エピローグ



「お願い……あたしの子よ。連れて行かないで」
 母親としての本能なのだろうか? 彼女は彼が誰なのかよりも、彼がどうしようとしているのか? そのことにこそ恐怖を覚えて、訴えた。
「お願いだから」
 だが、彼の返事は拒否であった。
「だめだよ」
 なるべく優しく言い諭そうとして、彼は腕を掴むアスカの手に手のひらを重ねた。
「この子は、この世界で生きるには特異すぎる……不幸になるよ」
「そんなことない! あたしが幸せにするのっ、するから!」
 だめだよと彼──カヲルは、彼女の必死の願いを断った。
 白くなるほど力が込められていたアスカの手を、意図も容易く払いのける。
「さあおいで、リリン」
 光の……幻であるはずの少女の手を取り、カヲルはベッドから降りるようにと促した。
「だめよ!」
 アスカは娘に抱きつこうとしたが、手は彼女の体をすり抜けた。
「ああ!」
 絶望にうちひしがれて、涙の溢れた瞳で見る。
「お願いだからあたしを見て!」
 カヲルは幼子に微笑んだ。
 幼女はきょとんと見上げている。
 そこにアスカの割り込む場所はなかった。
「ママ! 助けてママ! なんでよ!? なんであたし、ママになろうとしちゃいけないのよ!?」
 とても悲しげにカヲルは告げた。
「大丈夫……君の子は君の中にまだいるよ。ただ、この子はだめだ。この子は……その子の一面となるはずのこの子だけは、だめなんだよ」
 違う違うと、アスカは泣いた。
「その子もあたしの子よ! この子じゃない! その子はこの子じゃないっ、あたしの子じゃない!」
 ──嫌ぁ!
 アスカは叫んだが、二人は消えた。
「誰か助けて……助けてよシンジ、助けてよ……」
 しかし、その声が届くことはない。


「シンジ……」
 イチゴの手を取り、話しかけていたヒョウスケに代わって、シンジとカエデがのぞき込んだ。
 診療台に乗せられ、横たえられているイチゴの顔は、どこか安らいでいるようにも感じられた。
「聞こえてる? 森野さん……」
 シンジは彼女の耳元で、とても穏やかに話しかけた。
「心配かけて……ごめんね? でももう大丈夫だから」
 二人は一瞬だけ見つめ合い、どちらともなく、はにかみ合った。
「辛いのは……嫌だよ。でも気遣った振りをしたり、逃げたりしても、何も変わらないし、変えられないんだ……僕はそのことを知っていたはずだったのにね?」
 ごめんねと、シンジは心から謝った。
「ほんとに、ごめん……わがままかもしれないけど、はた迷惑だったけど、でも」
 ぎゅっとシンジはカエデの手を握りしめ、カエデもまた握り返した。
「一緒に居たいんだ……わがままかもしれないけど、一緒に居たいって思った。この気持ちは本当だと思うから」
 二人で、歩き出すことからはじめてみるよ……そうシンジが宣誓すると、うっとイチゴが呻きを発した。
 誰も、なにも口にはしなかった。
 ただ、彼女が目覚めるのをじっと待った。
 お帰りなさいと言うために……そして。
「あたし……また」
 イチゴは、そこに居並んでいる一同のほっとした様子を見て、吐息を突いた。
「気持ち悪い……」
 彼女は胸焼けに似た居心地の悪さに、身じろぎをした。




 ──そして、遠い次元を超えたどこかの世界で。




 洞窟の中、地底湖に腰を浸らせ、朽ち果てようとしている巨大な鬼の姿があった。
 暗闇の中にかがり火によって浮かび上がる姿は不気味である。
 紫色の鎧は所々が酷く火ぶくれ、あるいは溶けて流れていた。
 げっそりと痩せ細った腰は、もはやはらわたの存在を感じさせない。暗闇の中だけに全身の状態はうかがいしれないのだが、朽ち果てる寸前であるのは正しかった。
 ──約四十メートルの巨人の骸だ。
 その胸には、不釣り合いなほど大きな玉がはまっていた。ガラス玉のようで、割れて壊れていた。 中は空だ、なにもない。
 真正面には、巨大な櫓が組まれ、数人の男たちが陣を組んで一心に祈りを捧げていた。
 中心に立つのは少年であった。
 白髪で、世界中の誰よりも白い肌を持った、東洋系の子供であった。
 彼もまた、何事か呟いている。
 その詠唱が高くなるにつれて、骸の変化は露わになった。
 ビクンビクンと痙攣し、枯れた腕や頬の肉筋(にくすじ)を、ぱらぱらと細かく雨として降らせた。
 玉にもまた、変化があった。
 空洞のガラス玉であったはずであるのに、いつしかその内側は、じゅくじゅくと蠢く肉汁が溢れてこぼれそうになっていた。実際、やがて肉汁はこぼれ出し、櫓の床へととぐろを巻いた。
 ──玉に溜まった肉の中に、やけに白い腕が、一本間を割って伸び出していた。
 それは肉汁と共に櫓の床に流れ落ちた。人だった。人がどさりと落ちたのだ。
 挙げ句肉汁に押し流されて、男たちの足下まで流れた。
 ──おおと男たちはどよめきを発した。
 それは少女だった。十四・五に見える裸体の少女であった。
 しかし少年は、流れる肉汁の川に泳ぐ髪が金であるのを見て取ると、嫌悪に顔を歪めて親友を呼んだ。
「カヲル君!」
 なんだいとどこからか聞こえて、そして、闇の中より浮かび上がるようにして彼は現れた。
「処分してよ」
「……良いのかい?」
「アスカの子なんていらないよ……僕が必要なのは、僕の子だけだ」
 使徒としてね──彼はそう言って身を翻した。
 男たちも後を追う。
 残された彼──渚カヲルは肩をすくめた。
「同じ君の子だろうに」
 ううと呻く女の子に、カヲルはよかったねと声をかけた。
 身を起こそうとして、腕を肉汁の溜まりに突っ張り、少女はなまめかしく腰をくねらせた。
「パ……パ?」
 ようやく顔を上げそれだけを言う。
「……ここには居ないよ」
 落胆したのか? 彼女は力尽きて倒れ伏した。
「今はお眠り……」
 カヲルは彼女をいたわり、微笑んだ。
「そしていつか、君のお父さんに会いに行こう……。そして君は君の兄弟と戦うんだよ。なぜなら君の兄弟たちは、皆使徒と呼ばれ、喜び、お父さんのために働いている存在だから」
 ──でも。
「君がパパとするべきお父さんは、きっと、もっと優しいよ?」
 カヲルの言葉は届いたのだろうか?
 少女は液汁の中に身を浸したまま、すぅ、すぅと既に寝息を立てていた。
「やれやれ」
 ことさら白々しく肩をすくめる。
 彼は少女を汚物の中より抱き上げると、型くずれする乳房に母親似かと苦笑した。
「今はお眠り……いつか、会わせてあげるから」
 ──君を抱きしめてくれる、お父さんとお母さんに。
 カヲルはそう確約し、少女をどこか、闇の彼方へと連れ去った。
 ──『白のシンジ』に知らせることなく。
 それは彼が、『黒のシンジ』に付く遥か以前の……、まだ教団の規模が拡大を始める前段階にあったころにあった、ほんの小さなできごとであった。


未完



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。