綾波レイは困惑していた。
 混乱と言ってもいい。
「さ、どうぞ……」
 玄関に立ち、少年は苦笑を見せた。
「と言っても、僕も今日から住むんだけどね」
 レイは彼の顔を見た。
「何故?」
「ん?」
「何故……、わたし、あなたと」
 シンジは了解した。
「別に?、僕が君を好きになったから、なんてことはないよ、ただ、『君』との約束だからね?」
「約束……」
「君には迷惑な話だろうけど、百七回目、この間、約束したんだ……、何もないって言うなら、何もかもを与えてあげるってね」
 レイは小首を傾げた。
 シンジの物言いが理解できなかったのだ。
「ま、堅苦しく考えないでよ、僕は……」
 シンジそこで言葉を切って、作り笑いに切り替えた。
「さ」
 レイを促す。
「おかえりなさい」
「ただいま……」
 つられてレイはそう答えていた。


 話は数時間前に遡る。
「何をするつもりなのかしら?」
「さあ?」
 隣のミサトの言葉に、リツコは生返事を返した。
 ケイジの橋の上、リツコは少し離れた場所に居るゲンドウと冬月を見た。
 二人とも、シンジの動向をただ見守っている。
 そのシンジはと言えば、胸部装甲を外したエヴァの腹部にある、赤い玉を撫でさすっている。
「あれって……」
 ミサトは訊ねようとして、やめた。
 シンジが動いたからだ。
「ほんとに……」
 何やらぶつくさと呟いている、シンジはシートを外すように、赤球の表皮を引きはがした。
 一同に動揺が駆け走る。
「ユイ!」
 最初に駆け出したのはゲンドウだった。
 エヴァ、その中から引きずり出されたのは、裸身の女性であったのだ。
 二十代後半から、三十手前と言った所だろうか?
「ねえ、あの人って」
 ミサトはリツコが震えているのに気が付いた。
 きつく唇を噛み締めて、嫉妬の炎を目に宿している。
 踵を返したリツコに、声は掛けない、だが、彼に対してはそうもいかない。
「シンジ君……」
 ユイに構い付けるゲンドウと冬月、それを尻目に歩み去ろうとしたシンジを呼び止める。
「なんですか?」
 シンジは意外にもすんなりと立ち止まった。
「あなた……」
 一体、と続けようとして、ミサトはやめた。
 サードインパクトを越えた者、この後の事件、それらの詳細は既に聞かされている。
 ゲヒルン、ネルフ、ゼーレ、老人、それらに付いてもだ、シンジは誰に聞かれる事も構わず、発令所でぺらぺらと喋ったのだ。
 ゲンドウ、冬月に対する職員の不信感は極大に達している、それはそうだろう。
 セカンドインパクトの真相まで明かされては、誰しも従うつもりを無くしてしまう。
 ミサトが何者かと訊ねたいのも当然だった、だが既に、彼はその正体を明かしている。
 だからミサトは、こう訊ねた。
「あなたは、何がしたいの?」
 シンジは失笑をこぼした。
「別に……」
「別に?」
「だってそうでしょう?、僕が呼び出されてから、サードインパクトを迎えるまでのほぼ一年、百回以上もくり返せば嫌にもなりますよ、どうやっても思い通りの結果が得られないのなら、人のために生きて見るのも面白いかと思った、それだけなんですけど……、いけませんか?」
「いけなくは、ないけど……」
「ミサトさんこそ、どうするつもりですか?」
「え?」
「ネルフが……、ネルフを作ったゼーレが、お父さんの仇だと知って、それでもここに残りますか?」
「そんなこと……」
 分からない、とミサトは言いかけて、ふと思い付いた事を口にした。
「わたしが何て答えるか、分かってるんじゃないの?」
 シンジの口元に、厭らしい笑みが形作られた。
「やっと、反応の仕方が分かって来たみたいですね?」
「そうね」
 ミサトは警戒心丸出しで、碇シンジと言う少年を見送った。


 ネルフ内部の混乱は更に続いた。
 何しろ、ファーストチルドレンと呼ばれる少女と同じ顔をした『団体』が、会議場に集められたからだ。
 同じ顔、同じ髪、同じ身長、その上、全員が全員、同じように冷めた反応を持っていた。
 これが百人からいるのだ、ただ着ている物はばらばらだった、スカートからジーンズまで、中にはネルフ職員の制服を着ている綾波レイも居た。
 いかにも、掻き集めましたと言った感じである。
 これらを全て、姉妹だ、で済ませるのは余りにも違和感が有り過ぎた。
 空気の抜ける音に、扉に視線が集まった。
「これは……、壮観だね」
 さしものシンジも引いた、どうやら百八回目にして、初めて全員を連れ出したらしい。
 議長席へ進むシンジを、全員の虚ろな瞳が追いかける。
「さて」
 シンジは席には腰掛けず、テーブルに手を突いた。
「どうしようか」
 いきなり困っていた。
「君達には『三人目』の記憶をプレコピーしておいた、一年の内に差が生じて別人になるかどうかは……、分からないけどね?」
 全員が一斉に口を開いた。
『三人目?』
 その圧巻する光景に苦笑する。
「そうだよ?、ここではない世界の、別の世界の綾波レイさ、……本来なら、この中の誰かがそうなるはずだった、綾波レイのね?」
『そう……』
 一同、一斉に沈んだ顔になる。
「とりあえず、生活課の方に話はつけたよ、全員、新しいマンションに個室が用意してある、それから、カードには五千万ずつ入ってる、当座の生活費としては多いだろうけど、まあ、サードインパクト以降は、お金なんて用が無くなるだろうし、もしそれ以降にも世界が存続するなら、まあ、その時は自分で生きて行くって、それぐらいのことはしてもらわないとね?」
 シンジは少しだけ遠くを見た。
「サードインパクトって言っても色々あったんだ……、世界が滅ぶ場合も、何事もなく明日に続いた時もね?、この世界がどうなるかは、分からないから」
 気を取り直す。
「この後、カードとマンションの鍵を受け取って、バスで送ってもらって、後は明日のことだよ、僕じゃあ役には立たないだろうけど、相談したい事があるなら聞くから」
 そう言った時のシンジの顔は、ゲンドウ達大人に対するものとは違い、とても穏やかに和らいでいた。


 そのバスにシンジが同行しなかったのは、もちろん彼女を迎えに行くためだった。
「あなた、誰?」
 その質問には、苦笑する。
「シンジ、碇シンジだよ」
「碇……」
 ベッドに横たわるレイ、だが、シンジは無遠慮にそのシーツを剥ぎ取った。
 反射的に身を固くするレイに、優しげな瞳を向ける。
「ごめん、ちょっと我慢してて」
 シンジはまず、眼帯の上に手を当てた。
「熱いっ」
 レイの悲鳴を無視して、今度はギブスに固められた腕を取る。
 ほんの……、一瞬の躍動だった。
 シンジの手首の筋肉がピクリと動いた、それだけでレイのギブスは粉砕されていた。
 目を丸くしているレイに笑いかける。
「長く生きてるとね……、色々と下らない事も覚えるんだよ」
「痛い……」
 折れている腕を取って、シンジは揉んで何かを確かめた。
 ゴキン!
 響いた震動に、レイは目尻に涙が浮かぶほど瞼を固く閉ざした。
 咄嗟に、折れていたはずの腕で、シンジを払いのけて。
 ぎゅっと痛かった腕を掴んでいた、ややあって気が付く、もう、痛くはない。
「あ……」
 恐る恐る動かし、指を握ってみる。
「完全にくっついてるわけじゃないよ」
 軽い含み笑いだった。
「折れたり、ヒビの入ってる部分が不自然だから、圧迫に痛みが走るんだ、その繋がりをなるべく自然にしただけだよ」
 さあ、とシンジは腕まくりをする振りをした。
「眼帯はもう外していいから、それと、シャツのボタン外して、お腹見せてくれる?」
 いやらしさは無い、むしろ爽やかな調子でシンジは言った。
 第一、それが目的なら、『胸を見せて』と言っている所だろう。
 レイは怖々と頭の包帯を外し、次に動かなくなっていたはずの手を使って、ゆっくりと下から三つほどボタンを外した。
「そのまま……」
 シンジはベッドの端に腰掛けると、その喉元にレイの頭を抱いた。
「あ……」
 恥ずかしげな声が漏れ出る、扇情的な色合いも含んでいた、それはシンジの手が、レイの下腹を撫でたからだ。
「どう?」
「暖かい……」
 温もりが染み入った来る、レイは腹部に掛かっていた重苦しい圧迫が薄れていく事に気が付いた。
 同時に、呼吸も楽になり、逆に熱い吐息を漏らしてしまう。
 レイは気が付いていなかったが、シンジは同時に、抱いたままで軽く髪も梳いていた。
 そこにも何か意味合いがあるのだろう、レイの頭からは熱が引いていた、頭痛ももうしなくなっている。
「十二回目くらいかな……」
 唐突に、シンジはそんな事を口走った。
「もっと頑張ろうって思って、何かの役に立つかなって、習ったんだ、気功とか、ね」
 そこには自嘲の色合いが強い。
「時間はいっぱいあるって、思ってたからね」
 意味はもちろん通じない。
 一度では無理でも、記憶と経験は持ち越したままで、二年目、三年目を経験できるのだ。
 むしろ体を鍛える事こそが無駄だった、一年で鍛えられる範囲には限度がある。
 だから気功や合気道と言った、流れを利用するものをシンジは選択していた、それももう半世紀以上続けているのだ。
 達人と言う域も越えている。
「あ、ごめん……」
 シンジはレイが、潤んだ瞳で見つめ上げている事に気が付いた。
 ゆっくりと体を離す、レイは追いかけるようにもたれようとしたが……
「だめだよ」
 シンジはやんわりと押し返した。
「好きでも無い人に、そんな目をしちゃ、駄目だ」
 レイの赤い瞳に、理性が戻る。
 シンジは苦笑いを浮かべた。
「マッサージと同じでね、やり過ぎると、気持ち良くなるみたいだね」
 立ち上がって、レイの前に体を屈める。
 丁寧に服のボタンをはめてやった。
「立てる?」
「ええ……」
 レイは自分の体が、今までになく軽やかに動いた事に驚いた。
 いつもは気怠く、ベッドから起き上がるのも億劫だったというのに。
「活力が溢れてるんだよ」
 笑いかけに戸惑う。
「じゃあ、行こうか」
「何処に……」
 シンジははにかんだ。
「僕達の家に、だよ」
 レイは自然と、差しのべられた手に、手のひらを重ねていた。



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