──ガキ!
二人の腕がクロスして、互いの頬骨から砕けたような異音が鳴った。
よろめきながら二人は下がる、双方共に顔が微妙に歪んでいた。
右の頬をシンジが拭う、カヲルは左の頬を親指で擦った。
お互いの目からは輝きが消えていた、憎しみによって澱んでいる。
「たまには僕だってムカツクことがあるよ」
珍しく減らず口とも思える言葉をカヲルは吐いた。
「苛立つことばかりさ、そしてそれは君に関ることばかりで感じられる特殊なものだよ」
殴られ方が巧いのか、立ち直りはカヲルが先となった、シンジの顎に中指を尖らせた拳を打ち込む。
──ゴキ!
「うっ、あ!」
シンジはさらにふらついたが、それでも倒れなかった、がくがくと揺れる膝に手を突いて堪えた。
「さすがだね、でもその意思の強さが腹立たしいのさ!」
踏み込み、カヲルはシンジの腹に一発入れた。
「ぐえ!」
「わかるかい?」
僅かに身を引く。
「何事にも生真面目で、真っ正直で、周りに気を使わせて、自分がなんでもかんでも面倒を見ているんだとパフォーマンスを決めながら、その実は多くの他人に迷惑ばかりをかけている、人の手をわずらわせなければなにもでき……」
ぐふっとカヲルは声をくぐもらせた。
「カヲル君にだけは言われたくないよ」
鳩尾に食い込ませた拳をえぐるようにして引き抜き、シンジは次いで顎を狙って跳ね上げた。
──ガシ!
寸前で腕が間に合う、二人は絡め合うようにして力で押し合った。
「随分な言い草だね」
だってそうじゃないかとシンジは唾を吐き掛けた。
「その場凌ぎで適当な嘘を積み重ねて、結局立ち居かなくなってみんなに迷惑をかけて、それのどこが僕と違うのさ!」
「開き直りかい?」
「違うよ!」
「そうかい」
「ぐっ!」
蹴り上げたカヲルの足が、シンジの鳩尾を打った、息が詰まり、力が緩む。
「それでも子供だというだけで、責任能力が無いと断じられ、なにもできないくらいなら、嘘を吐いてでも守ってやりたくなるものだってある」
「それは嘘だ!」
げほげほと腹を抱えて咳き込み、涙目を向ける。
「守ってあげたいなんてそんなの嘘だ!、逃げ出すために嘘を吐いてるだけじゃないか!」
カヲルは前髪を掻き上げ、ほんとうに……、と口にした。
「君は、腹立たしいよ」
意外に図星をさしたらしい、カヲルの赤い瞳が昏い色を湛え、もう一段階沈んだ。
「ちょ、ちょっと!」
「お前らなにやっとるんや!」
そんな二人を止めようと飛び込んで来たのはアスカたち一同だった、アスカにレイたち、トウジ、ケンスケ、ヒカリ、マナやマユミも居る。
「やめいっ、やめや!」
よろけているシンジへと歩み寄るカヲルを諌めようとして、トウジは不用意に近づいてしまった。
「は?」
──天地が逆さまになっていた。
「ぐが!」
「トウジ!」
「鈴原君!」
一瞬のことだった、掴み掛ったトウジの腕をカヲルは引くようにして振り払った。
それだけでトウジは投げ飛ばされ、一回転して叩きつけられていた。
「カヲル……」
アスカは気持ちだけ前に出て……、実際には逆に後ろに下がってしまった。
どんとぶつかられ、その肩をささえるようにしてマユミは囁いた。
「惣流さん?」
顔が真っ青になっている、いやいやをするように怖がっている、怯えていた。
あんなカヲルは知らないと。
「シンジ君!」
「カヲル君!」
カヲルの拳が背筋を伸ばしたシンジの頬に入る、シンジは体を捻って堪えた、無理矢理踏ん張る。
「くあっ!」
──ガキン!
シンジのお返しが決まり、カヲルの上下の歯が派手な音をカチ鳴らした、欠けるくらいはしたかもしれない。
二人はそのままの状態で、荒い息を整えるために動きを止めた、カヲルだけを見てもわかることがあった、二人には周りのことが見えていなかった。
ただ視界に入ったものを排除しただけだったのだ、カヲルは。
そしてシンジも同じように、カヲルだけに集中している。
「二度目だよ……」
カヲルはそんなシンジに対して不敵に笑った。
「これで僕が君に忠告をするのは二度目のことさ、最初の時はただの軽い気持ちだった、惜しいと感じたのさ、後ほんの少しだけ優しくなってくれれば、素晴らしい人だと口にできるようになるのにってね、でもそれは間違いだった」
シンジもまた言い返した。
「僕だっていつまでも言われっぱなしじゃないさ、そりゃ僕はどうしようもないくらい駄目なところだらけだよ、でも騙してすかして護魔化すようなやり方で逃げ回っていることが、一体なんになるって言うんだよ?」
「僕にとっての素晴らしい人間とは、僕の利に貢献してくれる人間のことだった、君にわかるかい?、自分が自分の利潤を追及しているだけのお粗末な人間だと知った時の絶望感を、でもね、僕は僕に落胆すると同時に君にも失望したのさ、誰も傷つけることなく、誰も彼もを喜ばせようとするそのいい加減な態度が正解だって言うのかい?、そんな都合の好い話をどうして認めることができると思う?」
「いつか立ち向かう力を手にできるはずだから?、それまで上手く逃げ回ろう?、そんなことを考えてる間にもどれだけ傷つくことになると思ってるんだよ?、他力本願?、どっちが都合よく他人を当てにしてるのさ、父さんたちが居なかったらアスカはどうなってたんだよ!」
「その人の欠点を指摘する物言いが!」
「その人を見透かした物言いが!」
ヒッと少女たちは鳴った音の酷さに顔を背けた。
シンジの右拳とカヲルの左拳がぶつかり合って立てた音だった。
「ガッ!」
負けたのはシンジだった、右手首を押さえて酷くのけぞる。
特殊な握り込みが作る中指の角に折られた中指が、異様な方向を向いていた。
「あ、あ!」
「終わりだよ」
「ダメェ!」
アスカが飛び出そうとする、その腕を掴んで引き止めたのは小レイだった。
振り払うどころか腕の主を確認する暇も与えられず、勝負が決する。
カヲルが大振りになった一瞬、シンジの体が独楽のように回転した。
──下から跳ね上げられた踵がカヲルの無防備になった側頭部に当たる。
ガン!
ぐらりと揺らいでカヲルが倒れる、シンジも勢い余って床の上に転がった。
「はぁ!、はぁ!、はぁ!」
手を押さえ、痛みに体を丸くしながらも、シンジは額を使って体を起こそうとした。
「シンジ!」
今度こそアスカは止める手を振り払って駆け出した。
シンジの元に駆け寄り、抱き起こそうとして……、余りの痛がりように手を出せずおたつく。
「あんたたち!」
そして遅れて、誰かが報告したのだろう、多少慌て気味な様子で、ミサトやリツコ、マヤと言った主立った教師が駆け付けて来た。
シンジはまだだと歯を食いしばって立ち上がろうとして……
「あ……」
ふっと何かが抜けてしまって、今度こそ完全に崩れ落ちる。
「シンジぃ!」
アスカもさすがに抱きついた。
それでも熱にうかされたように唸るだけで、シンジが応えることはやはりなかった。
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