(ほんとうに……)
騒がしい声が聞こえてしまって、リツコは少しばかり羨ましいなという気持ちを抱いてしまった。
(どうしてそう、能天気でいられるんだか)
もちろんミサトが何も考えていないとは思っていない、むしろたくさんのことを考えているのだろうと感じている。
──でなければ、綾波レイの容貌のことや、惣流アスカのことなどで、あれほどムキになったりはしないだろうから。
疑問に思うのは、それらのことはそれらのことと割り切れる神経のことだった。
(わたしには無理ね)
そう思う。
例えば今、先程マヤにキレてしまったことで、もう後悔に似た気持ちを抱いてしまっていた。
割り切れないのだ。
(それが甘いってことなんでしょうけど……)
はぁっと溜め息を洩らしてしまう。
あの手の人間は、誰かが庇ってくれる環境で育って来た人間だから、視点が自分を中心に固定されてしまっている。
他人に基点をおこうとしないのだ、だからアスカの事情を考慮しろと口にしても、自分にとっての都合を前面に持ち出して解釈しようとする。
例えば戸を開けっ放しにしてしまう癖は、誰かが閉めてくれるのだという認識から気にしなくなるという、実に単純なことから付いてしまうのだ。
今ここでマヤに甘い顔を見せれば、やっぱり助けてもらえるんだと、また甘い考えを抱いて、同じように生徒を傷つけてしまうだろう。
それは絶対に許してはならないことである、生徒とは担当している大勢のことを一括りにして呼ぶ名称のことなどではないのだ、一人一人の子供を指して言う言葉なのである。
(それがわかっていないから……)
マヤは向いていないのだと、そう思う。
自分がやりやすいようにと授業を組み立てるし、カリキュラムを立てる、しかしそれは生徒には不評を買うだけで、話しにならない。
リツコがミサトを立てたのは、ミサトが子供の立場に立って考えるようにしていることを知っていたからだった。
自分が生徒なら、どう思うか?
そんな客観的な視点を持って、自分を正当に評価しているか?
ミサトは自分を確かめていると時折感じる、立場が悪くなることもかまわずに、シンジを庇おうとしたのもだからだろう。
庇わなければ、自分は教師失格になる。
ミサトはきっと、そう考えた。
教師という職業は、多分に精神的な覚悟と才能を必要とする職業なのだ、通常の職業は、失敗し、そこから学び取り、成長するという過程が許されているが、教師という職業にだけは、そのような段階を踏むことが許されない。
失敗とは、なにを意味するのか?
その失敗によって、誰が、どのような不利益を被ることになるのか?
マヤは、自分のことしか見えていない、しかしだからこそ怖かった。
ミスをすれば、それは生徒に影響してしまうのだ。
彼らの将来に、拭い難い汚点、あるいは、補え切れない傷を残すことになりかねない。
そういったことを考えた場合、教師は職に就いた瞬間より、完全完璧に近い状態であらねばならない。
生徒一人一人に対して、彼らの将来に対して、重大な責任を負うことになるのだから。
──親より、任されることになるのだから。
(マヤには……、その覚悟がないのよね)
だから、はぁっと溜め息を吐くのだ。
マヤは生徒のことを、飯の種でしかないと思い込んでいる伏しがある、そこそこ詰め込んでしまって点を取らせておけば良い。
そのように発想している可能性がある、だが、それではいけないのだ。
だからこそ、フォローする、マヤのためではない、マヤという教師を否応なく押し付けられることになった生徒たちのためにである、けれども。
──マヤは、それを誤解する。
自分を助けてくれるのだと、甘いことを考える、そして懲りずにまたくり返す。
マヤのことを思うのであれば、むしろ放置しておくべきなのだ、一度痛い目に合わせて、失敗から学ばせるしかないのだから、だがそれでは生徒たちに、多大な迷惑をかけてしまうことになる。
かと言って、生徒のためを思い、行動すれば、それはマヤの悪癖を助長するだけとなってしまう。
(さあ、どうしたものだか……)
だから、頭が痛くなる。
ミサトのように、真っ向から対立できる精神が欲しいと思う、自分にはできない、なぜなら今がそうだからだ。
つい感情的になってしまって、いきおいで突き放してしまったが、そのせいでマヤが面倒ごとを引き起こしてしまったなら、それは一体誰のせいになってしまうのか?
「はぁ……」
意外と神経が細いのである。
だからと言って、どうしたものだかわからない。
リツコには、逃げ場さえも見つからなかった。
「で」
加持は笑った。
「それで花壇なんか見つめてたのか?」
「ええ……」
リツコは認めた。
「ここにこうして座って、花の蜜を取りに来る蜂や、蚊や、蟻や……、虫たちを見てるとね、なんだか心が落ち着くのよ」
ほぉっと興味深そうに顎先を撫でる。
「そりゃあ知らなかったなぁ、俺も今度試してみるか」
「余り面白いものではないけどね」
ふふふと笑って、花へと手を伸ばす。
「ミサトには、感謝してるわ、おかげで問題の一つは片付いたから」
「子供たちのことかい?」
「ええ、あの子のおかげで、みんな忘れてしまってるもの、マヤのことなんて」
だから笑い声が堪えないのだ。
「わたしは……、だめね、なんとか言い諭そうとしてみたんだけど、結局直情的になってしまって」
「仕方が無いさ」
肩をすくめる。
「性格の差だよ、リッちゃんの話し方は理屈っぽいからな、口を挟みやすいのさ、だから余計なことをつい言いたくなる」
「ミサトは?」
「ありゃ感覚で話してるからな、口を挟む隙が見つからない」
だからかと納得する。
「それで……、ミサトを相手にしてる時は唸るばかりだったのに、わたしの時には口を出して来たのね」
「特にリッちゃんのような話し癖ってのは難があるからな、話しには、始まりがあって終わりがある、全部を聞けば理解できる内容なんだが、どうしても人間ってのは、最初の辺りで勝手に言おうとしている事を想像して、口を挟んでしまう生き物なんだな、これが」
くすっと笑う。
「的外れになるだけなのにね……」
「その辺りの噛み合わせが悪いんだろうな、リッちゃんとマヤちゃんは、だからリッちゃんは苛付くことになってるんじゃないのか?、そしてマヤちゃんは、どうしてリッちゃんがキレたのかわからないまま、頭を抱えることになる、あの手の子には当たり前の会話のやり方なんだけどな」
リツコは深く息を洩らした。
「つまり、わたしはもう歳だから、若い子とは会話が噛み合わなくなってしまっているということなのね……」
いやぁと引きつる。
「そうでもないだろ……、シンジ君たちみたいに、話せる子もいるんだから、単純に環境のせいじゃないのかぁ?」
加持はリツコの背中にはらはらとした。
その内、苦悩が限度を越えて、ぶちぶちと花を千切り始めはしないかと、心配になってしまったからだった。
続く
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