夜空が見える。
 山並みが見える。
 そして街の明かりも広がっていた。
 景色である。だが現実感が乏しかった。
 原因は、それらが平面の上に映し出された幻影のようなものであったからだった。
 空に、地に。その裏側にある世界が投影されていた。
 その影に光が叩きつけられる。
 景色が亀裂が刻まれ、ひび割れ、爆ぜた。砕け散って、舞いながら、塵となって霧散する。

 世界の崩壊していく様がそこにはあった。

 二体の使徒が互いの力をぶつけ合う。そこに生まれた衝撃は、震動となって世界を襲う。
 世界はこれを受けとめきれるほどに強くはなく、限度を超える波動に歪み、砕かれた。
 粉砕された空間は、虚無の域をそこに残す。それは見方を変えれば、漆黒が世界を浸食し始めたように観察できた。
 闇のタイルが、一枚、一枚と世界を埋めて、立体的に重なり合って、球体を生み出していく。

 これがカヲルと使徒が生んだ結界の正体であった。

 それでも世界は回復を試みる。
 無と有のせめぎ合いが境界線にて発生する。この際に起こる反発が、エネルギー衝撃波となって飛ぶ。

 これが黒い結界に浮かぶ白い縞と、そこから放出される衝撃波の正体であった。

 壊れた空間が砕けたガラスの破片のように無数に舞っていた。
 カヲルと使徒の姿は闇の中に閉ざされている。
 次元が壊れたために誕生した暗黒の球体と、これを修復しようと押し寄せる景色と、内部より放出される破壊の波動によって砕け続ける空間の残滓が何重ものリングとなってこれを取り巻く。

 残照はやがて霧ほどに細かくなって、世界に溶け込み、まぎれて、元に戻る。

 結界の内側には、虚無の世界が現出していた。
 外の世界ではたかが直径百メートル程度の球体に過ぎないが、その中についてはすでに別の宇宙が形成されてしまっていた。無限の空間が広がっている。
 二体の使徒の持つエネルギーが負荷圧をかけて、際限なく空間を重くしていた。どこまでも沈み、特異点という名前のものを生んでいた。

 渚カヲルが右手を向ける。
 ATフィールドが次元、あるいは空間に影響を与えて、キュンキュンと奇妙な高音を生み出した。
 そして、闇に歪みが生まれる。
 それはカヲルの放った力の軌跡が、空間の屈折率を変動させた結果であった。
 なにかしらの力は、使徒の正面に直撃し、その表皮を剥き、下にある組織を浮き彫りにした。
 使徒が悲鳴を上げて吼え狂った。
 皮下組織が直接に晒されたことで、激痛でも覚えたのだろう。同じく白く細かくひび割れ剥けた仮面の前に光の球体を生み出した。
 めくらめっぽうにビームを放る。
 偶然か、その内の一本がカヲルへ向かった。
 カヲルのATフィールドがそれを弾いて金色に瞬く。
 使徒は己を傷つけた者を思い出したようだった。
 再び左の帯を振るう。
 上に持ち上げ、振り下ろす。
 カヲルがATフィールドで受ける。カヲルの頭上で互いのATフィールドが干渉光を広げた。
「使徒中最強のATフィールドを持つ僕と拮抗する力。さすがだね」
 カヲルは足に力を込めて、空中で踏ん張った。
 力任せに押し返す。踏ん張る蹴り足が、空中を、空間を破砕した。
 不気味な蜘蛛の巣が闇の中に筋を広げる。
 さらに前に両手を突き出す。そこに使徒の右帯がぶつかった。
 ATフィールドの光が闇を払う。
 世界が金色を通り越して真っ白になり、次いでガラスのように砕けてまた真っ黒になった。
 一度光の先に見失うことになった使徒の姿は、再びの闇の中に浮かんだ時、あやふやな形状へと変態していた。
 エネルギーの粘体とでもいうべき不定形の物体へと変貌していた。
 三次元の形に囚われる必要性が無くなったからだろう。
 ほどいたのだ。
 だが、渚カヲルは人の姿を保っていた。
 彼は保ち続けていた。
 それは彼の力がそういうものであったからだった。
「君の力と、僕の力、そこに大きさという意味での差はなく、あるものは形の違い、それに過ぎない」
 そして渚カヲルという使徒は、力の大半を個としての形状を維持するものへと割り振っていた。
 だからこそ彼を倒すことは難しい。
 倒すと言うことは、その形を失わせると言うことである。
 使徒である彼に心があるのかどうかはわからない。
 だが心の形、人の形、その片方である人の形を成り立たせるために、使徒としてのエネルギーの大半を注いでいるのだ。
 防御にではない。
 ならば渚カヲルという姿形を外部からの圧力によって崩すためには、使徒を葬り去るに足るだけの力をかけなければならないということになる。
「ましてや今は、共に『アダムの中』だ。時間稼ぎだけなら、いくらでもしてあげるんだけどね」
 カヲルは、どうしたものかと、思案していた。
 今相手取っている使徒は、攻撃にその力の大半を割いている使徒である。攻め手は彼であり、カヲルは受け手だ。そして使徒は力の続く限り攻撃を持続させ、カヲルという個体の形状を破壊しようとしている。
 この使徒は、まさに渚カヲルという存在の形状維持に干渉し、破綻をもたらす可能性を有していた。
 一方で渚カヲルは、力の続く限り形状を保ち続けようとしていた。
 力と可能性は互角であるが、引き延ばし策のためには手加減と駆け引きが必要となってくる。
 その計算は、一つ誤れば即座に破滅へと繋がるものであった。

 彼は目を左脇へ向ける。

 空中に、黒い石版が浮かび出ていた。
 それまでは彼の視野の外にいたのか、あるいは今まさに現れたところであるのか、表面には01との文字があった。
 赤く、赤い表記だった。
 カヲルは苦笑する。
「別次元に平然と、よくもまあ……」
 石版(モノリス)は取り合わなかった。
 モノリスにはまるで目があるようだった。
 カヲルと、使徒を交互に観察し、ため息をこぼしたようでもあった。
「このような戯れ言のために、その力を見せたか?」
 カヲルは口元に歪みを生む。それは笑みだった。
「このような戯れ言のために、僕は再び現れた」
 わかっていたはずではと、彼が蔑むと、二枚、三枚とモノリスたちは増えていった。
 正面を除いて、カヲルを取り巻く。
 それら一枚一枚に目を向けてから、カヲルは言った。
「未だに理解できませんか? 僕の真意が」
 モノリスは01から12までの十二枚が揃っていた。
「それもまた戯れ言だな」
 02から順番に、彼の言葉を否定した。
「わたしたちにはわたしたちの願いがある。お前はそのために生み出されたコマに過ぎん」
 失笑をこぼす。
「生み出すよう仕組まれた、の間違いでは?」
 カヲルの揶揄は、届かなかった。
「仕組まれしはどちらもであろう?」
 真剣に返される。
「使徒との直接戦闘。勝算があるわけでもあるまい?」
 もちろん、とカヲルは答える。
「あるわけがないでしょう? そんなもの」
 聞いた彼らは、呆れなかった。
 これもまた生真面目に取り合った。
「同じアダムの子であるお前たちに果てはない」
「生命の実。それが生み出す力に際限はなく、その拮抗は永遠に続くであろうな」
「それもまた我らの平穏には繋がるが」
「禍根を残す。愚策だよ」
 使徒であるエネルギー体は触手を伸ばし、カヲルのATフィールドを浸食しようと接触を試みる。
 距離はあるだろうに、カヲルの視界はほぼ覆われてしまっていた。
 ぐねぐねと動く腹。その(きわ)であろう視界の外にある端から伸ばされている触手。
 まるで捕食の図であった。
 だが触手は触れようとしたところで、光に弾かれ、痛みにびくりと引っ込められていた。
 カヲルは彼のことを拒絶していた。
 モノリスたちはこのカヲルのフィールドの内にいる。
 01が尋ねる。
「なぜ踏み切った? このような不毛な行為に」
 そうだとモノリスの一つが力強く追従すた。
「このような行為、許可をした覚えはないぞ」
「そして我らの心配事はただ一つ。『フォースインパクト』だ」
 彼らはサードインパクトについて触れなかった。
 この世界において、未だそれはないというのにである。
「お前はそのために必要として生み出された」
「その通りだよ。ここで損耗するわけにはいかん」
「遊びが過ぎたな」
「他にも方法はあろう?」
 カヲルはため息をこぼした。
 彼らが理解することはない。そう諦めての吐息であった。
 説得には応じない。
「彼が失われれば全ては終わりです。違いますか?」
 そしてと言う。
「僕にとって世界とは彼であり、彼がいるからこその世界なんですよ。他にはなにも望みません」
 黙れと叱責が飛んだ。
「望みなどは聞いていない!」
 肩をすくめるカヲルである。
「それはショックですね」
 そんな態度は吐き捨てられた。
「使徒に望みなどあるものか」
 むっとするカヲルである。
「そうですか? でもあいにくと僕はまだ人間だ」
 そうだなと01のモノリスは、仲間よりもカヲルの主張を取り上げた。
「お前には意思があり、自我がある」
 他のモノリスを黙らせる。
「希望、欲望、それこそが明確なる魂の在りかを示す基準となる。強固な意志、魂の形こそが中核となり得る。それはそのままで良い」
 我らの願いに準ずるものだと言うモノリスに、カヲルは礼を言った。
「ありがとうございます」
 使徒を睨む。
「だからこそ、僕のATフィールドは強いんですよ」
「我が儘なことだ」
 嘆息するような空気が流れた。
「よかろう。好きにするが良い。我々は目的が果たせればそれでよい」
「もちろん、その時までは、留まることのない流れを提供しますよ」
 石版(モノリス)が消え、そしてカヲル一人となった。
「もっとも……」
 カヲルはおもしろがっていた。
「その時が、まだ先であるのか、目前に来ているのか、それは誰にもわかりませんけどね」
 それは誰に向けた呟きだったのだろうか?
「さあ、僕では役不足だろうけど、今しばらくは付き合って貰うよ」
 あるいは使徒はカヲルを飲み込もう、取り込もうとしているのかもしれなかった。
 ATフィールドに触れられないのならと、使徒は大きく傘のように広がり、カヲルを丸ごと包もうと、覆い被さろうとしていた。
「これは……予想外だね」
 己の内に抱擁し、封じてしまおうとする使徒に、カヲルの姿は見えなくなった。


−時と共に在ることを−


最終話、第二節、時と共に在るために -Part Rebirth-

 ──ネルフ本部。
「筑波方面への展開はどうなっている!」
 そこには不在の葛城ミサト作戦部長に代わって指揮を執る、冬月コウゾウ副司令の姿があった。
 オペレーターの一人が司令塔を振り仰ぐ。
「戦略自衛隊の協力を得て、三時間後には全ての作業が終了するそうです」
「早いのか遅いのか微妙だな……国連軍は?」
「先の使徒への作戦が響いて、移動に手間取っているようです」
「関東平野がなくなりかねない相手だったからな」
 国外にまで退去していたのである。
 それだけの衝撃が大地を襲えば、海上も安全とは言い難い。安全と呼べる領域は遠かった。そしてその遠くから戦力を呼び戻そうというのである。
 なによりも時間が必要であった。
 退避したのはほぼ全戦力である。一斉に移動した部隊への再度の補給だけでも、物資の調達に手間取っていた。
「戦自が今敷設している第一拠点は、一時間後に撤収を完了するそうです。防壁となっている学研都市外苑の山地はその前に削りきられてしまいそうですが」
 それほど低い山の連なりではないのだが、戦闘そのものが空中で行われているため、防壁としては心許ない高さなのである。
 また球体に浮かぶ縞も、球の上部に浮いたからと言って、空に飛ぶと決まってもいなかった。
 完全にでたらめな方角へと飛んでいるのである。
「第二拠点にネルフの受け入れを決定したのは、向こうも情報が欲しいからだろうな」
 コウゾウは先に許可を出しておくことにした。
「あちらの相手は葛城君に任せると伝えておけ。好きにしろとな」
「国連軍の自衛隊が、本隊に先行して住民の避難誘導のために現地入りしたそうです」
「戦略自衛隊ともめなければいいがな」
 コウゾウは目元をもみほぐした。
「仲が悪いので有名だからな、あそこは」

−Bパート−

「日本は今何時頃かな?」
 穏やかに日が差し込んできている。
 彼は眩しげに眼を細めていた。
「え?」
「なんでもないよ」
 暗かったな……アレクはそう口にする。
 疲れているというよりも、倦怠感に支配されている。そういった体であった。
 彼は細くなった枯れ枝のような腕を持ち上げ、その手の甲を光に透かした。
 エヴァの中でのことがフラッシュバックする。
 赤く染まるエントリープラグ。
 見たくないという彼の気持ちを反映するかのように暗く閉ざされる世界。
 まぶたを閉じる。そして裏側に日に透けたオレンジ色を味わい、それからゆっくりと元の世界に回帰する。
 そこにキョウコの顔があった。のぞき込むようにして、心配していた。
「なに?」
「なんでもないよ」
 眩しげに眼を細め、口にする。
 彼は話を再開した。
 ぎしりと椅子の背もたれを鳴らす。
「あの時……僕はアスカを殺してしまったと思いこんでね、意識を完全に手放したんだよ。思考を放棄したんだな。その後どうなったのかは知らない。君たちの方が詳しいだろうね」
「暴走はしなかったわ。フィフスの少年が止めてくれたのよ」
 健康を崩している少年を、介護の女性が付き添っている。そうとも見えるが、実際には剣呑な会話が行われている。
「彼は使徒よ。おそらくね」
「おそらくじゃなくて、その通りだよ」
 キョウコは驚く。
「言い切れるの?」
「わかるんだ……使徒のなれの果てだからかな。あるいはなりかけたからかもしれないけどね」
 だがそのこと事態は、重要ではないということだった。
「どうやって助けられたのかはわからないけどね。代償として、生命の実を持って行かれてしまったよ」
 キョウコは、なんの話かといぶかしがった。
「生命の実?」
 説明する。
「元々この素体は、アダムを復元するための実験用サンプルとして分割されたものから生成されたものなんだ。だから不完全ではあっても、生命の実をつけるための構造は宿されていた……そういうことだったらしいよ」
 キョウコは、ちょっと待ってと、疑問を口にした。
「でも、あなたがそれらしいものを持っていたなんて、資料には……」
 資料かと、アレクは頭の中で皮肉った。
 設計図の間違いだろうと。
「不完全だって言ったろ? つまり起動していなかったんだよ。生命の実は霊的構造体の基部だからね。生成されなければ目に見える形にはならないんだ。観測も発見も不可能だよ。だいいち、僕自身、この体に実を付ける構造が埋もれていただなんて、知らなかったぐらいなんだからね」
 だから、らしいとか、言葉があやふやなのかとキョウコは理解した。
「……でも、生成?」
 それは機械のように埋め込まれているものではないのかという疑問であった。
 アレクは答える。
「あの時、頭が真っ白になった僕の心の隙につけこんで、エヴァの意識……本能が逆流してきたんだよ」
「浸食を受けたの?」
「ああ。その結果として、僕の中にあったものに火が付いたんだ」
「生命の実に?」
 いいやと言う。
「言ったろ? 生成前だったってね。抜き取られたのは形作られた後の話さ」
 どうやってかは知らないという。
「でももしそのままであったなら、エヴァは無限のエネルギー機関を手に入れて、支部を壊滅させていただろうね」
「それを防いでくれたのがフィフスチルドレン」
「……防ぐつもりだったのかは、わからないけどね」
 もしかしたらと思うのだ。
(生命の実が目的だったのか?)
 まあ、抜き取られてしまったことで、生命力が乏しくなって、やせ細ってしまったけれど、と彼は冗談ごとのように言った。
「この体は、半分は反動のせいだってこともあるんだよ」
「反動?」
「生命の実が生み出したエネルギーに肉体が耐えられなかったのさ。生命力を削られたんだよ。人間の身で内包できるものじゃなかった。そういうことだね」
 肘掛けに手を突き、立ち上がろうとして……そして腰から落ちる。
 思わずキョウコは駆け寄った。椅子ごと倒れようとした彼を支える。
「無茶をしないで」
「ありがとう」
 彼は素直に礼を言い、甘えるように彼女の首元に顔を埋めた。
「ああ……君の臭いだ。ぬくもりも」
「なにを言ってるのよ、もう」
「また味わえるようになるだなんて、思ってもみなかったんだ、良いじゃないか」
「こんなおばさんを相手に、もう……」
 照れるキョウコであったが、突き放すわけにも行かず、結局は彼が腰かけ直すのを手伝って、その脇へと膝を落とした。
 肘掛けに手を置き、侍るように寄り添う。
 キョウコが彼の手に手を重ねると、アレクは手のひらを返して指を絡めるように手を繋いだ。
 強ばった体から力を抜き、続きを語る。
「……君の国では、憑き物が落ちた、というんだったね。こういうのをさ」
「なにを言ってるの……わたしを捨ててベアトリーチェに傾倒したのは、あなたでしょうに」
「君が振り向いてくれなかったから悪いんだよ。君が夫を立ててくれるような人ならよかったのにね」
「勝手な話ね」
 冗談としてもと彼女は呆れる。
「わたしの才能を利用しようと近づいてきたのはあなたでしょうに。わたしだってベアトリーチェにあなたを取られないように必死になったわ。だから」
 研究を頑張り、価値を高めようとしたのだと言う彼女に、お互い様であっているのかなと彼は口にした。
「君は君で僕の気を引くために。僕は僕で君に劣等感を抱かされて。お互いがお互いに相手に釣り合うことができないと悩んでいた、というわけだ」
「安っぽいドラマじゃあるまいし……」
「まったくね……その上、僕は自滅までした。君という才能に振り回されて、それを操りきれなくなって、そこが僕とゲンドウとの違いか」
「あなた……」
「わかっていたさ。君がユイにあこがれていたこと、うらやんでいたこと、嫉妬していたと言うことはね。その才能でゲンドウのような男を引き寄せ、骨抜きにして、自分の夢や理想のための共感者として……君が僕に望んでいたのは、あいつらの真似事だった。そうだろう?」
「…………」
「だけど僕には、ゲンドウのような求心力も、精神的な強さもなかった。君に何かを求められても、答えられるだけのものがなかった。それが僕の限界だったのに、認められなくて、他の女に逃げ込んで、君のことを愚痴って馬鹿にして、なんとか自分というものを支えて、保とうとして……情けない話さ」
 どうして死ぬことになったのか?
 キョウコはその点については問わなかった。
 聞きたくないというのが本音だったのかもしれない。
「今は落ち着いた?」
「というよりも、やっと身の程を知ったと言うところかな。君は?」
 あまりにも達観しすぎている。
 本当の年齢を考えればそれもおかしくはないのだが、キョウコは不安を感じて、恐る恐る尋ねた。
「……あなた?」
 その前に、と彼は頼んだ。
「お茶を……淹れてくれないか。君の入れてくれたお茶が飲みたいんだ」
 まるで遺言のようだとゾッとするキョウコに、大丈夫、そこまで悪くはないよと彼は笑った。
 じっとしていれば良くなるし、それなりに長くも生きられるよ、と。

−Cパート−

 なにか淹れてくれと頼み、彼女はそれに応える。この辺りは冷め切ってしまった後であっても、夫婦としての空気や間と言った物が残されていた。
 こういうところは、日本式の妻なのだなとアレクは思っていた。女性が下女のような役割を求められて、なんの抵抗感もなく従うなど、彼の常識の中にはなかったからである。
 自然とベアトリーチェのことを思い出し、彼女の高圧的な姿と比べ、こちらの方が良いなとも思ってしまう自分に笑う。
 ベアトリーチェは自尊心をくすぐってくれたが、キョウコのようには従ってくれなかったからである。
(そういう嫌らしい男なんだな、俺は)
 願望を押し隠し、彼はキョウコの帰りを待った。
 そうして作られた飲み物は、なんの変哲もないカフェオレであったが、マグカップを受け取り口をつけたアレクは、「ああ、うまい」と、感動を口にした。
「生きている。そう実感するよ」
「大げさね」
「この体だからね……材料が用意されていても、作るのは億劫でね」
「誰かいないの?」
「監視の人間ならいないよ。カメラとマイクはあるけどね。この体だ、逃げられることはないって思われてるんだろうな。週に一度くらいの割合で、食料品の配達人がやってくるくらいだよ」
「わたしは? 勝手に入ってこれたけど……」
「僕を殺してくれないかな、って、期待されているんじゃないかな?」
「もし連れ出したりしたら、どうなるのかしら?」
「連れて行ってくれるのかい?」
「あなたが望むならね」
 アレクはくぐもった笑いをこぼし、そのまま咳き込んだ。
「冗談だよ」
 体を伸ばす。
「僕はここで良い」
「そう……」
 それではと彼は仕切り直した。
「そんな僕の話だよ」
 彼は自分の、『アレク』の出自について語った。
「僕は使徒としての形質をなぞるように形を整えられた人形だ。だけど宿っているのは人の魂だ。これが指し示すことがわかるかい?」
「いいえ」
「使徒の生命の実と、ヒトの知恵の実。その双方を宿すことができるということさ」
 キョウコは恐れた。
「完全なヒトだというの?」
 いいやと言う。
「その可能性を持っていた、というだけだよ。起動に至らない機関なんて、退化して意味を成さなくなっている内臓と同じだ。だろ?」
 でもとキョウコは言葉を震わせる。
「だけど、その機関が動いた? そして生命の実が成ったの?」
 それがどういうことであるのか? キョウコには想像がつかなかった。
 アレクは体験談を語る。
「生命の実と言ったって、その名残は君たちにだってあるんだよ?」
「え?」
「人を成す二重の螺旋さ」
「DNA?」
「染色体はテロメアによって封じられているけれど、本来それは、無限に連なり円を描いて閉じていたのさ」
 はたと気がつく。
「無限機関。加速器のように、閉ざされた……回廊の」
 そういうことだと言う。
「僕の体を構成している染色体……のようなものは、その形状を持たされてはいたけれど、稼働には至っていなかったんだよ。それがエヴァからのバックロードによって火が入ったんだ。そうして無限機関として稼働を始めた。二重の螺旋は無限()を示す軌道を螺旋状にエネルギーを走らせた。そうして限界無く高められたエネルギーは輪の内側、中心位置に歪みを生むんだ。二重螺旋の円環に縛られた特異点を形成する。生命の実の誕生だ。一度稼働に至った生命の実は、それ自体がエネルギーを発散するようになる。僕の体はこの火のようなものに焼かれて朽ちかけたんだな。そうして僕からあふれ出たエネルギーを、エヴァは己の中に循環させようとしたんだよ」
 そしてと言う。
「だけど、それよりも苦しかったのは、僕自身だったんだ」
「あなた自身?」
「ああ。僕は基本的には人間なんだよ。つまり君たちの側の生物だった。知恵の実を持っていたということさ。ろくに動いてはいなかったけどね。なのにそれが君たち以上の動きを始めてしまったんだよ。生命の実からのエネルギーの供給を受けられるようになってね。わかるかい?」
 キョウコはゾッとした。
「知恵の実と生命の実、二つが揃って、人以上のレベルで稼働した」
 彼は頷く。
「生命の実からのエネルギーを手に入れた知恵の実は、本来の力を取り戻してね、僕に世界の真実を見せてくれたよ」
 それは人でしかない身には、理解しがたく、人格が崩壊してしまいそうな出来事だったと、彼は語った。

−Dパート−

 とりあえず、黙って最後まで聞いて欲しいと彼は願った。
 それくらい、あまりにも突飛な話であったからだ。
 同時に、まあ無理だろうけどねともこぼしていた。
 理解できるほど整頓された話ではなかったからである。
「時空とか、次元とか、時間とか……かつて、ビックバンというものがあった」
 確かに、これは話が長くなりそうだとキョウコは思った。
「その時に、同じものから、同じ形で、同じものが、順番に散らばっていった。それらはまったく同じ軌跡を描くものがあれば、まったく違った勢いで弾け飛んだものもあった。彼らは時に追い抜き、追い越され、ぶつかり合い、弾けたり、まとまったりしながら、広がったんだ」
 僕らの知る常識だと彼は言う。
「だけどもし、まったく同じ軌跡を、ほんの少しだけ遅れて飛び出したものがあったなら、それが先を行くものをなぞるように飛んで、同じ姿形を手に入れていったとしたら、どうなるだろう? そこには先を行った世界と寸分違わぬ、塵一つ分の誤差もない世界が誕生していたとしても、おかしくはないとは思わないかい?」
「は?」
 きょとんとするキョウコに、平行世界の成り立ちの話さと、彼は言った。
「太陽系、銀河系、小宇宙はさらに大宇宙となり、大宇宙ですらももっと大きなものの一部に過ぎないのだとしたら、それを成す無数にある世界には、隣り合ったようにまったく同じ軌跡をたどってしまった、全く同じ変化を起こしているものがあったとしても、おかしくはないだろう?」
「考え方は、わかるけど……」
「分子がどう弾け合い、絡み合うか。問題がそこにあるなら、確率的にはまったく同じようにトレースしている世界があったって不思議じゃないし、僕たち自身、どこかにある世界に追随しているような、追いかけかたをしているだけの存在なのかもしれないよ?」
 彼は先走りすぎたかと反省した。もちろん、止まりはしなかったが。
「それが平行世界だとして、過去や未来といったものについてはどうだろうか? 時間の概念っていうものが、分子の運動の回数のことならば、同時ではないタイミングで弾け出て、運動を開始して、僕たちの世界と同じ形をたどっているものたちがあったなら? 少しだけ運動している回数が多かったり、少なかったりしているものがあったとしたら? それは僕たちの過去や未来にあたるものだとは言えないだろうか?」
「暴論よ」
「どうして?」
「それは、そこに生きているのはわたしたちとは別人だから……」
「どうして別人なんだい?」
「だって」
「今ここにこうしている僕たちは、ただの物理運動の結果に過ぎないじゃないか。ならまったく同じ運動をして生成された結果であるものが、どうして自分たちではないと言えるんだい?」
 言いようのない気持ち悪さに苛まれて、キョウコはうまく反論できなかった。
「そうではなくてね。それは、わたしたちではないでしょう? だって、わたしたちは、わたしたちよ……そう、その中身は別のもので」
 中身! っとアレクは馬鹿にした。
「僕たちにとっては過ぎ去ったもの、あるいはこれから出会うべき姿であっても、そのものじゃない?」
「ええ」
「でもね、分子が弾け合って、同じように羅列を作り上げていく。次元とか、空間ではなく、同じ宇宙のどこかにある、写し取ったかのように似た軌跡を描いて進んでいる世界が無数にあって、そしてもし、無意識のうちに、僕たちがその世界間を行き来しているのだとしたら?」
 キョウコには彼が何を言っているのか理解できなかった。
「え?」
「精神、魂に、空間の束縛はなく、距離にも時間にも意味なんてないんだとしたら? 死んだなと思うような目にあったとき、不思議と助かっていたりしたことは? 怖い目に合いそうになって目をつぶったというのに、恐る恐る目を開いてみると、無事にその災難が回避されていたりしたことはなかったかな? だけど本当は酷い目にあっていて、魂、意識だけが、何事もない状態を連ねている星へと移動していたのだとしたら」
「ちょっと待って。別人だと思っているそれら人型はただの物体に過ぎなくて、魂はそんな肉体を複数同時に管理利用しているというの?」
 馬鹿げているとキョウコは唸る。
 しかしアレクは真剣であった。
「世界には半瞬だけ、一時間だけ、あるいは何千年、進んでいる世界や、遅れている世界があって、それらは分子の運動の結果に過ぎないんだよ。僕たち自身、魂という名の本体は、絶対的な座標を維持したままでいるのだとしたら? 服を変えるように、精神だけを希望の世界へとスライドさせることが可能なら……」
 キョウコは恐れた。
「あなたは、なにを言っているの?」
 声が震えてしまっていた。
「魂の普遍性について考察しているのさ。君は時間を長く感じたことはないのかい? あるいはあっという間に過ぎ去ってしまったことはないのかな。もしそれが、無意識のうちに別の世界へと渡ってしまっていることで起こっている現象、錯覚だとしたら?」
「まさか」
「どうして否定できる?」
「だけど、魂が宿ることができる肉体が一つだけなら、宿って居ない間、その肉体は?」
「ぼんやりとしてしまっていた」
「…………」
「知らない間に。あるいは思い出せない。そうだっただろうか。他人だってそうだ、魂が抜けているようにぼんやりしている。それが答えだよ」
「無茶苦茶よ!」
「そうだろうか? 肉体、いや、生命体はタンパク質が電気信号によって制御しているだけの物体に過ぎないじゃないか。記憶も経験も感情も、全てそこに詰まってる。自動制御されている人形のように、反応と反射だけで運動を行うことが可能なんだよ。事実そうできているだろう?」
「魂の在りかなどではなく、ただの止まり木だっていうの? この体は」
「ああ。魂なんてものはなんの感情も記憶もない、ただのエネルギー体だ。生命の実のような」
「だけど、わたしはここにいて、あなたはそこにいるわ」
「そうだね。そう考えてしまうよね。だけどその中に魂がこもっているかどうか、宿っているのかどうか、君からはわからない。僕にだって確信が持てない。証明することはできない。方法がない。そうだろう?」
「…………」
「君が僕を呼ぶ。そうした刺激を受けて、僕の魂はこの器に移って対応しているのかもしれないよ? 呼ばれるまでの間、君が僕のことを見るまでの間に、この体に魂が宿っているのかどうかなんて、君に観測できるのかい?」
「できないからって、それを信じろだなんて……」
「それが真実なんだ。それが知恵の実の正体なんだよ。この世界には、無数に誕生している、まったくずれのない、あるいはほんの少しだけずれた地球が存在しているんだよ。その幅は様々で、中には天国や地獄のような世界だってあるんだよ。僕たちの常識からは外れた異界、魔界がね? だけどもし、その中の幾つかについては、この先も、全く同じ軌跡をたどるだけのものがあるのだとしたら? その世界には存続していく意味ってあるのかな?」
 キョウコが瞬時に思い浮かべたのは……。
「バックアップ」
「そう、保険だ」
 手を叩いたアレクに、キョウコは不謹慎さを見た。
「致命的なミスを犯したとしても、世界を放棄してやり直せるようにしてあるというの?」
「どこかの世界でサードインパクトが起こったとしても」
「あの子たちの話をしているの?」
 すでに知っていたかと、彼は口にする。
「あの子たちが、二度目の世界を経験している。その話を聞いて、君は信じられたかい?」
「…………」
 安心してくれと彼は言う。
「使徒の話をしようとしているのさ。あの子たちのことじゃないよ」
 だが……と彼は思う。
(自分の娘のことをどう捉え直すか。それが簡単にいかないのは、腹を痛めて生んだ記憶があるからなんだろうな)
 産んだ子をベッドの中で、出産の後のもうろうとした意識の中でさえも求め、抱いていた姿を、アレクは思い浮かべていた。
 自分が割り込めない世界だと思ったことを思い出す。
 そんな卑屈なことを考えているとは思わせもせずに彼は続ける。
「使徒は一種の自動兵器だという考え方があるだろう?」
「ええ」
「どんな経緯で生まれたものなのかはわからない。それこそどこかで人が生み出したものなのかもしれないしね。それが宇宙を渡り歩いているだけなのかもしれない。どんなプログラムが組み込まれていて、どれだけ変更されてるのかはわからないけどね。だけど、一体なにを求めて、なにがしたいんだと思う?」
「なにって」
「戦い、倒される。あるいは、接触によって、学習し、進化する。可能性。それは単独では得られない発展だ。素材を求めているという意味合いにおいては、体験、経験は財産だけど」
 キョウコはとある存在を思い起こした。
「人型にたどり着いた、使徒……」
 渚カヲル。
 触れ合い、傷つけ合い、理解し合うことまで、覚えた使徒。
「でも」
「そうだ、そうなったのはただの偶然の結果なのかもしれないんだよな。環境に対して適切な形状へと行き着いたと言うだけなら、同じ形なのは偶然に過ぎないし、だとしたら彼らは形状を模索するために、負けて敗れて滅んだりするのが生き方の生物だという話になるんだよ」
「そんな生き物……」
「そうだね、ないよね。だから結局のところは、なにがしたいのかがわからない生き物だ、って話になっちゃうんだよ」
 そしてその疑問が大事なのだと彼は言った。
「彼らはエネルギーなんて必要としていないはずなんだよね。永久無限の機関が備わっているんだからさ」
「生命の実ね」
「そして、考えて見てよ。使徒はどうして人を滅ぼす必要性があるんだろうか?」
「エネルギーを求めているんじゃないの?」
「転換現象かい? さっき言ったじゃないか。彼らはエネルギーなんて必要としていない。吸収する必要なんて無いんだよ。なのに君たちを還元してどうしようって言うんだ?」
「じゃあ、肉体を構成するためなら? どれだけ無限で永遠に見えたとしても、この宇宙に存在している物質は有限なんだし、究極を目指しているのなら、使徒はそれらを集めようとしていたって」
「体は光のようなもので構成できるのに?」
「…………」
「強く凝縮されたエネルギーは、物質のように触れられるものになる。だろ?」
「それが使徒を成している『光のようなもの』の正体?」
「そしてそれを構築している核とは?」
「コアよね?」
 遺伝子、染色体というシステムに似た配列を取る光のようなもの。
 それらを構築するための基準点。
 中心核。
「じゃあコアってなんだろうね?」
「なにって……」
「生命の実? 知恵の実? 少なくとも、実、そのものではないんだ」
「でも」
「実際のところ、人を連れ去ろうとしたのは、僕たちがアダムと呼んでいる第一の使徒だけだ。その後の使徒は普通に戦い、破れているよ。なぜだと思う? どうしていきなり、サードインパクトを起こそうとしないんだと思う? そもそも、連れ去ろうとしたってどういう意味なんだろうね?」
「わからないわ」
「なら、実の話をしよう。二つの実のことだけど、『実』と言っているのは裏死海文書に残されている古代人の表現を借りているだけに過ぎないんだよね。そのイメージに振り回されることは危険だな」
「ならなんだというの?」
「順番に整理しよう。まずはアダムの生誕だ。この広大な宇宙は一箇所から始まっている」
「ビッグバン」
「そうだ。宇宙は『そこ』から始まった。『それ』から生まれた。でも、『それ』ってなんだい?」
「それは……それは?」
「それはね、『最初の人間』だよ」
「え?」
「そこから霊的なもの、物質、全てが始まっている。あらゆるものが詰まっていたもの。絶対的な一。どこかの誰かが口にした。光あれ。そうして世界が始まった。はじまりのもの。つまりそれは『最初の人間』だと言えるんじゃないのかな?」
「話が飛びすぎているわ」
「だけど、もし『最初の人間』がプラスとマイナス、両方の性質を兼ね備えた何かであったのだとしたら? 男と女になった最初のもの。それなら物理の範疇だ」
 キョウコは理解した。
「アダムが始祖、って意味を、そういう風に捉えろって言うの?」
「そうだ。そしてもし『始祖』からプラスとマイナスとに別れて行った物が、もう一度一つに戻ることがあるのなら?」
「宇宙の始まりにあった根源的要素へと回帰することになる?」
「言ったろう? ある種の自動兵器だと。そして究極を目指しているのなら、その目標とするものは」
「『最初の人間』?」
「いいや、神になることさ」
「神って……」
「第二のビックバンを起こすためにね。始祖となり、最初の人間として、もう一度やり直しを行うんだ。自分の望む世界を、自分の理想とする世界を思い描いてね。神は自分に似たものを作った。最初の人間を」
「つまり究極は、宇宙発生の根源へと昇華すること?」
「そして第二の創世。……新世界の誕生、新世紀の産みの親となること、だよ」
 もちろん世界とは新たな物理法則のことだと彼は言う。
 驚くと言うより、彼女は珍説に呆れ返っていた。
「旧人類は滅んでしまうっていうのは、そういうことだって言いたいの? 世界の法則が新たに作り直されることになるから、旧世紀の生き物であるわたしたちは、新しい法則に適応することはできず、生きてはいけなくなるっていう」
「二種類の生き物は同じ土地では生きていけないって言うよね」
 しかし彼は言っている。相反するものへと別たれたものが、一つに戻るのだとすると、と。ならば滅ぶ対象が新たな世界に残っているのはおかしな話であった。
 その点の補足を始める。
「アダムの消失。あの事故で地球の半分は失われてしまったけれど、幸運であったとも言えるね。もしセカンドインパクトが完全であったなら、小規模ではあるけれど、この世界は『最初の人間』へと還元されていたんだからさ」
 それが半分は物理的な破壊へと向かってくれたと彼は言うのだ。
「問題は、知恵の実を持つ者が、さっきの話のようにすでにそこにある肉体を渡り歩いているような存在だとするのなら、生命の実を持つ彼らはどうやっていきなりそこに現れるのかってと言うことなんだよね。だって、あれだけのエネルギーを持った質量体がいきなり現れているというのに、周辺の空域でおかしな変動が計測されたことは一度もないんだからさ」
「待って、突然、なんの話を……」
「コアから光のようなエネルギーが放出されて肉体を形成しているにしたって、そのコア自身、他の次元からの特異点で、それが露出した塊だと考えられているものだろう? おかしいじゃないか。太陽どころか、宇宙が現れているようなものなのに、何一つ世界には影響がないだなんてさ」
「待って、待って」
 急がないでくれという。
 だがアレクは焦っていた。
「僕自身、全てがわかったつもりになったんだけど、考えている内にわからなくなって来てもいるんだよ。だから、とにかく話させてくれ」
 そういうこともあるか、とキョウコは思った。
「僕たちは、すでにある肉体の上を渡り歩く。彼らは、そこに肉体を作り出して身に纏う。だけど、自由には現れることができない。どうしてだい?」
「どうしてって……」
「彼らは特異点だ。だが常に現れることができる特異点は一つだけだ。どうして彼らは長くこの地には現れなかったんだろうね?」
 少しばかり考えてから、キョウコは答えた。
「アダム」
 そうだと肯定される。
「第一の使徒だ。この世界には、すでにアダムという特異点が存在していた。眠っていたんだな。だけど古き神、アダムは復活し、そして消えた」
「接触実験の失敗のせいでね……」
「ロンギヌスの槍。二重螺旋と二叉の剣。これによる接触実験。でもこの実験のおかげで、使徒に対して槍は絶対的な力を持っていることがわかったんだ。幸運でもあったね。だけど」
「だけど?」
「もし、その力のことを、実験を許可した人たちが知っていたとしたら?」
「…………」
「槍は生命の実という機関を生成、維持する、螺旋構造を分解する力を持っていた。これが触れたことによってアダムは機関を暴走させ、自爆する。もしこれが意図を持って行われたことならば? なんのためにそんなことをしたんだろうか?」
「時間稼ぎね」
「そうだね。アダムの復活は間近だった。だから一部の科学者の暴走というシナリオを用意してまで、最善手を模索した。一度存在を還元して、時間を稼いだんだよ」
 詳しすぎるとキョウコは思った。
 その知識をどこから得たのか? 興味はあったが、アレクが質問を許す隙を与えない。
「では存在の還元ってなんだと思う? 二重螺旋の加速器を失った生命の実がエネルギーを暴発させてアダムが消えた。アダムはどこに消えたんだろう?」
「それは」
「より、高位にある次元、だろうね。彼はこの次元に露出していた特異点に過ぎないもの。引っ込んだだけなのさ。そしてこの爆発の余波は以後十五年に渡ってこの星に影響を及ぼし、使徒の襲来を阻害する。2015年に再び使徒が来ると言うことはわかっていた。それはこれらの衝撃による次元震をずっと計測していたからさ。凪になるまでをね」
「…………」
「不幸だったのは、南半球の人間だな。アダムの崩壊に巻き込まれたんだから」
「連れて行かれたんじゃないの?」
「いや。アダムという巨大な存在のATフィールドが弾けたんだ。それだけの力にあぶられたら、人間の……ちっぽけな生物の持っているATフィールドなんて、その衝撃の前には砕け散るよ。元の姿なんて保っていられるわけがない。エヴァと使徒との戦いで、ATフィールドが砕けたときのように、そのさらに酷いレベルで、生き物の姿形は失われたのさ」
「それで……命と言えるものが全て消えた? 消し飛ばされただけだっていうの?」
 つまり、元素へと還元されたと言うことになる。
「まあ、でも、そこに人為的なシナリオがあったのかどうかは別としてもだ、人類は貴重な時間を手に入れることになった。それは間違いないだろう?」
「アダムの残した空間の歪みが消え去るまでの間のことね……」
「ああ。その間、人間は、人類は、ゆっくりと、だけど急いで、次に使徒が現れたときのためにと、手段を模索することにした」
「手段?」
「結局、行き着いたのは神をコピーして用いるという手段になってしまったけどね。古き神を倒す、人の手による神。人の手によって操ることのできる神、かな?」
「それがエヴァンゲリオンの、本当の……」
「いや、エヴァもまたそのためのひな形、素体に過ぎない。ここまではシナリオ通りだったらしいよ」
「誰の? ……ゼーレ? 委員会?」
「……そうだね」
「じゃあ、アスカや……シンジ君は?」
「絡んでくるのは間違いないよ。ゼーレやフィフスの関心の寄せ方は異常だからね」
「フィフスは使徒、なのよね?」
「ああ、渚カヲル。彼はまだ使徒でもアダムでもないよ。ただエヴァと同じ力を宿されている人造人間に過ぎないんだ。彼は僕と同じくアダムから還元されたものを人の形に整えたに過ぎないものだからね。特異点に取り憑かれているわけではないんだから」
「特異点が取り憑くって?」
「表現が難しいんだけどね」
 正直に口にする。
「わからないんだ」
「え?」
「特異点の正体。その元がなんであるのか。理解できない。僕たちにはね」
「いい加減な……」
「わかるのは、使徒はかぶり物に過ぎないってことだけだよ。特異点のね」
「特異点というものが、そのまま命の実というわけではないのね?」
「それじゃあ生き物のように行動する形を取ろうとすることを説明できないじゃないか」
「そうだけど……」
「生命の実はあくまでエネルギー機関に過ぎないよ。魂がなんであるのか説明ができないように、彼らの大本についても口にはできないよ。あるいは全ての次元にまたいで存在することのできる思考する生き物なのかもしれないけどね。どのみち、この次元に囚われている僕たちには理解できない存在だろうさ」
「でも、わたしたちはエヴァで、コアを破壊して」
「それだって、破壊したと言っても、三次元の世界でのことだろう? それはこの世界に現出してしまっている特異点を壊して封じているに過ぎないんだ。そして穴が塞がれたわけじゃない以上は、特異点はまた現れる」
 キョウコは尋ねる。
「その特異点が使徒としての姿を取るとしても、毎回違った形で現れるのはどういうことなの?」
「形状進化だろうさ。叩かれて引っ込む度に、どうすれば叩き返せるのか考えて出てくるんだろ」
「適当に言わないでよ」
「『あっち』の生き物の考えることなんてわからないさ。ただ、観測によってわかることもあった。それは特異点、あるいはその大本になっているものは、この次元、時間、空間には、コアとして現れることしかできない。それも、同じ次元軸には、一個現れるだけで精一杯なんだって話なんだよね」
「え?」
「当然だな。現出した特異点はコアとなる。コアは内包している特異点の次元の高さから、その周囲に粒子を引きつける重力を発している。その重力につかまってコアの周囲で回転を始めた粒子は加速し、エネルギーへと転化、あるいはエネルギーそのものを生み出し始める。僕の中にあった二重螺旋の加速器と同じものだよ。そしてこれが生命の実と呼ばれるものだ。コアと生命の実が時折混同されるのはこういう作りをしているからだよ。そしてそこから生み出されたエネルギーが高圧になって半物質化して、僕たちが使徒と呼ぶ生き物の形を取るんだ」
「だけどその理屈なら、もっと使徒は連続して現れてもいいはずだわ」
「倒され方にもよるんだろうさ。派手に倒されると爆発して空間に歪みを生んでしまうから、中々簡単には戻ってこれなくなる、とかね? あるいは他の世界を攻略しているのかもしれないけどさ」
「他の世界?」
「別の世界だよ。平行世界。そっちで活動している間は、こちらの世界には現れることはない。とかね?」
「それが、次の使徒が現れるまでのラグになってる?」
「良い話だろ?」
「どこが……大体、観測って、どうやって」
「裏死海文書だよ」
 キョウコは唐突すぎる名前に首をかしげた。
「あれが……なに?」
「裏死海文書。君でも内容までは知らないか。あれは他の世界において行われた戦いについての記録書なのさ。別の世界での戦いについて編纂(へんさん)された報告書なんだよ。勝利し続ける限り記載が増え続けるものなのさ。だから、予言書とも呼ばれてる」
 誰がどうしてそんなものを?
 その疑問は捨て置かれる。
「だから老人たちは、予言の通りにことを進めようとやっきになっているんだよ。どこかで使徒が倒された。同じ使徒を倒した。その次も予言の通りに倒さないと、その次の使徒を倒せなくなってしまうかもしれない。約束の日まで乗り切れなくなる。裏死海文書へのこだわりって言うのは、そういう事情を含んでいるのさ」
「……別の星、パラレルワールド、その話はそこに繋がるのね」
「正解だよ。使徒を倒しても、本当の意味で核は破壊できていないんだ。そして使徒は自己修復と進化を終えて再び顕現する。こことは違う、だけどよく似ている星の上にね。ほんの少しだけ違った形と力を持って。そして幾つもの星の上で戦って、一周してきた頃にはまったく違った形の使徒に進化している……ように見えるわけだ」
「騙されているような気がするわ」
「少なくとも、僕たちのこの星で行われている戦いと同じものがどこかであったことだけは間違いないよ。でなければ裏死海文書に記載されている内容について説明が付かなくなるからね」
「それが本当なら、人類は勝利と敗北を代替わりのように重ねていって、ようやく複数の星が連続して十七回、勝利を収めることに成功したって話になるのよね。アスカたちのように」
「まあ、そうなるね」
「なら、それを持ち込んだのは、アスカたちなの?」
 さあ、それはどうだろうかと言う。
「この世界が地続きならば、使徒の手から逃れてこの星へと流れ着いた人類がいたっておかしくはないはずだろう?」
「どこかの星の2015年のわたしたちが、遠く旅をして自分たちの過去に当たるこの星へたどり着いて、記録を残した?」
「そういうことがあったかもしれないってだけの話さ。それがアスカたちのような生き残りの子孫なのか、当人たちなのかはわからないけど」
「結局、なんなのかわからないのね」
「あるいは誰かが夢にでも見たものを書きまとめたのかもね」
「え?」
「覚えがないかい? 全く知らない土地で、全く知らないことを話し、全く知らない生き方をしている自分の夢を見たことは?」
「誰かがどこかの戦いを夢に見た?」
「そういうこと」
 キョウコは、アレクが空想や想像をまじえているのではないかと疑い始めた。
「なら、もう一つわからないことがあるわ」
「それは?」
「使徒が勝利した場合の話よ」
「最初の人間への昇華だろ?」
「それだけなら、わたしたちを滅ぼしに来る必要はないじゃない。アダムの時は、アダムの自爆に巻き込まれただけなんでしょ? だったら」
「ああ……」
「もし、使徒が勝利した場合、そこにどんな意味があるって言うの? 使徒は敗北した場合、たとえ一時的にであっても消失する。なら、勝ったら? なぜ勝利を収める必要があるの?」
「勝利条件が成立するのさ」
 アレクはあっさりと答えた。
「わからないかな? 使徒の目的が絶対の一になることなら、それはつまり原初帰還、最初の人間への回帰だよ。だけど吸収すべき素材の中には、僕たちのようなATフィールドを持っている個体が存在しているんだな。それでは原初の姿を取り戻せない。異物だからね。ATフィールドが邪魔で取り込めないんだ。だから彼らは僕たちのATフィールドを破壊しなければならないんだよ。でなければ吸収し、統合し、昇華することができないからね」
「つまり、絶望に打ちのめされたり、あるいは絶滅して、わたしたちがただの肉の塊になったとき、ようやく使徒は自分を中心に全てを集約し、縮退させて、ビッグバンを……第二の創世を起こせるようになる。ってこと?」
「そう。ATフィールドを持つ僕たちは不純物となってしまうんだよ。それでは彼らの昇華は失敗に終わることになる。もちろん、使徒にそこまでの意識があるのかどうかは不明だよ。単に滅ぼすことが先行していて、その結果が第二の創世という話になるだけなのかもしれないしね」
「…………」
「そして南極のアダムは、過去の戦いにおいて、その寸前で凍り付けにされた個体だったんだ」
「どうやって」
「わからないよ……それこそ太古の知恵だろうね」
 肩をすくめる。
「あるいは昇華に足るものが得られなくて、自分を凍結していたのかもしれないよ。時間をね」
「時間が停止すると、その空間は凍り付く?」
「ま、そこのところは想像だよ。あるいはリリスとの戦いが長引きすぎて、眠りに就く羽目になっただけかもしれないし、リリスがかろうじて勝利した結果に過ぎないのかもしれないよ。……そして昇華を行った彼ら使徒は、新たな使徒、新たなヒト、いや、世界と星々になって、次なる昇華を目指すんだ」
「新世界の誕生と繁栄」
「そして歴史を繰り返すのさ……別の宇宙の、別の使徒の襲来によってね」
 キョウコは思う。
「セカンドインパクト、エネルギー転換現象……ヒトとしての形の喪失。そういうことなの?」
「そうやって、この世界には、子の宇宙、孫の宇宙が生まれて、滅ぼし、滅ぼされて、滅ぼし合っているんだな」
 おどけて言う。
 一気にしゃべり疲れたのか、アレクはようやく息を吐いた。
「だけど、僕にはこの先がわからなくてね」
 げんなりとしながら、キョウコは尋ねた。
「まだあるの?」
「破損した状態から、活動するための肉体を再構築する方法がわからないんだよ」
「光のようなものなんでしょ? エネルギーの圧縮体だって、さっき」
「それは流れだろ? システムじゃないよ」
「理解してるわけじゃないの?」
「僕にわかったのは、この世界には無数の地球があって、僕たちの肉体は一つじゃなくて、魂はその肉体の間を渡り歩いていたと言うことだけさ」
 なんだと彼女は呆れかえった。
「あとは想像なの?」
 しかし想像と言うには具体的すぎるものであった。
「考察だよ。けど、それでも十分だとは思わないか?」
「どうして?」
「考えてご覧よ。魂が宿ることのできる自分本来の肉体と同じものが、位相空間、つまり、別の世界、星の上に構築されていたりしたら? 間違い探しのような差違だけでなく、時間についてだって過去や未来に位置するようなタイミングの星があったらなら? そこへ瞬時に意識を移し、渡れる力さえあれば、人は……少なくとも本人だけは、過去も未来も思いのままにしているような錯覚を得られるんじゃないのかな?」
「それが知恵の実の本当の意義?」
「可能性を広げる。そういう意味では、やり直しが利くって力は大きいだろう? あらかじめ試しておけるってことは重要なんじゃないのかな? そうやって、同じ流れの世界へと渡って、別の選択をして、変化をもたらして……」
「進化とは違う、進歩?」
「知恵と口にするから面倒なんだよね。自我、自己と言い換えてしまったら? ぼんやりとしていても、何事もなく手を進めてしまっていた。そんなことってあるだろう? それは主人格が宿っていない状態の肉体が自動的に記録していたものを、シンクロしたときに閲覧した結果起こる違和感を吸収するための防衛機能なんだとしたら? その肉体に意識が、魂が転移したとき、意識は肉の体が持つ情報……記憶を取り込み、転移してきたなんてことは微塵も思わずに、ぼんやりとしてしまっていたなと、錯覚するんだ」
「魂、精神は純粋にエネルギー体だから? エネルギーでしかないから、記憶や思考なんてものは持っていない?」
「ああ、でも、想いはそこにあるかもしれない」
 だからこその『僕』だと彼は言う。
「絶対の一となるために閉じ続ける生命の実と、無限の可能性を同時に模索するために分割し続ける知恵の実」
 キョウコの口から突いて出る。
「群体……」
「そうだね」
 肯定する。
「十八番目の使徒である人類は、僕や君と言った、『個々』に別れたんじゃないんだよ。一人一人が『個人』として宇宙に偏在し、あらゆる可能性を試みるための能力を手に入れたのさ。魂の分化。集合意識体という言葉を聞いたことは? 人は魂で繋がっている。奥底の意識は一つである。それらが別たれたものが個人としての人格。本当のリリンとしての、知恵の実の力とは、この世界中、宇宙中に用意されている、自分の予備へと偏在する能力なのかもしれないよ?」
「だったら、この世界も、そんな内の一つに過ぎなくて?」
「という話でしかない、けどね? それは知恵の実の限界を意味しているのさ。同時に生命の実についてもだ」
「…………」
「同じ存在があって初めて精神を移乗できるのなら、それは同時に、同じような、差違の少ない、誤差が許容される範囲の生体があって初めて成り立つ行為だとなる」
「つまり、意識が渡り移っても、混乱したり、おかしくなったりしないような……」
「意識と言うよりも、この場合は精神体、エネルギー体の型のようなものだろうね。それが当てはまるかどうか、受け入れられる容量があるかどうか。たとえば」
「赤ん坊……」
「その通り、自我を確立する前の状態であるならば、比較的宿りやすいだろうね。だって、型がまだ定まっていないんだから」
「だったら、どの魂がどの器に定着するかは……いいえ、定着しやすくなるかは、その器を一番多く使ってきている魂ということになってしまうわ」
「そう。生まれたばかりの肉体は、実は複数の魂の共有財産に過ぎないんだよ。みんなで使い回しているんだな。決して父や母から別たれた命なんかじゃない」
「だったら?」
「だとしても、そこにもやはり限度があるって言っているのさ。アスカや、碇シンジ君。彼らがどうして、この世界でも彼らとしての体を選んだのか?」
「自分で選択した?」
「どうだろう? それができるのなら彼らは完全な後継者だろうけど、僕は違うと思ってる」
「なら?」
「生まれてから死ぬまで……サードインパクトを迎えた直後の時間までが、彼らの渡れた限界じゃなかったのかな? その中でも比較的安全で、もっとも惹きつけられたのが自分の、それも自我が確立されていない赤子の頃だった、と見てるんだけど」
 そのように考えていくと、と。
「生命の実を宿しているものもまた、同じように空白を得なければ……待たなければならないのだとしたら? 知恵の実が魂の空隙(くうげき)を求めるように、この世界、この星の上には、彼らが一体割り込むだけの隙間しかないのだとしたら? そしてこの世界にはアダムが眠っていた」
 合点がいったとキョウコは目を丸くした。
「休眠状態にあったアダム……いいえ、第一使徒の存在が、新しい使徒の襲来……顕現を押さえていた? それが消失したことによって、新たな特異点の現出する隙間、亀裂を認めることになった? 二体が、特異点が二つ、同時に現れることができないのは」
「僕たちは時の上に成り立っているから、理解が難しいけどね。生命の実自体は途切れることなく存在しているとして、それが目に見えるのは使徒となっているときだけだとしよう。どこかで使徒になっている間は、別の場所では使徒になれない。あくまでただの生物だ……僕や、フィフスの少年のように」
「供給されるエネルギーが少ないから、覚醒できないってこと?」
「ああ。だけど多元に通じることができるのなら、同時にエネルギーを供給することだって可能なはずだろう? なのに、同時侵攻はない。どうして同位体の消失を待たなければならないんだ? 待っている間に、次のタイミングが遠くなりすぎていて、他の世界を選ばなくてはならなくなったり、他の星の上で暴れていたりするのかもしれない。そうして他が襲われている間が、この世界にとっての安息の時間に当たっているのかもしれない。それはどうしてだ?」
「それがさっきの?」
「ああ。ATフィールド、地に満ちている僕たちリリン。百億だった人口……地表を埋め尽くしていたATフィールドと言う名前のバリア。隙間無く密集していた異物」
「そこに人は人の手で、隙間を作った……なぜ?」
「増えすぎたからさ。人が。適度な数字ならいざしらず、量も多くなれば臨界を迎えてしまうからね」
「限界を超えた量のATフィールドが崩壊の連鎖を始めるかもしれなかった?」
「だから、適正な数を求めた……という裏の事情もね」
 アダムに手を出し、目覚めさせて。
 キョウコは不可能だと嘆いた。
「じゃあ、この戦いは、再びわたしたちが満ちるまで続けなくてはならないというの? 何十億って数になるまで」
「じり貧だね、今の地球じゃ」
「そんな……」
「もっとも、世界そのものと同じ質量を持っているものを用意して空隙を埋めてしまえば、使徒は降臨できなくなる。理屈だよ」
 だから使徒は同時には現れず、あるいは今の日本のように連続で出現したり、ということになるのだろうと彼は言った。
「フィフスが力を絞っていたのもそれが理由だろうな」
「大きな力は使徒の降臨を阻害してしまうのね……だったら」
「人類はとっくに、人の手で使徒の降臨を邪魔する手段を手に入れていたと言うことになる」
「なんてことなの……」
 キョウコは震えた。
「なら、アダムを復活させることができれば。いいえ、復活は」
「だけど、そもそもアダムはどうして消えることになったんだい?」
「…………」
 キョウコには答えられなかった。
 アダムが消えたのは人の手によってである。
 それが事故なのか、人為的なものであるのかはわからない。
 だが目的はアレクの言ったようなものだろう。
 それにしたって、既にアダムの復元はされているというのだ。
 これもまた人の手によって、ヒトの形に。
 エヴァ、あるいはフィフスチルドレンとして。
 そのことにキョウコは愕然とする。
「なにが狙いで、今を維持しようとしているの?」
「さてね……神を作ろうだなんて考えじゃないことだけは確かだよ。生命の実と知恵の実。双方を供えた神を誕生させるだけなら、とっくにできていたことなんだ。だからと言って、そのようなものを生み出して、外来より襲来する使徒を未来永劫寄せ付けないようにしよう、とか、そんな正義感からの行動でないこともまた確かだよ」
 少なくとも、エヴァを完全なものとすれば、アダムの代わりに使徒が割り込めなくするための、空白を埋める代用品とできる。アレクはそう断言した。
「どうして、アダムを」
「さて……どこでねじ曲がったのかがわからないんだ」
 僕と同じようにねと揶揄するアレクに、キョウコは尋ねる。
「それがあなたの知った真実だって言うの?」
「そうだけど?」
 キョウコは反論する。
「あなたは命の実の暴走から活性化した知恵の実によって、世界が無数に連なって同時に存在していることを知った。そしてそこから真実も? だけどそれが同じ流れを汲んでいるだけの、全く別の筋道をたどっている世界の話でしかないのだとしたら?」
「ん?」
「同じように見えて、実は根底から違う理屈を展開している世界だってあるはずよね? あなたが識ったのがそんな世界のお話だとしたら?」
「その可能性もあるだろうね」
 否定はしなかった。
「だけど僕には、断言できるだけの理由があるんだよ」
 そのことについてもと、アレクはまたも長々と語り出したのであった。

−Eパート−

 本来、戦闘配置に赤木リツコの席はない。
 それでも発令所に立っているのは、使徒、エヴァ、共に彼女以上の理解者が存在していないためである。
 であるから、オブザーバーとしての役割が途絶えると、彼女にはやることが無くなってしまうのであった。
 リツコは伊吹マヤのヘッドレストに腕をかけ、彼女に別の仕事をさせていた。
 単なる好奇心からの行動であった。
「どう? わかった?」
「いえ、やはりネルフ本部から突然……フィルムをいきなり切ったように、次の瞬間には映像から消えてしまっています」
「そしてシンジ君の元へと現れたわけね」
 秒間120分の1フレームの単位で刻まれている画像がずらりと画面を埋めていた。
 そこにはネルフ本部内を歩く渚カヲルの姿が映されていたが、とあるコマからはいきなり姿が消えていた。
 マヤは首を捻って尋ねた。
「瞬間移動でしょうか?」
「なんの予備動作も、予兆も無しに?」
「使徒だから……って考え方ができれば簡単なんですけどね」
「使徒自身、突然現れるものだけれど」
「それができるのなら、直接ここに現れますよね……」
「使徒がいきなり出現する理屈を、少しでも解明できればと思ったけれど」
 これだけじゃと、マヤは否定的に口にする。
「対象が小さすぎて……。それこそエヴァのサイズであれば、エネルギーの総量が桁外れですから、観測機器にも引っかかりますけど」
「一応、彼は使徒ということらしいから、その能力も使徒に準じるもの、と見たいけれど」
「こうなってくると、使徒の定義自体がいかに曖昧なものであるか、ですよね……そもそもブラッドパターンって設定だって」
「それは黙っていなさい」
 耳に口を付けるようなささやきに、マヤは息を飲んで黙った。
 触れてはいけないことに触れそうになったと自覚したからである。
「すみま……ありがとうございます」
「いいのよ。いまあなたに消えられたら困るわ」
「はい」
「あなたなりに聞かせて。渚カヲル君。やはりテレポートだと思う?」
「使徒自身は生物です。どんなに特異な現象に見える攻撃も、そこには原理が存在しています。だったら瞬間移動だって、渚君固有の能力なんじゃないでしょうか?」
「ただの超能力や魔法だっていうの?」
「超能力も魔法も、波動の観点からなら説明が付きます。方法論は眉唾ですけど」
 冗談じゃないわねと目元をもみほぐす。
「正直、使徒だけじゃなく、エヴァのことだって、わけがわからなくなってきているっていうのに」
「でもやっぱり、トリックはあり得ないですよ。ホテルの……シンジ君の部屋に設置されているカメラは、市販の有線カメラなんですよ? その映像は回線経由でネルフでも記録されていたんです」
「特定のタイミングを狙って別の映像を割り込ませるとか、あるいは別の映像をあらかじめ流していたとか、技術的にやってやれない話ではないけどね」
「でもそれをやるにはカメラと回線の品質が粗悪すぎますよ。ここの解析機材にかけてもアラが見つからないような細工なんて、できるはずがないんです」
「転移の仕組みについては、渚君の帰還を待って問い詰めるしかないわね」
 帰還ですかと、マヤは暗い顔をする。
「戻ってくるんでしょうか? 彼」
「怖いの?」
「そういうわけじゃ……」
 しかし不安はあるという。
 自分でも複雑なのだろう。そんなマヤを、リツコは仕方ないわと慰めた。
「パラレルワールド……一度は敵対したそうだしね。次もあるのかも」
「その存在を信じるなら、ですけど」
「信じないの?」
「だって」
「使徒であることはもう明白だけど、でも、パターンが青ってわけでもないのよね。ただ話を信じるなら、このまま戦いが続いていけば、最後には……」
「シンジ君が?」
「シンジ君とも、ね」
 さっと操作し、リツコはシンジがカヲルからコアを受け取った瞬間の映像を表示した。
 マヤは画像から目を反らすように、リツコへと訴えるよう目を向けて尋ねた。
「人が使徒になる……そんなことがあるんでしょうか」
「でも渚君はそのためにシンジ君の元へと現れた。そしてシンジ君はそれを受け入れた。映像の検証をしたのはあなたでしょ?」
 でもと、マヤは口にする。
「渚君は、どうしてそこまでシンジ君に入れ込むんでしょうか?」
「それこそ、『以前』の話なんでしょ?」
「なにがあったんでしょう……あの二人に」
「それこそ、あの二人に聞くしかないでしょう? それに、彼らの話が本当なら、シンジ君はサードインパクトを経ているのよ? 彼を倒すわたしたちは、十九番目の使徒だという可能性だってあるわ」
「そしてまたどこかで、ここで生き残った誰かが、どこかの世界で二十番目の使徒に倒され、ですか?」
「ええ」
「でも使徒同士が争い合う、共存できない生き物なら、どうして渚君は、わざわざシンジ君にコアなんて力を……」
 そこなのよねとリツコは体を起こし、唇を指で揉んだ。
「仮定を変えてみましょうか? もし使徒同士が、争い合う必要の無い、共存できる生き物であったとしたら?」
「え?」
「あるいはそう変化していたとしたら? 人が使徒になり、いえ、人の中から使徒が生まれ、その使徒が次世代の使徒として……新たに誕生する人類の祖、神となるのなら」
「なんですか?」
「使徒の目的が、ただ自ら繁殖、繁栄するに足る世界を求めているだけなのだとしたら? と言う話よ。彼らはアダムとして地に満ちる子供を産むべく、それに適した環境を求めてこの星へと流れ着いただけなのかもしれないわ」
「環境ですか?」
「だって、セカンドインパクトのように、以前に存在していた生命体をすべて己の糧に変えてしまったりしたら、使徒はその世界で繁殖できなくなるじゃない。だって残っているのは岩の星なんですもの。それじゃあ後が続かないわ」
「使徒は滅ぼすためじゃなくて、繁栄するためにこの星を求めている、ということですか?」
「それならいきなり滅ぼしてしまおうとしない理由になるもの」
「アダムはいきなり世界の半分を持っていきましたよね?」
「ええ、本当は全部だったところをね……でも今現れている使徒と、アダムとは、別物だって考えることもできるのよ」
「アダムは使徒となる前のもので、今来ているのはアダムが使徒となったものですか」
「なら、どこかでセカンドインパクトのような現象を起こしたアダムが使徒となったものの、そこでは子を育むことができないから……、そして餌の臭いをかぎつけてこの星へと渡ってきた、で仮説が立てられるじゃない?」
「なら、シンジ君たちは?」
「元が人間であった使徒だから、人としては孤独に耐えられないから。だからここへと渡って来たのかもしれないわ」
 寂しくなったのが理由だというのである。そしてそれは当たっていた。
「だから争い合う必要がないんですね……求めているのが他人だから」
「そう。餌というのが直接的なエネルギーの摂取とは限らないもの」
「必要なのは添加剤としての環境ですか」
「元が人であった彼らにとって必要なのは、自らを支えてくれる他人なのかもしれないわね」
「元気の素ってことですね」
「使徒に自己進化能力がある以上、かつての第十七使徒が、共存共栄を模索し始めたとしてもおかしくはないわ」
「その結果としての十八番目の人類ですか」
 リツコは声を潜めた。
「その十八番目の人類が生命の実を求めて行動しているっていうのも、面白いとは思わない?」
「え?」
「もしそれが、人の欲望の問題じゃなくて、知恵の実と生命の実、二つの実が一つになろうとしているだけなんだとしたら?」
「一つに、ですか?」
「ええ。次世代となるにふさわしい遺伝子を……力を持った強力な個体が誕生するために経ようとしているプロセスの途上に、わたしたちがいるだけなのだとしたら?」
「それって」
「受精……受胎? 無数の精子が競争の果てにたった一つの卵子にたどり着く。似ているとは思わない? この卵子の名前を地球、あるいは宇宙とすればどう? 使徒という名前の精子たちがわたしたちの世界という名前の卵子に取りついて、繁栄しようとしているとすれば?」
「リリス……が相手じゃないっていうんですか?」
「便宜上リリスと呼んでいるだけでしょ? あれも使徒だもの。いいえ、リリスが卵子で、地球が子宮なのかもしれないわね。あるいはリリスもまた精子のなれの果てなのかもしれないけれど」
「…………」
「この地で受精した使徒の子は、地球と言う名前の子宮で育った後に、宇宙という世界へと産まれ落ちる? まさに今のわたしたちね」
「そんな」
「精子って、意外と攻撃的なのよ。知ってる? 精子同士で攻撃し合うの。そして受精卵って、連続で精子に取りつかれると、流れちゃうこともあるのよね」
「あたしたちという使徒は、先に受精した結果ですけど、使徒にとってはまだ間に合う段階にあるってことですか?」
「ええ」
「だとしたら、過当競争に敗れる寸前だって言うことになりますよね……」
「暗い話ね」
「どうしてよその星に行ってくれなかったんでしょうか?」
「……宇宙には、宇宙人が、人の住める星がある。それはわたしたちの存在こそが証明になる。そういう人もいるけれど、近くの恒星まで何億光年あると思う? 星の寿命が尽きるには十分な時間だわ」
「地球に届いている光は、何十億年も前の光……つまり、すでに滅んでいる星のあった世界からのものだってことですよね?」
「そしてここから先の宇宙は、空間として広がりすぎているわ。そこでは星の光なんて散在しすぎていて闇に近いのかもしれない。人が……情動を持った生物なんて生きていけないような、ね?」
「孤独すぎるって言うことですか?」
「ええ。この世界には、もう、この星以外には、生命体なんて存在していないのかもしれないわよ?」
「でも確率論じゃ、否定されてるじゃないですか。実際、宇宙からの飛来物の中には、生命の痕跡だって見つかっているんですから」
「痕跡でしょ?」
「……使徒がそれらを順番に滅ぼして、ここにたどり着いたなんて」
「滅ぼして、じゃなくて、乗っ取りなら?」
「……渚君はどうなるんですか?」
「わからないみたいね……渚君だって、作られたわけだし」
「本能的には目的を察していても、知識が邪魔をしていて、それを曖昧にしている、ということですか?」
「そうね。世界の命……魂のようなものが、死を拒絶して来訪しているのかもしれないわよ?」
「死者が生者にしがみつくように?」
「ええ」
「そういった運命……みたいなものを拒絶して、抗うのがわたしたちの仕事ですか?」
 もっとも……と。
「使徒の誕生や起源が兵器に由来するものなら、使徒を生物と捉えた発想をしているだなんてこと自体が、ただのお笑いになってしまう可能性があるわけだけどね」
「どういうことですか?」
「使徒なんて、ただ単に破壊を続けているだけの自動兵器かもしれないということよ。世界を渡りながら破壊だけを続けていて、そしてやがては限界を迎えて次の世界へと渡れずに活動を停止する。そうした使徒の肉体が分解をはじめて、生命の起源になった……」
「…………」
「それを人は、意味あることのように捉えて、使徒は最初の人間となるために、世界を滅ぼすんだ、なんて、勝手な創世神話に仕立て上げてしまっただけなのかもしれないわよ? 使徒が祖になってわたしたちという人類が誕生したというだけなら、使徒の死骸からアミノ酸がばらまかれた、という解釈でだっていいわけなんだしね」
「大地母神とかですか?」
「そうね。ちょうど足下に最初の妻がいるわけだしね」
「じゃあ、今現れている使徒から、わたしたちのような生き物の起源にあたるものがばらまかれるんでしょうか?」
「どういうこと?」
「だって、わたしたちも使徒だと言っても、生物学上の進化の過程や起源ははっきりとしているじゃないですか。猿のような生き物からでしょう? そしてその大本は……って。そのさらに元になったものが腐敗して分解した使徒だっていうのなら、今現れている使徒からも、同じ流れが生まれるってことになるんじゃないでしょうか?」
「そうね……そうして使徒から生み出されたものが有害で、汚染された大地にはわたしたちは生きてはいけず……ってこともあるかもしれないわね」
 けれどとリツコは考える。
「なら、シンジ君たちだと、どういうことになるのかしら?」
 そうですねとマヤは想像してみた。
「シンジ君、アスカちゃんとしか子供を残せないとか」
「いえ、塩基配列は間違いなく人間のものだもの。わたしたちとだって交配は可能なはずよ」
「じゃあ……」
「霊的、内的な問題になるのなら、他の使徒の場合とは違って、その内、あの子たちの子供がこの地に満ちるってことになるのかしら?」
「……ガールフレンド、二人できたそうですしね、あっちで」
「こっちでももてていたしね……そうしてアダムの因子を持った子孫が増えて、リリスの因子を持った人類と混ざりあって、彼の子供が旧人類を駆逐していくのかしら?」
「何世代かかるんですか、それ」
「さあ? でも百年はいらないんじゃない?」
「でもそれなら種として滅ぼされるにしたって、命を奪われるわけじゃないですから良いですよね」
 冗談のつもりであったのだが、でも、そうよねとリツコは真面目に考え込んだりしてみた。
「優良種と劣等種が過当競争と淘汰を受けて、新たな世界の主として君臨するようになるのなら」
「え?」
「穏やかな侵略って、あったわね」
「その方がまだうれしい限りですけどね」
「え?」
「え! あ、そう言う意味じゃなくてですね!」
「黙っててあげるけど、あなた……」
「いやだからあの!」
 リツコは生暖かく聞き入れなかった。
「優良種と劣等種。それがそのまま使徒とわたしたちとの関係に当てはまるのかしら」
 ただ、そうなると、と、彼女は一つの存在を思い浮かべる。
 レイのことだ。
(あの子も彼と同様のプロセスで生産された子なのよね)
 委員会より回されてきた技術書を見る限りにおいて、レイとカヲルの製造工程に大差はないとリツコは思っていた。
 ただユイの遺伝子情報をベースに構成されているレイに対して、どのようなものを基礎としたのか? 渚カヲルについてはその点が伏されていたのである。
(元となる誰かが居るのか、一から設計されたのか、あるいは……)
「先輩?」
「力尽きた使徒の肉体が物質的な起源となって、そこに宿る霊的なものの根源は使徒というカテゴリに由来する、ということでなら……」
「なにを言ってるんですか?」
「枠組みの話よ。ナンバリングが魂の格付けを意味していて、肉体を構成しているものにはさほどの意味がないのなら、わたしたちが使徒と呼んでいる個体たちはそれぞれ違う魂……別の神であって、決して倒された使徒が新しい肉体を伴って現れ直しているわけではない、とも考えられるなと思ってね」
「それはもう、わかっていることなんじゃ……」
「いいえ、それだと……十八番目の使徒であるシンジ君たちとわたしたちとの間には、魂の互換性がないことになるかもしれないじゃない。でも彼らはわたしたちと同じ起源を持っているのよ?」
「あ…………」
「同時に、レイや渚君たちとシンジ君、わたしたちの間はどうなのかしら?」
「それは……」
「考えても意味のないことなのかもしれない。でも、なんだか気になるのよね……」
「どうしてですか?」
 リツコは、とんとんと頭を指で叩いた。
「脳の作りよ。ニューロンネットワーク」
「ああ……そういうことですか」
「人と同じ構造をしている渚カヲルという使徒は、人のように情動を理性で制御することができるはずよね? だけどそういった構造を持つ前の形態をしている使徒は……」
「本能任せに暴れ回り、繁殖を目指す?」
「そう言った意味では、セカンドインパクトのようなことは、もう起きはしないってことになるのかしら?」
「いい話ですね」
「ええ。南極に現れたという使徒は、特定の形状を持たない、エネルギーの塊だった。だけど今現れている使徒は、少なくとも物体として、物理的な構造をもっているわけだから」
「エネルギーの転換現象は起こらないってことになりますね」
「死んでも、腐る。それだけよ」
 やっぱりとつなげる。
「使徒の定義そのものが曖昧すぎたのかもしれないわね。人間、動物、昆虫、鳥、魚? ……大別すれば、全て『生き物』というカテゴリに当てはまることになるわ。三次元界における地球上の、ね」
 どう? と尋ねる。
「使徒から、さらに分類を進めるべきだと思う?」
「意味があるんでしょうか? それは」
「あるかもしれないし、ないかもしれないわね。もっとも、そんな余裕があるかどうかが一番の問題だけど」
「ですよね」
「ええ。調べた結果が、ただの霊的構造体に過ぎないって話になったら、三次元の世界での分類に意味があるのかって結論になりそうだしね」
 それらは時間を潰すための、与太話に過ぎなかった。

−Fパート−

 黒い月を背にして、二体の巨人が降臨する。
 月明かりに照らされる赤と紫の巨体。その上部は、胸の辺りまでを上からすっぽりと覆う鎧をかぶせられていた。
 エヴァンゲリオンにとって特徴的な肩のアーマーは横に倒され、四角いブロックの組み合わせたものによって、二の腕までも覆われている。
 その上部には四枚のプロペラがあり、高速で回転してエヴァンゲリオンを持ち上げていた。
 エヴァンゲリオン専用空輸装備。つまりは大型の輸送用ヘリであった。
 それがエヴァンゲリオンの頭から覆い被さって、巨体を釣り上げているのである。
「呆れたものですな」
 霧島が傍らに立つ時田へと語りかける。
「もっと超科学的なものを見せられると思っていたんですが」
 時田は残り少ない髪を、巨大輸送ヘリの起こす暴風から守るように手で押さえていた。
「あれでも十分ですよ」
「そうですか?」
「ええ。よく見てください」
 時田はヘリの上部を指さした。
「あのローターの長さ。左右両翼の前後、エヴァの大きさと比較しても、ローターの羽根は一枚が二十……三十? メートルを超えているようにも見えます。わたしにはあの大きさの羽根が、どのような剛性を持っていればあの回転に耐えられるのか、そしてあの長さのものを回転させられるモーターとはどのようなものなのか、なによりもあの程度の羽根と回転力で、エヴァンゲリオンほどの重量のものを持ち上げられる揚力を、なにをどうすれば生み出せるのか? ……なにひとつ説明することができないんです」
 なるほどと霧島は納得した。
「科学に聡い者ほど、でたらめさに気付かされるというわけですか」
 はいと時田。
「一見すると既存の物理兵器の延長上にあるように見えてしまうから困るわけです」
「追いかける側としては、ですか」
「始末に負えませんね。……使徒を倒すことを第一とするのなら、人型兵器にすることはなかったのに、彼らは人の似姿を選んでいるし」
 彼は駐機している船のような機体を見上げた。
 それは修理中のマナの機体であった。
「戦自も独自に開発していたようですが」
 霧島は当たり前のように口にする。
「おそらくは世界中で行われているでしょうね。エヴァンゲリオンの大きさを基準として」
 時田さんもではと尋ねられ、時田は、「あれは趣味で終わりましたよ」と自分を卑下した。

−Gパート−

 シンジがミサトたちと共に第二拠点に到着したとき、そこには既にユイとアスカの姿があった。
 巨人をライトが照らし出している。足下には巨大な投光器が列を成していた。人間の姿などは、その投光器が放つ光に埋もれて、時折影として見うけられるだけであった。
 山積みのコンテナと、多くの人影が左右に走る中、シンジたちは二人へと歩み寄った。
 アスカが先にシンジを見つけた。彼女は気まずげなものを垣間見せたが、すぅと息を吸うように目を閉じた後は、シンジのことをしっかりと見据えた。
 シンジは、母さんと話しかけようとして、留まった。
 一瞬、ユイが身を硬くしたからだ。
「シンジ、大丈夫だった?」
 言葉はいつものものだが、決して近寄っては来ない。態度が酷く硬かった。
 アスカの表情が気になった。なにかまずいことがあって、罪悪感を隠すために表情を固めているように思えたのだ。
(ああ……)
 シンジは、そういうことかと納得した。
 話したのだと、全てをだ。
 残念だなとは思う。だが当然だとも感じた。
 来るべき時が来ただけの話であったのだ。
 アスカに苦笑を向ける。
 シンジが再びユイへと目を向けると、そこにはミサトの背中が割って入っていた。
「作戦指揮所にはシンジ君にも入って貰います」
「シンジは民間人よ? もうネルフとは」
「わたしの権限で復帰させました」
「越権行為よ、葛城一尉」
「『あなた』こそ、なんの権限があって、反対を?」
 強気のミサトに、ユイは戸惑った。
「え?」
「あなたはエヴァンゲリオン初号機専属操縦士に過ぎないはずです。碇司令の権限を自分のものと勘違いしているのでは?」
 ユイは言葉を失った。
「現場ではわたしが上官であり、現状では司令よりも優先的な決定権を与えられています。シンジ君、行きましょう」
「はい」
「シンジ!」
 ユイは呼びかけたが、運悪く荷運びのローダーが轟音を立てて邪魔をした。
 だが、アスカから見れば、それはユイにとって運が良かったのではないかと思えるタイミングであった。
 シンジが無視をしたのではなく、聞こえなかっただけだと、思い込めるタイミングであったからである。
 アスカはじっと、ユイの後ろ姿を観察した。

−Hパート−

 ユイはすぐに本部へと通信を繋げ、ゲンドウにミサトの暴走を止めるよう求めたが、ゲンドウはこれを却下した。
 一パイロットが口を出す問題ではないと、公私の混同をいさめる形を取ったのである。
(あの人が逆らうなんて)
 公の側が強く出ているとユイは感じて、叱られた妻を演じ、しゅんとしながら引き下がった。
(委員会がなにか?)
 実際のところ、ミサトはシンジを完全復帰はさせていなかった。
 あくまで、オブザーバーとして迎え入れるために、準職員扱いで復職させただけであったのだ。
 使徒との戦闘に置いては、戦いに勝つことがあらゆる倫理より優先される。だからこそシンジのような未成年であっても、強権を持ってあたることができるのだ。
 自分から去ったシンジが、戻りたいと言ったところで、そのような我が儘がペナルティもなく認められるはずがない。
 ミサトはこの問題を回避するために、自分からシンジを巻き込んだのだという形を取ることにしたのである。
 ミサトがそこまでの腹を決めたことには理由があった。
 それは、ついにシンジから、全ての話を聞かされたことにあったのだ。
 ただしその話は、ミサトにのみ話されていた。
 話した場所は車の中であった。この第二拠点へと移動する車の中のことである。
 ネルフの機密に関わることを話すからと、マナとマユミには別の車両での移動を命じ、専用に車を借りての聞き取りであった。。
 ミサトの運転を横目に、シンジはとつとつと語っていった。
 最初は褒められるためにエヴァに乗ったと。
 そのエヴァによって人を傷つけてしまったと。
 初めて親友と呼べるような友達ができたと。
 その友達を、父の力によって、自らの手で殺してしまったと。
 そしていじけている間に、拗ねている間に……。
 アスカを、レイを失ってしまったと。
 さらに。
「僕がこの手で、カヲル君を殺しました」
「…………」
「誰の意思でもなくて、僕たちはふたりきりで、僕が殺そうと思って、殺したんです」
「そう……辛かったのね?」
「いいえ。なにもかもが嫌になっただけでした。でも」
「なに?」
「ミサトさんが……」
「わたしが?」
 シンジは、ここだけは語らなかった。
 ただ、ミサトはなぜ急にシンジが自分のことをミサトとは呼ばなくなったのか理解したのであった。
(わたしのことじゃない、か)
 どれだけ、その葛城ミサトとの思い出を大事にしているのか?
(妬けるわね)
 ミサトは、負けてるなと実感した。
(そっちの、わたし)

−Iパート−

 ミサトは先の会話について、シンジの了解を取った上で録音していた。
 作戦指揮所に入ったところで、最優先にその内容をネルフへと送信する。これにもシンジに許可を取っていた。
 シンジは、葛城さんがそうするべきだと思った相手になら、と答えている。
 そこには、シンジには、この世界では誰が味方なのかわからなくなってしまっている、という事情があった。
 その判断を任されたミサトが送信相手として選んだのは、シンジの父、ネルフ総司令であった。直接送信である。
 この内容を受けて、ゲンドウはユイへと連絡を取った。
 専用回線を用いているため、エヴァのレコーダーには記録されているものの、他の人間の耳に入ることはない。
 エヴァのレコーダーなど、後でどうとでもできるものである。
 ユイはゲンドウ経由でシンジの話を聞かされた。
 どうだと尋ねるゲンドウにユイは答える。
「些細な違いとか……特にサードインパクト直前直後については、それぞれ違った立場や行動を取っているから、確認の取れないところが多いんだけれど……」
「示し合わせて嘘を吐いているわけではない、か」
「信じるしかないわね」
「だとすれば、それはそれで問題になるな」
「最強の使徒」
「初号機の覚醒と解放だと?」
「でも」
 ユイは言葉を飲み込んだ。
 もし委員会がそれを狙っているのなら、シンジがこの地に、エヴァの側にとどめ置かれている理由がわかるからであった。
 ゲンドウのはこのとき、ユイに話さなかったことがあった。
 ミサトからの連絡の際、少しだけシンジと話していたのである。
『結局、エヴァがなければ、僕にはなにもできませんから』
 遠回しに乗せろと言っているのは明白だった。
 声だけのゲンドウにはわからなかったが、その姿は達観を通り越し、なにかの決意を秘めているようでもあった。
 ゲンドウには、それが読めなかったのである。
『あの、綾波は』
 ゲンドウは答えなかった。
『……そうですか』
 沈黙したゲンドウから、一体なにを勝手に読み取ったのか? そんなシンジの横顔にミサトは狂気すら感じ取っていた。
「シンジ君?」
「問題ありません」
 通信を終えたシンジは、背筋を伸ばして、顔を上げた。
 ミサトはゾッとした。
 ゆっくりと振り向き、自分を見るシンジの目に漂う狂気に、怖気を覚えたのだ。
 ミサトは瞬間的に、シンジがコアを受け取っていることを思い出した。
 だが実際には、シンジの放つものはそれに由来するものではなかった。
 その時のシンジの纏う空気は、伴侶を失い、一時期姿を消し、そして戻ってきた頃の碇ゲンドウのものと酷似していた。
 もっとも、この世界の両親は、そのような狂気を孕んだことはなかったが。
「葛城さん」
「なに?」
「アスカと会えるようにしてもらえませんか? できればふたりきりで」
 ミサトは気圧されるように頷かされた。
「わかったわ」

−Jパート−

 移送後のテストが行われる。
「初号機のシンクロ率が前回測定値よりマイナス45を示しています」
「30台だと? 落ちすぎているな。起動ぎりぎりじゃないのか?」
 コウゾウは露骨に顔を歪めた。
 理由が分かりきっていたからである。
(ここに来て迷いを持ったか)
 ゲンドウを見る。
 彼は顔を隠すように手で橋を造り、両肘を指揮台についていた。
 一方で、アスカは初号機を見上げていた。
「確かにユイさんが乗ってる初号機も凄いんだけど……」
 なんだろうかと思うのだ。
「シンジが乗ってるよりも……」
 ユイが搭乗者である場合には、安定した力強さを感じられる。だがそれは、シンジほどの突破力、打開力を感じられないと言う部分もあることだった。
「正直見劣りするのよね。実績とか経験の差なのかな?」
 そんなアスカに、伝令兵が駆け寄った。

 アスカはミサトに呼び出されたと思い、トラックの荷台に入って、驚いた。
「やあ」
「シンジ……」
 一番奥の暗がりに、シンジが腰を落としていたのである。
 最初は、なぜミサトがこんなところにと思い、次に、罠にでもはめられたかと思った。
 こんな時にと思うような場所で、重要人物が拉致されるのは珍しいことではない。
 特にここは、チルドレンの情報を欲しがっている、戦略自衛隊のど真ん中である。
 だがトラックの幌の中を覗いて、そこにいたのがシンジだと知って、アスカはわずかな迷いを断ち切った。
 思い切って中に乗り込む。
 幌を直し、誰にも見られないようにした。そうすると、隙間からの光だけが頼りで、相手の表情を見るのが大変になった。
「なによ、一体」
「綾波を助けたいんだ」
 アスカは距離を取って座った。
 トラックの荷台の、荷滑りを防ぐための筋がお尻に当たる。痛かった。
「なに言ってんのよ、あんたは」
 呆れるアスカに、シンジはすがった。
「このままじゃ綾波は見捨てられる。だから」
「そういうこと言ってんじゃないわよ」
「頼むよ」
 今更なにを言い出しているんだと言っているんだと、アスカは怒鳴ろうとした。
 しかし気付かされる。
(こいつ……)
 口癖が出ていないことに気がついたのだ。
 ごめん。その一言がない。
 いつものシンジであれば、必ずごめんと謝りながら、混ぜながら、頼んで来るはずだった。
 罪悪感や強迫観念に取り憑かれての行動ならば、こうして睨み付けてやれば、罪悪感から怯えて目をそらしもするだろう。引き下がりもしたはずだった。
 しかし、このシンジは、目を反らすどころか挑むような目つきをしていた。
 頼むと口にしたときも、視線を外しもしなければ、頭を揺らしもしなかった。
 じっと見つめてくるのである。
 アスカは思った。
 これは、わたしが惚れたシンジだと。
 あの赤い世界で見た姿だと。
 ため息をこぼす。
 負けるわ、と嘆く。
 時々、シンジはこういう姿を見せるのだ、と。
「え?」
「ごめんとか、いまさら言ったら、殴ってやろうかと思ったんだけどね」
 ぽかんとし、ああとシンジは納得した。
「別に、今更よりを戻してもらおうとか思ってないよ。そんなことはもうどうだって良いんだ」
「どうだってって……」
「僕はアスカと綾波のことをどこかで信じていたんだよね。今更負けやしないだろうってさ」
 アスカは拗ねた。
「悪かったわね」
 怒らないでよとシンジは笑う。
「甘かったんだよね。アスカだってそうだろ? だから僕が街を離れることを認めたんじゃないの? 今更負けたりはしないってさ」
 そういう考えがなかったとは言えない。
 だからアスカは反論せずに、続けろと目で命じた。
「冗談じゃないよね。このまま綾波を見捨てて、僕だけ……違う。そうだ、昔、僕が使徒に飲み込まれたとき、みんなは……いや、そうじゃなくて」
「下手な説得の言葉は良いわ」
 今度はシンジがはっとする番だった。
 そしてアスカを見て、なにか通じるものを感じ合う。
 それはかつて、ふたりきりで過ごしていた時間を、懐かしくも想起させるものだった。
「空の黒い穴。あれのことを山岸さんは次元の穴って言ってた」
「誰よ?」
「そういうのに詳しい人だよ」
 覚えてないんだなと思う。だが同時に、『このアスカ』は知らないのかもしれないと、シンジはゾッとするような寒気に襲われた。
 否応なくみんなと話した、平行世界のことを思ってしまう。
 だから確認せずにはいられなくなったのだった。
「覚えてない? 使徒にコアの隠し場所にされた」
「ああ……そんな子いたっけ」
 知っていてくれたかと安堵するが、まだ早いと気を取り直す。
 シンジはこれまでにまとめたことを話した。
 この世界が時間をさかのぼったものではないのかもしれないということ。
 平行世界の一つなのかもしれないと言うことをだ。
 その内の、誕生するのが遅かった星の上に出ただけなのかもしれないと言うことを。
「そんな……それじゃあ」
 彼女もまた恐ろしい想像に囚われた。
 うんと、シンジはその想像の後押しをした。
「僕たちは似かより過ぎていたから誤解していたのかもしれないんだよ。本当は、僕と君は、別々の星で、別のサードインパクトにあって、似たような形でこの星に来てしまっただけなのかもしれないんだ」
「あんた、本気でそんなことを思ってんの?」
「だけど確かめる方法は一つだけあるんだ」
 はたと気付く。
「レイね」
 その通りとシンジは頷いた。
「綾波はここを自分の中の世界だって言ったよ。それから君のことをアスカって呼んで、僕のことをシンジだって認識してた」
「信じたかったら、なにがなんでも連れ戻すしかないってコトか」
「うん」
「だから、助けに行くの?」
「うん……」
「逃げ出しておいて?」
「ほんと、今更だよね」
「嘘つき」
 アスカの言いぐさに、シンジは笑う。
 そんなものは、アスカをたきつけるための言い訳に過ぎないのだから、見抜かれたって仕方がなかった。
 でもと告げる。
「僕は、ここまでしてくれだなんて、思ってなかったよ」
 アスカはため息をこぼした。
「あの子、あんたのことが好きすぎたのよね……」
「うん、状況が大変なら、連れ戻してくれれば良かったんだよ。僕は、どうせそっちの都合で、勝手な真似をされるんだろうなって思ってたんだ。きっと、いざっていう時には、連れ戻されるんだろうなってさ」
「みんなが優しくなりすぎてたのよね……気を遣っちゃってさ」
「だから、懐かしくて心地良いよ、今の、この状況は」
「懐かしい? なんで……」
 幾度もあった。シンジはそう言った。
「追い詰められて、どうしようもなくなって……」
「それが落ち着くって?」
「ああ」
「卑屈すぎない?」
「そうでもないさ、アスカ」
「なによ?」
「ごめん……先に謝っておくよ」
「なにを?」
「なにかを期待して、この世界に跳んだんだろ? 僕はアスカに置いて行かれるのが嫌でここに来ちゃっただけだったけど……」
 アスカはようやく思い出した。
 ここは、自分が求めてやってきた、過去だったと。
「たぶん、僕は、それを台無しにしようとしてるんだ」
 シンジはカヲルから受け取った何かを思い出すように、手のひらを握り込んだ。
 そして、ついでのように語り出す。
「……アレクって人が会いに来たよ。アスカの知り合いだろ?」
 アスカは目を丸くして仰天した。
「あいつが!? ここに!?」
「アスカのお父さんだって言ってた。ほんとなの?」
「どこに居るの!?」
 詰め寄るアスカに、落ち着いてくれとシンジは頼んだ。
「幻みたいな感じだったよ。ここにはいないみたいだった」
「……どういうことよ? それ」
「使徒とか……そんな、不思議な感じで、幻みたいな」
 アスカは眉間にしわを寄せた。
「あいつ?」
「僕にはカヲル君みたいな……使徒みたいな空気を感じたんだけど……」
「あいつは使徒を作るプロセスを利用して作られたはずだけど、でも使徒そのものだなんて話はないわ」
 シンジはドイツでの事件を知らなかった。
 そしてアスカも話さなかった。
「使徒としての力に目覚めたの?」
 なのに、アスカは隠していたという罪悪感もなく漏らしていく。
 ここでシンジは自分の考え違いに気が付いたのであった。
 アスカは天才であるが故に思考が飛ぶのだと。
(もしかして、当然、知ってるものだって思ってた?)
 直感だが、間違いではないだろうと思えた。
 そして実際その通りだったのである。
 アスカはシンジの動向を気にして、本部の情報を集めていた。
 シンジだって……と信じていたのだ。
(薄情なんだな、僕は)
 笑って告げる。
「アスカの相手としてふさわしいかどうか、見させて貰うって言ってたよ」
「なあっ!?」
 アスカは叫び、赤くなったが、幌の中は暗かったためシンジにはわからなかった。
「あの人、アスカのお父さんなんだよね?」
「形質的にはそうだってだけよ!」
「だけど、もっとはっきりと、大人って感じだったよ?」
「……変わったの? あいつ」
 そもそも、助かっていたのかと、アスカはようやく気を落ち着けた。
「あの後、隔離されてたはずだけど」
「なんの話?」
「こっちの話よ!」
「なんだよ、なに怒ってんだよ、もう」
「なんでもないわよ!」
 怒りながらも、アスカは、そう言えばと思い出していた。
(あいつに弐号機で握りつぶされそうになったとき、あたし、エヴァにママを見た気がしたんだっけ……)
 母はちゃんと生きているというのにと、彼女はシンジが聞いたという、世界の成り立ちのことを思い返してみたのであった。

−Kパート−

 トラックから出る。
 アスカは別れる前にと話しかけた。
「ねぇ。あの子、無事だと思う?」
 ふたりで揃って空を見上げる。
 シンジはわからないと正直に答えた。
「でも、この世界のリリスが動き出してないんだから……綾波は生きてる。そうはならないかな?」
「なんでよ?」
「この世界には、綾波の魂の帰る予備の体なんてものはないんだよ? なら、帰る先はリリスしかないはずなんだ。そのリリスが動き出してないって事は、器はまだ失われていないってことになるんじゃないのかな?」
「まだ個体の状態が維持されているってコト?」
「魂が体に縛られているのなら、まだ助けられるはずなんだ」
 なるほどとアスカは了解した。
 エヴァンゲリオンを見上げる。綾波レイの同位体を。
「そのためには、初号機か」
「弐号機よりは、綾波を感じられるはずなんだ」
「嫌らしい……」
「え?」
「フケツ」
「な、なに言ってんだよ!」
「そういう話でしょうが」
「だから!」
 じゃれ合っていると、大人が一人寄ってきた。
「アスカちゃん! ……シンジ?」
「母さん……」
 ふたりの間に、奇妙な空気がよどんだ。
「あなたたち、なにをしていたの?」
 不審がるユイに、シンジは、ただ話をしていただけだと口にした。
「シンクロは搭乗者の心理状態に影響されますから。知ってるんでしょ? 僕たちが喧嘩したこと」
 覗いていたはずでしょ? そう言っているように聞こえて、ユイは怒った。
「やめなさい。そういう言い方をするのは」
「すみません」
 堅く、他人行儀他とさえ思える。
 ユイは思い当たることがあるために、強く出ることができなくなってしまっていた。
 間にアスカが立つ。見ていられなくなったからであった。
「やめて、ふたりとも」
「アスカ」
「わかってたはずでしょ、こういうことは」
「まあ、ね……」
「都合の良い生き方ができるかもしれないなんて思ったあたしたちが浅はかだったってだけよ」
 いえ、浅はかだったのはあたしだけかと言う。
「あんたはあたしの後を追ってきただけだものね。この世界に期待もしてなかったみたいだし」
 だから再び母を失い、父に捨てられても、平然と受けとめていられたのだ。
 ユイは二人の会話に戸惑った。
「なんの話をしているの?」
 アスカはユイを見上げた。
「わたしたちは、一度は失敗しました。それでもなにかをやり直したくてこの世界に来ました。けど、だからって、時間をさかのぼって、無かったことにしようとしたわけじゃないんです。そんなことができるとは思ってませんでした。だから、ここにいるのは、わたしたちの我が儘なんです。それが……」
「どれだけ人に嫌われるような真似か、わかってなかったってだけだよ」
 だからごめんなさいとシンジは謝る。
「あなたの子供を、僕は殺しました」
 勝手に終わらせようとするシンジに、あなたはとユイはため息をこぼす。
 ユイはそこで、ようやくシンジの表情に既視感を持った。
(この顔……)
 諦めたように、我慢をするように。
 それでも期待することをやめられずにいて、だけど、どうせ無駄になるのだからと、閉じこもろうとしている顔だった。
 そこに、知り合った頃の、夫の姿を垣間見た。
 嫌われることには慣れていると、世に拗ねていた六分儀ゲンドウの姿をだ。
 ──親子。
 ふいに、すとんとなにかが落ちた。
 ユイは、ああ、そういうものなんだと理解する。
 魂がどうとかは、二の次なのだと。だから彼女は母に戻れた。
「確かにね」
 ユイは口にする。
「あなたは、ここではないどこかで、十四年だか五年だかを過ごしてきたのかもしれないけどね」
 これだけは言っておくわと、ユイは母としての貫禄を見せた。
「ここではわたしから生まれて、同じだけ育ったんでしょ? 生んだのはわたしだってことを、忘れないで欲しいわね」
「え……」
「どれだけ痛い思いをしてあなたを生んだのか、あなたが知らなくても、わたしは覚えてるの。あなたがわたしの子供なんかじゃないって言ったって、そう簡単にはいかないのよ。だから、怒るわね」
 ぱんっと、ユイはシンジを叩いたのであった。

−Lパート−

 エントリープラグである。
 目を閉じ、顎を上向きにしているアスカの唇はわずかに開いていた。
 こぽりと泡が漏れて上る。
 思わずこみ上げるものに、アスカは笑っていた。
 笑わずにはいられなかったのであった。
(やられた、って感じよね)
 小気味良い反撃を食らったと思う。
 絶句させられた。ユイの言葉に、二人一緒に。
 くすくすと笑みがこぼれた。
 確かに、肉体に精神年齢が引きずられているのか、すでに三十年程度生きているとは思えないものが自分たちにはあった。
(違う、か……大人として心がすれるような生き方を経験してきていないものね。子供のままなんだわ。あたしたちって……)
 こちらに飛んだと言っても、自我の確立していない赤子の頃からこんな意識があったわけではない。その頃の自分たちをあやしてくれていたのは、間違いなくこの世界にいる母親たちなのだ。
 生んだのも、育ててくれたのも、彼女たちなのである。
 ならば、確かに、こんな自分たちであっても、母親として存在を認めて、抱擁できるのだろうなと、強さを感じさせられた話であった。
(ママ……か)
 その連想から、アスカは父親のことを思い浮かべた。
(アレク)
 あれからどうなったのだろうかと思う。
(回収された? どこに? そのアレクがシンジのところに現れたってどういうことなの?)
 両手に握っているグリップの感触を味わう。耳には本部からのアナウンスが、心地の良い低量音で流れていた。
(いまどこで、なにしてんのよ、あんたは)

−Mパート−

 アレクは車いすに乗せられ、キョウコに連れ出されていた。
 とは言っても、彼の住む住居周辺の自然公園にであった。
 林の間を通る小道には、時折人影があるものの、騒ぐような者たちは居ない。
 それはこの街自体が、年老いた街であるからだろう。
 誰しもが老いた者特有のゆったりと時間の流れの中に身をゆだねていた。
 と、同時に、この公園とそこから続く林道の奥に家があることなど、彼らは知らないか、忘れ去ってしまっているのかもしれなかった。
 アレクが放り込まれた家屋とは、そういう場所にあったのである。
「僕は、アスカを死なせたと思った時、意識の淵に沈んで行ったんだ。エヴァの暴走は、そんな僕の錯乱状態が反映されたようなものだったんだけど、問題はそこじゃないんだよ」
 ちちちと鳥のさえずりが聞こえた。
 木漏れ日の中、穏やかな、少しばかり寒気を覚える風がそよぐ。
「エントリープラグの中が真っ赤になって、僕は底なしの井戸の底へと沈んでいくような錯覚を覚えたんだ。その底には怪物の姿があって、ばくんと僕を飲み込んだんだ」
 もっともそれが、心象による光景であったのか、現実であったのかはさだかではないと口にする。
「錯乱していたからね」
 キョウコはなにも言わず、聞き手を勤めた。
「その怪物に飲み込まれたとき、きっと僕は、一時的にでも、この世界からは消えていたんだと思うんだ」
 その理由は、消えた先で、人にあったからだという。
「それはキョウコ……君だったよ」

 そこは金色の世界であったと彼は言う。
 海のような場所であった。くるぶしまでをぬらすような波が、ずっと押し寄せてはひいていく。
 その海面には世界が映り込んでいた。
 覗きこめば人や生き物がうごめく世界が。
 映り込んでいるものを眺めれば月と太陽が揺らめいていた。
 遠くを見やれば海を境界線に、空に月と太陽が、そして海底には地球があった。
 彼は、その波に揺すられるように横たわっていた。
「く、あ、は……」
 顔を手で覆い、喉からこみ上げるものに、嗚咽を漏らす。
「僕は……」
 後悔、慚愧の念。内よりこみ上げる感情の袋となって、詰め込まれているものに苦しみ、破裂さえしようとしているかのようだった。
 ぱしゃりと、そんな彼の頭の上に、一組の足が立った。
 彼はその音に手に隙間を作り、ああと、さらに絶望を深くする。
「あなたは」
「わからない?」
 女性は表情というものを無くした顔で見下ろしていた。
 新たに、感情に恐怖と恐慌が追加された。
「知らないはずがないじゃないですか! あなたは」
「そう……そうね。なら言ってみなさい?」
「惣流・キョウコ……僕のオリジナルの妻だった人だ!」
 叫ぶアレクに、違うわと、彼女は否定した。
「あなたの、妻よ」
「僕は!」
 自分はそこまで壊れてしまったのかと思い、具現化した願望と思える存在を前に激しく慟哭した。
 だがそれは間違いであったのだ。
「なにを悔やんでいるの?」
「悔やんでるんじゃない!」
 初めて、彼女の口元に感情が浮かんだ。
 それは苦笑の形を成していた。
 つんと、裸足のつま先で、彼の頭をつつく。
「じゃあどうしたっていうの?」
「僕は……」
「うまくやれなかった?」
「違うんだ」
「やっぱり悔やんでいるんじゃない」
「違うって言ってるだろ!?」
 上半身を起こし、実を捻るようにして訴える。
 そんな彼を優しく抱きしめ、彼女は胸に抱擁した。
 やさしく、彼の背をなでつけ、『彼女』は口にする。
「本当は、なにをしたかったの?」
 その胸の柔らかな肉をはむように、彼はしゃべった。
「……振り向いて欲しかったんだ」
「あの子に?」
「うん」
 そうじゃないでしょと、彼女は彼女の臭いで彼の鼻をふさぐ。
「あなたは悔やんでいた……あの子はあの子なのに、あの子に優しくしてあげることができなかった。だからあの子とやり直してみたかった」
 なにを言ってるんだよと彼は笑う。
「それはオリジナルが持っていた感情だ。僕の思いじゃ」
「わからないの?」
 アレクは最初、彼女のことを年上の人のように感じていた。
 だが気がつけば、彼女は同じ歳の人だという印象に変わっていた。
 しかしそれは、相手が若かったからではない。
 自分が年老いて、彼女と釣り合う年齢となってしまっていたからであった。
「『俺』は……」
 もったいぶるように身を離し、彼女は微笑んだ。
「おかえりなさい。あなた」
「キョウコ……」
 そこに居るのは、クローンであるアレクではなく……。
 彼の元となった人間、アレクサンデル・ジークフリードであった。

−Nパート−

 アレクは語る。
「そこに居たのは確かに君で、僕は『俺』だったよ」
「…………」
「魂の中点、あるいは交錯点、中継点とでも言えばいいんだろうか? 僕はコピーでもクローンでもなく、自分が本物であると気がついたんだ。それと同時に、なんて浅ましい真似をしていたんだとも後悔したよ」
「どういうこと?」
「肉体は器に過ぎず、魂にこそ本質があるのなら? 浅ましいと思えるような願望が、現実となっている世界があったとしたらどうだろう? 自分にとっての理想そのものである世界があって、もしその世界に降り立つことができたなら? そんな世界、どれだけ居心地が良いと思う? どれだけ救われると思う?」
「さっきも、そんなことを言っていたわね」
「でも、それが世界の本質だった」
「…………」
「俺はやり直しを願い、この世界へと漂着したんだ。この世界にある自分と同じ存在、位相同位体にね。けれど願いは『やり直し』だ。だから俺は俺がいなくなっていなくてはならなかった」
「だから、『アレク』?」
「そう、俺でない俺だよ。しかしこの世界は、俺が主役の世界ではなかったんだ。俺はアスカの……あるいはゲンドウのせがれのための話の端役に過ぎなかったんだ。そのことがわからずにギャップに……どこかでこんな風になるはずじゃなかったんだと思っていたのかもしれないな。ずれを受け入れられずに自壊することになったんだ」
「ここがパラレルワールドだというの?」
「それも違うな」
「違う?」
「ああ。ここはリリスの世界。リリスが生んだ世界だよ」
「だけどそれは」
「ああ、さっき言ったものとはまた違った意味での話だよ。つまり時差を持って誕生してきている複製宇宙の一つではなく、全ての魂が集められたたった一つの世界だという話だよ」
 彼は広げた手を、指を絡み合わせるように一つにし、袋のように何かを閉じ込める仕草をした。
「もっとも、真実を知らなければ、一人一人に魂がこもっているなんて話は、当たり前の話なわけだからな。とりたてて騒ぐようなことはない話だよ」
「だけどあの子たちは、それをしらないかもしれないわね」
 そこだとアレクは指摘した。
「アスカはどうなんだろう? だが、問題は碇シンジなんだ」
 怪訝に思う。
「どういうこと?」
「碇シンジは、確かに重傷を負ったらしい」
「なんの話?」
「今、日本で起こっている騒動についてだよ」
 キョウコは驚きに目を丸くした。
「こんな場所でも、情報を仕入れているの?」
 肩をすくめるアレクである。
「ゼーレの中にも親切な人間は居るということさ」
「そう……」
「心配してくれるのかい?」
「え?」
「大丈夫、まだ利用するつもりがあるから教えてくれているってわけじゃないよ。退屈しのぎなんだろうさ。君のことだってね」
「だと良いけど……それで?」
「ああ。碇シンジの怪我が、いつの間にか消えてしまっていたらしいよ。あまりに不自然なんで、思い違いだろうって話で落ち着いているみたいだけどな」
「なにが言いたいの?」
「肉体がただの空間配列に過ぎなくて、魂が自身の位相体を好きに選び移り渡ることができるのならば、新たに魂の側に、好きな肉体の情報を取り込んで移動する能力を付加することができたのならば、どうなると思う?」
 キョウコには意味がわからなかった。
「え……?」
「使徒は、次の世界に渡ったとき、少しだけ変化していると言ったよね? じゃあ、その情報はどこに記録して、どうやって持ち運んでいるんだろうか?」
 たとえばコアとなる特異点の本体に記憶されているのなら。
 人間もまた。
 具体例に、キョウコは悲鳴を上げる。
「でも待って! エネルギーから肉体の構成を行う方法が、わからないって! ましてや生身の人間の体が、そんなに便利に変化だなんて」
 そうだとアレクは頷いた。
「もう一度整理しよう。アダムはこの世界にいた。星の上にいた。そのアダムが消え去った。消え去ったアダムがため込んでいた情報は、特異点の本体へとバックアップされ、次なる使徒の形態へとフィードバックされることになる。それが俺の考えだ」
「ええ」
「だけど、本体とはなんだ? この宇宙には、使徒が勝利した世界だってあるんだ。その時に第二のビッグバンが起こるとしても、新たに生成される法則っていうものには、どんな手が加えられることになるんだ? よりよくなるならまだしも、悪くなるなら意味が無いじゃないか。だから考えて見たんだ。もしもだ、使徒という存在が、俺たちのような位相同位体なのではなく、位相変異体なのだとしたら? 使徒という名前の生物は、むしろ倒されることを目的としているのだとしたら? 倒される度に、次に繋がる情報を蓄えているのだとしたら? 破壊される度に自らをどうやって作り直しているのか? 実験のためのフィールドと実験体を生み出したのが最初の進化だったとしたら? この宇宙の始まりの時よりアダムとの戦いは始まっていて、俺たち人類の主観時間である2015年に使徒との戦闘があるとしても、そこに現れている使徒は2015年相当の戦闘の度に以前よりも更新されている『情報体』から生み出されている使徒なのだとしたら?」
「なにを……言っているの? 待って、わからないわ」
「わからないか? わかるはずだ。どこかで2015年の何番目かの使徒が敗北したとする。それがどこかの星の同じ年の同じ日時に、より強い影として現れる。だがその日時に存在している人類は、その使徒が敗北した星の人類となにも変わらず、同じなのだとしたら」
「人類は、より強くなっている使徒に、負ける?」
「そうだ、そうして可能性という名前の世界が閉ざされていく。使徒は強くなって、次の可能性を閉ざすための戦いへと出て、そしてまた勝つまで負ける。するとどうなる?」
「わたしたちの魂は、渡り歩く体を失っていって、使徒に勝った世界へと逃れ逃れて、追いやられていって……」
「ついには一つの世界に集約されることになる」
「最後に勝つのは、使徒」
 魂が絶対であり、リリスとその眷属と共に、アダムの魂、霊的構造体までもこの世界に閉ざされているのなら。
 負けることが前提で生み出された使徒は、自己進化の果てに、あらゆる『可能性』を駆逐し、最強となって君臨する。
 そしてその『最強』のデータこそが、アダムの求めている最初の人間にふさわしい姿であるのだとしたら?
「だけど、そのことがシンジ君と、どう……?」
「使徒がコアという核の投影するものに過ぎないのなら、碇シンジ君だって」
「まさか!」
 キョウコは怯えた。
「無事な自分の姿を、今の自分に投影できるように、人でないものに進化したって言うの!?」
 使徒がコアの落とす影ならば、碇シンジという存在もまた、核が見せている幻影に過ぎないのかもしれないというのである。
「その力があるのかもしれない、って程度の話だがな」
 だがいまの人類には不可能な話である。
「もしそうなら、彼は使徒を超えているんだ。だって使徒は、傷ついたとしても、その場で修復と進化を行うじゃないか。それは生物、あるいは物体としてはこの世界、この次元の物理法則に縛られている証拠だよ。決して情報を引き出してその場で投影し、補修するなんて真似はしないよ」
 そして世界の成り立ちに話は繋がる。
「この世界には、無数のバックアップが存在している」
 無事に済んでいる世界の姿を取り寄せて、置き換えたのだとしたら?
「君はアダムの最初の妻、リリスがどうなったか知っているか?」
 唐突な問いかけであったが、彼女には答えられる問題であった。
「アダムの元を去って、地に落ちて、悪魔と交わり、地にリリンを生んだ?」
「そしてアダムは神に頼んだ。リリスを連れ戻して欲しいと。だけど彼女は遣いの天使を逆に脅して追い返した。ざっと要約するとそんなところかな」
「大ざっぱすぎるわね」
「アダムとリリスをそれぞれがエネルギー体だと思ってくれ。リリスは悪魔……物質と交わり、星々を生んだ」
「宇宙を創生したということ?」
「そうだ。だがそれは俺たちが思っているような宇宙ではなく、一点から、同じものが次々と放出されたんだ。それらはそれぞれにランダム性を持って、違うものへと変化していった。だが並べてみればほんの少しの違いがあるだけのものもあった。まったく同じものもあった。ただ、存在を開始した時間だけがずれていた」
「それが平行世界だって言っていたわね」
「向こう側の宇宙とか、次元の彼方とか、そんな難しいところにはなく、ただ距離だけが問題なんだ。大宇宙、小宇宙、大銀河、小銀河、そして太陽系。そして僕たちは、隣へ飛ぶことさえできれば、やり直しが利いたんだ」
「一瞬後に存在を始めた星へと移動することができれば、それは時間をさかのぼったのと同じ錯覚を得られる。それも言っていたわね」
「俺はエヴァを介した世界の果てで、その真理を知ったんだ」
 だからだろうと言う。
「俺はお前に対する負い目から、アスカに優しくしてやることができなかった。その感情が俺という魂をこの器へと導いた。正直エヴァの中で俺に諭してくれた存在が『誰』であるのかはわからない。本当にお前だったのか、あるいは妄想か、別の何者だったのか。でも、俺にない知識、発想を持っていたことからも、俺が都合良く生み出した幻影でないことだけは確かだよ」
 もしこの話をアスカが聞いていれば、それは母親に間違いないと断言していたであろう話であった。
 弐号機の中にもキョウコがいる。彼女はそれを感じ取っている。
「だとして、それが?」
「もしあれがお前なら、ここにいるお前は誰だ?」
「それは!」
「お前自身なのかもしれないし、お前という肉体に別の魂……エネルギー源が取り憑いているだけなのかもしれない」
「疑うの、わたしを……」
「いいや? ただ、こうも思うのさ。魂は、一瞬に、一箇所にしか存在できないのだとしても、俺たちには無数の選択肢という名前の世界が用意されているのかもしれないってね」
「……肉体は、魂も無しに、営みを続けていると言っていたわね……それが選択肢なの? 器という名前の」
「ああ。体なんてものは電気信号で稼働しているタンパク質の塊に過ぎないからな。そして憑依した魂はその電気信号が形成している記憶を情報として取り込むのだとしたら?」
「だとしても、それでは」
「そうだ。言ったな? 俺は。自分に都合の良い、主役となれる世界じゃないかと勘違いしていたと。実際、今まではそうだったのかもしれない。一人一人がそう言った世界を生きる、孤独な主役だったのかもしれない。他人なんてものは存在しない世界で生きていたのかもな。魂も個々に別れていたわけじゃなく、リリスという名前の霊的構造体が伸ばしている触手の先端に過ぎなかったのかもしれない」
「集合的無意識……それが実はリリスの見る夢?」
 キョウコははたと気がついた。
「セカンドインパクトが……いいえ、ジャイアントインパクト……ファーストインパクトが、その枠組みを壊した?」
「そしてサードインパクトもだ。あるいはそうした無数にあったはずの世界が限界を迎えてしまったのかもしれない」
「限界?」
「触手の先端に自我意識が目覚めたとしたら? それは自律神経のようなものだったのかもしれないが、本体がなくても活動を維持しようとする力に目覚めていたとしたら? そしてインパクトによって切り離された個体たちがあったとしたら?」
「取り残されたというの? わたしたち……いいえ、あの子たちは」
「それを魂のレベルでは知っていたとしたら? あの子たちだけの話じゃない。俺たちもだ。人という生き物には他人を感じ取る能力があるのだとしたら? なら向かい合っている人間にむなしさを感じるとはどういうことだと思う?」
「そこに魂がこもっていないということを見抜いてしまっている?」
「正解だ。その上で、そうした孤立化した魂たちが、互いに一つの世界を共有するような流れとなったら? 自分にとっては主役の世界でも、共にいるはずの相手にとっては端役としてしか立てない世界であるのだとしたら?」
「あなたが抱いた苦悩のように?」
「そういうことだ。自分が主役になれないからと、家族、親友、友人、連れ合いが、その心が、魂が、抜け出して、他の世界へと飛び立ち、そこに居るのがただの人形であるのだとしたら? あるいはインパクトによって逃げ出すべき世界を失った者たちが、無理矢理共存をさせられていて、逃げることもかなわずに、お互いに傷つけあう道を選ぶしない状態にあるのだとしたら?」
「なにが言いたいの?」
「サードインパクト……いいや、ゼーレの目的の話だよ」
「それは……」
「僕を作ったのは俺だが、その経緯くらいはもう知っているんだろう? ゼーレの肝いりであることもな。だがゼーレはなにを確かめようとしたんだ?」
「魂の在りか?」
「そういうことなんだろうな。位相同位体に魂は宿るか? いや、還るのか。それを確かめようとしたんだろう」
「そんな……」
「そしてそれは正しく、同時に、この世界について、どうしようもない現実を突きつける結果となったんだ」
「どういうこと?」
「なぜ、俺の魂は、他の星へと渡らなかった?」
「それは……それって!?」
 はっとする。
「他に、世界が、ない?」
「そうだ」
 もしかするとと口にする。
「この星は、もはや、リリスが生み出した最後の世界なのかもしれない」
 ふぅとため息をこぼす。
「さっきの話に繋がることさ。逃れ逃れた魂たちの最果ての世界。ここは、人類にとって、最後の砦なのかもしれないんだよ」
 もっともと言う。
「どこにもそのことを保証できる証拠はないし、証明方法もないんだがな」
 俺も神じゃないからな、と、彼はそう締めくくる。
 推測や憶測も混じっている。直感的な部分も多い。
 それでも間違いではないと思っていた。
 サードインパクトはこの宇宙に偏在していた魂たちを一つのところに集わせる計画だった。それは成功したのかもしれない。
(一つの生命体に昇華するのではなく、一つの世界に集約させたという意味において、だが)
 そして、話を締めくくってしまったために、補足するのを忘れたことがあったのだが、アレクはわざと、それも良いかと口をつぐんだ。
(碇シンジ。もしやつが重傷から回復するために、どこかに存在している無事な肉体の情報を取り寄せたのなら)
 まだここは最後の世界ではないと言うことになる。
 そして。
(フィフスチルドレン)
 リリンがリリスという名前の特異点が伸ばしている触手の先端であるのなら。
 使徒もまたリリンと──シンジたちと同じように、特異点から切り離された単独の個体がいたとしてもおかしくはないのである。
(使徒になる可能性を持ち、だが使徒でも人でもないものか)
 一体何者なのかと考える。
 さらにもう一つ。
(使徒が負けることを前提にして、最終的な勝利を目指しているのなら、その最後の最後に逆転できる構造をリリンだって持ち得ているかもしれないんだ)
 それが碇シンジという特異点なら?
(さて、真実は、どこにあるんだかな)
 彼は妻の顔を見た。
「これが真実だとして、それを知った人間が、正気を保つことは可能かな?」
 人が認識できるのは目に移っている範囲のことだけで、背中にあるはずの世界のことさえも曖昧である。
 そこにも本当に世界があるのかどうか、知る術はない。
 もし目前に存在している人間が、思考も行動もただの電気信号による反射で反応を見せているだけの人形なのだとしたら?
 自分の周囲は、実は自分だけが本物で、あとは化学反応の産物なのかもしれない。
 それはゾッとする想像だった。
「認めることは……できないでしょうね」
「自分がこの世の主役だと思っている人間ほど、耐えることはできないだろうな。なら、その孤独感から、魂たちを呼び寄せ一つに……一つどころに集めようとする行為は、それほどおかしなことなのかな?」
「それが……委員会、ゼーレの目的? サードインパクトを起こそうっていう」
「知っていたか」
「ゲンドウさんからね」
「あいつも苦労するな……使徒との戦いは避けられず、かと言って、前に進んでも破滅が待っているだけだ」
 キョウコは思索する。
「人が孤独なのは他人との間に距離があるから。……この距離の意味が言葉通りに空間の隔たりを意味しているとしたら? だから一つになる? 一つどころに集める? 一つになるとは、一つの世界で生きるということ? だとしても」
「なんだい?」
「人は適度に無関心であったり、存在を感じることがないからこそ、一人を……一人の時間を持てる。違う? 完全な孤独には耐えられないわ。だけど……」
「極端すぎると?」
「ええ」
「贅沢な話だな」
「かもしれないけど……」
「まあ、共通の敵がいる内は、問題にはならないだろうさ」
「それは、使徒のことを言っているの?」
 アレクは薄く笑うだけで答えなかった。
 だからか、キョウコは、それは使徒のことを指すのではないと思えたのであった。

−Oパート−

 そして作戦が開始される。
 筑波市は全域が黒いドームに飲み込まれてしまっていた。
 外苑部もまた更地も同然で、肌がめくれ、砂地が見えて、山も剥げてしまっていた。
 ──朝日が昇る。
 陽光の中、弐号機の左隣に初号機が並ぶ。その肩には弐号機と同様に、非常用電池が取り付けられていた。
 初号機の中のユイから説明が行われる。
「中心、核となっている異常空間は直径で百メートルもないわ。市全体を飲み込んでいる黒い異変は、影響を受けているだけの視覚的変動に過ぎないの。エヴァに影響を及ぼすほどのものではないわ」
「でも危険なんですよね?」
「生身で触れれば消し飛ばされるくらいにはね」
「来る!」
 ドームの表面を白い筋がたゆたうように泳いでいる。
 その筋が外側へと伸びるように動いた。
 かと思うと、いきなり高速で飛び出した。
 弐号機に激震が走る。
 ATフィールドで受けとめてなお、衝撃波が弐号機のかかとを下がらせた。
 かかとが背後の山肌にめり込んだ。
 ゆっくりと、弐号機は正面に組み合わせていた腕をほどき、顔を見せる。
「なんてパワーなの……」
 アスカはしびれる腕を見下ろした。
 シンクロによって伝わった刺激が、リミッターを通してなお、搭乗者にダメージを与えていた。
 エントリープラグの左面で、初号機もまた両腕を組み合わせる防御姿勢を取っていた。
 ユイは冷静だった。
「これでも余波に過ぎないわ。使徒と渚君は次元を超越しているようね。なのにその尻尾はこちらに残しているものだから、空間……世界が軋みを上げているのよ」
「異次元からのエネルギーが流れ込んでいるとかってわけじゃないんですね」
「むしろ修復しようとする力が弾かれて飛んでいる、ってところでしょうね」
 なるほどと納得する。
「あとどのくらいで来るんでしょうか?」
「もうすぐよ。段々エネルギー波のレベルが上がってきているわ。そして感覚が長くなってる」
「つまり?」
「世界の修復する力の方が上回りだしているということよ。その分だけ反発力で飛ばされる力が大きくなっているの。修復が完全に行われたら」
「別の次元に隔離される?」
「いいえ。三次元界での法則に囚われて、元の姿……わたしたちにとっての元の姿に戻るはずよ」
「それからが勝負か」
「もっとも、回帰の瞬間には大きな力が働くわけだから、初号機と弐号機で、なるべく被害を押さえて。……来るわよ」
 一瞬、白い筋が消えるように引いて収まり、次の瞬間、全体の色が反転し、発光した。

−Pパート−

 白い光が引くように消えていく。
 あるいは景色が描画されるように闇を塗りつぶしていった。
 そして闇は一点へと収束するように小さくなっていき、やがて消失した……かに思われた瞬間、反転し、爆発した。
「くぅっ!」
 衝撃波をATフィールドでやり過ごす。
 世界の色合いが正しく戻ったとき、弐号機はビームの直撃を受けた。
「くっ、あ!」
 ATフィールドを一撃で貫通され、右肩のパーツをもぎ取られた。装着されていた非常用電源が持って行かれ、起動時間を示すカウンターが一気に半分以上の時間を消失させた。
 ビニールが真ん中から破られたような形をして、ATフィールドが消えてしまう。
 弐号機は足を踏ん張り、なんとか転倒を避けた。
 アスカは目を剥いて、悲鳴を上げそうになった。
 二撃目が弐号機の顔を直撃するところだったのだ。
 だがその白色の閃光との間に、小さな人の影が割り込んだ。
 金色の光。ATフィールドが、ビームを弾く。
 幾筋もの蛇のようにビームは割れてのたうち、更地となった荒野に消えた。
 かつて建造物であったものが土砂に埋もれ、傾いた頭を除かせ、ひっくり返った家屋がバラバラになって転がっている。
 エヴァンゲリオンの足下は、うっすらとした砂埃に覆われていた。
「カヲル!」
 カヲルはアスカに、弐号機の巨顔に、ありがとうと謝った。
「助かったよ。高い次元……より深いアダムの中に引きずり込まれて一つにされるところだったよ」
 君たちが刺激してくれたおかげで、使徒の意識がそれてくれたと、彼は冗談事のように嘆いた。
「なんの話よ?」
「こっちの話さ」
 カヲルは使徒と同化し、一つのアダムとなり、アダムとして成り代わろうとして失敗した……という話を飲み込んだ。
 どうせいつかはなるのだからと、敵を見る。
 使徒もまたもとの姿に戻っていた。
「僕は彼ほど非常識な存在ではないものでね」
 あちらも同じような真似をしようとしたのだ。うまく行かなくて、なにか思っているのかな? とカヲルは考えた。
 アスカが吼える。
「なにが常識よ! エヴァに乗ってる人間と普通に会話しておいて」
「まあそうなんだけどね」
 いくらエヴァの集音能力があったとしても、戦闘のさなかに人間の呟きを拾えるほどでない。
 同時に、エヴァから外部スピーカーで話しているわけでもなかった。
 カヲルがなんらかの方法で通信に割り込んでいるのだ。
「まあ、防御役は務めるよ。これでバランスを崩せるしね」
 エヴァの頭と同じ高さに位置し、カヲルは弐号機の横に並ぶ。
 アスカは叫んだ。
「初号機は牽制を!」
 峰の向こうより鋼鉄の塊が飛来する。
 放物線を描いて高所より落下する。ドスンと柔らかくなった大地に突き刺さり、姿勢制御用のバーニアを箱の角より噴きだした。
 倒れることなく直立に立つ。
 巨大な箱だった。弐号機に近い大きさがあった。
 弐号機が近寄ると、そのふたが開かれた。
 それはエヴァンゲリオン専用の遠征用武装コンテナであったのだ。
 コンテナより突き出したのは剣の柄であった。弐号機はそれを掴んで引き抜き、駆け出す。
 刀身は片刃で、刃先は白く発光していた。
 他にもコンテナの中にはライフルなどが収められていたが、アスカは刀だけにした。
「どうせ、銃なんて利かないしね」
 駆けながらブンと振るい、上段に持ち上げる。
「アスカ、行きます!」
 弐号機が走り出す。
 一歩、二歩と加速する。
 そして右足で踏み切り、高く飛び、無防備にアスカは斬りつけようとした。
 使徒がわずかに反応する。この反応を潰したのは初号機であった。
 パレットライフルからの弾丸が連続で着弾し、使徒のATフィールドを浮き彫りにする。
 アスカが斬りつける瞬間、いつの間にか弐号機の首元に立ち、左手を装甲の隙間にかけて姿勢を保っていたカヲルが、使徒のATフィールドを中和した。
 中和は完全ではなかったが、弱くなったATフィールドを弐号機のブレードは楽に裂き、本体の左帯を肩口からざっくりと切り取った。
「浅かった!」
「避けられたね。来るよ!」
「この!」
 弐号機が身を捻る。
 使徒の右帯が、左の二の腕をかすめ、血しぶきを飛ばした。
「そう何度もぉ!」
 捻った体をそのまま回転させ……。
「あんたなんかにぃ!」
 横なぎに剣を振るい……。
「切られてたまるもんですかぁああああ!」
 伸びきっている右帯を斬り、使徒の胴部へと刃を食い込ませた。
 胴の半ばまで剣は食い込む。しかしコアには届いていない。
 弐号機は剣から手を離し、勢いのままに転がって距離を取った。
 弐号機を負うように使徒の眼窟から放たれたビームが軌跡を描く。
 地に炎の壁が立つ。
 途切れさせたのは顔面への砲撃であった。
 初号機がロケットバズーカを両肩に担いでいた。
 ミサイルが筒より連続で飛び出し、使徒の顔面に直撃していく。
 爆煙が使徒を押す。
 ユイが叫ぶ。
「非常用電池の予備パックをありったけ打ち出して、早く!」

−Qパート−

「いける?」
 ミサトは時折ノイズで見えなくなる映像に握り拳を作っていた。
 勝てると思える形になっていた。
 しかし直感がざわめいていた。
「こんなものなの?」
 横目にシンジを見る。
 シンジもまた拳を作って、力を込め、見入っていた。
 勝率に期待を持っているようにも、焦っているようにも見える顔をしていた。

−Rパート−

「これなら」
 次のコンテナが飛来し、大地に突き刺さる。
 内部には爆薬が安全なように衝撃吸収装置が設置されている。ハッチが開き、それらから解放された次の武器は、両腕を使って肩に担ぐ大型の砲だった。
 筒を伸ばし、砲の尻は地に着け、片膝を付き、肩に砲身を乗せて、狙いを定める。
 高射砲、あるいは列車砲のようなものを、エヴァが使用できるように改装した兵器であった。
 大砲の全体に青白いスパークが走る。外側は古く見えても、中の仕様は最新であった。
 内部で加速された弾頭が飛ぶ。
 リニアレールキャノンであった。
 弾頭は使徒のATフィールドを貫通し、コアを直撃したかに見えた。
「なっ!?」
 だが半瞬早く、コアは使徒の腹の内へと収納された。
 使徒の下半身がもげた。千切れて散った。
 弾頭に巻き取られるように破裂したのである。
 しかし上半身は無事であった。コアは切断面に吊られていた。
 ──変質する。
「なに、どういう!?」
 使徒の顔である仮面が押しのけられるように肉が盛り上がった。
 仮面を乗せたまま伸びた肉は上下に割れて口腔を覗かせる。
 牙はあったが舌はなく、その奥で光が瞬いた。
 もぎ取れることになった下半身は、千切られた皮がそのまま伸びて地に広がり、不気味なアメーバーの様子を呈していた。
 その背が袋のようにふくらんでいく。それに合わせて口の光が強くなる。
「おばさま下がって!」
 別のコンテナから非常用電池を取り出し、左肩のものを交換していた弐号機は、初号機を救うことができなかった。
 ぶわりと背部が袋のように膨らんだ。
 使徒の口腔より、光があふれ、噴きだした。
 奔流だった。制御されないエネルギーが放出されたのである。
 あふれ出たエネルギーはでたらめにこぼれて落ちる。しかし勢いだけは凄まじく、十キロはあった初号機との距離を無視し、初号機を飲み込んで押し倒した。
 ユイの悲鳴が上がる。
「おばさま!」

 ──シンジは駆け出していた。
「シンジ君!」
 指揮所を飛びだしたシンジの腕を掴み、ミサトは尋ねた。
「どうするつもりなの!」
「初号機の……母さんのところに行きます!」
「どうやって!」
「車くらい運転できます!」
「無茶よ! 到着するまでどれだけかかると思ってるの! 第一、あれだけの戦闘をやってるのよ!? 近づけるわけが」
「だからって、こんなところでじっとしてなんて!」
 そうだと思い出す。
「これが」
 シンジは右手を見せた。そこに乗っているコアを見せる。
「これは?」
「コアです。使徒の」
「これが?」
「カヲル君からもらったものです。これの力で」
 ミサトは眉間にしわを寄せた。
(もらった……ってことは、シンジ君は使徒になったわけじゃないの?)
 コアを取り込んでいるわけではないとわかったが、だからと言って、そう便利なものだろうかと思う。
「それで身は守れるのね?」
「はい」
 どうするかとミサトは悩んだ。
 コアを持っていることを不安に思うべきか。
 シンジを説得するべきか。
 拘束すべきか。
 様々なことを一瞬で思い浮かべ、結局ミサトは……投げ捨てた。
「なら」
 彼女は携帯電話を開いた。
 こんな時、面倒なことを文句なくやらせることのできる手駒は少ない。
 だが彼女にはすでに現地でその手駒を入手していた。
「霧島さん? 頼みたいことがあるの……シンジ君がらみでね」
「葛城さん?」
「霧島さんを使うわ」
「使うって……」
「着いてきて」
 強引に手を取り、彼女はシンジに背を向ける。
 手を繋いだまま、引きずるように歩む。
 シンジは他人を引っ張り出されて、「あの」と問いかけた。
「マナになにをさせるつもりなんですか」
 不安になったのだ。基本的に、シンジは自分勝手な行動は取れても、他人を巻き込むことには慣れていなかった。
 そんなシンジに、ミサトは顔も見ないで口にした。
「連れて行って貰うのよ、初号機のところまでね」
 そんなとシンジは悲鳴を上げた。
「危ないですよ!」
 ミサトはキレた。
 ぶんっと手を振り払って、向き直り、シンジを頭の上から怒鳴り降ろした。
「あたしだって、危ないって思ってるわよ!」
 でもとヒステリックに叫ぶ。
「止めたって、どうせ行くっていうんでしょ!? だったらより確実な方法を取らなくちゃ、意味がないでしょうが! そうでしょう!?」
 シンジは怯えながらも引き下がらなかった。
「だけど、みんなが危ない目に合うことなんてないじゃないですか! ぼくの我が儘で……」
 ぱんっと、ミサトは彼の頬を張った。
 どうしてぶたれたのかわからず、シンジは一瞬惚けた。
「み……葛城、さん?」
 痛み出した頬を押さえてミサトの顔を改めて見ると、彼女の目には涙が浮かんでいた。
 だからシンジは気勢をそがれた。
 意識を涙に奪われた。
「どうして……」
 ミサトは唸るように言った。
「どうしてそうなの……。本当はわたしのこと、ミサトって呼びたいくせに」
 シンジはぐっと詰まった。
「だけど、僕は……」
「あなたはなに!? 人間じゃないとでもいうわけ!?」
「葛城さん……」
「人を、親を心配するのが我が儘だって言うの!? そんな我が儘のために人が死ぬことはない!? 人には死んで欲しくないって言っておいて、あなただって人から死んで欲しくないって思われてるって、どうしてわからないの!」
「だって……」
「だって、なに!?」
「こんなの、ずるいじゃないですか……」
 シンジは本音を漏らす。
「もう一度、なんて、普通はやれないことを僕だけがやってるんだ。それなのに」
 葛城さんはどうなんですかとシンジは言う。
「僕は知ってます。葛城さん……『ミサトさん』のお父さんが、使徒に殺されたんだってこと」
「…………」
「もし、やり直せるのなら」
 ミサトはシンジの口を手で塞いだ。
 そしてゆっくりとかぶりを振ってから、塞いでいた手を離した。
「わたしには……本当に『あの人』が使徒に殺されたのかどうかわからないわ」
「…………」
「ただ、使徒に関わったために死ぬことになった、それだけはわかってる」
 だからと説明する。
「だからネルフに入ったの。そりゃあ父さんを奪う直接の原因になった使徒に憎しみだってある。だけど、その使徒を呼び起こしたのは人間なのよ?」
「だから、ネルフに?」
「そうよ。誰が、なんの目的で、なにを思ったのか知りたかったの。だけど」
「…………」
「父さんは死んだわ。その時、最後の言葉は、すまなかったよ」
「葛城さん……」
「死に際になって、後悔して、すまなかったなんて言われたって、どうしろっていうのよ!?」
 ミサトは感情を解放していく。
「もしやり直せたとしてよ? あんなことにはならなかったとしたら、そんなこと、言ってくれたと思う? あの人が、すまなかったなんて」
 シンジは呆然とした。
「そんな……」
 死ぬ間際だから、死ぬことになるから、別れとなるからこそ、口にされる本音もある。
 ミサトはそう言ってた。
 もし生きていてくれたなら、一生聞けなかった言葉であると。
 だがそれは若いシンジには想像もできない理屈であった。
「やり直すことによって失われてしまうこともあるのなら、わたしはこのまま突き進むわ」
 はっとし、シンジはミサトを見上げた。
 そこには誇らしげな顔がある。
 シンジはミサトから与えられた言葉を思い出していた。
 やり直しては後悔する。
 そして少しずつ前に進むのだという言葉を。
「ミサトさん……」
 ミサトはニッと笑った。
「ようやく戻してくれたわね」
 ああ……とシンジは思う。だがもしここにアレクが居たなら、それは当然だと口にしただろう。
 以前、君とふれあっていた彼女の心、魂は、今はここにあるのだからと。
 彼女はシンジの手を取った。
「エヴァに乗りなさい。あなた自身のためで良い」
 だけどそのための協力は拒ませないと彼女は言った。
「この先、どんなことが待っているかわからない。あなたたちだって、またやり直せるだなんて思ってないんでしょ? だったら今を全力で挑みなさい。それがどんな結果に繋がったって良い。悔やんで、どれだけ悲しむことになったって、取り返しを付けられるはずの時間さえ失って、前に進めなくなるよりはずっとましよ。そうでしょう?」
 ミサトは微笑む。
「わたしたちは、今、手を繋いでいるわ」
「…………」
「あなたが持っているそれが、コアで、コアがあなたの意志に従うものなら、ATフィールドが使えるのなら、どうしてわたしは拒絶されていないの?」
 シンジには答えられなかった。
 そこには本心があったから。
 心の壁を張ることができない、本音があったからだ。
「僕は」
 ミサトは、言わなくて良いと、小さくかぶりを振った。
 すっと身をかがめ、素早く唇を合わせ、だが少しだけゆっくりと間を取ってから、彼女は離れた。
 微笑んだままで、がんばれと……。
「反対はしないわ。やれることをできるだけやりなさい。何度だって逃げ出しても良い。弱音を吐いたって良い! でもその度にわたしは、あなたを……」
 続きの言葉は、二人を見つけたマナの呼ぶ声に遮られた。
 だがシンジにはミサトの言いたいことがわかっていた。
 だから彼は、「行ってきます」とそれだけを言った。そう言うだけですませることができた。
 だから彼女は、「行ってらっしゃい」とそれだけを言った。
 ただそれだけですませることにして、彼女は小さく手を振った。

−Sパート−

 マナは自身の専用機に乗り込んだ。
 先の救出劇で、かなりの故障箇所を抱えてはいるが、大型機械はどこかしらいつも壊れているものだし、レッドラインに達していなければ、だましだまし動かせるものであったから、特に不安は感じなかった。
 シンジを初号機の元へ運ぶ程度のことは簡単なことであった。
 ミサトはこの機体を自身の権限で接収した。
 パイロットごとである。
 上司であり父親でもある霧島から抗議の声が上がったが、なによりも当のパイロットが乗り気では押さえようもなかった。
「ミサトさん」
 無線機からの心配する声に、ミサトは苦笑する。
「どうせ、この戦闘で、わたしは帰る場所を無くしちゃうしね」
「え!?」
「それだけの覚悟でここにきたのよ」
 あなたの味方をするためにね。そう聞こえて、シンジはこみ上げるものを感じた。
「ミサトさん!」
「もう、真実を知ることはできないかもしれない。だけど、時間だけは生まれるわ。わたしにとっての、取り返しの付けられる時間がね」
 なによりも、と。
「取り返しがつかないよりは、ずっとマシよ」
 だから、行ってとミサトは言う。
 シンジは泣きそうな顔をモニタに見せた。
「ありがとうございます!」
 そして切られた通信に、ミサトは、お礼を言わなくちゃならないのは、わたしたちの方なのにねと、口にした。

 アスカは初号機をかばっていた。
 膝を突き、腕に抱くようにしながら、ATフィールドを張って、使徒を睨み付けている。
 ビームは止んでいたが、使徒は唸るように二機を見ていた。
 初号機の装甲は火ぶくれを起こしていた。
 溶解しているのだ。
 中の人間は気を失っていた。
 プラグスーツの生命維持機能によってかろうじて息をしているが、よほどのフィードバックを受けたのだろう、意識を取り戻す様子はなかった。
「かばいながら戦える相手じゃないのに!」
「来るよ」
 ぶくりと袋がふくらむ。
 そしてまた巨大なエネルギーが放出される。
 散布されたそれらは頭上から彼らを襲った。
「ぐぅううう!」
 ATフィールドの傘を張り、アスカは耐える。
 あまりの圧力に押し潰されそうになる。
 その隙を突いて、胴体より伸びた十本以上の触手が横から初号機を狙う。
 これをカヲルのATフィールドが防いだ。
「じり貧だね」
「ここまでなの?」
 アスカが弱音を吐いた時だった。
 轟音が聞こえた。
 思わず振り向いてしまう。

 まるでロケットだった。

「霧島マナ、突貫しまーーーーっす!」
 少々、ハイになっているマナだった。
 スロットル全開で、耐Gスーツも無しに体を前傾にしてしまうほどのノリの良さだった。
 その勢いを体現するかのように、機体はミサイルのように大気を切り裂き突進する。
 シンジはマナの尻の下で目を回していた。
 一人乗りであるこの機体にはコパイロット用のシートなどはなく、一つに二人で座るしかなかったのだ。
 ずがんと……機体は狙い違わず激突した。

 ──エヴァンゲリオンたちに。

「なぁあああああ!?」
 アスカは初号機とマナの機体ごと、一緒くたに転がり団子となった。
 ぽかんとカヲルだけがその場に取り残された。
 はっとする。
 使徒のビームが彼を襲った。
「それはないんじゃないかな!?」
 しかし誰も気にしなかった。
「シンジ、今よ!」
 ……と、逆さになったコクピットでマナは叫んだ。
 良い笑顔だった。
 そして彼女は迷いなくレバーを引いて、ハッチを開いた。
 船首部分が折れて、上方となる部位のカバーが開く。そしてコクピットハッチが解放。
 完全に目を回していたシンジは落ちた。
 機体が逆さになっていたから、ハッチは下を向いていた。

 発令所は無音となっていた。
 なにごとかと思ったところで、機体から落ちたのは元サードチルドレンであった。
 エヴァの外部カメラが捉えた情報に、発令所はようやく騒然となった。
「シンジだと!?」
「戦自の介入か!?」
 司令と副司令の声に、メインモニターに大写しになったミサトが告げた。
「わたしがシンジ君を送りました」
「越権行為だぞ葛城くん!」
「シンジ君はエヴァのパイロットです!」

 落ちたシンジは、幸か不幸か、複雑に絡まり合って初号機の下敷きとなっている弐号機の手のひらの上に落ちていた。
 初号機の脇から伸びて、丁度マナの機体のコクピットの上……下? に来ていたのである。
 それでも頭を打ったらしい。シンジは起き上がりながら、「無茶するなよなぁ……」と毒づいた。
 それでも今がいつで、ここがどこで、自分がなにをするためにいるのか思い出すと、すぐに歩き出した。
 頭を打ったせいか、足下がふらつく。弐号機の指に手をかけて体の支えにして、初号機のエントリープラグの位置を確認する。
 それから、今はまだ動くなよと祈りながら、シンジは初号機に取り着いた。
 必要な手順を行い、エントリープラグを取り出す。
 開閉機構は、運良く使徒のエネルギー攻撃の熱にも壊れずにいてくれた。
 視界の端に、使徒になぶられながらも、こちらから遠ざかろうとしてくれているカヲルのことが映る。
「健気だよね」
 違うか、と口にする。
「ま、いいや。頼むよ、もう少しだけ」
 しかし、エントリープラグの排出と、開いたハッチの中の様子を見て、シンジはカヲルのことを忘れた。
「母さん!」
 もう、呼び方はこだわらなかった。
 揺すり起こそうとして、まずいかと触るのをためらう。
 エントリー状態ではないために司令部との連絡装置が使えない。シンジはユイの腕を取り、プラグスーツの通信機を使用した。
「発令所、聞こえますか?」
「シンジ君なの?」
 出たのはリツコであった。
「はい。母さんは?」
「無事よ。ただ、戦闘はもう無理ね」
「初号機には僕が」
「シンジ」
 割り込みに、びくりと体をこわばらせる。
「父さん」
「なぜそこにいる」
 シンジは、懐かしいなと笑った。
 笑ったことで、力が抜けた。
 だがその笑みは、声だけの通信には乗らないものである。
「僕は……」
 エヴァンゲリオン初号機のパイロットだから。以前はそう口にした記憶があった。
 だが今は、そうじゃない、そういうわけじゃないという思いがあった、だから……。
「『母さん』がやられそうなんだよ!? 黙ってられるわけないじゃないか!」
 微妙な沈黙の後に、そうかと聞こえた。
 ──笑っている風だった。
「初号機はお前に任せる。好きにしろ」
「はい!」
 ありがとうございますと返す。
 シンジは抱きつくようにしてユイの体を持ち上げようとした。
「っと……重いな」
「……しつれ、いね」
「母さん!? 気がついたの?」
 ユイは抱きついていたシンジを引き離すどころか、逆に抱きかかえた。
「母さん?」
「大きくなったわね」
「え……?」
「覚えてる? シンジ……わたしと……」
 気が付く。
(意識が混濁してるんだ)
 ユイは続ける。
「長い間、放っておいてごめんね……」
 シンジはユイの背をあやすように叩いた。
「良いんだ、良いんだよ、母さん」
 ぎゅっと、ユイは抱きしめる力を強くした。
「だけど、わたしも寂しかったの……なのに、本当はあなたは大人で、わたしみたいに寂しく思ってくれていなくて、我慢してもいなかったなんて、そう思ったら……」
 頬をふれあわせる。
「そんなことはないよ。母さんは死んだんだって思ってたんだから、だから……今度もまた甘えることはできないんだなって、がっかりしてたんだから……母さん?」
 今度こそユイは気を失っていた。だがその表情は安堵したものになっていた。
 体を抱き上げ、シンジはエントリープラグを出た。そして弐号機の手のひらに乗せる。
 ぽんぽんと指を叩くと、アスカからの応答なのか、ぴくりと指先が動く。
 シンジは初号機のエントリープラグへと戻り、シートに座った。
 グリップを握り、引く。
 ハッチが閉まり、プラグが挿入される。
 内部がLCLで満たされる。一気に口から空気を吐き出し、電化して映し出された情報を目に入れる。
 第一に耳に触ったのはアスカの含み笑いだった。
「聞こえてたわよ」
「うるさいよ」
「マザコン」
「うるさいっての」
「当然、発令所にも行ってるけどね」
「もう良いって言ってるだろ! 起きるよ」
 エヴァを起こす。慎重に、弐号機の手から母がこぼれないように注意する。
 さらにマナの機体も、背で持ち上げるように押し除ける。
 下になっていた弐号機が抜け出す。母を両手で持つようにした弐号機に、シンジは初号機を頷かせた。
 さらにマナの機体に離れて貰う。こちらはジェットエンジンで機体を持ち上げ、ホバリングして下がった。
 さすがにマナの機体を使徒との戦闘区域に置いておくことは危険すぎた。
 初号機が立ち上がる。カヲルにつられている使徒を見る。
「いつにもまして、知らない形になってるけど」
 左脇の地面に落ちる影が大きくなる。
 そして突き立つようにコンテナが落下し、地震を起こした。
 ガパリとコンテナが口を開く。
 初号機は開いた内部に腕を突っ込み、一本の剣を引き出した。
 マゴロク・エクスターミネート・ソード。日本刀風の武器であった。
 シンジはまぶたを閉じて、すぅっと息を吸った。
 ひとつ溜めてから、ゆっくりと吐く。
 それから目を開く。
 初号機の視界と、自分の視界とが重なっていた。
 シンクロ率を示すゲージが跳ね上がり、ハーモニクスの表示も驚異的な勢いで接続数を増やしていった。
「行くよ!」
 ズン! っと大地を揺らして、エヴァが発進した。
「ぁあああああああああああああ!」
 初号機は刀を脇に構え突撃した。
 第一歩で音速を突破した。大地を踏み抜き、衝撃波で土砂を巻き上げ、使徒に横から、先の弐号機とは逆側から斬りつける。
 どんっと衝撃が輪を描いた。
 その衝撃波に押し流されて、カヲルが半円を描くような軌道で宙を漂い、距離を取らされた。
 今までとは違い真剣な顔つきで彼は初号機の動きを見る。
「だぁ! やぁ! うわぁ!」
 シンジの戦い方はでたらめだった。
 アスカと違い、めちゃくちゃに剣を振るった。

 凄いと言ったのは発令所のマヤだった。

「ソードの先端までATフィールドで覆っています。信じられない」
 だから、刀を棍棒のように振り回していても、折れないのだという。
「接触している物体を体の一部として取り込んでいるの?」
 興味深いわねとリツコが言う。
「これって……」
 不思議と、切羽詰まっていた空気感が消えていた。

 がんっと、シンジは刀の切っ先をATフィールドに突き込んだ。
 両手で柄を握り、押し込む。だがATフィールドはたわみもせず、初号機の足が滑るだけであった。
 押し返されているのである。
 使徒の背部の袋がばさりとめくれ、内部より二本の触手が初号機を強襲した。
 シンジはちらりと横目に見た。
 剣は右手でそのままに、ATフィールドを超えてきた触手を左腕に巻き取り、引っ張った。
 がんっと、ATフィールドに使徒が叩きつけられる。
 切っ先と使徒の顔面が、二次元の壁一枚を隔ててにらみ合う。

「使徒が自分のフィールドに貼り付けになってる? いいえ……見えていたのは使徒のATフィールドだけじゃないの?」
「使徒と初号機のATフィールド、二枚のフィールドが互いに衝突して、壁を形成しています。凄いですよ、これ」
 使徒のATフィールドが初号機の剣を防ぎ、初号機のATフィールドが使徒を空中に貼り付けている。
 シンジは、中和など考えていなかった。
 徹底的に拒絶していた。

「逃がす……もんか」
 ズッと……初号機がすり足で前に出た。
 プラグの内壁に使徒の顔が大写しになる。
 しかしシンジの目は初号機の目と同化していた。だから、その目にはプラグの内壁以上に近い位置に使徒の顔が見えていた。
「僕が、倒す」
 視界の端に、黒い月が映る。
 ミサトの言葉が蘇る。
 シンジは唸るように決意を言う。
「……嫌だ」
 もう誰も。
「失うなんて、そんなの嫌なんだよっ、だから!」
 ──お前なんかに。
「取られてたまるか!」
 取り返しを付けるための……時間を。
 そのためなら。
「なんて言われたって良い!」
 嫌われたとしても。
「なんて思われたって良い!」
 嫌がられたとしても。
「誰も!」
 それでも、誰一人として。
「お前なんかに!」
 好きだと言ってくれた人、好きだと態度で見せてくれた人。
 たくさんの人の顔が思い浮かんで過ぎ去っていく。
 シンジはのどに何かをつかえさせた。
 それはみんなに、一人一人へと伝えたい言葉であった。
「僕は!」
 取り返しの付かない時になって、初めて言える言葉があるように。
 さよならを決めた。
 そのために、取り返しの付かないことになった。
 そんな今だから、思うこともあって。
「綾波にぃっ!」
 ──伝えるんだと。

 弐号機はかく座していた。
 エントリープラグは排出されて、アスカはユイの脇の下に体を入れ、彼女を中へと連れ込もうとしていた。
 だから、彼女は、肉眼で見た。
「なによ、あれ……」

 初号機の足下が、使徒の足下が歪んでいく。
 黒色の同心円が広がって、中心を軸に沈んで行く。
 刀の切っ先がわずかに動く。
 ATフィールドを押し込んだ。

 発令所で悲鳴が上がる。
「プラグの深度が降下、だめです、止まりません!?」
 プラグのイメージ映像にマヤが悲鳴を上げる。
 エントリープラグの中程を超えて、シートが深く移動している。
「すでに次元深度が限界を超えています!」
 リツコは腰が砕けそうになり、ふらふらと下がった。
 どんっと司令塔にぶつかる。
 口元を手で覆い、恐れを隠す。
「そんな……十次元以上もの深みに沈んで、まだ人の形を保っているなんて」
 リツコは戦闘の様子が映っている、メインモニタへと顔を上げた。
「三次元界の生き物であるわたしたちは、一次元ずれただけで今の姿を保ってはいられないのよ? なのに……シンジ君、あなたは……人のままで神の域に手を届かせるつもりなの?」

 アスカはユイをシートの背部へ押し込むと、弐号機を機動させるなり本部へと叫んだ。
「シンジを止めて!」
「アスカ!?」
「シンジの奴、このままじゃ、また!」

 ──耳が遠くなっていく。
 いや、轟音が聞こえる。それは三次元の器が別の次元の存在を無理に聴覚で取り込もうとしているために起こっている現象だった。
 視覚もだ。なにが見えているのかわからなくなっていく。
 肉など捨ててしまえばいいと聞こえる。
 今に見合う力で捉えればいいと聞こえる。
 捉えられるようになればいいと聞こえる。
 だがシンジは聞き入れなかった。
 これは『自分』の意思でやることだから。
 これは『自分』というものの猛りであるから。
 これは『自分』という形の求めることであるから。
 これは『自分』がやろうとしていることであるのだから。
 ──だから。
(おまえが!)
 プラグの中が赤を通り越し黒くなっていく。
 シンジの眼光だけが取り残されて赤を残す。
 いや、一つだけ、彼以外に赤を見せるものがあった。
 シンジの、シンジであったのもののズボンの右のポケット。その辺りの位置での発光だった。
 ──コアである。
 ざわざわと、ざわざわと、コアはシンジを浸食する。
 赤い葉脈が腰から伸びて、足先へと、そして上半身へと広がっていく。
 その光がシンジという肉の形を浮き彫りにし、彼の目に……爛々と赤く輝く眼球へと達しようとした瞬間……。
「邪魔を!」
 ──するな!
 叫びに葉脈は弾けて散った。
 シンジに拒絶され、彼の身から剥がれ落ちた。
 水を差すなとシンジは叫んだ。
 自分が戦っているのだからと。
 割り込んでくるなと叫んだのだ。
 手を出すなと拒否したのだ。
 拒絶されたコアが、アダムの因子が、滅んでいく。
 膝下まで、地面よりも沈んだ黒いすり鉢の中で、初号機がその一歩を前に出した。
 そのように声を荒げた瞬間、シンジの意識はより鮮烈に尖っていた。
 その尖りはATフィールドに繁栄されて、壁を破っていた。
 刀の切っ先が、ぶつりとフィールドに切れ目を入れていた。
「成った!」
 カヲルが叫んだ。
 裂け目は一瞬で広がった。それは人が感知できないほどの瞬間のことだった。
 隙間からは世界が溢れた。あるいは時間であり、空間であった。
 刹那の時、シンジはその波に飲み込まれ、この世界から姿を消していた。
 世界という名前の波は、彼の闇を払い、生の魂だけをそこに残していた。

−Tパート−

 はっとする。
「ここは」
 世界は金色の浅瀬に覆われていた。
 空も金色の光に包まれていた。
 影が差す。人の顔だった。
「ここは世界よ」
「綾波……」
 彼女がのぞき込んできていた。
「ここはあなたの望んだ世界。あなたが望む世界そのものよ」
 上下が逆さまである。ああ、膝枕をされているんだと、シンジは思った。
 黄金の世界に風が吹き、金を払い、色を付ける。
 空には月と太陽があって青く染まり、雲が流れる。
 地には街があり人が溢れている光景が映されていた。
「ここが?」
 シンジは思った。
 いや、わかった。
「だけどここには、誰もいないじゃないか……」
 今のシンジにはわかってしまうのだった。
 その世界には誰もいないと。
 魂のない抜け殻ばかりであるとわかるのだ。
 覇気のない、くたびれた人たちが、無為に時を過ごしているだけに見える。
 だがそれは当然だった。魂が……命の輝きが欠けているのだから。
 そして気付く。
「なんで笑ってんだよ」
「また、同じことを言うから」
 ああと思い出す。
「そうだ、僕は」
 以前にもここに来て、同じような問答をしたことを思い出した。
 その時に、どう答えたかもだ。
「ここには誰もいない。あなただけよ」
 シンジは右手を伸ばした。掲げるように。
「いいや、違う、君がいるよ」
 レイはその手を両手で包むように受けとめた。
「わたしはあなた。あなたが望むように色を変えるわ」
 前のめりになった彼女と上下を入れ替え、組み伏せているような体勢になる。
「だけどこれは、君を犯すようなものじゃないか」
 レイはじっとシンジを見上げる。
「でもそれがわたしの望みだわ」
 それは過去にあった光景を思わせた。
 初めて彼女の部屋に行って、間違って押し倒してしまったときの姿をだ。
「僕の好きにしたいんじゃない」
 しかし、その時と違って、レイは拒まない。
「あなたの好きにして良いのよ?」
「でもそんなの、むなしいだけじゃないか」
 今ならわかる。
『あの世界』には、この世の全ての存在が集約されているのだと。
 いま、人は、本当の意味で、手を繋ぎ、ぬくもりを感じあえる位置にいるのだとわかる。
「綾波……」
 組み伏せていると思っていた手は、互いに指を絡め合っていた。
 じっと彼女と見つめ合う。
 かつて命がけで自分を守ってくれた綾波レイ。
 そのレイがわずかに手に力を入れる。
 いつか彼女を助けるために負った火傷。焼けたエントリープラグのハンドルを握ったためにできた手のひらの皮の堅さが戻ってきていた。
「『ここ』に居たんだ」
 ようやくの実感であった。
「最初から、そう言っていたはずよ」
「ならなんでこんなところに居るんだよ……あんなところに居たんだよ!」
 シンジとアスカは、人の……魂の去った世界に取り残されていた。
 そして綾波レイが居たのは、人の集っている世界であった。
 自分たちが行かなければ、彼女はそこで?
「自分にとって都合の良い世界ってわけでもないだろうにさ」
 レイ越しに、魂もなく、営みを行う人々を見る。
 サードインパクトによって、人の魂が一つどころに集められているのなら、それ以外に存在している世界には、本物は存在していないことになる。
 ただ動いているだけ、生きているように見えるだけの魂のない人々、生き物たちがうごめく世界。
 そんなものに、どれだけの価値があるのだろうか?
 知っていなければ耐えられるかもしれない。
 真実を知らなければ、魂など目には見えないのだから。
 だが綾波レイはリリスでもある。
 彼女には本物がわかってしまう。
 シンジは想像し、身震いする。
「僕たちが使徒にやられたらどうするつもりだったのさ」
 一人だけあの世界から飛び出していても。
「どこかの世界に流れ着いたって」
 どこに行っても、一人きりで。
「そんなのって、むなしすぎるじゃないか」
 それでもその世界で生き延びるためには、魂のない人形を相手に、自分という存在の役割を果たし続けなければならない。
 けれど、と、レイは口にする。
 笑みさえ浮かべて。
「あなたは、来てくれたわ」
「綾波……」
「あなたが、望んだことよ」
「他人を……?」
「愛されたいって」
 そうだけど、と口にする。
「一人じゃ駄目なんだよ、それは」
「他人が要るの?」
「傷つけられるとしても」
「嫌われるとしても?」
「側にいて欲しいんだ」
「わたしに?」
「みんなにだよ!」
「欲張りなのね」
「悪いのかよ! 一人でも、二人でも嫌なんだよ! みんなと一緒にいたいんだ! 温もりが欲しいんだよ! 綾波とだって!」
「贅沢なのね」
 手のひらを合わせ、指を絡める。
「二人っきりじゃ嫌だ。それが君の望んでる答えじゃなくても、君を傷つける、君に嫌われる答えだとしても、僕は帰るよ……君と一緒に。君を連れて」
「碇君……」
「傷つけて嫌われたって良いさ! どんなに苦しめることになったって、君がいなくなるよりは良いよ! 僕は、君を」
 レイの顔が押し迫る。
 上半身を起こしたレイが唇を奪う。
 吐息がかかる程度にだけ離れたレイは、仏頂面で口にする。
「身勝手ね」
「ごめん」
「謝らないで」
「でも謝りたいんだ」
「どうして?」
「謝りたいってことは、許して欲しいって、どこにも行かないで欲しいって、そう思ってるってことなんじゃないのかな? だから」
 ああ、と……。
 シンジは自身の本心に気付き笑った。
「なにを笑っているの?」
「ミサトさんの言ったとおりだって思ったんだ。ここまで追い詰められなきゃ、気付けないこととか、言えないこととかあるんだなって、そう思ったんだ」
「なに?」
 シンジは笑って言った。言ってやった。
「好きってことをさ」
 再び唇を重ねた瞬間──レイの唇によって押されるような力を味わったとき、シンジはどっと背中に衝撃を覚えたのであった。
 それは肉の身が荷重によって覚えた痛みであった。
 ぶつかったものはエントリープラグの背もたれだった。
 そして自分の体を押しつけているのは人の体だった。
 小振りの胸が、シンジの口元を押し上げるように挟んでいた。
 肉であり、肌であった。
 鼻と口を塞ぎ、柔肉は眼球に当たっていた。
「この!」
 初号機の身を捻らせる。
 刀の裂いたATフィールドの隙間より、使徒が光線を発射したからだ。
 仮面の正面から放たれたビームが、地を転がる初号機を追うように流れ、炎の柱を吹き上げる。

−Uパート−

 発令所は混乱に陥っていた。
「エントリープラグは、シンジ君はどうなの!?」
「通信回復。パイロットの反応を確認! ふたりいます! ……これって」
 マヤは喜色を浮かべ、悲鳴を上げた。
「サードチルドレンとファーストチルドレンです!?」
「レイが!?」

 裸身のレイは、碇君……と、シンジの頭をかき抱いた。
 シンジの視界はレイによって奪われているが、初号機とダイレクトに繋がり、機体の目で視ているシンジには、妨げとは成らなかった。
 シンジの頭越しの位置、レイの目前を、なにか、筋のようなものが漂った。それはエントリープラグのLCL循環器へと吸い込まれようとしているコアの残滓であった。
 すぅっとLCLを吸い、レイはそれをぱくりと咥え、飲み下した。
 うえ、と、小さく嘔吐く。
「おいしくないのね」
 シンジの顎先、レイの胸の奥で、トクンと小さく、だが響く音がした。

 発令所にて、何度目かの悲鳴が上がる。
「初号機に高エネルギーの発生を確認! 発生源は……エントリープラグです!」
「エントリープラグから供給って……」
 弐号機でのことが思い出される。
「レイなの!?」

 レイはシンジの腰の上に、横座りに姿勢を変えた。
 彼の首に腕を回し、甘えるように頭を首元に預け、共に使徒を睨み付ける。
 彼女の頭の後ろにある電力カウンターのゲージは、残り時間が無制限と切り替わっていた。

 カヲルは、ここまでとはと口にする。
「時間も空間も超えて、存在を引き寄せるだけじゃなく、自らの望む形に変えてしまうのか、君は」
 いいや、そうじゃないと言い直す。
「望む形を手にするために、どこまでも突き抜ける。そういうことなんだね」
 それは当たり前の結論であったが、カヲル──使徒にとっては、斬新な答えであった。

 レイは言う。
「たとえここで倒したとしても」
 わかってるとシンジは答える。
「器を壊すだけで終わることになる」
 ここで使徒を倒したとしても、その使徒はまたどこか別の時間、空間に現れる。
「だから!」
 刀の柄と峰に手を添え、横向けに突き出す。
 ATフィールドが刃より発生し、放射された波動が使徒の動きを鈍らせる。
 使徒のATフィールドが視覚化される。それは何重もの厚みを持った姿をしていた。中心は厚く、裾野ほど薄く、広い。それは球の形が断層として見えているからであろう。
 だが広がるように発生していた干渉光が、初号機の当てたフィールドによって反転し、中心に向かって収束を開始した。
 見た者には、理解ができなかった。
 衝突点から広がっていた波紋の動きが逆転した。ATフィールドの内側、使徒が、その流れにたぐり寄せられるように、めくれるように、裏返っていく。
 だが裏返りながらも、結局は元の姿をしているのだ。しかしカメラ越しにでも彼らは感じていた。
 存在感が増していると。
「そんな!?」
 リツコが青ざめて悲鳴を上げた。
 マヤを半分押しのけて、戦略自衛隊……時田システムから送られてきている数値を前に、信じられないと思わずこぼす。
「この値、次元を超えてたぐり寄せているというの!?」
「どういうことですか?」
「次元は距離のようなものと考えることもできるのよ。そして一つの存在がたぐり寄せられる範囲がひとつの次元。いま、一瞬見えたATフィールド、何重にも層があったわ」
「じゃあ……」
「ええ……」
 リツコは身を起こし、主モニターを見る。
「初号機……シンジ君は、使徒……という可能性をここに集約し、倒すことで、全てを閉ざすつもりだわ」

 しかしその動きに対しどこかの闇がうごめいた。
「いかんな」
「これは、この流れは、我々の希望を閉ざす」
「碇の計画でも無かろう、これは」

「いくよ」
「ええ」
 初号機が飛びかかる。
 駆けるでもなく、走るでもない。
 くんと足を沈ませて、両足で地を踏み切り飛びかかった。
 一回転し、足から使徒へ、使徒の張るATフィールドへとぶつかった。
 強引に『可能性』を集約させられている使徒は、身動きが取れなくなっていた。
 自己進化能力が可能性に適合するため、形状を整えようとしているのだろう。
 第三、四、五と、見たことのある形が、部位が、足や腹、頭などが、使徒の下部、覆いとなって垂れていた幕の内側よりぼこぼことふくらみ、現れ、変化し、整形されている。
 それは命を抱えている腹のようでもあった。子が腹を蹴り、自身の形状を外の世界へと表しているかのようでもあった。
 そんな状態であっても、ATフィールドは健在である。
 シンジは、初号機は、ATフィールドを蹴って地に降りると、今度は肩から突進した。
 大きな質量を持った物体の衝突に、使徒ははじき飛ばされ、わずかに浮いて、後退し、地に落ちる。

「だめなの?」
 ミサトである。
 彼女は初号機がこれまでになく強い力を発揮していると感じていた。
 それでも使徒のATフィールドは強すぎるようであった。
「全戦力に協力を頼んで。わずかでもATフィールドのエネルギーを削って」
 通信機へ怒鳴る。
「リツコ!」
「なに?」
「コードXXX(トリプル)を」
 リツコは息を飲んだ。
「ミサト……あなた」
 ミサトは不敵に微笑んだ。
「これが終わったら、あたしは免職なんでしょ? だったら今持ってる権限、全て使い切らせて貰うわ!」

 ため息をこぼしたリツコに、マヤが不安げに「先輩?」と問いかける。
 リツコは司令塔を振り仰いだ。
「かまいませんね?」
 むろんだとゲンドウが応じる。
「ネルフの全ては使徒の殲滅のためにある。好きにしろ」
「はい」
 言質は取ったとリツコは思った。
(貸し一つよ)
 これでコードXXXの使用は、ミサトではなくゲンドウの責任となるのだから。
「コードXXXの使用を承認します」
 あたし、こんなコード知らない……とマヤが不安を口にする。
 そしてミサトへと返信を入れようとして、マヤは「あれ?」と不思議に思った。
「通じない?」

−Vパート−

「なにこれ?」
 アスカは戸惑った。
 正面にXXXの文字が急に現れたからだ。
 どうしたものかと困っていると、背後からうめき声が聞こえた。
「承認を……」
「おばさま!?」
「そうすればわかるわ」
「……はい!」
 アスカが表示に触れると、三つのコンテナが射出された。
 一つはエヴァよりも大きかった。眼前に落ち立ったものに、どうやって打ち出したのかとアスカは慄然とする。
 さらに二つ、大きなコンテナの前に落ちる。
 正面のコンテナが開いた。中にはエヴァのための整備施設のような張り組みで埋め尽くされていた。
 入ってとユイに口にされ、アスカは迷いながらも内部に入る。コンテナが閉じ、震動とはめ込むような音がして、ややあってコンテナは前後左右に亀裂が入った。
 外壁が壊れ、封印が解除される。
 壁が倒れ落ちた時、そこには真紅の増加装甲……甲冑を身につけた弐号機の姿があった。
 さらに二つのコンテナが開く。
 片側はエヴァの身長に近い大きさの、塔の形をした盾が、もう一方には棒が支持されていた。
 盾を取り、棒を引き抜く。
 棒は柄を残して前方が円錐となっていた。錐が伸び、突撃槍となる。
「これは」
「対使徒専用単独殲滅用兵装・コードXXXよ」
 さらに後部にあった、外套のようなパーツがY字型に展開される。
「軽く衝撃を受けるわよ」
「え? きゃあ!」
 街の外より飛来したビームが、弐号機を背部から直撃した。
 だが衝撃のみで破損はなく、減少していたエネルギーゲージが、数秒でフルチャージまで回復した。
「これって!」
 信じられないと悲鳴を上げるアスカに、どこか自信ありげにユイは解説した。
「レーザー発振器による、エネルギー供給システムよ」
「無線供給!? 完成したんですか!?」
「肝心の発振器側が有線だけどね」
 エヴァに増設している非常用電池での戦闘が行われている以上、電源車両は不要のはずであった。
 それがこの地へと持ち込まれていたのは、車体ほどの大きさもあるパラボラアンテナを展開している、レーザー車両へとエネルギーを供給するためであったのだ。
 アスカは手応えを感じた。
「いける!」
「この兵装には、ATフィールド偏向器が搭載されているわ」
 盾の裏には防御用とは思えない機械が内蔵のような腹を見せていた。
 偏向器は、槍と鎧にもあるという。
「マニュアルを呼び出して」
「はい!」

−Wパート−

「どいてどいてどいてぇ!」
「え? なぁ!?」
 初号機が脇へと避けると、地を引きずるように足を浮かせた弐号機が、突撃槍を構えてATフィールドへと激突した。
 弐号機が叩きつけた運動エネルギーが、ATフィールドによって完全に受けとめられ、それは衝撃波となって大地を振るわし、津波となって広がっていった。
 槍はフィールドに対して直角に突き立ったまま、ぎりぎりと押しても食い込まない。
 弐号機の足は浮いたままだ。偏向器は弐号機のフィールドに作用して、前方へと進む力に変えている。
「あたしの力じゃだめだっての……?」
「盾を前に」
 ユイが痛みを堪えてアスカに伝える。
「モードDを」
「これ?」
 弐号機が足を付く。
 そして盾を使徒の持つATフィールドへ叩きつけ、先端部を地に落とす。
「モードD……これか!」
 盾の外装が十字に開く。
 突然、アスカは、弐号機は盾から弾かれた。
 だがアスカは焦ったのも一瞬で、どういう状況なのか理解した。
「偏向器!」
 盾に搭載されていた偏向器は、同調先を弐号機から使徒へと変更していた。つまり。
「これで!」
 使徒と同調した偏向器は使徒の一部ともなっていた。
 中和でも侵食でもなく、同化したのである。
 そして開いた盾の中央には穴が開いていた。
 武器を通すための穴であった。
 弐号機が盾から一歩下がって槍を脇に引いた。
「いやぁああああああ!」
 気合いがほとばしる。
 槍の手元、柄との繋がりとなる傘の部分でジェットエンジンが点火された。
 ノズルはわずかに傾斜が付けられていた。これが槍に回転力を生んで、まるでドリルのように穂先を回す。
 槍は盾の中央の穴を通り、使徒へと突き刺さった。
 この槍にもまた偏向器が搭載されていた。穂先が折れぬよう、アスカは偏向器を用いてATフィールドによる強化を行っていたのだが、さらに運動エネルギーへと転換するようにも操作した。
 槍は使徒の右目を貫いた。
 深々と突き刺さり、さらにジェットの後押しを受けて、えぐりながら使徒の体内へと潜り込んでいく。
 ──カッと。
 槍がふくらみ、爆発した。内蔵してあったN2爆弾を起爆したのだ。
 高熱の放射と使徒の血肉をATフィールドで受けながら、アスカの乗る弐号機は炎の中をひたすらに耐えた。
 火が去り、黒煙が漂う。
 アスカは「ちっ」と舌打ちして弐号機をホバリングさせた。レイがおらずとも、このような機動を可能とするのが偏向器であった。
 だが偏向器はもう、本体の鎧に装着されている、小型の一機のみである。
「アスカちゃん」
「まだです」
 煙が薄らいでいく。その中で使徒がうごめいていた。
 いや、そうではなく。肉の袋が破け、火にあぶられて踊っていた。
 その皮を内側から脱皮するように、押しのけて、内側のものが姿を見せる。
 背中から上半身を起こし、立ち上がる。
 人型、胸に赤い玉、そして背に幾枚かの羽根。
 羽根は翼のようであり、あるいは立ち上る力の現れそのものでもあるようであった。二つの柱からこぼれ落ちるエネルギーが、次の二枚の形を作るようでもあり……。
 あるいは体の節々よりあふれ出るものが、噴きだしているかのようでもあった。

「そんな……」
 ミサトが恐れから一歩下がり、がくんと腰を抜かしてその場に尻餅をついた。

 発令所でも恐怖と驚愕から声が奪われている。
 碇ゲンドウと冬月コウゾウのみが、声を発する胆力を持っていた。
「碇、これは」
「ああ」
 碇ユイが口にする。
「最初の人間、第一の使徒、アダム!」
 まずいとリツコが叫ぶ。
「ただの使徒と違うのよ。アダムはセカンドインパクトを……地上の命を全て吸い上げることができるわ!」

−Xパート−

 アスカは無理に前に出ようとして、ようやく自分が震えていることに気がついた。
 体がこわばってしまっていた。グリップから手を離すことができないほど力を込めてしまっていた。
「怯えてる? あたしが?」
 まあ、当然かと納得する。
 そこに現れたものから感じるものは、肉体、痛みというものから連想できる恐怖では語れないものを発散している。
 それは、人が決して逆らってはならない存在であるからだろう。
「父なる存在。始祖。潜在的な……」
 だが同時に、アスカの口元は笑っていた。
 獰猛に、これ以上と無く、不敵にだ。
「シンジ」
「なに?」
「悪かったわね」
「なにが?」
「ここに、この世界へ飛ぶって決めたのはあたしなのに、あんたに押しつけるような感じになっちゃってたじゃない。なのに謝ってなかったなってさ」
「なにをいまさら」
 シンジの乗る初号機は体から力を抜いていた。
 リラックスしているようにも見える。
「わかったことが一つだけあるよ」
「なによ?」
「やっぱり、君を守ってたのは僕で、僕を救ってくれたのは君だったってことさ」
「は?」
「世界には、無数の僕たちがいるんだ。だけど魂は一つで、不完全な僕たちは、その世界を知らない間に行き来してた」
「それって、自分を救ってくれそうな相手の居るところに行ってたって……」
「違うよ」
「どう違うのよ」
「救ってくれそうな人のところに行くなんて、前向きなこと、僕たちができるわけがないだろう?」
 だからシンジは笑って言った。
「僕たちは、助けてくれそうな人が来てくれるまで、待ってることしかできないような人間じゃないか」
「だったら……」
「それに、あの場所からは、どこにも行くことができなくて、結局綾波を頼ったじゃないか」
「そうだけど」
「捕まえてたんだよ、僕たちは、自分たちの可能性を。それを引き寄せてたんだ。だけど意識してなかったから、そんな真似ができてるだなんて気付いてなかったんだ」
「そんな都合の良い話があるの?」
「ないかもね」
「あのねぇ」
「でも、これだけは言えるよ……もし僕たちがそんな都合の良い相手のいるところに飛んだって、その先に居た僕たちには僕たち自身は宿ってない。そんな魂の……心のこもってない奴を相手に慰められるほど、僕たちは鈍くはないよ。そうだろう?」
「じゃあ、もし、そんな都合の良い相手のいるところに行っちゃってても?」
「その先にも間違いなく僕たちは居たんだよ」
「ほんと、都合が良すぎない?」
「証明なんてできないさ。それこそもう、『過去のこと』なんだからさ」
「そうね」
「悪かったよ。変に拗ねてさ、傷つけて。本当はちゃんと、目の前でうじうじされてるのが嫌だからって、慰められる、元気を付けてやれるような人間になって、助けてくれていたって言うのにさ」
「誠意が足りないんじゃない?」
「謝るくらいじゃすまないって、わかってるけどさ」
「そういうこと言ってんじゃないわよ」
「じゃあ、どうすればいいんだよ?」
「その前に、自分を見ろっての」
「え?」
「あんたなにやってんのよ?」
 シンジはつと、下を見た。
 レイがいた。
 素っ裸で、抱きついて、小首をかしげて、自分のことをじっと見ていた。
 彼女の小さな唇から、とがった顎、そして白い喉、鎖骨、胸の谷間と下りて、その下のおへそから……。
 ばっと上を向く。
「ばかシンジが……」
 唸るような声だった。
「女抱きながら謝るって、良い度胸してるじゃない」
「い、いや、そういうつもりは」
「ほほぅ? じゃ、どういうつもりで?」
「いや、だから、あの」
 シンジが下手なことを言う前に、レイが彼の首に回している腕に力を込めた。
 ぐっと引っ張り、口づけする。
 アスカは驚くほど……怒れなかった。ただ、呆れた。
「来るわよ」
(嫌いになったんじゃなくて……)
 落ち着いたんだなと自身で感じた。
 ゆらゆらと、ゆらゆらと。
 翼を揺らめかせていた使徒が顔を上げる。
 背の羽根が急速に縮み、使徒の内側へと消え去った。
 それはあるいは、エネルギーの放出が閉じられたためにそう見えただけなのかもしれなかった。
 使徒は右腕を持ち上げた。大きく右に引き、前に振るう。
「カヲル君!」
 シンジは狙いを悟って叫んだが、遅かった。
 そもそもカヲルは避けようとしていなかった。
 使徒は姿を隠すでもなく、空を漂っていたカヲルへと、蛇のように光る腕を伸ばすと、彼を捕まえて、引き寄せた。
 彼を眼前に持ち上げ、じっと見つめる。
「これも定めか」
「なにやってんのよ!」
 アスカが斬りつける。盾の内側より小剣を引き抜き、突くように。
 ATフィールドが光り輝く。
 カヲルは振り向き、弐号機と……その奥に立つ初号機に微笑んだ。
 ばくんと……。
 光の使徒は、彼を自身の拳ごと食らった。
「カヲル!」
 アスカが悲鳴を上げる。
 しかしシンジは静かに目を伏せただけだった。
「シンジ!」
 アスカは叱責し、だが、顔を上げたシンジの表情を見て、言葉を失った。
「あんた、こうなることを知って……」
「うん」
「あんた!」
「きっと、こういうことになるんだろうなって、思ってた」
 シンジは空を見る。
「これが、僕と、カヲル君との……」
 同じようにレイも見る。
 あるいはシンジと初号機がそうであるように、レイも今はシンジとシンクロしているのかもしれなかった。
 レイがシンジの代わりに手を伸ばす。
 初号機が空へと手を伸ばす。
 そこに浮かんでいる黒き月へと手を伸ばす。
 そして二人は引き寄せた。
 空のよどみはねじれて歪みとなり、赤黒く色を変えて細くなり、初号機の眼前へと光速で打ち込まれた。
 地響きを起こし突き立ったそれに、アスカが悲鳴のような声を放つ。
「ロンギヌスの……槍!」
 初号機は突き立った二叉の槍を引き抜いた。
 両手で持ち、右の脇に構える。
 アスカは自分の体を両手で抱いた。
 背筋が寒くなる。レプリカとはいえ、同じものに蹂躙された記憶があるからだ。
「あんた、あたしの前で、そんなものを!」
「使うさ」
 よく見れば、槍の先からは黒い炎のようなものが立ち上っていた。
 それは怨霊のようにも見える揺らぎだった。
「このときのために、綾波は零号機を槍に変えてくれたんだから」
 ええとレイが語る。
「零号機は消えたわけではないわ。ただ飛び続けていただけ、遠くへと」
 空間を切り開いて飛び続け、そのホールが月のように見えていただけだという。
「碇君は遠ざかり続けていた零号機を引き戻したの……使徒という可能性を貫きながら飛んでいた零号機を」
 見て、と言う。黒々とした槍を。
「使徒の血にまみれた零号機は、使徒殺しとなったわ」
 アスカが悲鳴を上げた。
「自己進化!? エヴァを、使徒を倒す、そのためのものに、それだけのものに特化させたの!?」
「可能性とは、こういうものだから」

 それでもと使徒が口を開く。

「それだけで僕を倒せるとは思ってないよね」
 使徒を成している光が揺らぐ。
 どこか人を……渚カヲル思わせる窪みと盛り上がりが顔に生まれ、頭髪のように頭上の光が揺らぎ出す。
「さあシンジ君、約束の時だ」
 使徒は背筋を伸ばす。
 そして光線を放った。シンジは槍でこれを受けて弾いたが、弐号機はそうもいかなかった。
「アスカ!」
「くっ!」
 エントリープラグが射出される。
 わずかな差を持って、弐号機が内側より破裂するように炎を噴きだして爆発した。
「カヲル君!」
 光が揺らめいている。まるで体を揺すり、笑っているかのようだった。
「また、あの時を繰り返すのかと君は言ったね? そして僕はそうだと答えた。今がその時だよ」
「カヲル君」
「今更僕を貫けないだなんて、言わないよね?」
「運命なんて信じないけど」
「生きることと、死ぬこと。この二つを選べる僕は異質なのさ」
「生き物は、死ねるべきなんだよ、きっと!」
「次に繋がる。それはきっと美しいことなんだろうね……期待し、希望を抱き、そして伝える。夢。その言葉だけで信じて生きていける。信じて死ねる。思い描き、託して逝ける。恥ずべきものとはならぬように、それを磨いて手渡そうとする。だからこそ、君たちは強く、たくましく、美しく、育つんだ」
「でも君は一人だ」
「だからこそ、むなしいのさ」
 手を伸ばし、手のひらを上にして、手首を曲げる。
 自分の手のひらを遠くに見た。
「一人で進んで、一人で得て、それがなんになるというんだろうか? むなしいんだ」
「だから、断ち切って欲しいんだね?」
「だから、君の手にかかりたいのさ」
 君こそがとカヲルは……アダムは前に出る。
「自らの意思で、力で、誰かのために成すと、誰かのために成ると踏み出した君こそが、僕の、僕たちの後継者にふさわしい。あとは証明を」
「それは、リリスの子供が抱く感情だよ。アダムの子が持つものじゃない!」
「行き着いてしまったのさ。アダムと使徒は、究極に。そしてどこかで間違えたんだ。やり直しが利かないほどに」
「だからって、僕は君の、君たちの代わりにいるんじゃない!」
「違うよ、君たちが、僕たちの代わりになるんだ」
「でもそんなことが言いたいんじゃないだろう!?」
 ああ……と、カヲルは歓喜する。
「助けてよ、シンジ君」
 シンジは、初号機は首肯する。
「行くよ、カヲル君」
「行くよ、シンジ君」
 二者は踏みだし、ぶつかった。

 爆発した、と、アスカは錯覚した。

 だが次には初号機とアダムは消えていた。
 地面に突き立ったプラグから這いだしたところであった。死んだかと思ったが、そういうことはなかった。
「どこに!?」
「空よ」
 ユイの言葉に振り仰ぐ。
「な、あ!?」
 空に飛んだのではない。
 空一面に、初号機とアダムの姿があった。
 初号機が槍を振るい、アダムのATフィールドを切り裂く。
 その隙間からアダムの閃光が初号機を打つ。
 これを初号機が左手のナイフで弾く。
 その隙を突いたアダムの右手が蛇のように伸びて、初号機の喉を掴む。
 初号機が苦し紛れに槍を突き出す。
 腹部に槍を受けたアダムを成す構成物質が、球状にえぐれて消失する。
 それでもアダムは手を離さない。
 この腕を初号機はナイフで切り飛ばした。
 アダムは下がりながら損傷の修復を計る。小さな筋の光が欠損部位を上下に走って繋ぎ、埋めていく。
「なんなの、あれ」
「別の次元、別の空間で戦っているのよ。わたしたちにはそれが見えているんだわ」
「なんで!?」
「見せているのよ。どちらかが、あるいは両方が」
「シンジ……」
 アスカは再び思った。
「あたしのわがまま、勝手が、なんでこんなことになるのよ」
 アスカはミサトを呼び出し、迎えをよこさせようとした。
「通じない?」
 ここでも、通信が切られていた。

−Yパート−

「一人じゃなくてよかったよ」
 シンジと共に、レイが居る。
「わたしはわたしで良いの?」
「君が僕になる必要はないよ。他の誰かにもならなくていい」
「あなたはわたしを望むの?」
「綾波を助けようって思った。助けたいって思ったんだ。それは、綾波が居なくちゃ嫌なんだってことだろ?」
「うれしい?」
「うれしいよ。勝手でごめん。綾波に死んで欲しくないとか、綾波に生きてて欲しいとか、幸せになって貰いたいとか、ちっとも考えてないんだ。ただ、綾波がいないと嫌なだけなんだ」
「碇君……」
 レイは彼にしがみつき、そしてアダムを見た。
「戻れなくても良いのね?」
「いつかは戻るさ。戻れる可能性がある限りね」
「アダム……使徒は無限の可能性の塊。それを模索しながら形状を求める生命体」
「つまり、進化する生き物だってことだろ?」
「リリンは、無限の可能性を模索する生き物。固まることなく広がる生き物」
「進化じゃなく、進歩するってことだよね」
「進化と進歩は、似て非なるものよ。進化は、必要に応じて行われるものだもの。だけど進歩は、想像力がある限り、どこまでも物事を先取りしていくことができるから」
「先手を打てって言ってるの?」
「あなたが倒れても、あなたに続くものに、それは引き継がれていくわ。リリンは、進化と進歩、その双方を持った生き物だから」
 見て、という。
「あれって……」
 地上での出来事である。
 霧島が吼えていた。
 ──ネルフの職員を拘束しろだと!? このタイミングでか!
「始まったのか」
 ──お父さん!
 マナの機体がネルフの側に立ち、ネルフの車両団を取り囲む戦略自衛隊の重機ロボたちを牽制している。
 ──わたしがここにいるって。
 マユミがミサトに訴えている。国連に伝えろと。しかし通信は全て遮断されてしまっていた。
 ──こんなことをしてる場合じゃないってのに!
 ミサトが毒づいている。
「やっぱり、こうなるのか」
「そうね」
「どうしてなんだよ、どうして」
「人は一代では変われないもの」
「だったら、どうしろっていうんだよ」
「アダムを」
「だけど」
「最悪でも、あなたは時間を稼げるわ。リリンが再び使徒と、アダムと事を構えられるようになるだけの時間を」
「だけど、それは最悪だよ」
「ええ」
 レイはついばむように、シンジの喉に唇をつけた。
 そこに跡を残して、再びシンジを見上げる。
「わたしは、もっとこうしたい」
「僕だって、これで死んで、もっと楽しいことがあったんだろうな、なんて、嫌だよ」
「なら」
「うん」
「あの人たちに見せてあげて。あなたは正しいって」
「誰にために戦ってるのか、見せてやるよ」
「きっと、皆は釘付けになって、知るわ」
「誰が正しいのかってさ!」
 シンジには、アダムが笑っているように思えた。
 まるで、カヲルが笑っているように感じられたのだ。こんな時にと。そして、お邪魔虫だと、そんな理由で僕は消されようとしているんだねと。
 その理由に納得してくれているようにシンジには思えた。
「アダムは道を究め個となるもの。だけどリリンは道を求め紡いでいくもの。それはきっと、アダムは父で、立つ者だから。そしてリリスは母で、子を、子の子を思う者だから。だからアダムは自らを鍛え続け、リリンは希望を託し続ける生き物なのよ」
「リリスは?」
「お母さんは、いつだって見守ってくれているわ。倒れたときには、安らいで、また立ち上がれるように、がんばってって……そういうものでしょう? けれど」
「ああ……そういう強さを保ち続けるのは難しいよね」
「だから、子に期待するの。頑張ってって。そのがんばりを見て、また頑張れるのが、母親よ」
「どれだけ倒れても、間違っても……見放さないでいてくれたのか」
「ええ」
「そういうことなら、初号機……母さん!」
 シンジは吼えた。
「人の生きた証を残すんだろ!? だったら!」
 初号機の拘束具が、膨れあがったエネルギー圧によって吹き飛ばされる。
 背中に金色の炎が立ち、それが十二枚の羽根となる。
 対してアダムの背にも白炎が吹き上がり、これもまた十二枚の羽根となった。

 ──綺麗……と、たくさんの声が聞こえた。
 その中には洞木ヒカリなどの声もあった。
 信じて、見守っている人たちの声だった。

「行くよ!」
 両者は迷うことなく、一直線にぶつかった。
 どこか遠くで、シンジと呼ぶたくさんの声を聞いた気がした。
 中にはレイと叫んでいるものもあった。もちろん、カヲルのことを呼ぶ声もあった。
 アダムの体をパレットライフルが叩く。
 バズーカが直撃し、幾つもの刀が斬りつける。
 それらは初号機の動きに合わせてこの世界にたぐり寄せられた『可能性』という名前の幻影であったが、やがて初号機そのものの姿がぶれて二重、三重と増えだした。
 ナイフを突き立てる初号機が現れ、刀でなで切りにする初号機が現れ、ついにはロンギヌスの槍を掲げた初号機がアダムを上方から突き刺したかと思えば、下方からも槍を持った初号機が突撃し、右、左、背中とその数は増え、アダムを針のネズミと変えていく。
 それらは全て、アダムを屠り去ることに成功した初号機という可能性の形だった。
 だがアダムはその可能性たちを消し飛ばしていく。
 アダムとリリス、同質同量のエネルギー体の相殺が始まったのである。
 初号機が装甲、殻だけを残し、光となって吹き飛ばされる。消えていく。後には首にレイの腕を絡ませたシンジが残る。
 アダムもまたコアだけを残し、吹き飛んだ。
 コアがカヲルとなって飛びかかる。
 カヲルへとなりきる前のコアを、勢いを保った槍が貫く。
 槍はコアのエネルギーを吸収し、同化したのか、元のエヴァ、零号機へと復帰し、空間の狭間へと落ち込んだ。
 そして生の渚カヲルだけが切り離される。
 その周辺に、醜悪な老人たちの幻影が現れた。
 人ほどもある巨大な顔が陽炎のように揺らいでいる。
 数は12であった。
 カヲルが皮肉を言う。
「君は女の子で、僕がこれとはね」
 シンジは、あれはなんだろうかと、レイに尋ねた。
「わかる?」
「醜悪な者よ」
「そういうことか」
 あれがゼーレかとシンジは察した。
 ──これは我らの望むシナリオではない。
 具体的な言葉ではなかった。
 だがその思念は伝わった。
 彼らがなにを想い、なにをしようとしてきたのか
 地上には己の代役となる機械人形たちを置き、自らの身は量産型エヴァンゲリオンに捧げ、同一化し、来るべき時に供えていた者たち。
 その力があればこそ、彼らは時空、次元を超越して、カヲルと交信することが可能だったのである。
 だがそこまでの詳しいことを、シンジが知ったわけではなかった。
 ただ、この者たちもまた、使徒同様にここで封じるべきであると理解しただけである。
「人が神になるだなんて、そんな浅い考えのために!」
 ──違う。人は滅ぶ。どのような形であったとしても。
「人は生き続けます! どんな形で繋がったとしても!」
 ──そうだ、どのような形であったとしても、人の生きた証は残す。
 ゾッとする。
 声が聞こえた気がしたのだ、最初の母の声が。
 ──エヴァは無限に生きる。月と地球と太陽すら無くしても。
 永遠に……と聞こえて、シンジは激昂した。
「違う!」
「碇君……」
「違う! 母さんが願ったのは、そんなことじゃない!」
 たった一人でも生きていけたら……とてもサビしいけれど生きていけるなら……。
 そう願った母は、あくまでも人が人として生きた末にも、人の生きた証を残そうとしていたのだと、彼は怒る。
 人が滅ぶようなことになったとしても、エヴァが、人の証が、ヒトの形をした神が残るなら。
 それは使徒が目指す全てを無に帰すという目的を阻害し、転換現象、第二の創世を永久に拒み、この世を永続させる可能性となる。
 ──吸収されることのない異物として。
「母さんは、そのために犠牲になろうとしただけだ! それを!」
 シンジは怒る。
 母を、母が自分と生きようとして、ほんのわずかな間にも幸せを感じてくれたその思い出を。
 陽だまりの中で、赤子であった自分を抱いて、やがては失わなければならない悲しみにも耐えていたその姿を。
 そんなものだけで永遠に生きるつらさを耐えようとしてくれていた母のことを思って。
 それら全てを台無しにして。
 ヒトが人として、人の欲を無限に解放し続けられるような、不浄の楽園を願ったのではないのだと。
「倒します」
 人の持つ強欲を否定する。
「綾波、力を貸して」
「ええ」
 心を一つにする二人に、カヲルが微笑む。
「行くよ、リリン。そしてリリス。最初に産み、そして最後に産み落ちた人」
 怨霊を纏いシンジへと飛ぶ。
「カヲル君!」
 カヲルは怨霊を塊とし、棍棒代わりに振り上げた。
 怨霊たちが声を上げるが、カヲルは聞き入れなかった。
 それがシンジの身を打つ直前で、首かじりついていたレイが右手だけを突き出し、ATフィールドを展開する。
 怨霊が爆散し、レイのATフィールドも破砕した。
 怨霊の破裂した勢いを利用し、カヲルは左に身を回転させて、右拳を突き出す。
 シンジはそのカヲルの腹を拳で打った。
 勢いのままにすれ違う、一瞬のことだった。
 綾波レイを首に抱きつかせ、背に負ったまま、シンジは遠くへ流される。
 シンジはカヲルが散華する姿を見た。しかしカヲルの中の可能性を見逃さなかった。
 人として、人の姿をして生み落ち、生み出されたカヲル、アダムは、古い使徒としての姿の他に、リリンと同じ形状へも行き着いていた。だから……。
「綾波……カヲル君は」
 ええとレイは肯定する。
「わたしのような、リリンを模した形から、未来を模索するリリンそのものへと変化したわ。アダムでもリリスでもない、単独の可能性へと」
 特異点から切り離されて。
 シンジは笑う。
「そっか」
「ええ……いずれ、また」
「会えるかもしれないね、遠いどこか……別の世界で」
「…………」
「嫌そうだね」
「…………」
「そんなに嫌がらなくてもさ」
「そういうことではないわ」
 レイは深く悲しんでいた。
「わかっているでしょう? もう、わたしたちはあなたに会えない」
 シンジは微笑して言った。
「でも、僕の魂を持った誰かが、君たちに会うよ」
 帰れない、か、と、シンジは寂しそうにした。
 そしてレイの震えに気がついた。
「泣いているの?」
「…………」
「大丈夫。僕は帰れないけど、僕の魂を、君は見分けられるだろ?」
「でも……それはあなたじゃないわ。あなたはこの狭間の世界で消えてしまう」
「かもしれない」
「魂は戻れるかもしれない。でも人の身は帰れないわ。そして人であるあなたは今の記憶も、感情も、何一つ継承することはない」
「そうだね」
「二人が出会えるとも限らないわ」
「うん」
「だからこのままが良い」
「綾波……」
「二人で、このまま」
 そんなこと、させるかと声が聞こえた。
 それはアスカの声であり、他の大勢の声でもあった。
 ふざけるなと、自己犠牲が過ぎると、ATフィールド、心の壁を失った生の二人の感情に当てられた人々の叫びであった。
 空間が爆ぜる、割れる、砕きながら押し広げ、顔を覗かせたのは零号機だった。
 シンジは仰天する。レイでさえ驚きにシンジに強くしがみついていた。
「アスカ!?」
「この、馬鹿が!」
 零号機は手を伸ばし、二人を掴んで、身を引いた。
 正常な状態へと復帰しようとする空間の動きに挟まれないよう、逃れたのだ。
 背中から落ちたのは、元の筑波山の裾野だった。もっとも、すっかり削られて、山と言うよりも丘のようになっていたが。
「二人で勝手に盛り上がってんじゃないっての!」
「アスカ、どうやって」
「はん! あんたが言ったんでしょうが、あたしたちはって……だったらあんただけじゃない、あたしにだってあんたたちを引き寄せることくらいできるはずでしょ!」
「あなたにそれができるとは思わなかったわ」
「あいにくね! あたしは天才なのよ!」
 もっとも、と、本当のことは口にしなかった。
 以前、アスカは弐号機に母親の存在を感じ取ったことがあった。アレクの起こした事件の際の出来事である。
 だが実際にはキョウコはこの世界にいる。それはどういうことなのか?
(別の世界では、ママは弐号機と同化してた。ならママの魂は人間の体と弐号機を行き来してたのかもしれない。他の世界が閉ざされて、この世界しか残されていないとしても、位相同位体がある場合は……ママがあたしのことを心配して、一時的にでも人間の体からエヴァの体に魂を移していたのなら)
 同じことがユイにもできるかもしれないと思ったのだ。
 弐号機に同乗して貰ったことが幸いした。かつてシンジと同時シンクロした経験があったこともだ。さすが親子だと思うほど感じが似ていたこともあって、アスカはエヴァを介して、『自身の可能性を探り、たぐり寄せる』力を、ユイに扱わせることができるかもしれないと思ったのだ。
 そして彼女たちの目の前には、戦いから外れて落ちてきた零号機の姿があった。
 ユイは同時シンクロによってアスカの力を使い、初号機を求めたのである。
 結果として初号機はだめであったがレイがいた。レイの魂はリリスのものだが、肉体にはリリスとユイの形質が組み込まれている。つまりレイはリリスと碇ユイとの多重位相体なのである。そして零号機ともだ。
 リリスの魂が宿されている綾波レイへと、ユイの魂が入り込むことはできない。だがその存在をたぐり寄せることには成功した。
 後はアスカの出番であった。彼女はユイを通して感じ取ったレイの元へと、空間を破砕して手を伸ばしたのである。
「無茶するよ」
「狭い」
 エヴァの手の中、と言ってもこの巨大さである。指といえども岩のように堅い。二人はその隙間で抱き合っていた。
「でも、助かった」
「そうね」
「残念そうだね」
「ようやく、ふたりきりになれたのに」
「そういう運命なのかもね」
 レイは黙って、シンジの頬をつねった。
「痛い!」
 シンジはやめてくれと訴えたが、レイは決して離さなかった。
「だからいちゃつくのをヤメロっての」
 アスカは嘆息し、その前、エヴァのシートに腰掛けているユイは、失笑をこぼした。
 ばらばらと音がする。
 同時に高い音も。それは戦闘機の立てる音だった。
 すっきりとした青空に、編隊を組んだ飛行機が雲を引いていた。
 それは今更ながらに到着した国連軍であった。
 シンジは不安げにそれを見上げた。
「僕たちを殺しに来たのかな」
 違うわと、エントリープラグから出てきたユイが告げる。
「あの人が動かしたのよ」
 母があの人と呼ぶ人間は一人だけであった。
「父さんが?」
「幸運なことに、頭の重しが取れたからね」
 ああ……とシンジも納得した。
 それはカヲルの元に現れた者たちのことであろうなと。
 体から力を抜いて、へたりこむ。
「そっか」
 相変わらずそんなシンジの首には裸のレイが巻き付いている。
(どうしたものかしらね)
 ユイは苦笑し、同じくエントリープラグから出てきたアスカを見た。
 アスカはちょいちょいと、山の方角を指す。
 そこにはたくさんのヘリが浮いていた。
 船のような巨大な機械もやってくる。
 それらにはきっと、シンジのことを思っている女の子たちが居るはずで……。
 そのことに気付かず、レイに離れてくれと暴れているシンジに、二人は大きくため息をこぼしたのであった。

−Zパート−

 ──後の話である。

 日本と呼ばれる国には、たくさんの傷跡が残された。
 爆発、あるいは何かが蹴散らした跡、中には巨大な人の足跡まである。
 これらと、そして記念博物館に展示されている巨大ロボット、エヴァンゲリオン零号機があるから、子供たちは、かつて使徒という怪獣との大戦争があったという話を信じることができるのだった。
 ──その少女は、とある戦記物が大好きであった。
 母が少女の頃に発刊されたという架空の物語であったが、今でも再版されているほどの人気であるという。
 その理由の一つには、奥付の前に一枚の写真が、白黒で収録されているからだろう。
 ともすれば、架空戦記に搭乗する少年少女のイメージキャラクターであるようにも思える。だがその写真に付け加えられている一文が、違うと言うことを知らしめていた。
『あの頃を共に生きた人たちと、今をつなげてくれた人たちと』
 時と共に在ることを、時と共に在るために、そして時と共に在れたことを。
 この写真に映っている人たちが、この世界を救ってくれた人たちであり……。
 そしてこの写真だけが、彼らの姿を唯一世に残しているものだという『うわさ話』が、この本に大きな読後感を付け加えていた。
 ならばこの本は、本当は本当にあったことを物語として語っているのかもしれないと想像させる。
 彼女は今日も一通り読み返して、ほぅっと一つ息を吐いた。
 そして彼女を呼ぶ声に返事をする。
 彼女は本を閉じると、人を肥え太らせて笑いものにしようと画策する父親に、今日こそ夜食とかデザートはいらないと訴えようと、席を立った。
 それと同時に、今日も説教してやると、彼女はのっしのっしと足をならす。
 いい加減、月に一度は家出する母親を迎えに行けと、人のご機嫌を取って、仲介させようとするんじゃないと言ってやるのだ。
 父親の料理はうまいが、劇薬だ。太りたくない年頃なのである。それをわかれというのに、この鈍感な父親はまったく察しようとしないのだから困りもので、母親の方も、家出と言いながら、父親の浮気相手の内の誰かのところに転がり込んでいるのだから、なにを考えているのかわからなかった。
 そんな父親は、娘の脅しに、いつも同じ答えを返すのだ。
「いつか刺されるんじゃない?」
「そうなっても、僕の生きた証は残るよ。君って子がね」
 いちいち大げさな言い方をする父親である。
 だが彼女は、それをこの時代の人間が共通して持っている厨二病のせいだと思っていた。
 なにしろこの人たちが生きていたのは、ちょうど、その怪獣たちが戦っていた頃であったのだから。

−終劇−


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