(霧島マナ……か)
その姿に、彼女を重ねる。
(綾波……)
気になってしまうのは、地下の実験場のことだった。
異様な水槽、異常な裸体の少女たち。
(ここでもなにかやってるのかな? 父さん……、リツコさんも)
あるいはやはり、いるのかもしれない。
彼女が。
──あの感じ……、そうなのか? 母さん。
昔、埒もあかないことを考えていた自分が居た。
少し顎を引いて、妬むような、それでいてどこか諦めているようなものを匂わせる目をしていた、青い髪の少女。
そして一人悶々として、少女に安らぎを求めていた自分がいた。
しかしその問題も、色々とあって、落ち着いて考えられるようになっていた。
(『あれから』は、もうそれどころじゃなかったもんな……)
昔のことをなんて思い出す余裕すら失って……。
振り返っている暇などどこにもなくって。
『彼女』のことで手一杯で……精一杯で。
振り返れるようになったときには、もう心の整理がついていた。
(でもここには居ないかもしれないな。父さん……リツコさんも。ずっとまともな感じがするし)
『あんたなにこんな時に、あいつのことなんて思い出してるのよ!』
組み伏せたはずの彼女からのきつい逆襲にたじろいだことがあった。
じっとりと濡れた肌、汗に張り付いた髪、荒い息。
そして上気した頬。
重みに負けて潰れている胸に、股間がたぎって収まらなかった。
そんな扇情的な姿をさらしていながらも、彼女は決して自分に溺れてはくれなかった……。それどころか、溺れさせられて。
──瞼を開く。
シンジは天井に手のひらをかざして、目の焦点を合わせた。
「あんまり痛くなかったな、手……」
にぎにぎと遊ぶ。
まだ拳から腕の半ばにかけて、しびれが残っている。
「……そうだね、急ぐことはないさ。ここがなんなのか。僕がなんでいるのか。それがわかるまでは」
『またね! シンジ君』
その無防備過ぎるあけすけな態度に、どうしても溜め息がこぼれてしまう。
自分の気持ちはぐらついている。
シンジはようやく、それを認めた。
●
「今日はみなさんに転校生を紹介します。さ、入って来て」
シンジは教壇に立つと、ざっとクラスの顔ぶれを確認するように首を巡らせた。
小さく手を振っているのはマナだ。それと、好奇の視線を送ってくるかつての知り合い。
「碇シンジです」
「知ってまぁす!」
「霧島さんとはどういうご関係ですかぁ?」
嫌な感じの失笑に、シンジは眉間に皺を寄せた。
マナを見れば、もうっと頬を膨らませていた。散々にからかわれた後なのだろう、頬が赤く染まっている。
(さっそく噂になっちゃったってわけだ)
まあそれについては仕方ないかと、シンジはもはや癖となってしまった溜め息をこぼした。
(やっぱり、一人で来れば良かったな……)
学校まで案内すると、半ば強引に引っ張り出されてしまったのだ。
同じマンションの隣の部屋に放り込まれてしまったという事情もあった。
「では、碇君はその窓際の席に……」
大きくなる一方の騒がしさに、担任である彼も諦めたのか、さっさと座ってくれと促した。
シンジは素直に席に向かった、周囲の全てを一切無視して。
席に着く。
「よろしくね」
隣の子からの挨拶に会釈を返す。
「端末の使い方教えてあげよっか?」
「いい、覚えて来たから」
「そう」
少しだけ残念そうな顔。その子はさらに向こう側に居る友達らしい子に脇をつつかれ、くすくすと笑われ、赤くなって否定を始めた。
「あんなのがタイプ?」
「違うって!」
「マナに睨まれちゃうよぉ?」
(つまんないことで興味を持たれてもな……)
シンジはラップトップタイプの端末機を開くと、校内ネットとの接続設定を開始した。
無線であるため、特に機械をいじる必要はない。いくつかの設定を確認し、名前とパスワードを入力するだけで終了できた。
これに触れていたのは大昔のことだというのに、意外と覚えているものだなとシンジは感動した。
──だが、それだけだった。
暫く機能を漁っていたものの、すぐに飽きが来てしまった。元々授業用の端末機である。それほど多彩な機能が搭載されているわけではない。
ぼんやりと頬杖を突いて窓の外を眺めると、クゥッとお腹が音を立てた。
顔をしかめる。
(捨てることはなかったかな……)
彼は夕べの子供染みた八つ当たりのことを思い出し、軽い自己嫌悪に陥った。
「どうしたの? シンジ君」
車の中。話しかけられ、シンジはぼんやりとしながら、別にと返した。
しかしそれで解放するミサトではない。
「マナのこと?」
「…………」
「ごめんねぇ。あの子、戦自じゃかなり酷い扱いされてたみたいでね……。優しくされるのになれてないのよ。だからちょっとしたことにも感激しちゃって、どうお返しすればいいのかわからない、なんてね? 図々しく、ありがとうですましちゃうことができないみたいなのよね」
『ご、ごめんね? あたしこれから検査なんだ。明日もいろいろと案内してあげるから、じゃあ!』
人を作戦部長に預けて去ってしまった。
なにを浮かれているのか、何度も振り返っては、にやけようとする口元を必死に引き締めて見せていた。
「ファーストチルドレンって……」
「ん?」
「いるんですよね?」
「ドイツに行ってるわ。エヴァの武器開発のために、零号機と一緒にね」
「零号機?」
「そ」
ミサトは車を停めて、着いたわとサイドブレーキを引いた。
──マンションは、懐かしいコンフォートマンションではなかった。
どこにでもあるような、ワンルームタイプのマンションだった。だがそうでないのは正面ホールにあるこれ見よがしなカメラからもはっきりとわかる。
昔の知識を動員してざっと探れば、次から次へと偽装されているものが見つかった。
ホールからエレベーターを使って五階、最上階へと移動する。
「マナの部屋、隣だから」
「え……」
「それからこれ、お祝い。ご苦労さま」
「なんです?」
「たこ焼き。おいしいわよぉ?」
わかりましたと受け取ったシンジに、ミサトは表情を引き締めて口にした。
「シンジ君……」
「はい?」
「これだけは言っとくわ……。あなたは人に誉められる、立派なことをしたのよ。自信を持ってね」
──ちくしょう!
どの口がそれを言うのか? シンジは爆発しそうになるのをなんとか堪えた。
「ありがとうございます」
作り笑い。わかるのか? ミサトが一瞬何かを言おうとする。
結局は……告げなかったが。
「じゃ」
去っていくミサト。その背を見送り、見えなくなってから、シンジはくそ! っと部屋の中にビニール袋を投げ込んだ。
奥の部屋のカーペットに散らばる。
それでも苛立ちは収まらず、シンジは廊下外側の壁を下から殴りつけた。壁の下に去っていくミサトの車が見えた。
「なんだよ、もう!」
懐かしさに囚われた自分? それとも大事にしまい込んでいたものをかき乱された苛立ち?
シンジにはそれがどちらから来たものなのか、判別することなどできなかった。
──放課後を迎える。
シンジは鞄を手にすると、そのままごく自然に教室を出た。
不思議なことに、それに気をとめたものは居なかった。あまりにもシンジの纏う雰囲気が、周囲に馴染んでしまっていたからかもしれない。
転校生特有の緊張感などみじんも感じさせずに行動している。最初から居たかのように自然体で振る舞うシンジに、誰も違和感を感じてなどいなかった。
だがそれだけに、『彼女』も少々慌ててしまったようだった。
「シンジ君!」
シンジは校門のところで、彼女に追いつかれ、振り返った。
「霧島さん?」
何故か怒っているようだった。
荒く息を吐いている彼女に首を傾げる。
「なに?」
「もう! どうして帰っちゃうのよ!」
「え?」
「ネルフ! 今日も案内して上げるって言ったじゃない」
「ああ……」
ごめんと上っ面だけでシンジは謝った。
「忘れた」
「忘れてたって……」
「色々あったから……」
「大丈夫なの?」
「まだ少し眠い……ごめん」
ううんとマナは慌てたように謝った。
「ごめんね。でもシンジ君を連れて来るようにって、リツコさんにも頼まれてるから」
「……赤木さんに?」
「うん」
「そう……」
じゃあとシンジは口にした。
「案内はまた今度で良いよ。赤木さんのところには一人で行くから」
「ええ!? でも」
「他に用事、ないんでしょ?」
あたふたとして。
「でも、迷ったりしたら大変じゃない? ネルフって結構広いし、まだ赤木先生の部屋って教えてないよね?」
わかるんだけどなと言えない自分が疎ましい。
「誰かに訊くよ」
「うん……。でも」
シンジは食い下がろうとするマナに苛立ち、一つ訊ねた。
「ねぇ」
「え?」
「どうしてそんなにしつこいの?」
「しつこいって……」
「ごめん……わからないんだ。どうしてかまおうとするのか」
「それは……」
赤い顔をして、彼女は必死になってごまかした。
「そう! ほ、ほらあたしっ、シンジ君のこと頼まれたから」
「頼まれたから?」
「シンジ君のお父さんに! 命令されたし」
「そっか……命令、ね」
「あ……」
結局、気まずくなってしまう。
「それじゃ……」
行ってしまう。
マナはしばし迷ったが、やはり離れがたいのか? 捨てられそうな子犬のように、とぼとぼとシンジの後を追って歩き始めた。
──ネルフ本部。
その地下実験施設。
強化ガラスの向こうにはプールがあり、そこには三本のエントリープラグが固定されている。
テスト用のプラグである。
シンクロテスト──それも模擬体と呼ばれる胴体だけしかない人造人間の出来損ないとの同調実験。これは信号の伝達具合を計り、脳波コントロールの精度を上げるためのサンプリングテストであった。
「マナと上手くいってないみたいね」
シンジに話しかけているのはミサトであった。
戦闘中にはどのようなストレスが懸かるかわからないのだから、集中し、精神統一が計れている状態での測定よりも、このような雑然としている形の方が良いのではないかとのリツコの判断から、ミサトには雑談の許可が与えられていた。
『苦手なんですよ……女の子って』
「そう?」
『もてませんでしたから』
あ〜っとミサトは頭を掻いた。
「そ……っか」
『はい。あと、僕なんかにかまったって、なんにも面白いことなんてないのに、どうしてかまおうとするのかなって、理由がわからなくって』
「考え過ぎなんじゃないの?」
『そうでしょうか?』
「まあ、あの子も色々とあるからねぇ」
面白がっているのが露骨にわかる。
「あの子ね、夢のような学園生活ってやつにあこがれてんのよ。少年兵として徴兵される前は、施設で引きこもってたって感じだったからね」
『はぁ……』
「そこに現れた男の子! それも自分に代わって戦ってくれた……となれば、少しは期待したって当然でしょう?」
ミサトと小さな叱責が洩らされたが、ミサトは無視した。
「わかってるんじゃないの? 本当は」
それが変に意識させるなと叱り付けるリツコへの答えでもあった。
そしてシンジはそれを認めた。
『そうかもしれませんね』
「それがわかってて、それでも避けるの?」
おやっとミサトは思った。シンジが狼狽しなかったからだ。
それどころか、口元に自嘲めいた笑みを浮かべている。
『浮かれて、いい気になって、後で勘違いだったって気づかされることになった。そんな経験、ありませんか?』
「……勘違いされると、後で面倒なことになるからって思ってるの?」
『……興味ありませんから』
「間違いなくマナは、シンジ君に惹かれてる。それでも?」
『迷惑なんです』
「…………」
『でも、今の内なら、失望されるだけで済むじゃないですか。でも、下手に放っておいたら、勝手に気持ちをふくらませて、裏切られたとかって言い出すんだろうし』
「あなたは誰を、憎んでるの?」
『……いいじゃないですか、そんなの』
「そう……暗い子ね」
これはさすがに、マイクに拾われないように呟いたミサトであった。
Bパート
「よっと……あれ?」
マナは最近空いていた席が埋まっているのを見て、転校したんじゃなかったんだと話しかけた。
「相田君」
「霧島……」
「まだ居たんだ」
彼──相田ケンスケは、あんまりな言いぐさじゃないかと唇をとがらせた。
「なんだよ、それ」
「疎開したんだって、思ってたから……」
クラスを見渡す。
まだ寂しい……と言えるほどには減ってはいないが、確実に朝の喧噪はトーンを落としつつあった。
人口密度も薄くなってきている。
「まさか。パパはおじいちゃんのとこに行った方が良いって言うんだけどな」
「行かないの?」
「なんでだよ! 入間や小松だけじゃなくて、三沢や九州の部隊まで出動したんだろ? 見たかったなぁ……」
「…………」
「なぁ、霧島が出たのか? この間のやつ」
「ううん……」
「どうしたんだよ?」
「出られなかったの……。調子、悪くて」
「そっか……」
おなかを撫でる仕草に、ケンスケは今感じてはいけない類の劣情を抱きかけて、顔を背けた。
「でも、パパから話を聞いたんだけど、エヴァ、出たんだろ?」
「うん」
「じゃあ誰が乗ったんだ?」
「えっと……」
目配せのつもりはなかった。
だがちらりと横目に見てしまった。
「あいつが?」
「え!? それほんとなの!?」
きゃーっと、聞き耳を立てていた女の子たちが寄ってくる。
その勢いに押されたのか、うんとマナが頷いてしまったときに、彼が……鈴原トウジが姿を見せた。
「なんの騒ぎなんや?」
──ネルフ本部。作戦部第一課事務局。
「はい。なんだリツコか」
内線電話を取ったミサトは、親友だとわかって力を抜いた。
「なんか用?」
電話の向こうで、リツコは苦笑した。
「なにかとはご挨拶ね。まあ事務手続きの連絡なんだけど」
「だったらメールで……」
「何万通行ってるの? そっち……いつまで経っても処理してくれないじゃない」
「う……、で、なんなの?」
「今日のシンクロ試験の確認よ」
「ああ……。ほんとに大丈夫なのぉ?」
「なにが?」
「いや……ほら、マナしか知らないからなんとも言えないんだけどさ、シンクロテストってこんなに連続してやってても問題ないの?」
「ちゃんと彼のストレス値は検査済みよ」
「検査ねぇ……」
「マナに比べればずっと低いわ。それこそ、こんな異常な環境に慣れてるような感じさえあるわね」
「異常かぁ……見た? シンジ君の」
「学校での監視記録?」
「ええ」
「妙だとは思うわ。自分の立場を考えれば、身構える、周囲の反応を意識して待ち受けてしまう、そんなところが出るはずなのに」
「完全無視でしょう? まるで意識してる雰囲気がないのよねぇ……」
「だからと言って、それが彼のスタイルでないという保証もないでしょう?」
「まあ無理してるんでなきゃいいんだけどさ……」
──大丈夫や……すぐに終わる。
かたかたとふるえる少女を抱きしめて、少年はシェルターの隅に小さく身を寄せ合っていた。
「おとんとおじんが作っとるロボットが、すぐに退治してくれる。だから大丈夫や」
「ほんと?」
涙目を上げ、すがるように女の子は問いかけた。
「ほんまや!」
ニッと笑って、少年はより強く少女を抱きしめた。
「お兄ちゃん」
──激震。
つんざく悲鳴。ひび割れ崩れ落ちる天井。
瓦礫の積み重なる轟音。
「……う?」
頭から血を流しながら顔を上げる。
「どこや……」
ぼやけた視界に、妹を捜す。
そして彼は上を見て、シェルターの天井に隙間ができているのを発見する。
(なんや……)
そこに、紫色の鬼が見えた。
(なんや……あれは)
がくりと倒れる。うめきと悲鳴。少年は意識を遠くする。
ちぎれた手、足。
そして染み出す血。
辺りは地獄の有様だった。
──バキ。
殴り飛ばされる音。
殴った少年を、慌てた男子生徒たちが押さえつけた。
「よせって、トウジ!」
「はなさんかい!」
暴れて、拘束を振り払う。
「チョーシ乗ってるんやないで! オノレのせいでワシの妹は入院しとんのや!」
「マジかよ……」
「せや! こいつのせいや! オマエが無茶苦茶暴れたせいで、みんな天井の下敷きになったんや! どないしてくれるんや!」
「落ちつけって、トウジ!」
ケンスケが間に入る。
「鷹巣山の爆心地見たろ!? こいつが戦ってくれなきゃ、俺たちだって!」
「そんなん、知るかい!」
──パン!
頬を張り飛ばされ、少年──鈴原トウジはよろめいた。
「き、霧島……」
彼をぶったのはマナだった。
「オノレ、なにすんねん!」
マナは手首を掴まれて、トウジと近い距離で睨み合った。
「鈴原君こそ、なんなのよ!」
「オマエは黙ってぇ!」
「碇君が戦ってくれなければ、みんな死んでたのに!」
「関係あるかい!」
マナはぐぐっと腕を引き戻そうとしたが、解放すまいとするトウジの力に阻まれた。
「……碇君が戦ってくれなかったら、あたしがみんなを殺してたのよ!」
奇妙な綱引きになる。邪魔は横から叫ばれた。
「鈴原!」
「ちぃ!」
女子の非難する声に、舌打ちして手を振り放す。
「ええかっ、これだけは言うとく! 今度やる時はよお足元見て戦えや!」
「碇君……」
急ぎ抱き起こしたマナは、聞いてはいけない台詞を耳にしてしまった。
「こんなんじゃ……嫌いにもなるし、面倒だよ……もう」
シミュレーションテスト。マナの数値が落ち込んでいる。
「実験項目三の八。フェイズ2へと移行します」
マヤの声を聞きながら、リツコはマナから聞かされた話をミサトに相談として持ち掛けていた。
「どう? あの子、本気だと思う?」
「さあ……」
ミサトも知らず、顔つきが険しいものになっていた。
さすがに無視できない話だったからだ。
「でもねぇ……わからなくもないわね。いきなりエヴァなんてものに乗せられて、いきなり戦わされて、それをそのまま義務づけられて……。それで何かを守るとか使命だとか、そんなの実感できるはずがないからね」
「それはネルフ全体にも言えることね。司令と副司令、それにあなたくらいのものだったでしょう? 本当の意味で使徒に備えようとしていたのは」
リツコはミサトの表情を盗み見た。
「司令と副司令は資料から、あなたはその目で使徒を直接見たんだものね」
「そうね……」
瞼を塞げば思い出せる。
南極、極寒の地で、吹き荒れるブリザードの向こうに見えた、白色の巨人の姿を。
その時のミサトはまだ子供だった。この組織に入ったのも、あれがなんだったのかを知るためだった。
そして恐怖を知るが故に邁進し、その結果が今の地位へと繋がっている。
本当なら真っ先に逃げ出したいのだ。あの恐ろしさを知っているから。
ミサトは吐き捨てるように口にした。
「誰も彼もがみんなサラリーマン気分で、酷いものだったものね」
「かろうじてセカンドインパクトの原因だと言う説明が、危機意識を繋ぎ止めていた程度だったもの」
「でも現実に使徒は再来したわ」
「おかげでだらだらとしていた武器の開発が、ここに来て急に動き始めたわ。これでもう嫌味を言われなくて済むわね」
「嫌味って?」
「シンジ君によ」
「ああ……」
初回戦の用意の悪さを指摘された時のことを思い浮かべる。
「そうね……」
リツコはこの際だとばかりに、気がかりになっていたことをミサトに告げた。
「ミサト」
「ん?」
「シンジ君なんだけどね……。こんな実験よりも、勉強させた方が良いんじゃない?」
「勉強って?」
「使徒がなんなのか、ネルフがどうして設立されたのか。大雑把な説明をしただけで、きちんとした経緯は伝えてないでしょう?」
そういやそうねと同意しかけて、ミサトははたと思い出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ。教えようにもデータが欲しいからって、実験をごり押ししてんのはそっちじゃない!」
「そうなんだけどね……」
リツコは手元のファイルを捲ってペン尻で頭を書いた。
「どうにも理解できないことがあってね」
「なによ……、気になる言い方して」
嫌な間の取り方をする。
「ほら、この間、使徒を倒した後のことを覚えてる? シンジ君、右手を押さえてたじゃない」
「フィードバックにやられた奴ね」
「ええ……痛みを感じてるみたいだった」
「それが?」
「おかしくない? ほんの少し腕を持ち上げて、肘を曲げて見せることもできないほどの激痛を感じていたのに、少しも取り乱してなかった」
顔をしかめる。
「そう言えば、そうね……」
エントリープラグから出て来たシンジは、髪からコクピットを満たしていた液体を滴らせ、右腕を庇うように押さえて、初号機の上にあるボックスを見ていた。
そこは出撃前に、父親が居た場所だった。
「何かあるんじゃないかと思ったんだけど……」
「シンジ君に? エヴァに?」
肩をすくめる。
「エヴァに秘密なんてないわ。クラスメートに殴り飛ばされても、まるで堪えてないみたいだから、そっちで慣れてるのかもしれないけど」
嫌な想像が脳裏を過る。
(虐めとかか……)
他には考えられないのだが……。それにしては体つきが悪いのだ。
よく殴られていたのなら、それなりに肉付きが固くなっているはずなのだ。
なのに、怪我の痕の一つもない。
「あの子の過去については調べたはずなんだけどな……」
結局、そうこぼすしかない。
「学校から提出された資料を調べたって意味なんてないでしょ? 責任問題にならないように、真実は削られ事実が捏造されてる文章から何が読み取れるの?」
「そうね……」
「まあ守るものが無いどころか、さっきの話しみたいに嫌気が差すことが起こるんじゃ、自覚を促すどころじゃないでしょうけど」
ふとリツコは顔を上げた。
「マナちゃん、かわいそうですね……」
マヤの言葉が静かに打つ。
「どう付き合うか? 今は刺激しないでおこうと思ってたのに……か。まあもともとシンジ君に付き合うつもりなんてなかったんだから、これもとっかかりだと思うのが前向きでしょうね」
──そんなやり取りがあってから、これで一週間が過ぎていた。
ゆさゆさと揺すられて薄目を開く。するとそこには霧島マナの顔があった。
場所は寝室ではない、リビングだ。
シンジは寝言のように、なに? と漏らした。
「遅刻しちゃうよ?」
シンジが眠っていたのはソファーであった。
力尽きたように、倒れ込んで寝てしまったらしい。
「良いよ。先に行って……」
「今日もさぼるの?」
「行ったって仕方ないじゃないか」
「でもみんな心配してるから……」
シンジはもそもそと起きあがることにした。
「わかったよ……」
マナは露骨にほっとした表情を見せ、次には明るく笑って声を出した。
「パン、焼くから! シャワー浴びた方が良いよ?」
着ている物は、昨日の制服。鼻に付く匂いは、LCL。
血の匂い。
しかし嗅覚が死んでいるのか、シンジは自分の酷い匂いには気が付いてはいなかった。
登校する二人。
シンジは空を見上げていた。
(昔は曇ってたんだよな……)
赤い世界の、暗い空。
それでもいつしか、晴れ間が見えた。
薄くなった雲の狭間から、一条の光が差し込んだのだ。
シンジは思っていた。アスカに笑顔が戻るに連れて、空が晴れてきているようだと。
それがただの思い込みにすぎないのだとしても、シンジはそう信じていたし……。
(アスカ)
実際にその光は、喜ぶアスカを照らすものだった。
「ねぇ、シンジぃ……。起きてよ、シンジぃ……」
ぐしゅぐしゅと鼻をすする音が聞こえる。
「お願いよぉ……。一人は嫌、嫌なの……。こんなところに一人にしないで」
「……アスカ?」
「シンジ!」
がばっと覆い被さって、少女はシンジの首元でしゃくりあげた。
「ごめ、ごめんなさい、ごめんシンジ!」
「アスカ……」
「お願いだから一人にしないで。お願いだからあたしを見て!」
喧嘩別れして、ほんの十メートルほど離れていた。そのたった二・三十分の間に、一体彼女がなにを思い、底なしの不安に陥ったのか? わかるはずのないことであった。
彼女の背をぽんぽんと叩いた。
これが先程、鬼のような形相をして、人を罵ってくれた少女だとは思えず、溜め息を吐いた。
大丈夫だよ。そう伝えようとすると、即座に唇を奪われた。
その強引過ぎる行為からは、とても快感など得られなかった。当然、感情も芽生えない。
抱けない。
唾液にぬるぬるとするだけの唇は気持ちが悪く、無心に差し込まれる舌は愛撫ではなく、蹂躪しようとしているようだと感じられた。
ただ、気持ちが悪かった。
それだけだった。
……それでもこの少女は、このような方法でしか、求めるものを確かめられない。シンジはそれに気が付いていたから、熱の篭った息を吐き、目がとろんとさせる彼女の願いを受け入れていた。
「ねぇ、シンジぃ」
「なに?」
「キスをして……」
「うん……」
顔を近づけて来る彼女に合わせて首を持ち上げる。
軽く触れるだけにして顔を離すと、彼女の瞳は不安に揺れていた。
「……なんで」
「え?」
「どうして?」
「…………」
「なんでやめるのよ」
「なんでって……」
「ねぇ!」
どんと胸を打ったのは、彼女の震える拳であった。
「いっつもそうじゃない! 酷いことしてもっ、甘えてもなんにもしてくれない! なにもしようとしてくれない! 怒りもしない、殴りもしない! キスもしないし、えっちなこともしようとしない! なんで!? 本当はあたしのことなんて好きじゃないんでしょ!? そうなんでしょ!」
──あんたなんて嫌いっ、大ッ嫌い!
いつものようにくり返す。
癇癪はいつも安定せず、どんなことからも不安材料を見つけだしては、爆発する。
「あたしだけを見ない! いっつも違うこと考えてる……。ねぇ? あたしの全部を上げるから、あたしの体、上げるからっ、だからあたしを見て! あたしだけを見て!!」
「アスカ……」
「ねぇどうして? それだけじゃだめなの? あたし他に上げられるものなんて何にも無いのにぃ……」
「いらないよ、そんなの……」
「シンジぃ……」
「そんなのいらない。大丈夫だよ、アスカ。アスカの側に居るから」
「嘘……」
「嘘って……」
「だってそんなの嘘じゃない」
彼女の瞳が据わり始める。
それが状態の切り替わる予兆だった。
「シンジ、あたしをオカズにしてシテたんでしょう? あたしのエッチなとこ、いっぱい想像してたんでしょう?」
「…………」
「なのになんでよ! 本物のあたしより、想像のあたしの方が良いっての!? 思い通りになるあたしの方が良いんでしょ!? 違うならどうしてあたしを好きなようにしないのよ! なんであたしを好きなようにしてくれないのよ! そのくせどうして……優しくなんて……しようとして」
怒っているのに、涙を流している。
アスカは激情のあまり泣いていた。
「本当はあたしのことなんて理解ってないくせに……。本当はあたしのことなんてどうだって良いくせにっ」
シンジはぎゅっと目を閉じると叫び返した。
「理解るわけないよ!」
その罵声は、アスカにひっと、小さな悲鳴を上げさせるほどのものだった。
「し、シンジ?」
「だってアスカは何も話してくれないじゃないかっ、聞いたらいつもごまかすじゃないか!」
アスカの肘を手で掴む。
「それなのに理解れとか好きになれとか、そんなの無理だよ! できるわけないよ!」
表情が強ばる。絶望にアスカの声は酷く震えた。
「い……、いや……、シンジ、いや」
「でも!」
ぐっと顔を近づけ、そのまま起き上がる。立場は逆転した。今度はシンジが押し倒す番だった。
「でも嫌なんだよ! 泣かれるのは!」
怯えてぎゅっと目を閉じているアスカに対して、シンジは容赦なく自分の思いを叩きつける。
「泣いてるのも怒ってるのも、全部嫌なんだよ! だから笑ってもらおうと思って努力してるんじゃないか! それだけじゃだめなのかよ!」
「シンジ、許して……」
「僕の気持ちなんて関係無いだろ!?」
アスカはぽたぽたと降って来るものに瞼を開いた。
「シンジ?」
驚く。
それは彼が泣いていたから。
「僕の気持ちなんてどうだって良いじゃないか! 僕はただ……、泣かれるのが嫌なだけなんだ。何か欲しいわけじゃないんだよ……どうしてそれじゃ」
「でも」
「僕の気持ちなんてどうだって好いんだよ!」
びくんとすくむアスカにさらに怒鳴る。
「何も話そうとしないくせに、何があったか教えてくれないくせにっ、勝手に機嫌悪くなって、勝手に怒り出して! 勝手に拗ねてっ、そんなのに着いていけるわけないじゃないか!」
「シンジ」
「でも」
ぐっとこらえるようにしてシンジは言った。
「でもそれでも、笑ってて欲しいから、そうしてくれてる方が嬉しいから、楽しいから……、だから」
──笑っててよ。
二人の間に、奇妙な空気が流れてしまった。
「ごめん……」
体を退かせる。
「でもアスカだって、僕のこと何も知らないじゃないか。知ろうともしてくれないじゃないか」
アスカははっとしたようだった。
「僕のことなんて興味ないんでしょ? 怖いんだよ、もういらないって言われるのが」
海を見つめる。
「僕はもう、期待するのはやめたんだ」
そんな泣き言をどう取ったのか……
(あれからアスカは、変わってくれたんだよな)
授業が始まって、クラスは露骨にほっとした空気に包まれていた。
皆シンジにどう接して良いのかわからなかったからだ。睨みつけている鈴原トウジのこともある。
だがそんな中、当のシンジはぼんやりと校庭を眺めていた。
(カード……返してもらおうかな)
マナに部屋のキーカードを渡した誰かが居る。想像はついていた。ミサトだろう。
こうも無遠慮に上がり込まれては落ち着かない。居留守も使えないのでは本当に留守にするしかないのだが、それもシンクロテストの後とあってはどうにもできない。
神経接合はやけに負担をかけてくれる。疲れが芯にまで残るのだ。
どうにも帰り着くのがやっとで、泥のように眠ってしまう。
……かと言って、本部で眠ることはできなかった。ミサトに馴れ馴れしく振る舞う機会を与えてしまうからだ。
半同棲生活とからかってくれる相手である。車で送る、そのようなことを口にされるよりはと、半ば諦めていたのだが……。
(どっちもどっちなんだよな、これじゃあ)
ミサトとの会話という面倒が減る分だけまだマシだ……。そう思っていたのだが。
黒板を見る。マナの席が前にあったなら、彼女の姿を眺めることもできたのだが、シンジは仕方なく、数字の羅列をぼんやりと眺めた。
(アスカ……)
『嫌い嫌い嫌いっ、大ッ嫌い!』
今の自分を見たなら、どう喚くだろうかと思ってしまった。
頻繁に過去を振り返る自分に対して、彼女は嫉妬して、爆発してくれた。
本気で怒った彼女は、まさに手が付けられなかった。殴る蹴るでは飽きたらず、首を絞めてくるどころか、ナイフを持ち出すことすらもしばしばだった。
波間でつかみ合って、海に沈められ、窒息死させられかけたこともあったなと思い返す。
(情緒不安定って……ああいうことを言うんだよな)
意識を失い、次に気が付くと、必ず彼女の泣き顔があるのだ。
ごめん、ごめんなさいと、滂沱のごとく涙を流して、謝る彼女がそこに居る。
暴れ狂っていた姿など無くして、彼女はひたすら怯えていた。
(支えるつもりなんてなかったけど、一緒に居ると、大人になるしかなかったんだよな……)
どうして良いのかわからず、わかるためには失敗をくり返して傷つけるしかなく、おろおろと情けない姿を晒すしかなかった。
何度も彼女を傷つけて、泣く彼女の、どうしてこうしてくれないのか、ああしてくれないのかという理不尽な要求を心にとどめて、『次から』はと、心を決めて行くしかなかった。
シンジはしばし、『あの頃』の記憶を掘り起こし、浸ってしまった。
懐かしい、アスカの笑顔を思い出し……。
(シンジ君……)
そしてマナは、そんなシンジの様子を盗み見ていた。
(懐かしそうに……)
一人で居るときにだけ、彼は笑う。
とても幸せそうに、そして少しだけ寂しげに、彼は微笑む。
(なにがそんなに……、悲しいの?)
一つの疑問。
「アスカって……誰?」
マナは携帯電話の着信音に、我に返った。
「使徒?」
そして警報が、鳴り響いた。
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