午前八時十五分。
 始業時間は三十分だ、予鈴はその五分前、今から起きて着替えれば十分に間に合う、シンジはそう考えて布団から起き上がった。
 未だ部屋の隅には段ボール箱が積み上げられている、出す気がしなくているものを思い出した時に引っ掻き回している様な状況だった。
 さてとと立ち上がろうとして、バンッと叩かれた窓にびくりと脅える、振り返ればレイが張り付いてニヤリと笑っていた。
 シンジは溜め息一つで諦めて、鍵を開き、ベランダから彼女を招き入れた。
「おっはよー!」
「……おはよう」
 ちらりと外を見る、非常時のみ、緊急時のみに割っていいはずの隣との仕切りが割られてしまっていた、勿論犯人はレイである。
「シンジクンって酷いよねぇ、せっかく誘いに来てあげてるのに無視するしー」
 などと言いつつ、手早くエプロンの紐を首に引っ掛け、腰回りの紐も後ろで縛る。
 何故レイのエプロンがここにあるのか?
「ほら早く!、顔洗って歯を磨く!、ハムエッグとトーストでいいよね?、ジュースあるし」
「ハムなんて……」
「あ、持って来てるから大丈夫」
 にんっと笑ってスカートのポッケから卵とラップで包んだハムを取り出す。
 シンジの朝食らしい食パンをレンジに入れてトーストボタンをピッ!、電熱器に電気を入れてフライパンを置く。
 そこまでしてから、レイはまだシンジが動いていない事に気が付き、ぷっとふくれた。
「ほら早く!、遅刻しちゃうから」
 シンジは深く溜め息を吐いた、それはきっと世話を焼かれることに嬉しさよりも面倒臭さを感じてしまったからだろう。
 ……昨日の朝、無視して居留守を使った事への報復がこれだった。


LOST in PARADISE
EPISODE04 ”彼の女”


「今日も転校生が来るの、知ってる?」
 登校中、いつもの坂を登っている最中に、唐突にレイが問いかけた。
「ここも来年は遷都される予定だからねぇ、オトコノコかな?、オンナノコかな?」
「さぁ?」
「女の子だったら良いなぁなんて思ってんでしょ?」
 このこのと肘で脇をつつかれる。
 坂の上にはもう校舎が見えていた、道を歩く者は時間を気にして小走りになる者と、そうでない者にはっきりと別れている。
「シンちゃんってすっけべだもんねぇ」
 シンジとレイは明らかに後者の組だった。
「引っ越しの時見ちゃった」
 前を見てムスッとするシンジの顔を覗き込む。
「シンちゃんってあんな本読むんだ、ふぅん?」
「……悪い?」
「あ、開き直った」
 そっぽを向いてくすくすと笑い、レイは目尻の涙を指で拭った。
「シンちゃん赤くなってる」
「……悪かったね、それよりそのシンちゃんってのやめてよ」
「やだ」
「やめてって」
「やだぷー」
 前を向き、両手で鞄の取っ手を持つ。
「そうね、シンちゃんがレイって呼んでくれたらやめたげる」
「……」
「あっ、嫌がってる?、もしかして」
「そうじゃないけど」
 シンジは酷い困惑を顔に浮かべた。
 昨日、一昨日のクラスの様子を思い出してしまったのだ。
 何かと傍に来るレイ、それと自分を見る周囲の目。
 それに堪えてまでどうして自分にかまおうとするのか?
 良く分からない。
「……言っておくけど」
 急に黙り込んだシンジに不安になったのか、レイは告げた。
「別にシンジ君のお父さんがおじさんだったからとか、そんなの関係無いからね?、あたしはシンジクンが好きになっただけで」
 え?、っとシンジ。
「父さん?」
「あっ、いや!、ほら!、えへへへへ……」
 後頭部を掻いて護魔化す、そんなレイにシンジは苦笑した。
「……みんなが言ってたこと、気にしてたんだ?」
「……うん」
 笑った顔のまましょんぼりとするレイにますます苦く笑った。
「僕は……、その方が良かったかもしれない」
「え?」
「だって理由があった方が納得できるから、……たぶんだけどね」


 教室、シンジと別れて席に着いたレイは、横目にシンジを見てから腕を組んで思案に入った。
 無意識の内に『第三眼』を開いてしまう、眉間の正面に前髪を分けるように揺らして回る青い玉。
 それを見てクラスメートは脅えたように離れて行った、当然だろう、彼女が見ているのは未来かもしれない、あるいは現在の自分達かもしれない、心を覗いているかもしれない、それは恐怖だ、実際には胸の内など読めないのだが。
 レイはこの力について説明するつもりは無かった、それがどれ程の誤解を生んでいるとしてもだ。
 昔は見えてしまう先の出来事に自分を消失してしまっていた、そんな時に現れたのがゲンドウだった。
『君は物理法則に乗っ取った分子の連鎖反応を見ているに過ぎない、しかし『意思』の介在する物体、生命は君の力などものともしない』
 例えば手から離したボールは落ちる、これは確定した未来だ、だからはっきりとした像が結ばれる。
 しかしそこに意志が介在するとどうなるだろう?、ボールを離すかどうかは個人の自由であるし、また受け止めるのも、誰かが奪うのもあり得る未来だ、そう、これは『分岐』だ。
 レイが見ているのは『ほぼ確定』された未来の映像に過ぎない、そういえば、とレイは思い出した。
 シンジが、この力について訊ねないのを。
(どうして?)
 疑問に思う、その途端に『眼』は消える。
 まるでそれを見計らったかのように、洞木ヒカリが話し掛けた。
「おはよう、レイ」
「あ、うん、おはよう……」
 レイは少しだけ顔を歪めた。
 周囲の気配を敏感に感じ取ったからだ。
「ヒカリ……、余り話しかけない方が良いと思うよ?」
「え?」
「ほら」
 と、『イジワル』な空気に気付かせる。
「ね?」
 しかしヒカリは強かった。
「ううん、良いのよ……、あたしも悪かったんだから」
「ヒカリ……」
「それより、ねぇ?」
 肩越しにシンジを覗く。
「碇君、話してくれるようになったの?」
「……あんまりねぇ、嫌ってるわけじゃないみたい、苦手だから避けてるってのが正しいのかな?」
「苦手って……、レイを?」
 ううん、とぷるぷると頭を振る。
「友達が、かな?」


 ……レイの分析は一部で当たっていた、シンジは小さい頃の行き違いが原因で人との付き合い方という最も基本的なものを知らないまま育っている、だからこその苦手なのだが、彼女は気付いていなかった、シンジが今更友達を欲しがっていないと言う一点に、いや、悟っていると言い換えてもいいかもしれない、人は一人でも生きて行ける、厳密な意味では社会無くして生きて行くことはできないだろうが、その隅で生きて行くことは可能なはずだ、接触を最低限に抑えれば。
 それでも触れ合いを否定するほど、シンジはヒネくれてはいなかった、それで得る物があるのは勿論認めていた、しかし一時の温もりがその後に来る冷え込みをより強く感じさせるのも事実である。
 だからこそ触れ合わないのは臆病だろうか?
(レイさんってなんなんだろ?)
 そんなシンジにとって、レイの行動はいまいち許容出来なかった、より親しい友達を作るために鈴原トウジのような『味方』を切り捨てるやり方は、到底容認できるものではない。
 いつ、自分が、その立場に追いやられるのかわからない、それは恐怖だ。
 友達になった、それはいい、キスの誘いがあった、乗るのはどうだろうか?
『自分以上』の存在が目前に現れた時、自分は切り捨てられてしまう、それが『現実』であり、その証明は既に為されている。
 それなのにどうして喜んで友達になれるだろうか?、脅えたままでの触れ合いが精一杯だろう、シンジがレイとのデートを堪能出来たのも、正にそこに起因している、あの時だけだと思ったから、せいぜい楽しめたのだ、記憶の底に沈めて淡い想い出に変えられるから。
 それが今は嫌な記憶のためのプレリュードとなろうとしている、まあ、そうだよなと思えばこそシンジは達観していられた。
 しかしそれも……
 ──ガラ!
 開かれた扉、入って来た担任教師の姿に皆慌てて自分の席へと座ろうとする。
 シンジが目を引かれたのは先生の後に着いて入って来た流れるような髪にだった、赤い髪、背の半ばほどもある。
 邪魔になっていた陰からその姿が現れた、心臓を鷲づかみにし、動悸に堪える。
 怪訝そうなレイの目など気にもならなかった。
(どうして、どうして、どうして!)
 かつかつとチョークの音、惣流、アスカ、ラングレーです、耳の奥で空気が膨らみ、良く聞こえなかった。
(どうして!)
 錯綜する情報が線に結ばれる、この学校の存在意義、チルドレン、ジオフロント、選抜候補。
 突然に心に凪が訪れた、そう、彼女のような人間は選ばれて当然なのだから。
「それでは、惣流さんは……」
 シンジは無表情を取り繕うと、興味ないとばかりにそっぽを向いた、窓の外に向かって頬杖をつく、もう動揺は過ぎ去っていた。
 だから彼は気が付かず、彼の挙動に注目していたレイが代わりに気が付いた。
 アスカ、彼女が顎を上げて見下すようにシンジを確認し、その瞳を非常に複雑に揺らした事に。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。