「4号機か……」
 その格納庫にて見上げ、忌ま忌ましげに呟いたのはミサトであった。
 カヲルの機転とシンジの的確な処理により、さほど重大な損傷もなく4号機は回収された。
 リツコが口にしていたように、コクピット回りの換装は比較的容易になるよう改修されている、そのジョイント部分が幾つか壊れはしたものの、直すのは部品の交換だけで済む、中枢部は無事なのだから、旧式のコクピットを収めれば今すぐ動かす事も可能であった。
(扱える人間が居たらの話しだけどね……)
 渚カヲルはもう居ないのだ、新式のコクピットを再開発するか、あるいは技術部に配属されている『電子使い』の中から適性の高い者を選び出せば、動かすだけであればなんとでもなるだろうが……
 動かすだけならばの話である。
 その点が惜しかった、この間のようにコンピューターを押さえられてしまうことがもはやないとは言い難い。
 原始的なレバーとスイッチはそのためにこそあるのだ、電子回路さえ生きていればどうとでもコントロール出来る、しかしそれも渚カヲルであったればこそだ。
 通常の人間はプログラムを書き換えられただけで手をだしあぐねる、パイロットは幾つものオブジェクトによって構成されているプログラムを呼び出し、対処させるものであるからだ、直接スイッチで操作するなど、尋常ではない反射神経を必要とする。
 でなければ二足歩行機械を実践レベルで運用させるなど不可能だ。
 ミサトは惜しい人間だったとほぞを噛んだ、カヲルの中和能力を別にしても彼はパイロットとして適性能力が高かった、人として秀逸であったのだ、彼は。
 それはナンバーズでなくともこのマシンを動かせる可能性を示唆している、エヴァのパイロットを発掘するよりは高い確率で見つかるだろう、けれど渚カヲルほどに、いや、エヴァの機動性に匹敵させられるかどうか?
 答えは否となる。
 ミサトは腹立たしさに胸焼けを感じていた、それは一時間ほど前に受けた査問会でのことが、どうしても尾を引いていたからだった。


LOST in PARADISE
EPISODE36 ”よろこびの野”


 真っ暗な世界に二人の男が浮かび上がっていた。
 一人は碇ゲンドウであり、もう一人は老人だった。
 キール・ロレンツと言う。
 二人は長大なテーブルを挟んで席に着いていた。
「事の重大性は認識しているだろう、わたしとて押さえられない事もある」
「承知して下ります」
 キールは深い溜め息を吐いた、本当に理解っているのかと、機械的なバイザーで隠している目を向けた。
 彼は既に生身の肉体を失っている男だった、老いた体は視力を、聴力を、五感を衰えさせ、彼に死を強要している。
 それでもまだ生きているのは……
「あれは失う訳にはいかん」
「王たるものだからですか?」
「そうだ、次代を担う者として創造し、教育を施してある、わたしの時も残り少ないからな」
 ゲンドウは大きく頷いた、別段、彼の死に対して思う所や裏の感情があるわけではない。
 既に厳然たる事実であったからだった、否定するだけ無意味である、だから受け止める以外に無い、問題はこの老人がゼーレと呼ばれる組織の長である事だった。
 ゼーレ、その実体は無い、無いに等しいのではなく存在しないのだ。
 ゼーレとは人の集まりであった、ある者は主婦であり、ある者は軍人であり、ある者は政府の要職に付いている。
 一つ行動を起こす時には、各々が自身の役職を利用して、それぞれの役割を担い、最終的に事が成されるよう行動を取る。
 そしてその存在は、ネルフの創設にも関っていた、彼ら個人には国連や大国を動かすほどの力は無い、当たり前だ、それぞれは唯の民間人、あるいは軍人にすぎないのだから。
 だが噂をばらまくことは出来る、あるいは上官の意識を誘導する事が出来る、嘘でかどわかすことも可能であった。
 そうした心理操作によって、彼らはネルフの創設を行わせていた、それぞれの国に潜む者が、国主に対して利になると判断するよう吹き込めば良かったのだから容易いものだ。
 ネルフ内においてもこの状態は組み込まれていた、ゼーレの構成員は数千人からなる職員の1%にも満たないだろうが、その1%がそれとなく情報を操作する事で、残りの99%は嘘と噂に騙されて職務にはげむ。
 ゼーレとはそのような集まりであった、そのために構成員がどれ程居るのか?、どれだけの力があるのか、実は長であるキールですら掴んでいない。
 長が命じれば下のものがさらに命を出す、そしてその下のものは……
 そのようにして世界は彼の手のひらの上に収まっていた、しかし彼は死の縁にある、このままでは世界は取り落とされてしまうのだ。
 ──奈落の底へと。
「情報化社会とは恐ろしい物だな……、かつては貴族社会の内での秘密結社であったそうだが、宗教でもあるまいに、こうも大きくなってしまった」
 ゲンドウは答えなかった、彼が病んでいる一番の原因は、その影響力の大きさだと知っていたからだ。
 キール・ロレンツが懸命であったのは、その権勢を自分ではなく、ゲンドウに委ねている事にあった、自身の感覚が旧世紀のままのものであり、そのつもりで指示を下せば恐ろしく歪んだ結果を生み出しかねないと知っていたのだ。
「お前が居なければ、こうまで安定することは無かっただろう」
「恐縮です」
「だが同時に、お前ではわたしの跡目には弱過ぎる」
「承知して下ります」
 確認を求める雰囲気に、ゲンドウは己の口で粛々と語った。
「実務ならばともかく、王たるものにはカリスマこそが求められる……、わたしはその器ではありませんよ」
「……他の者にはお前ほどの力も無い、自制心も無い、わたしは感謝している、お前に楔が着けられている事をな」
 反応を見せるゲンドウを無視してキールは口にした。
「碇ユイ」
「……」
「彼女の影がある限り、お前はお前であることをやめんだろう……、それゆえ安心して任せられる」
「……わたしは妻を愛して下りますから」
「皮肉だな」
 笑ったわけではない、感心したのだ。
「東洋人は妻を伴侶にするが、西洋人は妻を娶る、陰陽であったか……、己が半身を補完する重大性を認識しているのだろう、だが妻として迎えると言う意識は、家長として独裁することを前提としている、独善的なのだな」
「ですが悪いことではないでしょう、貴族社会における一家とは使用人も含めた一族を指します、これを治めるためには己が法となり、規範を示さねばならない……」
「そのために、あれには多くのことを学ばせねばならなかった」
 それは渚カヲルのことを言っていた。
「あれがドイツで味わった苦痛、屈辱、汚濁は知らねばならないものだったのだ、それを知った者はまず間違いなく己を法とし、裁こうとする、だが全ての者に救いが無い訳ではない、自身が救いをもたらす力を持つなら、同じ存在が有り得る事も知らねばならなかった」
「……委員会はそう考えてはおらぬようですが」
「それがつくづく惜しい事よ」
 嘆息する。
「馬鹿者共が怯えに走りおった、揺らぎなく理想の絶対者として完成に近づいていたあれが人間らしさを得た事に動揺しておる、その上使徒との接触だ、失ってはならぬと引き上げを決定しおって」
「フィフスの環境は?」
「あれ自身は贖罪を決めるつもりでおるようだがな」
「人の毒は、心を犯します」
「あれが我らの希望の姿を体現することを願う」
 消える、三次元フォトグラフだったようだ、光が取り戻されると、ここはゲンドウの執務室だった。
 隔壁のようなシャッターが上がっていく、窓の外にはいつものジオフロントの森が一望出来た。
「……随分と誉められたものだな」
 口にしたのは控えていたコウゾウだった。
「強力にして無比の同盟者か?」
「いや」
 ゲンドウは皮肉を持って笑った。
「所詮は化かし合いだ、非の打ち所が無い人格者を装うことで、釘をさしているのだろう」
「そのための二人きりの会合か」
「ああ、今頃は委員会の面々に対して、わたしに対する不満や愚痴を盛大に撒き散らしているはずだ」
「仲間であると思わせるためにか、……ゼーレのお家芸だな」
「そうだ、蝙蝠そのものだよ、もっともわたしもその内の一人だがな」
 誰に対しても味方を装い、その時々の有力者に肩入れし、敗者には勝者のために敢えて汚名を被り獅子身中の虫として働いていたのだと白々しく口にする、見下して。
「所詮は人の営みか……」
「嘘のない者など居ない」
「わたしはそれでも、人には誠実さが必要なのだと信じているよ」


 だがコウゾウがそう願っているのとは裏腹に、人の本質は善悪にはなく、人の本質とは都合の良さなのだなぁと悟ってしまっている少女が居た。
 ──洞木コダマである。
「だからさぁ、言ってやったのよ、ちゃんと付き合ってる子、居るんでしょって、そしたら大当たりでさぁ!」
 ぼんやりとそんな無駄話を聞いている、場所はネルフのラウンジだった。
 新人の交遊会ということで参加しているのだが、あまり面白くなさそうに隅の席に着いていた、皿に盛られたチップスを摘まんでは口へと運んでいる。
(そういやシンジ君って、何人か付き合ってる子、居たっけ)
 思い出しているのだが、その心中のどこを探しても妬心は無い、そういう付き合いでは無い事もあるのだが、シンジ自身が別段本気で付き合いたいと願っている相手など居ない事を知っていたからだ。
 人はその時々の気持ちによって善人にも悪人にも変化する、結局それは誰かにとっての主観でしかない、例えば先程から耳に入り込んでくる少女の話もそうだった。
 あたしのこと、好きなんでしょ!?、そう詰め寄ったらカラオケ友達くらいに思われていただけだった、それはちくしょうと自棄になっている時に知り合った男の話だった。
 男にとっては慰めている内にほだされてしまったのだろう、それは善意だ、彼女にとってもそれは同じだった、だがある一線を越えてそれは変化してしまった。
 男は彼女に欲を持った、少女も同じく欲情を抱いた、その結果、第三者である男の本来の彼女に対しては、悪い事になってしまった。
 気付いていたのだから、それは確信犯であろう、つまり何も知らずに裏切られた少女にとって、この二人は悪人になる、だが男は欲は持ったがその大半は慰めるつもりの善意がしめていたのだし、完全な悪人であるとは言い難い。
 結局、善と悪に分け隔てて、そのどちらかに揺らいでいる様なあいまいなものではないのだなぁと結論付ける、善も悪も無いのだ、ただ都合よく身を翻しているだけ、善悪はその行動に対して、どう見えるのかの分析に過ぎない。
 そして誰かの判断である以上、主観に過ぎないのだ。
(シンジ君ってのは、どう見えるんだろ?)
 塩気が効き過ぎていたのか顔をしかめた、コップに手を伸ばし、ストローをむ。
 黒い炭酸飲料、細長いコップいっぱいに入っている氷は、奇麗な製氷がされていて、白い濁りは封じられてはいなかった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。