世界が二度目の崩壊を迎えてから五年が経つ。
 その経過は決して良い物では無かったが、それでも暴動や人的な災害が皆無に等しかった事が、大局的に見て世界を良い方向へと動かしていた。
「無数の屍を埋めるために一年、生き残った大人達で、子供を保護し、育成する機関を構築するのに三年…………」
 彼は独り言のように数え上げた。
「結局、ここに来るまでに、五年か」
 隣に立つ女が補足した。
「始まりの地、南極…………」
 早老の女性は、船のもっとも高い場所、艦橋から赤い海を見下ろし、呟いた。
 セカンドインパクトによって融かされた凍土が、再び白い衣を纏っている。
「再びここに立つまでに、随分と時間が掛かりましたね」
「ああ」
 男は妻に生返事をした。
「体は良いのか?、ユイ」
「はい…………、調子は良過ぎるくらいです」
 お腹を撫でる、大きさは目立つくらいになっていた、二人目、いや、三人目と言う事になるのか。
「でも不安で」
「だろうな」
「こんなに幸せで、悪いみたいです」
 再び大陸を見つめる、船は空母だが、その周囲には護衛艦が並走していた。
「あれだけの死者を二度も出したというのに、わたし達はこうして生きている」
「のうのうとな」
 皮肉を浮かべるゲンドウを、妻は見上げた。
「あなた…………」
 腕に手を掛ける。
「分かっている、だがな、わたしはシンジが望んでくれたのだ、などと言うつもりは無い」
 男はきっぱりと断った。
「シンジを捨て、足掻くだけ足掻いて、揚げ句この様だ、シンジが願ってくれたから、わたし達は幸せになれたか?、それでめでたいなどと、どうして話を終わらせられる」
 後ろ手に、手袋を握り潰していた。
「罪は罪だ、違うか?、わたしはシンジに全てを負わせ、死ぬように仕向けた、それを否定せん、幸せの代償は、わたしが自身で支払う、肩代わりなど…………」
 背にユイは張り付いた。
「いいのですよ…………、そう、責めなくても」
「ああ…………」
 ゲンドウは眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「分かっているよ、ユイ」
 だがそれでも男は自分を律する。
 幸せを感受するには汚れ過ぎたと、己を責めて。


「あなたも懲りないわね」
 親友の呆れた目に彼女はパンッと手を打ち鳴らした。
「ごみん!、旦那が逃げちゃってさ」
「まったく…………」
 溜め息交じりにコーヒーを入れる、喫茶コンフォート、今は営業中であったが客は居ない。
 リツコはコーヒーをメーカーにセットしながらミサトに訊ねた。
「で、加持君、今度はどこに?」
 ふてくされるミサト。
「知らないわよ、どうせどこかで女の尻でも追いかけてんでしょ、あのばぁか!」
 なぜだかミサトがカウンターで赤ん坊を抱き、リツコがエプロンを着けていた。
「まあ、コーヒーを入れるのは好きだけど…………」
「この子がもうちょっと大きくなってくれたらねぇ、あたし一人でもやってけるんだけど」
 リツコは、それはどうかしら、と答えそうになるのをなんとか堪えた。
 ミサトの破壊的な味は、カレーとコーヒーには限らないのだから、経営の危機に立たされるのは目に見えている。
 そんな偏頭痛に気付きもしないで、ミサトは問いかけた。
「それよりリツコ」
「なに?」
「結婚しないの?」
 唐突な質問に、リツコは苦笑した。
「誰と?、相手が居ないわよ」
 それは嘘だ、とミサトは思う。
 サードインパクトで大量に転がった怪我人を治療して回り、生まれた孤児は引き取っている。
 今ではその名は聖女のように囁かれているのだから、人生はどこでどう変わるものか分からない。
「あんたなら幾らでも言い寄って来る奴、居るんじゃないの?」
 首を振る。
「わたしはもう、良いわ、男は…………」
「シンジ君一人で、十分?」
 ミサトはチンッとマグカップを弾いた。
「ミサト?」
 辛げに口にする。
「常連のみんなとねぇ…………、時々話しちゃうのよ、シンジ君のランチが恋しいって」
 リツコは微笑んだ。
「美味しかったんですって?」
「あたしのカレーと同じくらいにねぇ」
 いい加減殴ってやろうかしら?、と、お盆を手にするリツコであった。


 その街は一歩外に出ると、のどかな田園風景が広がっていた。
 田んぼのあぜ道と変わりない道路が伸び、その先には大きな農家があった。
 車の横を放し飼いのニワトリが駆けていく。
「これ持って来な、今朝刈り入れたばかりだよ」
「頂きます」
 男は遠慮無くニンジンやジャガイモの詰まった段ボール箱を受け取った。
「よっと…………」
 車に運びながら、農家の主と話す青い髪の女を盗み見る。
「行ってきます…………」
「旦那さんによろしくな」
 そんなやり取りに、老婆がこぼした。
「旦那さんが死んで、もう五年だっけねぇ」
「え?、ええ…………」
 男、加持は慌てて答えた。
「そうですね」
「良い子だよぉ…………、若いんだからいつまでも引きずってないで、息子の嫁になってくれりゃ良いのに」
「はは…………」
 加持は笑って護魔化した。
(ま、無理だな)
 少女が抱えているものは、想像以上の重みがある。
「碇君…………、行きましょう」
「うん!」
 彼女の前に、男の子が駆けて来た、母そっくりの黒髪を持った少年なのに、何故かその母親は、子供のことを別の姓で呼んでいた。


 軽快に車を飛ばしていると、横から声が掛けられた。
「ありがとうございます」
「いや…………」
 ルームミラーで後部座席を見やると、少年は横になって寝入っていた。
 そのあどけなさに頬が緩む。
「大きくなったもんだ」
「はい…………」
 加持は遠い目をして呟いた。
「あれからもう、五年か…………」
 長いと言えば長いし、短いと言えば短かった。
「驚いたよ、シンジ君はここに居る、その一点張りで、段々お腹は膨らんで来る、父親は誰だって騒いだもんな」
 思い出し笑いをする。
「処女懐妊なんて、ほんとにあるとは思わなかったよ」
 横目に見る。
「君は…………、この子が大きくなるのを待つのかい?」
 レイはじっと前を向いたままだった。
 それは秘めなければならない答えだからだ。
『君は、シンジ君のために死ねるのかい?』
 シンジを育てるためだけに生き、シンジを見守って死んでいく。
(それがわたしに与えられた、わたしの望んだ事だから)
 だからシンジの愛は望めない、彼のための礎となって、土に還ると決めたのだから。
「そうか」
 溜め息を吐いてしまったが、当然加持は、そんなレイの思惑を知らない。
「まあ、見ていれば分かるけどな、幸せなんだろ、今」
「はい」
 レイの頬に朱が差した。
 愛しげに肩越しの息子の寝顔を悦に楽しむ。
「甘えてくれますから」
「そうか…………」
「わたしを呼んでもくれます…………、わたしの見たかった笑顔を、いつも見せて」
「ああ」
 レイの頬を、涙がつたい落ちた。
「碇君は…………、絶望して、砕けていきました」
 前を向く、その感情は、息子に見せたくないのだろう。
「自分と同じように、諦めることは無いと、沢山のものを与えてくれて」
 頷き、加持は同意した。
「ミサトも、リッちゃんも、落ちついたもんさ」
「だから…………」
 レイは項垂れた。
「碇君も…………、今度は、幸せになって良いと、思います」
「そうだな」
 顔をほころばせる加持。
 その脳裏には、以前のシンジが浮かび上がっていた、いつも泣いていた、一人でいる事を選んでいた、不器用な少年が。
「ほんとにそうだ」
 今度こそ、幸せに。
 加持はその祈りを、レイと同じように胸に秘めた。


「遅いわね、あの馬鹿…………」
 そう呟いて、アスカは目の前の墓標に花を添えた。
 黒色の鉄柱が延々と立ち並ぶ、それらが全て、墓だった。
 まだ姓名が刻まれているだけマシであろう、無名のものがとても多い。
 墓地というよりも、死体置き場だった、後で砂をかけて覆い隠した。
 そんな無造作な、処理場の跡地だった。
「シンジ、カヲル…………」
 だがこの二つは逆であった。
 名はあっても遺体が無いのだ。
 それは仕方の無い事なのだが、それでも墓だけは用意されていた。
「馬鹿よ、あんた達…………」
 アスカは目頭を拭って、膝を折った。
 膝に食い込む小石が痛い、だがそれすらも心の痛みを代弁してくれるようで、心地良い。
 アスカはシンジの墓碑に向かって近況を語った。
「シンジ?、ママは元気よ…………、シンジのお母さんが驚いちゃって大変だったこと、話したわね?」
 俯く。
「あたしね、今、幸せよ?、だってママが居るもの、あたし…………、ママにしてもらいたかったこと、いっぱいしてもらったわ、料理だって習ったし、そう!、叱ってくれるの、ママ…………、あたしの事、大事だからって」
 声が詰まっていた。
「悪い事をすると、叱ってくれるのよ…………」
 だが彼は、そんな当たり前の親子関係さえ、与えては貰えなかった。
「シンジ…………」
 アスカは必死に喋った、頭の中では、いけないから。
「あたし、思うのよ…………」
 顔を上げる、頬を濡らしたままで。
「あたしね?、ママが居てくれなかったから…………、こんな風になれなかったって思ったの」
 胸に手を当てる。
「今ね?、幸せで、温かいの、心がとっても…………、ねぇ?、シンジ、あんたはどう?」
 アスカは言葉を内に溜めた。
「あんたは、こんな気持ちになれたの?」
 もう我慢が利かなかった。
 涙が溢れる。
「そうよね…………、あんたは何も与えてもらえなかったから、死んだんだもんね、そっちに行く事を選んだ…………、あたしは結局、あんたに謝れなかった、あんたが傷ついてるって分かってたのに、何もして上げられなかった、なのにあんたは、あたしのためにっ」
 馬鹿よ、と呟く。
「こっちに戻って来てくれてたら…………、甘えさせてあげたり、キスだって、その先だって、なんだって」
 ぐしっと鼻をすすった。
「レイがね、あんたを産んだわ」
 アスカは、はぁと震わせながらの溜め息を吐いた。
「あたしにも分かる、あれはあんたよ」
 その目は、強く翳を宿していた。
「あの子ね?、あんたの顔で、あんたと同じ声で、あの頃の…………、あたしが傷つけた頃の姿で、あたしを呼ぶのよ?、アスカって」
 だが嬉しそうではない何故か?
「何も覚えて無いくせに」
 吐き捨てた。
「あれは、あんたじゃないわ」
 アスカは立ち上がった。
「だって…………、生まれ変わって、幸せになったからなんだって言うのよ…………、じゃあ何?、今、どんなに苦しくったって、次が幸せになれるならどうだって良いって言うの?、それじゃあ、あんたはどうなるのよ?、苦しめられるだけ苦しめられて、優しくしてって叫んでたあんたはどうなるのよ」
 語尾が震え、怒りがアスカを取り巻いていた。
「今度は幸せになれて良かったね?、そんなの、あの子には関係無いじゃない、あんたにだって関係無いじゃない!、あんたが悲しい顔のままで終わるから、あたし、忘れられないじゃない…………」
 そしてあの子は、気安く呼ぶのだ。
「あんなの、シンジじゃない」
 アスカは断定した。
「シンジの生まれ変わりでも、シンジじゃない、だってアタシのことなんて覚えてないもの、別人だわ、レイから生まれて、あんたと違う人になってく、そんなのどこが嬉しいの?、あたしには分かんない!」
 憤懣を吹き吐いた。
「あんたはあんたよ!、好きって言ってるのに信じてくれなかったあんただけよ!、あんたが…………、シンジがあたしを信じて、ありがとうって言ってくれなくちゃ、くれな…………、くちゃ、どうしろってのよ…………」
 声にならなかった。
(あたしが好きだったのは、あんたなのに!)
 涙目で、隣のカヲルの墓を見る。
「うらむ、から…………」
 弟に呪詛を吐く。
「自分だけ…………、シンジに」
 アスカは、すうっと息を吸い込んだ。
 そして顔を上げる。
 青空が高く広がっている。
 雲が爽やかに流れている。
 風に乗って、声が聞こえた。
 懐かしい声音で。
 心を弾ませる、夢にまで見た、明るい調子で。
「アスカぁ!」
 だからアスカはこう呟くのだ。
「気持ち悪い」
 と。


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。