月に重なる少年の影。
「君が行くというのかい?」
マンションの屋根の上で、カヲルは誰にともなく呟いた。
「そう……彼女はシンジ君と散歩中だよ。そうだね? 僕も見させてもらうよ。君の求愛行為をね?」
「綾波ぃ、今日はどこまで行くのさ?」
「この先……」
レイが指差す先にあるのは神社だ。
「あそこに何があるの?」
「……なにも」
「へ?」
「なにも、無いの……誰も、いないの」
それって……。
ぐびびっと喉を鳴らしてしまう、シンジの目は、揺れるレイのお尻に落ちてしまった。
制服のスカート、尻尾が出てしまっているのか、ちょっとだけ膨らんでいる。
ダメだ! 最近染まってる!
シンジは自制心を取り戻そうと深呼吸した。
確かに何も無い神社だった。
社とキツネの像が置いてあるだけ。
犬とキツネって、仲が良かったっけ?
垣根や木々は葉を多くつけており、外からはまったく中が覗けない。
つまりシンジとレイは、暗闇の中に二人っきりで居るわけで……。
いくらなんでも、これはマズイよ……。
「碇君……」
ふっと気がつくと、レイがにじり寄っていた。
「あ、綾波!?」
お願いをするように、両手を前に組み合わせている。
「お願い、碇君……」
「な、なに?」
わざわざ体を前屈みにして、シンジの首元に顔をすりよせる。
「お願い……」
いい香りが……あ、いや、ダメだ。ここで負けちゃ!
シンジとレイは、体を重ねるようにキツネ様の乗っている台にもたれかかった。
「綾波……」
「碇君……」
ぺろっと親愛以上の感情を示すように、シンジの顔を軽く舐める。
「……どうやら発情期のようだね?」
発情期? そうか、発情期か!?
シンジは降って来た声に合点がいった。
「って待てよ!? 発情期はこの間過ぎたばかりじゃないか!」
「周期が短くなっているのさ……人は一年中、時を選ばずに発情する。違うのかい?」
「綾波、人間に近くなって来てるの!?」
レイをじっと見る。
う、犬耳!?
青い髪の奥から、少し大きめの耳が伏せるように現れていた。
「か、可愛い……」
「それはいいけど、そろそろ気がついてくれてもいいんじゃないのかい?」
二人の頭上で、キツネ様に腰かけていたカヲルは少しいじけた。
綾波、可愛い……。
しかしシンジは完全に二人の世界に入っている。
きゅうんと、甘えるような声が漏れる。
「まあいいさ」
「綾波ぃ!」
ついに我慢の限界に達した。
しかし抱きしめると同時に、ウ────!っと唸り声を上げられる。
「うわ、ごめん!」
総毛立っているレイに、謝りながら身を縮める。
「君に怒っているんじゃないよ」
「え? ってカヲル君、いたの?」
「つれないね、君は……」
カヲルは苦笑しながら、膝の上に頬杖をついた。
「綾波?」
レイは社に向かって唸っている。
「うわ!?」
満月でも無いのに、全身が青い体毛に包まれた。
口が伸び、裂け、牙が尖る。
四本足で立つと、ピンと伸ばした背に続く尻尾が、レイの感情をあらわにしていた。
「ど、どうしたのさ!?」
「第二ラウンドの始まりだよ」
「え!?」
「さあおいで? アダムの分身、そしてリリンのしもべ……」
ドカァン!
社の戸がぶち破られた。
中から出て来たのは二本の触手をうねうねと動かす、プラナリアのような生き物だった。
「なんだあれ!?」
ゆっくりと進み出て来る。
う────!
レイはそれに合わせて、少し下がった。
ピシ!
「鞭?」
触手が一瞬発光し、レイの目前に打ち付けられた。
砂利が少し弾け飛ぶ。
「やめて、やめさせてよ。カヲル君!」
「無理だよ」
「なんで!」
シンジはカヲルを睨み付けた。
「あれが彼の求愛行動だからね? それを僕が止める権利は無いのさ……」
「求愛行動? あれが!?」
ピシッ、ピシッ、ピシッ!
「きゃうんきゃうんきゃうん!」
「綾波!」
駆け出そうとしたシンジの肩を、飛び降りたカヲルがぐっとつかむ。
「離して、離してよ!」
「言ったろう? 求愛行動だってね? それを拒絶できるのはレイ、彼女本人だけなのさ……」
「でも……でも違うじゃないか、そうだよ! どうして違う生き物なのに……」
カヲルはそっと首を振る。
「同じだよ……」
「え?」
「同じさ、アダム因子を持つものにとってはね?」
「そんな!」
愕然としてしまう。
「アダム因子はA・T・F、すなわち『AdamTheoryFactor』を……人を侵食し、形を変えてしまう力を与えてくれる」
「形!?」
「そう、獣の形、人の形、心の形……そして魂の形、因子はアダム、基となる者からイヴ、共に歩む者を作り出すことができるのさ……」
見てごらん? っとカヲルは言う。
「あの鞭、あれこそが彼の生殖器、そのものだよ」
「綾波!」
きゃうん!
レイの体を鞭が打つ。
もふー、もふー。もふー……。
興奮……してるのか?
奇妙な生き物の方が、なにやら紅潮して赤黒く変色している。
破れた制服の内側にも、レイのピンク色の産毛と青い体毛が覗けてしまう。
「ああして彼は彼女に自分の因子を打ち込んでいるのさ……」
「そんな!?」
「やがて彼女は彼と同じ姿になり、心も体もつがいとなる」
きゅうん。きゅうん!
レイの声が、懇願するようなものに変化した。
もふーもふー!
その脅えた瞳に興奮の色を高める怪物。
「もうそろそろのようだね?」
さあ、僕たちも……と続けようとしたが、今度はシンジに逃げられた。
「綾波!」
間に割り込む。
ビシ!
シンジの体を鞭が打った。
「!?」
レイの瞳に正気が戻り、倒れ行くシンジの姿をはっきりと写した。
「碇君!」
「うわああああ!」
だがシンジは倒れなかった。倒れずに両手を組み合わせて前に突き出す。
そこにある赤い玉。
ゴン!
「コアを直撃かい? でもシンジ君、君の力では……む!?」
ビシ!
少なくとも石よりは硬度があっただろう、シンジはそれほどの痛みを感じた。
「割れろー!」
もう一度、今度は右の拳を繰り出した。
バガン!
その玉は砕け散った。
「そうか、そう言う事か、綾波レイ!」
もふー!
化け物が悲鳴を上げる。
同じ姿にたどり着いた。だが彼女はそれでも犬なのか!
シンジにすり寄り、シンジによくじゃれついていた。
「それが君の求愛行為、因子の打ち込みは既に終わっていたと言う事なのか……」
ズン!
化け物が横たわった。
「勝った……のか?」
はぁ、はぁと肩で息をする。
「A・T・Fは人を侵食する力、その気になれば人の命を砕く事もできる……」
その力……ますます僕の連れ合いに相応しいよ。シンジ君。
すっとカヲルは浮き上がり、木々の上へと姿を消した。
「……碇君」
「綾波!」
思わず抱きしめる。
「い、碇くん!?」
「もう大丈夫だから! 恐くないから!」
「碇君……」
頭に回されている腕に手をかける。
少し離れて顔を見合わせる。
レイの顔を手で挟むシンジ。
シンジの頬に冷たく触れる肉球。
ふりふりふりふりふり……。
今日の尻尾は、今の雰囲気を壊さないように、ちょっと控え目に振られていた。
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