──感覚が、意識がぼやけ、奪われていく。
(カヲル君……僕になにをしたんだよ?)
 いいや違うと心が判ずる。
(それとも……僕に何かが起こっていたの?)
 それを示唆したカヲルの言葉が思い出される。
 しかし景色がゆがんで見えて、そのカヲルの姿を捉えることはできなかった。すべてがかすんで写って見える。
 ──眠りなさい。
 誰かが優しく言葉をかけた。
(誰?)
 かすかにその人が柔らかく笑ったのが伝わった。


LOST in PARADISE
EPISODE43 ”始まりのもの”


「バカシンジ!」
 はっとして瞼を開く。
 見慣れた天井。見慣れた家具。
 それらが朝日で白くぼやけて……。
「なに寝ぼけてんのよ!」
 赤い髪の少女が居て、そのこめかみが盛大に引きつっていた。
「さっさとしろってのよ! 遅刻しちゃうじゃない」
「うん……わかった」
 シンジはあふぁあっとあくびをした。
「じゃあ……後五分だけ」
 ぶちんと聞こえた。
「なにふざけたこと言って……」
 布団を引きはがした後、彼女はそのまま硬直する姿勢を見せた。
「ひっ!」
 パンッと張り手の音がきれいに響いた。
「エッチ痴漢ヘンタイ! 信じらんない!」
「しょうがないだろう!? 朝なんだからぁ!」
『離れ』である勉強部屋からの喧噪に、母屋の夫婦がくすくすと笑っていた。
「ほら、あなたも急いでください」
「ああ……」
 ばさりと読んでいた新聞を半分に折り曲げる。
「シンジ君、明るくなったな」
「アスカちゃんのおかげですかね」
「妬いてるのか?」
「少しは」
「まあ大人というのはそれだけで警戒されてしまうものだからな」
「……それだけというわけでも」
「ん?」
「ゲンドウさん。苦手なんですよ……わたしは。そのせいかあの子にも苦手意識が先立ってしまって」
「仕方ないさ。俺だってあいつは苦手だ……」
 そんな会話がなされているところに、シンジが飛び込んできて声を上げた。
「おはようございます!」
「ああ」
「おはよう」
 用意されていたオレンジジュースをぐいっとあおり、パンを盗んで行こうとする……そんな行動を家主の彼はたしなめた。
「こらっ! 行儀が悪いぞ」
「だってアスカが……」
「その歳で尻に敷かれてどうする。男なら待たせるくらい強気になって見ろ」
「それで見捨てられたら元も子もないんじゃないですか?」
 妻の口出しに彼は非常に情けない声を出した。
「お前なぁ……」
「あら? だってアスカちゃんはモテるから……シンジ? あんまり怒らせてばかりいると、アスカちゃんに嫌われちゃうから」
「おばさん!」
「アスカちゃん、いたの?」
「居ました! ……わかっててからかわないでください」
 微笑を浮かべて、彼女は時計が何時を示しているか教えてやった。
「まだ良いの?」
「あっ!? シンジほら!」
「うん! 行って来ます!」
 行ってらっしゃいと、のんきな夫婦は声を合わせて送り出した。


 坂の上にある学校に向かって、シンジとアスカが駆け上がっていく。
「まったくもう! あんたのせいでまた遅刻じゃない!」
「ごめん……」
「あんた本気で謝ってないでしょ!?」
「うん」
「……」
「良いじゃない。どうせミサト先生だって遅れて……」
 シンジは小さくヤバッと漏らした。
 青い車が二人を追い抜いていったからだ。
「ミサト先生だ!」
「……はぁ。あたしなんでこんなやつの面倒見てるんだろう?」
「愚痴なら後で聞くから速く!」
「あんたのせいで遅れてるんでしょうが!」
 自分は優等生のはずなのに……と漏らすアスカに、シンジはごめんと縮こまった。
(そんなに怒るなら先に行けばいいのに)
 しかしその言葉は吐くわけにはいかなかった。なぜなら口にしたとたん、彼女の不機嫌が限界を超えて爆発してしまうからだ。
 ──もう知らない!
 そう叫んだ彼女の勘気を解こうとして、さらに怒らせてしまったことは記憶に新しい。
『アホかお前は』
 関西弁の友人などは、なぜアスカが怒っているのかわからないと漏らした時、そんな具合に突き放してくれた。
「ねぇ……シンジ」
「え?」
「あんた昨日……手紙貰ってたでしょ?」
「うん。B組の林田さん」
「なんだったの?」
「アスカと付き合ってるのかって」
 微妙な緊張をはらんでアスカは訊ねた。
「それで……なんて答えたの?」
 そんなの決まってるとシンジは答えた。
「アスカが僕なんか相手にしてくれるわけないだろって」
 ガクンと何故だが首を落とすアスカである。
「そ、そう……」
「でもアスカも大変だよね」
「なにが?」
「だって男子だけじゃなくて、女の子にまで好かれてるんだもんね。林田さん、かなり本気入ってたよ? 今度告白されるんじゃない?」
 告白されたのはあんたでしょうが……アスカは林田という女の子に同情しながらも、親切に教えてやることはしなかった。
(ニブいってんなら、まだ救いあるんだけど……)
 この幼なじみの思考形態だけは、未だに理解できないと感じてしまう。
(あたしとの関係を疑われたからって、なんであたしと釣り合ってないから怒られるんだって考えになるのよ?)
 せめてもの救いとして、シンジの口が堅いのが幸いだった。
 これでもし軽かったなら、その少女は同性愛者だとして妙な方向へ追いつめられてしまっていただろう。
(その前に、シンジは変な奴だって気味悪がられることになってたか)
 むしろそうであった方が楽だったかもしれないとアスカは思った。
 そうであったなら、自分はこんなにも……。
 校門をくぐり、校舎に入って下駄箱から上履きを取り出す。
 靴から履き替えていると、シンジのやったという声が耳に入った。
「ミサト先生、赤木先生につかまってる!」
「やりぃ! 急ぐのよ!」
「わかってるよ!」
 見つからないように廊下を渡り、一気に階段を駆け上がる。
 ──にゃははははは。ちょっち事情が……。
 ──どうせまた飲み過ぎただけでしょう? それが教師のすることですか!
 二人はそんな会話に対して、なにも感慨を抱かなかった。
 あまりにもいつものことだったからだ。
 教室へと入る。ドアを開くと皆が一瞬緊張して動きを見せた。
 ばらばらと席に戻ろうとする。しかし入ってきたのがシンジたちだとわかって、その動きは中断された。
「なんだ、先生だと思った」
「ごめんごめん」
 二人は別れた。アスカの席は教室中央から二つほど後ろにあり、シンジの机はそこから二列窓際に離れているからだ。
「なんや。今日は遅刻や思たで」
「僕もそう思ったよ」
 シンジはもっとも親しい友人の一人、鈴原トウジにそう返した。
「でも赤木先生がね」
「なんや、また待ち伏せかいな」
「赤木先生ってさ、ミサト先生をいじめるの、ホントに好きなんだね? 自分のクラスほったらかして説教してるんだもん」
「ま、大学からの知り合いやっちゅう話やし、ほっとけんのやろ」
「ふっふっふっふっふ……」
「おはよ……ケンスケ。どうしたの?」
「いや……さすが赤木先生だと思ってな」
「なんだよ、それ?」
「きっとあれだ……赤木先生はサドなんだ。ミサト先生をいじめてぞくぞくしてるんだ。くぅ……萌えるなぁ!」
 シンジとトウジは視線を交わしあい、親友として意志の疎通を完了させて、結託した。
(放置しよう)
 さよなら、ケンスケ。君のことは忘れないよ。
 シンジとトウジは巻き込まれることを恐れるあまり、ミサトが既に来ていること、そしてケンスケの不穏当な発言に、んじゃあたしはマゾなんですかいと引きつった笑みを浮かべていることを、決してケンスケには伝えなかった。



[BACK][TOP][NEXT]


新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。