ストレッチャーの足が悲鳴を上げる。
 けたたましい車輪の音が廊下に響く。
「電気ショックの用意をそれと……」
 薬剤の名前を上げているのはリツコである、その名称に共に駆けながらメモしていた看護婦は青ざめていく。
 どれもが試験薬であったからだ。
 効果は強いが、副作用もある、しかし台座の上の少年の呼吸は止まってしまっている、心停止状態だ。
 そこまでしなければ助けられないのだろう、なんとかそう思い込む、それはジレンマだった。
 苦痛と苦悩を抱えた生涯を送らせるか、それとも死なせてやるかの二者択一だ。
 やがて医師団は集中治療室の扉を、ストレッチャーで押し開けた。


LOST in PARADISE
EPISODE37 ”あなたは、何を望むの?”


 ──石化していた初号機の背面装甲が、音を立てて剥がれ落ちた。
 地に落ちて、砕け散る、あり得ない、そう思ったのはリツコを始めとした技術陣だった。
 石のように石化、風化して砕ける、そのような素材ではないのだ、少なくとも数万年は劣化することなどあり得ない、決して落ちた程度で割れ爆ぜるような材質ではない。
『シンジ!』
 とうとうアスカの弐号機、02が仲間のエヴァから逃れ得た、突き飛ばして駆け寄った。
 崩れた装甲面、そこから覗ける背骨の突起状の盛り上がり、その左右の肩甲骨が開き気味になっていた、これが装甲を押しやったのだろう。
 エントリーホールからの爆発跡が確認できた、内部で起こったあまりにも強大な爆圧が肩甲骨を押し開いたのだろう、良く見れば01の胴体、特に胸回りが大きく膨らんでいた、あばらが押し広げられてしまっている、内部から。
「だめだったの?」
 リツコはやはりシンジでも、いや、シンジだからこそ真の孤独には堪えられなかったのだろうと愕然とした。
 あの少年は一人で居ることを望んではいたが、絶対的な『独り』を望んではいなかった。
 はっとしたように弐号機が動いた、抜き手を作ってホールに挿し入れる、ぬらぬらとして、桜色をしていた卑猥な器官が、今や乾き切り、ひび割れを走らせていた、02の強引な挿入に割れ広がる、破片が落ちた。
 その奥底から、弐号機は何かを掴んで引き抜いた、それを確信して発令所に歓声が沸き起こった。
「シンジ君!」
 リツコは素早く救出部隊の派遣を要請しようとした、が、先を越されていた、ミサトである。
 アスカの意図を見抜き、彼女が誰よりも早く指示を出していた、その点、シンジにばかり気を取られていたリツコよりも、ミサトの方が冷静であった。


 ──補完委員会、擬似会議室。
「では使徒からのコンタクトは無かったと言うのだね?」
「はい」
 ミサトは初めて見る天上界の老人達に、醜悪なものを感じて吐き気を覚えさせられていた、空気が澱んでいるとはこのことだろう、ミサトは瘴気というものがどのようなものか知った思いだった。
 ゼーレ、その中の補完委員会、一体どのような組織なのか分からない。
 だが国連や国家が絡むこの『事業』を動かしていたのが、このような者達であったのかと思うと緊張はした。
(あたしが考えていた程、奇麗な事業じゃないってことか)
 裏の目的がある、それも軍需産業などと言った生易しいものではない、そう感じられた。
「しかし葛城君」
「レコーダーは止まっていたのだろう?」
「パイロットの意識も不明なままだ、なぜそう言い切れるのかね?」
 毅然として言い放つ。
「此度の使徒は捕獲、あるいは回収、一掃を目的として『加工』された使徒でありました、その対象は無差別であり、エヴァンゲリオンだけに特別な反応を示すとは考えられません」
「使徒は人の精神……、パイロットの心には興味を持たなかったと?」
「その返答はできかねます、使徒に心の概念があるのか、人間の思考が理解できるのか、全く不明ですから」
「だがエヴァンゲリオンは人を己の欠けた部品であると認識している」
「それは……」
「使徒とエヴァが同列の存在である以上、使徒もまた人を捉えることで変異する可能性がある、これは否定できん」
「そうだ、今回の事件には使徒がエヴァを取り込もうとしたという新たな要素がある、これが他の使徒とリンクする可能性は?」
「リンク……、ですか?」
「そうだ」
「進化、再生、増殖、彼らが我々の関知出来ぬ領域で繋がっている可能性は無視できない」
「使徒同士がリンクして……、相互補完を行っていると?」
「第三使徒サキエルがデータ収集用のテストタイプであったとすれば、後のイスラフェルの存在も理解できる」
「時に葛城君」
「はい」
「君は初号機パイロットを見捨てようとしたそうだね」
「それは……」
「困るのだよ、不信感を煽るような真似をされてはな」
 反論は許さぬと老人は釘をさした。
「分からんのかね?、我々人類に対する不信感がチルドレンの間に蔓延した時、それは解消できぬ溝となる」
「過去、同じくして宗教戦争他幾多の争いが起こされて来た」
「同じ轍を踏むわけには行かぬのだよ」
「我々は友好的な関係を築いていかねばならんのだ」
「そして碇」
「はい」
 それまで闇に閉ざされていた席に、ゲンドウの姿が浮かび上がった。
「……サードチルドレン、彼に期待する感情、分からぬでも無いが」
「お前が新たなシナリオを作る必要は無い、わかっているな」
「承知して下ります」
 ゲンドウは重々しく首肯した。
「全ては……、ゼーレのシナリオ通りに」


 ──三十時間を越える看護の末に、シンジの容態はようやく快方へと向かっていった。
 洞木ヒカリを筆頭に、治癒系に属するナンバーズが大量に動員された、心臓、肺、脳、あるいは排泄器官までも強引に強制動作させると言う荒業で生命を繋ぎ、揚げ句に大量の薬物を投薬し、なんとか回帰させたのである。
 ショック症状を引き起こし、暴れ回る体を押さえつけたのは鈴原トウジだった、肉体の回復力を『加速』させたのは惣流アスカだった、そして不安を抱えたまま、シンジの肉体に起こる異変を逸早く『予知』し、伝えたのはレイであった。
(あたしの眼で、シンジクンの容態が視えるなんて)
 ATフィールドと呼ばれる精神防御壁が失われてしまっている、以前は自然体で居たとしても発生を抑え切れなかったシンジであるのに。
 それがただの衰弱であれば良いと願わずには居られなかった。
 そして一週間後。
「……」
 シンジはぼんやりと窓の外を眺めていた。
 ──繰り返し考えているのは、あの極限状態での死の瞬間のことだった。
 カウントに対する恐怖にみまわれていた、目を閉じていても、三十、二十九、二十八と数えてしまい、堪えられなかった。
 五、四、三、うわあああ、嫌だ、嫌だぁああああ!、恥も外聞も無く泣き叫んだ、カッと閃光、背後から襲いかかって来る熱量、肌が焼け、めくれて行くのが分かった、組織が吹き飛ばされていく、皮膚が、筋肉が、内臓が千切れ飛んでいく、それを自覚しながら振り返り、そこに見たのは……
『母さん?』
 腕を広げて覆い被さるように抱きすくめてくれた。
 もう良いでしょう?、そう聞こえた気がする。
 エヴァンゲリオンがはらわたを焼き、掻き乱される苦痛に悶えて暴れていた気がする、悪いことをしたなぁと思うが、いまさらだろう。
 あれは幻だったのかな?、シンジはぼんやりと思い返していた、それにしては懐かしい感じがした。
(母さん……、母さんはまだあの中で生きているの?、母さん)
 シャリ、シャリ、シャリ……、そんな音が静かに続き、やがて止んだ。
 シンジは音源であったリンゴとナイフを見て、それを操っていた白い、細い指に目を奪われた。
 節のない指、みずみずしくて、若々しくて、触れたくなる。
 ──生きた指。
 生を実感させてくれるもの、シンジは飢えを感じて、目を伏せた。
「シンジ?」
 ナイフを置き、彼女、アスカはシンジの顔を覗き込んだ。
「どうしたの?、辛いの?」
「ううん……、大丈夫、大丈夫だよ」
「そう?」
 アスカは怪訝に思いながらも言葉をつむいだ。
「病人の大丈夫ってのは当てになんないのよね……、無理しないでよね」
「大丈夫だって……、そういうのとは、違うから」
「そう……」
 結局納得はできなかったが、アスカは引き下がることにした、あまり追い詰めるのも負担を懸ける事になるからと恐れたのだ。
「なら好いけど……、はい、これ」
 アスカは剥いたリンゴを八つに割って小皿に乗せ、プラスチックの楊枝を刺し、シンジへの口へと運んだ。
「良いよ、自分で食べるよ」
「……」
「分かったよぉ」
 口をつぐみ、顎を引き、悲しげに眉を寄せられてはかなわない。
 シンジは大人しくアスカの手からリンゴを頂いた。
 ──食べづらかった。
 一口で食べるには大きい、だが下手に歯を立てれば折れたリンゴが落ちてしまいそうで危なっかしい。
「おいしい?」
「うん……、おいしいよ」
「ほんとね」
「……」
 楊枝に残された部分は、アスカが自分の口へと消してしまった。
 ──アスカにも食べさせたい理由はあった。
 シンジがアスカの指に生身の現実感を覚えたように、アスカもまたリンゴからシンジの歯が折るように噛む力強さを感じようとしていた。
 シンジはここに居るんだ。
 それを確かめ続けたいのだ。
 シンジはそんなことにも気付かずに、ただアスカはどうしてここに居るんだろうと感じていた。
「ねぇ」
「なに?」
「学校は?」
「公休」
「公休って……」
「初号機と碇シンジの敗退!、ってね、大騒ぎで授業どころじゃないもの」
「そうなの?」
「アンタでも負けるような使徒が居る、それも裏死海文書のナンバリングじゃ十二番目の使徒、これから先を考えると頭が痛いってね、とにかく発掘を中止するか、続けるなら続けるで先に戦力の増強をって、どこも荒れてるわ」
「そうなんだ……、大変なんだな」
「そうよ!」
 だから、っとアスカはシンジの鼻先を指で弾いた。
「早く元気になんなさいよね、なんたってアンタが一番頼りになるんだから、……アタシさ、あの時怖かったのよね、アンタが居ないって思うと負けたら終わりだから」
 え?、アスカは唐突に陰りを帯びたシンジの変化に戸惑った。
「ど、どうしたのよ?」
「……アスカ」
「なに?」
 顔を上げるシンジ、その表情は苦痛に満ちて……
「僕……、もう手伝えない」
「え?」
「僕、無くなっちゃったんだ、エヴァ、力」
 え?、え?、え?、え?、えー!?
 驚倒し過ぎてしまったために、その絶叫は声にならずに、喘ぎとなった。



[BACK][TOP][NEXT]


新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。