エントリープラグの中に収まって、シンジは状況を聞いていた。
『以上のように、前回の戦闘からの復旧作業さえ間に合っていないのが現状よ。支援能力は十パーセントを切っているわ』
「数字で言われてもわからないんですけど……」
『そうね、ならこれはどう? 新型の武器がギリギリ間に合ったわ』
 開かれたウィンドウに目を細める。
「パレットガン?」
『要はマシンガンよ。シンジ君、この手のゲームは?』
 銃を構える仕草に眉を顰める。
「やったことはありますけど……」
『結構、調子は同じだから』
「そんな適当な」
『訓練してる時間的余裕がなかったのよ、なにせ一週間じゃね……』
 それもそうかと諦める。
(どうせ、効かないんだよな)
 シンジは無意識の内に、ミサトの出すわよという確認に対して、頷いてしまっていた。


 ──ライフルを構え、エヴァ初号機は引き金を弾いた。
「バカ! 爆煙で敵が見えない!」
 弾着の煙が使徒の姿を隠してしまう。
「くぅ!」
 ミサトの焦りを尻目にシンジは動いていた。
 目で見ればわかるような当たり前のことをなぞるだけの作戦部長に見切りを付けて、独自の判断で行動する。
 煙が発光する鞭によって切り裂かれた。強襲の名に相応しく、使徒が操る鞭はビルも地面もパレットガンも、全てを一瞬にして寸断してくれた。
「初号機は!?」
 宙を踊っているのは、パレットガンの残骸のみだった。
「居ました、使徒の後方、50!」
「一瞬で!?」
「どうやって背後に回り込んだの!?」
「直線や円軌道ならともかく、ビルを避けながらどうやって!?」
「この!」
 シンジは使徒が振り向く前にと、初号機で特攻をかけた。
「上手い!」
 肩からぶつかり、使徒の背中を押し、シンジは街の外へと追い出そうとした。
 幾つもの障害物──ビルが、二体に衝突されて砕け散る。
 震動に揺れる景色が、灰色の街から、自然の緑に変化した。シンジは向かう先に山を見つけて、そこを決着の場として選択をした。
「そのまま押し付けて! 接近戦なら鞭は怖くないわっ、ナイフを!」
(だからそのつもりだって!)
「だぁあああああ!」
 先端の速度はどうであれ、近づけば鞭など恐くはない。
 動きも勢いも小さなものだ。
 それを見越してのことだったのだが……。
 山肌に使徒と共に衝突する。反動に解放してしまいそうになったのだが、それはレバーを握り込むことによって必死に堪えた。
「くっ!」
 素早く使徒をひっくり返して、とどめを刺そうと肩のナイフに手をかける。
 シンジはそこで目を見張り、完全に動きを止めてしまった。
「どうしたの!?」
 ウィンドウが開く。
「シンジ君のクラスメート!?」
 二体のすぐ傍に姿があった。
 抱き合うようにして、震えてしゃがみ込んでいた。
「コアを潰して早く!」
 しかしシンジにはできなかった、嫌な記憶が蘇ったからだ。
 ──殲滅に伴う爆発の記憶が。
 十字の火柱のことが脳裏を過った。
「シンジ君!」
 はっとする間もなく弾き飛ばされていた。空を舞って街に落ちる。倒壊したビルの瓦礫がクッションの役割を果たしてくれたが、それでもエヴァンゲリオンの総重量を受け止めるには、あまりにも厚みが薄過ぎた。
 エマージェンシーコールが響き渡る。
「どうしたの!」
「LCLの浄化ユニットに破損発生!」
「シンジ君の様子は!?」
「脳震頭を起こしてます!」
「呼び掛けて! 使徒は!?」
「体勢を立て直そうとしています!」
 ゆっくりと起き上がり、体を回して、初号機へと体制を整えようとしている。
 その間、使徒の真下に居た二人は、へたり込んだままだった。
 鈴原トウジと相田ケンスケ、あの二人である。
「くっ……」
 ミサトは歯噛みした。迷ったシンジに、そしてこっちの必死さをまるで理解していない二人に対して、腹を立てた。
 つい先程まで勝ちムードだったのだ、それが一瞬でひっくり返されてしまっている。
 ミサトは聞いていた、初号機が落ちた時の嫌な音を。
 首の後ろ、背中の部分には、コクピットとそれに付随する幾つもの機器がある。あれはそれらが下敷きになって、壊れたに違いない音であった。
(エヴァは期待できないかもしれない)
 ここまでか、と諦める。
「弾幕張って、少しでも時間を稼いで」
「は? しかしあの子たちは……」
「いま初号機を失えば、後は本部の自爆しか無いわ。二人と西関東の半分。どっちが良い?」
 オペレーターの青年はごくりと喉を鳴らした。ミサトの表情に決意を見たからである。
「はっ、はっしゃ!」
 彼は裏返った声を発してボタンを押した。
 ビルが開き、ミサイルが発射される。使徒にぶつかり、破裂する。
『わぁあああああ!』
 少年たち二人は、頭上で炸裂した閃光と爆音に、頭を抱えた。
 運が好いのか、悪いのか? 使徒の張ったATフィールドと呼ばれるバリアが、少年達を庇う形となっている。
 少年たちが逃げ出して行く。シェルターに戻るつもりなのだろう。
「保安部に連絡、あの二人を拘束して」
「はい」
「初号機は」
「パイロットが再シンクロを行っています」
「再シンクロ?」
「脳震頭のせいで初期フィックスからずれが発生したようです、現在修正中」
 はてととミサトは首を傾げた。
「なんでシンジ君にそんな処理ができるのよ」
「謎ね」
 難しい顔で同意したのはリツコであった。
「シンジ君には何かあるのかもしれないわ。わたしたちの想像もつかない何かが」
「司令の仕込みで?」
「さあ? それは……」
 小声で交わされる会話。しかしシンジには、そこまで気を配っているゆとりは無かった。


「早く、早く、早く!」
 焦れば焦るほど脳波は乱れる。乱れはシンクロに必要な周波数の設定を遅らせる。
 同期を取るためには、基準となる平均値が必要なのだ。そのラインから上下の変動幅を割り出し、調整をする。
 ガン! 外部からの震動が来た。
 ガン! 機体が叩かれている。一瞬浮き上がるのが浮遊感でわかる。
(くそっ、このままじゃ)
 死ぬ。
 いっそのこと、それも良いか? 諦めかけたその時に、突如として『彼』の言葉が蘇ってきた。
 ──魂さえ無ければ同化できるさ。
「なんでこんな時に?」
 ──アンタばかぁ!?
 少女の言葉も思い出される。
『勘ってもんはね! あんたがこれまでにして来た経験とか体験とか、そういうもんから導き出されてる結論に過ぎないのよ! つまりはあんたが考えたり悩んだりして来たことの集大成なの! だからあんたはあたしが今どう思ってるかって思ったら、それを疑ったりしないでよ!』
「そうか!」
 ──この弐号機の魂は今は自ら閉じこもっているからね。
(母さんはまだ起きてない、初号機は空も同然だ。だったら!)
 瞼を閉じて、集中する。
『結局シンクロって、『素』のエヴァンゲリオンに取り込まれた人間の遺伝子情報がキーだったのよね』
 それは寝物語にアスカが口にしたことだった。
『使徒の体は、光のようなものが人間の遺伝子情報に酷似した配列で並んでできあがっているのよ。初号機が使徒の肉を食べることでS機関を搭載できたのも、実はあんたやあたしのママを取り込んだのと同じ理屈のことだったのよね。光のようなものだけに、元々変化しやすい素材だったのよ。ママたちの情報に汚染された素体は、あたしたちを構成してる遺伝子情報と同じ構成を持っていた。この誤認識がキーね。初号機はさらに使徒を食って、S機関の情報をも加味した。そうして特殊な遺伝子情報を持った機体に変化した』
『よくわかんないんだけど……』
『ん〜〜〜、シンクロってのはね、エヴァと一体化して行くってことじゃなかったのよ。むしろその逆。エヴァに対して心を開いて、エヴァからの浸食を、怖がらずに受け入れてやれるかどうか? そういうものだったってことよ』
『浸食?』
『そうよ。エヴァは常に、あたしたちに触れようとして手を伸ばしていたのよ。でもあたしたちみたいな人間は、心や体に触れられるのは、どうしたって抵抗感があって、駄目だったでしょう? けど、ママたちを介して繋がりのあるアタシたちでないと、シンクロはできなかった。皮肉なものよね』
『つまり、僕たちがエヴァに繋がろうとしなくても、エヴァはいつも、僕たちと同化しようとしてたってこと?』
『そうね。それに抵抗し切れなくなると、アタシたちは汚染と呼ばれるものにさらされることになっていた』
『だからか……』
『もっとも、あたしがそれに気がついたのは、最後の最後の時だったわ。あたしの心に入り込もうとしてたのは、ママだったんだって感じてね。だからあたしは……』
 微妙な笑みが口元に浮かぶ。
(こんなところで役に立つなんてね)
 感謝する。
(僕の中の母さんの遺伝子の何割かは死んでる、劣勢遺伝子って奴になってる。その上半分は父さんの遺伝子だから、どうしたってシステムとしてのシンクロには限界がある)
 繋がらないのだ、百パーセントは。
 一際大きな激震が来た、ビシリとプラグ内壁に亀裂が走る。
「がっ!」
 右手に傷みが走った。外では使徒が初号機の右手を鞭で貫いていた。
 さらに上腕部にまで巻き付けて、引きずり巨体を持ち上げようとしている。左の鞭は胴部に回して。
 ──ちくしょう!
 その瞬間、シンジは何かが繋がったのを感じた、それは。
(『お前』だって、許せないだろう!?)
 何かが脳天を貫いた。悪寒が走る。全周囲から視線を感じる。
 エヴァに乗るということは、これをいかに怖がらないかということだった。そしてシンクロ率を上げるためには、この視線を、受け入れていくということだった。
 抵抗しないことが、鍵だった。
 しかし……嫌だった。他人の視線、気配など、居心地が悪いだけのものであったから、あらがっていた。
 慣れだけが、それを失わせてくれていた。
 シンジは今、自発的に声を荒げた。同意を求めた。
 協調を求めた。
 その瞬間、何かが大挙して押し寄せて来た。シンジはもみくちゃにされるのを感じてしまった。
 不意に体が浮き上がる。何かとてつもない奔流の中に投げ出される。
 シンジは見た。光の海に流れる黒い星を。そして星の向こうで吼える巨大な獣を。
 大きな(あぎと)が押し迫る。自分を噛み砕こうと凶悪な牙が迫り来る。
 邪悪な口腔に呑み込まれ、シンジは消滅に伴う開放感に満たされた。
 それでも四散することは許されず……次に瞼を開いた時には、シンジの目は、初号機の瞳になっていた。
 心も体も、初号機の魔素によって犯されていた。


 これで終わりだと、使徒の頭部に光が円を描いて収束していく。
 つり下げられている初号機の顔面に、至近距離から光線を叩きつけようというのだろう。発令所の人間は、誰もしが絶望の目を持って結末を待った。だが、不意にあらがった初号機の右手が、使徒の頭部を掴んで横を向かせた。
「間に合った!?」
 それでも光線は放たれた。光は初号機の右手を炭化させ、左手のビルを爆発させた。
 のけぞる初号機。
「変です! シンクロ率測定不能、断線したままです!」
「なんですって?」
 半狂乱になってキーを叩いていた。
「シンクロは切れたままなのに……ハーモニクスだけが上がってく、止められません!」
「まさかっ、ありえないわ!?」
「でも本当なんです! もう九十八を越えてます!」
 瓦礫を踏みしめて立った初号機の顎が、がくんと外れた。
「額部ジョイント破損!」
 次いでぐんと上半身を起こす。
「ATフィールド展開!」
 左手で体に巻き付いている鞭を掴み、使徒をたぐり寄せる。
「出力測定限界を超え……」
 閃光。
「モニター、切り替えて!」
 光に焼きついたメインモニターの画像が、遠方に設置されている観測所からの映像へと切り替えられた。
「あ……」
 金色の粒子が帯となって立ち上っていた。
 それは密度を増して柱となり、次によじれをほどいて左右に別れた。
 ──屹立する一対のタワー。
 それは巨大な翼であった。
「ミサト!?」
 がたんとした音に、リツコは焦った。
「いや、いやよっ、そんな、いやぁ!」
「ミサトっ、しっかりして、ミサト!」
「いやぁ!」
 差し伸べられた手を振り払い、頭を抱えてがくがくと怯える。
 完全に正気を失い、震えている。
(そうなの?)
 リツコはその様子からあたりを付けて、蒼白になってモニターへと目を戻した。
 かつて聞いた話。四つの柱、巨大な翼。
 ミサトがなにを連想したのか? リツコは正確に洞察していた。
 ──ガァ!
 咆哮──地を蹴り、駆け出す。あまりにも初速が高すぎたのか? 光の翼はその場に捨て置かれる形となった。
 使徒が残された鞭を振るう。炭化している右手で払いのける初号機。そして接触。
 左手で顔面を鷲づかみにして、初号機は地に叩きつけた。ジオフロントの天井をなしているのはただのコンクリートではない。エヴァが歩行できるよう、ショックアブソーバーを内蔵している装甲版なのだが、それが放射状に陥没した。
 ドコンと震動が発令所にも伝わる。
 使徒の頭部は一瞬で破裂していた。周囲のビルが傾く。嫌な音が聞こえた。軋む音、戦闘体形に移行していたビルが、ゆっくりと沈み出していた。加速して地の底へと沈んでいく、落ちていく。消えていく。
 ビルは地上から地下、ジオフロントの天井部分にぶら下がる形で収納されるようになっている。そのロックが壊れたのか、ビルは一気に下降して、そのまま奈落の底へと墜落した。
「落ちて来ます! 直撃コース!」
 避難警報も、何もかもが間に合わなかった。
「きゃあああああああ!」
 激震に悲鳴が上げられる。椅子に、机にしがみつく。
 本部ピラミッドの強度でも、落下速度を加えたビルの直撃には堪えられなかった。頭頂部がへこむように陥没し、崩壊した。
 落ちて来る天井に、壁に、瓦礫に、本部ピラミッド上層階で待機していた多くの職員が押し潰された。
 ひしゃげたビルは、斜面を滑り落ち、勢いそのまま、森の木々を薙ぎ倒して、ようやく止まった。
「被害報告を!」
「エヴァは!」
「使徒を……喰ってる」
 マヤの報告に、リツコはなんですってと驚いた。
 ぐちゃり、ぐちゃりと拳で叩き潰し、挽き肉にし、手に付いたものを舐めるように拭い取り、嚥下えんかしている。
 ごくりとその度に喉が動く。べろんと太い舌で拳に付着したものをぬぐい取っている。うげっと吐き気を堪える声が耳に障った。マヤだった。
 やがて初号機は、体が膨れるのに引きずられて体を起こした。ドンと爆発。背中側の装甲が弾け飛んだ。
 先程よりもさらに禍々しい、赤い翼が吹き出した。
 ──グォオオオオオ!
 体を大きくのけぞらせ、空に向かって咆哮を上げる。
 初号機を中心に、赤黒い旋風が巻き起こった。
 暴風の中に姿が隠れて見えなくなる。だのにぎらぎらとした瞳と、禍々しく光る口だけははっきりと確認できた。できてしまった。
「…………」
 発令所の面々は、各所から入って来る悲鳴に近い救助を求める声にも答えず、その光景に魅入られて、思考を停止してしまっていた。
 誰もがそこから先に、思考を進めることができなくなってしまっていた。

Bパート


 ──波の音を聴きながら、寄り添って眠るのが習慣になっていた。
「ねぇ、シンジ……」
「なにさ?」
 少女はなにを思いついたのか、とても面白そうに笑っていた。
「アンタを殺して、あたしも死ぬって言ったら、どうする?」
 彼女は本当に、そのアイディアをとても魅力的な思い付きだとでも考えているようだった。
 ごろんと腹這いになって、体を起こす。彼女はくすくすと続けて笑いながら理由を告げた。
「そうすれば、さ……。あんたをあたしだけのものにできるじゃない?」
 シンジはそんな少女の発案に対して、それはどうかなと指摘した。
「……それで良いの?」
「え?」
「だってそれは、現実の僕はアスカの期待を裏切ったりして嫌だから、だから期待通りの僕で終わらせてしまえば、理想の姿を理想のままに胸の内に秘められる……ってことなんでしょう?」
「うん」
「でもね、本当に、それで良いの?」
「きゃっ」
「こういう温もりは、もう無くなるんだよ?」
「…………」
「僕は……、そんなに頼りない?」
 アスカは小さくかぶりを振った。
「僕は、少しは良くなった?」
 今度は小さく、アスカは頷く。
「でしょ?」
 シンジは、アスカの髪を、優しく梳いた。
「どう? 僕はこれからももっと良くなって行くんだよ? もっと甘えられるようになるかもしれないんだよ? アスカは後悔しない? 今で十分?」
 顔を上げさせ、シンジはアスカの額に口付けを送った。
「ね?」
「…………」
「もったいなくない?」
 少女は頬を赤くすると、ぽすんと少年の首元に顔を埋めた。
「アスカ?」
 少女はズルいと口にした。
「なんかズルい……。すっごくズルい、ズル過ぎシンジ」
 なにがとシンジが訊ねると、彼女は不満気に呟いた。
「あんたばっかり大人になってく」
「しっかりして来たって言ってよ」
「ズルい……」
 鼻をシンジの耳の裏に擦り付けて、少女は甘えた息を吹きかけた。
「ちょっと生意気……」
「…………」
「でもちょっとカッコイイ」
 少年はそんな彼女に苦笑を浮かべた。
 上手く言葉を返せなかった。
 きっと彼女は望んでいたのに。
(ありがとう……。僕はそう言うべきだったのかもしれない)
 今はもう居ない。失われてしまった彼女に対して、胸を傷める。
 夢だとわかっているから、ついつい批評してしまう。
(アスカ……)
 その名前一つに、思いの丈の全てを込める。
(僕はたくさん傷つけた……。その度にああするべきだったのかな、こうするべきだったのかなってくり返して、悩んでさ。そうしてちょっとずつマシな人間になって)
 だからと彼の意識は不満を言う。
(アスカを看取った時、これで終わりなんだなって、正直思ったんだよ? 今ならわかるよ、あの時のアスカの気持ち……)
 ──アンタを殺して、あたしも死ぬって言ったら、どうする?
(僕は死ぬ寸前まで、アスカとの想い出ばかりを振り返っていたんだよ? なのになんだよ)
 不安が世界を澱ませる。
(これはどういうことなの? これはアスカの仕業なの? だとしたらどうしてなんだよ。アスカは僕の気持ち、わかってくれたんじゃなかったの? ねぇ……)
 夢の世界が崩れ出す。
(恐いんだ。僕の勘違いだったの? こんなのヤだよ)
 笑顔も、はしゃぐ姿も。
(僕が知ってるアスカの姿って、嘘だったの?)
 泣きそうになる。
(本当のアスカを、見せてくれてたんじゃなかったの?)
 そして人の気配がして……。
(信じられなくなって行くよ……)
 シンジは、現実の世界へと回帰した。


 ──バン!
 叩かれた机は、反動でわずかに足を浮き上がらせた。
「あんたたちね」
 ミサトの前には、二人の少年が萎縮していた。
「自分らがなにやったか……、わかってんの?」
 ミサトの声は震えていた。それも当然のことだった。恐怖心がまだ抜けず、強ばりが体を支配していた。
 そして恐怖のきっかけを作ったのがこの二人なのだ。強ばりは怒りへと転化されていた。
「み、見てみたかったんです……。その」
 そんなミサトに油を注いだのは、あの二人の片割れ、相田ケンスケであった。
「見てみたかった、ですって?」
 彼らを連行して来た黒服の二人が、ほぼ同時に呆れ返って身を引いた。本来取り調べに立ち会う立場にはないのだが、今のミサトでは殺しかねないと見張り役を任されたのである。
 しかし、今の一言は、二人に職務の放棄を決めさせるには、十分過ぎるものであった。
「あんたねぇ!」
 唾が飛び散る。
「冗談じゃないわよっ、一体何人死んだと思ってんのよ!」
 ひっとケンスケは悲鳴を上げた。
「ごめんなさい!」
「ごめんで済む問題じゃないってのよ! あんたたちが余計な真似しなきゃねっ、あっさりと片が付いてたはずだったのよ! それを!」
 バンともう一度机を叩く。
「あんた達が言ってるロボットって奴を修理するために、どれだけのお金が掛かると思ってんの!? 街だってそうよ! そのお金を捻出するためにはね、何十万って餓死者を出さなきゃいけないんだからね!」
「え……」
「それだけじゃないわ! あんたたちが下らない真似をしてくれたおかげで、シェルター一つが壊滅したのよ! 本部にだって被害が出たわっ、何人死んだと思ってんの!? 今わかってる時点で死者三百名以上、重軽傷者一千人! 行方不明者だって何千人と居るのよ!? それらが全部本当なら出さなくて良かった犠牲者なのよ!」
 ふぅうううう、ふぅううううと、息をすることすらも困難になっている。
「あなた」
 ミサトはもう一人の容疑者、鈴原トウジを睨み付けた。
「シンジ君を殴ったそうね、報告が来てるわ」
「報告て……」
「シンジ君からじゃないわ。大事なパイロットだもの、監視と護衛がちゃんと付いてるのよ。詳しいことは言えないけどね、ロボットの操縦ってのにはね、とてもデリケートなものが要求されるものなのよ。あなたたちはね、それを乱すかもしれないってことで、監視対象に繰り上がっていたわ」
「そんな……」
「こうなるとね、もう大目に見ることはできないわ」
 ミサトはつとめて冷静に振る舞った。
「相田ケンスケ、鈴原トウジ。両名の身柄を拘束します。国際法廷にて処分が決定するまで、無期限に拘留……」
「ちょ、ちょっと待って下さい! わしには妹がおるんです! おとんもおじんも働きに出とって、わしがおらんかったら!」
 ミサトはぎりっと唇を噛むと、背後の男からフォルダを奪い取った。
 その中身をぶちまける。
「うぐっ」
「げっえ!」
 二人は身を強ばらせて引きつった。口元を手で被ったまま固まり、その写真を凝視した。
 目を逸らしたいのにできなかった。
 それらは今回の戦闘で出た犠牲者たちを写したものだった。肉が引き千切れ、血がばらまかれている。
 頭が潰れ、目玉が神経の糸にぶら下がっていた。
 人間の、無残なパーツが、一つ一つ写真の中に収められている。
 身元を確かめるためなのだろう、結婚指輪が付いているからと、千切れた指の一つまで、重要な証拠だとして写されていた。
「あなたね……」
 ミサトの鬼気は、危険な域にまで達していた。
「この人たちに家族が居ないとでも思ってんの? 保護してもらえるだけでも有り難いと思いなさい。あんたたちはねっ、この人たちの家族に八つ裂きにされても仕方がないのよ!」
『…………』
「あんたっ、自分の妹が巻き添えになったからってシンジ君を殴ったんでしょ!? だったらこの人たちの家族に八つ裂きにされても文句はないわね!? どうなのよ!」
 なんとか言いなさいよとミサトは重ねて怒鳴りつけた。いや、怒鳴るだけではなく殴りつけようとした。そのミサトを黒服の男たちが羽交い締めにして止めようとする。
 ミサトは男二人を振り回した。
「あんたの妹だってね! あんたの妹だからってだけで何されるかわかんないのよ!? あんたのお父さんとかもそうよ! それ全部あんたのせいなんだからね! 逃げようとしてないで責任取りなさい!」
 ミサトは自分を止める手を振り払うと、後は任せると背を向けた。でないと懐の銃で殺してしまいそうだったからだ。
 それほどまでにミサトは初号機を暴走させた二人のことを憎んでしまっていた。あの二人が遊び気分で迷い出て来なければ、このような被害も何もかもが、起こりはしないことだったのだから。


 ──数日後。
 霧島マナはかわいらしいワンピースを着ると、鏡に向かってよしとつぶやいていた。


「いかーりくぅん」
 いつものように鍵を開け、マナは勝手に上がり込んだ。
 シンジはベッドで眠っていた。上はアンダーシャツだが、下は制服の黒ズボンである。足半分は、床の上に落としていた。
 帰り着いた途端、倒れてしまったといった感じであった。
「碇君?」
 ふふっと笑って、彼の前髪に手を伸ばす。しかし触れることはできなかった。
「……ん」
 びくっと手を引き戻す。すぐにシンジは目を開いた。
「……霧島さん?」
 マナは取り繕うように笑った。
「良い天気だよ? デートしない?」


 使徒の死骸の前に、リツコとミサトが立っている。
 前回同様に、一区画すべてを立ち入り禁止にして、調査している。本来ならば人目につかないようにするべきなのだが、本部にも被害が出ている以上、諦めるのが得策だった。
「で、なにかわかったの?」
 訪ねてきたミサトに、リツコはファイルになにやら書き加えるのをやめた。
「……使徒? それとも初号機?」
「……報告は読んだわ」
「そう……」
「構成物質は同じ。その上、双方共に、構成物質の座標と配置まで一致している。さらに、あれ……」
 ──光の翼。
「使徒なのね」
「ええ……」
「エヴァンゲリオンは……使徒」
「そうよ。そしてそんなものまで使って使徒に勝とうとしているのが、わたしたち人類」
 ミサトの顔に、酷く醜いものが宿っている。
 リツコはそれから目を背けた。
「そういえば……」
 気になっていたことへと話題を変えようとする。
「シンジ君、どうしてる?」
「シンジ君?」
「ええ……。あんなことがあったっていうのに、今度はこれでしょ?」
「マナがフォローしてくれてるわ」
「マナが?」
「多少の不安はあるけど……大人なのね、シンジ君は」
「そう?」
「マナが相手じゃ、当たるわけにもいかなくて、渋々つき合って、我慢してくれてるわ。でなきゃあたしの魂胆が見えてるってのに、あの子の相手なんて」
「そう……」
「シンジ君って、不思議なのよね。他人と距離を取るのが自分のスタイルみたいなのに、マナに言い寄られたからって、別段拒絶することもない。かといって、勘違いをして……マナの様子だと、それで正解なんだけど、とにかくマナとなれ合うつもりもないみたいで」
「変わってるわね」
「マナってけっこう、無防備なところがあるじゃない? だから勘違いされることが多いってのに、シンジ君って、そっち方面のことで、女の子に期待してしないのかな?」
「マナがゆるすぎるだけじゃ……」
「苦手意識ってのも違うみたいだし、とにかくわかんないのよ」
 それでと続ける。
「今日も、シンジ君と、デートなの?」
「学校は休校中。かといってどこかに出かけるわけでもない。下手をすると、一日中寝てるだけ。あたしも報告書を読んで唖然としたわ」
「呆れた……じゃあ焚きつけたのはミサトね」
「気分転換……そういうことよ。あの子には……まだやってもらわなきゃいけないんだから」
 ──わたしたちの『使徒』に乗って。
 ミサトは、言外にそう告げていた。


 マナは上機嫌だった。
 ウィンドウを覗き、映画を見、露店でアクセサリーを選んでもらい、オープンウィンドウのカフェでパフェを食べる。
 シンジはなにも言わない。どこか暗いのだが、だからといってめんどくさそうにしているわけでもない。話しかければ答えてくれるし、邪険にもされない。
 腕を絡めてそっと様子を窺うと、嫌そうにもしていない。しかたないなぁという顔をしてくれているからほっとする。
 一方、シンジはこの間のことを思い返していた。
(イッた時みたいだったな……。やたら開放的で、アスカに溺れて流された時みたいだった)
 馬鹿かと思う。
(初号機相手に、アスカとシタ時みたいなことを感じるなんて)
 それから改めて、シンジは記憶の整理を行うことにした。
 ──初号機からのフィードバックを受け入れた。
 肉体のみならず、『心』までも。
(押し流されるかと思った)
 光の海に、黒い星が浮かんでいた。そこに投げ出されたのを思い出す。
 そして感じたものは、飢餓感だった。
(凄くお腹が空いて堪らなくなって、後はもう覚えてないや)
 きっとあれはと想像する。
 エヴァの意識であったのだと。空腹から来る圧倒的な飢え。寒気がするほどの空腹感。
 喰わなければ死ぬ。そんな当たり前の思考とも言えない野生に負けてしまったのだ、自分は。
 だから、初号機となった自分が、どうしてあのような真似をしたのか? シンジは明確に思い出せて、顔をしかめた。
「どうしたの?」
「うん? ……ああ、初号機、どうなったのかなって思って」
「初号機なら……、今、封印の準備が進められてる」
「封印? なんで……」
「きっと、みんな怖いから……」
 マナもぶるりと体を震わせた。
 後で見た記録映像、それだけでも恐怖を感じるには十分だったのだ。
 しかしシンジは知らないために、首を捻った。
 あの翼がどれだけの恐怖を広げてしまったか? 想像も付かない。
 なんだろうと首を傾げ、シンジはおびえるマナをじっと見つめた。
「そんなことより!」
 マナはその視線に気づき、焦ったように話題を変えた。
「明日から、学校だね!」
「……そうだね」
 シンジはどこか暗く、相づちを打った。
 結局、会話を途切れさせることになってしまったのであった。


[BACK][TOP][NEXT]