幸せの具合を知るためには、不幸に浸ることが必要なのだろうか?
不幸せの中でもがいたからこそ、人は幸せの具合を肌で見ることができるのだろうか?
人は闇の海に沈んではじめて、水面の向こうに輝く光の素晴らしさを知るのかもしれない、だからこそ、幸せはそこにあると、必死に泳ぎ続けるのかもしれない。
──だが。
(それじゃあ……、人って、悲し過ぎるじゃないか)
妬みや、嫉み、憧れを持って、人ははじめてゴールを見付ける。
充足できる瞬間を設定することができるようになる。
なら?
(人って……、今幸せだって言える人って、みんな不幸を乗り越えた人だってこと?、みんな傷ついてたことのある人だってこと?)
──その『意識』は、細かに震える。
もしその考えが正しいのならば、人は苦労を重ねるためにこそ生まれ落ちていることになる。
そして満ち足りた死を迎えるために、一度は辛い憂き目に合うよう、プログラムされていることになる、奇しくも加持リョウジの言葉通りに。
(僕は、あの二人の人生を引き立てるために存在した?)
生きている意味などないのだと……
役目は終わったのだと、彼の意識は拡散していく。
「それじゃあ、はじめましょうか」
しかし、そんなシンジの自我意識の消失を防ぐために、『外』の世界では賛同した友人たちがそれぞれに膝を折っていた。
まるで祈るような姿勢を取って、プールの縁に並んでいた、もちろん、先頭に立っているのはコダマである。
「これが思念の渦?」
そんな様子を、作業員一同待避させた後に、リツコとミサトが隣の区画にあるコントロールルームから覗いていた。
リツコ直属のチームが、送られて来る様々なデータを解析している。
ミサトが見ている画面には、電磁波の渦が映像化されていた。
「思考波にも、色々あるのね……」
「そうね、でも、それは空間に起こっている現象の一つを、証拠として捉えているだけのものよ、だからその波形のレベルごとの色付けには、なんの意味もないわ」
まあ、そうでしょうねとミサトは了解した、実際こんなもので人の複雑な感情が観測できれば世話はないのだ。
「でも……」
それでもとミサトは凝視する。
「高まっていってるのは、よくわかるわ」
音が聞こえる、それは複数の声からなる唄だった。
大いなる賛歌、そしてどこかで聞いたような声。
それもそのはずだろう、唄う彼ら、彼女らの想い出は……
シンジとの間にあった、僅かな触れ合いを思い浮かべたものなのだから。
それらが唱和となって、響き渡っているのだから。
そっけなく、だが、冷たいというわけではないシンジの、ひねた姿が思い出される。
皆の中にある、碇シンジのイメージが、具体的に連なって、一つの形を織り成していく。
──それでも、彼らには、何かが一つ欠けていた。
『君は……』
振り返られる、一つの想い出。
『それだけの力を、それだけのために使うというのか、それだけのために』
渚カヲルとの、折衝。
沸き上がって来るイメージと記憶は、いつしか碇シンジのものを主体としていた。
(だってしょうがないじゃないか……)
力を持ったからと言って、やりたいことなどなにもなかった。
(だってしょうがないじゃないか)
かと言って、力がなければ、どうにかできないことばかりだった。
(だって……)
だが。
今はどうなのだろうか?、レイ、アスカ、その他の人達……
ただの反復、くり返し……、彼女たちのために傷ついて見せては、重荷となって、より彼女たちを苦しませていく。
いつか、彼女たちが華咲くための、彩りとなるために。
(それが僕に定められた運命?)
いいやと誰かが否定した。
──蒸し暑い日だった。
ゲヒルンと呼ばれた研究施設で、彼と彼女は、数年ぶりに再会した。
「リョウジ、君?」
「ユイさん……」
二人は喜びよりも戸惑いを浮かべた、どう触れ合っていいものか、どう馴れ合っていいものか。
今ひとつ判断がつかなかったからである。
葛城ミサトを追ってゲヒルンに入った加持リョウジにとって、それは思いがけない再会であったし、逆にユイにとっても、あの少年がまさかゲヒルンに入って来ようとは思ってもいないことだった。
だからこそ、二人は同時に硬直したのだ。
「どうして、ここに……、いや」
加持は苦笑して頭を掻いた。
「お子さんは、お元気ですか?」
「ええ」
ようやくユイははにかんだ笑みを見せた。
「元気よ、もう保育園に預けられる歳になったわ、おかげでこうして働けるようになったの」
「そうですか……」
「あなたは?、どうしてここに……」
「いや……」
嘘を吐くなら、吐けただろうに、彼は何故だか正直に話した。
女々しく、女を追いかけて、ここに至ったと。
だが……
「ふうん」
ユイは立ち話が辛くなったのか、壁にもたれてリョウジに返した。
「いいなぁ、そういうの」
「そうですかね……」
「そうよ、あの人じゃ、わたしに何があるのか、なんてことに興味なんて持ってくれないわ」
「?」
「きっと、わたしを手放さないようにって、それだけね」
情けないとユイは口にするが、表情はむしろそのことを喜んでいるようだった。
「あなたは、あたしに似てるのね」
「ユイさんに?」
「そうじゃない?」
リョウジは隣に並んで、こんなに小さな人だったのかと驚いた。
あるいは、こんなに俺は大きくなったのかと、違いを感じた。
「……俺には」
「幸せなんてね」
いつかのような言葉をくり返す。
「所詮、エゴとか、自己満足の積み重ねでしょう?、そんな身勝手さに嫌気が差したなら、後はもう、人に譲って生きるしかなくなるわ、よりよく見せようって、偽善的にね」
「……きつい言いかたしますね」
「だけどそれが真実よ、善意だけで生きるのなら、人に優しくして満足するだけなら、『あたし』である必要なんてない、あたしでなくてもかまわない、他に余裕のある人がやればいい、でもね?、今、ここで、こうして」
リョウジの頬に手を伸ばし、甲を当てた。
「こんな風に、感じて、想っていること、その全ては、『あたし』だから考えられることじゃない?、抱ける想いじゃない?、あたしなりの幸せは、あたしにしか作り出せない、だからこそあたしって人が生きている価値がある、あたしはそう、信じてる」
──信じてる。
その言葉が、余韻を持って、響き渡った。
他人に譲って生きることは簡単だ。
その人が喜ぶように、望むように動いてやればいいだけなのだから。
それならロボットにでもできることだ。
どんな他人にでもできることだ、しかし。
──ロボットには、幸せを見付け出すことはできない。
何故なら、自分というものがないから、主体性がないから、身勝手さがないから、傲慢さがないから。
願うことがないから、希望を持たないから。
「過ぎた欲は害を巻き散らすことにもなるけど、良いじゃない、自分の手のひらに収まる程度の……」
寂しさが伝わって来る。
──初号機との、実験風景。
(シンジ……)
ごめんねと……
手のひらから溢れたものが、破裂して……
気泡の立つ液体の向こうに、喚き叫ぶ夫と、今にも崩れ落ちてしまいそうな息子の姿が……
(ごめんね……)
だから。
「母さんは、ずっと僕に手を貸してくれていたの?」
(そうよ)
「だから僕に力を貸してくれてたの?」
(そうよ)
「僕が……、僕が」
くっと顔を上げる。
「僕が、僕らしく、僕の幸せを追い求められるように」
でも。
「そんなことよりもっ、僕は母さんに、傍に居て欲しかったのに!」
退行する。
気がつけば、あのいやらしい親戚の家に預けられていた頃に立ち戻ってしまっていた。
捨てられていた自転車に乗って、それを盗んだと責められた。
あの時、迎えに来たのは叔母だった。
──父でも、母でもなく。
もし、あの時、母が死んでいなかったなら?
自分は雨の中、自分と同じように朽ち果てていた自転車になど、目を向けることをしただろうか?
その時、シンジの脳裏で、バシッと何かの音が鳴った。
(ああ、そうか……)
自分もまた、同じなのだと気がついた。
あの時、自分は傷ついていたからこそ、あの自転車が気になった。
見捨て切れなかった。
同じことなのだ、人の視野はとても狭いが、一度気にしてしまったものは、次からは無意識の内に追ってしまう。
認めてしまう。
──認識してしまう。
それが嫌なものであったなら、良いものに変えたいと願う、そのためにこそ、アスカも、レイも、父も、皆が皆、戦っていた。
なのに。
(僕だけが……)
戦ってなどいなかった。
ただ、再び気にしないでも済むように、流れを変えてやろうとしていた。
情けなく。
(そんなことじゃ……、だめだよね、『父さん』)
──戦わぬ者に用は無い。
バンっと何かが破裂した、それはこれまでに形作って来た、碇シンジという名前の、無駄に肥大化した『魂』だった、外郭だった。
そしてその中心には、赤い玉が収まっていた。
──もういいの?
誰かに声に、シンジはその玉を両手ですくい上げながら頷いた。
──そう、良かったわね。
込み上げるものから振り返りかける、きっとそこには母が微笑んでくれているはずだから、だが、シンジはそれでも上を見上げた。
この海から這い上がるために、光を見上げた。
──こんな世の中で、生きていくのか。
それでも、僕が生まれた世界だから。
──あら?、生きてさえいれば、どんな場所だって天国になりますわ、だって生きているんですもの。
そうだよ、今までの僕は死んでいたから、だから。
──今度は、自分で生きてみようと……
シンジは自ら、生まれ落ちた。
続く
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。