跪き、レイは両手を差し伸べた。
カヲル、いや、カヲルであったものは、その腕に少年の亡骸を授け与えた。
『全てであると言うことは、全てを兼ね備えると言う事さ、そして代理であり、本人ではない…………、肉の塊にすぎないんだよ、人形、その表現がピタリと当てはまる』
悲しげに、友であった子供を見つめる。
『彼の魂は、今、多くの命の真似をし過ぎて、自分の形を見失ってしまった…………』
子供をあやす時のように、レイは膝の上に骸を乗せた。
頬擦りし、キスをする。
『でも、それは死ですらない』
天を見上げる。
『ただ自分を無くしてしまったに過ぎない、彼は自分と他人との境界線を忘れて、皆の中に生き続けるんだ…………、他人の孤独と、寂しさを味わってね』
愛を持って、亡骸を見つめる。
『でも、それって、酷過ぎるとは思わないかい?』
レイは無心に、シンジの口腔に舌を差し込もうとしていた。
堅くなったシンジの体はとても重かった。
唇もだ、筋肉が柔らかさを失っていて、いくら押し開こうと努力しても、隙間は全く生まれない。
懸命な舌先からつたった唾液が、シンジの胸へと垂れていく。
『もう一度聞くよ?、君は、シンジ君のために死ねるのかい?』
聞いていようが、いまいが、彼は構わず問いかけた。
『君は、シンジ君のためだけに死ねるのかい?、自分の欲も、喜びも、悲しみも封じ込めて、人形の様に、彼のためだけに生きられるかい?』
ずしゃりと、レイの背後に立つ者達が居た。
彼はそれら一つ一つと目を合わせていく。
『いいのかい?』
二つのシンジであったエヴァ達、そしてリリスと、潰されたままの蜘蛛が、体液を引きずり、這った跡を残しながらもやって来ていた。
それだけでもう、何をしにここまで来たのか、決まっているようなものだった。
微笑みを浮かべる。
『ありがとう…………』
「ああっ!」
悲痛な声が叫ばれた、シンジを奪われ、レイは赤子のように手を伸ばした。
まず、紫色のエヴァが食らいついた。
シンジの喉を噛み千切る、ゴキガキと岩を砕く音が鳴る。
次いでアスカの蜘蛛が、アスカの生んだ鬼と共に、彼の噛み砕いた破片を咀嚼した。
「や、やぁ!」
レイは彼らを押しのけようとした、彼女等、か?、どちらでも良い。
遺体は無残に食い荒らされていく、腹からは腸がこぼれていた。
血は死後のためか、どろりと固まっていた、リリスがそれを吸い上げる。
母親が身を呈するように覆い被さって、レイはシンジの頬に手を添えた。
壊れ物を扱う時と同様に、優しくその体を抱きしめる。
しかし鼻頭を噛みつぶされたシンジの頭骨からは、目玉と脳がこぼれ落ちてしまった。
ごくりと、周囲で飲み下す音がした。
『さあ』
光が彼女達を照らし出した。
『彼の血は、君達に宿った』
両腕と共に翼が広がり、光を散らす。
『彼に最も近いものが、彼に最も近しいものが、彼に最も似たものが、彼に最も触れたものが、彼をその身に取り込んだ、彼の形を取り込んだ』
四体がそれぞれに形を変じた。
碇シンジ、そのものになる。
四人は輝く三角形の壁を作ってそれを倒した、レイの頭上にカヲルが立つ。
黄金のピラミッドがここに生まれた。
『さあ、綾波、レイ』
シンジの体が逆転再生を始めた。
『生まれて、人を幸せに出来たから、何だと言うんだい?』
目が、脳が吸い込まれていく、傷が治り、胸が鼓動を打ち始めた。
『産まれてから、ろくな幸せも知らずに、何を満足して逝ったんだい?』
そのまま、体が縮小を始める。
『彼は、幸せだったのかな?』
子供になり、赤ん坊になっていく。
『幸福だったのかい?、満足できたのかい?、人に嫌われ、辛い事ばかりを味わって、揚げ句心を壊されて、投げやりに人の心を癒した彼は』
フィールドの中は、一体誰の支配下にあるのだろうか?
『人殺しなのかい?、それとも、褒められるべきなのかい?』
かぶりを振る。
『ただ一つ言える事は、彼は、誰もが与えられる当たり前の喜びさえも知らずに、その天寿を全うすることなく、殺されてしまったと言う事さ』
レイは、『それ』を両手で救うように持ち上げた。
『そして人の記憶からも消されようとしている、可哀想な少年は、人に優しい男の子として、その事実を』
さあ、とカヲルはレイに催促した。
『綾波、レイ』
「あ、あ…………」
ポタポタと涙がこぼれる、レイは拭いもせずに、それを強く抱き締めた。
手のひらほどの、赤く光る胎児は、服の上から、すうっと吸い込まれるように消えて行った。
とくんと胸が高鳴った、この時レイは、確かに彼を宿したのだと実感していた。
時に西暦二千二十年、第三新東京市、青陵学園高等部。
「ATフィールドについて説明するから良く聞いて」
六時限目、『保健体育』
「ATフィールドって言うのは心の壁なの、人を嫌ったり、傷つけられたりした人ほど強く張れるのは、それだけ人を恐がっているから、自分の世界に篭ろうとしての事なの」
黒い前髪を垂らして、彼女は憂いを隠そうとした。
「でもね、それはATフィールの側面だけの話なの」
若い先生だ、二十歳半ばを越えた所だろう。
彼女の話を、生徒たちは熱心に聞き入っている。
「ATフィールドは心の壁、これは自分を指し示しているのよ、人の心に惑わされたり、人に合わせたりしていると、直に自分を見失ってしまうわ、個性が無くなってしまうから溶け合ってしまうのね、でもね?、他人に合わせる事が社交性だと思う?、自分の言葉を持つ事が、強く自分を成り立たせるの、人を拒絶しなくても、力は強く出来る、私はみんなにもそうなって欲しいんだけど…………」
手を挙げたのは男子生徒だった。
「じゃあ…………、この力って、なんのためにあるんですか?、自分の社会性を計るだけなんですか?」
苦笑する。
「もちろん、人の気持ちを知るためよ…………、みんなも体験したでしょう?、サードインパクトを、正しく使えば、人を包んであげる事も、心を癒してあげる事も出来る、どう使うかは、結局あなた達次第だけど」
だがそう言ってる彼女自身は、あの時、ただ見ているだけだった。
傍観者として。
レイン・クリスフォード、それが彼女の名前であった。
「ふぅ…………」
彼女は講義内容を記録したレポート用紙を放り出し、凝った肩を自分で揉んだ。
「学校の授業内容など、一々チェックしなくとも」
豪勢な執務室だった。
「冷たいわねぇ、相変わらず」
書面を放り出したのはアスカであった、十年も経てば、それなりに艶が匂い立つようになっていた。
髪はストレートに落としている、光沢が黄金を思わせた。
黒いスーツはどの様な意味合いを持つのか?
「あんたねぇ」
アスカは苦笑してこぼした。
「そんなだから、今だに独り身なのよ」
鼻先で笑う。
「それはあなたも同じことだろう」
オームのやり返しに、ぐうの音も出ない。
「ちっ、秘書の癖に」
オームはちらりと、レポートに添付されていた写真を見やった。
「気になるの?」
意地の悪さに鼻白む。
「レインの事は放っておけばいい…………、あれで良い療養になっている」
「まあねぇ…………」
アスカは机に頬杖を突いた。
「あれから五年かぁ…………」
遠い目をする。
「何か変わった?」
アスカの問いかけに、オームは唸った。
「そうだな…………、世界は人を思いやるようになったな、そう、全てが家族の様に」
「あんたの言ってた人の輪が、極大になったってわけね?」
「互いのイデオロギーを認め合えるようになったと言うだけで、紛争が消えるのだ、ただ後何年、この状態が維持できるか疑問だが?」
「そうならないように、あたしは残ったのよ?、ここにね」
と部屋を差す。
ここはゲンドウが執務室としていた部屋であった、そう、旧綾波邱、ネルフの本拠地である。
今の当主は、惣流アスカだ。
彼女は手元のモニターに、教育関係のデータベースから個人性成績表を呼び出した。
昔のような数値表記では無く、一人一人の性格などが事細かに記載されている。
「子供はいいわね」
アスカは羨んだ。
「素直で、生まれた時から持ってる力だもの、順応してるわ」
「感受性の違いだろう、大人ほど素直にはなれないものだ」
「あんたみたいに?」
アスカは意地悪く言った。
「そろそろはっきりしてあげれば?」
「レインか?」
「付き合ってるんでしょ?」
「だがレインの恋人はあなただ」
「やめてよね」
げっそりとした、思い出すのは、サードインパクトの時の事だ。
思えばあれが過ちだったのだろう。
「あの時は…………、赤ん坊の相手をしてるつもりだったのよ」
「あやしてただけ、か?」
失笑する。
「だがレインは本気のようだ、本気で…………、あなたと愛し合えると信じているぞ?」
「ATフィールドの交感って意味じゃ、そうね、可能だけど」
「…………ふむ」
オームは多少首を捻った。
「前から、誰かに聞こうとは思っていたのだが」
「なによ?」
「セカンドインパクトとは、何だったのだ?」
真剣な顔つきで、オームは卓上の書類を束ねて揃えた。
「サードインパクトが心の交感だというのなら、人の肉体を崩壊させたあれは何だったのだ?、資料は見た、南極の地下で回収された『始祖』達、わたしには分からない事が多過ぎる」
アスカは背もたれに体を預けて、楽にした。
「生命の起源って、知ってる?」
「なに?」
「もちろんアダムとイヴなんてお気楽なものじゃないわ、原始の地球の環境は、生命を産み出し易かったけど、同時に過酷でもあったの、沢山の生命が誕生しては死んでいった…………、横並びの心が見えるだけのあたし達でさえ、人の死が辛いのに、彼らはどれだけの痛みに堪えて生きようとしたの?」
オームは顎を引き気味に唸った。
「そして生き抜いた者が、南極の地下に居たと?」
「そうね、あるいは死のうとしたのかも…………」
「死ぬ?」
「だってそうでしょう?、それだけの苦境に堪えた肉体だもの、容易には死ねない、寿命も来ない、でもね、その中には何億、いえもっとね、死の恐怖が詰め込まれていた、何かが死ぬ度に苦しみが飛び込んで来る、そんなの、生きる事自体が恐怖だわ」
「だから、死のうとした?」
「狂ってしまう程の苦しみに永遠にさらされる事がどんなことか、だから彼らは心の壁を、殻に閉じ篭るために使用した」
「そして長い眠りに着いていた」
息を飲む。
「そして封印は開けられた」
頷くアスカ。
「そう、そこから全てが始まったのよ、彼らは死の恐怖をわたし達に伝えようとした、あたし達も同じ『進化する生き物』だから、その死の環境に耐えられるだけの姿に変じようとした、地球は、もう既にずっと住み易い世界になっていたのにね…………」
「それが変貌の真実か」
「だけど人の心は弱かったわ、化け物になってまで生きられなかった、生きようとすることが出来なかった、だから暴走した揚げ句に自殺した」
オームは納得のいかない例を上げた。
「碇シンジは?」
目を伏せる。
「その後の別のアプローチの結果よ、あたしも、あんたもね」
「アーカシックレコードの欠損については?」
「ユイおば様がしてくれた話?、宇宙の真理が欠けてるからって何よ、あたし達は生きてる、なら必死にその方向を摸索するだけよ」
「抗ってまで、か…………」
「それがどんな物かなんて、あたしには想像することしか出来ないけど、でも小説の一ページが破り取られていても、読むことは出来るでしょう?」
「例え算数を知らなくても、生きられる、か」
オームは嘆息した。
「だがそのために払った犠牲は大きかったのではないか?」
「さあ、どうかしらね…………」
アスカは椅子を押し避けるようにして立ち上がった。
「出かけるのか?」
「時間だもの」
「そうか」
オームはコートを手渡した。
「共同墓地だったな、サードインパクト時の」
「ええ」
「車は?」
「歩いていくわ」
「わかった」
オームは最後に声を掛けた。
「碇シンジに、よろしくな」
結局、オームはその少年と話すことは無かった、だがそれでもだ。
「どの様な男であったかは、あの人を見ていれば、な」
それは嫉妬なのかもしれない。
そっと心でアスカに触れれば、今だに彼女はあの少年に囚われたままになっていた。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。