自宅へと帰るためなのか、正面ゲートへと登るエスカレーターを降りた所で、渚カヲルはとぼとぼと歩く背中を見付けた。
「惣流さん?」
 呼び掛けたもののカヲルは戸惑ってしまった、振り返った彼女の顔色が、とても優れているとは言えなかったからだ。
 いつもなら弾けるように振られる髪の束さえ、今日は疲れに縮れて見えた。
「どうしたんだい?、病気……、のはずはないね」
 何しろ先程、地下で一戦して来たばかりなのだから。
「疲れているのかい?」
 いつもならその一言は発せずに、じゃあとサヨナラしていただろう。
 だがカヲルはそうしなかった、それほどまでに俯いたアスカの状態がおかしかったからだ。
 うつろと言ってもいい目、憔悴し切った肌艶、髪もくすんで見える。
 あんたなんかに心配されたくない!、そう叫ばれないようにと手前で引き下がるのが常であったが、それが出来ないほど彼女の落ち込み様は目に余った。
 放っておけば誰かに捕まって暗がりにでも引きずり込まれかねない、今のアスカにはそれに抗う気力さえ見られなかった、どこか危うい、時間も時間だ、カヲルは溜め息を吐いて誘いをかけた。
「僕の部屋……、この近くなんだけどね」
 聞いているのかさえ怪しかった。
「少し……、寄っていくかい?」
 アスカは手を取られても、抗わずに従った。


LOST in PARADISE
EPISODE34 ”ばかばっか”


 テーブルの上に乗せられている紅茶には、甘いブランデーが垂らされていた。
 多少は血のめぐりを取り戻したのか、アスカの血行は良くなって見えた、しかし、心の内はどうであろうか?
「落ち着いたかい?」
 アスカは一口含み、舌を湿らせてから口にした。
「ごめん……」
「……」
「あたし……」
 そのまま沈黙してしまう。
 カヲルの部屋はほぼミサトの家と同じ間取りをしていた、ただ向こうが日本的な家具を揃えているのに対して、こちらは西洋風に統一している、ソファー、ガラスのテーブル、床はカーペットが敷いてあるが、スリッパのままで歩くような代物だった。
 窓にカーテンは掛けられていない、夜の街灯が楽しめる、もっともアスカは背を向けていたが。
「あたし……、何やってんだろう……」
 ようやく搾り出した言葉がそれだった。
 カチャリ、鳴った音にアスカはビクンと反応した、それは単にカヲルがカップを受け皿に戻しただけの音だったのだが、相当怯えているらしい。
「僕は……」
 そこには優しい瞳があった。
「僕はシンジ君の友達であると同時に、君の友人でもある……、たとえ君がどう思っていようとね」
「渚……」
「話してくれるかい?、君の悩みを」
 アスカは顔を伏せ、表情を髪で隠し、その上でこくんと頷いた。
 ──時計の表示が十五分ほど進む。
「アタシは……、ほんとにシンジを好きになったと思ってたし、別にレイに言われたようなこと考えてなかったけど……、でも」
「否定できなかった?」
 アスカはまたも頷いた。
「シンジに……、弾かれたでしょ?、今日の戦闘中……、アタシ、シンジがアタシを跳ね退けたんだと思った、けど、ほんとは……」
 拒絶したのは自分、その事実がとても痛い。
「だから……」
 カヲルは責める。
「加持さんの元に行けなかったのかい?、綾波さんの言葉を肯定してしまうことになるから、本当は慰めてもらいたいのに」
 ……無言。
「でも君の心は苦しみと悲しみを感じている、助けを求めている、行きたいんだろう?、加持さんのところに」
「でも……、行けない、行けないわよ!」
「どうして?」
「だって……、だって」
 泣きそうになっていた。
 いや、実際嗚咽をこぼしてしまっていた。
 うっ、う……、と。
「わ、かんない……、わかんない、のよ、アタシ、自分で、何考えてるのか……」
「……簡単な事なのにね」
 カヲルは立ち上がると、アスカの隣に腰かけた。
 自然に腕を回し、背を抱きしめて、肩をさすった。
「簡単な事だよ、君はシンジ君を好きで居なければならないと思ってる、思い込んでる」
「……」
「人は人を好きになる生き物さ、だから時には新しい人に出逢い、より好きになってしまうこともある、けれど君は過去の過ちからシンジ君に不誠実な真似は出来ないと、堅く心を縛り付けている」
「渚……」
「君には君自身が幸せを掴む権利がある、だけど君は自分を戒めていた、シンジ君を見放して幸せになることはできないと、少なくともシンジ君を放って幸せを追いかける事はできないと……、君の中にあるのは贖罪の気持ちだ、故に君は加持さんに惹かれながらもシンジ君を好きだと思い続けようとした……、その無理が君の心を苦しめている、でも知っているんだろう?、ATフィールドは心の壁だよ、護魔化すことは出来ない、君がいくら思い込もうとしても、無条件にシンジ君へ自分をさらけ出すことは出来なくなっている、君はもう、加持さんへと揺らいでいる、その心をシンジ君には知られたくないと思っているから」
「……」
「だから君は距離を置こうとした、無意識の内に、それが今日の戦闘の真実だよ」
 アスカは自分を嘲り笑った。
「……よくわかるのね、その通りよ」
「僕は傍観者だからね……、いつも見ているよ、君達のことは」
 頬を擦り合わせるようにして近づけられる唇、アスカは自然と顎を上向けたが……
「ごめん」
 カヲルの顔に手を当てて止める。
「アタシ、今は……」
「そう……、良かったよ」
 カヲルは苦笑して離れた、あっさりとだ。
「もし受け入れられたらどうしようかと思ったよ、簡単に身を任して慰めを得たいと思うほどでないのなら、まだ大丈夫だね」
「ごめん……」
「試した僕が謝るべきなんじゃないのかい?」
「ごめん……」
「惣流さん……」
 後はごめんのくり返しだった。
 カヲルは思う、果たしてシンジ、あるいは加持のことが脳裏を過って拒絶したのか、それとも受け入れてしまっても良いという気持ちに対して自己嫌悪を覚えただけだったのか?
 幼馴染に対して行って来た仕打ちから、彼に好意的であらねばならないと自分を縛り続けている、その無理が素直な感情を歪ませる、本音を見せられない、嘘の自分を演じなくてはならない、その無理に対して苦痛を感じている。
 だから彼女は抜け出せなくて苦しんでいる、シンジを取るか、自分を取るか、その両方を解決出来た恋愛感情、恋愛と言うことにしてしまえば一度に幸せになれるはずだった、二人一緒に、けれど今はもうそれも出来ない。
 思い込みであったと気付いてしまったから。
 これは暫く続くだろうなと、カヲルはアスカの横顔を見つめたのだった。


 時間は少し戻ってカヲルとアスカがジオフロントを出る数分前。
 シンジ、レイ、トウジ、コダマの四人もまた、帰宅のためにジオフロントを出ていた。
「むぅうううう」
 不機嫌なのは綾波レイだ、シンジの腕を取っているのだが、その目は彼の向こう側、右腕に腕を絡めているコダマへと向けられていた。
「お腹空いたでしょ?、頑張ったご褒美にお姉さんが驕ってあげちゃうからどっか行かない?」
 レイとシンジではレイが無理矢理組み付いているようにしか見えないのに、彼女だと自然と組んでいる様な感じがある、それがまたレイの気持ちをささくれ立たせていた。
「なぁにが驕ってあげちゃうよ、シンジクンの方がお金持ってるんだから」
 意味不明な突っ張りをかますが、やはり意味不明なだけに通じなかった。
「あ、じゃあシンジ君に驕ってもらっちゃおっかなぁ?」
 余計にべたべたとされて終ってしまう。
「ぐううううう」
 ええかげんにして欲しいわ、とはトウジの本音であろう。
 あ、ほなわし、と逃げようとする、その気配を察してコダマは話しかけた。
「あ、そういえば鈴原君も、ヒカリとずっと同じクラスなんだよね?」
「え?、ええ、まあ……」
「ごめんねぇ?、そうと知ってりゃこの間はもうちょっと手加減してあげたんだけどさぁ」
 むっとしたトウジは気付かなかった、ヒカリもナンバーズなのだ、トウジのことを聞いていないはずが無い。
「今度もう一回やってみるぅ?、シンジ君に教わったでしょ?、今度はもうちょっと良い勝負になると思うんだけどなぁ」
 それは勝った側から口にする台詞ではないだろう。
「やっちゃえ鈴原、やっちゃえ!」
「あれ?、仲良いんだ、あ〜?、ホントは綾波さんって」
「ななな、なにいってんの!」
「どもってる、かっわいい〜」
「ええ加減にしてもらえますか」
「庇っちゃってぇ、ホントは付き合ってるんじゃないのぉ?」
「!」
 レイはちらりとシンジを見たが、シンジが何も言ってくれない事に顔を伏せた。
 悔しそうにしてレイは逃げ出した、それを見てトウジも駆け出した、レイを追って。
 シンジはぼんやりと見送った、溜め息を吐き、コダマを諌める。
「上手いんですね……」
「なにが?」
「ああ言えばトウジがレイを追いかけるって分かっててやったんでしょう?」
「シンジ君だって気付いてて追いかけなかったじゃない」
 二人はなんでもないことのように歩き出した。
「大変ねぇ、シンジ君も、惣流さんだっけ?、あの子も似たようなもんだし」
「何がですか?」
「分かってるくせにぃ、綾波さんはなんだかこだわりがあるみたいだけどさ、それより同情心がいっぱいで、なんだか付き合ってても疲れそうだし」
「……」
「惣流さんは自分を好きになってくれないかなぁって思ってる?、そしたらつくしてあげるのにって思ってる、でもなんか尽くしたくないけど仕方が無い、苛められても我慢しようって、なんでそんなこと考えてるんだか分かんないんだけどさ」
「……どうしてそこまで分かるんですか?」
「テキトー、まあ、細かい事情までは読めないし、感情的な揺らぎみたいなもんを考えるとね、その辺が当たりなんじゃないかって思っただけ」
 痛いな、とシンジは感じた。
 その頬がむにっとつままれる。
「なにするんですか……」
「まぁたそうやって隠そうとしてる、あたしには無駄だって事、まだわかんないの?」
「……」
「そうやって、気持ちが上辺に出そうになると顔固めちゃって、ほんとは色々考えてるくせに」
「だけど……」
「ねぇ、どういうことなわけ?」
 コダマは言い訳など許さないと強気で訊ねた、言葉に詰まる、交錯する感情、それら全てがバレているのだなと思い至って、シンジはようやく諦めた。
「……レイとは、偶然出逢ったんですよ」
「ふうん?」
「それでちょっと一緒に遊んで……、その後また会っちゃったんですけどね、父さんに半分捨てられたみたいになってたのを知って同情してくれたんですよ」
「それをずっと引きずってる訳だ」
「どうなんでしょうね……、アスカとは幼馴染で、よく苛められました」
「……」
「それを気にして謝りに来てくれたみたいなんです、もう良いんだけど……」
 ああそれでかとコダマは納得した。
「つまり惣流さんは、本当は自分勝手で我が侭なんだ、でもシンジ君に悪いことしたって思ってるから、彼女になろうとしてるんだ」
「……どうしてそうなるんです?」
「分からない?」
「……?」
「簡単な事よ、彼女になるって事は、三歩下がって大人しく着いていくってね?、まあそれはふっるい考えなんだけどさ、シンジ君に逆らわないで従順な態度で付き従って生きるって、自虐的で倒錯的だと思わない?、自分で自分を貶めて卑しめて気持ち良さに浸りたいってわけだ、惣流さんは」
「でもそんなの……」
「ま、ほんとのとこはどうだかね」
 シンジは言葉を飲み込んでしまった、確かに彼女が勝手に想像した事で、たったこれだけの会話から全てが読み取れるはず無いのだから。
 でも。
「シンジ君は……、二人とも好きなんだ?」
 シンジはドキリと身を強ばらせた。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。