その診療所はこじんまりとした雰囲気を持ち、夜の世界にとけ込んでいた。
 かろうじて隣に立つマンションからの灯りによって、気味の悪さを免れている。そんな寂しい場所に建っていた。
 田んぼの合間を流れる中道を通って駆けつけたとき、そこにはもう、ヒョウスケたちが深刻な顔をして揃っていた。
 ──シンジは緊張から、荒く吐いていた息を止めた。
「ヒョウスケ……」
 彼とコイシ、それにカエデの三人は、それぞれがそれぞれの反応をシンジに見せた。
「よお、遅かったな」
 ヒョウスケは診察室の扉を見つめたまま、微動だにせず口にした。
 彼だけが長椅子に腰掛けていた。顔の前で両手を組み合わせている。
 その右には心なし青ざめた様子のコイシとカエデが立っていた。
 シンジは彼の左側にまで寄ると、同じように扉を見た。
 がさごそと物音がしている……。
「シンジ君……」
 カエデは泣き出す一歩手前の顔をして説明した。
「あのね? イチゴ……病気だったんだって」
 シンジはちらりとヒョウスケを見下ろした。
「知ってたよ……」
「知ってたの?」
「うん……ヒョウスケに聞いたからね」
「そう……」
 彼女はしゅんとうつむいた。そっとコイシが手を貸し支える。
「イチゴ……あたしに会いに来てたの」
 カエデはぼそぼそと口にした。
「シンジ君と、ちゃんと話した方が良いって……止まらないでって」
 うっと泣き出し、彼女はコイシの手を振り払うと、そのままシンジの胸へと倒れ込んだ。
「水澄さん……」
 抱き受け、肩に手を置いたシンジに対し、それでと口を開いたのはヒョウスケだった。
「話したのか?」
 前を向いたまま……シンジたちを見ようともしない。
「話し合えって言ったよな?」
 声は恐ろしくなだらかで……平坦だった。
「腹立つぜ……だってそうだろ? 必死になってあいつを元気づけて、やっと普通に笑ってられるようになったってのに、お前らのせいで滅茶苦茶じゃないかよ」
 そんなと叱ったのはコイシだった。
「ヒョウスケ! そんな言い方って……」
「良いんだよ、縁川さん」
「でも!」
 不満そうなコイシを目で黙らせる。
「じゃあ、森野さんは、僕たちのために?」
「そうだよ、止まったんだ」
 馬鹿だあいつと、ヒョウスケはようやく体を動かした。
 うなだれる。
「なんだよ……これ? 自分のことならともかく、なんで人のことなんかで」
「ヒョウスケ……」
「高望みしすぎだぜ……。自分の思い通りになりそうにないからって、こんな逃げ出し方ってあるか? ないだろ?」
 声を震わせ、彼は続けた。
「シンジのせいじゃないけどさ……。セカンドチルドレンとか、あのおばさんが来てから、滅茶苦茶だ。それまでは普通にやれてたのに、俺たち」
 シンジには、ああと頷くことしかできなかった。
「そうだね……」
「シンジは……どうするんだよ?」
「どうって?」
「帰るのか?」
 シンジはぐっと、カエデの肩をつかむ手に力を込めた。
「居るさ……ここに」
「ここに?」
「ああ」
 だったら……。ヒョウスケは顔を上げた。
「さっさと外行って話してこいよ、水澄と」
「ああ」
「それから……あいつに報告してやってくれ。多分、それしかないんだよな」
「うん」
 わかったよ、と、頷いた。


 高速道路を車が速く駆け抜けていく。
 その中に、見慣れた青い車が混ざり込んでいた。
 ──ミサトであった。
(間に合わなかった……)
 彼女は両手をハンドルに添え、目は道よりもさらに先にある場所を見つめていた。
 ──慌て、アスカを追ったものの、ヘリに追いつくことはできなかった。
 シンジの住む町の手前まで来たところで、彼女は本部から、アスカが帰還したとの報告を受け取っていた。
(なに考えてんのよ、上の連中は……)
 彼女はそのまま休むことなく、ネルフへと取って返していた。
 私用でヘリなど……利用できるはずがないのだから、あるいはこの一件には、司令などの上級職の人間がからんでいるのかもしれないのだ。
「……連中、頭わいてんじゃないの?」
 これだからと、権力欲に取り付かれた官僚連中のことを罵った。


「よくやったわね」
 ──ネルフ本部。
 喜んでいるのはリツコであった。
 二人が居るのは診察室である。カーテンによって仕切られた中では、アスカが下着をはこうとしていた。
(シンジ……)
 彼女はシャツの上から、そっと下腹部に手を当てた。
 ──愛おしいとは思わない。
 感慨深いわけでもない……だが、確かに新たな命が宿っているのだ。そのことがアスカに複雑な感情を与えていた。
「……急に母性本能でも芽生えたの?」
 リツコの顔には薄ら笑いが浮かんでいた。それは侮蔑の表情であった。
「とりあえず、受胎は確認できたわ」
「でも一日も経ってないのにわかるものなの?」
「そこは信用して欲しいわね」
「……ええ」
「後は、適当な期間をおいて、摘出に入るだけね」
「摘出?」
 なに言ってるのと、お互いがお互いの顔を見た。
 リツコは試験管をこれ見よがしに振った。
「ここに受精卵を移すって。そういう話だったでしょう?」
 ああとアスカは思い出した。
 確かにそういう話であったなと。
 ──でも。
 アスカは逃げるようにして顔を背けた。
 気恥ずかしさからではない、恐かったのだ。
 なぜ受胎確認を行う場所に、黒服の男が二人も待機しているのだろう? それも扉を塞ぐように……。
 彼らは自分が股を開き、リツコに試験薬でチェックされているのを、じっと観察するようにして見守っていたはずなのだ。
 なのに、顔色一つ変えていない。
 ──異常に思えて、震えが走った。
「リツコ」
「なに?」
 アスカは必死の様子で訴えた。
「やっぱりこれ……、あたしの中で、育てても良いかな?」
 それほど唐突な言葉でもないのに、なぜだかそのセリフは、リツコに大きなショックを与えたようであった。
「惜しくなったの?」
 アスカはそんな狼狽した姿に、リツコの異常な執着を知った。
「そんなんじゃないけど……ただね、思ってたほど恐くもないし、嫌でもないのよ……それどころか落ち着いちゃって、取られるのって、なんだかさ」
 でもとリツコは説得しようとした。
「……シンジ君の子なのよ?」
 別に気にしてないとアスカは言った。
「あたしの子だもの……それに、この子が居れば、あたしとシンジは他人じゃないって思えるから」
「惚れたの? 惚れ直した?」
「まさか。でもね? どんなにいびつなものでも、縁で繋がってるってのは嬉しいもんよ。あたしたちはこの世界のどこにも行く宛なんてないんだから」
 縁ねと、リツコは口にした。
 どこかでそんな戯れ言を聞いたことがあったからだ。……その言葉を呟いていた少女は、もはやこの世には存在しない。
 ──隠しきれない嫌悪が滲んだ。
「結局、シンジ君を捨てきれないのね」
 あなたは……そんな揶揄する言葉を、アスカは笑って跳ね返した。
「捨てる? あたしはそんなこと、一度も考えたことないけど?」
 シンジだってそうよと言う。
「あたしたちはね? 置き去りにしたり、逃げ出したりはしても、捨てるってことはできない類の人間なのよ。だからお互い、今でもどうしてるのかなって気にし合って」
「そう」
 ──不意を突いた動きだった。
「────!?」
 アスカは腕に押し当てられた無針注射器から、何かの液体が体内に押し込まれたのを感じて逃げようとした。
(え…………)
 ぐらりと傾いで、そのままベッドから落ちかける。
「だめよ」
 リツコは注射によって変色している部分を握って、彼女の体を引き上げた。
「お腹の子、流れたらどうするの」
 アスカはとぎれようとする意識を必死に繋いで睨もうとした。
「あんた……」
「……障ると思って薄めにしたんだけど、薄めすぎたかもね。意識を失ってくれた方が良かったんだけど」
 どういうつもりよとアスカが睨むと、リツコはにぃっと奇妙な表情を見せた。
 おばかさんとせせら笑う。
「あなた、勘違いしてたわね……あなたの価値なんてもはやないも同然なのよ。なぜだかわかる?」
 ことさら顔を近づけて、彼女はアスカの耳に息を吹き込み、耳朶を噛んだ。
「……だって、ね? 量産型機がたくさんあるもの。もはやあなたの仕事なんて、外交以外はどこにもないのよ? だったらどこで働くにしたって、扱いやすい人形であった方が喜ばれるんじゃない?」
「あんた……最初からそのつもりで」
「洗脳できなかったのは、シンクロについての問題があったからだもの。でも外交だっていうなら、どうにだって手を付けられるわ。それこそ、頭の中を掻き回したって許されるのよ」
 辛いのか? アスカの呼吸は、酷く浅く、短いものになってきていた。
 額には汗が滲み、粒となって光っている。
「あなたの受精卵があればね……」
 リツコは彼女の下腹を撫でた。
 つつっと三本の指でいやらしく……恥毛の感触のする丘を越え、秘裂へとショーツの上をなぞっていく。
「……あるいは、完全なダミーシステムを作り出すことだってできるかもしれない」
 そんなとアスカは悲鳴を上げた。
「なんてことを……なんてことを考えてんのよっ、あんたは!」
 ははっとリツコは笑って見せた。
「ネルフやゼーレの試作品が誤ったのはね? レイやフィフスなんて使徒まがいのできそこないをサンプリングしたからよ。でもあなたたち二人の子供なら? きっと初号機も弐号機も、格別の反応を示してくれるに違いないわ!」
 狂気が彼女を彩っていた──。
「もしも成果を上げることができたなら……あたしは、今以上の地位に登り詰めることだってできるのよ」
「リツコ……」
 狂ってる、彼女は正気を疑った。
「あんた」
「笑ってやるのよ!」
 宣言した。
「さんざんもてあそんでおいて、あたしを捨てた、あの男をね!」
 アスカはそういうことかと理解した。
 この黒服の男たちも、切り捨てられる側の人間であるのだろう……だからリツコに与しているのだ。
「あんた……最低ね」
「ふふ……ありがとう」
 彼女は男たちに指示を下した。
「セカンドはここに軟禁します。受精卵が摘出時期に達するまでの間は定期的に薬物を投与して動けないようにして。そうね……」
 にやりと笑い、彼女はアスカの秘壷を押した。
「ひっ!」
「ここ以外は、あなたたちの自由にして良いわ」
「ああ、あんた……」
「うれしいでしょう?」
 ぺろりと毒々しい(べに)で彩られた唇を舐める。
「かつてあなたたちを顎で使い、こきおろして来たセカンドを……人形同然にもてあそべるのよ?」
 男たちの視線が、サングラス越しにでもぎらついて感じられた。
 それは錯覚であったのかもしれない……だが、リツコの言葉は共犯者となるようにとの強制でもあったのだから、アスカの身に降りかかる事態に、何らの変わりがあるわけではなかった。
 アスカは身をよじって泣き叫んだ。
「やめて……いやっ、いやぁ!」
「大丈夫よ! どうせ最後には薬で頭を壊すことになってるんだから。その後は徹底的にしつけ直して、買い付け額を一番高く付けてくれた国に払い下げてあげる。そこでどういう扱いを受けることになるかは……まあ、あなたの殊勝な心がけ次第ね」
 ──だから。
「媚び方ってものを、たっぷりと仕込んで」
 ロックしていたはずの扉が開き、リツコと男たちはぎょっとした。
 からんからんと、床に何かが転がった。
 ──閃光が瞬いた。
 光の中を、影が一つ躍り込んだ。その影は男たちの足を銃で撃ち抜き、さらにリツコを牽制した。
「……ミサト?」
 恐怖にまぶたを閉じていたアスカは、偶然にも目をやられずに済んでいた。
「アスカ、立って」
 ミサトは肩を貸し、彼女を引きずり立たせ、連れ出そうとした。
「ミサト、あなた」
 机に手を突き、必死に目を擦って視力を回復させようとしている。
 サングラスをかけていたはずの男たちは、足を押さえてもだえている。
 リツコは手探りで端末のキーを押した。
 ──それは仲間へと合図を送るものだった。


 沈黙を保つことが苦痛であると言うことを、二人は今まで知らなかった。
 ただ黙り込んだまま、二人は診療所の正面にある田んぼの合間の道を歩いた。
 そしてガードレールに腰掛けた。
 横を見れば、すぐそこに診療所はある。ここは電灯もない場所で、診療所と隣のマンションだけが頼りであった。
 反対側は、ずっと田畑が続いて、山へと繋がる。だからシンジは、意識の中から切り捨てた。
 たとえ彼らが覗いていたにしても、この暗さでは見つけられまい。そう思ったからだ。
 空を見上げると、今日は月も出ていなかった。雲が覆い隠している。
 雨になるかもしれないな……そんなことを考えながら、シンジは彼女が隣に座ってくれるのをじっと待った。
「…………」
 ややあって、カエデはうつむき加減に顔を隠したまま、シンジの隣に腰掛けた。
 少しだけお尻を引っかけるようにして……少しだけ、彼との間に距離を開けて。
「水澄さん……」
 シンジの声は、細すぎた。
「僕は……謝らなきゃいけないんだ」
 彼女の肩がビクリと震えた。
 シンジの言葉は抽象的すぎた。あまりにも良くないことを想像させるに十分すぎるものであった。
「僕はね? ……僕は、第三であったことなんて忘れたかったんだ。忘れたくて、僕はたくさんの嘘を吐いたよ」
 ごめんねとはにかみ笑って、謝った。
「シンジ君……」
 ほっとしたのもつかの間のことであった。
「だから、本当のことを言うよ、僕は……」
 彼女はどんな言葉でも、どんな話でも受け入れるつもりだった。
 気持ちはあった。
 ──そういう顔を、彼女はしていた。
 しかし……。
「僕は、アスカと」
 ──彼女はゆっくりと瞳を丸くし……。
 そして嘘よと、かぶりを振って、泣き出した。


「しっかり立って!」
 無理よとアスカは泣きを入れた。
「薬打たれてんのよ……無茶言わないでよ」
「だったらなんでこんなことしたの!」
 アスカは反論できずにぐっと詰まった。
「それは……」
「結局あんたっ、シンジ君と切れるのが恐かったんでしょ!? あの子でないとわかってもらえないことがあるから、なんとか繋がりだけは保ちたかったんでしょ? そんな理由で作るなんて、生まれてくる子供が悲しむとは思わなかったの!?」
 彼女はアスカの顔をパンと手で挟むように打った。
「その子が奪われたら、あなた、本当にもうシンジ君に合わせる顔がなくなるわよ? それでも良いの!?」
 アスカはぐっと歯を食いしばった。
 そうでないと、くしゃっと歪んだその顔は、そのまま泣き顔に変わってしまいそうだった。


 シンジはじっと前だけを見ていた。
 隣ではしくしくと顔に手を当ててカエデがむせび泣いている。
「ごめん……」
 シンジの謝罪は、単なる逃避の言葉であった。
「ヒョウスケにはああ言ったけど、でも水澄さんが嫌だったら……」
 挙げ句に人のせいにしようとする。
(最低だな)
 なによりも最低なのは、それに気が付いていながらも、余計に泣かせようとしている自分であった。
「僕は」
 カエデはスンと鼻を鳴らした。
「シンジ君は……」
 うん? っと、シンジは、彼女の言葉を待った。
 鼻をすすり、なんとか話せるようになるまで間を取った。
「シンジ、君は……」
 泣きはらした目を彼女は向けた。
「どうするの?」
 ──飲み込まれる。
「どうって……それは」
 息苦しいと、シンジはあえいだ。
「第三に……帰るの?」
 カエデの問いに、いいやと答える。
「帰らないよ……ここに、居る。僕には余所に移れる自由なんてないから」
「でも……」
「そりゃさ! そりゃ水澄さんには酷いことをしたわけだから……合わせる顔なんてないし、ヒョウスケにも殴られることにはなると思うけど、でも、僕は」
 違うのと彼女は泣き叫んだ。
「セカンドの人、きっと待ってる!」
「水澄さん……」
 シンジはなにを言い出すのかと驚いた顔をして彼女を見つめた。
「なにを……」
「女の子には! ……女の子にはね? それくらい、初めての人って……選ぶの、すっごく、迷うことで、だから」
 シンジは苦笑して、彼女の頭を抱き寄せようとした。
 それを跳ねつけて、逃げようとする。
 そんなカエデを、シンジはしっかりと抱き寄せた。
 ぎゅっと抱きしめられて、ついに観念したのか? カエデはそのまま動きを止めた。
「ごめんね……」
「…………」
「でも、もう良いんだ……水澄さんが泣くことなんてないんだよ、辛いだけだろ? だったら」
 彼女はぽろぽろと涙を流しながら口にした。
「どうして」
「なに?」
「どうして……そんなに落ち着いていられるの?」
 彼女は溢れる涙と戦って、シンジの胸元をきゅっとつかんだ。
 必死になって、シャツの皺をぎゅっとしぼった。
「あたし、あの時……ほんとはわかってたの」
「わかってた?」
 うんと頷き、カエデはむせるようなリンスの匂いをふるわせた。
「傷つけたって、わかってたの……シンジ君を避けて、逃げ出して……ホントは」
 酷いよね? 懺悔の言葉に、シンジはそんなことはないと許そうとしたが、彼女自身が自分を許さなければ意味はなかった。
「だから……きっと、嫌われちゃったって思ってた」
 なのにと続ける。
「シンジ君は、怒ってもくれなくて」
「それは……」
「怒ってくれても、嫌ってくれてもよかったの……それならあたし、謝れたから。でも」
 シンジ君はとすがりつく。
「なにも言ってくれなかった」
「…………」
「なにも……だからあたしね? 無視されたのかなって思ったの。あたしって、そんなに簡単に諦めきれるような相手だったのかなって、迷って、だから」
 ──逃げ出したくなって。
「そんなことないよ! 僕はっ」
「聞いたの……イチゴから。シンジ君も苦しんでるって」
 シンジは水澄さんと呻いた。
「でも……僕は」
 胸をつかもうとし……彼女の手をつかみ、告白する。
「僕は、水澄さんが行くような大学に行くことも、人に自慢できるような仕事に就くこともできないんだ」
「うん……わかってる」
「僕は……ずっと、この街に居るんだ、居なきゃならないんだ」
「シンジ君……」
「幸せにする、なんて……言えないんだ、僕は」
 見上げるカエデに、悲しく微笑む。
「そんな顔、しないでよ……」
「ごめんなさい……」
「謝らないで……お願いだから」
 弱々しく抱き合った。
「本当のことを隠して……騙して、気持ちよく付き合おうとした僕が悪いんだよ、そうでしょう?」
 でもと彼女は反論する。
「でも、シンジ君、あたしのこと好きだって」
「好きさ! 大好きさ! 大好きだけど……」
「シンジ君……」
「でも、幸せになんてできない……。水澄さんだって、僕のことを避けたのは、逃げ出したくなったからじゃなかったの? 僕の秘密は……水澄さんには重すぎるんでしょ? だったら、僕は、一緒に背負ってもらいたいだなんて、言えないじゃないか……」
「シンジ君」
「諦めたかったんだ……なのに、森野さん」
 ううんとかぶりを振る。
「お願いだから、諦めてよ」
「でも」
「僕にはもう、諦めてもらうしかないんだよ」
「それって……」
 彼女は勇気を振り絞って訴えた。
「それって……シンジ君からは諦められないってこと」
「そう……だけど」
「じゃあ、あたしが強くなったら、シンジ君は好きでいさせてくれる?」
「そんなの……」
「シンジ君を好きで居続けるって約束したら、あたしのこと、幸せにしてくれる?」
「僕は……」
「別に物なんていらない……。お金もいらない、シンジ君の側が良い、だから」
「水澄さん……」
「好きで……いさせてください……」
 甘える彼女に、泣きそうになる。
「ごめん……水澄さん、ごめん」
 彼女はううんと喉で啼いて、シンジに甘えた。
「あたしね……? 良い夢を見るときは、夢の中の景色が青くなるの……」
 瞳が酷く潤んでいく。
 ぐっとシンジは抱き寄せた。
「水澄さん」
「シンジ君……」
 二人は唇を深く合わせた。
 そして余韻を残して、離れていった。
「……青がある」
 彼女は、シンジの瞳を、じっと見つめた。
「青の中に、あたしがいる」
 そこには夜の闇の深さを持った、蒼の風景が広がっていた。


 ──アスカ!
 怒りに猛り狂ったリツコの思考は、既に正常な範疇を超えていた。
 彼女は発令所に対して、非常事態宣言を要請したのだ。
『セカンドと葛城一佐が反乱を起こしたわ! 保安部員二名が負傷、銃を所持。現在エヴァンゲリオンケージに向かって逃走中!』
 えっと発令所の面々は驚いた。
 事実確認のために各々がパネルを操作する。
 そして彼らは、銃を手に逃げる二人を見つけて、誤解してしまった。
「保安部に連絡っ、取り押さえるんだ!」


 ──アスカは熱にうなされていた。
 薬による副作用だった。睡眠欲に抵抗していることによる生理反応である。
 猛烈に襲い来る睡魔に対抗しているために、全身が酷く発熱して、アスカに幻覚症状を引き起こしていた。
(真っ黄色……)
 ゆらゆらと揺れて、景色はまるで海だった。
(綾波……レイ?)
 まるで夢を見ているようだった。
 彼女は黄金色の光の園に立っていた。そして、どこか遠くを見つめているのだ。
 強い風が吹き荒れる。彼女は暴れる髪を手で押さえ、それからちらりとシンジを見やった。
(シンジ?)
 彼女はようやく、彼もいたことに気が付いた。
(ああ、そっか)
 シンジは自分の正面、綾波レイの手前にいた。
 ──綾波!
 思った通りに、彼は彼女にすがろうとしていた。
 なにかを訴え、呼びかけて……。
 踏み出そうとして、できずにいた。
 まるで見えない誰かに、背を引かれているようでもあった。
「ちくしょう! 綾波っ、綾波! なんだよ離せ……」
 誰かが彼の背に抱きついてた。
(ああ……)
 アスカはその赤毛のポニーテールの少女に嫉妬した。
(あたしは……)
 あんな風に、純粋にしたかったのかもしれない──少女は泣きそうな顔をして、シャツの背を掴んで引き留め、泣きじゃくっていた。
「──さん、なんで……綾波! どうして」
 彼女は、一言だけシンジに……シンジとアスカに、言葉を残した。
 ──あなたは、どうして叫ばないの?


「アスカ、しっかりして、アスカ!」
 揺さぶられて気を取り戻す。
「ミサト……?」
 エレベーターの中だった。見慣れたエレベーターだ、ケージへ直行するための……。
「大丈夫? もうすぐケージよ」
 ここはねと解説する。もしMAGIを占拠されたとしても使えるようにと、制御機構は別系統になっているのだと……しかし、アスカは聞いてなどいなかった。
(うるさいのよ……耳鳴りがして)
 だが、それは現実に鳴っている音であった。
 警報音だ。
「ミサト?」
 ──クスリと笑い、彼女は肩を軽くすくめて見せた。
「どうやらあたしたち、反逆者になったみたいよ」
「そっか……」
「リツコもやってくれるわ……司令を抱き込んでるのかも」
 そうとアスカは絶望にうちひしがれた顔をした。
「天罰……バチがあたったのかな? あたし」
「そうかもね」
「もう終わりか……」
 馬鹿なことを言わないで──ミサトはアスカを叱りつけた。
「子供はどうするの、子供は!」
「あんたには関係……」
「あるわよ! あんたの子供なら、あたしの孫みたいなもんじゃないの!」
 目をぱちくりとさせたアスカは、次にプッと吹き出していた。
「馬鹿なこと言わないでよ」
「そう?」
「……ええ」
 アスカは腹に手を当てて笑った。
「あたしの子供だから? シンジの子供だからじゃないの?」
「……皮肉を言えるようなら、大丈夫ね」
「ミサト……」
 ありがと……そのようにアスカが続けたことで、ミサトはもう大丈夫だなと微笑んだ。
「しょぼくれてないで、最後まであがきなさい。それがあんたに課せられた責任のすべてよ」
「わかった」
 エレベーターが止まる。目的の階に到着したのだ。
「行くわよ?」
 ミサトは銃のスライドを引いて、弾をチャンバーに送り込んだ。
 転がるように飛び出して、二人は必死になって桟橋に駆けた。
「上!」
 散発的な銃声。威嚇射撃のつもりなのだろうが、元々の腕が腕だけに、逆にきわどい着弾もあった。
「伏せて!」
 ミサトはアスカを突き押しボートに乗せると、エンジンをスタートさせて一気に出た。
 蛇行して冷却水のプールを渡る。エヴァは二体。手前に弐号機が拘束されていた。
「もうすぐよ……」
 ──リツコの声でスピーカーががなり立てた。
『冷却水を抜いて!』
 即座にアスカが反応する。
「ミサト?」
「間に合わない!」
 急激な排水に伴う波のうねりに巻き込まれ、二人はボートから投げ出された。宙を舞って水に落ちる。同時に転覆したボートも裏返った。
「アスカ!」
「ミサト……」
 水を飲む。
 沈む。
 行ってとミサトが笑ったように見えて、アスカは嫌ぁと悲鳴を上げた。
 波間に彼女が消えてしまう。伸び出していた手を返す波が飲み込んだ。
 アスカは手を伸ばしたが、自分も飲み込まれて沈んでしまった。
 ──ママ。
 アスカが最後に思ったことは、理不尽な人生への憤りであった。


 ──グォンと何かが音を発した。
「排水中止! 早くセカンドを……!?」
 指揮を執っているのはリツコであった。
 彼女は二段ほど高い位置にあるタラップから携帯マイクで叫んでいた。
「え──」
 唐突に視界が白く染まって、彼女はわけもわからずもんどりうって、転んだのだと気づくことすらできない激痛に見舞われてしまった。
「ギャアアアアア!」
 彼女をあおったのは熱波であった。爆発によるものか熱湯となった冷却水が人々を襲い、飲み込んだ。
 何が起こったのかわからなかった。
 ただリツコは死ねない苦しみの中にいた。
 両手の肉がどろりと溶け落ち、垂れ下がる。火ぶくれなのか? 気泡がいくつも立っていた。赤い、桃色の皮下組織が綺麗だった。
 頭髪は頭皮ごとずるりと剥けて、三分の二がなくなっていた。水を含んだ白衣が体から滑り落ちる。ついでにごっそりと彼女の肉を持っていった。
 ──左腕がもげて落ちた。
「ひ、ひ」
 リツコは残った右手で顔に触れた。
「あ、あ……」
 引けば、癒着した溶けた面の皮が張り付き、伸びて……。
 ──その分、顔の肉が無くなって。
 狂ったリツコの、白く濁った眼球に、怒りに燃えたエヴァ弐号機の姿が映った。
 胸から下を水に沈めたまま、四つの目は彼女を睨みつけていた。
 左手には波間に消えたはずの娘をすくい上げていた。奇妙なことに、彼女の腹部が金色の光を放っていた。
 徐々に、徐々に、光は増して、それは人の姿を作り始めた。
 どこかアスカに似た顔立ちをした……。
 どこか、シンジの面影を持った幻だった。
 その少女が、すぅっと右手を持ち上げると……。
 連動しているのか? 弐号機もまた腕を持ち上げ、リツコに向かって拳をふるった。


 ケージの中は、それは悲惨な状況に陥っていた。もし司令の指示がなければ、被害は増えていたことだろう。
 モニタ越しにすべてを見納め、彼──碇ゲンドウは、馬鹿なことをと愛人を悼んだ。
 コウゾウが話しかける。
「追い込みすぎたな……」
 ああと彼は冷たく答えた。
 自分は彼女が思うほど、強くなければ非情でもない。
 それをわかって欲しかったと、彼は勝手に彼女を嘆いた。


「……ママ?」
 アスカは弐号機の手の窪みの中で、体を横にして丸くなった。
「ママ……」
 四つの目を見つけて、ほっとする。
 拘束具を無理やり除去して、弐号機は彼女を救ったのだ。弐号機の起こした爆発と相まって、現場は悲惨な状況を演出している。
 しかし巻き込まれたのは、リツコに組したものたちばかりで、それが故に司令は自業自得だと口にする。
「冬月」
「ああ」
「掃除を始める」
 穏当に解体を迎えたいものだなと……彼の腹心は口にした。


 ──ママ、ママ。
 アスカは夢の中で泣いていた。
「ママ、あたしね? ママになったの……ママになるの」
 だが、母は喜んではくれなかった。
「ママ?」
 悲しげな顔、そしていたわるような気遣いの手に、頭をスッと撫でられて、アスカは戸惑いの目で母を見つめた。
「ねえママ……泣かないでママ。あたしが悪いの? あたしはママになっちゃいけなかったの?」
 しかし、母は答えなかった。


 ──収容されたアスカの下に、ぴちゃん、ぴちゃんと雫を垂らし、無惨な女が歩み寄る。
 左右に残るわずかな頭髪は、彼女の奇怪さを際立たせている。
 剥げた部分や顔には、ケロイド状の火ぶくれがあり、また表皮の大半はズル剥けた状態で固まっていた。
 ──頭骨が直に見えている。
 がこ、がこっと、骨の合わせ目がかみ合わずに鳴っていた。
 まるで溶けかけの蝋人形である。
 目は白く濁っていて、あらぬ方向を向いていた。特に左目は酷かった。頬肉を失ったことで支えをなくし、こぼれ落ちそうになっていた。
 体はさらに悲惨なものだ。燃えた白衣と着衣が癒着し、挙げ句に右手は指が失われ、左腕は根本からないのだから。
 ──はぁ……、はぁあ……。
 それでも彼女は銃を握っていた。
 顔の筋肉が焼けたことによって収縮してしまっているのだろう。にぃっと笑っているかのような表情となっていた。
 彼女はやがて、惣流・アスカ・ラングレーと名札が付けられている病室へとたどり着いた。
 カチャリ……。
 静かに、ノブが回された。
 ぴちゃんと雫が床に跳ねる。
 アスカ……と、彼女は、眠っている少女に対して口にした。
 月明かりの中、とても静かに眠っていた。 
 彼女は銃口を少女に向けた。
「死んで頂戴」
 彼女は銃を向け……引き金を。
 ──パン!
 ぐらりとよろめいたのは、彼女であった。
 ゆっくりと仰向けに倒れていく……その頭部が無くなっていた。弾けたのだ。
 しかし完全には倒れなかった。
 頭を無くしながらも踏みとどまった。
「寄生型の使徒を宿してまで……僕にはその狂気はわからないよ」
 眠っているアスカの下腹部が光を帯びていた。
 うっすらとした人影が、アスカより遊離して立ち上がっていた。
 またしてもあのアスカに似た顔立ちをした、シンジの面影を持った女の子であった。
「やあ」
 少女は少年の呼びかけに、誰かと首をねじ曲げた。リツコ──化け物のことなど意識にはない。
 ──そこには、白銀の髪を持った、赤い瞳の少年がいた。
 窓辺に月光を背にして腰掛けていた。
「不完全な使徒の襲来……。赤木博士、あなたがその身に使徒をやつし、復讐の機会を待っていたからこそ、アダムの顕現は不完全な状態で続いていたんだね」
 だから、さよならと、彼は化け物を睨みつけた。
 ──ベシャリと壁に張り付き潰れ、怪物はとうとう動かなくなった。
「さて」
 彼女に話しかけようとする彼。
 しかしその手を、掛け布団の隙間から伸びたアスカの手が、しっかりとつかまえ、爪を立てて引き留めていた。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。