしたこと。その直前の弐号機強奪事件において、彼がアスカを救っていること。さらにその際には、使徒として考えるほかなかった力を用いていること。などなど。
これらのことは、リョウジの立場であれば知ることのできる情報であったため、彼が使徒同様の力を使えるであろう事はわかっていた、しかし。
(驚かないのか!?)
ATフィールドの向こう側にあって、碇シンジがまるきり動揺した姿を見せなかったのである。
銃を撃った自分にも。
ATフィールドを用いるカヲルにも。
まるでカヲルが防ぐことなど当たり前だというように、まるきりそのままの表情でそこに居た。
状況がわからずに、きょとんとしているわけではない。
カヲルが避けようとしなかったことに、驚きもしていない。
そして自分に当たるかもしれないと、毛ほども思っていない。
リョウジは、前世だなんだという話のことを、真剣に考えていたわけではなかったが、それを疑いの種として捉えてしまった。
話を合わせていると言うことは、共謀しているという可能性を示唆するからだ。
なにかを企んでおり、そのための共通の嘘として、そんな話を作っているのではないかと考えたのである。
疑いの目を持ってシンジを見て、銃の筒先をどちらに向けるか彼は悩んだ。
だが、カヲルが動いた。シンジの姿を覆い隠すように歩を進め、射線へと割り込んだのである。
「いきなりはないんじゃないですか?」
「君は使徒だ。そう判断させてもらっただけだよ。気にすることはない」
「大いに気にしてもらいたいところなんですけどね」
「そうかい?」
「ええ」
「悪いね、だけど、これが仕事なもんでね」
「使徒を殲滅する。それが仕事でしたか?」
「そうだ」
「それにしてはなげやりですよね、アルバイトに精を出して」
「なんのことかな?」
「僕が使徒? ネルフはそう発表を?」
「…………」
「ネルフは確認していない。その意味を考えたことは?」
「どういうことだい?」
「エヴァですよ」
「…………」
「エヴァは使徒を模して作られたものですよね? だからATフィールドを使うことができる。僕だって同じですよ?」
「だがエヴァには」
「パイロットが必要?」
「そうだ」
「人の意思がエヴァを制御すると?」
「ああ」
「だけど僕を動かしているのも、人の意志なんですよ?」
「それは誰のものかな?」
「僕を作った人のですよ」
「だがエヴァは自分勝手には動かない。違うかい?」
「いいえ、エヴァにも魂はありますよ」
「それを証明することはできるのかな?」
「もちろん。エヴァは人を取り込むし、暴走もしますよね? では暴走とはなんですか?」
「それは……」
「エヴァは人を拒絶する。嫌悪する。それは人の感情でしょ?」
「そう見えるだけかもしれないんじゃないのかな?」
「ではそもそもの問題として、使徒とはなんです?」
「なにを」
「その定義は?」
「…………」
「……勝手に始末してしまって良い相手ではないと思いますよ。僕はね」
「かもしれないが」
「それ以上に、僕の終わりは、あなたにはない」
「なに?」
「僕の終わりは」
カヲルは振り向くと、シンジへと目を向けた。
シンジは硬い表情をして、唇を震わせていた。
「またなの?」
血の気の引いた顔をしていた。それは全てを理解し、悟っているという証明であった。
カヲルは儚げに微笑する。
「時は繰り返す……そういうものだよ」
「また僕に殺させようって言うの?」
「僕は君の手にかかることが望みだからね」
「僕はそんなこと望んでないよ!」
「僕は君の幸せを願っているというのに」
「だったらなんでさ! なんで『こんなもの』!」
「定めだからさ。もっとも……」
彼はいつものように微笑んだ。
「今はまだ、その時ではないよ」
「え?」
「だけど、君に悩んでいられる時間はないよ」
ゾッとする気配にシンジは身を固くした。
反射的に窓の外を見る。
本能的な恐怖心、悪寒に走らされてのことだった。
窓の外には夜が広がっていた。人が逃げ出すからと言っても、灯火が落とされるわけではない。
当たり前に街には明かりが灯っていた。ホテルの上からではそこに人がいるかどうかなどはわからない。だから、いつもの夜景のようにも見えていた。
「今のところは、ここまでだね」
そんな夜景の、星空の元、遠くに浮き上がる山の稜線。
それがいびつに高くなっていた。いや、巨大な物体が屹立している影があった。
山陰の形を変えてしまうほどの大きさのものがそこにいる。
その頭頂部に近い位置で何かがきらめいた。
次の瞬間、シンジは激震を感じた。そして浮遊感。
遅れて、ドンという衝撃に突き上げられる。
その時になって、シンジはようやく理解した。
(使徒!)
それは使徒だった。きらめきは使徒の放ったビームであった。
使徒がホテルの中層階をビームで貫いたのだ。中層階は溶けるように円を開いて穴を空け、爆発を起こしたのであった。
上層階は軽く浮き上がり、中層階を押し潰すように落ちた。
わずかずつだが傾いていく。床が傾斜していく。部屋の調度品が窓へと滑る。
シンジは耐えながらも、できの悪い風船が、風に押されて飛ぶように、使徒が都市部へと浮遊する様に釘付けとなっていた。
(最悪だ!)
それはシンジの知る過去において、もっとも難敵であった使徒と同じ輪郭を持っていた。
ネルフ本部を窮地へと追い込んだ使徒。
最強の力を持っていた使徒。
街の明かりが、その使徒の姿を照らし上げ、浮き彫りとする。
「十四使徒……」
「さて……どうして彼はここに現れたのかな?」
鑑賞用の樹木を植えている鉢植えが、あるいは巨大なテーブルが激突し、窓に大きなひびを入れる。
そんな中、カヲルだけは宙に浮き、無様に足下に這いつくばっているシンジとリョウジを、そんな災難からかばっていた。
−Bパート−
──その使徒の姿を捉えたとき、霧島マナの頭の中からは、一切の命令が弾け飛んでいた。
待機命令が出されていなかったことが幸いした。戦闘配置のままだったマナは、自身が乗っている機体に全力起動を命じていた。
うるさくがなり立てる無線をカットし、スロットルを全開にする。
うなりを上げるタービンの震動が、シート越しに伝わってくる。
マナは船のような形状をしている機械のコクピットに収まっていた。
人が一人座れるだけの隙間に、周囲は操作パネルだらけである。
その機械は、四肢を持った戦艦、あるいは出来損ないの巨大飛行機の形をしていた。
全長はエヴァや使徒の全高を上回る長さである。
そのようなものが浮遊するためには、速力を上げるしかないのであった。エヴァや使徒のように重力を操る力は、この機体には備わっていないからである。
ジェット噴射による推力が大地を叩いて、機体を持ち上げていた。それが人間の持つ科学力の限界である。さらに前進するための推力が必要で、後方にあるメインエンジンが火を吹いていた。
マナは機体前方部にある機関砲を全力斉射した。さらに上部甲板からマイクロミサイルを多数放出する。
着弾、爆炎と爆煙が街の上に広がった。
だが霧のように街を覆い尽くした粉塵に、使徒の放った閃光が穴を穿った。
慌て、マナは操縦桿を倒した。
くううとヘルメットの下で苦悶の声を漏らす。左側に使徒のビームが駆け抜けいった。装甲の表層が焼けて溶かされ、持って行かれる。
それでもマナは、そのまま右へと機体を傾けて突っ込んだ。そこにはシンジのいる高層ホテルがあった。
どんっと、かろうじて折れずに耐えていたホテルへと胴体をぶつけて、マナは外部スピーカーのスイッチを入れた。
「シンジぃ!」
半分、祈る気持ちで彼女は願った。
「生きてて! 聞こえてたら飛び移って!」
中折れた上層階が、今の震動でマナのマシンへ向かって傾き出した。傾斜の限界に達して滑落、崩落する寸前に、マナは操縦桿を操り、機体の背中で受けとめ、押し上げるような形を取った。。
船首下部からジェットの噴炎が青く長く三つ吹き出される。
顎を晒すように伸び上がる機体。腹を使徒に晒していることになるのだが、マナは夢中でカメラを操作していた。
シンジの部屋を映す。窓はすでに割れ、そこは床と言える位置になっていた。
──そこから、二つの人影が飛び降りた。
高い! っと焦る。下部スラスターを操作。わずかばかりに機体を持ち上げ、落下距離を小さくする。
外部カメラに人影の動きを追従させる。
二人はなんとか機体の背中に取りついてくれたようだった。だが無傷というわけにはいかなかったようで、一人は足を折ってしまったようにも見えた。一つの影が奇妙な方向に曲がった足を抱えて悶えているのがわかった。
『マナ!』
強制的に繋がれた通信機から、悲鳴のように注意を促す叱責が聞こえた。
(まずい!)
再び使徒からのビームが伸びた。
マナは死を覚悟したが、これは機体ののど元で、ATフィールドによって弾かれた。
「え!?」
感覚的なものだった。マナは首を捻って右隣の方向を見た。コンピューターが反応し、彼女の頭の動きを自動的に追尾する。
カメラが彼女の視線の先を捉える。そこには渚カヲルが浮遊して、左手はポケットに、右手を伸ばしていた。
その彼が、機体を……機体のカメラを見て笑った……ようであったが、マナには自分を見て笑ったように感じられた。目があったという感触があったのである。
そして、彼を、シンジ君をという声を聞いた気がした。
シンジたちを確認する。モニタには互いに支え合いながら立ち上がる姿が映っていた。
マナは上部甲板の格納庫を開いた。追加武装などをジョイントする連結庫なのだが、人が収まるには十分なスペースがある。退避するには十分なはずであった。
「そこに隠れて!」
スピーカーの最大音量で警告する。
機体を水平に戻しつつ、二人が収まったのを確認し、背中の建築物を放棄する。
上層階は機体の背を滑って左側へと身を捻りながら落ちていった。
地響きを立てて足下の建物を押し潰し、街の合間、道という道を粉塵の津波で洗い流した。
コンクリートの砂塵が街を覆った。
使徒は……動きを止めている。カヲルという存在に戸惑っているようにも見えた。あるいは真意を探っているようにも感じ取れた。
だがマナにとってはどちらでも良いことであった。
これ幸いにとマナは機体を旋回させ、渚カヲルを囮として逃亡に移ったのである。
(あの人、シンジの知り合い?)
カヲルは、それで良いというような目をして、首を捻って見送っていた。
マナはそんなカヲルのことを、意識の端で想像した。
魔法使い、超能力者?
いろいろな単語が脳裏をよぎるが、ATフィールドが答えの全てかと納得する。
「人型の、使徒……エヴァンゲリオン?」
──一方で、ネルフ本部もまた、パニックへと陥っていた。
−Cパート−
「新たな使徒!? それも」
「筑波に!?」
ミサトとリツコは、度重なる使徒の動きに、まさかという思いを強めてしまったのだった。
落下型使徒は軌道を変更した。
そして今また、新たな使徒は、この街ではない場所へと現れたのである。それも、今度は目的地を変更するような動きではなく、直接に。
コウゾウが、静かに問いかけた。
「碇……これは」
「ああ」
ゲンドウは立ち上がるなり大声を放った。
「碇シンジを拘束する」
え!? っと、驚きの声があちこちから上がった。
司令とミサトが大声で聞き返す。
「拘束ですか!?」
「拘束だ」
『あなた!』
ユイである。メインモニタに大写しとなった彼女に、ゲンドウはなんだと冷たく問い返した。
「鍵は『奴』だ」
『でも!』
その返し方は、ゲンドウの言葉を認めてしまっているものであった。認めた上で、『でも』と、抵抗する形を取っているものであった。だからミサトは、眉間にしわを寄せ、拳に力をぎゅっと入れた。
(あれだけ気にかけていて……自分の子供でしょう? なのに)
たとえ正体がどのようなものであろうとも、だ。
得体が知れないとなった途端、彼にどう選ばせるかではなく、彼をどう扱うかという口ぶりに変わってしまっている。
気にくわないと、ミサトは震えた。
「わたしが迎えに行きます」
気がつけば、ミサトは言い放ってしまっていた。
それは嫌悪感から出た言葉だったのかもしれなかったが、ミサト自身はよく考えもせずに口走ってしまっていた。
拘束するために身柄を押さえに行くのではなく。
彼の意思に任せるために、自ら出向くと。
ゲンドウはそんな彼女の反抗的な目を見返した後で、良いだろうと許可を出した。
「君に任せる……好きにしろ」
「はい!」
発令所を出ようときびすを返したミサトに、リツコが背を向けたままで声をかけた。
「帰ってきたとき、居場所はないわよ」
ミサトは一度は立ち止まったが、結局は何も言わずに発令所を後にした。
微妙な空気が漂い、沈黙が冗長される。
コウゾウがため息混じりに口を開いて空気を動かした。
「初号機と弐号機は本部へ帰投。すぐに移送準備を。パイロットは一旦待機所へ。保安部は葛城君にジェットヘリの用意と連絡を。それから現地の国連軍、及び戦略自衛隊に通達。碇シンジの所在の確認と保護を最優先に……」
「なんだって!?」
オペレーターがどこからかの報告に悲鳴を上げて、コウゾウの声を遮った。
「なんだ!」
「サードチ……碇シンジが重傷だそうです!」
「なんだと!?」
「使徒が砲撃した高層ビルにいたと言うことです。戦略自衛隊によって救出されたものの負傷! 現在は!」
「まだあのホテルにいたのか!?」
別のオペレーターが気を回す。
「葛城一尉に回します」
その報告はミサトの持つPDAに届けられ、彼女は「シンジ君」と小さくこぼし、駆け出した。
−Dパート−
機体の舳先が大地へ突き立ち、溝を掘って距離を進んだ。
力尽き、頭から突っ込んだのである。
ジェットノズルの火は徐々に弱まり、消えてしまった。
筑波の学研都市を囲む山を超えたところで、エンジントラブルを起こしたのである。
マナは幾つかの操作手順をすっ飛ばし、ハッチを開いた。本来であれば機密保持のための順序などがあるのだが、そんなことを気にしてはいられなかったのである。
船首の嘴部分が前に出た後で下に折れ、内部よりコクピットである筒が伸び出し、上部を開く。
まるでエントリープラグであった。
「シンジ!」
もう、君とか、さんとか、敬称は付けない。そんな余裕も失っていた。
彼女は座席から半身を捻って立ち上がり、そのまま機体の甲板へとはい上がった。
「生きてて!」
カメラでは足を痛めたようにしか見えなかったが、実際にはそれ以上の怪我を負っているかもしれない。
倒れた機体の背中は、人が上るにはきつい坂道になっていた。甲板の継ぎ目にグローブの指先を引っかけつつ、上っていく。
目的の場所は先にハッチを開放しておいたから、はっきりとわかった。
「シンジ!」
彼女はぐいっとハッチの縁に手を引っかけてのぞき込んだ。
格納庫の底にはぐったりとしている少年と男性の姿があった。一人はシンジで、一人はリョウジである。
二人とも血まみれで、オイルではない鉄錆の臭いにマナは嘔吐いた。吐きそうになった。
そんなマナを、真上からライトが照らした。ヘリである。
戦略自衛隊のヘリが三機、上空を旋回して警戒態勢を取っていた。
四機目が三機の内側へと割って入り、そこからロープで重火器を携帯した兵が四名、降下してくる。
マナはその内の一人が父親だと見て取ると、こっちと叫んだ。
「シンジが!」
「わかってる!」
戦略自衛隊の秘匿兵器である陸上戦艦は、データ収集の目的で、全ての情報がリアルタイムにバックアップされている。
シンジたちが負傷した際の画像は、最優先で解析されていた。
「無茶をやったな」
「ごめんなさい、でも」
「よくやった、と言ってるんだ」
無骨な男が、その性格に輪をかけたようなごつい手で、マナの頭をぐしゃりと撫でた。
「お父さん」
瞳を潤ませる娘に、わからない程度に顔を赤くして、霧島は立ち上がった。
そして格納庫へと飛び降りる。
彼はシンジとリョウジの容態を確認すると、ヘリに向かって手を振った。
「搬送用カーゴを!」
マナは、カーゴを使うという判断に、思ったよりも状態が悪いのだと青くなった。
「シンジ……」
マナの顔を閃光が彩る。
遠くからの発光が彼女たちを白と黒に色分けする。
光は街の方角からのものであった。
「戦ってるんだ」
山よりも大きな使徒と、あの人が……と。
マナはようやく、渚カヲルのことを思い出した。
−Eパート−
使徒が右の手を伸ばす。
寸胴に仮面を付けただけの体。その両脇に垂らしていた帯のような板状の薄い腕を、渚カヲルへと伸張する。
空を切り、たわんで渚カヲルへと舞う。
渚カヲルは、左手はポケットのままに、右手だけを前に出して、それに応じた。
小さな波紋。ATフィールドが帯を阻んだ。
帯は真ん中で裂け、彼の左右を流れた。
中央を削るように裂かれた帯が、力なく落ちる。
それを引き戻しながら、使徒は仮面の眼窟の奥を発光させた。
閃光が渚カヲルを直撃する。
空中に大輪の花が咲いた。その熱は地に落ちる前に大気に熱を奪われ、わずかに漂っただけで霧散する。
続いてレーザーが横なぎに走る。
市街地をなぶり、横一直線に火柱を上げさせ、炎の壁を作り出した。
ビルの谷間を爆発に伴う熱風と衝撃波が吹き抜ける。それらは電柱を、車を巻き上げて、建物や、道路と言った、あらゆる場所に叩きつけた。
二次、三次災害が発生する。だがそんなものは些細な被害に過ぎなかった。
引き戻された使徒の右腕は、再生されて、今度は左腕と共に放たれた。
渚カヲルの姿を真ん中で捉えるように振り回されて、交差する。
だがやはり渚カヲルのATフィールドは強力であった。
使徒の薄刃の帯は、交差点でカヲルのATフィールドに削られた。本体側の腕はそのまま抜けて、胴体に巻き付くように回収される。
切り離された帯先は、勢いのままに空中を流れ、地に向かって滑っていった。
建造物をスライスし、地に落ちる。
複数の建物が斜めに滑り、倒れていった。
そして切り飛ばされた使徒の一部が、爆発する。
この様子に首をかしげたのは、ネルフ発令所の彼らであった。
−Fパート−
「攻撃をせずに、彼はなにをするつもりだ」
コウゾウの呟きを拾ったのはリツコであった。
「できないのではないでしょうか……」
「なに?」
ゲンドウも聞きとがめる。
「どういうことだ」
「はい……ATフィールドは、生命体であればどのようなものでも持ち得ているものです。ですが攻撃機関は生体の構造に依存するものですから……」
そういうことかとコウゾウは唸った。
「人、人間と同じだから、彼には攻撃の術がないということかね」
「その可能性はあります」
「使徒がそこまで常識的な存在であればいいのだがな」
コウゾウの言葉に、発令所の人間は、上層部への不信感を募らせた。
使徒と決めつけているのが気に障ったのである。彼らは渚カヲルという個人を嫌っては居ない。
そこには、たとえ渚カヲルがATフィールドを使用していようとも……。
まだ、パターン青が検出されていないという理由もあった。
「空を飛んでいるというのに、常識的だな」
「ATフィールドは霊的な構造に依存しますから」
−Gパート−
「マジかよ」
誰かの呟きが、そのまま全員の心情であった。
筑波山の裾野を走る道である。
雷光が空を切り裂きぶつかり合い、砕け散って流星となる。
星が落ちた大地からは炎が立ち上り、そこに在る巨大な存在を不気味に浮かび上がらせる。
十キロ単位の距離であっても、肉眼で形状がはっきりと確認できる。異様、異質の化け物が空にゆったりと浮かんでいた。
それがなにかと戦っているのだ。使徒。避難する彼らは、秒単位で街を灰に変えていく戦いに慄然とする。
街から峠を越えて伸びる道を避難している彼らからは、街の戦闘について、細かなことはわからなかった。
ただそんな派手派手しいやり取りが加速し、異様なゆがみ、ひずみのようなものが生まれるに至ったのを目撃しただけであった。
それは二体の使徒が、力の次元を高位のものに移しために起こった現象であった。
使徒の持つ力に世界が耐えられず、崩壊を始めたのである。
だがそんな理屈などわからない彼らにとっては、それは黒い結界、球状の風船が現れ、膨らんでいくようにしか見えなかった。
しかしそれは単純なようでも、安全なものではなかった。時折、球体の表面に白い筋が浮かび、漂うように流れたかと思うと、突如その筋から光があふれ出して弾けたのである。
放出されたエネルギーが、山の一角を吹き飛ばした。
結界の内より漏れ出した波動だけで、人工の構造物が、自然の景観が吹き飛び、雲が散って、平坦になる。
残るものはなにもない。
人々は愕然となるほかなかった。
誰かが悲鳴を上げて駆け出そうとした。その背中へと……人の群れへと、衝撃波が襲いかかる。
浮き上がり、裏返る車。舞い上がり、叩きつけられる人々。転がり、積み重なる無機物と、有機物。
思考が麻痺し、彼らはただただうろたえた。慣れていなかったため、パニックすらも通り越してしまっていた。
直接戦闘が行われている場所にいるわけではない。だというのにこの有様である。第三新東京市という街が、使徒に襲われる度にどれほどの被害を被ってきているのか?
間近に感じて、彼らはようやく絶望を知った。どれほど復興に努めようとも、どれほど立ち直り、立ち上がろうとしたとしても、使徒が現れる度に世界は滅んでしまうのだ、と、むなしさにも囚われる。
これほどのものに蹂躙されてしまうのが、今の世界の真実であるのだと、彼らは知った。
──だがそれでも。
この無慈悲さと戦い続けている者たちもまた、存在しているのである。
−Hパート−
人は鈍感な生き物である。
頑丈で、とても図太い生き物である。
そうでなくては生きていけないからである。葛城ミサトはジェットヘリの後部格納庫で、「慣れたわね」と、独りごちた。
壁際備え付けの横椅子に尻を置いていた。正面には保安部の職員がふたり座っている。
体がふわりと浮くのを感じて、ミサトは急ぎ身構えた。次いで、機体が激しく震動し、落下するかと思える落差で上下する。
ミサトは天井と床に手足を突っ張って、座席から投げ出されないように耐えた。学研都市に生まれた結界からの衝撃波がかすめたのだと判断した。
実際のところを知りたければ、パイロットに尋ねればいいだけなのだが、彼女はそうせずに遠慮した。
窓から外を見る。避難民が峠道を悲鳴を上げて走っていた。
ミサトは無感動に努めて、悪いけどと口にした。
自分のことで精一杯だからと、避難民のことを切り捨てる。
修羅場の数が慣れを生んで、見捨てる、見放す、そう言った優先順位を付けられるようになっていた。
そんな葛城ミサトという人格の一つが、表に出てきた瞬間であった。
葛城ミサトは炎上している車が峠道を塞いでいるのを見ても、救援を差し向かわせることもせずに、戦略自衛隊が展開しているはずの仮設基地へとヘリを急がせた。
悲鳴を上げながら逃げ惑い、人同士押し合いへし合い、踏みつけ乗り越えている姿が見える。
ぼんやりとそんな光景を眺めながら、ミサトは、渚カヲルが持たなくなるまでどのぐらいだろうかと計算した。
PDAを取り出す。ネルフからのデータが届けられて、更新されていた。
情報は随時転送されているのか、最新のデータはタイトル末尾の番号が三桁に達していた。
その中から戦闘に関するものを選び出す。
新たに現れた使徒は、少なくとも弐号機よりも強力なATフィールドを展開していると報告されていた。
出力は二倍に達しようというレベルであったが、ミサトは時間ごとの値を確かめて、そこで限界であろうと読み取った。
その判断の根拠には、渚カヲルのデータも関わっていた。
彼は防御に徹していた。使徒のATフィールドの強度については、彼の壁を直接肉体で攻撃した際の干渉結果を計測してはじき出したものなのだが、使徒は彼のATフィールドに出力負けをして、腕などを切り飛ばす羽目になっている。つまり、カヲルより強くはないということになるのだが……。
「いつの間にか、渚君のATフィールドの強度データが登録されてる……なんなの?」
あらかじめ登録されていたデータが開封されただけなのか、あるいはどこかからリークされたものなのか?
「怪しいわねぇ……」
しかし、放置されているどころか、こうしてPDAに必要なものとして転送されてきている以上は、正確な値が示されているデータであるのだろうと判断して、彼女は疑うのをやめてしまっていた。
「でも……彼がエネルギーをどこからひねり出しているのかはわからないけど……」
そう言えばと彼女は思い出す。レイのことだ。
綾波レイは弐号機と融合し、エネルギーを供給した。ならばと応用を考える。
(渚君を乗せてみる? レイにできるのなら……いえ、司令が黙っていないか)
確かに、味方なのかどうかは怪しいところであった。
(そこのところは、シンジ君になにを話したのか確認を取るしかないんだけど)
こつんと後頭部を壁にぶつける。
わずかに首を捻って小窓を覗くと、複数の灯火が地上から伸びて、交錯しているのが窺えた。
−Iパート−
ヘリが仮設基地へと降下する。
郊外のテーマパーク跡地を占拠する形で、戦略自衛隊は展開していた。テーマパークはセカンドインパクト以前のものであるのだろう、廃墟そのものの姿をさらしていた。
高さ三メートルほどの、車体に無骨な手足を付けたような、深緑色の重機ロボットが歩いているのが見えた。手にブルドーザーのような装備を付けているものや、ショベルを取り付けている機体もあった。
余計な建物を取り壊し、隅へと追いやって場所を空けている。
テーマパークの一角に、そうして開かれた場所があった。いびつにHを丸で囲ったマークが描かれていた。
ヘリポートのつもりなのだろう。
ミサトはヘリが降下し、保安部員がドアを開けるのを遅しと待ってから、飛ぶように降り立った。
銃を手にした戦略自衛隊員が駆け寄ってきた。
あらかじめ連絡は入れてあるが、ミサトはネルフ本部の人間であることを明かし、碇シンジの引き渡しを要求した。
しかしこれは拒否される。
「なんでよ!?」
ならばと、共に確保されているはずの加持リョウジのことを持ち出したのだが、こちらについても面会を却下された。
碇シンジのみならず、加持リョウジまでとなると、これは尋問されているのではないのかと疑ってしまったミサトであったが、治療中だと、拍子抜けをするような回答を与えられた。面会謝絶というわけではないので、案内するとも説明される。
「碇シンジ君。彼は報告よりは怪我が軽くて良かったんですが……」
今は避難民で形作られている医療団の診察を受けていると言うことであった。
非常事態の上に、戦略自衛隊を頼って基地の周りには大勢の人が集まってきていた。
けが人も多く、治療技術を持っている民間人に協力を申し入れ、仮設基地の一部を診察所として提供しているのだという。
身元のはっきりとわからない人間を、と、ミサトは思わないでもなかったが、口をつぐんで黙ったままにした。
この非常事態にあっては、致し方のないことであるのだとわかるからだ。
そして、そこには碇シンジの身分についてのこともあった。彼はあくまで元ネルフ本部所属という、現在はただの民間人に過ぎないのである。
(気を利かせてくれたのかしらね)
そんなシンジを仮設基地に入れるためには理由が必要で、だから民間人が出入りしていてもおかしくはないように手を打ってくれているのだという考え方もできたのであった。
−Jパート−
碇シンジについては、ねんざ、打撲などの軽傷は見られるが、医薬品に頼る必要もない程度だという話であった。だが他方で加持リョウジが両足を折る重傷であり、臓器にも破損の恐れがあるということで、こちらは簡易手術室に入っていると言うことであった。
(にしても、誰よ! シンジ君とあのバカの怪我を間違えたのは!?)
内蔵云々と、かなりの重体であるらしいのだが、それでも担ぎ込まれたときはちゃんと意識を保っていたようで、命の心配はないとのことであった。
どうやら、どこかでシンジとリョウジの診療結果が、間違って報告されたようである。
医療テントへ到着するまでに落ち着いておこうと、黙って隊員の話に耳を傾ける。
シンジがどう抵抗しようと、自分は彼をネルフへと連れ戻さなくてはならない。
──シンジを送り出したとき、再び彼に会うのは、自分たちに何かがあった時だと考えていた。
だが実際には、双方ともに襲われるという、最悪の展開となっている。それでもねんざだけですんでいるのなら僥倖だと思えたが、彼はどう考えているのだろうかと想像する。
ネルフには戻らない、などとダダをこねてくれないことを祈るばかりであった。
その一方で、隊員の語るリョウジの状態を耳に入れるにつれ、シンジはよく無事であったなと、冷や汗が噴きだした。
リョウジは戦闘機械の格納庫で、体中を張り出しにぶつけたらしいということであった。
一つ間違えば、シンジもそうなっていたはずなのである。
なにより、内臓を痛めるほどのぶつけ方をしているのだ、頭を打っていれば、死んでいた可能性もあっただろう。
ミサトは、リョウジについては捨て置くしかないと判断した。彼から情報が漏れるとすると、相当に問題のあるものばかりになるだろうが、かまっていられる状況ではない。
(あたしと同じことを考えた、どこかの連中が、口を塞ぎに……なんて、動き出さなきゃ良いけどね)
作戦部長ともなれば、加持リョウジのような男が、普通ではない仕事をしているという程度の話は、耳に入ってくるものである。
「ちょっとごめんなさい」
ミサトは携帯を取り出した。
本部へと連絡し、彼については、監視の要員を派遣するよう求めた。
本部の作戦部長としては、リョウジのような人間が前後不覚に陥っている状態で、監視、あるいは警護をする人間もつけることなく放置されている現状などは、言語道断という話になるのだ。
だが、葛城ミサト個人としては、今はどうでもいいと言った気分であった。
(渚君ねぇ……)
ミサトは懐の銃を確認した。
戦略自衛隊が敷設している基地の中であるというのに、取り上げられることもなく、携帯を許されていた。
(敵じゃないのよね。あんまり話してこなかったけど、悪い子じゃないみたいだし)
おかしなものだと思う。
彼は最初から怪しかったのに、今でも敵だとは思えないのだ。
シンジたちと絡んでいたコミカルな姿を思い出しても、そこには嘘はなかったと思えた。
(まあ、レイだってそうなんだし。人と使徒、敵と味方、単純じゃないってことなんでしょうけど)
もう一度、彼の顔を思い出す。
ニヒル、シニカル……そう言った表現が思い浮かぶが、しっくりと来ない。
つかみ所がないことだけは間違いないのだが……。
(それが使徒という、わたしたちよりも超越したところにいるということからくるものだとしても……)
彼は人の走狗に過ぎないのである。
人としての立場が複雑で、そのために苦笑を浮かべ、身を引いていただけなのかもしれないのだ。
(委員会の肝いりってことは、そういうこと……のはずよね?)
だがだとするならば、そのようなものと馴れ合いを演じていたチルドレン──シンジたちとは、一体どういう位置づけの存在となるのだろうか?
(委員会はなにが目的で彼を? ネルフ? チルドレン? それとも……)
ミサトは「はぁ……」とため息をこぼし、夜空を見上げ、星を数えた。
「父さん……」
夜明けまであと何時間だろうかと考える。
「復讐なんて……、単純なものだと思ってたわ」
ため息をこぼすミサトの耳に、騒ぎの声が入ったのはそのときであった。
−Kパート−
葛城ミサトが到着する少し前。
山岸マユミはテーマパーク跡地へとたどり着いていた。
とは言っても、街へ戻ろうとしたところを、戦略自衛隊の人間に捕まってしまった結果であった。
どこへ行くのかと見とがめられたところに、丁度『流れ弾』が飛来し、彼らから少しばかり離れたところを直撃したのだ。
低い山の間を通る二車線の道路であったが、それでも何百人と連なり道を埋めていたのだ。
そこに山を吹き飛ばすようなエネルギーが直撃すれば、どのような惨事になるかは想像するまでもないことだろう。
慌てた隊員は彼女を車に押し込んだ。
咄嗟のことであって、彼女が実は国連の重要人物の身内だなどと言うことは知らなかった。
そして運転手に車を出せと叫んだのだった。
そうして運ばれることになり、到着したのがこの仮設基地であった。そこで見知った顔を見つけ、霧島マナの名前を叫んだことを、間違いだったとは思わなかった。
あちら側に、こちらに対する認識があったかどうかは問題ではない。碇シンジによくまとわりついていた霧島マナという女の子の名前は有名であったのだ。知己でなくとも、名を知られている、くらいの自覚は持っているだろうという予想はあった。
だが実際には、山岸マユミの存在は戦略自衛隊の一員である霧島マナにとって、知らないではすまされない相手だったのである。
なにしろ碇シンジとよくしゃべり、なおかつ国連の要職にある義父を持っているような女の子である。要注意人物として指定されるには十分すぎた。
結果として、彼女は特別待遇で保護されることになったのであった。
−Lパート−
「で」
マナは案内しつつ、尋ねた。
周囲は重機の立てる音がある。誰かに聞かれる心配もない。
「どうしてここに?」
マユミは困ったように首を短くし、萎縮した様子を見せた。
「……勢い、というか、流れとか」
マナは眉間にしわを寄せた。
隊員からは、勢いで保護してしまったと聞かされているが、街に戻ろうとしていたと言う話も聞かされていた。
「シンジに会いに来たわけじゃないんだ」
「シンジ君がいるんですか!? ここに」
マナは、ああ、やっぱりシンジのところに行こうとしたんだ、と、当たり前に思った。
「いま治療を受けてる」
「怪我をしたんですか!」
「かすり傷。まあ、念のためにね。あと、こんな状態だから、他に居て貰う場所もないしね。じっとしてもらってるの」
だから診察を受けたまま、医療テントにこもって貰っているのだと話す。
「会わせてください!」
マユミはマナの腕を掴んで頼み込んだ。
「シンジ君に会わなくちゃいけないんです!」
「そんなこと言われたって……」
いじわるで言っているのではないと彼女はなだめた。ネルフからの引き渡し要求が来ているため、外部の人間をおいそれと引き合わせることはできないのだ。
そうやってもめているところにやってきたのが、ミサトであった。
−Mパート−
「どうしたの?」
ミサトは霧島マナと山岸マユミ。資料で見た顔が二つ揃って、なおかつ言い争っていると言うことに興味を覚えた。
二人を繋ぐものがあるとするならば、それは碇シンジ以外にはないからである。
「あなた、霧島さんよね? で、こっちが山岸さん」
マユミは、「わたしの名前を?」と警戒心をあらわにしたが、マナはすぐ直立の姿勢を取って、挨拶を返した。
「もうしわけありません! わたしは」
「ああ、いいから」
ネルフの士官の制服を前に、緊張するなと言うのは無理な話である。
「わたしは葛城ミサト……そうね、こういった方がわかりやすいかしら。第三新東京市での、シンジ君の保護者兼監督役を務めていた人間よ」
二人は仲良く驚いた。
「「シンジ(くん)の」」
声を重ねてしまって、ふたりは気まずげに引き下がった。
そんな少女たちの様子を苦笑して見守るミサトである。
「シンジ君の引き取りに来たんだけど、彼は?」
案内役の隊員は、ミサトの目配せに軽く会釈して離れることにした。ミサトの苦笑いと少女たちの様子から、微笑ましいものを察したからであった。
だがそれはミサトの演技である。
霧島マナはまだ良い。彼女は戦自の人間で、シンジの護衛役を務めていただけに過ぎないのだから。
だがマユミは違う。彼女は看過することのできない人間である。架空のロボットを扱った小説の作者。だがその内容はと言えば、エヴァンゲリオンに酷似しているロボットが、第三新東京市に似た街で、使徒に似た化け物と戦い抜いていくという、『似た』という言葉が最初から最後までついて回る内容であったのだ。
特にエントリープラグの外観の描写、エヴァンゲリオンへの挿入の光景などは、知っているものには直接見たことがあるのではないかと思わせるものがあった。
そのような本が、現実に使徒が襲来する以前に発刊されていたのである。
作戦部長の耳に入らないわけがない話であった。
その作者様が、碇シンジに対してこだわりを見せているのなら、彼女にもまた何かあるのかもしれないという勘が働くに十分な理由となり得たのである。
それはレイやアスカ、カヲルから学ばされたことからも、無視をしてはならないように感じられるものであった。
一方で、マナは判断に迷っていた。
葛城ミサトのことは聞かされていた。が、それは碇シンジの保護者という形でのものではなかったからである。監督については直接の上司であるのだから、そういうこともあるだろうとわかる話であったのだが……。
「治療のために、今は医療テントに……」
迷ったものの、結局はこちらですと案内する。マユミがその後を追ってくるが、マナはとがめなかった。
そもそもマユミがマナの名を呼んだことで、これ幸いにと彼女を連れてきた隊員たちも、ミサトの案内役と同様に、姿をくらましてくれていたからである。
ならば、彼女が何か問題を起こしたところで、それを責められるべきは最後まで面倒を見なかった者たちにこそあるだろう……マナはそう自己弁護した。
「怪我の状態については……」
「知ってるわ。軽傷だそうね」
「はい、ただ、ネルフの方が一人……意識は保っているんですけど、酷い状態で」
ふわりと髪が浮き上がるような錯覚があった。
次の瞬間、頭上をなにか目に見えないものが駆け抜けていった。
山よりは高いが、雲よりはずっと低い位置だろう。
それが起こした風が、地上を軽く舐めて流れた。
急な突風に、ミサトは暴れる髪を押さえつけた。
「今のは……」
「戦闘の余波です。時々ああやって流れ弾っぽいのが来るんです。ここは街との間に山があるから、角度的にああやって空に上っていくエネルギー波が来るだけですが……」
「筑波山?」
「はい」
「標高で800メートルほどだっけ……」
「はい、おかげで、こちら側はまだ安全なんです」
直撃するようなものは山が受けとめてくれているのだという。
その説明に、マユミが自分が見た光景のことを思い出して、震える体を抱きしめた。
「でもまだ逃げている人たちが、峠に……」
マユミの呟きに、マナが言葉を重ねた。
「けが人も大勢出ています。その救助や救援活動で手がいっぱいで、ネルフの方だと言っても、安全な場所まで搬送するような機体に余りが」
良いのよとミサトは言う。
「どうせ殺しても死なないような奴だから、問題はないわ」
「お知り合いなんですか?」
「狭い職場だからね。ただ、そうなると移送は無理そうね……」
「そうですね。わたしがもっと上手くやれてれば……」
どういうことだろうかとミサトはいぶかしんだ。
さすがに、あの巨大ロボットに乗っていたのが彼女だとは思わなかったのである。
シンジたちを救助したロボットは、戦略自衛隊にとっては切り札の一つであった。その情報はネルフには流れていないため、当然パイロットについても不明となっているのである。
「まあ、気に病んでも仕方ないわ」
「あの!」
マユミは勇気を振り絞って話に割り込んだが、大きな声を出しすぎて二人を驚かせてしまったことに気づき、ごにょごにょと赤くなって口ごもった。
気後れから声を上手く出して割り込むことができず、気合いを入れて……みたのだが、勢いが付きすぎたのである。
「な、なに?」
赤くなって黙り込むマユミに、ミサトは話してごらんなさいと優しく問いかけた。
少々ぎこちなくはあったが、マユミは尋ねた。
「シンジ君、第三新東京市に戻るんですか?」
マナも興味があるという目をミサトに向けた。ミサトも二人の視線に、そうなるわねと隠さず答えた。
「状況が状況だものね」
「それって、ロボットに乗るために、ですよね?」
「それはどうかわからないけど」
「乗らないんですか?」
「理由は話せないわ。機密だからね……」
(ユイさんが乗せないでしょうし)
降りようとはしないだろう……ミサトはそう思っていた。それにシンジとユイとで、それほど初号機の力に差が出ているわけでもないのだ。
暴走まがいのことになるシンジと、圧倒的な制御能力を見せつけるユイ。
形は違えど、引き出されている強さは似たようなレベルだと見られていた。
ならば、ユイが乗れるというのであれば、別段、シンジに無理をさせることはないのである。
(それに、乗せたくない理由もあることだしね)
連れ戻したとして、彼がどういう扱いを受けることになるのか、それは想像に難くない。
そのような心理状態で乗せることになるなら、どのような影響がシンクロに現れるかわからない。
はたと、そこでミサトは二人を見下ろした。
急に黙り込んだかと思ったら、今度は思案顔で人の顔を観察し始めたミサトに、マナとマユミは怪訝そうに首をかしげた。
「そうよね……」
ネルフなどと言う、およそまともでない組織のトップに立っている夫婦のことである。
普段の様子からは想像も付かないことだが、それでも、汚らしい一面を持ち合わせているネルフを統括管理しているような人間なのだ。
実子だからと言って、どのような扱いをするかなどわかったものではなかった。
「あなたたち……」
下手な言葉は、警戒心を煽るだけかと考える。
だからミサトは、一番彼女たちが食いついてきそうな言葉を選んだのであった。
「シンジ君と一緒に……来る?」
二人は驚き、顔を見合わせた。
−Nパート−
第三新東京市では、エヴァの移送準備が進められていた。
幸いにも学研都市近郊には、エヴァに電力を供給するに耐えられるだけの発電所が存在している。
あとは電圧の変換車両を移動させるだけである。
エヴァンゲリオンそのものは別の手段での移動となる。これもまた準備中ではあるが、パイロットたちの手からは離れた作業となるために、アスカとユイは待機所で休んでいた。
先に作戦地域へと車両が到着し、電源供給体制を整えないことには、エヴァンゲリオンは無用の長物どころか、各組織の諜報機関に無防備な姿をさらすだけの、面倒な代物に過ぎない。
それは確認するまでもない事実であった。
エヴァ本体の輸送速度は、電源車の移動速度を上回ってしまうため、同時に到着となるよう、今は調節のための時間が取られている。
ユイはアスカと、ふたりきりとなっていた。
エヴァ発進設備にある待機所の中である。
無機質な四角いだけの部屋。壁際の一方に腰掛けがもうけられ、その正面には情報検索のための端末と、大きなモニターが据えられている。
今はネルフの広報用タイトルムービーが流されていた。
部屋の隅には観葉植物と共に飲料機があるのだが、二人は手を付けていなかった。胃の中にまで入り込んでいるLCLが邪魔をして気持ちが悪くなるだけであるし、これからまた搭乗することになるのだと思うと、なにも入れないままでいる方が楽であるからであった。
ユイは隣に座るアスカから話を聞き取っていた。それは今までは真剣に取り合ってこなかった、前世とやらについてであった。
「そう……そしてサードインパクトに至ったのね」
「はい。ただ、あたしがリタイヤしてからのことは、シンジから聞いた話ですから」
「そのシンジも、言葉を濁すことが多かった?」
「渚カヲル。彼が使徒であったのは間違いありません」
「その時は、今の彼のように友好的でもなく、最後は殲滅されるような行動を取った?」
「そこのところは……あたしには」
「なにがあったのかは、あの子たちから聞くしかないのね」
気が進まない。ユイの態度はそうとも取れるものであった。
アスカは単刀直入に尋ねた。
「怖いんですか?」
「え?」
「シンジが……自分の子供が、実は化け物だったってわかって」
「そんなこと、言わないでちょうだい。お願い」
アスカはあきらめ顔でかぶりを振る。
「良いんです、実際、あたしたちは化け物なんでしょうから」
でもと訴える。
「エヴァにくくりつけたのも、エヴァにくくりつけられることになったのも、元は使徒に目がくらんだ大人たちのせいだって、あたしたちは思ってます」
「厳しいのね……」
「すみません」
「謝らなくても良いのよ。実際……その通りだものね」
(でも、レイも、か……)
レイもまた使徒であるのだと聞かされても、ユイには承知できなかったのである。
なにしろレイの誕生にはユイ自身も関わっているのだ。使徒となるほどの要素など組み込まれてはいなかった。
『地下にあるもの』は、光のようなものに遺伝子と酷似したパターンを刻み込んで、物質として成り立っていた。
エヴァの開発の、そのさらに前段階となる技術を用いて、彼女はレイを生成していた。
ただのタンパク質に、遺伝子の配列を刻み込むという方法で、だ。光のようなものなど用いてはいない。
つまり、用いられたのは転写技術だけであって、使徒と定義づけられるような素材は利用していないし、構造も組み込んだりしていないのである。
(だけどこの子はあの子のことを使徒だと言い、そしてレイもまた使徒だとしか思えないことをおこなってしまった)
弐号機と同化し、エネルギーを与え、今度は零号機ごと空へと消え、そして不吉なものを浮かばせている。
(使徒だと定義づけることになるなにかは、物質には拠らないということ? わたしが作ったひな形にレイとなるなにかが宿って棲み着いて、使徒になった?)
外のことを思う。天には真っ黒な穴が穿たれ、まるで黒い月のように、金色の月の隣に位置している。
「怖い……か」
その通りかもしれないとユイは認めた。
宿る何か、魂のようなものにこそ使徒としての存在の核があるのなら、自分が腹を痛めて産んだ子供に宿ったものが……という想像が、成り立ってしまったからである。
(だからと言って、シンジになにが宿ったって言うの? その魂もまた、どこかのわたしから生まれたシンジだというのなら……それが、ここにいるわたしじゃない、わたしからだったとしても、それは)
苦悩するユイに、アスカは目を伏せ、顔を見ないようにして口にした。
「母親をやめるのも……一つの手じゃないんですか?」
「え……?」
ユイは最初、なにを言われたのかわからなかった。
だがその意味が脳に浸透するにつれ、ユイの顔から血の気が引く。
「アスカ!」
怒らないでくださいとアスカは言う。
「母親じゃなく、一人の人として、当たり前に接することくらいならできるんじゃないですか? レイには、母親としてのおばさまでいることができてたんですから」
「お腹を痛めて産んだ子じゃない。そう思えって言うの?」
「下手に母親としての自分であろうとするから、競合するんじゃないかって思うんです」
まあ、勝手な言いぐさですけど、とアスカ。
「本当は、おばさまの子供になるはずだった子の体を、勝手に使っている立場ですから、おばさまには何を言われたって仕方ないんですけど」
「…………」
「でも、これだけは忘れないでいてください。おばさまが大事だと思ってるレイのために、シンジは命を投げだそうとしました。命を賭けて盾になろうとしたことがありました。シンジの本質はそこにあるんです。だから、せめて、嫌わないであげてください」
「わたしは……」
ユイは、なにか返さなければと口を開きかけたが、言葉に詰まった。迷ってしまった。
その間を、致し方のないことなのだと諦めるように、アスカはうつむく。
嫌な沈黙が、小さな部屋の澱となった。
−Oパート−
「黒き月」
委員会の者たちは碇ゲンドウを招集していた。
「これは計画にない事象だよ」
「ネルフではなんと見ている?」
ゲンドウは、明らかなごまかしの言葉を口にする。
「解析中です」
嘘を、という、空気が流れる。
「MAGIですら、か?」
はいとゲンドウ。
「リソースの半分を与えていますが」
「使徒ではないのだな」
「はい」
「ならば月の問題は国連の別機関に任せよう」
「ネルフの仕事は」
「わかっています。使徒の殲滅」
「現状、エヴァの派遣は?」
「引き延ばしています。情勢が読めませんので。フィフスチルドレンは……」
「決定力に欠ける」
「あれは元々、このようなことをさせるために用意した個体ではないからね」
ゲンドウは、表情も変えずに思考する。
(あの力については、言い訳も無しか)
「使徒ではないのですか?」
「使徒だよ、もちろんね」
「ATフィールドの存在がそれを示しているだろう?」
「報告や連絡はありませんでしたが?」
「君の知る必要の無い話だからね」
「ですが、現場の混乱は……」
「人サイズの使徒を相手にできるのかね? 君たちは」
「君たちにも人の姿をした使徒は居るだろう?」
「ファーストチルドレンのことを言っているのですか?」
返事がない。
ゲンドウはそのことをいぶかしく思った。
(レイは問題視されていないのか? あるいは、使徒とは、シンジたちのことを含んでいるのか?)
議長が先を進める。
「あれの目的は我らと異なる。いずれは敵となろう」
「サードインパクトが目的ではないと?」
「君が知る必要のない話だよ」
「はい」
「今、フィフスチルドレンを失うわけにはいかん。碇、エヴァによる遂行を願うぞ」
闇が消え、それと同時に人の映像も消え、そしていつもの司令室へと姿が返る。
明るくなると、ゲンドウの背後にはコウゾウが控え、立っていた。
「知る必要のない話か」
「人類補完委員会」
「補完……それの指すところがなんであるのかだな。表向きは人類復興を目指しているという話だが」
「ああ。フィフスチルドレンは奴らの目的のための駒と見て間違いない。そして」
「シンジ君もか?」
「フィフスがサードに接触したのはそういう意図があってのことだろう」
「碇……」
「わかっている、が」
息子だと意識したくとも、意識しようとしているということ自体が……と、悪循環に陥っていた。
「サードはサードインパクトを経験したという。そして、セカンドもな」
「前世云々のことか? アスカ……ドイツで彼女を救ったのも、フィフスの少年だったな」
「フィフスはなにを知っていると思う?」
「あるいは委員会を動かしているのは彼かもしれん。動かしてはいなくとも、誘導しているくらいのことはやっているかもしれんな」
しかし……とコウゾウは目元をもみほぐした。
「エヴァによる遂行とは、簡単に言ってくれる」
すでに事態は彼らの手に余るものとなっている。
「だがエヴァのスペックもまた我々の想定を超えたものになっている」
「もはやパイロットでなければ互いの強さも計れんか。ここが委員会直属の人員と入れ替えが行われるのも時間の問題だな」
−Pパート−
マナとマユミが揃って現れたことで、シンジは少しばかり取り乱してしまっていた。
「どうして……」
この二人がと思う。およそ顔を揃えてということになる理由がわからなかったのだ。
それに、マナにはともかく、マユミには酷いことをしてしまっている。今更に心配をして、顔を見に来てくれたなどとは思えなかったのだ。
だがマユミは「心配になって」と、真っ向からシンジの考えを否定してくれた。
その上で意地悪もした。
「シンジ君のことを心配してるんじゃないの。けんかなんて、その後もできるから、安心して言いたいことを言い放てるんでしょ? そういう甘えってあるじゃない? でもあれでお別れになっちゃったら、最後のやり取りがあんなことだったなんてことになっちゃうから、それが嫌でこうして来たの」
マナはなにがあったのだろうかと、マユミの背後からじーっとシンジのことを睨んだ。
シンジはますます首を小さくした。
ここで打ち明けるには重い話だ。
そんなシンジに、マユミは追い打ちをかける。
「心配って言うのは、そういう意味で。シンジ君と同じよ。あのままになったら嫌だなって、ずっと嫌な気持ちを抱えたままになっちゃうなって、自分のことが心配で来たの」
結局、そういう話をしたのだと知られることになってしまった。
で、と。
「あれから、なにか考えてくれた?」
山岸マユミは間違ってもこのような口調で話すキャラクターではない。
マナはそのことについても知っていたから、だからこそ、シンジに対してのみこうも砕けた態度を取ることを、どうしてだろうといぶかしんでいた。
シンジはそんなマナの目も気になって、もごもごと上手く話せず、惑ってしまった。
「……正直、ぐさっときたけどね」
「なにが?」
「嫌な大人そのものだって言われたことだよ」
でもと続ける。
「たぶん、それも違ってる、間違ってるんだと思う。僕は山岸さんみたいに嫌いだって思ったことはないから。嫌だって思ったことはあるよ。苦手だって思ったことも。でも、嫌ったのは一人だけしかいないよ」
「誰?」
「父さんさ。僕を捨てた」
ずんっと、空気が重くなる。
「あげく、僕に、この手で人殺しをさせたんだ。父さんは。自分の夢のために。願いのためにね。だから」
「それは」
マナはマユミの次のセリフに目を剥いて驚くことになった。
「『前』の話? それとも『今』の?」
「『前』だよ」
「『今』は?」
「好きになれたかもしれない……でも」
「でも?」
「僕には同じ人だとは思えないんだよね。結局は赤の他人なのかもしれない。僕の面倒を見てくれる親しい人。そんな感じしかないんだよ」
「霧島さんみたいに?」
シンジは息を呑んだ。
マナもまた驚いていた、首を振って、話してはいないと否定している。
「やっぱり」
そんな二人の様子を見比べ、マユミは、はぁっとため息をこぼした。
「そうなんだ」
「どうして……」
「勘、かな? シンジ君はわたしと同じだもの。完全に知らない人を、こんなに近づけたりはしないと思ったから」
「ああ……」
ちょっと待ってとマナが割り込む。
「あの、え? どういうことなの?」
「それはわたしも知りたいわね」
そう言って入ってきたのは、ミサトであった。
−Qパート−
シンジの元を訪れる前に、ミサトはリョウジの元へ見舞っていた。
「戦略自衛隊は一種の治外法権だからな」
「無理しなくて良いのよ」
「いや話していたいんだよ。眠っちまいそうで」
彼はベッドの上、ミサトは脇に置いた丸い椅子の上である。
リョウジの無理に作った笑みに、内臓を痛めているというわりには頑張っているなと、苦笑を返す。
敵地で眠りたくはないのだろう。その想いはわかる物だったから、ミサトは「バカね」と苦笑するにとどめたのだ。
「あんたスパイなんでしょ? 戦自にだって味方がいるんじゃないの?」
「おいおい、正気か? こんなところで」
「否定はしないのね」
「身分的に自由が利くだけだよ。スパイなんて高尚なもんじゃないさ」
「あっちこっちに身分があるってこと?」
「そうじゃなくてだな、使いっ走りをしていると、あちこちに居場所ができあがるってことさ。知り合いが多いだけだよ」
「似たようなもんじゃない」
「全然違うさ。どこに言っても、あっちはどうだって話を聞かれるだけだよ」
「情報の漏洩ね」
「世間話の範囲さ」
実際のところ、戦略自衛隊は日本に属する組織ではあるが、日本に本部を持っているとは言え、国連に籍を置いているネルフとは、対立とまでは行かないまでも、繋がりがあるとは言えない位置関係に置かれていた。
戦略自衛隊は、十分に身構えて良い相手なのである。
「もうちょっと我慢しなさい。先行隊はもうこちらに向かってるから、あなたも引き上げてもらえるわよ」
「だと良いんだが……」
「なに?」
「いや」
シンジ君のことなんだがと、リョウジは尋ねた。
「擦り傷程度だって?」
「ええ……あなたがかばったの?」
「いや」
実はと話す。
それを聞き、ミサトは絶句した。
「頭を、割った? シンジ君が?」
「ああ。暗かったが、収納スペースの中で、確かに張り出しに頭をぶつけるところを見たんだ。血も出てた。俺の服、血まみれだったはずだ。半分はシンジ君の血だよ」
「でも」
「治った。ってことなんだろうな。頭が割れるような重傷が」
前世とかそんなことより、他にも何かあるのだろうかと考え、ミサトは一番考えたくはない結論に達した。
「使徒? シンジ君が?」
どうだろうなとリョウジはこぼす。
「こうなってくると、使徒って定義もどうなんだか、怪しいもんだしな」
「でも待ってよ。シンジ君は」
「ほんとうにユイさんの息子か?」
「どういう意味よ?」
「入れ替わられていないという保証は?」
「そんな!」
「使徒が相手なら完全な擬態だってあり得るだろう?」
しかしとミサトは否定しようとして……様々な記憶を呼び起こした。
レイに、アスカに振り回されているシンジを。
初めてシンジに会った、助けたときのことを。
そして街から離れていくときに話したことを。
そして改めて否定する。
「むしろ疑うべきは渚くんでしょう? 彼がなにかを細工した可能性は?」
「否定はできないな」
リョウジはため息をこぼす。
葛城ミサトという女性のことを知っているからこそのため息であった。
(否定したくないんだろうな)
碇シンジという少年と過ごした日々を、話したことを、笑いあったことを、である。
裏切られたくはないと考えてしまっているのかもしれない。それが転じて、裏切り者などではないのだと……。
とはいえ、リョウジには言い諭すつもりはないようであった。熱があることもあって、冷静な対話は難しかったし、なにより、ミサトの指摘も正しかったからである。
「踏み込むまでの間の様子は、俺も聞いて知ってる。なにか渡されたって話だったが?」
「会話の内容まではわからないのよ。レコーダーは瓦礫の下だし。……使徒のビームで溶けちゃったかもしれないけどね」
「MAGIには……」
「もしレコーダーに録れているのなら、もちろんオンラインでバックアップはされてるはずよ。もっとも、なにかまずい内容だったら、閲覧は難しいでしょうけどね」
もしシンジが不利になるような内容の会話が交わされていれば、どうなることかわからない。
そう考えて、ミサトは汗が噴き出すのを感じた。
背中がじっとりとぬれる。
(実際、わたしには連絡が来てないわ。これって)
本当に、なにかまずい展開となっているのかもしれない。
焦ったミサトは、顔色を観察されていることに気付かなかった。
リョウジは心配していたのである。
ミサトは父親のことを信じようとした。
彼女の父親は家族を顧みずに研究の虜となって……だが、最後にはミサトのことを第一に考えた。
二千年の南極。第一の使徒アダムの覚醒。
アダムと名付けた研究者たちの中に葛城という人間が居た。そしてミサトはその父親に付いて南極の基地にいたのである。
覚醒したアダムによって南半球からは命が奪われた。その力から逃れられる構造を持った退避ポッドにミサトを押し込んだのは父親であったのだ。
捨てられたなどとは信じたくなくて、信じようとして、側にいようとして……、最後には信じようとして良かったのか、どうなのか、よくわからないままとなっている。
果たして『あの人』は、父親として、家族として、自分を助けてくれたのか、と。
そんなミサトは、今回のシンジの件に、そのことを重ね合わせているように見えていた。
(ここで信じ抜かないと、なんて、思ってやしないだろうな?)
いや、思っているかもしれないな、と、リョウジは考えた。
本人が自覚しているかいないかは別として。
−Rパート−
ミサトの登場に、シンジに詰め寄っていた二人は気勢をそがれ、身を引いた。
片方のマユミは、ミサトを見て、説明するかどうかで迷ったようだった。
弾みを付けたのはシンジである。
「葛城さんが信じるかどうかはわかりませんけど、山岸さんは僕と同じなんです」
「前世とかって話のことね?」
「はい。霧島さんにも、僕が一度似たような経験をしてきてることは話してあります」
「つまりこの場では遠慮することはないってわけね」
ミサトはシンジが腰掛けているベッドの前に、持ち込んできたらしい丸椅子を置いた。
後の二人は放っておいて、そこに座り、シンジと正面から顔を合わせる。
「今度再会するときは、酷いことになっているって言ったはずよね?」
「はい」
ミサトは一拍間を置いた。
覚悟を確認してから、状況の説明を開始する。まずは一番悪い話からであった。
「レイが死んだわ」
「綾波が!?」
「ええ。MAGIの判断では、自身をエネルギーの塊に変えて、飛び去ったそうよ。次元の壁を突き破ってね。その名残が空の黒い穴」
「それだけじゃ、死んだかどうかなんてわからないじゃないですか」
「そうね、死んでいないかもしれない。だけど、かもしれない、という不確定さは足かせになるわ」
「切り捨てることにしたんですか」
「このままだとそうなるわね」
シンジは眉間にしわを寄せた。
「どういうことです?」
「レイ……零号機が変貌したとき、使徒に似た波長が観測されたのよ。もしこれが元になって、レイが使徒だという結論が出されたら……ネルフは使徒殲滅のための機関だもの。労せずして使徒を葬ることができるのなら、わざわざ手を出そうとはしないでしょうね」
「つまり、助けようだなんて、考えないってことですか?」
「そうね」
そんなとシンジは唸る。
「変貌っていうのは?」
「説明しがたいわ……槍のようなものに変質して、そのまま使徒に向かって飛んでしまったのよ」
「なんですか、それ」
「わけがわからないわ」
そう言って肩をすくめる。
「司令とユイさんならって気はあるけど、どうかしらね。ネルフも国連という枠組みの中に居る以上は、もし司令が使徒を生み、育てたと言う話になったのなら、更迭だってあり得るんだから」
「そんな……」
「もっとも、それも今の状況を乗り越えられたらの話だけどね」
「今の?」
「渚カヲル。彼は使徒なのね?」
シンジは迷った末に、はいと頷いた。
「十七番目、最後の使徒でした」
「最後の……」
「そして十八番目が人間、人類で」
「……え?」
「十九番目は、たぶん、生まれなかったんだと思います。サードインパクトが……」
「ちょっと待って!? 十八番目ってどういうこと!?」
驚くミサトに、シンジは戸惑った。だがすぐに気がつく。
このことを教えてくれたのは、目の前にいる人ではないのだと……。
「詳しいことは、僕には……これはミサトさ……、その時の『葛城さん』が、死ぬ前に教えてくれたことでしたから」
「死んだ……? わたしが?」
「はい。戦略自衛隊の侵攻に遭って」
「ええ!?」
驚いたのはマナであった。
「戦自が!?」
ちらりとマナを見てから話す。
「エヴァンゲリオンはサードインパクトを起こすことができるんだよ。エヴァは使徒のコピーだからね」
ちらりとミサトを見る。
ミサトは止めなかった。
「使徒もまた第一使徒、アダムのコピーみたいなものなんだ。同じコピーなら同じ現象を起こせて当たり前だろう? 戦自は、僕たちが、エヴァを使って自分たちに都合の良いサードインパクトを起こそうとしてる……そう思い込んだみたいだったよ」
「そんな……」
ミサトが話を戻す。
「その時、わたしはなんて?」
「人類は、アダムと同じ、リリスという存在から生まれた可能性の一つだって言ってました。お互い拒絶し合った末に残ったのが人類だって」
「そう……」
「でもカヲル君は別のことを言ってました」
「え?」
シンジはカヲルが語ったアダムのことを話した。
「アダムに、意思が?」
「アダムって、神さまみたいだって思いました。でも違っているのは、僕たちが考えているほど都合の良い相手じゃないって事です」
「どうして神さまみたいだって思ったの?」
「いつでも、どこにでもいて、僕たちを導いているってところがです。本当は、都合が良いように誘導している、ってことらしいですけど」
「あなたはそれを信じるの?」
「わかりません」
「あの」
マユミが割って入る。
「おかしいと思います、それ」
「え?」
マユミはシンジへと確認を取った。
「渚カヲルって人は、平行世界って言葉を使ったのよね?」
「ああ、うん、確かに言ってたよ。違う次元とか、平行世界って」
「なら、アダムとか使徒とか、詳しいことはわからないけど、『違うアダム』や『違う使徒』だって」
ミサトとシンジは一瞬なにか言い難い顔になった。
なにか重要なことを聞かされた気がしたからなのだが、それがどういうことなのか、具体的に把握できなかったのだ。
もどかしさに喉がつまっている。
代表して、まったく付いてこれていないマナが尋ねた。
「どういうことなの?」
はいとマユミは口にする。
「アダムって言うのが、この世界の創造主みたいな立場にあるとして、その下にある世界を管理している……ここまでは良いんですけど、平行世界って言うのは、こことは違う自分、こことは違う法則、こことは違う時間の流れがあったりもするものだって考えないといけないんです。もしその枠組みの中にアダムまで入れてしまうと……」
そうかとミサトは手を打った。
「アダムもその法則に囚われているのなら、アダムが管理していない世界……、アダムに管理されていない世界が存在する可能性が出てくるわね!」
「はい。アダムから生み出されたものが使徒で、使徒が生命の別称なら、アダムはお父さんとか、そういった立場になると思いますけど……」
「使徒から生まれていない人類もいるだろうし、そもそもアダムってものが存在していない、使徒とはなんの関わりもない、使徒の存在しない世界だってあるはずだから……」
マナは完全に理解を放棄しているようで、ふぅんと鼻で相づちを打っている。
マユミは続ける。
「この宇宙の生みの親だというのなら、この宇宙の話だけに留まらないといけないと思うんです。でもそこに平行世界を持ち出してしまったら、アダムから生まれていない生命体が発生している世界だって存在していることになってしまうんです」
いや……と、シンジが気付く。
「リリス」
ミサトはばっとシンジを見た。
「アダムではない別の生き物から発生した使徒!」
「使徒って呼称は、人間が勝手に付けたものだから」
「ひとまとめにしてしまっている可能性はあるわね」
「はい。それでもし、人類がアダムとは無関係なところから派生した存在なら、アダム……使徒とは争い合うことしかできないって理屈、わかる気がします」
「そうね。アダムが世界を餌のように見ているのなら」
「自分が株分けして育てているものとは無関係のところにあるもの。これって、アダムにとっては魅力的なんじゃないですか?」
シンジは、そう言えばと口にする。
「綾波に聞いたことがあるんです。ここは君の中、リリスの世界だよねって」
「あの子はなんて?」
「認めてました」
「それで?」
「人類はリリス……綾波を失ったら、存在そのものが消えてしまう可能性があるんじゃないでしょうか?」
「……その理屈なら」
マユミである。
「綾波さん? って方が、時空とか次元に穴を空けて飛び去ったのなら」
はっとする二人に、マユミは小さく頷いた。
「その先にあるのは、アダムの世界か、それとも他の使徒の世界か……」
「まずいわね……じゃあ」
「その跡が空にある黒い影だっていうのなら」
「綾波を助けられるのは、それがある間だけ?」
「あれが道なのか、それとも見え方が違ってしまっているものなのか、は、わからないけど」
「外の使徒のことだってあるのに……」
ミサトはシンジを見た。
「シンジ君」
「はい」
「もし、また、エヴァに乗ってってお願いしたら、乗ってくれる?」
「乗りますよ」
即答だった。
「乗ります」
「迷わないのね」
「はい。でも、今更僕を乗せるなんて……」
ミサトもそれが問題だと思っていた。
「そうなのよねぇ……」
今はユイが初号機を預かっているのだ。シンジに譲るとは思えなかった。
シンジに頼らず、他の方法を取ろうとする確率が一番高いだろう。
「レイを助けるにしたって、もう少し理論武装が必要か」
これではリリスが必要なだけで、綾波レイという個体にまでは行き着かないからである。
「レイという個体が失われても、リリスという本体はこの世界にあるんだものね……」
シンジは「あの……」とおそるおそる尋ねた。
「でも、良いんですか?」
「なにが?」
「僕は……知ってます。葛城さんが使徒を憎んでるって事」
ミサトは少し怪訝に思った上で、ああと思い至った。
彼が自分という人間に会うのが二度目なら、知っていてもおかしくはないからだ。
「それは誰に聞いたの?」
「『ミサトさん』に……」
わたしにと言いかけて、ミサトは思いとどまった。
自分を呼ぶときの声音と明らかに違っていたからだ。
(嫉妬するわね……)
よほど特別な存在になり得ていたらしいと感じ取る。
一体どこまでの関係だったのだろうかとも勘ぐってしまう。
「それは少し違うわ……」
ミサトは手を伸ばし、シンジの頭をくしゃりと撫でた。
「わたしは、納得したいだけなのよ。どうしてこうなったのか、それをね」
−Sパート−
ミサトは一旦部屋を出て、リツコへと電話をかけた。
「どうそっちの様子は?」
「気をつけて、通常回線でしょ? これ」
「どうせそこら中に盗聴器がしかけられてるわよ」
「まあ回線だけ暗号化しても仕方ないでしょうけど、こっちは粛々とってところね。ただ……」
「なに?」
「アスカがね、全部を話したみたいよ。ユイさんに」
「そう……」
「ユイさん、碇司令もだけど、やっぱり科学者だし、研究者なのよね。そちらの顔が出てきてるわ」
「どういうこと?」
「シンジ君をね……」
「ああ」
「シンジ君の様子はどう?」
「まあ、そっちを離れた頃の印象そのままね。自分がどう見られ始めてるかなんて、伝えなければ知らないままなんだし」
「無理に教える必要はないでしょうけど、後でとか、いきなりだときついわよ?」
「わかってる。けどねぇ……」
「なに?」
「葛城さんって呼ばれるときついのよねぇ」
「なに? なにか壁でも作られるようなことしたの?」
「こっちの問題じゃないみたい。あの子たちの言う前の世界との兼ね合いで言い分けてるみたいね。ただ他の人にまで同じ態度を取るようなことがあったら……」
「どうなることかしらね」
「そっちもこっちもとなると、すれ違いじゃすまないかもしれないしね……」
「……他には?」
「シンジ君と渚君の会話、録れてた?」
「ええ」
「聞いた?」
「……コアらしきものを渡されたみたいね」
「それでか」
「え?」
「加持の奴がね、シンジ君も、大怪我を負ったはずだって言うのよ。でも実際にはかすり傷ですんでるの」
「回復したって事?」
「他には考えられないでしょ?」
「シンジ君が、使徒に?」
「どうなんだと思う? レイや渚君のことを考えたら、大きさなんかは問題じゃないんだろうし、見た目で決められないしね」
「ユイさんが言っていたわ。使徒としての定義づけについて考えて欲しいって」
「は?」
「ユイさんも迷い始めてるみたいなのよ。わたしたちが考えていたのはATフィールドの波長が青だってことだけでしょ? でもレイはそうではないし、渚君にしたって、人類に敵対するわけでもない」
「その上、シンジ君は純粋に人間から生まれた子供か」
「そう……生まれは間違いなく人間なのよ。ユイさんのお腹の中で育ってる。もしコアを与えられたとしても、殲滅すべき対象にまで変質してしまっているかどうかなんてわからないのよね。人類に敵対しようとする意思のようなものが衝動的な本能に則るものであるのか、それとも明確な意識の元に果たそうとするものなのかは、不明なんだし」
「……人間と同じ知能、知性があるかどうかなんて、考えたこともなかったわ」
「そういうことね。でももし、シンジ君が明確に使徒としての力を振るいだしたら、あなたどうするの?」
「わからないわ……」
ふぅとリツコはため息をこぼす。
「ミサト……覚えてる? 超長距離での砲撃戦のときのこと」
「シンジ君が突撃していった、あれ?」
「ええ……もしあれが二度目の対戦なら、確かにビームの干渉なんてことを知っていたっておかしくはないわ」
「経験済みだったって事よね」
「シンジ君の学力自体は普通だし、SF系の読み物を趣味にしてるってわけでもないのに、どうしてあんなことを思いついたのか不思議だったけど」
「それが?」
「でもだからって、それがうまく行くかどうか、無事で済むかどうかは別問題でしょう? 話してくれていたって、わたしたちはあの時点では信じなかったでしょうしね。たぶん反対していたわ」
「なにが言いたいの?」
「裏の事情があったにせよ、なかったにせよ、あの子は命がけでやるって決めて、やって見せたのよ。戦ってくれていたってことに嘘はないって話をしてるの。少なくとも初号機に乗ってくれていた頃はただの人間だったわけでしょ? 少しばかり経験から勝率が高いだけの、ね」
「確かに、ぎりぎりだったものね……」
「誰のためなのかはわからない。自分のためだったのか、わたしたちのためだったのか……それでも彼はこの世界を存続させたいと思ってくれてる。そのことについては意見が一致してると見て間違いないんじゃない?」
「そのことなんだけど……」
ここでミサトは、シンジたちとまとめた話をリツコに伝えた。
「どう思う?」
「興味深い……を通り越して、考える余地があるわね。ネルフではあの影をどう捉えるか、まだまとまっていないもの」
「……よかった」
「え?」
「ちょっとね……想像力がたくましいって言われたら、そこまでの話だったからね」
「……わたしたちはとっくに、常識なんてかなぐり捨てた世界にいるでしょう?」
「まあね」
「で、そっちはどうするの?」
「思わない味方も得られたしね」
「……あんまり無茶、しないようにね」
「ありがと」
−Tパート−
光学観測でのみ、その球体は記録が可能な状態にあった。
戦略自衛隊の隊員……霧島マナの父親と、あの時田という男が、揃って仮設テント郡の一角で、観測を行っていた。
「わかりましたか、時田さん」
時田は素直に肩をすくめた。
「正直、わかりませんね。わたしは技術屋で科学者じゃない」
目元をもみほぐす。
「JAを失ってしまって、使い道の無くなった機材をと、その使用説明のためにここにいるだけなんですよ?」
それは外で動いている重機のことであった。
人型の重機は、元々は彼の傑作である人型巨大ロボット、ジェット・アローンの技術蓄積のために作られ、その後はJAの建造に用いられていたものであったのだ。
「あんなものの観測なんて、わたしの分野の外ですよ」
「それでもわたしたちよりはよほど近しい。ネルフからもこの観測機からのデータに対して、感謝状を贈るという勢いですよ」
こちらも参っているのだと霧島は明かす。
「あれが……ええと、事象? 非科学的とか、理解不能な現象に過ぎないのか、それとも科学的に答えの出せるものであるのか、わたしたちにはそれすらもわからないんですからね」
「少なくとも、使徒ではない、としか言えませんね」
二人は建物と見まがうテントを出た。
複数のテントが連なって、まるで小さな建物を成している。
揃って紫色の空を見上げる。
「黒い月か」
雲よりも高い位置に、真っ黒な球体が浮かんでいる。
「落下してくる使徒のデータ取りにこちらの機材を利用したいと打診があって、落下を阻止できなかった場合には消し飛ぶことになりますけどねと脅しまで入れられて、地上には落ちないと知らされて拍子抜けしたら、今度はあんなものについて意見を求められて……」
時田は変貌した零号機が、天を貫く様を記録してしまっていた。
「あれがエヴァンゲリオンのなれの果てだなんて」
「第三に展開していた部隊からの報告です。間違いではありませんよ」
「エヴァンゲリオンって、なんなんでしょうね」
「わかりませんか」
「わかりませんね……わたしはロボットのようなものだとばかり思っていましたから、でも、あれは……」
その戦略自衛隊の部隊から回された映像に身震いをする。
零号機がよじれ、ねじれ、槍になる姿は、異常としか言えないものであった。
エヴァンゲリオンは装甲を装備していた。人の手で作った機械をである。
なのにその機械すらも変貌に巻き込まれ、変化していったのだ。
「物質の変換? 変質、変態すらも可能にすると言うのなら、それはもう、神さまの領域の話ですよ」
「科学の徒の言葉とは思えませんな」
「科学者だからですよ。できることとできないことには明確な区別があるんです。だから奇蹟とか魔法の領域の話だと投げ出せるんです」
「ですが、投げ出されても困ります。全人類の未来に関わる話ですから」
「零号機の変貌が?」
「エヴァンゲリオンの可能性が、ですよ。先日は洋上で、我々の想像を超える機動を見せてくれています。そして今回はこれだ。何ものかわからない、ということは恐ろしく、それは人の理性的な判断を阻害し、凶行へと導く要因になります」
「御せるものだと安心したいというわけですか」
「御せるのならよし、ということろでしょうが……」
「なんです?」
「……乗っているのは、戦っているのは子供です。その子供が命がけで成していることに対して、不信感を持って当たらねばならないとは、世も末だと思っただけですよ」
もっとも、子供だからこそ利用しやすい面もある、とも考えられますがねと言う霧島に、時田は、とっくに末の世ですよと、苦笑した。
−Uパート−
シンジは窓より新しく生まれた天体を見上げていた。
ミサトたちがなにやら企んで動き出したため、一人残されてしまったのである。
月よりも低い軌道。重力に引かれて落ちてこなければいけない位置に浮かんでいる球体。
黒き月。
「綾波……そこにいるのか」
わかる……というのは奇妙なことだと思う。
シンジ自身はただの人間なのだから。
たとえなにを渡されていようともである。
ふと、奇妙な気配を感じた。
存在感はない。だが、それはなにかがそこに『在る』という感触であった。
「誰?」
シンジは自分が、それが人であると察したことについて驚いた。
内心に押し隠しはしたが、なぜ人だと思ったのだろうかと疑問には思う。
「キール・ロレンツという名を知っているか?」
そこには自分と変わらない年の少年が、杖を突き立っていた。
しかし姿は透けて見える。シンジは足下に影がないことから、映像、幻のようなものだと思うことにした。
(いや、映像ってわけでもない? 直接に頭に送り込まれてる感じだ……)
それはエヴァに乗っている際に脳に感じる圧力と同じであったから、思いつけた発想であった。
神経接続によって情報は直接的に脳や視神経に送られてくる。その時に感じる圧迫感を感じたのだ。
その相手は、シンジより少しばかり年上にも見えたが、それは身長のためとも思われた。
「……ゼーレ?」
「よく知っているな」
「父さんのことを調べたときに、新聞に……」
「まあ、闇の組織というわけではないからね。接触してきたのは彼……と口にされているが、真実は君の知る通りだよ。彼らが彼を取り込んだ」
「彼らが? じゃあ君は?」
「アレク」
「……誰?」
知らないのかと、彼は苦笑する。
最愛の人の口の端にでも上っていれば、碇シンジがこの名を耳に残していないわけがないからであった。
アスカの中に、自分はもういないのだなと、彼は苦く笑う。
「アスカの父親のクローン。渚カヲルのひな形。もっとも、クローン技術の実験体としての意味合いに過ぎないけどね」
シンジは、聞かされていない話だと眉間にしわを寄せた。
「アスカのお父さんってこと?」
アスカの側にそんな人間がいたなんてことは聞いていなかった。
それは意味のないことだからだったのかもしれなかったが、シンジにとっては隠し事であり、なにか言いしれぬ不快感をもたらした話であった。
−Vパート−
霧島マナは碇シンジから一定以上の信を得ている。
マナ自身その自覚があり、立場があったから、物事を面倒にすることができたのだと確信していた。
相手にとっては迷惑でしかなくとも、彼女にとっては好都合なことであり、それは彼女というコマを手に入れたミサトにとっても良いことであった。
ここにさらにマユミの存在が加われば、戦略自衛隊の強引な行動に歯止めをかけることができる。ミサトの提案に、マナとマユミは乗ることにした。
碇シンジと共に行く、という話である。
ネルフの諜報関係に深く食い込んでいるリョウジと、最重要機密であるサードチルドレン。この二つを手に入れて、戦略自衛隊がじっとしているいわれはなかった。
この動きはマナにもすぐに伝わった。それほどあからさまだったのである。
ミサトはマナからの密告に、マユミを防波堤として据えることにした。
マユミをおろそかに扱えば、ネルフだけでなく国連軍の介入を招くことになる恐れが出る。彼女の養父にはそれだけの力があるからだ。
「シンジ君、本当に大丈夫なんでしょうか?」
マユミは少々わざとらしいくらいに取り乱して見せた。
それを落ち着かせようとして、取り扱いに困っている。そんな風を装って、ミサトは彼女の両肩に後ろから手を当てていた。
演技を押さえようとしているようにも、後押しをしようとしているようにも見える姿だった。
もし碇シンジの取り扱いに問題があり、何かしらの変調が見られたならば、マユミは解放された際に、養父経由で国連へと訴える……というようなことを口にしていた。
これは葛城ミサトの入れ知恵であったが、戦略自衛隊の側は見抜きながらも、苦々しく思ったりもせずに、演技に乗ることにしたのであった。
マユミが小説家であることは知られていた。それを取り上げて、発想が飛躍しすぎである、考え過ぎであると押さえ、理解を求めるという、時間のかかる方法を選択したのである。
一方でマナには不用意な発言、軽挙な行動は慎むようにと警告する。
マナが戦略自衛隊の中の動きを察知できたのは、それが隠すようなことではなかったからである。
だがだからと言って、部外者へと流して言い話でもなかった。
なによりも、マナが耳にした内容のことは、それが全てという話でもなかったのである。
マナはミサトたちに伝えたことは、一部において事実であったが、だからと言ってそれは尋問に類するような話ではなかった。
戦略自衛隊としても話を聞きたい。その程度の動きであって、それは作戦部長である葛城ミサトが同じ場所にいるというのであれば、これは願ってもないことだという、ネルフに融通を願うものであったのである。
そこでミサトたちが賢しい行動を起こしたわけであるが、むしろ彼女たちが動いてくれたことを、戦略自衛隊側は歓迎して受け入れていた。戦略自衛隊にとっても、この山岸マユミという証人は、身の潔白を証明するには十分すぎる存在であったからである。
彼らもまた、突然手元に転がり込んできた碇シンジという名前の、最大最強の手札の取り扱いに困っていたのだ。
−Xパート−
「どういうことなの?」
待機所と格納庫との半ばにある通路で、ユイは設置されている連絡用の通信機を相手に、ゲンドウへと問いかけていた。
連れ戻すことになった息子が、ネルフへは戻されないとわかったためである。
「日本政府から横やりが入った」
「日本政府から?」
「ああ。碇シンジは民間人であり、日本国は徴兵を認めていないとな」
「まさか、二度目だという話が漏れたの?」
「それはないだろう。MAGIにも記録していないからな」
そのためにアスカからは口頭という形で、メモも取らずに聞き取りを行ったのだ。
だがと言う。
「渚カヲルのことが露見した今、なにかを疑っているのかもしれんな」
「山岸マユミさんも、確か一緒にいるのよね?」
「ああ。だが、彼女はシンジを守る腹のようだ」
「大丈夫なの?」
「それこそいまさらだろう。彼女の本のことは、大昔に問題になった限りだ」
「そうね」
「エヴァのことは上っ面だけの描写であったし……アスカの話との差違はどうだ?」
「かなりあるわ。設定が似ているのは、お父さんから聞いた話でも元にしているのかと思っていたんだけど」
「……その彼女が、シンジへと接近し、守ろうとしているというのは、面白い話だな」
「まさか! 裏に委員会が?」
「ないとは言えん」
「マユミさんはまだ子供でしょう?」
「シンジとて子供だ。アスカも、レイもな。彼女が委員会と関わっていないという保証があるか?」
「…………」
「ともかく、今は身動きができん」
「彼は?」
「予想以上の重傷だ」
「こんな時のための人間でしょうに」
「名誉の負傷だ、などとうそぶいているようだがな」
「呆れた子ね」
「それでも、シンジたちの秘密はいずれは漏れるだろう」
「……わかっているわ。わたしたちがあの子たちを愛しているのは、よく知られている話ですから」
う、む、とゲンドウは唸った。
愛しているなどと言う言葉を臆面もなく使う妻に照れたからである。
「……ネルフの司令としての立場と、親としての立場、その双方が板挟みを作り出すような形へと攻められるわけにはいかん。我慢してくれ」
司令としての立場を取れば子をないがしろにする親と取られ、親としての情を優先すれば司令官として失格の烙印を押されることになる。
「今は司令としての立場を取ると言うことですね」
「ああ。……葛城君には誤解させてしまったようだが」
「好都合ですよ。わたしたちが嫌われたとしても、ミサトちゃんが側についてくれるなら、それで」
「後の問題はレイか」
「それについてはリッちゃんから面白い話が届いてます」
「なんだ?」
それはミサトから経由した話であった。
「……タイムリミットは?」
「リッちゃんの見立てだと、消えるときは一瞬らしいです。つまり」
「いつ消えてもおかしくはないか」
「はい」
ゲンドウは、ふぅむと得意のポーズを取った。
両肘を机に突き、手を顔の前に組み合わせて橋を造り、表情を隠す。
「エヴァ……シンジとお前と、どちらが勝率が高いと思う?」
「それは……」
「アスカは?」
「このような現象は『過去には』なかったと。ただ、渚君が押さえてくれている使徒は、初号機の暴走によって倒されたそうです。その時、自分はすでにリタイアしていて、後で結果だけ知らされたそうで、詳しいことまではと……」
「しかし先入観を持って戦うのも問題か」
「はい。これまでの使徒も、相当勝手が違っていたようですから……」
「それでもあいつはなんとかして来たわけだな」
「はい」
ゲンドウの口元に笑みが浮かんでいるのを見て、ユイはくすりと笑った。
(うれしいのね)
「ユイ」
「はい」
「笑うな」
「はい」
「日本政府だが、邪魔をしてきてはいても、身柄を拘束、とまでは考えてはいないようだ」
「つまり?」
「政治的な取引に使うつもりなのだろうな」
「こんなときに」
「こんなときだからだろう。俺たちには譲歩しかできん」
「しかしわたしがいます」
「ああ。それに、シンジがなにを考えているかがわからんのだ。フィフスから受け取ったというコアらしきものについても謎のままだ。となれば、初号機への接触は許すわけにはいかん」
「はい」
「それからもう一つ」
「なんですか?」
「委員会からだ。使徒を押さえている結界は、そう遠くなく消滅するそうだ」
「正確な時間はわからないんですか」
「太陽光に関係するスペクトラムがどうのこうのと、煙に巻くような文章は送られてきているがな」
「つまり、渚君に限界が来るわけではなく?」
「ああ。タイミングを合わせろと言うことだろう」
「わかりました」
「武器もあるだけ送っておく、好きに使え」
「あるだけ、ですか?」
「ああ」
なぜかため息をこぼすゲンドウである。
それだけで、ユイはなんだかわかった気がして、苦笑した。
「了解です」
−Yパート−
時折地響きのようなものが感じられる。
シンジは半分気を取られてしまっていた。
「戦っているんだよな、カヲル君が」
「気になるのか?」
「当然でしょ?」
「所詮は同じアダムの使徒、千日手だよ。けりが付くことなどはないさ」
「千日手?」
「同じアダムなら、強さも同じだ。その上、エネルギーは無尽蔵、無限と来てる。きりがない」
彼に集中するべきだとは思う。
だがいつ死ぬかわからないという状況では、それも難しいことだった。
「命の実は存在確率の絶対化を行うものだ。同じ絶対物同士で決着が付くことはないよ」
「……よくわからないけど、なら、どうして僕たちには」
「命の実を持たない君たちは、不確定な存在なんだ。その不確定な揺らぎの中に取り込むことで、使徒の絶対性を浸食し、核を破壊する機会を手にする。その手法こそが、唯一取れる手段なんだよ」
「ATフィールドの中和とか、浸食と、コアへの攻撃って事ですか?」
「そういうことだね。だから今、エヴァがこの地へと運び込まれようとしている」
「知ってます」
「エヴァが来たら、干渉を受けて僕は消えてしまうから、その前に話をしておきたくてね」
「エヴァから?」
「こっちの話さ」
「そうですか」
「ああ。……わかってるのか? 君はもう部外者だ、エヴァに乗ることはできない」
「わかっています」
「でも、諦めていない。そうだね?」
シンジはコアを受け取った右手を、ぎゅっぎゅっと握り込んだ。
その仕草を観察した上で、アレクは語り出した。
「僕は実体じゃない」
「影がありませんよね」
「ああ。君に聞きたいことがあってね。こうしてやってきたんだよ」
「なんです?」
「君はこの世界のことをどう思ってるんだい?」
「どう……って、なにがですか? どういう意味で……」
「人が大勢死んだ世界。これからも死ぬ世界。理不尽な思いが強いられる世界。苦しいだけの世界。すなわち地獄のことをさ」
「なにを言ってるんですか?」
「思ったことはないか? もし、もっと良い世界があるのなら行ってみたいって」
シンジは否定できなかった。
それは今のこの状況そのものを否定することになるからである。
「そう、そう考えて君たちはこの星を選んだんだろう?」
「どうして……アスカが?」
「違うよ。疑わないで欲しいな、アスカのことを。あの子が傷つく」
「すみません……」
「話を戻そう。君は、この結果に満足しているのかい? 骨身にしみてわかったことだとは思うけどね」
「そんなに都合の良い話なんてないってことですよね」
「うん。だけどね、異世界と言うほどではなく、ほんの少しだけ違った結果が待ち受けている、広がっているというのなら、都合の良い世界だってあっていいはずだ。そうじゃないのかい?」
「それは……」
「ピンポイントで、これからしようとしていること、今現在見舞われていることの結果だけが違う世界が、あり得るのなら、選びたくはならないかな? そんな未来を」
「でも僕たちにはそんなことはできないし、なら、諦めるしかないじゃないですか。だから……」
「君がそれをいうのかい? 現実にやり直している君『たち』が」
どこまで知っているのかと、唇を噛む。
しかし尋ねはしなかった。いまさらそんな無駄なことに、時間を費やすつもりはなかったからである。
「でもぼくはこんな世界を望んだりなんてしていなかった」
「ならどんな世界を望んでいたんだい?」
「それは……」
聞いたとおりだなとアレクは蔑む。
「主体性もなく流されるだけか……アスカに流されてここまで来て、今更ながらに悔いている。そんなところか?」
「あなたなんかに、なにが……」
「わかるわけもない」
……と、いうわけでもないと、彼は心の中で呟いた。
(僕とて振り回されている人間だからね)
さて、と、彼は個人的な感情については切り離そうと提案した。
「ここが、君の望んだ世界でないのなら、どこだと思う?」
「どこって……?」
「アスカの望んだ世界かい?」
「…………」
「言い方を変えよう。単純な過去ではない。ならばこの世界はなんだ?」
「なに……って、それは」
「異界、異世界、あるいは別世界、平行世界? 過去から分岐した違う時間軸の世界?」
それを知ることに、なんの意味があるのだろうかと、シンジは苛立つ。
だがそこには大きな意味があると、アレクは語った。
「もしもここが、『君』が生まれた世界と同じ宇宙にある、どこかの星の上だとしたら?」
「当たり前だろ? ここは地球……」
「いいや、そういう意味じゃないんだよ」
天を指さす。
「君は、あの天に輝く星の内の一つで生まれ、そして君の星よりも後に誕生しているこの星へとやってきたのだとしたら?」
は? とシンジは首をかしげる。
「意味がわからないよ」
「宿題だよ」
「え?」
「娘にふさわしいかどうかを見極めさせてもらうよ」
「娘って……アスカのことですか?」
「僕はただのクローンで、あの子の父親じゃないだろう? ……なんてことは言わないよね? でなければ君は君や、ファーストチルドレン、アスカ、それにフィフスについてまで、否定しなければならなくなるよ?」
「それは……そうですけど」
「君が挨拶に来てくれることを楽しみにしているよ、碇シンジ君」
ガチャリと音がして、扉が開く。
マナであった。
「シンジ? 誰かいたの?」
室内にはシンジだけである。
シンジはごまかすように吐息をこぼした。
緊張に身が強ばりきっていたと、今になって気付く。
「……独り言じゃないかな? 考え事してたから」
「なに?」
「自分から動くって、慣れてないから、どうしたもんだかってさ」
「ああ……シンジってそういう感じだよね」
「まあね」
シンジは頭の半分を使って、先のアレクが上げた名前のことを考えていた。
(山岸さんの名前がなかった?)
そうだと思う。山岸マユミはエヴァのパイロットではなく、ましてや、サードインパクトの際には、街の中に当たり前にいたはずなのである。
(なのに、記憶を保ったままでここにいる。どういうことなの?)
それが気になり、シンジは顔を上げた。
「山岸さんは?」
「通信車のところ。お父さんと話してる」
「私用で使っちゃっていいの?」
「サード……元サードチルドレンが関わってることだからって、最優先で回線の使用許可が出たからね」
「良いのかなぁ……」
「今は正規パイロットが動かしてるって言っても、エヴァって特殊で、動かせる人間が限られてるんでしょ? その内の貴重な一人をないがしろにはできないよ」
「そういうもんか」
母さんがどうにかなって、自分に出番が回って来るだなんて、考えたくもないけど、と、考えていると、どさっと隣にマナが座った。
ベッドがきしんで、二人の重みにわずかにひずむ。
シンジの体がマナの方へ、マナの体がシンジへともたれかかる。マナはシンジの肩にちょこなんと頭を乗せた。
「時田って人、知ってる?」
「時田?」
「日本重化学工業から出向してきてる人なんだけど……前はロボットの開発をやっていたんだって」
ロボットでシンジは思い出した。
「JA、ジェット・アローンの人か……」
「その人が、シンジに協力して欲しいって言い出してるの、自分じゃわからないからって」
時田は重機ロボットの他にも、JAへ搭載する予定であったものを、幾つか戦自に接収という形で提供させられていた。
その一つが、独自に開発した使徒探知機器、通称『時田システム』である。
日本重化学工業共同体から、戦略自衛隊によって接収され、敷設されたこの対使徒専用レーダーシステムは、使徒という巨大エネルギー体が歪ませる空間の比率などを探知、計測、分析する能力を持っていた。
シンジがそんなものに関わったからと言って、どれほどデータの解析が進むかはわからなかったが、なりふり構ってはいられない状況なのだという。
「それで、君は?」
「あたしの仕事は、シンジ君のお世話!」
マナは甘えるように、シンジの頬にぐりぐりと頭頂部を押しあてた。
「あのね……」
シンジはどうしたものだかと途方に暮れてしまったが、それはこのような態度になれていないからであって、決して嫌がっているわけでもなかった。
「わっかんないなぁ……」
「なにが?」
「嫌われるとか、呆れられるようなことを言った気がするんだけどね」
「だから、それでも好きだって、言ったよね?」
「だから、そいうところがわからないんだって言ってるんだよ。僕が義務感とか、使命感で戦ってたわけじゃないって、知ったはずなのに……」
「それだけで、あんな無茶はできないでしょ」
「あんな……って?」
「見せてもらったから、シンジの、戦闘中の映像」
それはエヴァのことを言っているのではなかった。
コクピット、エントリープラグでの、シンジの姿のことだった。
そこに映されていたシンジの姿は、演技でできるようなものではなかった。実戦経験が先ほどのものだけであるマナですらわかるほどの鬼気迫るものであったのだ。
シンジは戸惑った。
「いったい、どうやって……」
「葛城さんって人がね」
「ミサトさんが……」
「さっき、シンジのことを頼むって。こういう子だからって見せてくれたの」
そっかと思う。
「……なにニヤけてるの?」
「いや、別に……なんでも」
「ふぅん?」
からかうような素振りでシンジの顔を覗くように見上げる。だがその目は真剣そのものであった。
「あんな風に、泣くみたいに叫びながら戦うなんて、なにか大事なものがあったんでしょ?」
立ち返れば、霧島マナはシンジより年上だった。
一つ二つの差でしかなくとも、大人であった。
「それを守りたい……壊れるのが嫌だってわがままは、普通は口にするだけだよ」
「だだをこねる……か」
「難しいことを言うね」
「昔、言われたんだ。子供のだだをこねるな、って」
「それも前の話?」
「うん」
「そう……シンジは、大人なんだよね。あたしよりずっと大人」
それはどうだろうかとシンジは首を捻る。
「僕は子供な気がしてるよ。まだなにもできない子供だ」
「どうして?」
「成長とか、進歩とかしてないからさ。ずっと同じことを繰り返してる」
「そこから抜け出せないんだ」
「きっかけは貰ったけどね」
「なに?」
「なんでもない。それより、山岸さんのことだけど」
「うん」
「僕のこと、どう伝えるんだろ?」
「たぶん、無茶苦茶だと思う……」
「だったら、国連の力は当てにできないかな……。ネルフに戻りたいんだけど」
「どうだろ? シンジは、元はと言ってもチルドレン……エヴァの、なんて言ったっけ? 適格者? 適任者? それって機密ってことでしょ?」
「僕自身が、機密情報だって言いたいの?」
「塊だと思うけど」
「それが?」
「だったら、国連としても、チルドレンの実体については掴んでないかもしれないから、シンジが戻れるようにしてもらうにしたって、説得の材料がなにもないんじゃないのかな?」
材料かと考える。
「僕の話は?」
「誰も信じそうにないしね。言ってない」
「それはそうか」
「ネルフは?」
「信じてもらうしかないだろうね……一応、アスカが話したらしいけど」
「セカンドチルドレン……?」
「うん」
「あと、フィフス……あの人、ATフィールドを使ってた。機体のカメラの映像が戦自の方で回収されちゃったから、ネルフへの突き上げの材料に使われるかも……」
「カヲル君か……」
「使徒なんだよね?」
「そうだね」
「怖くないの?」
「人の言葉が通じるし、カヲル君はカヲル君なりの考えがあるみたいだからね。理解できるものかどうかは別だけどさ、考えてるってことは、理屈が合うなら説得できるってことだろう?」
「説得されてくれるの?」
「わからないけどさ」
「大きな使徒と生身でやり合ってるような人なんだよ?」
「それでも、使徒を倒せるほどの力はないみたいなんだよね。その辺が足がかりになるのかな?」
「そんなのにも力を借りちゃえるのがネルフか……」
「怖くなった?」
「うん」
「僕は?」
「ちょっとね……」
素直である。
「シンジはどうなの?」
「え?」
「そういうところに戻るのって、危ないと思うんだけど」
「なんだよ?」
「ねぇ。正式にこっちに所属を持たない?」
「急になんだよ」
「いや、まあ」
あははと笑う。
「だったら、一緒にいられるなって」
シンジは苦笑いして、かぶりを振った。
「ごめん」
「謝らないでよ」
「でも、ごめん」
だよねと、マナは泣き出しそうな笑みを浮かべた。
「シンジ、ずっと思い詰めてるような顔してるよね。さっき別れる前は、そんな顔じゃなかったよね」
「…………」
「そのことと、関係……在るんだよね」
「……ある」
シンジはしっかりとマナの目を見た。
「あるよ。あるんだ……だから、一度はネルフに戻らなきゃいけないと思ってる」
ぎゅっと右手を握り込む。
その仕草は、手の内に何かを握り込んでいるかのようであった。
「帰ってくる?」
シンジは吹き出した。
「どこにだよ」
懐かしい言葉が聞こえてくる。
──帰る家、ホームがあるという事実は幸せに繋がる。
「僕には帰る場所なんて無いから……だから幸せに繋がる生き方ができないのかな?」
「なにそれ?」
「人って、帰る場所があるから幸せを噛みしめられるんだってさ」
「シンジには?」
「遠くて、もう戻れないよ」
「悲しいことを言うんだね」
「ごめん」
「あたしのこと、帰る場所だって思ってくれてないんだって、言ってるんだけどな」
「見失ったんだ」
──アスカ。
──レイ。
「本当にあったのかどうかもわからなくなったんだ。だから」
「戻るの?」
「わからない……考えがまとまってないんだよ」
「だからって待てないよ?」
マナは目を伏せ、まぶたを閉じ、それから顎を軽く上げた。
そっと突き出された唇に、シンジは触れる程度に唇を合わせる。
思い出したのは、誰としたキスだっただろうか?
それは一瞬の錯綜で、シンジは明確に思い出せなかった。
ただ、マナの想いだけは伝わった。
あったのかどうか悩まずに、新しい家、帰る場所として見てくれという気持ちを、シンジは素直に受け入れた。
−Zパート−
アレクはどっと疲れた体を椅子に預けた。
安物の木の椅子はそれだけでギシッと音を立てて、背もたれをきしませる。
ふと人の気配を感じ、彼は部屋の入り口へと目を向けた。
ありふれた家屋の、ありふれたリビングだ。
窓は幾つか、入り口も幾つか。
その内の一つ、玄関へと向かう扉のところに、よく見知った女性が立っていた。
彼女の背後には、木々が見える。ここは林道の奥まった場所にある一軒家であった。
アレクは力なく、苦笑気味の顔で迎えた。
「やあ」
「アレク……なの?」
キョウコであった。
「どういう意味だい?」
「アレクなのね」
「僕はただのクローンだよ」
キョウコはかぶりを振って否定した。
「その仕草、自分を卑下するときに無理に笑って、冗談にしようとして、目元をひきつらせるところ、そっくりよ」
「そうかい……」
「それだけじゃない。わたしが感じるのよ、あなたは本物だってことを、ここが」
そう言って胸に手を当てるキョウコに、だとしてもとアレクは言う。
「君にとっては捨てた男だ。僕にとっては捨てられた人だ。今更気にかけるものでもないだろう?」
帰ってくれと言うアレクに、キョウコは嫌だと拒否をした。
「報告があったのよ」
「…………」
「あの事件の後、目を覚ましたあなたは、まるで別人のようになってしまったって。だけどあの子は、ベアトリーチェだけは、別の意見を口にしたわ。まるで……」
「死んだ人間のようだって?」
「ええ」
彼はまたも苦く笑った。
意識を取り戻した自分を相手にしたベアトリーチェは、恐慌状態に陥って、錯乱し、姿を消してしまったからである。
その後、一度も会っていないのだ。
「椅子を……」
「え?」
帰らないのならせめてと腰掛けるよう勧めようとして、彼はこの家に椅子が一つしかないことを思い出し、苦笑した。
「悪いね、ここは僕のための鳥かごだから」
立たせたままで、彼は話した。
「あの時、エヴァの中で、僕のこの体は一時的なオーバーフローを起こしたんだよ。きっと、感情の暴走に付き合わされた生命の実が、必要以上に活性化していたんだろうな」
「生命の……じゃあ、あなたは……」
いいえと自分で否定する。
「いえ、あなたはハイブリッドだものね。使徒じゃない」
「そういうことさ。人と、使徒の、中途半端な存在だよ。生命の実と知恵の実、その双方を組み込まれた完全なるヒトの、そのひな形にも至らない検体さ。だからこそうまく働かなかったんだろうね。ただ不安定になっただけだった」
「うまく? 不安定って……」
「エヴァだよ。正確には弐号機だ。『アダム』をベースにしたエヴァだよ」
「アダム……生命の実!」
「そうだ。弐号機は仕組まれた機体だったんだ。暴走によって取り込まれかけた僕にあった、人のクローン体としての知恵の実と、弐号機に搭載されていた生命の実とが過干渉を起こしたんだ。そしてそのおかげで、僕は大事なことを知ることができたんだよ」
「大事なことって?」
「世界の真実を……だよ」
そう言って、アレクはまたも力なく笑い……。
キョウコは彼の希薄すぎる命の輝きにゾッとした。
−続−