例え事前に知らされていたとしても、それが心臓を鷲づかみにしたのは間違い無い。
『うわぁあああああああああ!』
「シンジ君!」
 シンジの絶叫に、レイは呼吸も、鼓動も止まっていた。
 髪が膨らむように総毛立ち、顔からは残らず血の気が引いていた。
 倒れなかっただけ素晴らしい。
 死ぬのは恐いと、彼は言った。
(何故?)
 だが死を厭わないとも、彼は言った。
(何故?)
 分からない、だが。
『君には迷惑な話だろうけど、百七回目、この間、約束したんだ……、何もないって言うなら、何もかもを与えてあげるってね』
 その約束は、全てが果たされたわけではない。
 レイは気丈にも、シンジの絶叫に堪えた。
 まだ、彼は死なない。
 それが彼女を堪えさせた、ただ唯一の根拠であった。


「ふう、ちょっと危なかったな」
 回収された初号機、緊急イジェクトされたプラグから出て来たシンジは、風呂上がりのような口調で額の汗を腕で拭った。
「あれ?、ミサトさん、リツコさん、綾波、どうしたの?」
 全員、唖然と口を開いていた。
「碇君」
 つかつかと歩み寄ると、レイは憤りをストレートに表現した。
 すなわち、張り手である。
 パシン!
 シンジは頬を撫でさすりながら、ちゃんと謝った。
「ごめん……」
「ごめんじゃないでしょ!」
「まったく……」
 大人二人も、一応は怒った。
「それにしても……」
 シンジの事情説明を聞き、初号機を見上げる。
「ここまで壊させる必要があったの?」
 リツコはこれからの苦労を考えて、こめかみを揉みほぐした。
「まあ、それぐらいは努力してもらわないと」
 軽く言う。
「簡単に救われたって、ありがたみ無いでしょ?」
「そうだけどね」
「危機感持った方がいいんですよ、みんな、トップを尊敬してないから仕事がおざなりになってるし」
「誰のせいよ」
 ミサトのジト目も効果は薄い。
「それより、問題はここからですよ」
 シンジは話題をはぐらかした。
「簡単に倒せって言うなら、盾を用意してもらえればなんとか……、エヴァの走力で長距離から駆け込んでシールドで攻撃を受け流し、斬撃、これで決められます」
「何か問題があるわけ?」
「次の使徒の、反応速度が上がります」
 場所は会議室へと移された。


「それでシンジ、100%倒せるのね?」
 訊ねたのはユイだった。
「それは間違いなく……、でも、出来れば長距離兵器で片をつけたいんだ」
「それは、どうして?」
「長距離兵器の有用性を否定しておきたいんだよね、こっちにもあるって所を見せておけば、暫くは中、近距離の武器を持った使徒だけが来るから」
「その後は分からないって事?」
「まあ、初号機だけに頼ることは無いんだけどな、本気でやっていいなら、考えることは無いんだし……」
「本気?」
 誰もが怪訝そうにした。
 ゲンドウ、冬月、ユイ、ミサト、リツコ、レイ、それに補佐の伊吹マヤに日向マコト。
 シンジは吐息と共に言った。
「僕が、直接叩く」
「は?」
 惚けた声を出したのはミサトであった。
 初号機で叩く、そう聞こえたのだ。
「ちょっとシンちゃん、それって」
 何処が違うの、と言いかけた口を、リツコが塞いだ。
「あなたが、やるというの?」
 シンジは頷いた。
「人があれだけ逃げ回ってても相手にしなかった、ってことは、エヴァくらいの大きさが無いと、あるいは小型車両でも、攻撃しない限りは相手にしないはずなんだ、ほら、駐車車両は気にも止めてない、逃げる車も」
 シンジは指摘してから続けた。
「だから、歩いてでも、もうちょっと安全に下水道を通ってでもいい、後は僕がやる」
 流石にリツコは、信じ難いとかぶりを振った。
「本当に、やれるの?」
「ATフィールドは心の堅さが物を言うんだよ」
 その壮絶な笑みに、マヤがヒッと悲鳴を上げた。
「シンジ……」
 ユイの声に、それを苦笑に変える。
「まあ、父さんにしか話してないから……、母さんと副司令、それにリツコさんは聞いてるみたいだけど」
 そこに込められているのは、結託している犯罪者への皮肉だ。
「みんなに知られて困るって言うなら、やっぱりエヴァを使うしかないかな」
 口調を軽くして、やや重くなった雰囲気を払拭した。
「僕としては一回目の時にミサトさんが取った作戦を使いたいな」
「あたし?」
「ええ……、何て言ったかな、そう、ヤシマ作戦だ」
 そのセンスに、年長の者達は何故だか顔をしかめた。


 舌を巻く、とはこの事だろう。
「こんな事なら、技術部に入ってもらえば良かったわね」
「何言ってるんですか」
 シンジはリツコの横で、彼女に匹敵する勢いでキーをタイプしながら冗談を言った。
「僕、まだ中学生ですよ?」
「良く言うわね」
 シンジが設計しているのは、戦自から徴発される『予定』の陽電子砲の改造設計図だった。
「これだって、覚えてるのをそのまま書き起こしてるだけですよ、そんなに大した物じゃ……」
「それだけでも役に立つわ、間違いは、こちらで修正するから」
「そのつもりで、適当にやってます」
 そんな二人を、マヤが嫉妬交じりに見ていたのは、ご愛敬だろう。


「疲れた……」
 休憩所のシートに腰を落ち着けると、目前の自販機で缶の転がり落ちる音が二度続いた。
「綾波……、ありがと」
 はにかんでコーラを受け取る。
 レイは自然に、シンジの隣に腰掛けた、その目が何かを問いかけている。
「なに?」
「あなたは……、何故、戦うの?」
 シンジは苦く笑った。
「絆……、だから」
「絆?」
「綾波との、ね」
 レイの目が丸く見開かれた。
 すっと、視界を覆っていた影が離れていく。
 キスされた、と気が付いたのは、震える指先で唇を押さえてからだった。
 隣に目を向ける、シンジはもう、先程と同じ態勢でジュースを飲んでいた。
「綾波……」
 レイはドキリとした、表面上は、そうは見えなかったが。
「なに?」
「僕は……、何者なんだと思う?」
 それは不可思議な問いかけであった。
「僕は、確かにサードインパクトを経験したよ、でも」
「でも?」
「ねえ?、もし……、僕が戻ったりしなかったら、ここに居る僕は、一回目の僕と同じように、ただ訴えてたのかな?」
「何を?」
「優しくして、って……」
 シンジは項垂れるように、開いた膝の上に肘を置いた。
「綾波は、父さんの人形で、ミサトさんは、僕を道具にして、アスカは……」
 知らない人の名に、レイはちくりと胸を痛めた。
 それが特別な意味合いを持つ、女の名前だと直感したからだろうか?
「碇君……」
「でも、僕は、ここに居る」
 シンジは顔を上げて、真っ直ぐに前を見つめた。
 そこにあるのは自販機だが、シンジが見ているのはもっと先にある物だ。
「僕はここに居る、ここに居て、いつも何かを変えて、違う所に行き着こうとしてる、でも、結果はいつも同じなんだ」
 やり直し。
 くり返し……
「ねえ、綾波……」
「なに?」
「僕は……、いつになったら、先に進めるのかな」
 それはレイが始めて聞く、シンジの弱音だった。


 レイが盾になり、シンジが使徒を貫く。
 一連の出来事は歴史をなぞったに過ぎない、例えその内実がどれ程違っていようとも、だ。
 なら繰り出される結果も、また、同じであろう。
「綾波!」
 シンジは慌ててエヴァから降りた。
「この!」
 開かないドアに苛立って、ATフィールドで切り開ける。
「綾波!」
 シンジは中に入って、LCLの熱さに反射的に身構えた。
 おそるおそる、その液体に身を浸しているレイへと寄る。
 幾らスーツがあるとはいえ、耐熱には限度がある。
「綾波?」
 ぴくぴくと動く睫毛に、シンジは待った。
 やがて赤い双眸が開かれる。
「碇君……」
「良かった……」
「なに、泣いてるの?」
「綾波が生きててくれたから……、嬉しくて泣いてるに決まってるじゃないか」
「碇君……」
 いつかのように、問い返しはしなかった。
 レイはただ、その染み入るような心に胸の内を開いて、瞼を閉じた。
 口元に微笑が浮かぶ。
「生きてる……」
「そうだよ、立てる?」
 シンジは訊ねながらも、返答を待たずに抱き上げていた。
「あ……」
 同じ身長同士だ、やや心許なかったが、シンジは危うげも無くレイを抱いて外を歩いた。
「頼むから、こんなこと、もうやめてよね」
 聞こえた台詞は、辛げだった。
「僕の盾になんてなることは無いんだよ、僕が頑丈なのは……、もう分かってるだろう?」
 だがレイは、歩みの心地よい揺さぶりに蕩けながらも、シンジの頬に手を当てて微笑んだ。
 レイにはもう分かっていたのだ。
 シンジの上げた絶叫は、本物だったと言う事に。
 ただシンジは、その時の痛みと、苦しみを、忘れる事に長けている。
 それだけなのだと、気が付いていた。



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