先日、アスカとユニゾンの特訓をした部屋にて。
 ダン!
 震動に床が揺れる。
 レイはいつものことだと、アスカは呆れた調子で彼を見ていた。
 流れるように歩き、踏み足を抜く、震動、繰り出される一撃、細身の体ゆえ迫力に乏しい、しかし針金の鋭さは過激だ。
 もし人が居たならば、抜き手が喉仏の上から奥へと抜けていた事だろう。
 碇シンジ、その武術の技は、どれをとっても一撃必殺である。
 肉体の鍛練の無意味さゆえに、どうしても蓄積された経験を追うだけの技が重宝されるのだ。
 先程の技でも、恐らくは爪がめくれ、剥げていた事だろう。
 それでも、彼にとっては必要であるからこそ、勘を鈍らせないためにも、修練は積む。
 捌きの滑らかさは何千、何万回とくり返して来た証しである、十四歳の肉体に百年分の積み重ねが内包されている、やがてアスカは、シンジの必死さの中に気が付く。
 ぞっとしたのは、感覚として認識したからだった。
 実戦……、そう、生身での殺し合い。
 ダン!
 再びの震動にビクリと怯える。
 明らかに……、シンジのそれは、型通りの練習ではない、大人の姿が見える、シャドーボクシング同様に、相手の背丈がはっきりと分かるのだ。
 闘った事があるのだろう、失敗も、殺された事があるのかもしれない、当然、殺した事もだろう。
 揺れる髪と、飛び散る汗に垣間見えるのは、システム的な殺傷のための効率の良さだ。
(こいつ……)
 人を殺す事など容易いと感じる、実際にはATフィールドすら操れるのだから、技など無用なのだろうが。
 いや、そんな事は無いのだ、少なくとも、シンジにとっては。
「ふぅ……」
 シンジは両手を合わせて、呼吸を落ちつけた。
 ふっと雰囲気が和らぐ、いつもの笑みが張り付いたのを見計らって、レイは歩みだし、タオルを差し出した。
「ありがとう」
 微笑み、受け取る。
 レイは微妙に頬をほころばせたが、それは安堵による物だ。
 練習中のシンジは、危険な空気を漂わせている、近寄れないのだ。
 ゲンドウのような近寄り難さとは違い、傷つけられると言う思いがつきまとう、それは、精神的なものとは違って、単純に恐い。
 シンジがいつものシンジになる、レイは気が付いていなかったが、知らぬ内にそれを待ち望んでいた、決して練習の終わりを待っていたのではないのだ、でなければ、その練習に付き合っても良いはずなのだから。
 アスカはアスカで、どう捉えていい物か困惑していた。
 そこまでしなければならない理由、人殺しの技を覚えなければならなかった訳、シンジは言った、全ての選択権を与えると、そこに私事や願望、思惑は挟まないと。
 だが、実際にはこうしている、なら、何のための武術なのか?
(あたしやファーストの自由を阻害する、何かがあるって事?)
 それも使徒などと言ったものではなく、もっと近しい、小さな、隣合わせの、日常の裏側にある、危機。
「どうしたの?」
 間近でした声にハッとする。
「あ……」
 シンジがすぐ側に立っていた。
「な、なんでもない……」
「そう?、ならいいけど」
 ごくあっさりと解放し、歩き去るシンジを見て、考えを深くする。
 その気になれば、暴力でも、女の扱いでも、達人と言っていい技能を持っているだろう。
 自分など赤子の手を捻るよりも簡単に、あしらわれてしまうだろう、それだけのものは、既に見せられている。
(けど……)
 それだけの力があって、どうして人のため、他人のために生きようというのか。
 君のために、などと言う言葉を、ロマンチックに受け止められるほど、素直ではない。
「でも、ま……」
 アスカは、ふうっと溜め息を吐いた。
 プールの中央で、レイに手を引かれ、バタ足をするシンジが居る。
「こういうの見てると、安心するわ」
「て、手ぇ離さないでよ!?」
「ええ……」
 言われた通りにギュッと握って、レイは後ろ向きに歩くのだった。


「それで、アスカに笑われたんですって?」
「ええ、まあ」
 気まずげに答えて、シンジはキータッチを遅らせた。
 リツコの研究室には、シンジ用の席が設けられていた、これはマヤですら願っても叶わなかった、垂涎ものの待遇である。
「でも、たかが水泳でしょ?」
「たかがって言うのが、一番辛いんですよ」
 シンジは完全に指を止めた。
「水が恐くて……、体が強ばるんですよね、理由は分かってるんですけど」
「なに?」
「LCLですよ」
「は?」
「母さんが取り込まれた時の記憶が、ね、溺れてるみたいだったのが、トラウマになってるんです」
「そう……、そこまで分かってるのに?」
 シンジは苦笑する。
「僕って……、トラウマだらけなんですよね、母さんのこと、父さんのこと、綾波、アスカ、ミサトさん、リツコさん、加持さん、……エヴァ、やり直す度に酷い目に合って、もう恐いのは嫌だって避け続けて」
「で、ここにいるの?」
 リツコも手を止めた、立ち上がり、コーヒーメーカーへと歩み寄る。
「じゃあ今は、何が恐くてそんなものを設計してるの?」
 シンジのモニターには、銃とも、剣ともつかない、妙な物の構造図が描かれている。
「これですか?、もっと効率良く、エヴァを壊せないかと思って、ずっと考えてるんですよ」
「エヴァを?」
「はい」
 それは量産機を指すのだが、リツコはやがて来るゼーレ、補完委員会の侵攻など、知るはずも無い。
 勝手に、弐号機を相手にするつもりかと勘繰り、言葉を飲み込んだ。
「それで……」
 強引に話題を変える。
「レイの様子は、どう?」
「綾波ですか?」
「ええ……、シンジ君が引き取ってから、定期診断をしてないでしょう?」
「もう、父さんの願いにはそぐわなくなってますよ、自我に目覚めて心が堅くなってるから、無防備に人の言葉を受け入れたりしませんからね、他人のために死ぬなんてこと、承知しないと思いますよ?」
「それが、あなたの願いなの?」
「綾波の、ですよ、僕はただ、綾波にそうしてくれって頼まれただけだから」
「シンジ君?」
 時折見せるシンジの疲れ切った表情に、リツコはマグカップを持って背後へ寄った。
「そう悲観するものじゃないわ」
「そうでしょうか?、僕には良く分かりません」
「百年生きても?」
「無駄に生きてるだけですよ、つまらない事ばかり、詳しくなって」
 そんなシンジに、コーヒーを手渡す。
「あ、すみません」
「その詳しく知ってるって話しだけど」
 リツコの台詞は、扉の開く音に中断された。
「よぉ、シンジ君がこっちに……」
 顔を見つけて、いつものにやけた笑みを張り付ける。
「用事があるって聞いたんだけどな」
「ええ、ちょっと……」
 リツコは自然と側を離れて、加持のためのコーヒーを入れた。
「へぇ……」
「なに?」
「いや……、リッちゃんがコーヒーを入れてくれるなんてね」
 厭らしく笑う。
「そうしてると、奥さんみたいだぞ?」
「そうですか?、結婚します?」
「犯罪呼ばわりは、されたくないわね」
 リツコは軽く躱した。
「それより、人の部屋で悪巧みなんてしないで欲しいわね」
「するのは僕じゃありませんよ、……加持さんです」
「おいおい」
 冗談は飲み下された、シンジの目に射すくめられたからだ。
「ここでなきゃできない話か?」
「ここが一番安全ですからね」
 コーヒーで口を湿らせる。
「明後日の事、もう一日遅らせて欲しいんです」
「明後日?、何かあったかな……」
「アルバイトの関係ですよ」
 リツコの目に鋭さが宿る。
「加持君?」
「俺は……、いや、隠しても無駄みたいだな、でも今度のことには関係してない、これは本当だ」
「誰も加持さんが何かするとは言ってませんよ、けど、それ以外の人が余計な事をするんです」
「おいおい……、それは俺の管轄じゃないぞ?、保安部にでも話すべきだろ」
「でもそうなると、色々な所で困った事が起こるんじゃないですか?」
 加持は肩をすくめた。
「わかったよ、で、何があるんだ?」
「施設の、いえ、街も含めて、全ての電源が落ちるんです」
「不可能だわ!」
「いいえ、正副予備の三系統が落ちます、残ったのは旧回線だけ、これは復旧作業から施設の全体像を調べるためですが」
 加持は両腕を上げた。
「分かった、それで、どうして一日なんだ?」
「ああ……、使徒が来ますから」
 何気なくこぼした言葉に、二人は目を丸くした。
「なに?」
「なんですって?」
「使徒ですよ、偶然なんですけどね、丁度来るんで、どうにかはなるんですけど、面倒ですからね、色々と」
 奇妙な顔をする加持を無視して、シンジは平然とカップの残りを飲み干した。



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