シンジの精神状態について、僅かながらでも不安を抱いていたのは彼女であった。
(期待するしかないでしょうけど)
リツコである、彼女は頭を振り、その前提条件を消し去った。
それも無事であったならのこと、ちがう、彼は無事なのだ、そう思い込もうとした。
ミサトの指摘が心の間隙を突いて忍び込んで来る、そんな錯覚を受ける、彼女の言葉は悪魔の囁きそのものだった。
大事なのは、今確実に無事な仲間たち、だから可能性で語って無用なリスクを生産するのは愚か者のすることだ。
確かにそれはそうかもしれない、責任者としてそれは正しいのかもしれない、だがリツコは認めるわけにはいかなかった。
理屈で割り切れるものではないからだ。
総司令、碇ゲンドウはこの行動を黙認している、リツコは誰とも違い、それが彼の本心ではないのかと洞察していた。
立場上、何を口にしても悪意に取られるだろう、見捨てると発表すれば自分の子供をと、助けると表明すればどうせ自分の子供だからだろうと。
だからこそ不憫に思えてならなかった、誰かが行動を起こしてくれるのを期待して、待つしかない、座しているのが彼に出来る唯一のことならば、こちらで暴走してやるしかないのだ。
彼はそれを期待しているのだから。
(向こう側が虚数空間と呼ばれる世界に通じていたとして、その空間に十時間以上……)
人間の精神とは脆いものだ、特に無音の状態には堪えられない。
闇の中に閉じ込められた人間はまず間違いなく発狂する、これは精神力には関係が無い、三半規管などの器官が狂い、壊れていくのだ。
何一つまともに判断できる基準を失い、やがて精神に異常を来す。
(それはシンジ君でも例外じゃない)
リツコは知っていた、彼は確かに大きな力を持ってはいるが、その心は普通の少年のままであると。
昔、フォースチルドレンが生死の狭間をさ迷った時、無理を言い出したのは彼だった。
その後も、文句の一つも言わずに、律義に研究材料となってくれた、理由は恩返しだったのかもしれないが、それにしては十分過ぎた。
いや……、本当はリツコも気がついていた。
シンジは怖がっていたのだ。
自分がどうなっているのか、分からなくて、知りたくて。
「あんな子供なら……、シンジ君のような子なら、悪くは無いわね」
だがだからと言って、ゲンドウのようは夫は嫌だと想像をして……
以前ほど嫌悪感を抱いていない自分を見付け、リツコは意味不明に狼狽えた。
技術部主任から作戦部へと回された作戦の概略骨子は、ミサトを唸らせるものだった。
「冗談でしょう?」
これだから、と馬鹿にして、唇を噛む、顔が酷く醜く歪んだ。
「二機のエヴァによってATフィールドを中和、自分を支えられなくなった使徒が自壊を始めたところで3号機によるサルベージを敢行?、無茶苦茶じゃない……」
それも、3号機、鈴原トウジが最近身に付けた物体圧縮技術を用いて行うというのだ。
既に開かれている空間を、開いたままに固定させようというのである。
使徒が壊れ、ディラックの海と呼ばれる虚数空間への扉が閉じられるまでにある時間は僅か千分の一秒。
使徒は生きている限りその開閉権を譲りはしないだろう、しかしかといって倒してからではシンジが漂う宇宙がどこにあるのか?、そしてその宇宙のどこに居るのか?、探り当てるだけで五十億年以上の時を必要としてしまうだろう。
「綱渡りじゃない」
ミサトには失敗の確率が見えるようだった、小数点以下、ゼロが無限に並んでいる。
大体がトウジだ、そんな器用な真似が出来るはずが無い、空間に開かれている穴を開いたままにするなどと、一体どのようなイメージを行うと言うのだろうか?
そして万が一にかけようとする意気込みは凄まじいものがあった、レイ、アスカ、そして責任重大なトウジ。
少々気負い過ぎな面も見られる、もし失敗したならば?
拭いされない傷を負うことになるだろう、彼らはもう駄目になる、最悪だった。
(止められなかった)
ミサトは苦渋を堪えていた。
──そして全ての準備が整ってしまった。
「エヴァ三体、配置に着きました」
無言のままのミサトに、リツコはマヤの手元を覗き込みながら訊ねた。
「ミサト……」
「……」
「聞いておきたいことがあるの」
あなた、と。
「シンジ君に生きて帰って来て欲しいの?」
「当然でしょ」
苦笑するリツコである、この状況下で反対の姿勢を貫きながら、平然とそう即答してのけるのだから。
彼女の中ではその相反した選択と答えが矛盾無く存在しているのだろうと感じられた、羨ましいことだと溜め息を吐く。
アスカとレイはそれぞれエヴァの中で緊張に硬直していた。
ことここに至っては、シンジの気持ちも互いの確執も意味を持つものとして存在してはいなかった、シンジが居なければ考えるだけ無駄なのだから。
その意味ではレイもアスカと同じ立場に身を置いていた、彼女同様にシンジが居なければ今の自分は成り立たないのだ。
だから奪い返す、なんとしても、あの使徒から。
レイは必死にエヴァを走らせていた、神様に祈る暇も無くすくらいに、しかし例えその暇があったとしても、誰にも祈ろうとはしなかっただろう、その気持ちはアスカも同じものを持っていた。
誰かの『気まぐれ』でもたらされる結果など、納得できるものではない、全ての願いは自らの手で掴み取らなければ『堪え』られない、『安心』できない。
タナボタの勝利と不運から来る末路などに、誰が大人しく殉じえようか。
アスカはレイとは反対側の通路から進行していた、目標を挟み撃ちにするためだ。
二機のエヴァで挟み込み、逃げ道を塞いだ上でATフィールドによる檻を形成、そして中和する、囮であり主役でもあるトウジはかなり先を進んでいるはずだった。
アスカは手が固まるほどにコクピットフレームを握り込んでいた、だめだ、我慢できない、何かが噴き出しそうだった、心の中で何かが暴れている、堪えられない。
焦燥感がそれをアスカに認識させていた。
あるいはそれは不満であり、憤りであり、シンジへの恨みつらみであっただろう、思い通りにならない人生への反骨心そのものだった。
これが終わったら、問答無用で責任を取らせてやる、どう思われたって良い、自分の想いを知らしめてやる、裸で迫って、泣き落としてでも抱かせてやる、自分にはその権利があるはずだ。
貴重な乙女の十代の三割を、もうすぐ四割だが、を、浪費してくれたのだ、あの馬鹿は。
それを取り返してやる、アスカはそう強がった、もちろん青ざめた顔から、それすらも拒否されるかもしれない、そのことによって溝が深まるかもしれないと言う滲み出す不安感は読み取れた。
──それでも必要なのは。
強がりから来る、意気だった。
──接触する。
ミサトはモニターからの情報に息を呑んだ、マップ上の光点が確かに使徒を挟み込んだ。
「目標確認、エヴァ各機、作戦開始」
シンジぃ!、シンジクン!、そんな風に彼女達は同時に同じ名前を同じ気持ちで叫び、気合いに換えた、それは羨ましいほどの純粋さだった。
無垢からは程遠く、どろどろとした情感にまみれていたとしても。
──ピクン。
そんな声に反応を示したのは……
「アスカ?、レイ……」
シンジはゆっくりと瞼を開いた。
「まだなのか」
勇気が足りなかった。
だから自爆シーケンスを作動させて眠ることにした、寝ている間に全てが終わるならこれほど助かることはない。
だが自爆まで後三十秒というところでこのざまである。
「どこまでも……、僕は」
瞼を閉じて、体を壁に傾け預ける。
レイとアスカは正体不明の焦りに駆られていた、思っていたより中和がはかどらない、思っていたより使徒は頑強で手強い、第一ATフィールドを壊したからと言って……
違う、そんなことではないのだ。
二人は背中に寂しさを感じていた、寒さなのだ、これは。
後ろ楯が無い、今まではシンジが居た、彼がどんな苦境でも支えてくれた、それが今は失われている。
最も大切なオペレーションで、最も大事な物を取り戻さなければならない、二人は今になって気がついた。
常に負けられない戦になった時には、もうシンジはいなくなってしまっている、その可能性があったことに。
絶対者であるシンジがいないからこそ、負けられないほど辛い立場に追いやられることになるのだと。
「負けらんないのよ!、アタシ達はぁ!」
アタシ『達』、素直に発せられたその表現を、レイもまた素直な気持ちで受け入れた。
「だから帰って来てっ、シンジクン!」
──バキン!
何かの音がして、良く見れば使徒の表面に亀裂が走って居た。
「よっしゃあ!」
天井に張り付き、今の今まで潜んでいた3号機が、張り付いたままの状態で右腕を突き出した、左腕を添えて。
アスカは焦った。
「馬鹿っ、まだ早い!」
使徒が動いた、床から壁に移動し、そして天井へと滑らかに這い、移動した。
「のわぁ!」
「鈴原君!」
「スズハラ!」
トウジはかろうじて天井から落ちることで躱した、いや、躱そうとした。
その次の瞬間。
『!?』
使徒が内部から閃光と共に膨らみ、弾けた、爆発だった、白色の高熱が辺り一帯を舐め回した、零号機も、弐号機も、3号機はその衝撃に地に叩きつけられてバウンドした。
「な……」
堪えられたのは『火』の属性を持つアスカだけだった、零号機も3号機も高熱によって装甲がとろけていた、素体にまで被害は及んでいるだろう。
煙が去る、使徒は消滅していた。
「あ……」
代わりに、何かが膝を突いていた。
陽炎立つ床の上に。
それは……
「シンジ!」
エヴァ初号機。
エヴァンゲリオン01。
碇シンジの乗る機体、だがその目は光を失い、まるで初めてシンジが見た時のように、半ば石化して固まっていた。
続く
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。