第三新東京市は現在外界からは完全に閉ざされていた。
周囲は戦略自衛隊によって包囲されている、交通規制だけでないのは、時折山腹を踏破しようとする不法侵入者が捕らえられている事からも、警備態勢の強さが窺えた。
しかしひとたび中に入れば、そんな世情とは無縁の世界が広がっていた。
連休や長期休暇にぶつかっておらず、この地に住む市民は遠距離通勤とは無縁の職についていた、だからだろう、特に市外に出る必要が無いために、土日に家でごろごろとする人影が増えた以外、なんら変わった点は見られなかった。
もっとも、そんな平穏さは第三新東京市の中だけのことだったのだが…
騒がしいのは世間であった、世界は国連によって公式に発表されたネルフと使徒の存在に沸き返っていた。
セカンドインパクトに始まる人類の戦い、と言えば聞こえはいいが、注目されたのはそのために投資された来た馬鹿げているとしか言い様の無い天文学的な金額である。
付随するようにこの戦いで消費された兵器、武器弾薬の名称と数が公開された。
これに情報公開案の既決によりようやく披露されたのが戦死者名簿であった。
表向き戦闘など存在してはいなかったのだから、当然死者が出ようはずもない。
そのため今まで名簿は秘匿されていたのである。
一千名近い死者と一つの国家を焦土に変えるほどに費やされた爆薬の量に、一地方へ疎開していた主婦などは…
「よく生きていられたわねぇ」
などと顔を青ざめさせて、今更ながらに脅えたものである。
だが現実としては、それでも街そのものが形を残しているのだから、戦力と言うものを正しく評価できる人間ほど非常識な戦いであったのだなぁと感心していた。
と、そこで目を引く存在はやはり『究極兵器エヴァンゲリオン』であった。
意図的に伏せられているため、これの情報は手に入らないものの、形状や能力については戦闘時の映像が公開されていた。
当然、パイロットは注目の的となる、しかしこれも伏せられていた。
人道的な理由からではない、パイロットをマスコミやテロから守るためである。
使徒は現存している、弐号機はカヲルにあてがわれることとなっていた。
弐号機に込められている魂が閉じこもってしまったために、『人』では起動できなくなってしまったのだ。
まあ使徒にエヴァが必要かと問われれば問題になるのだが、一応カヲルは『人』とされている。
使徒の出現は現在の所、一時的な休息に入っている、というのが公式の見解とされて発表された。
ある意味では正しいだろう。
とにもかくにも、カヲルは世界で二番目にエヴァを操る事の出来るパイロットなのだ、残りは一名、この一名はなんとしても守り抜く必要があった。
エヴァンゲリオンのパイロット達が十四・五の子供達であったことは、一切の経歴が伏せられた事から知られていない…、はずだった。
諜報機関はこれに当たらない、彼らは公開以前に自らの力で情報を手にしていたからである。
しかし情報が垂れ流しになるに連れて錯綜し始めると、規制や監視など追い付かなくなっていった。
なにより第三新東京市から疎開した子供達は多いのである、その中には個人的にシンジ達を見知る者も沢山居た。
勇者=少年少女と言う公式は、それこそ恰好の餌になってしまった。
また一目、第三新東京市を、パイロットを、あわよくばエヴァをと訪れようとする観光客も増加の一途を辿っていた。
第三新東京市封鎖の理由は、そのような街の混乱と秩序の崩壊を阻止するためである。
なによりこの街の混乱は、使徒迎撃と言う最大の使命を妨げるものになるのだから。
最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」
「見て見てシンジぃ!」
さて、外界がそんな大きな騒動に包まれているとも知らずに、少年少女達は極々普通に日常を楽しんでいた。
「「「おおおおお!」」」
学校、今日の体育は水泳である、ちなみに男子と女子での混合だ。
生徒数が少なくなってしまったための配慮であったが…
「優越感に浸るべき感動だね、これは!」
取り合えず眼鏡の少年は涙を流し、転校していった同胞達にいつかこの感動を分かち合おうとカメラを回すのに必死であった。
華麗に宙を舞って飛び込みを決めるアスカ、少年達の視線の先は水に濡れる事でより蠱惑的な色合いを見せる水着の山と谷である。
同い年であってもアスカの体は刺激的過ぎた、だが彼女がそれを見せつけようとした少年は…
「ふぅ…」
さして面白くもないように、ぼんやりとした目を作っていた。
「どうしたんだい?、シンジ君」
「カヲル君…」
見上げる、と、上がってきたばかりなのだろう、髪から雫を滴らせているカヲルが居た。
その体つきは歳の割にすらりと長い、これはアスカと同様に血の成せる技かもしれないが。
(いいな、しっかりしてて…)
そう、シンジは悩んでいた、自分の体格についてである。
貯金や給料、危険手当てなどををため込んで来たシンジの懐はまさに莫大な金額を要していた、しかし一度身に付いた貧乏性は抜け落ちるものでは無く、今だ手を抜いた食生活を送っている。
そのためか、体つきは以前にも増して貧弱に見えていた、元々が撫で肩なのだからいっそうに酷い。
このままではレイどころかアスカの背を抜くのもいつになるやら?、いや、あるいは一生抜くことはないかもしれない。
「碇君は、泳がないの?」
そう言ってシンジの隣に少女が座った、レイだ、じわりとコンクリートの床が水気を吸った、それはシンジのお尻の下にまで広がっていく。
ちなみにシンジ一筋のレイであるが、その容姿、いや、造姿のためか、カヲルとの噂が取り立たされていた。
噂の出所は主にアスカファンだった。
問題はこれにレイのファンが噛みついた事だろう、渚カヲルが綾波レイと居るのをよく見かけるのは、そこに惣流・アスカ・ラングレーも居るからだ、と言うのである。
これは混乱に拍車を掛けた、アスカファンが激烈に否定を始めたためである。
少年達にとって、二人の少女は永遠にフリーであって欲しかったのだ。
が、この噂の真偽のほどがどちらであったとしても、少女達には甚だ不服であっただろう、彼女達と彼が共に良く見かけられるのは、そこにシンジが居るからなのだ。
「シンジ君は泳げないんだよ」
カヲルはそう言ってレイに微笑みかけた。
その余裕の笑みに「何故あなたが知っているの?」とぷっと頬を膨らませる。
「…なら教えてあげる」
「え?、あ、いいって!」
強めに手を取られて腰を浮かせるシンジであった。
ちなみに一部のコアなファンからは、出来ているのはシンジとカヲルだと言う説が囁かれていた。
この点はどうでもいいと考える男子と、それも面白いと煽る女の子によって、噂はとめどなく真実として広がりを見せていた。
「やれやれだねぇ」
カヲルは肩をすくめた、レイとアスカの嫉妬を知っているからだ。
同じ男であるカヲルには、それだけシンジと一緒に居られる時間が多かった。
カヲルは常にシンジの半径十メートル以内には姿を見せている、いや、カヲルはいなければならないと想っているのかもしれない。
レイやアスカほど心が成長していないカヲルは、二人のようにシンジに変えられる事を期待していたのだから。
(邪魔なのよ、あなたは)
だがそんな彼の都合など、少女達には知った事では無かった。
レイの考えは物騒ではあったが、それも仕方のないものなのだろう。
少女達にとっては想い人との二人っきりの語らいは、まさに甘い蜜そのものである。
とろけるような一時を過ごしたいというのに、ただでさえ厄介なライバルが居るというのに、それ以前の問題と言う所で邪魔をされているのだから。
「碇君、来て…」
「何が「来て」かぁ!」
ガスッ!
プールの中に立ち、うっすらと頬を染めて両手を広げたレイの後頭部に、アスカの手刀が叩き込まれた。
碇シンジが女性に興味が無いかと言えばそんな事は無いし、では両方いけるのかと聞かれれば大慌てで否定する事だろう。
「やっぱりそうなのかしらねぇ…」
アスカは思う、結局シンジは自分のことを『恋人』と認めてはいないのだと。
「なんでよ!」
ガンッと電柱を蹴ったが自分の方がダメージが大きかったらしい。
彼女はその場でうずくまった。
確かに好きと通じ合った二人であるが、シンジには最低でもあと一人通じ合っている人物が居る。
その上、シンジ自身はお子様だった。
『買い物?、またぁ?』
それをデートでは無くお供だと思い込んでいる節がある、アスカは拳を握って震わせた、事実それは正しいからだ。
アスカの知らない事だがシンジにはサードインパクト以前の、アスカの病室で『悪行』が頭に刻み込まれていた。
『理由?、言える分けないじゃないか』
何故なにもして来ないのかと尋ねれば、シンジはきっとそう答えただろう。
人並みに、いや『一年分』余計な記憶を持っているだけに、シンジはケンスケ達よりも具体的な興味を抱いていた。
自分のした行為は許されるべきではないから、などと後ろ向きなのではない。
ただ思い出してしまうのだ、だからブレーキがかかっている。
タガが外れさえすれば、レイの時のように狼にもなるのだろう。
「あいつ…、ほんとに男に興味あるんじゃ…」
とにもかくにもそんな複雑な想いなど知る由も無く、アスカは青ざめた顔で真剣に呟くのだった。
「ふんふんふん…」
余り抑揚のない鼻歌を歌っているのはレイである。
物干し竿にシーツを干してパンパンとはたく、相変わらずの制服だが今は腰にエプロンを着けていた。
(わたし、奥さんて感じ?)
どうやら前にシンジに言われた事を覚えていたらしい。
あるいはシンジがこのような姿に飢えているのに気付いているのか。
その姿は微笑ましいのだが、誰もが見てぬ振りをする。
その背中に、『わたしは、夢を壊す者を許さない』とばかりにオーラが立ち昇っていたからだ。
ここはジオフロント内の本部正面玄関前隅だと言うのに、誰もレイに注意することはできなかった。
バン!
テーブルの上に叩きつけられる証書。
シンジはゆっくりと顔を上げた。
「判子押して」
「判子?」
「そうよ!」
アスカはふんふんと鼻を鳴らした。
叩きつけた紙は賃貸契約の書類である。
シンジは小首を傾げてからまた顔を上げた。
「…どうして?」
「引っ越すからよ!」
「どこに?」
「上よ!、いつまでもこんなとこで暮してないで、社会復帰するのよ!」
「社会復帰って…」
シンジはもう一度、物件の広さを確認した、どう考えても一人で住むには広過ぎる。
余りにも見え見えな魂胆に呆れてしまうが、だがそれ程にアスカはアスカなりに焦りを蓄積させてしまっていたのだ。
生来まめな性格ではない、シンジにお弁当を作っていたのも「美味しい」と誉められるのが嬉しいからであって、決してシンジのためになどと殊勝な事を考えていたのではなかったのだから。
甘美な蜜も舐めている内に飽きて来る、そうなると掃除洗濯は言うに及ばず、お弁当も面倒臭くなってしまうのがアスカだった。
こうなって来ると、相対的にレイの甲斐甲斐しさが浮き彫りになって来る、長続きと忍耐はアスカの辞書にはないのだから。
さあ!、っとアスカはさらに迫った。
「ちょ、ちょっと待ってよ…」
焦るシンジ、それとは別の人物から、くっくっくっと忍び笑いが漏れ出した。
「なによ!」
「いやぁ、人の愛の形は様々だと思ってねぇ?」
と言いながらめくっている雑誌はSM本である。
「君達もこんな確かめ方は一つどうだい?」
「あ、あ、あ、あんたバカァ!?」
「カヲル君も…、そんな本どこから」
「シンジ君のじゃないのかい?、そこにあったよ」
「そこって…」
マットレスと壁の隙間である。
「ただいま…」
「あ、綾波…」
「なに…、!?」
レイの目がカヲルの持っている雑誌を見付けて丸くなった。
それは幾つかの『文献』を漁っていて間違えて買って来てしまった『資料』なのだ。
どうやら『誰が捨てたの?』と噂になるのが恐くて捨てられなかったらしい。
「レイ、いるぅ?」
固まった一同の元に、能天気な声で葛城ミサトがやって来た。
「申請してた新住居の確保できたけど、ほんとにダブルサイズのウォーターベッドなんて入れちゃっていいのねぇ?」
シンジ、アスカ、カヲルの目が自然とレイの顔に集まった。
すーっと桜色に染まる頬。
後にミサトは、「後ろからじゃ顔は見えなかったよぉ!」っと悔しがったそうである。
やはり少女の精神は少年よりも早く成熟していくものらしい。
それが体の幼さとアンバランスさを生み出すからこそ、微妙な年頃というのだろうが。
「そんなの僕を巻き込まないでよ…」
さて、その渦中に巻き込まれるはずの少年は、相変わらずの逃げ足を発揮していた。
残された少女達は気付きもせずに言い争う、このようなレクリエーションも楽しみの一つなのだから。
少年と言う名の絆の元に、少女達は結びつく。
それもまた一つの幸せの形なのかもしれない。
二人は間違いなく、満たされた時を歩いているから。
「ま、僕とシンジ君の同居が当たり前だと思うけどねぇ」
その後の彼の消息は数時間にわたって途切れてしまったそうである。
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