綾波レイの一日は喪失感から始まると言って良い。
 目を開くと、隣に居たはずの人が居ない。
 布団には温もりがあっても、それは彼から直接与えられるものに比べれば、ほんの僅かな残影に過ぎないのだ。
 後にシンジが語った所によれば、『ああ、綾波のATフィールドをちょっと侵食して、心に直接温もりを伝えてましたからね』、と言うことなのだが。
 それは確かに、この上のない至福を与えるだろう、魂を直に包むのだから。
 ベッドから下りる、惜し気もなく肢体を朝日にさらす。
 白い肌がまばゆく輝き、差し込む光と溶け合わさって、境界線を淡くした。
 小さな胸と、恥毛も生えていない体は、発育が遅いのか特殊なのか、そこまではシンジも知らない。
 考えたことがないから、確かめようとは思わなかった、と言うのが一番の理由でもある、また、一年以上は付き合えないのだ。
 今後の成長に関してまで、興味は無かった。
「おはよう、綾波」
 シンジは素っ裸のままでぺたぺたと歩いて来たレイに、極当たり前のように微笑を見せた。
 しかしレイは立ち止まらず、そのままシンジの元へと歩み寄った。
 歩きながら腕を広げ、極自然と彼の体に巻き付ける。
 頬を合わせて、擦り合わせる、厭らしい目で見ればフケツと罵られもするだろうが、シンジには分かっていた。
「ほら、着替えないと」
 頭を軽く撫でてやり、押し離す。
 足に擦り寄って来る猫と同じなのだ、欲しい物を与えてやれば興味は移る。
 レイは素直に離れて、バスルームへ向かおうとした、と、途中でテーブルに座って目を丸くしている某婦女子に気が付いた。
 何故、ここにいるの?
 そう視線で問いかけられても、彼女、葛城ミサトには答えられなかった。


「はぁ……」
 とハンドルにもたれ掛かったまま、ミサトは溜め息を吐いた。
「なんですか、葛城さん」
 差し出されたコーヒー缶を受け取って、ミサトはその名も知らない保安部員にこぼした。
「今日ちょっと早く行っちゃったから、シンジ君に朝ご飯ご馳走してもらったんだけどねぇ」
「自信でも無くされたんですか?」
「違うわよ!」
 本気でムッとしていた。
「そうじゃなくて!、もう朝からべったべたでさぁ……」
 しかしミサトもそれなりの『経験者』だ。
 レイの体に『その系統』の痕跡が無かった事くらいは確認している。
「ちょっち刺激強くてねぇ」
「やけぼっくいに火がつきそうだ、と」
 彼は笑った。
「頼みますから、うちの部署のものには手を出さないで下さいよ?」
「出さないわよ!」
 ミサトは本気で怒りながら、明日からは保安部員に任せ切りにしようかと考えていた。


 ネルフ内部では有名であっても、一般学生の間にまで、シンジの事が知られているわけではない。
 それこそ超絶級の特秘事項になっていた。
 そんなシンジを、複雑な目で見ている少年が居た。
「なんだよ、トウジ?」
「ん?、ああ……」
「碇か?、あいつ、例のロボットのパイロットなんだってさ」
「聞いたわ、うちのおじんから……」
「おじいさんから?」
「おとん、この間の戦いで、怪我してもうてな……」
「そっか……」
 ケンスケはそれ以上何も言わなかった。
 この間の、とは第一次会戦のことだった。
 本部内に進行された折り、多少の怪我人は出ていた、死者が出ていないのは僥倖だろう。
 これが戦自に対するプラス要因にもなっている、死傷者多数、揚げ句街一つ燃やしつくした戦自に対して、本部内で蹴りを付けたネルフには、負傷者とドグマにおける被害が出ただけである。
 が、しかしリリス無き今となっては、もはやターミナルドグマの隔壁やヘヴンズドアなど無用の長物である。
「おとん……、地上で戦っとったら、わしらが危なかったかもしれん言うてな」
「そりゃそうだよ、戦自なんてどっかんどっかんやられてるんだからさ」
 とケンスケは軽く言った。
 一方、シンジであるが、そう簡単に事を済ませてはいなかった。
「ま、予想通りだけどね」
 軽い口調で、席替えの結果隣となったレイに語っていた。
「零号機と、初号機、これがリリスのコピーだって事は説明したよね?」
 コクリと頷くレイ、どうでも良い事だが、この様な場所で話していい話題ではない。
「で、初号機から母さんを抜き出した、ここで問題です、魂の篭って無い、コントロールを外れてる初号機って、本当にエヴァ、かな?」
 これがリリス亡き後も使徒がやって来た理由である。
 雑談に沸く周囲が邪魔をして、話を盗み聞かれる心配が無い。
 だからシンジはここで話していた。
「でも使徒については多少の問題があるんだ」
「なに?」
「強くなる、ってことさ」
 肩をすくめる。
「使徒……、アダムは『転生』する度に実力をつける、楽に倒せば倒すほど、次は苦労しなくちゃならない」
「どうするの?」
「そこで、次は一旦負けようと思ってる」
 レイは目を丸くした。
「危ないわ」
「そうだね」
 だが事も無げに言う。
「でも後々の苦労を考えると、ね……」
 じっと見つめる目に、シンジは珍しくたじろいだ。
「なに?」
 唇を軽く舐めてから、レイは話した。
「あなたは……、死が、恐くないの?」
 苦笑する。
「恐いよ、でも、辛くはないかな……」
「どうして?」
「だって、死んでも、誰も悲しまないからね」
 その声音には、息を呑ませるものがあった。
「みんなも何とかしてもらおうって、手伝ってもらおうと思って、真実を話して回った事があるんだ、五十回目くらいだったかな、どうなったと思う?」
 レイはかぶりを振った。
「分からない……」
「殺されたよ」
 目を剥いたレイに、さらに冷たく言い放つ。
「次はもっと上手く、今度は相手を選んで……、どうやっても、僕は殺された、寄ってたかって、ね」
「碇君……」
「だから、今回も多分、殺されるんじゃないかな?」
 シンジは斜め上を見るように、首のこりをほぐした。
 その気楽さには、気負いが無い、当たり前だろう、シンジにとっては全て経験に裏打ちされた事項に過ぎないのだから。
 選択肢の先にある結果に過ぎない、だが、『今』しかないレイには、シンジの感性など理解できなかった。


「再起動実験、上手くいくと良いですね」
 ユイはゲンドウの背に話しかけた。
 ネルフの、巨大なエスカレーターは、見た目以上の速さで下りていく。
 リツコは二人の、さらに後ろに居た。
(シンジ君のおかげかしらね)
 ゲンドウに対しての感情が冷めていた。
 単に情事を求めるのならば、確かにシンジの方が良いだろうと思えるのだ、この辺りは、理論的に自己判断してしまう傾向が思考を助けていた。
(中身はともかく、見た目は中学生だもの)
 その常識を逸脱した関係は、確かに燃え上がらせてくれるだろう、それに、シンジのあの目だ。
 百年物の、熟達した技巧がどれ程のものか、それは興味の湧く所だろう、リツコは夕べの自慰の妄想を思い出して頬を火照らせた。
「あら、赤木さん……、熱でもあるの?」
 そんなリツコを、ユイは惚けた顔して指摘した。


「面白い傾向ね」
 そんなリツコだったが、表面上はきちんとした仕事をこなしていた。
 シンジを呼び出し、綾波レイ達の傾向について知らせていた。
「三分の一が髪を伸ばし始めてるわ、逆に短くした子も居るわね、耳を出したり、リボンとか、髪飾り?、服装にもばらつきが見受けられるわ」
 リツコはレポートを下ろして、シンジを見た。
「どんな魔法を使ったの?」
「どんな、って……」
「魂は一つよ、あの子達には無かった……」
 ああ、とシンジは納得した。
「そう言う意味ですか……、魂を中心にして人と言う形がATフィールドによって形作られる、これは分かりますよね?」
「ええ」
「ATフィールドは心の形……、綾波レイの感情が希薄なのは、レイ達に魂を『分化』しているからです、なら、その魂の欠損を埋めてやればいい……」
「そんなこと、できるの!?」
「魂は魂ですよ、死んだらそこまでです、消えてなくなっちゃいます、じゃあ、どうやって生まれるんですか?、それは寄り集まってですよ、だから適当に、同じ材質を持って来て、練り合わせました」
「そう、そう言う事なのね……」
 考え込む。
「じゃあ、その材質によって、差が生まれ始めてる?」
「そこまでは分かりませんけどね」
 シンジは時計を見た。
「そろそろ再起動実験ですけど、行かなくていいんですか?」
「え?、ああ、そうね」
 リツコは立ち上がり、資料をまとめながら、ふっと笑った。
「あまりシンジ君と二人きりにならない方が良いかもしれないわね」
「はい?」
「我慢できそうに無いのよ」
 シンジは失笑した。
「そうですか」
「そうよ、それに、レイ達もね……」
「へ?」
「気付いてない?、あなた、あの子だけ特別扱いして、同棲してるでしょう?」
「それが?」
「何人かね、そういうのに憬れてるのかもしれないけど、嫉妬してるのよ」
 シンジはぽかんとした。
「それは……」
「珍しい、計算違い?」
「そう……、ですね、参ったな」
 シンジは本当に困って、頭を掻いた。
「そう言うつもりは、ないんだけどな」
「あなたが中学生に見える以上は、どうしようもないことよ」
 リツコはシンジの隣に並び、背を押す振りをして、少しだけ身を寄せた。



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