──ネルフの解体は避けられないわ。
 それは一方的な宣告だった。
「良くても再構成ね。これを免れることはできないわ」
「リツコ……」
「アメリカかドイツ……そのどちらかにあなたは引き取られることになるでしょうね」
 白衣の女性……やや皺の増えた赤木リツコは、震えるアスカにそう言い放った。
「いくら日本政府が強欲でもね……、あなた一人のために、外交全部をおかしくするような愚は犯さないはずよ」
「あたしは……」
 アスカは怯えた目をしてリツコを見上げた。
「あたしは政府に管理されて働くことになるの?」
「まさか!」
 オーバーに手を広げてみせる。
「骨董品のように、あなたは世界復興の象徴としてスター扱いをされて、もてはやされることになるだけでしょうね」
「最低……」
「そうね、で、どうするの?」
 アスカは吐き捨てるようにして言い放った。
「あたしに選べるような道があるの?」
「二つだけね」
 聞くべきではない。
 そう感じさせるものを孕んでいたが、アスカに耳を塞ぐ間は与えられなかった。
「一つはNGOなんかに身を投じる方法ね」
 簡単なことだと口にする。
「特に人権擁護団体なんかが理想的だわ」
 顔をしかめる。
「イメージアップを図れっていうの?」
「それもあるけど……」
 頭からつま先までを観察する。
「あなたはクォーターでしょ?」
「そうだけど……」
「特定人種……特に肌の色に関する信仰は未だに根強いものがあるのよね。その上、あなたを欲しがっているのは、そんな連中ばかりなのよ、なら……」
「敵となって戦えってのね?」
 ご明察、と拍手をした。
「でも賢い選択とは言い難いわね……」
「もう一つは?」
「……シンジ君よ」
 その名にアスカは身構えた。
 ろくな話ではないと確信したからである。
「なにを言い出すのよ……シンジなんて」
「子供を作りなさい」
 カッと目を見開き、激昂する。
「なに言ってんのよ!」
「でもそれが最善の方法だわ」
 それはどこがと思わせるような、悪意に満ちた嘲笑であった。
「……理由は?」
 食いついたと、ほくそ笑む。
「シンクロシステムの真実についてはもう知ってるわね?」
 アスカはぎこちなく頷いた。
 知りたくもなかった真実だ……そして知った以上は決して無視できない話でもある。
「確かに……使徒に対しては、廉価機は有効なものであるわ。あれはエヴァに対しても十分対抗できる兵器だしね? でも」
 アスカはわき上がる腹立たしさを隠しもせずに……だが正当な評価を述べた。
「……シンジと初号機の組み合わせにはかなわない」
 その通りよと彼女は頷く。
「そのシンジ君とあなたの子供なら、あるいは」
 シンジに次ぐ、あるいはそれ以上のシンクロ率を示せるかもしれないと彼女は言うのだ。
「そんなの、可能性の問題じゃない」
「そうよ」
「そりゃ……もしあたし以上に、シンジに近いレベルでのシンクロが可能なら……」
「ええ。エヴァの存在価値は見直しを受けるわ」
 これはあなただけの問題ではなく、あなたがネルフ全体を救うという話でもあるのよと彼女は脅した。
「妊娠さえしてくれたら……お腹で育てろなんて言わないわ。受精卵は摘出してあげる。何も問題はないわよ、後は試験管で育てるだけ……」
 あなたと同じようにねとあざけりを浮かべる。
「間違って流産なんてことになったら、それこそ目も当てられないもの」
 アスカは沈黙をもって答えた。
「もちろん、メリットの無いことに協力するつもりなんて無いわ。わたしは」
「考えさせて……」
 もうやめて……彼女はリツコにそう願った。
「そうね」
 リツコはちらりとカレンダーを見た。もちろん意味のある行為ではない。
 アスカを焦らせようとしただけだ。
「三日上げるわ」
「三日?」
「長くてもネガティブになるだけでしょう?」
 そう言って、彼女の肩に優しく手を置く。
「かと言って……短ければ決めきれないでしょうしね?」
「わかったわ」
 その時のことを思い返し、リツコはにやにやと笑っていた。
 簡単なものだと思う。彼女は迷ったのではない、悩んだのだ。
 それはすなわち、既に追いつめられた状態にあって、適当な言い訳さえ存在すれば、どのようなことにでも手を染めるつもりがあったということであった。
 そして後はと、彼女は諜報部の人間を呼び寄せていた。


 ──なに考えてんのよ!
 あの二人はと、ミサトはアクセルを踏み込んでいた。
 ネルフへと戻った彼女を待っていたのは、セカンドチルドレンがヘリを私的に使い、元サードチルドレンと接触を図ったという報告であった。
 そんなアスカが戻るのを待って、彼女はアスカをつかまえ、問いつめていた。
「今更なんの用があったっていうの?」
 かつての部下であり、少女であった子は、今は見る影もなくふてぶてしくなっていた。
「そんなに変? あたしがシンジに逢いたいと思っちゃ」
 それはと彼女は唸るしかなかった。
「あたし、シンジのこと、嫌ってないよ?」
 そんなミサトを、見下げ果てた目をして眺める。
「あんたは嫌ってると思いこんでたみたいだけど……。僻んではいたわ、妬んでたかもしれない。でもあたしはあいつに居て欲しかったのよ」
 ミサトは騙されないわとかぶりを振った。それから睨んだ。
「嘘ね」
「なんでよ」
 にらみ合いになる。
「だって……。あなたにとってシンジ君は、邪魔者でしかなかったはずよ。それなのに……」
「それこそ、あんたの決めつけじゃない」
 良い? 彼女は指を突きつけた。
「あんたたちがそうやって、勝手に決めつけて、勝手に勘ぐって、自分勝手に救ってやろうとか、手を貸してやろうなんて余計なお節介をしてくれたおかげで、あたしたちは本音をさらけ出すチャンスをことごく潰されて、結局なにも言い合えないままで終わっちゃったのよ」
「アスカ……」
「子供だったから、大人の前じゃ自分ってものを作っちゃって、怯えて、身構えちゃってたのよ。あたしたちはね?」
 肩をすくめる。
「このことは、あたしもシンジも同意見よ。だからあんたが思ってるほどあたしたちは……」
「じゃあ……」
 深く探る目つきとなってミサトは訊ねた。
「じゃあシンジ君にセックスを望んだのは、どういうことなの?」
 アスカはちっと舌打ちをした。
「そこまで報告がいってるのね……」
 ええと頷く。
「幸せそうだったわ……彼。なのにそれを壊そうとするのはどういう了見なの?」
 アスカは明らかに言い逃れをするための言葉を探す迷いを見せた。。
「幸せそうだったからよ……」
「あなた」
「幸せそうだったから」
 対立する。
「あなたシンジ君から……」
「まさか!」
 白々しいほどのリアクションだった。
「あたしはほんのちょっとだけ、あたしの幸せにも手を貸してくれないかなってね? そう頼んだだけよ……強制はしてないわ」
「でもあなたが姿を見せてしまったら、平穏なんてなくなるじゃない」
「そうね」
「あなた、あの子の幸せについてはどう思ってるの?」
「どう思ってるって……」
「いびつに歪めて、どう責任を取るのかって……」
 アスカは辛辣に言い放った。
「アンタ馬鹿?」
「馬鹿って……」
 吐き捨てる。
「いびつ? よく言うわね……。あたしたちの幸せなんて……将来なんて、あんたたちに歪められて、もうとっくにおかしくなっちゃってるじゃない!」
(アスカ……)
 ハンドルを切りながら、たばこをくわえ、火を点けた。
(あなたが思ってるほど、ネルフは……リツコは甘い相手じゃないのよ)
 彼女はシンジの元へと、アスカを止めるために急いでいた。


 身の入らぬ様子でシンジは授業を受けていた。
 なにかを深く嘆いているようにも見えるのだが……ただ落ち込んでいるだけかもしれない。
 そんな彼の横顔に、親しい者たちが視線を集め、戸惑っていた。しかしその中に水澄カエデのものはなかった。
 彼女は一人うつむいて、暗く、ふさぎこんでしまっていた。


「はぁ……」
 誰も寄せ付けないオーラをまとったシンジの後を、追いかけるような者などいなかった。。
「カエデぇ……元気出しなよぉ」
 だがその代わりとばかりに、彼らはカエデの元へと集まっていた。
「なにがあったの?」
 コイシはできるだけ優しく問いかけた。台無しにしたのはヒョウスケだったが……。
「セカンドチルドレンだろ? スッゲェ美人だったもんなぁ……」
 ふんっと足の甲を踏み抜かれてヒョウスケは飛び上がった。
「いってぇ! なにすんだよ……」
 みんなからギロリと睨まれた。
「しぃません……」
「ねぇ……カエデぇ……」
 間にイチゴが割り込んだ。
「ふられたの?」
 情け容赦のない台詞にびくりとカエデは身をすくませた。
「ズボシね……」
「ちょっとイチゴ!」
「いいの!」
 カエデはうつむいたままで叫んだ。
「いいの! ふられたんじゃないの……あたし、あたし」
「じゃあ、あなたが逃げ出したのね……碇君から」
 イチゴはどこかきつい目となり話を聞いた。


(アスカ……)
 授業が終わり、シンジは一人で教室を出た。
 考えたいことがあったからだ。
 どういうつもりがあるのだろうかと、それが不安であったのだ。
 カエデのことは考えたくない……その思いも手伝って、彼はアスカのことだけを考えていた。
(スキャンダル、か……)
 しかし彼は、彼女の言葉を、額面通りには受け取っていなかった。
 彼女の政治的な利用価値を考えれば、黄色人種を相手に初体験をすませたことが、一体なんになるというのか?
 その程度の話など、どうとでももみ消され、なかったことにされるだろう。
 彼女がそれに気がついていないはずがないのだから。
「ふぅ……」
 シンジはいつもの岸辺に出ると、鞄を放り出して寝そべった。
 空は高くて、青くて、風も心地よいというのに……。
(晴れないんだな……僕の心は)
「おい、シンジぃ」
 シンジは自分を呼ぶ声に薄目を開いて確認した。
 頭の上に、ヒョウスケとイチゴが立っていた。揃ってシンジを見下ろしていた。
 ──イチゴが言う。
「……大胆な覗きね」
 スカートの中がよく見える。白だった。
「いやん、えっち」
「棒読みで言ってるんじゃないって」
 ぱしっと横つっこみを入れるヒョウスケだ。
 彼はシンジの隣に腰を下ろした。イチゴは彼とは反対に、シンジの左隣へとすとんと座った。
 その座り方に、シンジは思わず苦笑していた。
「なに?」
 怪訝そうに訊ねるイチゴに、過去を語る。
「そういう座り方をする子……知ってたんだ」
「そう」
「そっけなかったけど……よくかまってもらったよ」
「誰?」
「ファーストチルドレン」
「…………」
「もういないんだ、どこにもね」
 そう言いつつ、彼は起きあがり、彼らに倣って楽な姿勢を作り上げた。
「それで、なんの用?」
「ああ」
 固い声でヒョウスケは責めた。
「水澄、泣いてたぜ」
 わずかばかりの間が開いたのは、シンジが呼吸を止めたからだった。
「……そっか」
「そっかじゃねぇだろ」
 彼は低く、恐く、脅すようなしゃべり方をした。
「それでお前は、こんなところでなにやってんだよ」
「なにって……」
「水澄、泣いてたんだぜ? なんで会ってやんねぇんだよ」
 シンジははぁっと吐息をこぼした。
「だって……仕方ないじゃないか」
「どう仕方ないんだよ」
 怒りを抑えている、それはわかる。
 それでもシンジには、彼の願いを叶えることができなかった。
「昨日のことさ」
 シンジはぽつりぽつりと語り始めた。
 ──それは夕べの話であった。
 アスカと別れ、彼女の言葉にもやもやとしたものを抱えながら帰ってみれば、用務員室にはぽつりと灯りが点されていた。
 もちろん誰が上がり込んでいるのか? それは考えるまでもないことであった。
 シンジは門から玄関までのわずかな距離を歩く途中で、どうしてもここを自分の家だとは口にできないんだよなと、そんなつまらないことを思い返してしまっていた。
 玄関でスリッパに履き替え、廊下を歩く。
 用務員室はすぐそこだ。
「水澄さん」
 シンジは一応、彼女の姿を確認してから声をかけた。
「シンジ君」
 待ちくたびれていたのだろう、カエデはお帰りなさいとシンジを迎え、慌てたように立ち上がった。
「今日はね? シンジ君の好きなカレーにしたの……。でもちょっと焦がしちゃって」
 何故だろう? カエデの笑顔はどこか無理をしたものに思えた。
「水澄さん?」
 調理室に行くつもりなのだろうが……カエデはシンジと目を合わせなかった。出入り口に下りてスリッパを履き、彼の脇を通り抜けようとした。
「すぐね! 持ってくるから」
 あっと躓いてしまいそうになった。
 とっさに手を出そうとする。そんなシンジの動きに対して、カエデはびくりと身をすくめた。
 戸に手を突いて彼女は耐えた。シンジと接触することを忌避しているのか? 彼女は逃げた……逃げ出した。
 ──それだけのことなのだ。
「なんだよそれ……」
 渋い顔をするヒョウスケに、それだけのことだよとシンジは放った。
「避けられてる……それだけさ。学校でも同じだったよ、逃げられた」
「お前なぁ」
 ヒョウスケはがしがしと頭を掻いた。
「情けねぇ……それでも男か?」
「男さ……。でもどうすれば良いんだよ? まさか追いかけ回してつかまえろなんて言うの?」
「そうだよ」
「それで怯えさせて、どうするのさ?」
 シンジは吐き捨てるようにして口にした。
「せめて……せめて話を聞いてもらえるなら、なんとでも言うよ。必死にもなるよ! でもダメなんだよ……避けられてるんだ。話しかけようとしても逃げられるんだよ、それなのに僕になにができるっていうのさ?」
「追いかけろよ! 追いかけて追いかけて、追いかけてつかまえればいいだろう?」
 ぽつりとイチゴが援護した。
「ヒョウスケは……そうしてくれたわ」
「いやそんな……」
 照れるぜとヒョウスケはにやついた。
「でもほんと、そうだぜ?」
 一転して真顔になる。
「あいつだってきっと、どうして良いんだかわかんないんだよ」
 シンジは感情を押し殺し、本音をこぼした。
「でもね? ……そうやって、わかってもらうのがホントに良いことなのかどうか、僕にはわからないんだよ」
 どういうこと? と、イチゴが小首を傾げる。
「僕は……サードチルドレンだった」
 イチゴの反応を確認する。
「もう聞いた? ヒョウスケから」
「ええ」
 まっすぐに見上げてくる彼女の瞳が、シンジは赤いことに気が付いた。
(綾波……)
 まるで彼女に責められているかのような気分に陥る……容姿も性格も、似ているところなどなにもないのに。
「……僕は、監視されてるんだ」
「監視?」
「そうさ」
 空を見上げる。
 あるいは天を。
「こうしてる間も……、人工衛星から覗かれてるよ」
「マジかよ!?」
 ヒョウスケは立ち上がって、怯えるように首を上向けた。
 だが青空とかすむような雲があるだけで、いくら目をこらそうともわかるはずがない。
「……たぶん、一生続くんだ。この状態がね?」
 シンジはそんなヒョウスケを見、またイチゴもつられて彼を見ていた。
 視線を湖面へと移動させる。
 反射する水面が眩しく、目を細める。
「……将来も、なにもないよ。僕はこの町から出ることもできないんだ。そういう風に制限されているんだよ」
「制限……」
「誰にだよ!」
「政府……国とか」
「マジかよ……」
 ヒョウスケは改めてシンジを見、彼があまりにも違う世界に生きていることを、今になってようやく実感したようだった。
「そっか……」
「そうさ」
 軽く頷く。
「水澄さんのこと……好きだよ。こんなこと、隠し続けられるはずなかったのに、僕も浮かれてたんだな……」
「最初に言っておくべきだったと思ってる?」
 シンジは大きくかぶりを振った。
「言えるわけないよ……」
「じゃあ、親しい人を作るべきではなかったと思ってるの?」
「シンジ……」
 怒るぞと、頷きそうになっているシンジのことをヒョウスケは叱りつけた。
「どうするの?」
 容赦のない責め苦が続く。
「どうもできないじゃないか……」
 シンジはイチゴと目を合わせた。
「僕自身は、もう、なにも変えられないんだ……変えることはできないんだよ。許されていないんだ」
「だから?」
「だから僕にできることは……、僕にできることはね? 変わらないままで居続けることだけなんだ」
 驚いたようにイチゴは目を見開いた。
 まるで何かを恐怖するかのように怯えの色も瞳にちらつく。
「そうすれば……少なくともここで暮らしていくくらいのことは許してもらえると思うんだ……。好きな人を作って、一緒になって……。でも水澄さんは……、水澄さんは、今の僕でさえ恐いみたいだから……今の僕には、なにもないのに」
「だからって」
 ヒョウスケはシンジの胸ぐらをつかみ喚いた。
「だからって、諦めんのかよ!?」
 シンジはその手を払いのけた。
「じゃあヒョウスケだったらどうするんだよ!?」
「俺は乗り越えてやったぜ」
 イチゴが呻く。
「ヒョウスケ……」
「そうさ。森野だってな、お前みたいにごちゃごちゃ考えて、受け入れてくれる奴なんていないと思って、いじけてたんだぜ……」
「だったら、言う相手が違うだろ? それは水澄さんに言うことだろ?」
「そういうことじゃねぇだろ」
「そういうことさ!」
 ヒョウスケは初めて見るシンジの姿に動揺した。
「お、おい……」
「わかるのかよ!? ヒョウスケにわかるのかよ!?」
 逆に胸ぐらをつかみ返す。
「好きな人に避けられる気持ちがわかるのかよ!?」
「泣いてんのか?」
「泣くもんか!」
 そんな二人の脇にあたる位置で、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「許さない……」
「森野?」
「許さない……」
 彼女は静かに怒りを湛えていた。
「カエデは弱いわ……泣いてた、あの子泣いてた……碇君を傷つけたって」
 シンジは目を見張って、動きを止めた。
「僕を?」
「ええ」
「なんでさ? なんで僕が傷つくんだよ」
「お前……なぁ……」
「自覚がないのね」
 そっと彼女は、ヒョウスケをつかみ上げているシンジの腕に手を置いた。
 それからシンジの顔を見上げ、見つめた。
「あの子はただ、あなたになんて謝ればいいのかわからなくなっているだけよ、だから」
 ──止まらないで。
 彼女は願った。
「このまま、時を止めてしまわないで。止まったままで、居ようとしないで」
 ガサリと音が鳴って、三人はそちらへと目を向けた。
「アスカ……」
「お邪魔だった?」
 遠慮がちな彼女のセリフに、じゃあとイチゴはきびすを返し、ヒョウスケもそれに倣ってじゃあなと言った。
「水澄には言っとく」
 こつんとシンジの胸をヒョウスケは小突き……シンジは与えられた胸の痛がゆさに顔をしかめた。


「グランマが教えてくれたの……シンジ君って、本当は凄い人なんだって」
 少女趣味な部屋の中、カエデはベッドに乗っていた。
 隅の壁に寄りかかり、耳には電話の子機を当てている。
 カーテンなどはピンク系の色を基調としている。フリルも付いている。クッションもそうだし、布団などもそうだった。
 しかし、彼女が落ち込んでいるために、その色合いはくすんだものとして感じられた。
「最初の頃ってね? ほとんどシンジ君一人で怪獣倒してたんだって……。今でもシンジ君にかなうような人はいないんだって、セカンドチルドレンのあの人でも歯が立たないような凄い人だって言われてるんだって」
 電話の相手──コイシは大きな声を発し、驚きを表した。
『ほんとなの? それ……』
 うんと頷く……電話を相手に。
「グランマの知り合いって人がネルフの人でね? そんなこと言ってたんだって」
『信じられない話ね、それ……』
 うんとカエデは、ほんのちょっとだけ誇らしげに頷いた。
 自分の好きな人になった人が、確かな人であったのだとわかって、彼女は本当に嬉しそうだった。
「でも……でも」
 また暗くなる。
「そんな人だから……いつかいなくなる人なのかもしれないって思ったら」
『そんなこと気にしてたの?』
「でもセカンドチルドレンさん、呼び戻しに来たのかもしれないし」
『シンジ君はなんて言ってるの?』
 聞けなかったと、彼女は必死の様子でかぶりを振った。
「恐くて、だから」
『それじゃシンジ君可愛そうよぉ』
「でもぉ……」
 彼女は階下からの母の声に、はぁいと答えた。
『どうしたの?』
「誰か来ちゃったみたい……」
『あっ、もしかしてシンジ君?』
「わかんない……」
『もしそうだったらあれだし……あたし切るね?』
「うん……また電話してね?」
『うん。お休み』
「お休みなさい……」
 カエデはオフのボタンを押すと、何かに急かされるようにして立ち上がった。
 ──しかし、カーディガンを引っかけて飛び出した彼女を待っていたのは、イチゴであった。


 夜ともなれば、湖が近いこともあって、とてもうるさく虫が鳴く。
 しかしそれは鉄の街にはないものだ。だから彼女は大人しく浸っていた。
「こういうの、風流っていうんでしょ?」
「どうかな……」
 苦笑しながら、シンジは窓の外の様子を窺った。
「なにか居るの?」
「ん……誰かいるかなって思ってさ」
 小首を傾げるアスカに、彼は苦笑しながら、「護衛の姿が見えないかなって」と答えた。
「付いてるんでしょ?」
 まさかとアスカは手を振り否定した。
「帰したってば、そんなもん」
「へ?」
「言ったでしょ? あたしは本気よ」
「本気ねぇ……」
「そうよ。これからするかもしれないってのに、そんなもんに居られたんじゃね……」
「物騒な話だね」
 二人はどちらともなく顔を見合わせて笑った。
「悪かったわね……」
 先に素に戻ったのはアスカであった。
「ミサトに言われたのよ……あんたの生活、めちゃくちゃにしたって」
 ああとシンジは笑って許した。
「いいさ。どうせいつかはこうなってたんだ」
「……かき乱すつもりなんてなかったんだけど」
 甘かったんだよと、あくまでシンジは自虐的に罪を被ろうとした。
「あの頃からそうだったろう? 目先の幸せに気を取られてさ、ほんとは利用されてるだけだったのに、気づかなかった……」
「そうね」
「今度だってそうだよ。ちょっとうまくいってたからってさ、浮かれて忘れてたんだよな……ここは檻の中だってわかってたはずなのに」
「ほんとに馬鹿ね……」
「そうさ」
 苦笑し合う。
「ねぇ……」
「ん?」
「アスカはさ……恋愛ってどう思う?」
 ジュースの缶に口を付けようとしていたアスカは、そのままの姿勢で小首を傾げた。
「唐突ね……恋愛?」
「うん……そう、恋愛」
 アスカはオーバーに肩をすくめた。
「わかるわけないじゃない……。あんたは?」
「わかってたつもりになってたよ」
 まだプルタブの開かれていない缶を手に持ち、もてあそぶ。
「でも今回のことでわかった気がするよ……」
「言ってみなさいよ」
 ありがとうとシンジは笑んだ。
「きっと夢や、希望なんだよね」
「幻みたいなものだってこと?」
「そうさ」
 頷き、プルタブを開く。
「幻なんだ!」
 一気にあおる。
「……持ってる願いとか、抱いてる望みなんてものがあって、それをかなえてくれる人をいつもどこかに捜してるんだ。でも現実はいつも厳しくて、そんな人なんていないから、いつもいつでも側にいてくれる人の中から、一番頼れる人を選び出すんだ」
 そしてと言う。
「僕にはそれが、水澄さんに思えたんだ」
 ──アスカは虫の音に体をゆだねた。
「そう……」
 アスカは重く口にした。
「もう……だめなの? あんたたち」
「たぶんね」
 苦笑し、明かす。
「僕の秘密は、きっとあの子には重過ぎたんだよ……」
「でしょうね……」
 彼女はきつい目つきをしてシンジを睨んだ。
「でも嫌よ? そんな風にすがられたって迷惑だわ……」
「わかってる」
「わかってないでしょ……」
 アスカはそっとため息をこぼした。
「昔のまんまね……」
「そうだね」
「そういう意味じゃあたしたち、恋してたんでしょうね」
「そうかな?」
「そうよ……」
 彼女もまた缶を置いた。
「……お互いに夢を抱いてたのよ……お互いに相手に夢を見ていた。あたしはあんたに……あんたはあたしに」
「そうだね……でも」
「うん……お互いに、夢は夢で終わらせたのよ」
「だからもう、戻れないんだ」
 沈黙する。
「……夢も希望も、今更のことなのにね」
 アスカである。
「なのになんで、あんたを選択するんだろ……あたし」
「不思議だね」
「ええ……。あんたの理屈なら、ネルフの誰かでも良いはずなのにね?」
 苦笑をこぼす。
「あたし、あんたの子が欲しいのよ」
 シンジは驚き顔を上げた。
「子供?」
「そうよ」
「するってだけじゃ足りないってこと?」
「そうよ」
 そこにはとても冷たい顔をした女がいた。面の皮が強ばらせている少女がいた。
「シンクロ率トップワンとトップツーの子供が今のあたしには必要なのよ」
 そういうことかとシンジはうなだれた。
「はは……サイアクだ」
「サイテイっていうのよ」
「でも、やっぱりアスカは優しいよな」
「そう?」
「そうだよ」
「そうかな……」
「そうさ」
 シンジもまた、アスカと似たような顔つきになっていた。
 それは内心を隠すための仮面だった。
「おかげで、僕は最低になれるよ」
「…………」
「理由をくれて、ありがとう」
「すべてはネルフのみんなを救うためよ」
「そんな理由で十分さ」
 虫の音が一層うるさく、すべてを飲み込む──。
 シンジにはわかっていたし、アスカもわかってもらえたと泣きそうになっていた。
 親というものに人一倍の憧れと希望と……恐怖心を持つ自分達が、それになるのにどうして彼を、彼女を選ぶか?
 たとえ打算の中にあったとしても、他の誰かとでは決してこの道を選び、共に逃げ込もうとしなかったであろうことを……あなたであるから、君であるからというお互いの気持ちに感謝して、二人はそれを、背徳的な喜びへと変えていった。


 ──止まらないで。
 水澄家からほど近い公園に二人はいた。
 そろってブランコに腰掛けていた。イチゴにはちょうどよくても、カエデにはきついようで、腰にチェーンが食い込んでいた。
「お願い……」
「イチゴ?」
 カエデには、イチゴが青ざめている理由がわからなかった。
「どうしたの?」
「あたしのことは、かまわないの」
 だからとすがる。
「あなたが怯えれば怯えるほど……、碇君は悲しむわ。そして諦めて前を向き、歩き去ろうとしてしまう……ううん。もう歩き去ろうとしているのかもしれない」
 イチゴの言葉には説得力があった。声の重みが違うのだ。
 だからカエデは圧倒された。
「イチゴ……」
「追いかけて」
 キィとブランコが悲鳴を上げた。
「追いかけなければダメよ……でないと、なにもかも」
「イチゴ?」
「だい……じょうぶ」
 だが声の調子は苦しそうだった。
「イチゴ? ねぇ、どこか痛いの? ねぇ? イチゴ!」
「お願い……ね?」
「うん……うん、わかったから、今ヒョウスケ君を呼ぶから!」
「止まら、ないで……。止まら……」
 彼女は小さな胸を押さえて必死に願った。
 平和な町の片隅の、穏やかな世界を壊さないでと、彼女はカエデの袖をつかみ続け、離さずに……。
 そのまま気を失った。


 ──その病気のことを停滞と呼ぶのだとカエデが知るのは、わずかに遅れてヒョウスケが駆けつけてからのこととなった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。