「碇、シンジ…………」
 オームは呻いた。
「碇、シンジ?」
 レインは目を丸くした。
 こんなに大人しそうで、儚い子が、熱く語られていた少年なのかと。
「シンジ」
 アスカはレインを押しのけるようにして椅子を立った。
「アスカ」
 打ち震える、その声音、口調。
 間違い無かった、今度こそは。
「シンジぃ」
 ぽろぽろと涙をこぼす。
「シンジ、あたし、あたしね?」
「アスカ」
 抱きつこうとしたアスカを、シンジはかぶりを振って押し止めた。
「謝らなくちゃいけないのは、僕の方だ」
「シンジ?」
「だって僕は…………、アスカの気持ちも知らないで、遊ぼうなんて、誘って…………、勝手に、傷ついて、傷つけて」
 それはあの昔の話だった。
 アスカは焦った。
「そんなことない、あたしは!」
「いいんだ」
 シンジは悲しげに微笑んだ。
「僕は…………、アスカに上げられる物を見付けたから」
「シンジ?」
 シンジの背中に、二枚の翼が顕れた。
 目を奪われるような、純白の。
「ママ!」
 その陰から、一人の女性が呆然と歩み出た。
 白い羽が、散っていく。
「アス…………、カ?」
「ママ…………」
 顔をぐちゃぐちゃにする。
「良かったね」
 シンジの声は、風のように耳をくすぐり、染み入った。


「碇君」
「寝ていて、まだ、辛いんでしょう?」
 その頃、病室に寝ていたレイは、シンジの訪問を受けていた。
「どうして、ここに…………」
 シンジは微笑を浮かべた。
「綾波が、呼んだから」
「え?」
「ありがとう…………、お見舞いを、してくれて」
「いかりく…………」
 言葉はキスによって遮られる。
 驚きに目を丸くしていたレイだったが、頬の上気と共に受け入れ、瞼を閉じた。
 睫毛が震えている、髪が、肌が色を増し、艶を織り混ぜ、レイを変えた。
(ありがとう…………、僕を好きで居てくれて)
「いかりくっ」
 消失感に目を開いたがそこにはもう誰も居なかった。
 ただ鏡には、髪の黒い、茶色の目をした少女が一人、迷い子のように誰かを求める様が映し込まれていた。


「シンジか」
「父さん…………」
 シンジは寂しく父を見上げた。
「母さんは…………、加持さんが連れて来るよ」
「そうか」
 ゲンドウはいつもと変わらぬ目で見下ろした。
「では逝くか」
「いいの?」
 ゲンドウはシンジによく似た笑みを浮かべた。
「わたしは…………、ユイを救うために、あらゆる事をした、ユイにとっては重荷であっただろうに、わたしはユイから離れられなかった、彼女は優しい子だったからな、俺を見捨てることは出来なかったのだろう、その結果がこの有り様だ」
 すまなかったな、とゲンドウは言った。
「わたしの存在がユイを狂わせた…………、わたしは居てはいけなかった」
「だから、逝くの?」
「そうだ」
「母さんを残して?」
「シンジ?」
 シンジはゲンドウを突き押し、離れた。
「でも…………、母さんは、父さんでなくちゃ駄目なんだ」
「まだ苦しめろと言うのか?」
 首を振る。
「父さん…………」
 辛く口にする。
「母さんはね…………、父さんのことが好きなんだよ?」
 ゲンドウは改めて驚いた。
「なに?」
 それは言葉以上の想いが、ユイの気持ちが。
 胸に染み入って来たからだ。
「だから…………、大丈夫」
 微笑する。
「母さんを、受け入れてあげてね?」
 ゲンドウは目を閉じて、深い呼吸を一度だけした。
「ああ」
 その時にはもう、シンジの姿は消えていた。


「シンジ君…………」
 ミサトとリツコは、疲れ切った顔を上げた。
「ミサトさん…………、リツコさんも、何やってるんですか」
 二人は顔を見合わせた。
「なにって」
「ちょっとね」
 苦笑するリツコ。
「シンジ君、あなたは?」
「はい」
 まずはミサトに。
「ミサトさん…………」
「なに?」
 意味深に笑む。
「お父さんの、遺言です」
「え!?」
 シンジは目を閉じた。
「愛していたよ」
 その声音は大人のものだ。
「お、とうさん…………」
 ミサトにだけは分かったのだろう、口を手で覆って嗚咽を堪えた。
「ミサト…………」
 その頭をリツコが抱く。
「リツコさん」
 視線を向ける。
「僕は…………、感謝しています」
「なにを?」
「例えリツコさんが、自分を重ねてくれただけだったとしても」
 ハッとする。
「シンジ君!」
 シンジの目には見えていた。
 父親の分からない少女だが、その頭は常人を超えて恐ろしく冴えていた。
 妬み嫉みを受けた揚げ句に、拒絶を覚えても仕方が無い、だが確かに飢えていた。
 愛に。
「ありがとうございました」
 例え自分の求めていたものの代償行為だとしても。
「シンジくん…………」
 涙腺が緩んだ。
「ありがとう」
 返事は、いいえ、と聞こえた気がした。


 シンジの気持ちは、心から直接相手に響いて癒した。
 負い目や引け目を打ち消していく、ただ、救われる度に、報われる度に。
 その幸せを感じて、陰に居た少年の姿は薄れていく。


「碇君」
 レイだけが、その中にあって違っていた。
 黒くなった髪が示す通り、リリスと心が通じない。
 体が完全に作り変わってしまっていた。
「碇君…………」
(こんなこと、望んでないのに…………)
 人の心を覗けるシンジだからこそ、薬の処方が行える。
「同じ存在だから、好きになったわけじゃないの」
 レイは屋上に立って、空に向かって嘆いていた。
「同じエヴァだからじゃない」
 相手が同じエヴァだから好きになった、ならエヴァじゃなくなったら、好きでは無くなる?
 そうではないだろう。
 人間になれたなら、同じ人間を好きになればいい?
 沢山居るから。
 そうではないのだ。
 人間じゃない人を見限って、エヴァだからエヴァを好きになったように、人間を好きになれる?、誰かを好きになる?
「碇君を忘れて?」
 アスカが言ったように、レコードに触れるということは自分を見失う危険を伴う。
 揚げ句そこには、記録があるだけだ、客観的な視点からでは、加持の言葉のように誤認や誤解もあり得てしまう、ではどうすればいいのか?
 シンジが潜っているのは、人の根幹だった。
 人は全てで人と言う生き物なのだ、底の意識では繋がっている。
 ここから直接、人を感じ、見付けていた。
 親が、兄弟が、友人が、近しく気安いほど心を感じ取れるように、シンジはその一人一人の前に立って、心を覗き、そして癒していった。
 時にはキョウコのように肉体を再構成してまで、だ。
 だがそれも最初のことだけである。
 知らない人間の前に立つためには、その者の知る人にならなければいけなかった。
 百人の人間が居れば、その百人に化けなければなら無かった。
 結果、シンジは自分が誰だかを見失っていった。
(次は誰?)
 だが根幹には、自分が何をしなければならないか?
 それだけは思い残していた、取り憑かれたように、世界中の、生き残った人達の元を回って行った。
「碇君…………」
 レイは両腕を空へと広げた。
 決して幸福とは言えず、父に、母にも邪魔者扱いされ、揚げ句人のツケを負わされた形で必死に返済し、血を吐いている。
 これがあの少年の結末なのだろうか?
 シンジの望んだ世界になるかもしれない、それはとてもとても優しい世界だ、だが。
「碇君は、いない」
 ではなんのために傷ついているのか、報いも得られないのに。
 嗚咽のために声が詰まった。
 アーカシックレコードは記録でしかない、シンジは多くの他人に変じていた、そのためだろう。
 結果として記録されるのはその者の事で、シンジとしては記されない。
「碇君!」
 レイは自分の中にある感覚を総動員した。
 それはエヴァには関係の無い、人本来が持つ力である。
 生き別れの兄弟が、お互いに何かを感じ合うように、レイはシンジを感じようとした。
 どれだけそうしていただろう。
「あ…………」
 季節外れの、雪が降った。
「ああ…………」
 涙にむせぶ、それは黄金の雪だった。
 灰色の空からしんしんと降り、積もる事無く消えて行く。
「碇君…………」
 レイには分かっていた。
 それがシンジが弾けた証しであると。
「あああああ…………」
 狂ったように腕を振って拾い集める。
「ああ!」
 だが光は手のひらをすり抜けた。
 さらには集められる範囲など知れていた。
「どうして…………」
 これで幸せになれると思うのだろう?
「どうして」
 犠牲になってくれてありがとうなどと、礼を言えるというのだろうか。
「碇君…………」
 その顔を、輝く物が強く照らした。
 顔を上げる。
「…………あなた」
 カヲルだった。
 銀色に光り輝き、顔は見えない。
「碇君!」
 その腕に、ぐったりとしたシンジを抱いている。
『君は』
 カヲルはレイに問いかけた。
『彼のために、死ねるのかい?』
 レイの目は、シンジにだけ、向けられていた。


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元にでっちあげたお話です。