砲筒を、あるいは警棒を持った男達が追い立てる。
 獣は走った、野山を走り逃げていた、ただひたすらに人気の無い場所を求めて逃げ惑っていた。
 ──それは黒い獣だった。
 人が入るにはためらう林を逃げても、草木を払い、藪を突き抜け、男達は追ってくる。
 獣は舌を出し、息を切らせながらも、それでも走り……
 やがて『そこ』へと辿り着いた、今にも崩れ落ちそうなその建物は……


 呆然と見上げる一同が居た。
「廃校だ……」「廃校ね……」「廃校やな」「廃校じゃない……」「はーいこーこーはいこーこー♪」
 最後のは違うとして。
「なによこれぇ!」
 喚いたのはアスカであった。
 人気の途絶えた山奥。
 獣道と間違う山道。
 その果てにあった倒壊寸前の木造二階建校舎。
 さり気なく雑草に覆われている校庭兼運動場隅には、蔦の絡まる錆び過ぎた鉄棒なんかがあったりして……
 もう夜だ、こんな場所だから月と星の明かりのみが頼りで、はっきり言って建物は闇の中に溶け込んでいた。
 背筋が寒くなるような静けさの中に佇んでいる。
「なんで廃校なのよ!、相田ぁ!」
 静寂を積極的に打ち壊したのはアスカであった。
「今がゴールデンウィークで、これがキャンプだからだよ」
 何故だかうきうきとリュックを下ろしてエアガンを取り出しているケンスケである。
 シンジは呆れた調子で口にした。
「……それって、キャンプ違いなんじゃ」
「わしもそう思う」
 遠くを見やるシンジとトウジに、悟り過ぎだとアスカはキレた。
「レイ!、マナ!、ヒカリ!、アンタ達もなんとか言ってよ!」
「問題無いわ」
 真っ先に答えたのはレイだった。
「狩りは……、得意だから」
 にやりとして。
 ……後にシンジは述懐している。
「あんなに生き生きとした綾波は初めて見たよ」
 と。


綾犬あやいぬ2ndつーんど
『黒犬げっちゅー』


 ──事の起こりは三年生に進級して、ようやく一段落付いた頃のことだった。
「ごーるでんうぃーくぅ?」
 今日もせっせと自製の弁当と言う嬉しくもなんともないものをつついていたシンジである。
 そんな彼に質問したのはケンスケだった。
「ああ、今年はどうするのかと思ってさ」
「……どうって言われてもなぁ」
 シンジは少し困ってしまった。
 唐突に父と再会した事で経済的な事情からは逃れえる事が出来たのだが、前後して妙な問題を抱えてしまっているからだ。
「アンタばかぁ?、なぁに悩んでんのよ!、そんなのどうするかなんて決まってるじゃない!」
「え?」
「惣流……、割り込んで来るなよ」
 手で押しのけられて迷惑そうに。
「ところで……、何が決まってるんだよ?」
「あん?、シンジの予定はねぇ、もう完全に埋まって決まって決行あるのみなのよ!」
「はぁ?、決行って、何が」
「シンジぃ?」
 にたりと怯える獲物ににじり寄る。
「はいこれがパスポートね?、こっちがチケットで、これが」
「ってなんだよこれ?、ドイツ行き!?」
「そうよ!、親が連れて来いってうるさく……」
「で、ケンスケ!、どこに行こうって?」
「ちょっとこらぁ!」
 相変わらずかとケンスケは呆れた。
「いや……、暇ならキャンプはどうかってさ」
「キャンプ?」
「ああ、トウジはもう了解済みだよ、な?」
「おおふ」
 もふもふと食パンサンドを詰め込んでいる、食パンの間にあるものはその辺の連中から奪ったおかずだった、からあげ、卵焼き、ミートボールと言った定番のおかずから、何やら無気味な『足』、それも『節足』がはみ出していたりする。
「そやけど三食全部カレーは勘弁してや」
「大丈夫、調理部隊長に洞木を誘ったから、な?」
「ほんまか?」
「あ、うん……」
 少し恥じらいつつヒカリは答えた。
「その……、でも勘違いしないでね!、あたしは委員長として、子供達だけでなんて、だから」
「へぇへぇ、わかっとるって」
「わかってないじゃない、馬鹿……」
 何故だかひーひーと背を掻きむしるケンスケとアスカである、シンジはその隙にアスカから逃れた。
「キャンプかぁ、でもなぁ……」
 シンジとしても行きたくはあったが、解決しなければならない難題が一つだけ横たわっていた。
「僕さぁ……、僕……、僕……、僕犬飼ってるんだ、だから」
「預けられないのか?」
「預けるのは……、ちょっとね」
 多大に問題があるだろうし、置いていくのはさらにアレだった、しかし……
「問題無いわ」
「だから割り込んで来るなよ、綾波……」
「そう、問題無いわ」
「だからなにが」
「問題無いわ、だって碇君の犬はわ……」
「わーわーわーわーわー!」
 何か危ういものを感じて邪魔をする、シンジはクスクスと俯き笑うレイに引きつった、それよりも引きつっているのはアスカ以外の面々なのだが。
 こいつは突然何なのかと。
 ──ところで。
 わふわふわふわふわふ。
 箸も使わず弁当箱を両手で持って、一心不乱に食い漁るマナに対して、突っ込む人間はいなかった。


 ──そして現在に至るのである。
「というわけでぇ、先ずは武器の配布と陣地の決定を」
 ゴン!鉄拳制裁
「先ずは寝床の確保よ!、適当な部屋を見付けて清掃!、次に飲料水のチェック!、井戸が無ければ地図で川の位置を確認する!、残りは荷物の点検!、使える物や食料のリストを作成して、ほらさっさとする!」
 ぱんぱんと手を叩いて急かすアスカにシンジは思った。
「アスカ……、まるで鬼軍曹みたいだ」
「角もあるものね」
 レイの言葉にぷっと吹き出す。
「そこ!、何か馬鹿にしたでしょ!」
「し、してないよ」
「ええ、してないわ」
「むぅ〜〜〜、なんかムカついたのよね」
「……良い勘してるよ」
「ほなわしが荷物運ぶわ、空いてる部屋見付けて、適当に置いとくで」
「じゃあヒカリは一緒に行ってそのまま荷物の整理しといてね」
「ええ!?」
「あたしとシンジは校舎の中見て回るから、レイとマナは水場を探して来て」
「ちょっとあたし困るぅ、二人っきりなんて」
「らじゃー!」
 やけに目をきらきらとさせて敬礼するマナ。
 そのままばたばたと『四つ足』で走って行ってしまう。
「……ばか犬」
「僕にはサルに見えるよ」
「否定はしないわ、……あんたはなにやってんのよ?」
 ジーッと校舎を見上げている、そんなレイの視線を追いかけて、シンジは二階の端の窓に行き着いた。
 風雨に晒され汚れていて茶色かった、埃が膜になっている、その上夜という事もあってか、向こう側は見えなかった。
 目を凝らしてみたのだが、やっぱり何も分からない、そんなものだからシンジは目を戻したのだが、レイに注目されていたのに気が付いて動揺した。
「な、なに?」
 レイはクスリと笑ってシンジに言った。
「気になった?」
「さっさと行け!」
 蹴り出すアスカだ。
「ほらヒカリと鈴原も!」
「……だからあたし二人っきりなんて」
 まだ言っている。
「ほなしゃあないなぁ、ケンスケ起こそか、……どこ行ったんや、ケンスケぇ?」
『あ〜〜〜……』
 空の彼方を芥子粒けしつぶのように小さくなったケンスケが回りながら飛んでいく。
 ヒカリのスウィングは今日も絶好調だ、シンジとアスカは唖然として見送ってしまった。
「あ〜あ」
「ケンスケ、帰って来れるかな?」
 そんな馬鹿騒ぎを余所に、レイは再び窓を見上げる。
『……』
 誰も居ないはずの、このような場所、だがその窓の向こうでは、何者かの影が確かに窓に手を触れさせていた。


「しっかしまぁ、ヒカリも物好きよねぇ」
 何が?、とシンジは顔を上げた。
 ここは職員室だったらしい、色々な物が置き捨てられている。
 シンジは机の下を懐中電灯で照らし、何やら拾い上げていた。
「ヒカリも物好きだって言ったのよ、何それ?」
「答案用紙」
「はん?」
「ここ小学校だったみたいだね」
 黄ばんだざらばんしは乾燥し過ぎて割れそうになっていた。
「そんなの捨てなさいよ」
「机の中はさらってあるね、何もないよ」
「あ、そ」
 つまんなぁいと、机の上にひっくり返る。
 向かい合う形で並べられている机は寝そべるにもちょうど良い広さだった、それに冷んやりとしていて気持ちが好い。
「埃で汚れるよ?」
「んなもん気にするだけ無駄だっての」
「そう?」
「そうよ!、まったく、こんなとこじゃ髪も洗えないじゃない」
 それはそうかと納得する。
「大変だね、アスカ髪長いから」
「こんなとこに二日も居るなんて冗談じゃないっての」
 起き上がる。
「あんたも何とか言いなさいよ」
「何とかって何を?」
「ホンッキでこんなとこでサバゲーやって帰るつもりかって言ってんのよ!」
 不機嫌になるアスカに反して、シンジはそう思っていないらしい、彼女の様子に困ってはいるが楽しそうだった。
「ま、良いんじゃないかな?、たまには」
「たまにはってねぇ」
「どうせ家でごろごろしてるだけだったと思うし」
「だからドイツ……」
「そそそ、それに僕、こういうのってあんまり経験なくて」
 アスカはその言い草に、かなり大袈裟な溜め息を吐いた。
「その言い方なんとかなんない?」
「え?」
「ぼく可哀想な子です、みたいなさぁ、昔はともかく、今はアタシが居るでしょう?」
 アスカは髪を掻き上げて、かなり厭らしい笑みを浮かべた。  ちょっと足も広げ気味にする。
「こっち来なさいよ」
「アスカ?」
「いい加減にさ、手くらい付けてくんないと困るのよね」
「困るって何だよ」
 本気で首を傾げるシンジに溜め息を吐く。
「あのねぇ、アンタ、普通二人っきりって言えば想像つくでしょうが」
「それは分かるんだけどさ……」
「だったら!」
「でも僕、そういうのどうしたら良いのかよく分からないし……」
「だからヤルんでしょうが!」
「アスカ下品だよ」
 このっとアスカは拳を固めた。
 どこまで露骨になれば良いのかと。
「とにかくアンタはここに来て!、アタシが教える通りにすればいいのよ!」
 ばんばんと隣を叩き、引きつるシンジの腕を強引に取った。
「わっ!、ちょっとアスカ!」
「こっち来いって言って……」
 ──ガラ!
「おお〜い……、ここかぁ?」
「ひゃあ!」
 拳骨!ストレート
 ──ゴン!
「ああ!?、ケンスケ!」
「相田ぁ!?」
 アスカは叩いてから相手を確認して驚いた。
 轟沈してヒクついているケンスケが居る。
「なんだよぉ、なにすんだよぉ」
 それはもうしくしくと。
 ひび割れた眼鏡が涙に曇っている。
「俺はいらない奴なのかぁ?」
「いらないかどうか知らないけど、邪魔しないでよね!」
「……助かった」
「何か言った!?」
 ギンッと睨まれて首をすくめる。
「ととと、トウジとかどうしてるかなぁって」
「いちゃついてんじゃないのぉ?、どうせさぁ」
「そ、そっかな?」
「ああ〜んスズハラぁ、あたしこわぁい、ってね?」
「……似てない」
「うっさいっ!」
 ぶんっと何かを放る、シンジが見付けた答案だった、空気の抵抗にあってすぐに落ちる。
「そ、それじゃあ僕さ、ちょっと様子見て来るよ、綾波とマナ、もう戻って来る頃だと思うしさ」
 はいはい勝手にしなさいよと、アスカは送り出した、邪魔が入って気が削がれてしまったらしい、そっけない。
 シンジは職員室を出ると、はぁっと溜め息を吐いて肩を落とした。
 しぃんとした空気が耳に痛い、静寂に包まれた時のみに感じる独特の音が聞こえるようだった。
 シンジは背筋に寒気を感じた、背後に誰か居る、そんな錯覚に見舞われて歩き出す、恐る恐る隣の窓を見る、もちろん自分が映っているだけで、おかしなことは何も無かった。
 ──進級にあたって、実は色々とあったのだ。
 学力別クラス編成についての問題などなどと、これは学力別編成は子供達の健全な精神の育成に対してどうとかこうとかともっともらしい苦情があったために、なんとか廃止されるに至っていた。
 そのおかげでみんな仲良くまた同じクラスとなっている、これによって確実に同じクラスになれると思っていた男子が十数名憤死していたが、それは余談だ。
 発表が行われた時の絶望的な絶叫は、聞く者の心臓を止めかねないほどではあったのだが……
「ったく、お子様なんだから」
 シンジを見送ったアスカは、そう一人ごちてヒカリを探す旅に出た。
「どうしてシンジってああなんだろ?、オクテっていうかさ、意気地のない……」
 でも脈はあるのよね、と考える、実際シンジは動揺するし、逃げようともする、なら意識はしているはずなのだ。
「それともあれで普通なのかな?、パパみたいなのも困るけどサ」
 脳裏にパーティーがあるごとに違う女を口説いて回る父のことが思い出された、ハハハハハと余りにもクサい笑い方をする父が何故モテるのか?、実はアスカには分からなかった。
 ただ貴族階級に残されている妙な風習だけは理解していた、女にとって良い男に抱かれたと言う事実は一つのステータスになるのだ。
 そしてそんな女を妻として囲っていると言う事が、夫の格へと繋がっている。
 株が高いと言う事になるのだ、何故か。
 アスカはこれを変なことだと思っていた、ならばその女にとっての最良の男は夫ではないことになる。
 本来、ここでは階級が入るはずだった、下の者は上の者に忠誠を誓わなければならない、だからこそ女には夫よりも格の高い男が存在していることになる。
 そして夫であるはずの者は、主人格の男に妻を抱かれる事を喜ばねばならなかった、妻への寵愛は自分への厚遇に繋がるから、喜んで差し出そうとする。
 だがそう言った封建的な格式は今の時代意味を成さないものとなってしまっていた、既に風習でしかなく、家系や系譜、血筋よりも、株の時代に移行している、意味が無いのだ。
 それにとアスカは考える。
 それでは男に物や道具として扱われているも同じだと。
 自分で独り立ちする甲斐性が無いから、金持ちの男に妻を差し出し、援助を得ようとする、何故そんな情けない男に尽くさねばならないのか?
 それでは売春のための商品と同じではないかと、さらに問題があるのは、女の側にそれを当たり前とする気質が存在していることだった、日本生まれのアスカには、それこそ許容出来ない認識である。
 育ちの過程で刷り込まれた倫理観念故のことなのだろう、だから肯定しているのだ、否定する発想を持っていない、だがアスカのように外から見ると、売春と援助交際の違いなど分からない。
「シンジがどうかってのは分かんないけどさ」
 社会的には弱者で、卑屈で、現在のアパートについても人の援助を受けている身分だ。
 自分が居なければとっくに干上がっているんじゃないか?、そう思える。
 貴族社会にはもう一つ考え方があって、これは人種差別そのものだった。
 優良種同士を掛け合わせるのだ。
 どこでどう間違ったのか、現在では他人種との交配を忌避する方向に傾いている、しかし自分はクォーターだ、この点に関してだけは父を尊敬していた。
 何故なら母を娶るために、過去の歴史を持ち出してまで、周囲を説き伏せていったのだから。
 その昔は旅人に対して、もてなしと称してあるじが妻や娘を訪問者に同衾させることは珍しくは無かった、これは貧しかった時代の風習だ、より強い血、あるいはより良い血筋を家系に取り込むための行いだった。
 これが洗練されて来ると、隣人同士が互いの家に産まれた優れた子を欲するようになった、かなり雑な理屈だったが、これを持ってアスカの父はアスカの母を妻にしたのだ。
 アスカは陰鬱になって来る自分を感じた、何をどう持ち出してもシンジには皆を納得させられるものが欠けている。
 由緒ある家の出というわけではなく、家が金持ちというわけでもない、本人は至って平凡で特出した物は何もない、その性格すら卑屈で臆病。
 これだけ揃っている人間はちょっと珍しいのではないだろうか?
「そんな珍奇さなんていらないっての!」
 一人地団駄を踏む。
 はぁ〜あと溜め息、アスカは肩を落としてうなだれた。
「まだ露骨にタカって来ないだけマシかぁ」
 髪を掻き上げ、なんとか気持ちを上向ける。
 アスカが告白して来る連中を蹴っているのには、そのような理由も存在していた、顔、スタイル、そういったものに惹かれる連中は街灯に群がる蛾と同じだ、華やかであれば何でも好いと、そしてそれが自分の嫌いな大人達に重なって見えてしまっていた、好い女だから手を付けてみたい、そんな言い草があるだろうかと思うのだ。
 だが……、かと言って、人が人を好きになる最初の一歩の大半はそこから始まるものだろうから、それを否定するつもりは無かった、でも自分は許容出来ない、それだけだ。
「……こら!、いま食べちゃダメでしょう!?」
「腹減ったんやぁ、かんにんしてぇなぁ」
 階段を登ってすぐの教室、そこからそんな声が聞こえて来て、アスカはクスリと笑ってしまった。
 人を好きになる時には、説明できない理由がある、そんな気がする。
 それは優しいとか、可愛いとか、やけに漠然としているのだが、自分の中では確固たるものになってしまっているものだろう。
(ヒカリもなぁんで、あんな奴を好きになったんだか)
 怒っている口調が、それでも笑っているように聞こえてしまう、幸せそうだ。
 アスカは人を顔で判断するようになる前に、シンジの頑固な優しさに負けてしまっていた、マナを引き取ったあの件である。
 それがあるから、シンジには一生勝てないだろうなとアスカは思っていた、あの顔を前にするともどかしくなってイライラとして、どうにかしてやりたくなってしまうのだ。
 それは嬉しい悔しさだった、きっとヒカリにも同じようなものがあるんだろうな、そう共感してしまう。
(でも人の恋路って……、見てると邪魔してやりたくなるのよね)
 それはそれ、これはこれを地で行っている。
「ヒカリぃ」
 アスカは舌なめずりをして、二人の空間に割り込んだ。


 場所は校舎の脇にある木の下だった、近くに銅像があるのだが腐蝕が激しくて顔はよくわからない。
 ──そこには土を掘り返しているマナが居た。
 それも踏ん張るように座って、両手で必死に掻いている、正にバカ犬だ、股の間からお尻へと猛烈な勢いで土が噴出している。
 その正面にはレイがしゃがみ込んでいた、マナが掘り返そうとしている物に対して興味があるらしい。
 どんどんどんどん掘り下げていく、とうとうマナは上半身が隠れてしまうくらい掘り返してしまった。
 やって来たのはシンジであった、顔が渋くなっている。
「どうしてアスカってああなんだろ?」
 怖いんだよなと、ぶちぶちと。
 シンジは愚痴りながら、カヲルと話したことを回想していた。
 ──怖いのかい?、人と触れ合うのが。
 ベランダにて柵に腰かけ、べべんとギターをかき鳴らす。
 様になる姿にシンジは憧れた物だった。
「怖くなんか無いさ」
 少し赤くなって反論する。
「でもアスカは怖いかもしれない」
「どうしてなんだい?」
「だって凄く積極的だから」
 困るような事なのかい?、カヲルはそうはにかんだ。
 実際シンジとしてはアスカと言う存在に興味がないわけではなかった、ただ平均的で平凡な中学生として怖じ気づき、尻込みしてしまっているだけだった。
 有り体に言えば引いてしまっていた、それこそ上流階級と下層階級の差なのかもしれない、アスカとシンジでは観念的に恋愛に対するイメージが違っていた。
「臆病なんだね、君は」
「臆病?」
「だってそうだろう?、アスカちゃんは間違いなく君に惚れているんだよ?、だからレイの事、マナの事、なんでも引き下がって君に譲ってくれているんじゃないのかい?」
「そうなの……、かな?」
「そうだよ、良く言うだろう?、惚れてしまった方が負けなのさ」
 相手が好きなら嫌われないように臆病になってしまう面が生まれるものだろう、だからこそ惚れてしまった方が負けという論理が成り立つのだ。
「君は惚れられていると自惚れて良いのだし、もっと強気になって身勝手なことを言っても良いんだよ?、好き勝手に振る舞ってもね」
 惚れたアスカはそれを許すしかないのだから。
「そりゃあやり過ぎれば嫌われるだろうけど」
「でも迷惑はかけたくない……、そうでなくてもこの部屋のことだってお願いしてるのに」
「迷惑だなんて思わないさ、逆に喜ぶんじゃないのかい?」
「どうして?」
「頼ってもらえると嬉しいからさ」
 シンジにはその理屈は分からなかった、今まで迷惑を掛けて喜んでもらえた事など一度も無かったから。
「アスカちゃんの周りは、きっとそんな男の人ばっかりだったんだろうねぇ」
 シンジには首を捻ることしか出来なかった。
(僕には良く分からないよ)
 シンジはマナ達の傍に近くなったので、一度思案を切り上げた、アスカが嫌なのかと言えばそんなことはないし、そういうことに興味が無いのかと言えばそれも嘘だ。
 ならどうして拒んでしまうのか?、理由などどこにも存在しないのだから、答えが出ようはずがない。
 シンジは二人の傍に近くなったので、一度思案を切り上げた、アスカが嫌なのかと言えばそんなことはないし、そういうことに興味が無いのかと言えばそれも嘘だ。
 ならどうして拒んでしまうのか?、理由などどこにも存在しないのだから、答えが出ようはずがない。
「……碇君」
 顔を上げたレイに、シンジはやあと手を上げた。
 それから動きを止めたマナに目をやる。
「マナぁ、何やって……」
 シンジは覗きこもうとしてぎくりとした。
 振り返ったマナが、『何故だか』骨を咥えていたからだ、それも大腿骨らしい骨を。
 穴は這えば人が隠れられるだろう大きさになっていた、その下には白い物が横たわっていた。
 丸くて、大きくて、穴が空いているものが転がっていて……
「うわぁああああああああああああ!」
 シンジの絶叫は、校舎をびりびりと震わせた。


 全員集合。
 シンジはレイに膝を借りてうんうんと唸っていた、マナは相変わらず骨をしゃぶっている。
「やめい!」
 ぱかんと殴ってアスカは骨を取り上げた。
 しゃがんで確認していたケンスケが、ふうんと鼻を鳴らして立ち上がる。
「なるほどね……」
「なんや?」
「やっぱり……」
 トウジの腰にしがみついているヒカリに対して、ケンスケは何でも無いと口にした。
「これ、人体模型だよ、誰だこんなの埋めたのは」
 なんだぁとほっとしたのか、ヒカリは腰を抜かしてへたり込んだ。
「誰かがいたずらしようと思って仕掛けたんだじゃないのかなぁ?」
「ほんっと傍迷惑ねぇ」
 アスカは振り返って校舎を見上げた。
「他にもあると思う?、なんかさ」
「あるかもなぁ、調べた方が良いかもしれないな」
「んな面倒な」
「面倒かもしれないけどさ、明かりが無いんだぜ?、タチの悪い仕掛けだったら怪我するかもしれないじゃないか」
「それなら明るくなってからでも良いじゃない?」
 ぼそっと耳打ちしてやるアスカである。
「……こんな夜中に、なにしようってのよ?」
「ななななな、なに言ってるんだよ、惣流!」
「アヤシイ……」
 ジト目。
「でもま、いっか、どうせ虚しいことになるだけだもんねぇ」
「なんだよそれ……」
「だって、ねぇ〜?」
 ケンスケははっとした、シンジ&レイ、トウジ&ヒカリ、アスカ&マナ、この構図にだ。
「ち」
「ち?」
「ちくしょー!」
「ああっ、ケンスケ!」
 慌てるシンジ、対照的にアスカは落ちついたものだった。
「マナ!」
「わん!」
 三秒後にはマナがお尻に敷いていた。


「だいたいこの面子の中に相田が混ざってるってのが間違ってるのよ!」
「うう、キャンプに誘ったのは俺なのに」
 シンジはそんな二人に首を傾げて、アスカって人を苛める時には生き生きするよなと思っていた。
 一階から順に回って探していった、給食の準備室があった、保健室、トイレ、職員室、理科室、図書室、二階は教室と音楽室、後は片付けられてしまっていて何の部屋だか分からなかった。
 今は一階に戻るところである、理由はトイレがあるからだ。
 先頭を切って歩くアスカが居る、その後ろにうなだれたケンスケが続いて、トウジの腕にヒカリが縋り付いていた。
 一歩ごとに軋む廊下が怖いらしい。
 シンジの両隣はレイとマナが固めていた、レイはいつものように背筋を伸ばして顎を引いている、対してマナは猫背気味になって後ろに手を組んでいた、にやけた顔をして何か無いかなと落ちつかない様子だ。
 二人は対照的に見えたが、シンジには分かっていた、レイもマナ同様に何かを期待していると。
(まあ気持ちは分かるけどね)
 確かにこれだけ何かがありそうな場所なのだ。
 何も無ければ嘘だろう。
 わくわくしてくる。
「でも変ねぇ」
 そう口にしたのはアスカであった。
「ああいうのって良く分かんないんだけどさぁ、薬品とか片付けてくもんなんじゃないのぉ?」
 理科室のアルコールランプの中にはまだアルコールが入っていたし、保健室にも劇薬指定されている薬品が残されたままになっていた。
 何年前の物なのか分からないので、触れずにそのままにしておいたのだが。
「調理室のプロパンも使えるんやろ?、ガスは残っとったし」
「ばっかねぇ、ホースとか腐蝕してたらどうすんのよ?、ドカンなんて冗談じゃない」
「さよか」
「とりあえず今日はどうすんのよ?」
「どうするって……、何が?」
「アンタばかぁ?、ご飯のこともあるし、さっさと寝ちゃうのかとか、そういうこと聞いてんのよ」
 ああ……、と納得するシンジである。
「そういえば、今何時なの?」
「七時……」
「綾波よく分かるね」
「お腹減ったから」
「ああ……、そう」
 何とも言えない。
「着いたわね」
 到着したのはもちろんトイレなのだが……、その雰囲気はズゥンと重いものだった。
 中を照らす、当然ながら真っ暗だ、木のドアが並んでいる、静寂もあって音が筒抜けになりそうだった。
 個室は一段だけ高くなっていた、和式らしい、当然水洗ではない。
「こ、これは……」
 さしものアスカも引きつった。
「匂いは……、大丈夫みたいだけど」
 いわゆる汲み取り式で、もし『ブツ』が放置されたままだとすると、中途半端に『発酵』している可能性もあるのだ。
 その匂いたるや……、想像もしたくないものになっていることだろう、肥溜めと同じことなのだから。
「学校自体が潰れたのが十五年前だって話だから大丈夫だろ」
 ほんとにぃ?、と疑い深くケンスケを見る。
「で……」
「え?」
「いつまでそこに居るのよ」
「あ」
「あっちで待ってろって言ってんのよ!、ほらライト貸して!」
「分かったって!、行こうぜ」
 ケンスケはシンジとトウジの背を押した。
「レイ!、マナ!、見張っといてよね!」
 二人に言いつけてトイレに入る。
「う……」
 アスカは一気に減った人口密度に、必要以上の怯えを抱いた。
 二人とも懐中電灯を手にしているのだが、その光は一方向を照らすだけで、余計に周囲の闇を際立たせるのだ。
「じゃ、じゃあヒカリから先に……」
「ええ!?、あたしからぁ?」
「大丈夫よ!、ちゃんと戸の前に居るから」
「わかった……、ほんとに居てよね?」
「大丈夫だって!」
 多分ねと心の中で付け足してみる。
 ギイッと戸が開かれる、アスカはヒカリの生唾を呑み込む音をはっきりと聞いた。
 ちらりと見て、見るんじゃなかったと後悔する、汲み取り式のトイレの穴は、正に深淵を思わせる。
 本能的な恐怖心を喚起するのだ。
「ヒカリ……」
「なに?」
「手、握っててあげようか?」
 ヒカリはちょっとだけ悩んでしまった、この密室に一人っきりになるの?、そう思うと見栄も飛ぶ……、が、やはりそこはそれ、女の子である。
「やっぱり良い、大丈夫だから」
「そ」
 そっけなく言葉にしたが、アスカは内心見直していた。
(やるじゃない)
 単にいちゃつきたくてトウジにくっついていたのではなくて、本気で怖がっているのだろうと思っていた。
 そのヒカリのやせ我慢だ、微笑ましい。
(強がり言えるんだ)
 一方、ヒカリは早速後悔していた。
(どうしよう)
 後ろ手に戸を閉める、ギィ、バタン、ヒカリは自分で自分を追い込んだ気分に陥ってしまった。
 真上から見下ろすと前後左右、幅二メートル程度しかなかった、便器の上にまたがって立つしかないのだが、真下から吹き上げて来る生暖かい風に、ヒカリは股間に不快感を抱かされてしまった。
 取り敢えず懐中電灯の置き場を探して……、諦めた。
(早くしよ)
 持ったまましてしまおうと、ズボンと一緒にパンツを下げようとする、スカートでなくて良かったと思った、スカートだと下が見えない、これは怖い。
 だがヒカリは失敗してしまった、あまりに場所が狭くて壁で肘を打ってしまったのだ。
「あ!」
 懐中電灯を取り落としてしまう、ガコンと音がした、つい下を向いてしまって後悔を抱く、見たくなかったのにと。
「……ヒカリ?、どうしたの?」
「あ、ううん、大丈夫」
 ヒカリは本当に胸を撫で下ろした、固い音がしたのもその筈で、溜まっていたものはどうやら乾燥してしまっていたらしい、発酵し切って乾き、ひび割れている、その上に落ちた懐中電灯が乗っていた。
 怖く感じるようなものは別になかった。
(……これはこれで良いか)
 戸の上と下の隙間から、アスカの懐中電灯の光が射し込んで来る、頼りないが無いよりマシだと、ヒカリは下着をずり下げようとしてふと気がついた。
(上だけ、明る過ぎない?)
 ヒカリはヒキッと引きつった。
 ぼんやりとした明かり。
 それはてっきりアスカの持つ懐中電灯のものだと思っていたのだが……、個室の上には電灯など無い、なのに、ボウッと光を発している物が、ふいよふいよと浮いていた。
 きいいいいいゃやああああああああああああああ!
 余りにも超音波めいた『音』だったので、悲鳴と気がつくのに少し遅れた。
「洞木さん?」
 シンジの呟きにトウジが駆け出す、遅れてシンジとケンスケも続いた。
「委員長!」
「洞木!」
「洞木さん!」
「来るなバカぁ!」
 がんっと先頭を切って駆け込んだトウジの顎に懐中電灯が直撃した。
 アスカは個室から体半分だけ出しているヒカリを抱き受けていた、何がどうしたのか分からないが、彼女はとても錯乱していた、お尻が丸見えなのも気にしないで、アスカを押し倒すようにして縋り付いていた。
「ヒカリ、しっかりして、ヒカリぃ!」
「上っ、上ぇ!」
「上?、上ってなによ……」
 見上げるが、何も無い。
「何なのよ?」
「お化けぇえええええ!」
 ますますアスカは首を傾げる、と、どこに居たのかレイがやって来た、見ればトウジとケンスケとシンジは、マナの手と口によって首根っこを掴まれ、引きずり出されていくところだった。
 レイはトイレの中を覗いて、ふんふんと匂いを嗅いで顔をしかめた。
「なによ……、なんかあるの?」
 レイはもったいぶって体を真っ直ぐに戻し、アスカの目を見て口にした。
「おしっこくさい」
「まだしてません!」
 反射的に立ち上がるヒカリであったが。
「ああ……」
「ヒカリぃ!」
 腰が抜けてしまったのか、大声を出した事による貧血なのか、とにかくヒカリはへたり込んで、そのままふらりと倒れたのだった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。