──ガチャン!
 隣の部屋に住んでいれば、このような状態にはまま出くわしてしまう。
 元はシンジの部屋だった場所に居ついたレイと、移動する事に特に声を発しなかったアスカ、二人の視線は一瞬気まずげに交わされた。
 アスカにはおはようの一言が言えなかった、あれからずっと考えている、シンジとのことをだ。
 シンジに許してもらえる事を望んでいた、それは解放を意味するが、それ以上に自分の中にある理想のシンジになってくれることを祈っていたものだった。
 優しくて、おおらかな。
 それが自己嫌悪を引き起こしていた、究極それは願望でしかなかったからだ、そして願望が満たされるためには、シンジに人形となってもらう他ないのだと落胆してもいた。
 人形のように決して逆らわず、自分が望んだ通りに動いてくれる、着飾ってくれる、話してくれる……
 考え自体は間違ったものではなかったはずだった、過去の過ちを清算するためには、ゴールが必要なのだから。
 シンジが幸せそうにしている、その最終的な姿を夢想して、そこに至ってくれるよう願う、これは決して間違いではないだろう。
 間違った事では無かった、正しい事だったはずなのに……、アスカはぎゅっと唇を噛んだ。
 どこで考えを違えたのかと。
 シンジが人並みの幸福を得てくれるよう願った、その姿を現実のものとしてくれるよう祈った、そこに自分の像を織り込み、隣に立つようにしたのはなんだったのだろうか?
 恋なのだろうか?、アスカは違うと判断した、想像しやすかったからだと分析した。
 シンジを支えて共に幸せになる、その相手をレイとして、レイに言い含め、手助けしてやるよりも、自分が直接支える方が想像として背徳的で楽しかった。
 錯覚なのだと思い至る。
 錯覚だったのだと思い知った。
 だから今は語るべき言葉を持ち合わせてはいなかった、シンジの幸福を願うだけなら、自分は傍に居なくても良いのだから。
 いつか幸せになってくれるかもしれない、自分がそう仕向ける必要は無い、他人に委ねた方が良いのかもしれない。
 触れ合うほど傷が深くなる事もあるのだから。
 自分がしなくては気が済まない、それはただの我が侭なのだ、そしてその我が侭に目の前の友達を振り回してしまった。
 ──目がさ迷う。
 そんなアスカだからこそ、レイもまた何も声を懸けられなかった、言うべき事は沢山あるし、一時は親友とまで言えたのだ。
 アスカが反省している事くらいは予想がつく。
 それでも答えは見付けていない、迷いからまた誰かに縋ろうとするかもしれない。
 だから今は見ているしか無いとレイは思っていた。
 結局二人は挨拶をせぬまま、どちらともなく歩き出した。
 マンションを出て、同じ道を歩く、気がつけば道の両端に離れてしまっていた、それが今の二人の心の距離を現していた。
 だが二人とも重大なことを心に秘め過ぎてしまっていた。
 レイにとってアスカは特別だった、かつて初号機が暴走紛いにジオフロントを燃やし尽くそうとした時、それを止めたのはアスカであった。
 最近、同じような事が増えている気がする、もしもの時同じく止められるのは、やはりアスカだけかもしれないのだ。
 いや、アスカだけであろうとレイは思っていた、自分とシンジとの仲は何も発展していない、やはりアスカだけが特別なのだ、あらゆる意味で、シンジにとって。
 その特別さ故に歯がゆく、もどかしく、恨めしい。
 自分の好きな人を振り回す彼女と言う存在が。
 一方、アスカもアスカで話せないと悩んでいる事があった、それはカヲルから聞かされた事だった。
 シンジはみそぎを終え、死に殉じようとしている、真実の死ではないが、この世から離れようとしていると言う事では同じだと。
 これを止める術は無い、自分では駄目だと思っていた、重しにならないから、むしろ逃げようとするのではないかと考えていた、この点、レイとは正反対の分析をしている。
 レイはどうだろうかとも考えた、その結論は出せていないが、レイに言うわけにはいかないと言う事だけははっきりとしていた。
 シンジが覚醒するきっかけになったのはレイの危機であったからだ、レイの秘密のこともある、カヲルが見たと言う女の影、アスカはどこかで、シンジはレイの代役を努めようとしているのではないかと勘繰っていた。
 もしそれが正解だとすると、自分には手におえないことだと結論付けるしかない、止めようとしてもシンジは使命感に突き動かされて、目的を果たそうとするであろうし、それを辞めさせるのなら、役割を担うはずであった本来の人物、レイに押し付けなければならなくなる。
 そしてそれを認めるシンジではないだろう。
 結局、レイが鍵を握っている事になるのだ。
 それが真実とは限らないが、打ち明けるならどうすればいいのか、一応の答えを見付けなければならない、そうでなければまた言い別れになるだろう、下手に話して、レイが悪いのだという話にもなりかねない内容でもある。
 ──それはアスカの不幸であった。
 本当はレイと話し合って、シンジに詰め寄れば良かったのかもしれない、けれどそうは出来なかった。
 そのことがアスカをより強く追い込んでいった。


「どうも性に合わないんですよねぇ〜」
 そう言って伸びをした後、コダマは肩を揉みほぐした。
 逃げ出して自動販売機へとやって来ていた、その前にはベンチが並べてあるのでくつろげる、待ち合い所兼休憩室だ、ここは前後に二本の通路があり、その二つを繋ぐスペースであった。
「苦手かな?、ああいうのは」
「なぁんか白々しいから」
 苦笑したのは加持だった、コダマの横で安いパックのコーヒーをすすっている。
「白々しい、か、でもそんなもんだろう、女の子の話なんてのは」
「そうですか?」
「積極的に楽しく生きようと思うなら、嘘くらいは言わないとな、脚色して話すくらいは許してやれよ、それでみんな楽しめるんだから」
「どうですかね、あたしにはそれは分からないな」
 おやおやと加持は肩をすくめた。
「思ったより冷めてるな、君は」
「そうですか?」
「ああ、アスカから聞いてた様子じゃ、もっと遊んでる子かと思ってたが」
「アスカ、ね……」
 意味ありげに笑う。
「それで話しかけて来たって訳ですか?」
「それだけでもないさ、アスカでも歯が立たない子ってのはどんな子かってね」
「髭面でキューピットなんて似合いませんよ?」
「俺は仲を取り持ってやろうなんて思ってないさ、そんな虚しい役目はごめんだな」
「で、この手はなんですか?」
 コダマの肩に左腕を回し、右手で唇を上向きにさせる、加持はそれ以上の皮肉を実力行使で封じてやろうと試みたが……
 ──バツン。
 音がして、加持の髪がばらけた、髪留めにしていたゴムが切れたのだ、切ったのはもちろんコダマの風だった。
「そういうやり方で人を試す奴って、嫌いなんですよね」
「そいつは悪かった」
 加持は両手を上げて降参した、その上でそれだけでは許してくれないかと、そそくさと立ち上がった。
「じゃ、また今度、ゆっくりと」
「機会があれば」
 コダマはそっぽを向いたままで口にした、膝の上に頬杖をついて缶ジュースに口を当てる。
 加持の姿が遠ざかり、見えなくなる、十分にそれを待ってから口にした。
「隠れて見てるってどういうこと?」
「……ごめん」
 気まずげにシンジは、別通路から姿を見せた。
「ったく……、一応彼女の危機なんだから、嫉妬して割り込むくらいのことが出来ないの?」
 シンジは曖昧に笑って護魔化した。
「ごめん」
「そればっか」
 こっちにおいでと手で誘う。
 シンジは隣に腰かけて、少し感動したようにコダマを見た。
 こうしていると、やはりコダマは大人だと思う、胸のことなどもあるのだが、やはり自分よりも大きく感じてしまうのだ。
 女性だから男性よりも脂肪が多く、ふっくらとしている、そのせいだけではなくて、大きく思える、それは余裕のせいなのだろうか?、身長は変わらないはずなのに、存在感が違うのだ。
「なぁに見てんの」
 ごめん、とシンジはまた謝った。
「ねぇ、さっきの」
「ん?」
「どうして嫌がったの?、加持さん」
 ああ、とコダマは口にした。
「だってあの人、アスカちゃんの味方でしょう?」
「うん……」
「ってことは、シンジの恋敵って訳だ」
「恋敵って……」
「違うの?」
 シンジは即答出来なかった。
「ごめん……」
「謝るところじゃないでしょうが」
 コツンと缶で叩いてやる。
「裏のある人間と関係が出来ると、後々面倒になるから」
「そっか……」
 シンジはおでこをさすりながら納得した。
「でもそれなら僕よりも他の人と付き合えばいいのに」
「シンジは別ね、面白そうだから付き合ってるんだし」
「そうなの?」
「愛してくれてないんだ、なんて言わないでね、キモイから」
「そうだね」
 どうやらシンジには自覚があるらしい、その方向性には問題があるだろうが。
「僕に好きなんて言われるのは気持ち悪いだろうね……」
「言って自然って感じがするなら良いけどね、シンジのは壁作るために言ってるような感じしかしないから」
「壁?」
「そう、余り親しくなるつもりないからってね、予防線張ってるって言うか、だから大抵の子は引っ込むんじゃないの?」
「そう……、なのかな?」
「でなきゃ、もっと大変な事になってると思うけど?」
「え?」
「だってそうじゃない、シンジを気に入ってる子って多いんでしょ?、実際デートもしてるんだし、シンジが女の子ってのをどう思ってるかは知らないけどさ、女の子だって本気になったら相手をホテルに引っ張り込んだり、自分の家に誘ったりするんだからね?」
 余りにあからさまな言葉に、シンジは動揺した。
「ホテル……、ですか」
「敬語になってる」
 ぷっと吹き出す。
「そりゃもう気に入ったらエッチくらいしようぜってもんよ、べたべたにくっついて甘えたいんだから、それが無かったって事は、脈が無いなって撤退されてるって事よ、自分が思ってるような関係にはなれそうもないからやめとこうってね?」
「そうなのかぁ」
 感心する。
「良く分かるんですね」
 コダマはその言い草にこそ苦笑した、人の気持ち、感情の推移が読めるようにしたのはシンジなのだ、なのにその力に頼らず人の心の流れを語っていると、この少年はきっちり理解して応対してくれている。
 普通なら力で読んだんですかと言うところだろう、それを生まれつきの洞察力と、自分の考えで話しているのだとちゃんと分かってくれている。
(だから手放せないってのもあるか)
 妙な居心地の好さがあるとくすぐったさを覚えた。
「……自分が望んでるようなベタ甘の関係にはなれないってのは、つまんないのよね、だから他の手頃なとこに行くんじゃない?、元々シンジを凄く好きでデートしようって誘ってる訳でも無いんでしょうし」
「かもしれません」
「でもね、見方を変えると本気で好きになってる子は可哀想よね」
「え?」
「だってそうじゃない?、どんなに好きって言っても、自分の想像してる様な……、妄想しちゃってる様な感じにはなれないんだもん、でも好きだからいつかって期待するし、離れられない、逃げ出せない、ま、そんな拘束力があるから、恋ってのは面白いんでしょうけどね」
 上手くいかない事もあるし、けれど上手くいくかもしれないから逃れられない。
 シンジはコダマの目に、あの二人のことを言っているのだなと理解して、それ以上の深入りを避けた。
 分かっていてもどうにも出来ない問題もある。
 それは言い訳に過ぎないものだったが、シンジの中では理屈であった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。