「いっかりくーん! ガッコ行こっゼェ」
 小学生のように叫ぶ声が聞こえてきて、シンジは忙しく立ち上がった。
「はーい!」
 のどかな田園の隅にぽつりとある木造二階建ての建築物は、かつては集会所として用いられていたものであった。
 そして今はシンジだけの建物である。
 元が集会所であるのだから、庭はちょっとした広さがあって、門がまえもかなりしっかりとしたものとなっていた。
 そして門柱にかけられている看板には、六分儀養護施設と書かれてあった。
 ……もっとも、相当に古いものであるらしく、風雨に腐って、剥げて酷く読みづらくなってしまっていたのだが。
 目をこらさなければ、よくわからないような代物である。
「子供じゃないんだから!」
 中背、細身の少年が、パンをかじりながら靴を引っかけ慌てて出てきた。シンジである。
「よぉ!」
 少年一人に、少女が三人。学生服にセーラー服の一団だった。
 彼らは皆で、とても大きな笑い声を発して彼を迎えた。
「行きましょ」
 シンジとほぼ同じ背丈の少女が誘う。女子三人の中でも最も背が高く、どこかおっとりとした感じのするポニーテールの少女であった。
 癖毛のためか? ゆったりとウェーブがかかっている。
「おーおー、今日もいちゃいちゃとしやがって」
 日焼けした、髪を染めている少年が冷やかした。
「で、シンジ! どこまでいったんだよ?」
「はぁ?」
「ししし、知ってんだぞ? この間おっそーい時間に二人っきりで」
「……嫉妬ね」
 ぽそりと小学生かと思うような子が口にした。
「もしくは焦っているのね、彼一人だけ大人になろうとしているから」
「イチゴ……」
 困ったように真ん中に位置する背丈の子が彼女を止める。
「あなたがそれ言ってどうするの」
「ズボシ?」
「ヒョウスケ君、固まってるじゃない」
「だぁああああ! だぁれが焦ってるって!?」
「あなた」
「違う! 俺は一人で大人になろうとする奴が許せないだけだ!」
「同じじゃない」
 シンジは首を傾げて、隣に立つポニーテールの子に訊ねた。
水澄(みすみ)さん」
「なに?」
「あの二人って付き合ってるんだよね?」
 シンジが不思議がっているのは、慌てている間雲(まぐも)ヒョウスケと、それを冷たくあしらいからかっている森野イチゴが結んでいる関係についてだった。
 困った風に、頬に手を当て、カエデは語る。
「ヒョウスケ君、意気地がないから」
「そういう問題?」
縁川(へりかわ)さん……」
「それよりねぇ! カエデとシンジ君はどうなってるの?」
 目をきらきらと輝かせて迫ってくる困った少女に、シンジは「僕ぅ!?」っと叫んで対処に困り、あわてふためいた。
 しかし、彼女──縁川コイシは、素早く標的を変更していた。
「うんうん! ねぇカエデ!」
「やだぁ!」
 恥ずかしいっと、頬を手で挟んで身もだえをする。
 それはみんなに、誤解をさせるには、十分すぎる仕草であった。
「まさかシンジ!」
「誤解だよ! まだなんにもしてないって!」
『まだっ!?』
「やだぁ……シンジ君てば」
「あ……ははは、は……」
 だめだこりゃ。
 これは何を言っても突っ込まれるなと、半ば諦めるシンジであった。


NeonGenesisEvangelion
Who is the BOY.外伝
『What's the Girl.』


 ──西暦2018年。
 第一の使徒襲来より三年が経ち、世界は緊張感を失いつつあった。
 当初多様化の一途を辿っていた使徒と呼称される未知なる生命体の形状と能力も、一年が経ち二年が過ぎると、ほぼその方向性を定め、個体差も驚かさせるほどの違いを失っていた。
 進化が収まりつつあるのだろう……そう分析されている。
 これにより、使徒への対処は、『行き当たりばったり』と評価された十五年代と違い、ほぼ完全にマニュアル化されようとしていた。
 当然のごとく、エヴァンゲリオン──汎用型決戦兵器も再設計されて、世界各国に配備されつつあった。
 ──シンジはぼんやりと、窓の外の景色を眺めていた。
 教師の朗読は、どこか子守歌に似ているのか? ヒョウスケなどはとっくに机に突っ伏している。彼は校内でも成績が一位・二位の位置にあるので、注意されることはない。
(平和だな……)
 ぼんやりとしていると、田園風景に業火に包まれる近代都市の姿が重なり始めてくるのだ。
 その炎の中には、赤と青の巨人が居て、銃を構えている。そして手を振り、自分にも来いと呼びかけてくるのだ。
 そして黒煙の向こうには、同じサイズの巨獣の影が確認できた。
 うすぼんやりと揺らめいている。だが、胸にある赤いものだけははっきりと輝き見えていた。
 灰燼(かいじん)と化す街。シンジはふと、校庭の向こう、校門の所に、自分が唯一知っている種類の車が停まっていることに気がついた。
(ミサトさんと同じ車だ)
 だが、彼女がここに来るはずがないのだ。
 シンジはネルフを離れ、この町に移ることになった時のことを思い返した。


 ──見送りに来たのは、ミサトと、アスカだけだった。
 寂しくはない。そんなものだろうという感慨があっただけだった。シンジは正直、この二人だけでも面倒なんだけどなと考えていた。
「悪いわね」
 ミサトが言う。
「今のネルフには余裕がないのよ……あなたのケアにまで手を回せないの」
「シンジが行く町ってどんなとこなの?」
「村と言った方が正しいかもしれないわね。四方を山に囲まれた小さな町よ。ほとんどの家が農家だって言うね」
「のんびりとしたところなのね」
「元は第三セクターの絡みで開発が進められていた別荘地だったそうよ。まあ町としては規模は小さいけど、不自由するようなところでもないわ」
 ミサトはもう一度、悪いわねとくり返した。
「でももう家族ごっこをしていられるだけの余裕もないのよ」
「ま、あんたにはお似合いの場所ね」
 せせら笑う言いざまにも、シンジは取り乱したりはしなかった。
 ただ、そうだねと答えただけだった。
「僕にはネルフは似合わないからな」
「ふん。役立たずが」
「ヤメなさい。アスカ」
「なによ? ミサトだってそう思ってるくせに」
 そうやって黙らせて、アスカはシンジのことをあざ笑った。
「ごめんなさいねぇ? 無敵のシンジ様の手柄を全部横取りしちゃって!」
 ミサトは口出ししなかった。問題はシンジにこそあったからだ。
 エヴァの増産に伴い、管理を軍に移行するという話が浮上してきていた。使徒が第三新東京市だけではなく、全世界に出没するようになったからである。
 そうなれば情報を規制する意味はなく、むしろ特務機関として存在を伏せようとすればするほど、その行動範囲の狭さが問題となり、議論を呼ぶようになっていた。
 ──さらなる問題は、エースパイロットにあった。
 碇シンジ。使徒撃破数においてはトップを誇り、そしてATフィールドの展開、操作、応用についても、他の追従を許さない人間であったのだ。
 ただ……決定的にやる気というものが欠けていた。
 廉価型エヴァンゲリオンは、そのサイズにおいて通常機の八分の一、五メートルサイズにまで縮小されているものである。小型機ならではの機動性……特に空中機動性は、エヴァンゲリオンとは比較にならず、また運用も楽にしていた。
 これは装甲に頼らず、ATフィールドに依った戦術パターンが確立されたことによって、初めて生産が可能となったものであった。
 いつ、いかなる時に、どのような敵が来るのかわからなかったからこそ、第一使徒を基準にしたサイズで設計され、ATフィールドに頼らない防御力を誇る、エヴァンゲリオンというものが造り上げられることとなったのである。
 だが、使徒というものが自然災害並みに落ち着きつつある今となっては、エヴァは必要のないものなのである。
 廉価型エヴァは、小型ロボット並みの大きさでありながらも、十機もあればエヴァや使徒と十分に張り合えるフィールド戦術を展開できるものであった。
 事実、ミサトはリツコに、MAGIの使用を求めて、アスカの弐号機を基準にしてシミュレーションを実行していた。
 ──シンジの駆る初号機だけが、格の違いを知らしめることができるのだ。
 ミサトだけではなく、上層部はこのことについて、早々に危機感を抱いていた。
 いずれ廉価型対オリジナルエヴァンゲリオンとの模擬戦闘は実施されることとなるだろう。今はまだとなっているのは、単純にパイロットの育成が追いついていないからだ。
 もし、その時になって、『サードチルドレン』の能力の高さが明らかとなればどうなることか?
 各国の首脳部が彼を欲しがることは明白であった。もし、仮に、ATフィールドというものが、発生母体の大きさに関わらず強力に展開できるものであるのなら、彼の覇気の無さは危険すぎる要因であった。
 どこの勧誘でも受けかねないのだ……なにしろ、ネルフよりも良い環境を提示する国など、いくらでもあろうから。実際、それほどまでに、ネルフが彼に与えている環境は劣悪であった。
 唯一廉価機に対抗できるパイロットを、ネルフではなく、軍に奪われたならばどうなることか?
 ネルフの崩壊は加速する。
 そのために、ネルフはサードチルドレンとセカンドチルドレンの記録を入れ替えることにしたのであった。
 改竄し、そしてサードを放逐することに決めたのである。
 力及ばず、サードチルドレンは、精神汚染などを理由に後方送りとなることになった。
 そういう筋書きで、戦場からも遠ざけることとしたのである。
「でもシンジ君。本当に良いの?」
「はい?」
「今ならまだ、取り消せるのよ?」
 それは、これまでの功績が、惜しくはないのかと訊ねるものであった。
「良い? あの町は、政治犯や亡命者を隔離保護するために作られた町でもあるの。もちろん知らない市民の方が圧倒的に多いけど、それでも窮屈な生き方になることは間違いないわ」
「ネルフに居たって同じことですよ。利用されたり、押し付けられたりしないだけマシです」
「シンジ君……」
「僕にはミサトさんたちのようにネルフにこだわりなんてありませんから」
「こだわり?」
「はい」
 アスカを見る。
「どうしてアスカはエヴァにすがるの?」
「な!? なに言ってんのよ!」
「僕にはそう見えるんだよ」
 ミサトへと視線を戻す。
「やる気にならない、みんなで必死にがんばってるのにボケボケッとしてる。他人事みたいな顔してるって、結構ぼくって嫌われてましたよね?」
「そうね」
「だからかな? お別れの挨拶をしたときに、不思議がったり、やっと居なくなってくれるのかって、そんな顔されました」
「なにが言いたいの?」
「だから、さっきも言ったことですよ……。みんなネルフとか、エヴァとか、MAGIとかにすがってるんだなって」
「当然でしょう? わたしたちは使徒と戦うために集まった仲間なのよ? それを」
「でも僕がこの街に来たのは、別にエヴァに乗るためじゃありませんでした」
 ミサトは胸を張って立つシンジの背丈が、いつの間にか自分に迫りつつあったことに気がついた。
「大体……ここに居続けたのも、ミサトさんたちに脅かされたからじゃないですか。僕が乗るって言わなきゃ、怪我して動けない綾波が戦わなきゃいけないんだって」
「それは……」
「だから乗っただけだったし、あとはなし崩しだったし、なんとなく褒められるのが嬉しかった時期もあったけど、結局嫌なことしかなかったし」
「…………」
「だから、こんなところずっと出て行きたいなぁって思ってたのに、みんなでそれはだめだとか言うし」
「そう……そんな風に思ってたのね」
 パンッと彼女はシンジの頬を張った。
「あんたね! 馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ!?」
 はぁっとシンジはため息を吐いた。
 ひりひりとする頬をさすりながら。
「でも本当のことじゃないですか……みんな、誰も、どうしてやる気を出さないんだなんて聞いてくれなかったじゃないですか。やる気を出せって押し付けるだけで」
「それは!」
「ようするに、恐いんでしょ? ネルフがトップでないとって。ネルフの人間のままでいないとって、エヴァがないとって……エヴァを動かせる人間は、ネルフの人間でないとって」
 ばかばかしいと口にする。
 これに反応したのはアスカだった。
「はっ! 負け惜しみを」
「はいはい。そうだね」
「……くっ、生意気なのよ!」
「別に……軍人さんが働いてくれるっていうなら、それで良いじゃないか。僕はアスカみたいに訓練を受けてきたわけじゃないし、たまたまなんとかやれてただけなんだから」
「なに情けないこと言ってんのよ!」
「せいぜい人類の守護者って呼ばれて喜んでれば? ちやほやされて喜んでりゃ良いじゃないか……。アスカはそのために乗ってるんだって、前に言ってたじゃないか」
 ──パン!
 シンジは二発目の張り手を、今度はアスカから頂戴することとなった。
「馬鹿!」
 背を向けて駆け出していった。
 よろめいたシンジを、ミサトは冷たい目をして見つめていた。
 それはもはや、他人を見る目にすぎなかった。


「ふわぁ〜〜〜あ……。よく寝た」
 ヒョウスケである。
「おぉいシンジぃ、今日はどうするんだよ?」
「まっすぐ帰るよ」
「面白くない奴だなぁ」
「また雨漏り始まったんだ、晴れてる内に屋根に登りたいからね」
「手伝ってやろうか?」
「いいよ。ヒョウスケけっこうドンクサイから」
 ちっと女子にまで笑われて舌打ちする。
「そういや、マタグ、今日も休みだったなぁ」
 鞄を手に寄ってきたコイシがヒョウスケの疑問に答えた。
「第三に行ってるみたいよ? 泊まりで」
「またネルフのイベントかぁ?」
「うん。そういうの好きだもんね、四道君」


 結局五人は固まって下校することになった。
 学校前の道路を歩いて、それから田んぼのあぜ道へと逸れる。
 同じ制服の少年少女たち。群の一部となって歩いて行く。
 のどかで、平和で、へんぴで、刺激的なことは何もない。
 くだらないおしゃべりの内容は、発売日通りに入荷してくれない雑誌とゲームについての不満だ。
 ──ブゥウウウウン……。
 聞こえた音に、シンジはかなり遠くなった車道の方角へと視線を巡らせた。
(ミサトさんの車と同じエンジン音だった)
 臆病に育ったためか? 異常に警戒してしまう。
「シンジ君」
「……え?」
 心配し、シンジの顔をのぞき込んだのはカエデであった。
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
「そう?」
「うん……」
「カエデ」
「なに? コイシ」
 シンジは水澄カエデの、ゆるくウェーブのかかっている髪に鼻をくすぐられてしまった。
 ポニーテールにしているからか? コイシに呼ばれて振り返ったカエデの髪は、ちょうどシンジの鼻を撫でるように揺れたのだ。
「クシュッ」
 ぼそっとイチゴがつぶやいた。
「……エッチ」
「な、なんだよそれ!? 森野さん」
「え? イチゴ、なに?」
「なんでもないわ」
 森野イチゴはにやりと笑った。
 そしてその背後ではヒョウスケがなにがあったんだと怪訝そうにしている。
 きっと後でイチゴに訊ねて聞き出すだろう。
(そういうところが、うまく行ってる理由なんだろうな)
 シンジは漠然と考えた。
 人のことを面白がるイチゴと、からかうのが大好きなヒョウスケだ。
 イチゴがネタを仕入れて、二人の話題として楽しみ、そしてヒョウスケがからかうためのネタとし、それでまたイチゴがネタとしてチェックする。
(うまく循環してるよ、まったく)
 シンジは隣の少女を見て、考えた。
(臆病……か)
 苦笑する。
(臆病なのはヒョウスケだけじゃないよな)
 そうこうしている内に、シンジは帰り着くこととなってしまった。


 車の中、ミサトは電話をかけていた。
「ええ、そう、一応話は聞いてみたけど、やっぱりって感じだったわ」
 話の相手はリツコであった。
『まったく……一年も気づかずに居ただなんて、うちの諜報部もお粗末なものね』
 動かしてはいない。停めている。
「このせっぱ詰まってるときに、まったく」
 毒づき、湖へと視線を巡らす。
『で、収穫は?』
「なしよ。校長も行方は知れないって言ってた」
『謎の臨時教師か……』
「女性であったこと。若かったこと、それははっきりとしているわ。それと」
『生徒の一人と結婚していた?』
「ええ」
 婚姻届のコピーらしいものをピラッと手にする。
『でも婚姻届を出せたと言うことは、書類上は存在しているのよね?』
「もちろんそうよ。だってこの町の、それもあの学校に赴任しているんだから……政府側は首をひねってたけどね」
『どこかの国の? あるいは組織の?』
「その可能性が高いわね」
『狙いはシンジ君?』
 眉間に微妙に皺が寄る。
「違うわね。勘だけど」
『勘ね……根拠はないの?』
「一つだけ……その結婚してたって少年が行方不明になってるわ」
『消されたの?』
「違うでしょうね」
『保護者の方はなんて言ってるの?』
「その女性の転勤にくっついて行ったって、なんにも疑ってなかったわ」
 通話機越しに、戸惑う気配が感じ取れた。
『妙な話ね……』
「そうね……。むしろ喜んでたわよ? 病気も治ったことだしって」
『病気?』
「そう……病気。それも奇病の類ね」
『どういうものなの?』
「冬眠……が一番近いかな?」
『冬眠?』
「そうよ。意識レベルの低下に従って、肉体のテンションが下降してしまうんだそうよ。そしてそれが行きすぎると、精神を閉ざした状態に移行する』
『肉体はどうなるの?』
「仮死状態に陥るらしいわ」
『でもそんな病気、初めて聞くわね』
「ええ。彼のおじさん……医師も、彼が初めての症例じゃないかって言ってたわ」
『ふうん……』
「でもね? 赤木博士」
 声の質を重くする。
「問題になるのは、その病状なのよ」
『不審な点があるの?』
「ええ……精神をパイロットに見立てればわかるんじゃない?」
 一拍の間が必要とされた。
『まさか……ありえないわ』
「でもあまりにも似てない? 意識が切り離された状態では仮死となって沈黙する点なんてそっくりでしょ? エヴァに」
『でも人サイズでのE計画関連技術の応用は行われていないはずだけど』
「フィフスはどうなの? レイはどうだったの?」
『…………』
「そういうことよ」
 リツコはそうねとその考えを受け入れた。
 少なくとも綾波レイの精神体は常に一つであり、その魂が篭もらぬ予備のボディは、通常待機状態とも認められる段階でもって、意志の発露なくただ浮かんでいた。
「その子も髪は白……目は赤だったそうよ。アルビノ、だったら」
『その町でなにかを実験していたと?』
「試していたのかもしれないわね、社会にとけ込めるのかどうか……そして撤収したか」
『シンジ君が移り住んだことで、警戒レベルが上げられたから……』
「とにかく、足取りはつかめていないわ」
『どうするの?』
「後のことは政府サイドに任せて、久しぶりにシンジ君に会ってみるわ」
『そう……あまり刺激しないようにね?』
「ええ、わかってる」
『それと派手なこともね?』
 ミサトは笑った。
「どうせ閑職に追いやられた身だもの……その点については好きにやらせてもらうわ。じゃね?」


 腐っている木を剥がし、適当に合う板を置いて、釘で打ち付ける。
 トン、トン、トンと、慣れない作業だが、やってみれば簡単なものだった。
 この一年ほど、何度もやっていることだった。そして初めての時にはこれで良いのかと不安になって、酷く丁寧に直したものだが、今ではかなり手を抜いている。
 それでも大丈夫だとわかったからだ。
「ふぅ……」
 シンジはこんなものかと手で表面を撫で、腰を下ろしてそこからの景色を一望した。
 正面に田畑。その向こうに山。山の右手には湖がある。
 日が落ち始めると、とても綺麗な景色になるのだが、明るい内でも十分に楽しめるものだった。
 シンジの顔に、笑みが浮かぶ。
 のどかで、何もない。
 しかし誰かに何かを請求されることも、望まれることも、押し付けられることも、それもまたないのだ。
 だから、のんびりとしていられる。
 自堕落に、自分というものを味わえる。
(こういうのを、余裕っていうんだよな)
 唐突に自覚する。
 自分は変わっているのだと。
(甘えたかったんだな……。甘えてみたかったんだな。慰めてくれる人が欲しかったし、捜してたんだな)
 だからあれほど酷く怯えて……。
(嫌われないように、気に入られるように努めてた)
 苦笑する。
(けど、そんなの気づかれないはずがないんだよな。嫌われて当たり前だったんだ)
 さてとと立ち上がろうとすると、下から呼ぶ声が聞こえた。
「シンジくーん」
 はーいと覗き見れば、カエデだった。
 ひらひらの付いた服を着て、手を振っている。
「今降りるよ」
 シンジは下から見上げているカエデの視界から一旦消えると、裏にあるベランダから屋根へと立てかけていたはしごに回った。


「あの……これ」
 シンジはカエデが差し出した花柄の鍋に戸惑った。
「なに?」
「肉じゃがなの。お母さんがシンジ君にって」
「はぁ……ありがと」
 しかしなにかが釈然とせず、シンジは二・三度首を傾げた。
「なに?」
 気になるのか? カエデは訊ねた。
「変……かな? やっぱり」
「うん……僕もどうかと思うな」
「そうよねぇ……」
 赤くなり、火照る頬に手を当てる。
 そんなカエデを居室に置いて、シンジは厨房に鍋を置きに向かった。
 男の子の部屋に遊びに行く理由に、この鍋はかなり不釣り合いだろう。シンジはそんなことを思いながらも冷蔵庫に入れて、部屋に戻った。
「もう、お母さん……」
 彼女はまだ頬に手を当てていた。
「水澄さんって、赤面症なの?」
「シンジ君だからよぉ……」
「……のわりに積極的だよね」
 シンジは畳の上に座り込んだ。
 昔は大勢が暮らしていたらしいが、今ではシンジ一人である。
 用務員室を自分の部屋と定めて、後は物置だの、なんだのと、ろくなことには使っていない。
「でもよく許してくれるよね……水澄さんのお母さん」
「え? なに?」
「いや……僕が一人暮らしなの知ってるはずなのに」
「そうなんだけど」
 両手をもじもじと組み合わせる。
 正座しているのは、それだけしつけが行き届いている証拠だった。
「お父さんは恐いけどぉ……お母さんは緩いから」
「緩い?」
「女の子は、積極的なくらいで良いって」
「でもそれで遊びに行かせるのに、鍋なの?」
 カエデも笑った。
「変よねぇ? やっぱり……」
「まあありがたい理由だけどさ」
「そう?」
「うん……。毎日縁川の家の弁当じゃ飽きるしね」
 縁川コイシの実家は弁当屋なのである。
「自分じゃ作らないの?」
「最初はやってたんだけど……だんだんね」
「ふうん……」
「手間かけて作っても、一人でもそもそとやるだけだしね。お腹減ったときに作ろうかって感じだったんだけどさ、それもおっくうになって、なんか買ってこようって、そのまま」
「あ、じゃああたしが作りに来ても良いかな……」
「良いけど……大丈夫なの?」
「うん……。お父さんはお母さんがごまかしてくれると思う」
「……なんだか」
「え?」
「なんだか変な感じだよね」
「そうかなぁ……」
「そうだよ」
 おっとりとした口調のカエデに、シンジはやはり苦笑する。
「信用されてるとも思えないしね?」
「っていうか……むしろ確信されてるかもぉ」
「はは……」
「ね……シンジ君」
「は、はい!」
 妙な緊張感に固くなる。
「あ……あの、夕ご飯まで……時間あるし」
「…………」
「一緒に、運動しませんか?」
 シンジはまともに赤面した。
「……け、結構大胆だね、水澄さんって」
「シンジ君は、奥手すぎるよぉ……」
「すみません……」
 シンジは軽く落ち込んだ。


 ──夜。
 二人は人気のない道を手を繋いで歩いていた。
 そっと触れ合うように、指先を合わせている。
 たったそれだけのことなのに、不思議な吸着力でも持っているのか? カエデはシンジのリードに合わせて、幸せそうに後に着いて歩いていた。
 片側に山、反対側に湖に抜ける林があって、木々の合間からは湖面がのぞけるはずであるのだが、今は暗いためによくわからなかった。
 時折月によるものらしい反射光がきらきらと見えるだけである。
 舗装された道は、ガードレールと共に真新しい。あまり車が通ることのない道であるし、町自体も空気が綺麗であるから汚れないのだろう。
(でも僕って、やっぱり意気地がないのかな?)
 浮かれることのできない性格なのだなと、シンジは漠然と分析する。
 結局たっぷりと二時間ほど散歩してから、シンジはカエデを自宅へと送り届けた。
 ばいばいと小さく手を振り、ちっとも玄関先から消えようとしないカエデの姿に、シンジは幾度も振り返りながら道を戻った。
「はぁ……」
 シンジは彼女が見えなくなる場所まで来てから、ようやく気を抜き、ポケットに手を入れて空を見上げた。
 星が瞬いている。何百、何千と。それは気持ちが悪くなるほどの数だった。
「なんだろうな……」
 住宅街を抜けていく。
 散歩と称して歩く間、ろくなことはしゃべらなかった。
 会話も持たずに、ただただ歩いた。
 それは恋人として盛り上がるための行為ではなく、どちらかと言えば余韻を醒ますために時間をかけたと言った方が正しかったのだが、あの様子ではどれほど効果があっただろうか?
(今頃叱られてなきゃいいんだけど)
 そんなことばかり心配してしまう自分は、やはりどこかがおかしいのだろう。
 住宅街から坂を上るように外れていくと、五分ほどで住みかにしている建物の屋根が見え始める。
 シンジはふと、施設の壁に寄せるようにして停められている青い車に気がついた。
 ──嘆息する。
 やはりかと思う。必死に否定していたが、こうなれば認める他はないだろう。
 シンジは考えていたよりもずっと肝が据わっているのに気がついた。
(水澄さんのおかげかな?)
 いつになく、キリリとした表情をして歩き寄った。
 そして相手もまたどう押しかけたものだか酷く悩んでいたのだろう。
 気むずかしげな表情をしている彼女を見つけて、シンジはコンコンとドアノックした。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。