Asuka's - janktion:036
 ヒュウと強く風が吹いた。
 その中に佇んで、カヲルは希薄な笑みをアスカに向けた。
「……何の権利が、あるんだい?」
 君にと問われて、アスカは言葉を失ってしまった。
「は……、ぁ?」
「もう一度聞くよ?、君にはそれを訊ねるだけの権利があるのかい?」
 たじろいでしまう。
「権利って……」
「だってそうだろう?、失礼だとは思わないのかい?、僕は『マナ』を選び、マナはそれを受け入れてくれた……、それをどうして疑われなくちゃならないんだい?」
 アスカは唇を尖らせた。
「だって、それは……」
「君には、僕の何がわかると言うんだい?」
「……」
「何も言えないんだね……」
 カヲルは呆れを装い、口にした。
「これ以上は、失礼を通り越して、失敬に値するよ?」
「でも!」
「大体、君には自覚が足りていないんじゃないのかい?」
 蔑みを向ける。
「付き合っている人のいる男性を呼び出して、好きな人が居るというのに二人きりになる、どういうことだい?、それがどのような誤解や憶測を呼ぶことになるのか?、わからない君じゃないだろう?」
「カヲルぅ……」
 屋上に現れたマナは、語尾を尻すぼみにさせてしまった。
「えっと……、惣流さん?」
 なんか怖いと後ずさる。
「やあ、なんだい?、マナ」
 しかしカヲルは、実にほがらかに笑って見せた、それこそまるで、アスカに対する当て付けのように。
「うん……、シンジ君とレイちゃんが来たから」
 怖々と答えたマナに愛想を振りまく。
「音楽室だね、今行くよ」
 じゃあと気安く、通り過ぎ際に、アスカの肩をポンと叩く。
「君は君の幸せを追求すれば良い、だけど好奇心を満たすために人の心に踏み込むのはいただけないよ?」
 ビクンとアスカは震え上がった。
(え?、え?)
 だが、その様子に気付けたのは、背を向けていたカヲルではなくて……
(惣流、さん?)
 あまりの二人の険悪なムードに圧倒され、身動きできずに居た、彼女一人だけであった。


(……)
 アスカの思考は、停止していた。
 ぼんやりとして、気がつけば夕方だった、ぽつんと屋上の真ん中にしゃがみこんで、何も考えないままに時を過ごしてしまっていた。
(……)
 膝を抱えるようにしてしまっていた、まるでそうしていないと、寂寥感に潰されそうで。
 何かを抱いていないと、抱きつかせていてもらわないと、抱いてもらえないと……
 寒くて。
 凍えてしまいそうで。
「アスカ?」
 声に、アスカは顔を上げた。
「シンジ?」
「アスカ……、どうしたの?」
「どう……、って?」
「だって」
 シンジは迷いを見せながら、アスカの目元に指で触れた。
「ほら……、泣いてるよ?」
 人差し指に乗っている小さな珠に、アスカはぽつりと言葉を洩らした。
「ほんとだ……」
 急に、溢れ出す。
 涙がこぼれる、とめどなく。
「え、あ……」
 わけが、わからない……
「あ、ああ、あ……」
 どうして、こんなことで泣けてしまうのか、わからない、けど。
(あたしは、敵だ!)
 今のカヲルにとっての。
(敵なんだ!)
「あ、あ……、あ……」
 アスカは、シンジにしがみついて泣いた。
 シンジの胸で声を押し殺して泣きじゃくった。
 ──体を酷く、震わせて。
 夕日が赤く、切なく空と雲を透かしていた。
 その下で、アスカは無心に泣いてしまった。


 ──そして翌日。
 マナはカヲルと登校しようと、通学路を共にしたが、途中でびくりとすくみあがった。
 電柱に背を預けて、シンジが待っていたからだ。
 その顔はあからさまに怒り、強ばっていた。
「……先に行って良いよ」
「で、でも……」
「いいのさ」
 さあっと押し出し、カヲルはシンジの元へと歩み寄った。
 シンジも体を起こし、迎える。
 カヲルは一つ、溜め息を吐いた。
「……怒っているようだね」
「当たり前だよ」
「理由を聞いても良いかい?」
「わからないの?」
「僕はアスカの……、『惣流』さんの自己満足に付き合うつもりはないよ?、今の僕は全力でマナを大切にすると誓いを立てているからね?」
「……」
「それはいけないことなのかい?」
「……別に」
「だろう?」
「別に、『そんなこと』はどうだって良いんだよ」
 カヲルはさすがに顔をしかめた。
「酷いね……、僕の気持ちを、想いを、そんな風に切り捨てるのかい?」
「……人を泣かせてまで、大切にするほどのものならね?」
 カヲルは微妙に困惑した。
「泣く?、泣いた?、アスカが?」
「泣いたよ、泣きじゃくって、今日は学校を休むってさ、今も泣いてる」
「……」
「別に、カヲル君が誰と付き合おうと、そんなことは知ったことじゃないんだよ、でも……」
 シンジは右手をぎゅっと握り込むと、背を向けた。
「もし、カヲル君のやっていることに意味が無いのなら、その時はアスカを無駄に傷つけたこと、僕は絶対に許さないから」
 口の左端が引きつれる、カヲルは自分の体に起こっている異常に気がついた。
 全身が強ばり、力を抜くことができない。
 シンジの姿が遠ざかって行く、だが、今は視界から消えるまで動けないと知った、知らされた。
(怖い……、理屈ではなく)
 本気になれば、シンジを叩き伏せる自信はある、なのに。
(恐怖を感じる、それは?)
 胸の内で呟いた。
(心をえぐるからだよ、シンジ君は)
 瞼を閉じる、何とか平穏を取り戻すべく苦心する。
 しかし、中々心は落ち着かない。
 シンジは常に大切な人たちの尊厳を、なによりも第一に考える、そしてそれを犯そうとする人間を、犯した者を、それこそ命を懸けても許さない。
 命を賭して、非を訴えて来る。
(なのに……、僕はシンジ君を殺してしまえるんだよ)
 カヲルはそれがとても怖いことなのだと気がついた、シンジの命を奪うことがではなく、死を与えることで、その主張を永遠のものとしてしまうことが、いかに怖いことなのかと悟ってしまった。
 自分のことであれば、シンジは妥協するだろう、しかしこと身近な人間の話である限り、シンジが折れることは絶対にない、そして正当性は、シンジにあるのだ。
 ぶつかり合い、シンジを死なせてしまった時、自分は永遠にシンジの訴えを聞き続けなければならなくなる、それこそ取り返しが付かなくなった状態で、逃げることも許されず。
 ──良心の呵責という名の最悪の手段をもって、永遠に責めさいなまれることになってしまう。
 それは想像しただけで、気が狂いそうになってしまう断罪法だった、一体一生涯の間に、どれほどの罪悪感に蝕まれることになってしまうのだろうか?
 ──許されず。
(だからと言って……)
 もう、幕は上げてしまったのだ。
 今更後に引くことはできない、それこそマナの立場を悪くするから。
 ──付き合って、すぐに別れたのでは、マナを悪く言わせることになってしまう。
 だから最低限でも、自然消滅したと思わせられるような展開を、ゆったりと紡がなくてはならないのだ。
(懲りないね、僕も……)
 カヲルはようやく、息を吐いた。
 今になって、この手は、アスカの時に失敗したのにと、思い出す。
 アスカの好きなシンジに、余計な誤解を招いてしまったというのにと。
 ……だが本当の問題がどこにあるのか?
 それはシンジも、カヲルも、未だ気が付いてはいなかった。



続く



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