──十時間。
 それは無為に過ごした時間であった。
 使徒は侵攻を続けずに、サキエル殲滅後、姿を消した。
 これの捜索と追跡にはチルドレンが動員された、彼らの『眼』には闇と使徒である『影』との境界線が、はっきりと区別できるのだそうだ、おかげで闇に紛れられて見失ってしまうなどと言った、失態を犯さずに済んでいた。
「ATフィールで形状を整えているからかも知れないけどね」
 リツコの軽口に、ブチッと何かを噛み千切る音が響いた。
 ブリーフィングルームに集っている大勢の目が、その中ほどの席に着いている赤毛の少女へと向けられた。
 つうっと、その唇から赤い筋が垂れ落ちる。
 唇、そのやや内側を噛み千切ってまで、アスカは激情に堪えていた。
 その隣にはレイが居る、心配そうだ。
 それを見て、部屋の隅に立ち、腕を組んでいたミサトは、どこか懐かしい光景だと目を細めていた。
 しかし感傷もそれまでだ、こほんと咳払いをして先を促す。
「リツコ」
「ええ」
 リツコはプロジェクターで使徒に関係する概念図を表示させた。
「使徒についての情報は手元の資料を、斥候による偵察行動の結果、この使徒は『左回り』の法則によって通路を周回していることが確認されました」
「左回り?」
 一人の男の疑問に詳しく説明をする。
「地図遊びの初歩的攻略法の一つよ、右か左の壁に沿って移動することで全ての道を踏破する、もちろん高度な迷路には、これに対抗するための作りが用意されているものだけど」
「……遺跡内部は未発掘領域によって行き止まりばかりです、なら、いつか本部に?」
「あてになるかどうかは分からないけど、今の移動速度なら数年以上はかかるわ、途中に下の階層へ向かうための通路があるから」
「逃げられてしまう可能性もあるわけですか」
「手出ししなければ安全なわけだから、干渉せずに静観すると言う方法もないわけではないわ」
 もちろん、と、ちらりと目線を送る。
 向けられたミサトは嫌な予感を覚えて止めようとしたが、間に合わなかった。
「……01を、シンジ君を見捨てるのならってことになるけど」
 静まり返った、そして一同のリツコを見る目が剣呑なものに変わっていった。
 誰が見捨てるものかと憤っていた、その心理を作り出しているのは誰あろう、中心に据えられている少女である。
 アスカをその席に置いたのはリツコだった、レイに誘導させたのだ、そこに座らせろと。
 隅などの席ではいけない、疎外感や孤独を味合わせてはいけない、周りのざわつきこそが内に入ろうとする精神を引き止める枷になるのだと説明していた。
 もちろん本当の理由は、この風潮を作り出すための『アイドル』に祭り上げるためだった


「どういうつもりなの!」
 本部内、あまり人の来ない廊下に連れ込み、ミサトはリツコの胸倉を掴み上げた。
 壁に押し付けて喘がせる、しかしリツコの眼光は衰えなかった。
「シンジ君を貴い犠牲にさせないためよ」
「あんたね!」
「貴い犠牲を払って、みんなで幸せになりましょう?、そんな棚上げ人生はごめんだわ」
 手を振り払う。
「犠牲の上に立つということはしこりを得るということよ、そんなものを持ったまま、どうして幸せを素直に感受できるの、罪を犯しておいてあの時は仕方が無かったで済ますつもり?、そんな恥知らずな精神に毒されるくらいなら、わたしは確信犯になるわ」
「ゼロか一かで割り切るんじゃないわよ!、シンジ君が居て幸せか、みんなを犠牲にして罪悪感に潰されるか、どっちかなんてそれこそあんたの身勝手じゃない!、普通はねっ、シンジ君には悪いけど、レイやアスカのことを考えるもんでしょうがっ、自分のことだけ考えて!」
「じゃあ何もせずに見放せって言うの!?、レイやアスカが納得してくれるとでも思ってるの!?」
「させるのよ!、助けられるかもしれないなんて希望を持たせて、頑張らせてっ、揚げ句駄目だったらどうするの!?、今はまだ立ち直れるだけの余力があるけど、これで失敗したら希望がゼロになっちゃうのよ?、わかんないの!?、完全な絶望よ、『アタシのセイでシンジはシンダ』、それこそ後追い自殺しかねないじゃない!」
 ドンッとリツコの胸を突き飛ばす。
「シンジ君だけじゃなくてっ、少しはあの子達のことも考えてあげたらどうなの!?、憎まれ役を買ってでも心が壊れないようにしてやるのが大人の仕事ってもんでしょうが!」


「アスカ……」
 大人二人が激しくやり合っている頃、二人はまだブリーフィングルームに居た。
 アスカは体を折るようにして、膝の上に顔を隠していた。
「……あたしの、せいだ」
「アスカぁ」
「あたしのせいで、シンジ……」
 レイには懸ける言葉が見つからなかった。
 誰にも言えなかった、言えるはずが無かった。
 アスカが吐露した内容は、あまりにも衝撃的過ぎるものだったから。
(シンジクン……)
 不思議と悔しさは無かった、シンジがどれだけアスカを大切に想っているのか、それを知っていたからかもしれない。
 それは愛情や恋とは別の次元にあるものなのだと、レイは今更になって気付かされていた。
 公園での会話。
 それをアスカが聞かせてくれたから。
(シンジクンにとって、アスカって……、友達、なんだ、本当に、本当の意味で)
 物心付いた瞬間からそこに居て、彼女が居ることが当然で、彼女無しには想い出は何も語れない。
 根幹を成している存在、自分と言う存在の母体。
 レイはそっと目を伏せた、今は力を使う気力も沸いて来なかった、あるいはシンジを見付けられるかもしれない、そう思っても出来なかった。
 今まで見れないものなどないと思っていた。
 だがこんなに近くにあって、いつも傍に居たのに。
 まったく見えていなかったのだ、二人の……、心の繋がりなどは。
 今は分かる、アスカもシンジと同じなのだ、今の自分はシンジ無しには語れない、出来損ないの人形達、互いに背を合わせてようやくそこに座ることができる。
 どちらかが離れれば倒れてしまう、そんな『不細工』な人形なのだ。
 アスカはその感情を慕情と捉え、シンジは……、どうなのだろう?、わからない。
 恋愛でなくても良かったのだ、二人が間に育むべきものは。
 それぞれはそれぞれにパートナーを見付けて幸せになれば良かった、その上で互いを否定しさえしなければ。
 ──今となっては、もう?
 レイはその考えを振り払うためにかぶりを振った。
 まだ間に合う、遅くない。
 そう思い込まねばならなかった、アスカに引きずられている場合ではないのだ。
(でもシンジクン、恨めしいよ……)
 自分のためにと悔やんだのに、それが実はアスカのためだったとは……
 すっかり騙されたと言う気分である。
(絶対に文句言ってやるんだから)
 しかし、その時、碇シンジは……
 深遠の底にて、狂気に身をやつし始めていた。


 夕日の中を、少女が真っ直ぐに駆けて来る。
 左右には影となった家屋と塀、影が長く伸びていた。
 ──彼の前を駆け抜けて行く。
「……」
 声にならない切ないものを発する、アスカ、そう呼び掛けたのに気付いては貰えなかった、それはあり得たかもしれない過去だった。
 見向きもしてもらえなかった、友達だなんて想ってもらえなかったかも知れなかった、そんな過去の情景だった。
 ふっと意識が上り始める、瞼を開けば、そこは生臭い肉壁に圧迫された空間だった。
 スーツの腕時計を見る。
「……十三時間か」
 瞼を閉じて、意識をエヴァに同調させる、顎を上げるエヴァンゲリオン、その瞳に光が灯った。
 周囲は白色の空間がただ広がっていた、どこまでも、どこまでも。
 それは彼の居た世界とは逆の光景だった、宇宙、なのだろう、浮遊しているのが感じられる。
 空は白、星は黒、何よりも絶望的なのは襲いかかって来る孤独感だった。
(情けない)
 覚悟を決めていたつもりだったのに。
 全くできてはいなかった。
 違う、嘘だ、そんなつもりになっていただけだ。
 レイと遊んで楽しかった、でも覚悟を決めるために冷たくするしか無かった。
(違う、父さんの『仲間』だって分かって警戒しただけだ)
 アスカが謝ってくれた、もう良いって思えた、だから優しくなれた。
(嘘だ、それでも相手をしなかったら、どんな風に恨まれたかわからなくて怖かったからだ)
「アスカ……、レイ、ミサトさん、リツコさん、みんな……、父さん」
 慟哭を吐き出す。
「誰か助けて、助けてよ……」
 ぐにゅりとした内壁を叩きつける。
「誰か!」
 何度も、繰り返し。
「助けて!」
 無駄なことを。
「誰か助けて!、助けてよ!」
 おこなって。
「誰か……」
 手首を傷める。
「うっ、う、う……」
 心の痛みにでは無くて、手首の辛さに込み上げるもの。
 それが情けなさに拍車をかける。
 結局怖かっただけなのだ、正面を向いて生きるのが。
 死ぬつもりになっているとポーズを作れば、苦しみを別世界のことのように感じられたから。
 堪えられる。
 そう思っていた。
 だが理屈ではないのだ。
 ──孤独感は。
 シンジはふと、あるものの存在を思い出した。
 ──自爆装置。
 かつてのことがあり、仕掛けられたもの、シンジの目に虚ろなものが宿り始めていた。
 気持ちが昏い方向へと傾いていく。
 このみっともなさはなんだろうかと。
(そうだよ……)
 今死ねば、本当になる。
 死ぬことで、嘘をまことに変えられる。
 それは狂気の選択だった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。