──やだなぁと思う。
起き上がるのが億劫で、とても布団から出る気にならない。
大したことはない、なんてことのないこと、そのはずなのに。
(なんでこんなに辛いのよ?)
アスカの思考は停止する。
カチャリとノブの回る音に、アスカは僅かに身構えた。
掛け布団を頭まで被った状態で、身を強ばらせる、おば様だろう、そう考えたが、違っていた。
「たぬき寝入り」
布団を剥ぎ取られた。
「これ、リンゴ」
少し驚く。
「なんであんたがここに居るのよ?」
──小レイだった。
手にしている小皿には、うさぎの形に仕上げられたリンゴが盛られていた。
「……なによ?」
「あ〜ん……」
レイは楊枝に突き刺して、食えとアスカの唇に押し付けた。
食え食えと押す。
押しまくる。
「……」
アスカは渋々口にした。
「甘い……」
「砂糖水に浸けたの」
甘過ぎる。
どんな濃度に浸したのか?
アスカは次をと差し出そうとするレイに対して、なんでこんなことをと再び訊ねた。
「あんた、学校は?」
「お休み」
「休み?、どうして……」
「だって『妹』が苦しんでいる時は、傍に居て上げるものだから」
にやりとした笑みが、恩を売ってやろうという気持ちを代弁している。
アスカはあまりにもあからさまな感情に対して、毒気を抜かれてうなだれてしまった。
怒る気力も沸き上がらない。
「あんたって……」
「なに?」
「いいわよ、もう!」
皿を奪い、リンゴを食べる、大きさから八分割と言ったところだった。
「う、ぐ!、ほら!、食べたから、もう行って!」
レイは恨めしげに唇を尖らせた。
「どうして、そういうことするの?」
「ど、どうって……」
「お兄ちゃんは、喜んで、あ〜んってしてくれるのに」
どっちが病人で?、と思ったが、アスカは抑えた。
「あのねぇ……、あんたとシンジじゃ違うでしょうが!」
「そう?」
「そうよ!、そういうのは男と女の子だから楽しいのよ!」
「そう……、そうなのね、だから胸がムカムカするのね」
それは砂糖ひたひたのリンゴなんか食うからだろうとか思う。
「あんた一体なにがしたいのよ……」
「別に、ただ、わたしが苦しんでいる時は、『みんな』気をつかってくれるから」
「みんな?」
ああ、そうかとアスカは気付いた。
「ねぇ……」
「なに?」
「あんたが悩んでる時って……、シンジのことで悩んでる時って、誰が相談に乗ってくれるの?」
それは一つの勘だった。
「お姉ちゃん、お母さん、それからあの人、渚カヲル」
(やっぱり!)
アスカは勢い込んで訊ねた。
「あんたは……、その、カヲルのことって、どう思ってるの?」
「どう……、って?」
「えっと……、その、優しいとか、頼れるとか」
レイは不思議そうにした。
「どうして、そんなこと訊くの?」
「い、良いじゃない……、別に」
目を細くする。
「不安なの?」
「な!?」
「そう……、あの人の心が見えなくなったのね」
「どうしてそんなことがわかるのよ!」
わかるわとレイはアスカの頭に腕を伸ばした。
「ちょ、ちょっと!」
胸に抱かれてしまう、髪を撫で梳かれる、気持ち良くて、恥ずかしい。
アスカは突き飛ばしたくてもできなかった、あまりにレイが華奢だったからだ。
「ちょっと、やめてってばぁ!」
「どうして?」
「嫌だからよ!」
「うそ……、わたしは、辛かったわ」
「え?」
思わず固まってしまった。
「なんの話よ?」
「わたしも、お兄ちゃんが遠くなった時、辛かったの……」
「あんたも?」
そうよと頷くレイである。
「そんな時、頼らせてくれたのがあの人だった……、違う、逃げ込ませてくれたのが、あの人だったの」
アスカはドキリとするものを感じて戸惑った。
(今の、なに?)
「そう……、あの人は、逃げ込める場所なの、何をしても、何を話しても、受け入れてくれる、受け止めてくれる、胸に抱き留めて静めてくれる……」
「好きなの?」
「いいえ」
「どうして?、あんた、好きだって言ってるようにしか聞こえないけど」
「だって、あの人は、心を覗かせてはくれないから」
「え?」
「心に触れようとすると、身を引くの、それはいけないよって、誰の目からも隠しているの、心の中に、何かを押し込めている、だから怖いの」
「……」
「あの人は、泉のよう……、全てのものを受け入れてくれるわ、奇麗なものも、汚いものも、水面に映る美しい景色で隠してくれるの、だからその底に何があるのかは、わからない」
(そっか……)
「わたしの言葉を、心を、幾らでも聞いてくれる、開かせてくれる、でもそれは親しみには繋がらないの、あの人はとても隠すのが上手いから」
それが怖い、『底』がどれほど深いのか、どれほど暗いのかわからない、だから怖いと言うレイの言葉に、アスカは一つの答えを見付け出した。
(そうなんだ)
アスカは胸中で理解した。
(カヲルは……、あたしの話を、なんだって聞いてくれた、どんな時だって、相談相手になってくれた、だからあたしは、『あたしのカヲル』だって思ってた、でも、それが間違いだったんだ)
──だって。
(『あたし』はカヲルのこと、何も知らないもの、カヲルは聞いてくれただけだった、話を聞かせてはくれなかった、ただあんまり優しいから、あたし、安心して……)
──気を許して。
(いつだって、どんなことだって、カヲルに全部打ち明けて……、それで満足しちゃってた、だから、錯覚してたんだ)
──カヲルとの親密さを。
(だってカヲルはあたしの全部を知ってるもの、誰よりも知ってる、それでもあたしを嫌ったり、否定しないでくれていたから、あたし、安心しきっちゃってたんだ、カヲルだけはあたしを突き放したりしないって、いつでも傍に居てくれるって)
だから、あまりにも馴れ馴れしくしてしまっていた。
──親友のように、思ってしまって。
いつの間にか、自分もカヲルのことを知り尽くしているとばかり……
(でもそれって)
──思い上がり。
(って言うんじゃないの?)
誰よりも近しいと信じていた。
でも本当は、本当の距離は『同じ』じゃなかった、だから突き放された時、どうして?、その感情に満たされて。
──泣いてしまって。
けれど。
(そっか……)
どこか、胸がすっきりとした。
(なんだ……、わかったら、すっごく簡単なことだったんじゃない)
そして無意味なことでもあったのだ。
(勝手に勘違いして、勝手に舞い上がって、勝手に親近感を抱いて、甘えきって……)
つまり。
(あたし……、踏み込み過ぎたんだ、カヲルの中に)
──今になってわかる。
カヲルの曖昧な微笑みの意味を。
それは距離を取らせるための壁であったのだと。
その笑みに、騙されて、気にならなくなる。
カヲルの、気持ちも、想いも、心も、そして……
知ろうという気を起こさせない。
(あたしが理解してたのって、カヲルの上辺だけだったんだ、それも、かまってくれてたカヲルから想像しただけの、優しい一面だけだったんだ)
「はぁ……」
急に溜め息を吐いたアスカに、レイは困惑した。
「なに?」
「別に……」
「……」
「ちょっとね……、勝手に盛り上がって、勝手に傷ついてるあたしって、馬鹿だなぁって思っただけよ」
だからもう大丈夫、そういうつもりで、レイに解放してもらおうと思ったのだが……
「まっ、まぁ!」
ガタンと音、部屋の戸口、ユイが動転して柱につかまり、赤くなって……
「まぁ、まぁ!、そうだったの?、アスカちゃんたら、この頃シンジよりレイばかりかまって、どうしたのかなって思ってたけど、そんな」
「え?」
「あ、あ、でも、おばさん、理解がないわけじゃないのよ?、まさか自分の周りで、それも家の中でこんなこと、『本物』にお目にかかれるなんて思ってなかったじゃない?」
「へ?」
「あらあらあら、大変、どうしましょう、そうだ、とりあえずお父さんに報告しないと」「ちょ、ちょっとおば様!」
「大変大変、ああ、どうしましょう……」
パタパタとスリッパの音が遠ざかっていく。
「あああああ……」
フニフニと。
「あん!」
引き止めようとして、思わず身を乗り出してしまったアスカの体を支えたレイの手が、フニフニと。
「アスカ、おっきい」
「やん!」
「妹のくせに」
ぶるぶると震える。
「あんたらわおんなじ顔してほんとにもー!」
……かなり大きな音が響き渡った。
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