暗い部屋にベッドが一つだけ設えられている。
 そこに眠っているのはシンジだった。そのベッドの横に、こっそりと動く人影が見える。
 彼の寝顔をのぞき見ようというのか、忍び寄っているのはマナだった。
 こみ上げてくるものにニッとする。実際に見ると少年はうなされていた。それもしかたのないことなのだろうなと、彼女は優しい気持ちで汗に張り付いている前髪を払ってやろうと手を伸ばした。
「アスカ……」
 寝苦しげな寝言に、ピクリとその手を止めてしまう。
「アスカ……アスカ」
 暗い夢……。
 闇の向こうに、彼女の背。
 乱れている髪──肩越しに見える彼女の、顔。
 ──仮面。
 髪が風に抜けて舞い散っていく。体がむくみ、大きくなる。
 のぞき見るように覆い被さってくる巨体──使徒。
 ──うなされる。
 使徒。
 あるいは、アスカ。
 使徒と、アスカ。
(アスカ……)
 シンジは泣きそうになりながら、彼女に訊ねた。
(どこにも、いないの?)
 頭上を覆う巨大な仮面。
 その黒くうつろな瞳に、答えはなかった。

ASUKA / 第一章

 巨大な重機が瓦礫の撤去作業を行っている。
 戦闘が終結してようやく半日が経ったばかりである。街に残された傷跡はあまりにも生々しく、また痛々しかった。
 爆心地は立ち入り禁止のロープによって区切られている。その中にミサトとリツコの姿はあった。
「まっさかねぇ……いきなり乗ってくれるとは思ってなかったわぁ」
 ミサトである。
 テントの下に、調査班の人間が忙しく働いている。彼女もまた防護服を着て現地調査に赴いていた。
 暑いとばかりに上半身をはだけ、アンダーシャツのみとなって、やや筋肉質な胸をさらしている。
「で、データは取れたの?」
「そこそこにはね……」
「元気ないわね……どうしたの?」
 いつものように白衣姿のリツコである。
「取れすぎたというのがね」
「はん?」
「実起動状態のエヴァがあれほど凄まじいものだとは思ってなかったから」
「度肝を抜かれた?」
「そんなところね」
 ミサトもそうねと同意した。しかし一方では、これで勝ち目が出てきたなと考えてもいる。
 兵器の性能が高ければ高いほど良いのは当たり前のことだからだ。
「で、これからも乗ってくれると思う?」
「司令の交渉次第でしょうけど……」
 リツコの言葉に、ミサトは顔をしかめた。
「脅し……の間違いなんじゃないの?」
 リツコはコメントをあえて控えた。


 ──松代。
 シンジの父、碇ゲンドウは、これからの対策を協議するために、国連の施設へと出張していた。
「ネルフの運用についてはともかく、エヴァンゲリオン初号機。期待以上だね」
「おかげで国連内部でも、ネルフ必要論が急速に高まっているよ」
 闇の中に数人の男女の姿が浮かび上がっていた。
「国連軍もあれに対しては相当の部隊を投入したからね」
「そのほとんどは全滅ですが……」
「必要なプロセスというやつだよ。使徒の驚異を現実に知らしめるためにはね」
「まあ、酷い」
 ころころと婦人が笑う。
「それよりも」
 仏頂面の男がゲンドウへと訊ねた。
「周知の事実となってしまった使徒と対使徒兵器の存在。事実のいくつかは公開せねばならないと考えるが」
「当然です」
 受け答えるゲンドウ。
「もちろん真実のすべてを公開する必要はないでしょう。現在はシナリオB−22を展開中です」
「後は?」
「小出しにしていくべきかと……」
「修正予算の都合もあるか」
「先行投資が無駄にならなかったというだけでも、な」
 それは早計だと声が挙がる。
「役に立たなければ同じことだよ」
「使徒の爆発規模があの程度で済んだことも、運がよかったのレベルだろう。これからのことはわからん」
「いずれにせよ、セカンドインパクトの悲劇をくり返すわけにはいかない」
「戦力の増強は必要だな」
「予算の追加は認めよう。後は委員会の仕事だ」
「では碇司令。ごくろうだったな」
 ゲンドウ以外の者の姿が順に消える。
 そして窓を閉ざしていたシャッターが開かれる。差し込む日。ホログラフによる議事会議場であったのだ、この部屋は。
 ゲンドウはややあって立ちあがると、窓の外に目をやった。
 戦闘機が次々と着陸し、その並びを整えるため移動している。
 本格的な対使徒シフトに移行しようとしているのだ。各国からの増援が到着しているのである。
 彼はその様子を眺めているようであったが……瞳には何も映してはいなかった。


「いい? 説明したようにまだ武器らしい武器ができていないの」
「準備悪いんですね」
 ──十一時間前。
 発令所。
 リツコはメインモニタに映る少年の言葉に、ひくりとこめかみを引きつらせた。
「……こちらとしては、初期訓練から入ってもらおうと思って呼び出しただけだったのよ。なのにあなたが発ってから、使徒発見の報が届いて、まったく……。ごめんなさい、時間が無いの。その辺りのことは後で言い訳させてもらうから。シンクロスタート」
「はい、シンクロスタートします」
 各オペレーターが、順次報告を行っていく。
「A10神経接続開始」
「オールナーブリンク終了」
「双方向回線開きます」
「絶対境界線突破」
「オールクリア、問題ありません」
 こんなにあっさりとと、誰しもが驚きをあらわにする。
「シンクロ率は?」
「五十前後でふらついてます。安定しません」
「未調整だもの……こんなものでしょうね、許容範囲内よ」
「行けるのね?」
「なんとか」
「じゃあシンジ君」
「はい」
「死なないでね」
 ──もうちょっと言い方ってものが。
 モニタの中のシンジがそんな顔をする。そしてつられたように、発令所のオペレーターたちまでもが同じ顔をした。
「エヴァ初号機、発進!」


「そういえば、さ」
 ミサトである。
 巨大な輸送用トラックの運転席でごそごそとしている。着替えているのだ。
 リツコはその外にいた。自分の背丈ほどもあるタイヤに背を預けてたばこをふかしている。
「マナ……あの子、シンジ君が気に入ったみたいね」
 リツコはふぅっと紫煙を吹いた。
「マナも無茶してくれたわ、あの子の護衛もなにしてたんだか」
「マナちゃんのファンクラブも同然なのにねぇ」
「まったく」
 くすくすという笑い声がリツコをくすぐる。
「リツコだって本当は心配してるくせにぃ」
「…………」
「戦自からマナが移ってきたとき、一番あの子に同情的だったのってあんたじゃない。あの子がなにをされてきたのか調べ上げて、MAGIまで使って告発して、戦自と日本政府を追い込んで」
「……そんな良いものじゃないわ。あの子を使って、戦自に負い目を作って、こちらの立場を有利にしておこうと思っただけよ」
「またまたぁ」
「でも実際……、あの子では実験にも限度があるもの。手術は成功したけど、ストレスのかかり具合を常に監視しないといけないし」
「長時間のテストも、トレーニングもだめ、だもんねぇ……」
「でもシンジ君が協力的なら、開発を一気に進められるわ」
「…………」
「どうしたの?」
「間に合うかな、って思っただけよ」
「間に合うんじゃない?」
「……あんたにしては、楽観的ね?」
「あの初号機の姿を見たでしょう?」
「そうね……」
「あの子ならその時間を稼ぎ出してくれるわ。きっとね」

Bパート

「シンジ君、死なないでね」
 ──夢。
 送り出す者が吐く言葉ではないと憤る。
(不安を煽ってどうしようって言うんだよ?)
 その苛立ちが如実にシンクロへの不信に繋がる。
 以前の感覚、記憶が素晴らしく蘇る。最終戦、襲来した量産型エヴァンゲリオンとの対決のために飛び出そうとした自分。
 結局、戦うことは無かったが、それでも今の感覚は、あの時の一体感に比べて、甚だ心許ないものだった。
 空さえも飛べる強大な力。あの時の発露に比べて、今の初号機のなんと存在感の希薄なことか。
 何十分の一。いや、何千、何万分の一でも足りないかもしれない。
 それほどまでに感覚が違う。質さえも違って感じる。
(それともこんなものだったのかな?)
 記憶の中で誇張してしまっていたのかもしれない。
 対して正面には使徒が居る。強い。以前は読むことのできなかった気配が、今は『肌』で感じられる。
 自己修復の現れなのか、胴部に顔が二つある。シンジは、すっかりやる気になって、敵を見定めている自分に気づき、顔をしかめた。
「行っけぇ!」
 駆け出すイメージ。
 連動してエヴァンゲリオンと名付けられた、巨大な人造人間が大地を蹴った。
 爆発。街の中心部に火の手が上がり、それは捻り上がって十字の形を作り上げた。
 シンジは爆発に臆することなく、初号機を使徒の胸元へと飛び込ませていた。脇に拳を引き固め、凄まじい速度でコアへと打ち出す。
 ゴガンと確かな手応えが……粉砕する音とともに伝わった。それと重なり、ぐしゃりと異音が耳に触った。それはエヴァの拳が壊れ、指がひしゃげた音だった。
 いや、ひしゃげたのは指だけではなかった。あまりにも強過ぎる自身の力に、エヴァの右手首は衝撃に堪え切れずに折れていた。
 腕もだ。骨折したのか尖った二本の白い骨が、装甲皮膚を突き破って飛び出してしまった。
 フィードバックに顔をしかめる。だが油断はしない。
 ゆっくりと使徒から身を離していくと、赤い玉、急所を砕かれた使徒が、仰向けになって倒れていった。
 ──爆発。
 シンジは戦闘を、たったそれだけの交錯をもって終了させた。
 そしてそのあまりにもあっけない幕切れに、誰もが傍観者のままで終わらされてしまったのだった。


 暗くて広い、寒々しさが漂う部屋。
 だがシンジが感じているものは、無気味さではなく懐かしさだった。
「よくやったな、シンジ」
 ぼんやりとしていて、危うく聞き逃すところであった。
「え?」
「なんだ」
「あ、いや……、ごめん」
 取り敢えず謝っておく。
「誉めてもらえるなんて……思ってなかったから」
「ふん」
 男は尊大に振る舞った。
 それがシンジの父、碇ゲンドウという男であった。
「……お前には、今後もパイロットして働いてもらう」
 シンジはまあそういうことになるんだろうなと思っていたので、はぁっと気の無い返事の仕方をしてしまったのだった。
「不服か?」
「そうじゃないけど」
 あたふたとして振る舞う。
「今後って、いつまでなの?」
「使徒が来る限りだ」
「えっと……、学校とかは」
「転校の手続きは終わっている」
「家は? 父さんと一緒?」
「いや、別に用意する」
(スゴイや、会話してるよ)
 シンジはじ〜んと感動を覚えた。
 そんなシンジの心情に気付いているのか、脇に控えていた老人の域に達しつつある男が口を開いた。
 冬月コウゾウ副司令である。
「後のことは、霧島君にお願いしてあるから、彼女に訊いて、今日の所はゆっくりとして欲しい」
「はぁ……。霧島さんって、あの子ですよね? エヴァンゲリオンに乗ろうとした」
「そうだよ」
 ピンと奇妙なアラームが鳴る。
「ああ、来たようだね」
 背後の大きな扉が開く。きびきびとした動作で入って来たのは、マナだった。
 右手を額にかざして、見事な敬礼をビシリと決める。
「セカンドチルドレン、霧島マナ。出頭いたしました!」
 そんな態度に苦笑をこぼすコウゾウである。
「その癖は抜けんようだね」
「あ、すみません……」
 えへへとマナは、ちろっと小さく舌を出した。
「軍隊じゃないってわかってるんですけど……」
「まあ、かまわんさ」
 コウゾウは改めて本題に入った。
「本日付けで、彼、碇シンジ君は、正式にサードチルドレンとして就任することになった。当面は君の管理下に入る。よろしく頼むよ」
「はい! わかりました」
 再度敬礼を決めてから、マナはシンジへと顔を向けた。
「よろしくね」
 差し出された手を、シンジは迷うようにぎこちなく握り返した。
「よろしく……」


 ──発令所。
「で、こっちが日向さん」
 マナの紹介に、一人一人挨拶を交わしていく。
「こっちが青葉シゲルさんに、伊吹マヤさん」
「よろしくな」
「よろしく☆」
 どうもと会釈して退出したシンジに、三人は暗いなぁと声を合わせた。
「イメージが違うな、ちょっと」
「そう?」
「昨日の初号機のイメージがダブるんだよなぁ……シゲルは?」
「同じだな。暗いってのは、やっぱりあれかな? 納得してないのかな?」
「できないだろうな……そりゃあ」
「いきなり呼び寄せられて、いきなり戦わされて、その上これからも、だもんね……」
「すべて既定のことだもんな」
「納得してもらうしかないんだけどな」


「で、こっちの方に休憩室があって、こっちがパイロットルーム」
 もう随分長く歩いてるんだけどと、シンジは元気なマナに呆れていた。
「で、ここで質問。さっきの角を戻った十字路の右手にはなにがあったでしょう?」
「……作戦室」
「…………」
「なに?」
「道覚えるの得意?」
「まあね」
 つまんないなぁとふくれるマナに、どうしろっていうんだよと少し機嫌を悪くする。
(知ってるものを知らない振りするだけでも大変なんだよ)
 もちろん、そんなことは口にはできない。
「あたしなんて発令所へ行けるようになるだけでも一週間もかかったのに。まあ今じゃもう迷うなんてことはないんだけど、半年近くになるしね」
「半年?」
「うん。戦自にいたんだけど、エヴァの適性試験に合格したって通知が来てね、転属になったの」
「へぇ……」
「でもって、やっとエヴァを起動させることに成功して、これ以上はってことになって、先に体を治そうって赤木博士に説得されて……」
「…………」
「手術を受けたんだけど、まさか退院許可が出る前に使徒が来るなんて……。ごめんね?」
「え?」
「嫌いにならないでね?」
「なんでさ?」
「だって……」
 マナは悔しそうに唇をかんだ。
「あたしが……。あたしがやらなきゃいけなかったのに、肝心な時に」
「泣かないでよ……」
「ごめんね……ほんとにごめんね? シンジ君に恐いことやらせて」
「もういいから……」
「ほんとに……、どこに行っても役立たずで、足手まといで……」
(いきなり泣き出されてもなぁ……)
 人目が気になるなぁと思いながらも、シンジは彼女を軽く抱いて、その背をあやすようになでつけてしまっていた。
 アスカにも、よくこうしてあげたっけ。そんなことを思いながら。


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