「おっはよー」
「おはよー」
「あ────!? お前ら!」
シンジとカエデの二人を指さし、ヒョウスケは交互に見比べて驚いた。
「おめでとう……」
淡々と口にするイチゴである。
「でもペアルックは校則違反よ」
「はは……あたしもそう思うな」
コイシにまで否定されて、カエデは真っ赤になってうつむいた。
どこで買ったものだか赤いTシャツを二人で着ているシンジとカエデである。照れるカエデとは対照的に、シンジはただただ苦笑していた。
「僕も学校じゃあまずいと思ったんだけどね」
「じゃあなんで着て来たんだよ?」
「いや……ほら、ミサトさんが」
「ああ、あのおばさんかぁ」
ヒョウスケの言葉に、シンジは口元を引きつらせた。
(絶対盗聴してるはずなんだよな)
していなくても、自分がらみで報告書と共に行くはずなのだ。彼女の元へは。
「第三新東京市で保護者してくれてた人だっけ?」
うんとコイシの疑問に答える。
「そうだけど?」
「その人がなんで?」
「そういうのが好きな人なんだよ」
「ふうん……」
良いなぁとヒョウスケがこぼした。
「なんだよ? ヒョウスケ」
コイシもまた同調する。
「さっきおばさんって……」
「けどよぉ……」
彼はシンジの首に腕をからめた。
「こいつがガキだった頃は、あのおばさんだってお姉さんだったワケだろう?」
「そりゃそうだけど……」
「か────!? うらやましすぎるぅ!」
「お子様で悪かったわね」
「イチゴが小さすぎるのよ……」
「で、あの人っていつまでこっちに居るんだよ?」
「さあ?」
「仕事とかしてないのか?」
「リストラされる寸前だって言ってたからさ」
「それって自棄を起こしてるってことね」
「さあ? どうだろ……」
──あの晩、カエデは家に入ると、そっと玄関の戸を閉じた。
お風呂の音はお父さん、キッチンの音はお母さん。
二人の位置を確認してから、彼女は駆けるようにしてリビングの前を走り抜けた。
なぜならリビングとキッチンとは繋がっていて、かちゃかちゃと洗い物をしている母に、見とがめられる可能性があったからだ。
トトトと音を立てて階段を逃げ上がり、カエデは自室に飛び込むと、バタンと戸を閉めて背を預け、崩れ落ちるようにして座り込んだ。
やだ……と顔を手で挟み、にやけようとするのを必死に堪える。
その顔はもう十分に真っ赤になっていて、やけに熱を持っていた。
●
車が駐停車するには少々狭い道だった。
弱々しく消えかかっている電灯の下に、その車は停まっていた。
「はぁあああああ………」
車の中では、ミサトがハンドルに突っ伏していた。
「どうしようかなぁ……」
リツコにはああ言ったものの、やはり気は進まないらしい。
今のミサトの脳裏には、別れたときの光景がまざまざと蘇ってきていた。後悔している。あれほど酷い別れ方もなかったからだ。
腹立たしかったのは間違いない……。どのような状態であれ、確かに使徒を退治してきたのは自分達ではなかったのか?
どんなに苦しくとも、窮地に陥ろうとも、共に乗り越えて来たのではなかったのか?
そこには共感できるなにかがあったはずなのだ。少なくともミサトは仲間意識を持っていた。
なのに、それをシンジは、無価値なことであったと真顔で口にしてくれたのだ。
辛く罵り合うようなこともあったが、楽しく笑い合っていた時期もあったのではなかったのか?
なのに、あの少年は、そんなものには、なんの未練もないと言った。
(悔しかったのね、あたしは……)
少しでも自分達のことを思ってくれているのなら、残ってくれても良かったのではないか?
(いえ……。せめて気にしながら、それでもこれ以上は耐えられませんって顔をして逃げ出してくれてたのなら、あたしも)
許容することができたのかもしれない。
「勝手ね……勝手か」
顔を上げる。
溜まりに溜まっているツケや、代償があるのなら、結局は支払わねばならないのだ。
「行くか」
車から降りようとする、その時だった。
コンコンとノックによる振動を感じたのは。
「シンジ君?」
夜になるとシンジの住んでいる建物は、とても不気味な雰囲気を醸し出すようになる。
実際、祭りの時などには、お化け屋敷にと使われてもいた。
ミサトは居心地が悪そうに腰をもぞもぞと動かしていた。
小さな座敷である。電灯を点しているのだが、安っぽいガラスがはめ込まれている引き戸の外を見れば、そこにあるのは真っ暗闇の廊下であった。
不気味な光景からは目を背ける。
ぎしり、ぎしりと音がやってくる。もちろんそれはお茶を運んでくるシンジが立てている物音なのだが、わかっていてもミサトは引きつりそうになってしまった。
「おまたせしました……どうしたんですか?」
「な、なんでもないのよ! なんでも」
たははと適当に笑ってごまかすミサトだ。
「さすがにビールなんてないんですけど」
ちゃぶ台にシンジは湯飲みを置いた。
「良いわ。車だしね……驚いてないのね?」
「今日、学校に来てませんでしたか?」
「気づいてたの?」
「車を見かけて、まさかって思いましたけど……まあ、来てるかもしれないなって」
「そう」
「僕になにか?」
「ううん、違うの。直接の用じゃないわ。覚えてる? この町がどういう町かって話、そっちの関係よ」
そうですかとシンジは足を崩した。
「また新しい人が来るんですか?」
「逆よ。この町から不自然にいなくなった人間がいてね、その調査にあたしが来たの」
「ミサトさんが?」
「おかしい?」
「だってネルフの作戦部長がやることじゃないでしょう?」
いつの話よとミサトは笑った。
「今じゃ閑職に回されてるわ。ネルフはじきに解体されて、エヴァンゲリオンやその後継機の開発、研究、修理工場として再編されるのよ。作戦部なんかはみんな良いとこ警備部の所属になるわね」
「ミサトさんは?」
「いちおう警備部主任にしてくれるそうだけど……母体はネルフの保安部になるわけだからね、あたしの居場所なんてあるわけないわ」
「はぁ……」
「同じネルフと言ってもね、こっちとあっちじゃ部署が違い過ぎるもの。役職名だけの新参者扱いをされて、あんまり考えたくないことになるでしょうね」
「そうですか……」
「でも、それでも今更退職してもね……行き場なんてないし」
「そうなっちゃうんですね、結局」
感慨深い言葉に対して、ミサトも茶をすすりつつ口にした。
「悪あがきもそうは続かなかったわね……シンジ君の言う通りよ、結局こうなっちゃったわ」
「…………」
「ごめんね……」
「え?」
「謝るべきだと思うから」
「なにをです?」
「あの時のこと……あの時ぶったこと。痛かったでしょ?」
「ああ……」
シンジは頬をさすった。
「そうですね……でも」
「でも?」
「僕も酷いことを言ったと思うし」
「シンジ君……」
「いっつもそうですよね……。言った後で落ち込むんだ」
「そうね、お互いにね」
「はい。でももう僕だって子供じゃありませんから、反省くらいできますよ」
「大人になったのね……」
「そう言い切れるほどじゃないですけどね」
しんみりとする。
「そうだ。アスカはどうしてますか?」
「元気よ……元気すぎるくらいにね」
「良かったです。安心しました」
「あれだけ嫌われて、それでも心配するの?」
「しますよ」
「どうして?」
「好きでしたからね、アスカが」
ミサトは動きを止めて、シンジが続きを語るのを待った。
「好きだった……のは、間違いないです。でも口にできるほど素直じゃなかったって言うか、恥ずかしかったし、子供だったって言うのが一番ぴったり来るのかな? 友達の延長で……あれだけいがみ合ったり、仲直りできた人って、アスカが初めてだったんですよね。気に入っていたのかな? でもあんな風に……」
悔しげにする。
「アスカに当たられるようになって、僕が何をしたんだとか、そういう風に逃げて、結局ああですよ」
「…………」
「もう取り返せないことなんだから、今更悔やんだって仕方のないことなんですけどね」
肩をすくめる。
「アスカは?」
「ん?」
「ネルフが無くなって、軍に行くんですか?」
「さあ? 上の方のこともあるしね。あれだけの履歴があればどこからも引っ張りだこだし」
「そうですか……ドイツに帰るのかな?」
「帰ってどうするの? 帰ったって英雄扱いされるだけよ」
シンジは軽く首を傾げた。
「いけないんですか? それじゃあ」
「アスカはそんなことを望んだりはしないわ」
「英雄視されるのに?」
「でも英雄って呼ばれる人が褒められるのは、過去に成した偉業のことばかりでしょう? つまり今誇るものがなにもない人のことを言うのよ」
「酷いですね……」
「でもそれが真実よ。だからアスカなら、そんな過去の人にされるくらいなら、あの子は前を向いて走り続けることを選ぶでしょうね、限界が来るまで」
その様子が克明に思い浮かんでしまったのか? シンジはそうですねと同意した。
「らしいかもしれませんね、その方が……なんです?」
「ううん」
ミサトは足を投げ出し、壁に背を預け、くつろいだ姿勢を取った。
「シンジ君には……こっちの方が水が合ってるんだなって感じただけよ。悔しかったけど……あたしたちなんてその程度に思われてただけだったのかってね? でも」
「そうですね……。結局、僕もミサトさんたちと変わらなかったんですよ」
「変わらなかった?」
「はい。必要とされたい。大事にされたい……。違うかな? お前はいらないって言われるのが恐くて、耐えられなくて。そう口にされないだけの価値を何か手に入れたかったんだ。アスカが特にそうでしたよね? 違いは一つ。アスカはネルフって手段をもう持ってたんだ。エヴァのパイロットって方法を見つけてた。でも僕はその方法を捜してるところだった」
「そしてネルフは……エヴァはあなたの力には成り得なかったのね」
「そういうことですね。嫌な目に遭わされ続けて、我慢の限界が来たんですよ。こんな必要のされ方なんて我慢できないって」
でもと口にする。
「覚えてますか? トウジがああなって、僕が逃げ出すって言い出した時のことを」
「ええ」
「あの時は、結局僕は戻りました……あの時と今とでは、一つだけ違っていることがあるんです」
わかりますかと、シンジはミサトに投げかけた。
「僕にしかできない、僕だけにできること……今のネルフに、そんなものはないんですよ」
●
──シンジはぼんやりと窓の外にある青空へと視線を投じていた。
もう少しで授業は終わる。
翌日、あっさりとミサトのことは知られてしまった。シンジだけが住んでいるはずのところに見慣れぬ車が停められていれば、隠すという方が無理であった。
それから丸一日をかけて根ほり葉ほりと聞き出され、そしてまた日が経っている。
ただ……その間に一番色々とあったのは、実はカエデであったのだが。
「でも意外よねぇ、シンジ君って頼れるような人がいないんだって思ってた」
シンジに行ってらっしゃいと手を振っていた、ミサトのことを思い返しての言葉である。
『あああああー!? あれ、誰だよっ、シンジぃ!』
ヒョウスケが一番興奮していたかもしれない。
下校途中、コイシ、イチゴ、カエデの三人は、湖畔にある公園のベンチに腰掛けて、一緒にアイスをほおばっていた。
「天涯孤独って言うか、そうなんだって思ってた」
コイシである。返したのはイチゴだった。
「でも彼は未成年だわ」
「そりゃそうだけどぉ」
「あの人がシンジ君の保証人だった、それだけのことよ」
「う〜〜〜ん……。でも場合に因るんじゃない? 弁護士さんとかでも良いんでしょ?」
「そうね」
「シンジ君ってさぁ、すっごくしっかりしてるじゃない? だからなんとなくそう思ってたんだけど……カエデ?」
「……え?」
「どうしたの?」
「ううんっ、なんでもないの」
パタパタと手を振り、ごまかそうとする。
「あ〜〜〜!? 赤くなってるぅ」
「ぅん……」
「なに?」
「……シンジ君と、デートしたの」
「え────!?」
コイシはきらきらと瞳を輝かせた。
「それっていつ!?」
「ヤダ! ……昨日。だって葛城さんが──」
『シンジ君、水澄さんとデートしてきなさい』
そう口にされたのは二日前のことである。
『なんですかいきなり』
ミサトがシーシーと爪楊枝で歯を掃除しているのは、カエデの作る晩ご飯に、ご相伴を預かったからであった。
『単に安心したいだけよ、あたしがね』
『はぁ?』
『幸せにやってんだなぁってね? それだけ』
『そうですか……』
『デート代くらい出してあげるからさ』
「ほんとはね……ちょっとだけ心配だったの」
カエデは二人に不安を明かした。
「シンジ君……あの人のこと、好きなのかもしれないって」
二人はどうだろうと苦笑した。
住宅地から外れた湖側の林である。シンジはその先に寝転がっていた。
「ようっ、シンジ」
普段から行動を共にしているだけに、その行動半径はどうしても似る。シンジがどこに逃げたかなどは、考える必要もないことだった。
「なんだ、ヒョウスケか」
首だけ起こし確認するような無精さに、ヒョウスケは呆れた調子で言い返した。
「なんだはないだろう? 水澄が捜してたぜ」
ヒョウスケはシンジの隣に腰掛けた。
芝は少し湿気っていて気持ち悪いが、気にならないと言えばその程度のものでもあった。シンジも付き合って座り直し、共に並んで湖を眺めた。
「なんかあったのか? お前ら」
ヒョウスケは唐突な感じで問いかけた。
「縁川と森野がはしゃいでたんだよ。水澄いじめてた」
シンジは苦笑し、そうかと打ち明けることにした。
「ヒョウスケ、さ……」
「あん?」
「エッチってしたことって、ある?」
──ブゥ!
「なっ、なにを!」
「ないか」
「いやあるけど」
「…………」
「俺らもう十七だぜ? っておい、シンジお前」
「うん」
素でこぼす。
「この間さ、水澄さんに奥手すぎるって言われて」
「それでお前」
「イタシテしまいました」
そっか……とヒョウスケは口にした。
それも感慨深げにだ。
「水澄と」
「うん。……変な想像しないでよ?」
「するかよ……で?」
「うん?」
「胸、大きかったか?」
「ちょっとね」
「そっか……」
「…………」
「…………」
「だから変な想像するなってば!」
「してないって」
それにしては顔がにやけていた。
「で、なんだよ? なにブルーになってんだ?」
「いや……さ」
シンジはため息まじりに打ち明けた。
「昨日、デートしたんだけどね」
怪訝そうにするヒョウスケに、シンジは半分がた相談するような調子で口にした。
「性格かな……。水澄さんに合わせることができなかったんだよ」
「合わせるって……」
「浮かれるってことができなかったんだ」
「そっか……お前って冷めてるもんな」
「そうなんだよね……」
「それでこんなところに一人でいたのか?」
「……それもあるけど」
「なんだよ?」
「ミサトさんだよ」
「あの人がどうかしたのか?」
「デートもミサトさんに言われたからしたんだよ」
「なんだよそれ?」
「そういうお節介焼きなんだよ、あの人は。でも人に言われるままで良いのかなってさ。水澄さんはよろこんでくれてたけど」
「そっか」
おいっとヒョウスケはシンジの胸ぐらを掴み、顔を近づけた。
「で、お前はこんなとこでなにやってんだよ」
「なにって……」
「行けよ、水澄のところに」
押し離すヒョウスケだ。
「こんなところでカッコつけてんじゃねぇよ」
「そういうわけじゃないけど」
「水澄がよろこんでたんならいいじゃねぇか、なにが悪いんだよ」
「僕がしたくてしたことじゃないってとこかな……」
「それがカッコ付けなんだよ」
「そうかな?」
「気に入らないだけなんだろ? だけど悩んでたって答えなんて出ないだろ」
「そうだろうけどさ……」
「隠れてたって仕方ないだろ?」
「そうなんだけど」
両の膝を立てて、シンジはその足の間にうなだれた。
「だめなんだよ……あの人が居るとどうしても自然にしてられないんだよ」
「そうなのか?」
「うん……。不自然になるんだよな。身構えてるのが自分でもわかってさ」
「苦手なのか?」
「それもある。ヒョウスケはさ」
「なんだよ?」
「森野さんと付き合ってるんだよね?」
「ああ」
「こういうの、悩んだことないの?」
「ある」
「そうなの?」
「あるさ。……お前は知らないだろうけどな、あいつって、病気なんだ」
「病気?」
「ああ……。『停滞』って言ってな、鬱になると止まっちまうんだよ」
「止まるって」
「そのまんま。仮死状態になるんだ」
シンジは意味がわからず首を傾げた。
「そんなことってあるの?」
「ああ。あいつ、本当は二十三なんだ」
「え!?」
「六年も寝てたんだってさ……最初はあいつ、一生恋なんてしないとか言ってたんだぜ? どうせ受け入れてくれる奴なんていないってさ」
「そうなんだ……」
「ショックだろ? 俺もショックだった。でも俺らが悩んでるとあいつもブルーになるんだよな。だからもう押せ押せでさ。気が付いたら今の状態」
明るく笑う。
「とにかく遊び回ってさ、無理してはしゃいでさ、気が付いたらキスしてた」
「そっか……」
「今頃水澄もブルー入ってるかもしんねぇぞ? 避けられちゃったのかなってさ」
「そうかも……」
「シンジさ」
「うん?」
「お前、セカンドチルドレンと知り合いなんだろ?」
──木陰で、誰かが足を止めた。
「どうして……」
シンジは驚きに目を丸くして、ヒョウスケの横顔を凝視した。
「なんで……」
「マタグだよ。あいつ……セカンドチルドレンの中学の頃の写真持っててさ、そこにお前も写ってた」
シンジはその写真の出所を、おおよその正確さで見当を付けた。
(ケンスケの写真がまだ残ってたんだ)
「スッゲェ親しそうでさ、お前、セカンドと付き合ってたのか?」
「いや……」
「そっか」
「一緒に暮らしてたんだ」
今度はヒョウスケが息を飲んだ。
「マジかよ」
「うん……」
シンジは足を伸ばして後ろに手を突き、空を見上げた。
「あの頃僕は……サードチルドレンって呼ばれてた」
「へ?」
「サードチルドレン……僕はエヴァンゲリオンのパイロットをやってたんだ」
「まさか……マジかよ?」
「うん」
「…………」
「でも僕は、アスカ……セカンドチルドレンに全部押し付けて、この街に逃げてきたんだよ。逃げ出してきたんだ」
「なんで?」
「やる気がしなくなったから」
「はん?」
「友達とか、家族とかさ……僕にはそういう守りたいものがなにもなかったんだ」
ヒョウスケは今のシンジの境遇を思い出し、気を落ち着けようと試みた。
「なんとなくわかるな……お前、ほんとは寂しいんだろ?」
「うん?」
「あんなところに一人で居てさ」
「そうだね……」
苦笑する。
「だから水澄さんを好きになったのかもしれないな」
「好きなんだな?」
「そりゃそうだよ……そうでもないのにエッチなんてしないよ」
「そうだよな、で?」
「なに?」
「なんで逃げ出して来たんだよ? エヴァンゲリオンのパイロットって言えばさ」
シンジは小さくかぶりを振った。
「大きすぎるんだよ……期待がさ」
「期待が?」
「うん。重くて、僕は潰されそうだった」
「そっか」
「……褒められたかったんだ。僕はただ、必要だって、ここにいて欲しいって思われたかったんだよ。でもそうするためには頑張らなくちゃならなくて、でも頑張れば頑張るほどちょっとしたことで凄く怒られるようになっていってさ……。やって当然、やれて当然。そんな風に見られるようになっていってさ、なんでこんなことやってなくちゃならないんだろうって思ったんだよ。疲れたんだと思う。そうしたらもうだめになった」
「そっか」
「それで、やめた。大体僕が乗ってたのはただ相性が良かったってだけだったからなんだ。エヴァってのは相性が全部で、パイロットの腕がどうとかなんて二の次のことだったんだよ。誰にでも動かせるものじゃなかったから……。でも誰にでも動かせるようなエヴァが作られるようになってくると、今度は腕の悪いパイロットよりは、多少相性が悪くても、腕の良いパイロットの方が良いって話になって来るに決まってるだろう? だから僕も、もう、必要とはされなくなって来てるなって感じてたんだ」
「それで先にやめてやったのか?」
「そういうことだね」
あ〜〜〜あとヒョウスケは後ろに倒れて、頭の下に腕を組んだ。
「っかし、スッゲェ驚いたよ……。シンジがエヴァのパイロットだったなんてさ」
「実はミサトさんは作戦部長だったんだ」
起きあがる。
「マジかよ?」
「うん。僕とセカンドはミサトさんのところで共同生活をやってたんだよ。ヒョウスケが見たって写真はその頃のやつだと思うよ? まだ仲が良かった頃の」
「今は悪いみたいな言い方だな?」
「かなり悪いよ、セカンドは逃げ出すような臆病者を許すような人じゃないから」
「っぽいよなぁ……」
「多分……ミサトさん経由で今の僕のことって伝わるんだよな。だから」
「それで水澄にぎこちない真似してんのか」
「タイミング悪すぎだよぉ……。水澄さんと付き合うことになったかと思えばこれだもんな。しっかりちゃかされたし」
「あのシャツか?」
「そういうこと!」
シンジは立ち上がると、お尻の草を払い落とした。
「行くのか?」
「水澄さんが捜してたんだろ? ヒョウスケの言う通りだよ、こんなことで水澄さんを避けて嫌われちゃもったいないしね?」
じゃなっとヒョウスケは手を振ってシンジが去るのを見送った。
そしてまだ寝転がっているままのヒョウスケに気取られぬよう……水澄カエデは身を翻したのだった。
──翌日になって、ミサトは第三新東京市へと戻っていった。
『ま、閑職だって言ってもあけっぱなしってワケにもいかないしね。ちょっとした休暇気分だったけど、楽しかったわ』
そして車に乗り込み、彼女は一つだけシンジに訊ねた。
『これだけは教えて欲しいの。もし……ここに使徒が来て、ここにエヴァがあって、あなたしか乗れないとしたら、あなたはどうする?』
シンジは苦笑しながらもはっきりと答えた。
『乗りますよ』
『そう……』
『ここでなら僕は乗れます』
『そう……やっぱり落ち込むわね』
『え?』
『だってそうじゃない?』
ミサトはシンジへと片目をつむった。
『大事にしたかったんじゃないって、今なら言えるわ。あたしはシンジ君に、家族に大事にされたかったのよ』
『ミサトさん……』
『皮肉なものね、大人のつもりが子供だったわ。だから突き放そうとするシンジ君に八つ当たりをして、自分から大事だと思ってもらえたかもしれない機会を放棄して』
『…………』
『そしてシンジ君は、大人になって……あの頃あたしが与えるつもりになっていたものを、与えられる人間になっている。ほんと、皮肉なものよね』
『そうかもしれませんね……』
『ええ、だから忠告』
『なんですか?』
『アスカはまだシンジ君のことを忘れてないわ……ただ、あの子がどういう気持ちを持っているのか? そこまではわからないけどね』
じゃあ……と彼女は胃が重くなるような言葉を残して去ってくれた。
「シンジ君」
シンジは突っ伏していた机から顔を上げた。
「水澄さん」
「どうしたの? 登校した途端に居眠りなんて……」
心配するカエデに対して、シンジはなんでもないよと愛想笑いをした。
「はは……ちょっと寝不足で」
「そう……」
あの……と、カエデは話しづらそうに胸元に手を置き、おどおどと口にした。
「その……昨日はごめんなさい」
「うん?」
「ご飯作りに行かなくて……」
「ううん、いいけどさ」
「ご飯、どうしたの?」
「縁川さんとこに買いに行ったけど?」
「そうなの……、葛城さんは? 今朝車なかったみたいだったけど」
「うん……帰ったよ。これ以上休んでるわけにもいかないってさ」
「そうなんだ」
そっかと安堵するカエデの様子は、非常に不自然なものだった。
「水澄さん?」
訝しげに眉を歪めるシンジに対して、カエデは思い切るようにして口にした。
「あ、あの、実はね? あたし、昨日……」
「大変だ大変だ大変だー!」
ばたばたと男の子が駆け込んできて、カエデは話すチャンスを失ってしまった。
ヒョウスケがようっと気軽に声をかける。
「マタグ、おはよ」
「おはよ。みんな聞いてくれ……遅刻遅刻」
「それ、順番逆だろう」
もちろんイチゴも追随する。
「そのギャグ、前に聞いたわ……ヒョウスケのネタね」
「良く覚えてるわね、イチゴ」
コイシにブイッと指を突き出すイチゴである。
「そんなことよりもぉ!」
廊下がとても騒がしい。
そしてその騒がしさは徐々に近づいてくるようであった。
開きっぱなしの扉や窓から廊下の様子は確認できる。
人が怯えるように下がって距離を取ろうとしているのがわかった。信じられないと興奮しているのもまたわかる。
扉の陰から、すっと金色の髪を持つ少女が姿を現した。
黒のネックシャツに、同じく黒のタイトスカートを穿き、赤いジャケットを羽織っていた。
頭には赤い帽子を被っており、一目で普通ではない職種の人間であると確認できる。
なによりも彼女は黒服に身を包んだ屈強な男を背後に二人ほど従えていた。
ゆっくりと、その青い目が室内の人間の顔を確認していく。そしてその目は、側に背の高い女子生徒を立たせている、平和な凡人の中にとけ込んでいる少年を見つけ、細まった。
誰かが言った。
「セカンドチルドレンだ」
──彼女は尊大な態度で顎をしゃくった。
こちらへ来いと、誰かを呼んだ。
「シンジ君?」
シンジは不安げなカエデに大丈夫だよと笑いかけ、彼女──アスカの誘いに乗って、立ち上がった。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。