「良い場所ね、ここは」
 彼女は風にそよぐ髪に手櫛を差し込み、とても穏やかな笑みを浮かべた。
 学校の裏手には芝に覆われた丘があった。ほんの少しばかり離れた場所に、無粋な黒服の男たちが立っている。護衛であろうが……二人は気にしていなかった。
 慣れているからだ。
「第三が夏の街なら、ここは初夏の匂いがするわ」
 彼は彼女の隣に立っていた。
 昔と違い、胸を張って隣に並んでいた。
「そうだね」
 その目はさわやかな風に舞う彼女の髪に見とれていた。
「何もかもが穏やかでさ……、時々だけど、時間の流れが止まってるように感じるよ」
 苦笑する。
「……必死ね」
「なにさ」
「あたしたち」
「うん?」
「お互いに引っかかってるものがあるってのに……なんとか喧嘩にならないようにって、必死に言葉を選んでる。おかしくない?」
 少年の口元にも苦笑いが浮かび上がった。
「そうだね……喧嘩なんてしたくないんだ、君は?」
「あたしもよ」
 少女は手を差し出した。
「久しぶりね、シンジ。でも君っていうのはよしてくれない? 他人行儀で嫌だから」
 そして少年は、華奢に感じる手を握り返した。
「久しぶり……アスカ。わかったよ、これで良い?」
 上出来よ、と、力を篭める。
 大きくなった手のひらが……、そしてあの頃と違う繊細な指が。
 互いに時の流れを感じさせた。


 バラバラと空にヘリが飛ぶ。
「うわぁ……」
 運動場には体育の授業が始まるのを待っているコイシたちの姿があった。
「すっごい騒ぎになってる」
「そうね」
 無愛想にイチゴが答える。
「これで四機目よ」
「そりゃそうだよ」
 マタグが現れ、彼女らの会話に混ざり込んだ。
「最近大きなニュースがなかったからね。ほとんどの局が来てるんじゃない?」
「おおーい!」
 ヒョウスケはヘリに向かって手を振った。
「碇シンジはここに居まぁっす!」
 慌てて組み付き、シンジはやめさせようとした。
「やめてよっ、もう!」
「聞いてますかぁ! 聞こえてますかぁ!」
「まったくもぉ!」
 あれっと、こちらも体操着姿の男子一同を見渡して、コイシはシンジに問いかけた。
「なんで居るの?」
「なんでって……」
「そりゃ授業があるからだろ?」
「でもセカンドチルドレンよぉ!? あのセカンドチルドレンが会いに来てるっていうのに」
「大物なのね」
「イチゴ?」
「セカンドチルドレンを待たせることができるほどの神経……うらやましいわ」
「なんだよそれ……」
 わっかんねぇのかよぉっと、そんなシンジの首に腕をからめてヒョウスケはからかった。
「あの可愛さ、綺麗さ! こいつら待たせんのと意味が違うぜ」
 なによもぉっとコイシはむくれ、腕を組んでそっぽを向いた。
 イチゴもまた同調する。
「こちらは女子高生の体操着姿よ」
 セカンドチルドレンは学生ではないと言いたいらしい。ヒョウスケは正確に意図を読みとり、あのなぁと頭を掻いた。
「そんなもん見飽きてんだよぉ……。セカンドチルドレンみたいに綺麗になってから言えって……」
 そこまで告げてから、改めて見て、ごくりと大きく生唾を飲み下す。
「いや……あの」
 目のやり場に困っている。
「……思い切り意識してるじゃない」
 コイシは冷たい視線を投げかけた。
「シンジ君……」
 不安げに声をかけたのはカエデであった。
 うん? っと鈍感さをシンジは見せる。
「どうしたの? 水澄さん」
「あのねぇ!」
 コイシが割り込む。
「シンジ君ニブ過ぎ! 心配してるんじゃない」
「ああ……」
 苦笑する。
「大丈夫だよ、なんでもないから」
「でもぉ……」
「水澄さんが心配するようなことは、ホント、なんにもないんだから……」
 ヒョウスケとマタグがなにかを言いたげな顔つきになったが、コイシはそれに気づかなかった。
「でもわざわざ会いに来るってなにかイミシン……」
「あの人はそういう人だよ」
「そうなの?」
「うん……あ、それから、綺麗だなんて言わない方が良いよ? 怒るから」
「え? どうして」
 あの人はねっと、シンジは遠い目をして語り出した。
「自分の顔が嫌いなんだよ」
 少女たち三人は、一斉に目を丸くして驚いた。
「うそ……信じられない」
「でもホントだよ」
 内緒にね? と口止めをする。
「一番古い記憶っていうのがさ、誰かにクォーターだってことでバカにされてるところなんだってさ。物心ついた時にはもういじめられてたんだって、顔のことで」
「へぇ……」
「ドイツってさ、昔の戦争のことをずっと引きずってる人が多いらしくて、日本人は嫌われててね……。だからかな? さんざんバカにされてきたらしいんだよな。だから自分の顔が可愛いとか、綺麗だとかって、そういうの、全然意識できないんだって前に言ってた」
「ふうん……そっか」
「あの人の基準は、ドイツ人なのね……」
「そういうことだよ」
 ──体育教師の呼び声が聞こえた。
「お、始まるみたいだぜ」
 おらおらとヒョウスケは少女たちを追い払った。
「お前らこっちのグラウンドじゃないだろぉ? 行った行ったぁ!」
 ぶぅっとむくれる。
「なによぉ! その態度はぁ」
「シンジ君……」
「あ、じゃあ」
「うん……」
 シンジは後ろ髪を引かれているような気がして振り返った。
「水澄さん」
「はい」
 顔を上げたカエデに、シンジは優しく微笑みかけた。
「今日、晩、待ってるから」
「はい!」
 じゃあっと去るシンジに、ほぉっと残った一同は感心した様子を見せた。
「シンジ君って……」
「やだぁ……」
「カッコイイのね」
 女性陣の評価に少年二人は顔を見合わせた、複雑そうに。
「はぁ……」
 そしてシンジは、駆ける途中で空を見上げて、青空にとけ込んでいるヘリに対し、目を細めた。
(でも……ほんとにどうしようか?)
 晩にはカエデが来るのだから、それまでにアスカのことは片づけたいと、算段を立てる。
(ミサトさんには……あんなこと言われちゃったしなぁ)
 ──ただ、あの子がどういう気持ちを持っているのか? そこまではわからないけどね。


 アスカは授業が終わるまでということで、湖畔の貸しボート屋へと、暇を潰しに足を運んでいた。
 ボートに乗って、湖の上に浮かび、揺られている。彼女は寝そべりながら、誰かに電話をかけようとしていた。
 なるべく邪魔が入らないようにと注意した結果が、この湖の上でもあったのだ。


「そう、シンジ君……元気だったの、よかったじゃない」
 見覚えのある部屋である。
 一台の端末と、壁を埋める膨大な数の資料集。
 それに、灰皿には吸い殻がうずたかく積まれていた。
 そこは赤木リツコの部屋であった。
「はいはい。和解できて浮かれてるのはわかるけど、さっさと帰ってきなさい。仕事はいくらでもあるんだから、じゃあね?」
 彼女が携帯電話を切ると、待ちくたびれていたように、別の人物からの着信がかかった。
「はい。アスカ?」
 彼女はなぜだか姿勢を正した。
 わずかな緊張がかいま見える。
「なんとか話せた? 今は……授業ね。まあ良いんじゃない? インターバルを置いた方が、あなたはなにかと感情的になりやすいから」
 そうねと心の伴わない声が聞こえた。
「シンジ君だって警戒してるのよ。サードインパクトを阻止した英雄……なんて呼ばれるたびに、犠牲にしてしまったレイのことを思い出して、傷ついて……。あなたもそれに手を貸していたでしょう?」
 わかってる、と、相手からは聞こえた。
「本当にわかってるの? あの子がやめるって言い出した日のことを。僕にはもう耐えられません、ってね? あなたには、願いが叶ったねって、みんなあなただけを見るようになるよって、皮肉まで言ったのよ? あの子が……」
 返事がない。だが、聞いているのはわかっている。
「見失ったもの……失ったもの、その代わりを見つけ出させるためにも、今はネルフから離れさせた方が良い。……そう判断されたからこそ、ネルフは許可を出したのよ。彼の処理が退役ではなくて、長期休暇扱いになっているのは、だからなのよ?」
 相手は電波の先であるというのに、リツコは言葉の意図を探られないよう、表情というものを消していた。
「どんなに称えられたって、あの子には皮肉としか聞こえていなかったのよ。その傷をようやく癒せたかと思ったら、狙ったかのようにあなたたちが連続して現れた……これでは警戒するなって方がおかしいわ」
 どうすればいいのよ、と、相手方の言葉は非常に頼りなくなっていた。
「焦らず、会話を持つことね。毛嫌いされてるわけじゃなかったでしょう?」
 じゃあねと彼女は電話を切った。


 ──午後三時。
 じゃあっと彼らは、いつもとは違った場所で別れの言葉を告げ合った。
 住宅街とは違った方角へと去っていくシンジの背中を、残る五人はじっと見つめ、見送ろうとした。
「いいの? カエデ」
 コイシは我慢できないと問いかけた。
「行かせちゃって」
 カエデは控えめな臆病さをかいま見せた。
「うん……信じてるから」
「信じてる……」
「イチゴ?」
「便利な言葉ね」
「そんな嫌な言い方しなくたって!」
 やめろよとヒョウスケは割って入った。
「それよりさ……おっかけようぜ?」
 彼は皆を驚かせた。
「な? マタグはどうなんだよ」
 もちろん行くよと彼は答えた。
 ──こうして先を歩くシンジと、隠れて後を着ける五人という構図ができあがったのである。
「でも信じられないなぁ……あのシンジ君がエヴァンゲリオンのパイロットだっただなんて」
 疑念まじりの言葉を吐いたのはコイシであった。
「そうね」
「ね? イチゴもそう思うでしょ?」
「でも、なんとなくわかる気もするわ」
「そう?」
「見た目よりも大人っぽく感じること、あったから」
「そうね……」
 田舎の町であるし、湖への道を歩くとなれば人気は少ない。
 それだけにシンジにも彼らの気配は読めていた。
 それでも敢えて無視していたのである。
 ──小山を抜ける道を通って、湖畔に沿った道路に出る。
 車がようやくすれ違えるだけの道幅がある。ガードレールの向こうには林があって、その隙間からは陽光にきらめく湖面の様子が窺えた。
「おっそーい!」
 シンジはそんな照り返しを受けて歩いてくるアスカを見つけて苦笑した。
「ごめん、待った?」
「待たせ過ぎよ! だから迎えに来たんじゃない」
「ごめん……でもなんだよ? その格好は」
「変?」
「どこで着替えたんだよ!」
 まだ距離があったので、最初は怒鳴り合いになっていたのだが、そんな距離はすぐに縮んだ。
 アスカは無粋な軍服を脱ぎ、白を基調としたサマードレスに着替えていた。
 軽くスカートの裾を持ち、広げてくるりと回って見せた。
「どう? 似合う?」
 シンジは眩しいものでも見たかのように目を細めてはにかみ、笑った。
「似合うよ、多分だけどね?」
「なによそれぇ……」
 ぷっとむくれた彼女にごめんと謝る。
「僕にそんなこと、わかるわけないだろう?」
 そうねと笑い、アスカはシンジの腕を取って行こうと誘った。
 隣に並んでゆっくりと歩む。
「ねぇ?」
 アスカはシンジの腕を使って顔を隠し、ちらちらと後方を窺った。
「見られてるけど、良いの? ねぇ?」
 やはりここでも苦笑する。
「なに焦ってんだよ」
「別にっ! ただなんとなくね……」
 大丈夫だよと腕に絡まる手を叩く。
「適当にごまかすからさ」
「そう……」
 ねぇっと彼女は会話を求めた。
「今って……彼女、いる?」
「いるよ。後ろにね」
「そっか……」
「がっかりした?」
「なっ、なに言ってんのよ!」
「だから焦んなくってもさ」
 くすくすと笑うシンジに、アスカはむぅっと頬をふくらませてあからさまに拗ねた。
「なによもぉ! 可愛くないわねぇ……。あ〜あ! あの可愛いバカシンジ様はどこに行ったんだろ……」
 言いながらも、彼女はシンジの様子を窺っていた。
 すっと背筋を伸ばし、前を見て歩く姿は大人にも見える。
「……一人で苦労してれば、すこしは大人にもなるさ」
「そぉ?」
「そうだよ」
「苦労って?」
「あの街じゃ……お節介な人が多かったからね、いろんな所に甘えられる人が居ただろ?」
「そうね……」
「でも今の僕にはお節介を焼いてくれる人なんて誰もいないからね。自分で何とかするしかないんだよ、だから」
「甘えが抜けたってわけね」
「うん……アスカはどうなの?」
「あたし?」
「うん。まだ甘えてるの? 誰かに……ネルフに」
 わずかばかりの緊張感が漂った。
「その通りよ」
 彼女の顔つきは真剣な……セカンドチルドレンのものへと変貌する。しかしそれは一瞬のことであった。
 アスカはふっと表情を和らげた。
「でももうそれも終わりよ」
「終わりか……」
「ええ。その点、自分からやめたあんたの方が格好が付いてるわね。あたしは」
「言わなくても良いよ」
「……ありがと」
「いいよ」
 後を着けていた五人組は、カーブを盾にしていたために、雰囲気だけを盗み見ることとなってしまっていた。
「なに話してるんだろ?」
 興味津々とコイシである。
「雰囲気は良いわね」
「まるで恋人同士みたい」
「イチゴ」
 カエデのことを心配し、コイシは彼女をたしなめた。
 一方男二人はと言えば……。
「くっそぉ……シンジの野郎、そういうことだったのか」
「え? なんの話?」
「シンジの奴ぅ……同居してただなんて言って、ほんとは同棲してたんじゃないか!」
『ええっ!? 同棲!?』
 ついつい耳にして、女の子たちも悲鳴を上げた。
「うっそ!? それってホントなの!?」
「シンジ君……」
「やるわね」
 ──パシッ。
 それはヒョウスケが手のひらに拳を打ち付けた音だった。
「そうじゃねぇだろ!? シンジの奴ぅ、奥手なふりしやがって」
 マタグなどはぷるぷると震えていた。
「もしそうなら……、僕はシンジのこと、許せそうにないよ」
「良いねぇ! 静かに燃えてんねぇ!」
 轟々と嫉妬の炎を立ち上らせる二人である。
「で」
 冷ややかにイチゴが訊ねた。
「なにがそんなにうらやましいの?」
「そんなの決まってんだろう!?」
「なぁにが決まってるの?」
 ヒョウスケはようやく気が付いた。
「あ、いや……その」
 コイシとイチゴの視線にたじろぐ。
 まさか自分の彼女に不満があるとも言えないし、かと言ってあのような可愛い子ととなんてと口にしても語弊は残る。
 結局……どう言葉を選んだとしても角が立ってしまうために、ヒョウスケは答えに窮してしまったのであった。
「シンジ君……」
 そしてそんな微笑ましい騒ぎを余所に、一人、カエデはつぶやいていた。


「で」
 アスカははしゃぎ問いかけた。
「どこに連れてってくれるわけ?」
 シンジは生意気にも彼女のことを見下ろし答えた。
「行ってみたいところってないの?」
 そうねとアスカは、空いている側の手を持ち上げ、ぷっくりとした唇に指先を当てた。
 そして少しだけ、「う〜ん」と唸って、そうだと明るい声を発した。
「あんたがいつも行くところ!」
「へ?」
「本屋でも買い物でも散歩でも良いわ、ね?」
「じゃあ……」
 まずはとシンジはアスカを誘った。昔のように、そんなので良いのとは聞き直さないし、理由を訊ね直すこともしなかった。
 そこには確かな成長があった。


 ──別にね、あんたのこと、妬んでたわけじゃないのよ?
 シンジが案内したのは町だった。町と言っても田舎の商店街であるし、そうそう立派なところもない。
 しかし第三新東京市とドイツの街を知るだけのアスカにとっては、十分に物珍しい空間であった。
「ここは元々観光地にする予定だったらしいからね……。観光客目当ての立派な建物と、昔からの店とでごちゃごちゃなんだよ」
 ふうんとアスカは一瞥した。
「だからか」
「なにさ?」
「道は広いし、店も綺麗で、素敵なところもあるのに、人が少ないじゃない?」
「……そうだね」
「普通は町って、人が増えるのに合わせて大きくなっていくものじゃない? なのにここは最初からこの大きさみたいな設計になってるからさ」
「見込み違いってことになっちゃったんだろうね」
「流入すべき人口数が希望値に達しなかったってことか」
 あるいは……その後の言葉をアスカは飲み込み、シンジも訊ねることはしなかった。
 ──あるいは、政府が制限をかけているのか?
 それは口にするまでもないことだからだ。
 ……商店街には喫茶店があって、天候が良いからか、たくさんの椅子が陽の下に並べられていた。そこには若い男女が居て、時折シンジの隣を歩くアスカを目にし、まさかといった様子を見せる。
 アスカはくすくすと笑って問いかけた。
「ねぇ? あんた……明日からは大変なんじゃない?」
「なんでさ?」
「あんたのこと、噂になるわね、きっと」
「……かもね」
「どうするの?」
「なにもしやしないさ」
 肩をすくめる。
「昔の知り合いだからってことで案内役に指名された……それだけだよ」
 そう……。アスカはしょんぼりと下を向いた。
 何か失敗しただろうか? シンジはそんな表情になったが、口に出しては問いかけなかった。
 これもまたこの町へやって来てから学んだことの一つであった。彼女はなにかを話そうとしていると……それを待てるようになっていた。
「あたしね……」
 シンジはなるべく話しやすいように声を選んだ。
「どうしたの?」
「あんたと話さなきゃって思ってたのよ」
「僕と?」
「あんた……あたしを恨んでない?」
 シンジはアスカの震えを腕に感じて、少し休もうと促した。


 ──商店街を外れると、景色はすぐに田畑のものになる。
 それでも用心深くあぜ道を歩く。相変わらず報道ヘリは飛んでいる……しかしインタビュアーが現れるようなことはない。
 その理由を、シンジもアスカも承知していた。
「落ち着かないよね」
 空を見上げて、蠅のように後を追ってくるヘリに目を細めた。
「なにもあんな方法で監視しなくても、人工衛星があるんだろうにさ」
「……緊急で駆けつけるためには、ああいう待機の方法も必要なのよ」
 暗いね……シンジはそう問いかけた。
「なに暗くなってるのさ」
 用水路の土手に腰掛ける。
 アスカも習って雑草の上にお尻を落とした。
 清涼な水が溝の中を流れている。そして緑なす苗の上を、小虫たちが飛んでいた。
 ややあって……アスカはその胸中を打ち明けた。
「恐いのよ」
 シンジは驚いたように目を丸くして問い返した。
「恐い? アスカが? 僕をってこと?」
「そうよ……」
 アスカは無理にも顔を上げた。
「ずっと気になってた。考えれば考えるほど恐くなって、我慢できなくなって来てた……あんたに嫌われてるのかどうか、気になって気になって仕方なかったのよ」
 なんでそんなにとシンジは不思議そうにした。
 どんなに間違っても恋心を抱かれていたとは思えないのだ。だからこそこのこだわり具合は理解できない。
 だからシンジは、率直に訊ねることにした。
「ねぇ」
「ん?」
「アスカは……もし、僕に嫌われてたとしても、どうってことはないはずだろう? なのになんでさ」
 アスカは恨めしげにシンジを睨んだ。
「……それはあんたが、勝手にそう思ってるだけよ」
「僕が?」
 そうよと頷く。
「あたしは期待してたのよね……あんたに」
 アスカはぽつりぽつりとこぼし始めた。
「ドイツからこっちに移ることになったとき……あたしはサードってどんな奴なんだろうって想像してたわ」
 懐かしげに目を細める。それはシンジに、きっとあの頃のことを思い出しているのだと想像させるのに十分な仕草であった。
「使徒との交戦記録を見てね? あんなの相手によく戦ってきたなって思ってた。それなのにあんたって頼りなくって、情けなくって……」
 思い出は飛ぶ。
「でもユニゾンの特訓の時、あんたはやって見せたじゃない? 火口に飛び込んで来てくれた時も嬉しかった。やるときはやる奴なんだってわかったから、どんどん期待するようになって行ったの。正直何度も見直して……それからだんだんと、あんたと一緒にいるのが楽しくなって、面白いように感じるようになって行ったわ」
 そうだねとシンジもまた過去を邂逅し、同意した。
「確かにあの頃は楽しかったな……」
「ええ」
 柔らかくなったのも一瞬、すぐに固い顔つきになった。
「でもね、妬いてたのかもしれない……」
「妬いてた?」
「レイによ」
「綾波に?」
「だってあんたって、あの子に話しかけるときには必死だったじゃない……なんとか会話を成り立たせようってさ? 好きとか嫌いとかじゃなくて」
 わかるよと告げる。
「こだわって欲しかったんだろ? アスカは……」
「そうね」
「そういうところ、あったよな。あの頃の僕にはそんなのわからなかったけど」
「ええ。あたしにもあれくらい必死になって話しかけなさいよってね? それからよ。あんたたちを見てるとイライラしちゃってさ、バカみたいでしょ?」
 儚く笑う。
「その後はもうボロボロよ。シンクロ率は落ち始めるし、あんたが使徒に飲み込まれた時なんて、暴走したエヴァを見て、エヴァそのものが恐くなったし、それでも八つ当たりしかできなくて……」
「…………」
「あんたには、なんだよって言い返して欲しかったのよ。そういう強い男なんだってところを見せて欲しかったのよ。……勝手なのはわかってる。でもあんたはおろおろとするばっかりで、そんなあんたなんて見ていたくなくて」
 好きだったわけじゃない、とくり返した。
「ただ期待してたのよ……。その期待に応えて欲しかった。あんたがネルフを辞めるって言い出したときもそうだった。こんなに期待してるのにって腹立たしかったのよ。ミサトは単にあんたのことを妬んでるだけだって思い込んでたみたいだけどね?」
 そうだろうねと理解を示す。
「僕だってそれくらいのことはわかってたよ」
「わかってたんだ……」
「でもわかるのが遅すぎた」
 アスカはどきりとしたようだった。
 シンジの瞳が、かつて見たこともないほどに、真剣なものであったからだ。
「気が付いたのは、ネルフを出ようって思うようになってからのことだったんだ。なんだかんだ言いながら、アスカって逃げ出すことを許してくれなかっただろう? なんでかなって考えたときにわかったんだよ。ああ、アスカもみんなみたいに、僕になにかを期待しているんだなってわかったんだ。でもその時にはもうばかばかしくって、人が満足するように振る舞うことなんてできなくなってた」
 怯えたようにアスカは訊ねた。
「だから……あんなこと言ったの?」
「あんなこと?」
「見送りに行ったときのことよ」
「ああ……そうだね。価値観を押し付けるだけのミサトさんやアスカや……ネルフのみんなが鬱陶しかったんだ。いつかアスカが言ってたよね? 自分で自分を褒めてやりたいって」
「覚えてたんだ……」
「うん、あの言葉の通りだよ。僕にだってちょっとは楽しいって思えるようなことがあったんだ。でもどんなにそのことを頑張ろうとしたって、誰も許してはくれなかったよ。なにやってるんだって、くだらないことをしてるなって、エヴァのパイロットがなにやってるんだってね?」
「だから拗ねたの?」
「かもしれない」
「だからネルフを捨てたの?」
「そうなんだろうね……。簡単なことだったのかもしれないよ? 頑張ってるねって言ってくれるような『友達』が一人でも居たら……ちょっとは違ってたのかもしれないな。でもみんな、エヴァ以外のことについては、無駄なことだって言うんだよな。それを酷いって感じたときに、僕はネルフを見限ったんだ」


「なんだか良くない雰囲気ね……」
 イチゴがそう口にしたから、みんなはその場から去ることにしたのだ。
 一見のんきな様子であぜ道を歩いているものの、それぞれに胸中は複雑なものによって彩られていた。
「……シンジ君」
 はぁっとコイシが口火を切った。
「あんな顔もするんだ」
「そっだなぁ」
 ヒョウスケである。
「あいつの冷めてるトコって、昔なんかあったんだろうなぁ」
 サードチルドレン……という存在は公式記録からは抹消されているために、どのような活躍をしていたのかを知る術はない。
 しかし対等以上にセカンドチルドレンが扱っていることからも、その戦歴が評価されるに値するものであったことは窺い知ることはできた。
「優柔不断って感じなのにねぇ……」
 はぁっと嘆息するコイシである。
「よくおどおどしてるし……カエデは?」
「え!?」
 カエデはびっくりしたようで、ぴょんと軽く飛び上がった。
「な、なに?」
「カエデは、どう思った? シンジ君がパイロットだったなんて」
 カエデは再びうつむくと、ふるふるとかぶりを振ってわからないと答えた。
「重傷ね」
 それがイチゴの見立てであった。


「ねぇ、シンジ」
 アスカは彼の顔色を窺うようにして口にした。
「キスしようか?」
 はぁっとシンジは信じられないものを見たような目つきをして彼女を見つめた。
「いきなりなに言い出すんだよ?」
「いいの! あたしがしたいんだから……」
 ねっと、手足を伸ばし、拗ねるように言う。
「あんたがもうちょっと頑張ってくれてたら、あたし、きっとあんたを選んでた」
「そうかなぁ?」
「そうよ!」
「でも今の僕は水澄さんのものだから」
「彼女ね?」
「そうだよ」
「ふうん? 大事なんだ……」
「そうさ」
「ずるい……」
「え?」
「ずるい、するいっ、ずるい! あんたっていっつもそうよね……。放っておいてもかまってくれる人間には冷たくってさ、嫌いだって言われちゃいそうな相手には好かれようとして良い顔して……」
 シンジは嫌なこと言うなよとアスカを責めた。
「それとこれとは違うだろ? ……それに」
「なによ?」
「そういうことについては、僕、アスカを信用してないんだ」
 今度はアスカが信じられないというような目になった。
「どういう意味よ?」
 少しだけ険が混ざる。
「答えなさいよ」
「そのままの意味だよ」
 シンジは負けはしなかった。
「キスしよう、なんて、何を考えて言い出したんだよ? 好き嫌いでそんなことを言い出すような人間じゃないってことは知ってるよ」
 真顔で言われて、アスカの瞳から、ポロッと涙がこぼれ落ちた。
「な、によ……あんた、あたしのことそんな風に!」
 しかし容赦なくシンジはアスカの口を塞がせた。
「加持さんとミサトさんが遅くなった日……キスしたよね?」
 泣くアスカに冷静に告げる。
「相手にしてくれないって加持さんへの当てつけだったの? 違うよね……あの時アスカは、自分の気持ちを持てあましてたんだ。だから子供みたいにキスするとなにかがわかるんじゃないかって、なにかが伝わるんじゃないかって、感じ取れるんじゃないかって思ってたんだろ? だからしてみたいって考えたんだ」
 泣き声がやむ。
「アスカはデートに出かけてたよね? あれって敬意を払ったんだろう? アスカは勝負をする前から諦めてるような奴は嫌いでも、勝負しようっていうんなら付き合ってやろうじゃないかって面白がるようなところがあったからさ。でもまあ、実際に会ってみるとすごくくだらない相手だったから、途中で帰ってきたんだろうけどさ」
 違う? とシンジは問いかけた。
「でももしだよ? もしあの時その人になにかの価値を感じ取ってたらどうしてた? 加持さんじゃないし、僕でもないけど、キスぐらいはしてたんじゃないの? 僕はそう思ってる」
 アスカはそういう女の子だと断定をする言い方をする。
「それってさ、エヴァに対してやってたのと同じことだよね? アスカの中にそんな意識があるのかどうかはわからないけど、繋ぎ止めるために必要で一番簡単な、それでいて効果的な方法を取るんだ、いつも、アスカは」
 だから僕が逃げ出すって言い出したときも、と口にした。もちろんアスカは激昂する。
「あたしがそんな女だっての!?」
「そうだよ」
「違う! あたしは!」
「僕は綾波が好きだった」
 アスカは身を強ばらせた。
「……な、んで」
 今更……そういうことを口にするのかというアスカに、シンジは告げる。
「だってアスカは言ったよね? イライラしてたって……つまりそういうことだったんじゃないのかな? 僕の気を引けるほどの手段が見つからなくて、苛ついてたって」
「そんなことあるわけないでしょ!? ただあたしは……」
「その方が納得できるってだけだよ」
 泣きやんだなと、シンジはちらりと確認した。
 そしてまたアスカもそんなシンジの意図に気づいた。
「あんた……」
「ごめん」
「ふん!」
 ぷいっとそっぽを向く。
「悪かったわね……情緒不安定なのよ、最近」
「色々ありそうだしね……」
「でも、今のあたしがキスできる相手って言ったら、あんたくらいよ」
「そうなんだ……」
「ええ。どんなに軽いキスでも、みんな吹いて回るでしょうね……あのセカンドが俺になびいたってね?」
 ふぅっと嘆息する。
「……それを考えたら、下手な真似はできないわけか」
「そうよ。下手すりゃあたしは骨董品扱いよ、あるいは牝馬か」
「種付け用の?」
「わかってんじゃない」
「アスカって、まだ?」
「……そうよ。あんたは?」
「あいにくと経験済みだよ」
「……酷い奴よね」
「だから?」
「……わかってんでしょ?」
「本気なの?」
「……ただでさえ、クォーターなんだから」
 決然として彼女は言い放った。
「この上黄色人種に犯された経歴があるとなっちゃあ、誰ももうそんな方向性での利用価値なんて見いださないわよ」
 妙な理屈だとシンジは感じたようだった。
 立ち上がる。
「でも……ごめん」
 アスカはだめなのかと寂しそうに見上げた。
「シンジ……」
 ごめんともう一度だけ謝った。
「一日だけ……待ってくれないかな?」
「期待して良いの?」
「わからない……でも」
 寂しげに口にする。
「サードチルドレンだってわかって、それでも水澄さんが今まで通りに僕のことを好きでいてくれるのかどうか、わからないから」
「……そうね」
 アスカもまた立ち上がり、お尻の汚れを軽く払った。
「悪かったわね、あんたの生活、台無しにして」
「良いさ。どうせいつかは知られてたことなんだから……」
「シンジ……」
「深みにはまる前で良かったのかもしれない、今なら水澄さんも……」
 その先は言いたくないとかぶりを振って、じゃあっとシンジは歩き出した。
 アスカはしばしその背を見送っていたが、彼がとても小さくなってから、携帯電話を取り出した。
 バラバラとローターの音を立てながらヘリが降下してくる。彼女のスカートの裾が風にはためき、裏返ろうとする。
 アスカは着陸するヘリを背景に、リツコに対して報告した。
「あたしよ。ええ、計画の方はうまく行きそう。だから例の件、よろしくね?」
 抑揚もなく報告を終え、彼女は携帯電話を懐にしまう。
 そして待機しているヘリへと振り返って、歩き出した。
 そこには先ほどまであった、気弱な少女の影はなかった。ただただどこまでも冷めている、女の姿があるだけであった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。