──行くよ。
 シンジの声に、零号機は前に乗り出すようにして駆け出した。
 もちろん搭乗者はマユミである。
 ミサトは険しい顔をして、それなりに息のあった動きを披露する二体のエヴァを睨みつけていた。
 ──凝視に近い。
 よくよく注視してみれば、二体がユニゾンとはほど遠い状態で戦闘を行っていることが確認できた。マユミの動きの良さはただの必死さの表れであり、連携のすばらしさはシンジの反射神経が良いだけのことだ。
 それでもぎこちなかっただけの訓練時間に比べれば、格段に進歩していることは明白であった。
(でもね)
 それだけではあの使徒には勝てないのだと、ミサトの目は零号機を追う。
 ──山岸マユミ。
 彼女はどこか追い立てられていた。思い詰めているようにも感じられる。
 ネガティブだったマユミの思考を、シンジがどのように変えたのか? 聞けなかったミサトには想像もできないことである。
 故に、マユミの必死さが、ほんの少しだけ思考がポジティブになった現れなのか? それとも別方向へとベクトルが変わっただけなのか? なにひとつ判断を付けられないでいた。
 ──なぜ乗り続けねばならないのか?
 彼女はその答えを見つけたのだろうか?
 ──今も嫌々ながらに乗っているだけなのだろうか?
 わからない。
 だからミサトは爪を噛んだ。

ASUKA / 第四章

 ──お疲れ様。よくやってくれたわ。
 それが勝ちを収めた二人が手に入れたすべてであった。
 ザァッとシャワーが降りかかる。
 マユミは顔から浴びるように顎を上向け、気持ちよいのか? ああと漏らした。
 上手くやれて浮かれている?
 それとも叱られなくてほっとしている?
 そっと忍び込んだマナは、長い黒髪を両手で掻き上げ、額を見せるマユミの仕草に嫉妬した。


「……ちっ」
 一方、シンジはロッカーを開いて舌打ちしていた。
 そこに学生服が入っていたからだ。
「もっと他にあるだろうにさ……嫌味なのかな?」
 学校はすでにないのだ。三体目との戦闘による被害を受けて、今や瓦礫の山も同然である。
「山岸さん……」
 シンジは壁越しに彼女の気配を感じようとした。
 少し、心配になったのだ。
「大丈夫かな? 霧島さん、雰囲気悪かったし……」
 シンジは出撃前のことを回想した。


 ──二人は待機所に詰めていた。
 狭い部屋である。ベンチがL字型に並べられており、シンジとマユミはそれぞれの面に腰掛けていた。
 暗いな……というのがシンジの見立てであった。
(死ぬのか……山岸さんが)
 自分が死ぬということに対しては心配はない。死ねば終わりなのだ。ただどう終わるかが問題なのだ。そのことはアスカを看取るときに悟っている。
 第一死ねばそこで終わりなのだから、後のことなど心配する必要などない。辛いのも苦しいのも、生き残る側なのだと……今ではそれも理解している。
 シンジは悟られないようにマユミを見つめた。
(……まだ恐いんだな、死ぬことが。山岸さんはまだ希望を持ってるのか。いつか誰かが救ってくれるかもしれないって、あるいはこんな自分でも、ひっそりと生きていけるかもしれないって、そんな希望を抱いてるんだ)
 シンジははぁっとため息を吐いた。
 だからこそ死ぬことに対して人は恐怖心を抱くのだ。痛いから、死ぬのは嫌だ、などという発想をしないのが、自分達のような人種であると、彼は自己分析を行っていた。
 誰かに甘えたいのだ……そして依存したいのだ。自分は一人ではないと、孤独なのではないのだと、誰かに抱きしめられたいのである。
 ──教えてくれる人が居るかもしれない。
 巡り会いたい……その思いがあるから、死をどこかで恐れているのだ。
 なればこそ、独りのままで終わることを恐怖している。特にその思いは死を目前にしたときにこそ、極大に膨れあがるものだから。
──誰かここから出してよ!
 異空間に囚われたときの自分がそうだったと思い浮かべ、シンジは自嘲の笑みを口元に浮かべた。
 死ぬことは恐くはない。それは強がりではなかったと思える。だが誰も孤独感を薄れさせてはくれなかった。
(ミサトさんも、あの頃のアスカも……僕たちは家族ごっこの中でぬくもりを知って、期待してた、でも)
 余裕を無くした自分達は……。
(加持さんが死んだとき……ミサトさんは僕にすがろうとした。僕はそれを嫌ったけど、ミサトさんもアスカも根本では同じだったんだよな……。ただ寂しかったんだ、誰かに居てもらいたかったんだ)
「寂しいのは……」
「はい?」
 シンジは声に出してしまったことを後悔したが、マユミの相づちにもはや続けるほか無くなっていた。
「ごめん」
「な、なんですか?」
 瞑想に近かったのかもしれない。訓練やシミュレーションによってたたき込まれたものを必死に反芻していたのだろう。
 こんなところまで同じなのかと彼は思った。
「ちょっと気になっただけ」
「……なんですか?」
 良くないことなのかなと彼女は身構えた。
「山岸さんには」
 ──誰か僕を!
「山岸さんには、助けて欲しいときに、助けてって言える人が居ないのかなって思っただけだよ」
 マユミはこの間の蒸し返しかとうなだれた。
「そんな人……」
「でも、お父さん、好きなんでしょ?」
 シンジはぼうっと言葉を連ねた。
「良いところを見てもらいたいって、思ってるんでしょ? 褒めてもらいたいってのは、悪いことじゃないと思うよ……」
 マユミは脳裏になにを思い浮かべたのか? それはと少し言いよどんだ。
 ──死ぬところなど見たくはないのだ。
 だからシンジは気にかける。
 彼女が泣き叫んで引き裂かれるような……あるいは消し炭となって、消えてしまうようなところなど。
(あんなのはもうごめんだよ)
 間に合わなくて……食い散らかされた弐号機の無惨な姿を目の当たりにしたとき、どんな思いを抱いたか?
 それ以前に、3号機を自らが駆っていた機体が打ち砕いたとき、どう思ったか?
 零号機のことは? ……綾波レイが、光となって消えたときは?
 勝手だとは思う……自分が死ねば、ミサトやマナに、かつて自分が味わったものと同じ思いを味合わせることになるのだろう。
 それでも自分が味わうよりは、何倍もマシだと思えるのだ。それが今のシンジだった。
(だからなんとかしてあげたいんだよな……)
 マユミを見つめる。
(でも、もう、誰も抱きしめられないんだよ。アスカの感触を忘れたくないから、だから……)
 ごめんと心中で謝った。
 君を抱きしめて、勇気づけるわけにはいかないんだと、シンジは代わりに言葉を紡いだ。
「加持さんが……言ってたんだ」
「加持さんが?」
 うんと頷く。
「君のこと、守ってやってくれってさ」
「え……」
 きょとんとする彼女に、シンジは苦笑して他にもと告げた。
「随分とみんなに好かれてるんだね? 山岸さんは……」
「そんな」
「だってさ? リツコさんにも言われたよ……他にもね? みんな君のこと心配してるんだな」
「そんな……そんなこと」
「あるはずがないなんて言わないよね?」
「だって」
「僕だって……心配してるから」
「碇君も?」
「それはそうさ……でないとこんなに話しかけたりしないよ」
 そう言って、肩をすくめる。
「でも僕の場合は……ちょっとだけみんなとは違うかもしれないね」
 シンジは前屈みになって問いかけた。
 それは彼女が聞く姿勢になってくれたことに対する安堵から来たものであった。
「ねぇ? 山岸さんはどうしてエヴァに乗ってるの?」
 そんなシンジに乗せられて、マユミはこぼすようにして漏らした。
「それは……お父さんが」
「人に言われたから?」
「はい」
「でもそれは乗った理由でしょ?」
「え?」
「今、乗ろうとしてる理由はなにさ?」
 マユミは彼から顔を背けた。
 意地悪だと、嫌う調子で口にする。
「だって、みんな乗るのが当たり前だって思ってるから」
「だから逆らえなくて?」
「そうです」
「みんなのせいなの?」
「え!? ち、違います……そうじゃなくて」
 シンジはかぶりを振りつつ体を起こした。
「恐いんだね……誰かを悪者にして責任をなすりつけるのが。それじゃあ悪い子になってしまうから」
 カッとなったのは、それが図星を突いていたからであろう。
「碇君に……わかるはずありません!」
 涙まじりに訴える。
「どうしてそんなこと言うんですか! どうして……」
「君が嫌いだからさ」
「嫌い……」
「まるで僕を見てるみたいだからね」
 絶望の淵へと落ちかけていたマユミは、その一言に驚き、顔を跳ね上げた。
「え……」
 ずるいかな? シンジはアスカに問いかけた。
 マユミの事情など知り抜いている。その上で似た性格をしているのだから、どのような言葉を望んでいるのか? どのようにすれば懐かせることができるのか? すべてわかる。
『それでも良いんじゃない?』
 幻聴が聞こえて、シンジはずるい自分を演じ始めた。
「……僕には、なにもなかったんだ」
 口など挟ませない。
 それだけの重みを持って語っていく。
「養護施設に預けられてね……親に捨てられたんだろうってよく言われたよ。僕もそう思ってた」
 かつてアスカにも同じように話したことがあった。
「本当のことなんて知らないさ。用があるって呼び出されてみれば、エヴァに乗れだ。それ以外の用事で話したことなんてないよ」
 同じ反応をするんだな……シンジはマユミにアスカを重ねた。
「碇君……」
 マユミはシンジの瞳に魅入られ、言葉を失ってしまった。
 同時に思い出したからである。
 シンジがエヴァに乗ることになった経緯、それは彼女も聞かされていた。
 そんな困り顔のマユミに笑いかける。
 仲間意識を感じさせる声音でだった。
「ねぇ……」
「はい」
「君はどうなの?」
「え……」
「さっき、聞いたよね? ……褒めてもらいたい人がいるんでしょ?」
 マユミはぎゅっと唇を噛み……その後で観念して答えた。
 ──聞いてもらいたかったのかもしれない。
「お父さんが……好きなんです」
「そっか」
「義理のお父さんです……本当のお父さんは」
 口にできないのか? しなかった。
「あたしには、もう誰もいないんです……お父さんの他には」
「そっか……」
「だって……だって、お母さんももういないから……おじさん、お父さんだけだから」
「だから良い子で居るために、逃げないの?」
 ──マユミは沈黙することで自分を守ろうとした。
 もちろんそのやり口を誰よりも知っているシンジだから……。
「ねぇ? 僕も似たようなものだよ……。父さんに呼び出されて、乗れって言われて、これに乗ってる」
「はい……」
「理由なんてなかったよ……強いて言えば、霧島さんだった」
「はい」
「でも今の僕は、違う理由で乗ろうとしてる」
「なんですか?」
 トクンと、どこかで何かが鳴った。
 マユミは知らず……彼の視線にときめいて、胸元に手を当てていた。
 ──見つめ合う。
「君を守るためさ」
「碇君……」
「みんなに頼まれた、それが理由だよ。今の僕には、他に理由なんてない」
 ──だから。
「君を恐い目に遭わせたりはしないよ……僕が守るから」
「碇君」
「じゃあ……さよなら」


 シャワーを止めると、マユミは正面の壁に貼られている鏡に手を這わせた。
 以前はこの自分を見るのが嫌だった。
 父が……義理の父が好きだと言ってくれる黒くて長い髪は、雫に濡れるとべったりとして、どこか気味の悪さを感じさせる。
 自分が暗いからだ……ということはわかっていた。
 いつもうつむき加減であるから……このような時でも髪は顔を隠すように前に流れ、体に張り付き、不気味さを増す。
 そんな演出が自分の性格を象徴しているようで……嫌だった。
 ──嫌いだった。
(でも少しだけ好きになれるかもしれない)
 ふふっと微笑む。今は上を向いていられるから、だから髪を掻き上げて、彼女は背後へと垂らしていた。
 肩口の髪も背に払う。まるでドラマに出てくる少女のようだ。
 背筋を伸ばし、自分を見つめる。どこか誇らしげなものが確認できた。
 ──それはきっと。
「碇君……」
 ぽつりとこぼす。
 ──やったね。
 さよならと口にされて、恐かった。恐かったが、戦い終わってのその言葉には、何ものにも代え難い、とてつもない喜びが感じられた。
(褒めてもらえた……)
 たったそれだけのこと……。
(碇君にも……葛城さんにも、みんなに褒めてもらえた)
 だから、マユミは、浮かび上がる喜びを消しきれずにいた。
(これが碇君の言っていた……勇気というものなのかもしれない)
 彼女はそっと、胸の谷間に手を当てた。


 ──山岸さん!
 吹き飛ばされた零号機が、その背で廃ビルを押し倒した。
 大きなビルだった。折れるように倒壊し、瓦礫が零号機を覆い隠す。
「山岸さんは!」
 シンジの確認に、とっさにマヤは返していた。
「無事よ! 脳しんとうを起こしてるだけ」
「マヤ、ショックを与えて」
「はい!」
「リツコ! 再起動までどれくらいかかる?」
「最短で三十秒、後はマユミ次第よ」
「シンジ君!」
 ──稼ぎますよ!
 シンジは地に突き立ったままとなっていたビームグレイヴを引き抜いた。
 これは二本の棒の間にビーム幕を展開するというもので、さほどの攻撃力はないのだが、使徒を牽制するには他に武器がなかったのだ。
 廃墟が静寂で満たされる。初号機を相手として、使徒は一体に戻っていた。ふと、シンジの脳裏に疑問がよぎった。
(こいつ……こっちが二体だから二体に分離しただけで、一体ならこのままなんじゃないのか?)
 だとすれば単独で撃破できるかもしれない。
 ちらりと背後を確認する。
 まだマユミの意識は戻っていない。
 シンジはやめたと、両脇に抱えた棒を振り回した。
 ここで『勝つ』べきは自分ではない。彼女でなければならないのだ。
 勝利をつかむべきは異邦人の自分ではなく、この世界で生きていくはずの、彼女でなければいけない。だからシンジは敢えて無謀な行動に出た。
「この!」
 二本の竿で左右から叩く。案の定使徒はそれを手で受け止めた。
「挟んだ!」
 上手いとミサトの声が聞こえた。
 竿に仕込まれている発振器が共鳴し、中央にビームの幕を作り出す。使徒の腕と上半身を、真横にビームが切り裂いた。
「だめか!」
 コアを破壊できなかった。使徒はATフィールドでビームを吹き飛ばし、切断面を癒着させた。
 ──使徒が逃げる。
 飛び下がり、次には目からビームを発射した。初号機の手元で爆発が起こり、竿が折れる。
「まだ!」
「十二番パレットガン!」
 ミサトの声にとっさに飛ぶ。
 急ぎ修復されていた発進口のシャッターが開き、固定台に立てかけられたパレットガンが姿を現した。
 ──それを取り、横に飛ぶ。
「くっ!」
 初号機を取り逃がした使徒は、勢い余ってエヴァの代わりに固定台を爪で切り割いていた。腰をよじって追いかけようとするその(つら)に、シンジはパレットガンの照準を合わせ、トリガーを弾いた。
 ──パパパパパ!
 光が弾ける。使徒の仮面顔を中心に小爆発が連続する。
「ATフィールドは中和しているはずなのに!」
 リツコは悲鳴を上げた。パレットガンの威力も改良を加えられたことで上がっているはずなのだ、なのに使徒にダメージを与えられないでいる。
「零号機再起動!」
「マユミ! 行けるの!?」
 ──マユミは酔って吐きそうになっていた。
 グワングワンと頭が痛い。視界が歪んで揺れている……いや、回っている?
(あ……初号機だ)
 マユミは絵の具をぶちまけたような色彩の中に、初号機と思われるものを発見した。
 劣勢であるのか? 必死になっているように見受けられる。どうしてあたし、ここに居るんだろうと、根本的なことでマユミは悩んだ。
(あ……)
 少年が背を向けて何かを言った。
『さよなら』
「碇君!」
 思考がエヴァと直結した。
「え!?」
 シンジは驚いた。
 突如横から零号機が特攻をかけて来たからだ。
 使徒の腰をつかみ、そのまま諸共に転がった。
「山岸さん!」
 衝突時の速度が凄まじかったのか? 使徒とエヴァは数キロの距離を転がっていた。しかしぎちぎちと全身に痛みを訴えて立ち上がろうとする零号機に対して、使徒はなんらの痛痒も抱かなかったのか? 不自然なほどスムーズに、かかとを基点にして起き上がった。
「あ……」
 マユミは使徒に睥睨されて硬直した。
 黒い眼窟の奥で、赤い瞳が笑っていた。
 ──光が瞬き……。
「山岸さん!」
 今度は逆になった。
 初号機の突進を受けて、使徒は空中を舞った。だが使徒のみである。シンジはマユミと違って、一緒に飛び転がるような真似はしなかった。
 初号機の右肩の武器庫は見るも無惨に壊れ、火花を散らしていた。内部に収まっていたニードルが、バラバラと地面に落ちて突き刺さる。
 シンジは膝立ちとなった初号機の中から、使徒を警戒しつつ声をかけた。
「山岸さん、立てる?」
「……はい」
「やったね」
「え……」
「助かったよ」
「そんな……」
「でもそれは関係ないんだ」
「関係ない?」
「そうさ」
 使徒を睨んだまま、会話は続ける。
「……山岸さんは、あんなに怖がってた使徒にぶつかって行けたじゃないか。それって少しは勇気があったってことだろう? 僕はそれを褒めてるんだよ」
「でも……」
「思うことは簡単だよ。想像の中でケリを付けちゃうのはもっと簡単だ……そこで満足するのも、諦めるのもね?」
 ──でも。
「やらなきゃって思ったときに、体を動かすことができたなら、それは勇気を振り絞れたってことになるんだよ。意気地のない人間は、震えているだけで、絶対に向かってなんて行けないんだからね?」
「…………」
「……強くなろうよ」
 重い調子の声に、マユミは使徒から目を逸らし……隣の初号機を、そして初号機の映像に被さるように現れていた、シンジを映す小さなウィンドウをじっと見た。
「碇君……」
「強くなれるかもしれない。山岸さんには、その可能性があるんだよ。恐いんだろう? もしちゃんとできなかったらって。だったら逃げだそうよ。逃げるんだ。前に走るんだ。後ろ向きな怖さから逃げ出すんだ。好きな人がいて、その人に嫌われたくなくて、近づけなくても、目をつむって、駆け抜けたら、きっとその背中に抱きつくことだってできるさ、そうだろう?」
「…………」
「もし、目をつむって走るのが恐いっていうのなら、僕が手を引いてあげるから……もうちょっとだけ、頑張って」
 レバーを握る手に、何かの圧力を感じ、マユミは泣きそうになってしまった。
 それはシンジの……初号機の手の感触だった。零号機が受けている感触が、フィードバックを通して伝わってくるのだ。
 ──温かかった。
「行くよ」
 マユミは離れていくぬくもりに、待ってと引きずられて立ち上がっていた。
 ──二機は同時に駆け出した。
「背負い投げ!」
 反射的に従ってしまう。
 作戦前に必死にくり返していたイメージトレーニングが役に立った。
 最大戦闘速度においては、使徒はエヴァに比得るものではない、あまりにも遅すぎた。
 ──二人の雄叫びが重なった。
『やぁ!』
 右手を初号機がつかみ取り、左手は零号機が握りしめた。そうして二機は使徒を左右に千切り投げた。
 引きちぎられながら二体に分離した使徒が、それぞれに背を地に叩きつけられる。
「リツコさん!」
 シンジの声にリツコは叫んだ。
「マヤ! MAGIにタイミングの修正を指示して!」
「はい!」
「マユミ!」
 シンジの声に、マユミははいと返していた。
 二機のエヴァは、左右それぞれ、逆手にナイフを持ってコアに刺した。
 ビクンと使徒が痙攣する。そして──大きな爆発が起こった。
「エヴァは!」
 ミサトの確認に、マコトが安全圏に離脱済みですと報告した。
 ほっとし、どこかと探して、ミサトは発進口の修復工事のためにと撤去された瓦礫の山の影に二体を見つけた。
 初号機が零号機を抱きしめてかばっていた。
「あれほど言ったのに……」
 初号機は零号機を胸にかばって、爆発に背を向けていた。エントリープラグを危険にさらしていた。
「碇君……」
 マユミはそんな優しさに、半分泣きそうになっていた。
「よく頑張ったね」
「あり……ありがとう、ございます」
 シンジは目を細めて笑った。
「疲れた……眠いよ」
「はい……あの、碇君」
「……なに?」
 うつらうつらとし始めているシンジに、マユミは再度、ありがとうとお礼を言った。
 ──もうろうとしていたシンジがなんと言ったか? それを聞いたのはマユミただ一人だけであった。


 ──洗浄室から、脱衣所へと戻る。
「あ……」
 そこにマナが待っていた。
「霧島さん……」
 彼女は、険しい顔で、壁により掛かり待っていた。

Bパート

 ──アンタ馬鹿ぁ?
 彼女はいつも、叱るばかりでなく教えてくれた。
「反射的なものであればこそ、それはとっても尊いんじゃない。あんたあたしが死にそうになったとき、マグマの中に飛び込んできてくれたでしょ? あれって反射的なもんだったんじゃなかったの?」
 ねっと彼女は微笑むのだ。
「本当に臆病だったら、あそこで「アスカぁ!」とかって叫んで、泣いて、それだけよ……。あたしは死んで、あんたはそれを理由に臆病になるか、乗り越えるまで延々悩むとか、そんなところだったんじゃないの?」
 でも違ったよねと笑うのだ。
「あんたは、目の前のあたしが失われることを恐れた。だから後先なんて関係なく飛び込んだんじゃなかったの? 自分のことなんてどうだっていいって、アタシが居なくなることと、自分が死んで終わりになること。あんたはあの時、自分とアタシを秤にかけて、同じくらい大事だって思ってくれた、そうだったよね?」
 ──頬を撫でる手が心地よい。
「勇気っていうのはね、そういうものでしょ? 頭で考えるよりも速く、何かを守りたいって思ったときに、守ることができて、ようやくわかるものなんじゃないの? 自分にとって、それが価値のあるものなのかどうなのか? それだって命がけになれて初めてその大切さがわかるものなんじゃないのかな? 命だって惜しくないって気持ち、それがどういうものなのか? あらゆる怖さを乗り越えられる一念。それってきっと勇気って言うのよ」
 ね? ……そんな彼女の一方的すぎる論理に、シンジも笑ったものだった。
「よくまぁそこまで、アスカのことが大事だったんだってことにできるよね?」
「むぅ! じゃああんたあたしのこと、なんとも思ってなかったっての!?」
 ──この馬鹿シンジがぁと、やはり怒られもしたものだった。


 ──やっぱりか。
 シンジは暗く落ち込むマユミを目にして、なぜこうなるのだろうと嘆息した。
「いじめられたの?」
 ビクリと反応するマユミである。
 共に帰宅するところである。マユミは自宅と呼べるところがあるらしいのだが、シンジには興味がなかった。
 ただこうして共にエレベーターを待っているのは苦痛である。
「霧島さんか」
 マユミは弾けたように顔を上げた。
「どうして!」
「そんなの……他に原因なんて思い当たらないからさ」
 はぁっとため息を吐く。
 時間帯を考えれば、他に帰宅組が居てもおかしくはないはずなのだが、戦闘直後と言うこともあってか、そんなゆとりはないのだろう。
 右を見ても、左を見ても、人影もない。
 それ故だろう、こうして同じベンチに腰掛けているのは、寂しいからだ。もっとも合間に一つ席が開けられているあたりに、マユミの身持ちの堅さが窺えた。
「ストレートでわかりやすいんだよ、霧島さんも……山岸さんもさ」
「そうでしょうか? そう言われても……」
「怒った? そりゃそうか……本当のことなんて知らないくせに、わかってないくせに」
「どうして……」
「そんなところだろうなと思っただけだよ」
 わかるのかと問いかけようとするマユミの口をそうやって塞ぐ。
 シンジは何を思ったか立ち上がった。
 それをつい見送ろうとしてしまったマユミは、エレベーターが到着したのだと知って、慌てて後を追いかけた。


 チン、チンと、表示が一つずつ上がっていく。
 アナログなのは、万が一の時を想定しているのだろう。電源が落ちれば表示は消える。そうなれば現在の階がわからなくなる。
 シンジは奥の角隅に立った。そうして腕組みをして、ボタンの側でシュンとうつむき加減に身を小さくしているマユミのことを見つめていた。
 マユミは居心地が悪いのか? 酷く緊張していた。
(わかる……そうよね、霧島さんだって言ってたもの)
 更衣室で、裸のままで、マユミは尋問されたのだ。
「聞きたいことがあってね」
「……なんでしょうか?」
「シンジ君のこと、好きになっちゃってない?」
「え? そんな! わたしなんて……」
「わたしなんて? ふうん?」
 マヤは嫌な感じの顔をして、うつむいた彼女の顔を真下からのぞき込んだ。
「つまりシンジ君が振り向いてくれたら良いな、って思ってるんだ」
 顔を背けて、マユミは逃げようとした。
 もちろんマナは後を追った。
「そうやって、夢見る女の子しちゃうんだ? まあ良いんだけどね」
 マナはマユミの油断を誘い、ことさらにダメージが残るようなタイミングを狙って言い放った。
「あたしがゲットしちゃっても、やっぱりあたしなんてって落ち込まないでね? そうやって恨めしげにされると気分悪くなるから。じゃ!」


 エレベーターを降りて、それぞれの住居へと道を別れる……はずだった。
 ところがマユミは、なぜだかシンジと同じ方向へと歩き、着いてくる。
「山岸さん?」
「はい?」
「家に帰るんじゃなかったの?」
 あ……とマユミは呆然とし、次に真っ赤になってうなだれた。
「あたし……」
 つい昨日までの癖で、シンジの後を追ってしまっていたのだ。
 それに気が付き、いたたまれなくなって、マユミは背を向けて逃げ出そうとした。
「失礼しま……」
「まあ、仕方ないか」
 シンジはぽりぽりと頬を掻いた。
「上の街、山岸さんの住んでる地区は無事だったのかもしれないけどさ、こんな時間に帰るのはやっぱり危ないよ」
「はい……」
 シンジはマユミへと振り向いたままで、通路の先を指さした。
「僕の部屋、来る?」
「え」
「なにもしやしないって。まあ、ちょっと、気分が悪いだけさ」
「気分って……」
 シンジは顔を見られないように歩き出し、マユミが追いついてくるのを待って、彼女に告げた。
「霧島さんのやり口が、どうにも気に入らないだけなんだよ」


「むぅ」
 なんだろう? ここ二週間ほど、マナはシンジに避けられているなと感じていた。
 それなのに……。
「あ、あの、おはよう……ございます」
「ああ、おはよう」
 本部内の食堂で顔を合わせると、自分にはそっけないくせに、マユミに対しては実に反応が明るいのだ。
 またマユミも異常な緊張をシンジに抱く。
 これは恋をしている……間違いなく。
 やっぱりなにかあったのぉ!? ふたりっきりの密室でぇ!?
 マナはマユミがシンジの部屋に泊まったことを知っていた。
「やっぱり乗り込めばよかったぁ!」
 ひとり悶絶する彼女は非常におかしい。
「なんか壊れてるな」
「うん」
 そんなところに出くわしたのは、あの戦略自衛隊に所属していた二人であった。


「ムサシ・リー・ストラスバーグであります」
「浅利ケイタです」
「一応面識はあると思うけどね」
 作戦会議室に場所を移して、子供たちは顔合わせを強要されていた。
 ぶすっくれているのはマナだった。
「なんでムサシたちがここにいるのよ」
「戦自からの出向でね、また三人でつるめるな」
「嫌ですぅ! なんでムサシなんかと」
「マナぁ……」
 ──おや?
 ミサトは珍しいものを見てしまった。シンジが顔をほころばせているのだ。
「どうしたのシンジ君? にやにやしちゃって」
 ミサトは小声で問いかけた。
「微笑ましい……ってわけ?」
「そんなところです」
 ミサトは首を傾げるしかなかった。まさかシンジがミサトと加持のことを思い出してにやけているなどと読めるはずもなかったからだ。わかるはずのないことなのだが。
「昔の男の出現か……妬けてこない?」
「霧島さんにですか? まさか……」
「どうして? あれだけ迫られてたら、少しは心が動いたって」
 そういうの、苦手ですから。シンジはすっぱりと切り捨てた。
「よう! また会ったな」
 ちらりとシンジは彼を見た。
「そうだね」
「これからはよろしく」
 差し出された手を握りかえして、顔をしかめる。
 笑顔でぎゅうっと力を込められてしまったからだ。
「これからは俺がマナを守る。もう心配してくれなくて良いからな?」
「……霧島さんとつき合うんだ?」
「ああ」
「なにがああよ!」
 スパァンとはたく。
「ムサシは! シンジ君も!」
 いや……とシンジは彼女の剣幕に多少怯えた。
「だって、そういう関係に見えたから」
「見えない!」
 何か口にしようとしたムサシをドンッと突き飛ばしてマナは言った。
「ちがうよシンジ君! ほんとにムサシとはシンジ君が考えてるような関係じゃないんだったら!」
「そうなの?」
「そうよ!」
「まあどっちでもいいんだけど……」
 がーんっとショックを受けているマナを放置する。
「それじゃあ僕たちは……」
「あ、ええ。もう良いわよ?」
 シンジは当たり前のように彼女を誘った。
「じゃあ、行こう? 山岸さん」
「あ、はい」
「それじゃあ」
 ミサトは首をひねって退出を許可した。
(マナには冷たいのに、マユミの方が好みなの?)
「マナぁ!」
「うるさい!」
 こっちの騒ぎはいつ終わるのかわからない。ため息をこぼす。
 ミサトの知るよしもないことであったが、マユミを伴い歩き去るシンジの背中は、彼の父親が、彼の知る赤い瞳の少女を連れて歩いていたときのものに酷似していた。


「やれやれ、戦自からの横やりとは」
 ──総司令執務室。
 加持はここで、ゲンドウとの会談に勤しんでいた。
「やはりデータが盗まれましたかね?」
「洋上戦闘だった。B型装備であった以上、レーダーやソナーと言ったものは必要だったろう。データリンクは必要な措置だった」
「流れた先が問題ですか?」
「戦闘データを見ただけですべてが把握できるほどエヴァは単純なものではない」
「見た目の軽さと中身の重さが比例しない。女性と同じですな」
 さてとと彼は本題に入った。
「問題は国連軍に所属があったはずの旗艦とリンクしていたにも関わらず、戦自へと情報が流れたという点です」
「戦自のおもちゃはどうだ?」
「確かにシンジ君との連携は見事なものでしたが……あれはその場の勢いでやれたことですよ、データうんぬんは関係ありません」
「つまり、スパイが居たと言うことか」
「その通りです」
 二人はにらみ合った、お互いの腹を探るためだ。
 言葉通りの意味ではない。電子戦におけるスパイとは、ハッカー、あるいはクラッカーのことになる。または情報を流出させるよう、あらかじめ潜り込まされていたウイルスか、プログラムか。
 加持がゲンドウを疑っているのは、彼の下にはMAGIがあるからである。世界最高峰の演算機だ。
 だがならば加持を疑うのはどういうことなのか? ゲンドウは藪をつつかずに引き下がった。
「諜報一課より人を割り振る」
「俺の指揮でかまわないんですね?」
「それで良い。委員会は?」
「いつもの通りですよ。スケジュールの遅延についてと、予算についての文句だけです。ボケてるとは思いたくないですけどね、ああも同じことしか口にしてくれないんじゃ、まじめに聞くのが辛くなりますよ」
「それが君の仕事だろう、まあ、気持ちはわからんでもないがな」
 彼はようやく顔を緩め、この青年に苦笑を見せた。
「まったくです」
 そしてまた加持リョウジも、辛い立場にある上司のことをねぎらったのであった。


「碇君っ、あの!」
 シンジは急いでしまっていた足を緩めて、マユミにごめんと謝った。
「ごめんね? ほんと……利用しちゃって」
「いえ……それはかまわないんですけど」
 マユミは肩を落としたシンジに、こんなにも小さな人だったのだなと痛ましさを感じ始めていた。
 彼は強いのだ。しかしその強さは頑なになにかを守ろうとしていることから来るものだった。マユミはもうその理由を知っていた。『アスカ』である。
 だがだからこそか? それ以外のことに対してはこうも脆い。余裕がないのだろう、アスカとの思い出を守ることにばかり固執しているから、それ以外のことについては気を緩めてしまうのだ。
 シンジがマユミにこんな姿を見せるようになったのは、やはりあの夜のことに起因していた。


 ──碇君、碇君!
 呼ぶ声がする。しかしシンジの耳には遠かった。
「アスカ!」
 浜辺だ。あの浜辺だった。
 赤く血のように変色した波が押し寄せてきている。そして波打ち際に立つ彼女の遥か彼方には、あの綾波レイの半顔があって……。
 アスカと彼女の骸の瞳が、等しく自分を弾劾していた。
「あんたなにやってんのよ」
 アスカは白のワンピースを着ていた。
 その裾は血の赤に塗れて染まっていた。
「なにまごまごやってんのよ!」
 彼女はまるで昔のように怒鳴りつけた。
 シンジは思わず、叩かれるのではないかと首をすくめてしまっていた。
「なんだよ……なんなんだよ!? 僕はアスカのことを考えてるっ、考えてるじゃないか!」
 それなのになにが足りないんだよと彼は訴えた。しかし、それは、余計にアスカを怒らせてしまうだけであった。
「あんた……」
 処置なしと彼女はかぶりを振った。
「だったら、どうしてあの子たちを助けてやんないの?」
 シンジはアスカのセリフに、信じられないと目を丸くして驚いた。
「なに言うんだよ!?」
 大きく手を振る。
「そんなことできるわけっ」
「あんたなら! ……あたしを支えてくれたアンタなら、それくらいのことは軽くできるはずよ? そうでしょう?」
「そうだけどさ!」
 シンジは声が裏返ってしまうほどに、必死になって反論した。
「アスカだって言ったじゃないか! 全部が自分のものにならないなら僕なんていらないって! なのになんだよ!? 今更……僕はアスカだけを見守ることにしたんだって誓っただろう? その誓いを守れる僕になるって約束しただろう!? その誓いを僕に破れって言うのかよ!? そんなのってないよ!」
「でも」
 一転して、彼女は寂しそうな表情になった。
「あたしは、目の前で泣いている子がいるのに、手を貸して上げないあんたなんて、大嫌いよ」


 ──ハァ!
 シンジは布団をはねのけて起きあがった。
 はぁはぁと息を荒げていると、大丈夫ですかと隣から声がした。
 最初は誰なのかわからなかった。
 アスカなのかと期待した。
 しかし現実は違っていた。
「やまぎし……さん」
 そうだったなと前髪を掻き上げる。
「ごめん……」
「すごく、うなされてたから」
 起こしてしまってと彼女は詫びた。そうしてからお水をと急いで、台所へと立ち上がった。
 着替えがないからと、今の彼女はシンジのものであるグレーのスウェットを着込んでいた。ネルフが用意した新品であったからこそ借りるつもりになったのだろう。
 コップに一杯の水を汲んで、マユミはシンジの隣へと戻った。はいと手渡し、有り難うの言葉にそんなと彼の顔をのぞき込む。
「でも、凄くうなされてたんですよ?」
「ごめん……酷い夢を見たんだ」
 そうでしょうねとマユミは頷いた。シンジは水を一気にあおると、彼女にアスカに叱られたんだと口にした。
「アスカさんにですか?」
「うん」
 酷い夢だよと語っていく。
「アスカは……どうして山岸さんたちを助けてあげないんだって僕を責めるんだ」
「あたしたちをですか?」
「そうさ……言ったろう? 山岸さんの考えくらい読めるって。他にもさ。エヴァのことだってそうだ。でも僕は……」
 簡単なのにとかぶりを振る。
「でも、僕は、アスカのために頑張ったんだ。アスカが好きだったんだ、だからアスカを泣かせたくなくて、笑っていてもらえるようにって、強くて、立派になろうって頑張れたんだよ。人の気持ちも思いやれるようにもなった。でも、それは、アスカのためだったんだ。アスカが気づいてって、言葉にならない信号を発したときに、見逃したりしないようにって、気を付けて、注意して、そうやって身につけたものだったんだよ」
 彼はことさらにくり返した。
「アスカのためならって気持ちがあったから、アスカは凄く笑うと可愛いんだよ。でも怒るときは醜いから、彼女が喜んでくれるようにって、笑顔になってくれるようにって、僕は……」
 なのにと彼は慟哭を吐き出した。
「なのに、そうやって身につけた力を、山岸さんや霧島さんのために使えっていうのかよ? そんなの嫌だよ! ずっと……ずっとアスカが知ったらどう思うだろうって考えてた。裏切りたくなかった。だから僕は助けたくても我慢してたのに」
「でも……それが碇君の、アスカさんへ優しさなら」
「優しさなもんか!」
 びっくりしたマユミに、ごめんと酷く慌てて謝罪を入れる。
「驚かせてごめん……でも、特訓の時がそうだった。山岸さんを元気づけるべきだったんだ、元気づけて上げなくちゃって思った。でも、僕は……」
「でも、碇君は……」
「僕の優しさは嘘だ……」
 シンジは本音を吐き出した。
「心からのものなんかじゃないっ、こういうときは、そうするべきなんだって、そういう風にアスカを傷つけながら学んで、教わったもので、だから」
 マユミはそれでもと言いつのろうとした。
「碇君は、やっぱり優しいんだと思います……」
「……違う」
「優しいから、助けなくちゃって、そんな気持ちと、アスカさんへの想いの板挟みになったりしてるんじゃないんですか?」
 シンジはぎゅっと唇を噛んだ。
「アスカは言ったんだ」
「…………」
「僕なら簡単にできるだろうって……できるくせに、恐くて怯えて、泣いてる子が目の前にいるのに、それを助けようともしない冷たい僕なんて嫌いだって言った」
「そうですか……」
「でもね! でも……でも」
 シンジはぐっとシーツを握りしめた。
「でも、そんなの裏切りじゃないか! アスカが大事なんだ、アスカのことが大事なんだよっ、だから大事にしようとしちゃいけないのかよ!?」
 ああとマユミは切なく思った。
(碇君は純粋なんだ……)
 純粋すぎるから、アスカという少女とのことに固執し過ぎて、自分を抑え付けようとして、失敗している。
「碇君は……十分なことをしてくれたと思います」
「でも……」
「碇君は、本当にアスカさんのことが好きなんですね」
 うらやましいですと彼女は告げた。
「山岸さん……」
「あたしには、そこまで思える人も、思ってくれる人もいないけど……でも、碇君がなにを迷っているのかはわかりました」
 碇君はと言い諭す。
「きっと誠実でありたいんじゃないですか?」
「誠実?」
「だって、アスカさんが好きと言ってくれるような碇君は、目の前の……あたしみたいな情けない子を、見捨ててはおけないような優しい人のことだってわかってるんですよね?」
 だからそんな夢を見たんですよと彼女ははにかんだ笑みを見せた。
「でも、他の子に優しくするなんて、そんな不実なことはできるわけがないから……どちらにしても、アスカさんに好かれるような碇君で居ようとしても、アスカさんだけを想っている碇君で居ようとしても、どっちにしてもアスカさんに嫌われてしまいそうで」
「……よくわかるんだね」
 マユミはこみ上げてくるものに、軽く首を傾げて苦笑した。
「いつも、こんな後ろ向きなことばかり考えてるから……」
「後ろ向きか……」
「碇君は、言ってたじゃないですか。あたしみたいだったって」
「そうだね……アスカに心配かけてちゃいけないのに」
 シンジは手のひらで顔を覆うと、ありがとうと礼を言った。
「話を聞いてくれて……」
「え……いえ、ごめんなさい」
「どうして謝るのさ? うれしかったのに」
「うれしい?」
 うんとシンジは頷いた。
「誰かに話を聞いてもらえるのがこんなにうれしいんだってこと……忘れてたよ」
「碇君……」
「もう、寝よう? ……ごめんね、起こしちゃって」
「いえ……」
 マユミはシンジに借りたベッドへと戻ろうとした。
 しかし、布団に潜り込む途中で、シンジに声をかけられて、振り返らなければならなくなってしまった。
「山岸さん」
「はい?」
 シンジは既に横になって背を向けていた。
 その背中が、マユミにすがる。
「僕はまだ……、山岸さんや、霧島さんのためになんて、思い切れないけど」
「…………」
「でも、僕だって、話を聞くくらいのことはできるから」
「……はい」
 マユミは今度こそ布団に潜り込んだ。
「おやすみなさい……」
 シンジからの返事はなかった。


 ──あれ以来、時折マユミはシンジの愚痴を聞かされる羽目になっていた。
 シンジは親切に話しかけてくれる。だからつい気安く話してしまっているのだが、いつの間にやら彼のことになってしまうのが難点だった。
「山岸さんは、義理のお父さんが好きなんだね……」
「はい」
「僕とは違うな」
「そうなんですか?」
「うん。僕はね? 父さんの知り合いがやってるっていう養護施設に預けられたんだよ。理由はわからない、でも僕は捨てられたんだと思ってた」
「……そうですか」
「うん、なにか理由があったんだと……信じたかったけど」
 父さんはあの通りだからねと儚く笑う。
「なんとか気に入られようとしたけど、だめだった。逆に後を追ってくるなってはねつけられたよ。勝手だよね? 勝手に捨てておいて、勝手に呼び寄せたくせに、僕のお願いなんてちっとも聞いてくれないんだ」
「……あたしも」
「ん?」
「あたしも同じ。だって引き取っておいて、仕事ばっかりで、最後にはこんなところに……」
「山岸さん」
「好きなんじゃなくて、好かれたかったのかもしれないって」
「僕だってそうさ」
「碇君も?」
「うん。だってそうだろう? 施設って言っても、よその家に居るのと同じだよ。僕にはちゃんと親が居たんだからね? だから居心地が悪くて、とにかく先生に好かれないとって、泣きたいときも笑ってた」
 同じだなぁと思い、マユミはなにも言えず聞き役に徹した。
「山岸さんの場合は、どうかはわからないけどね……。そんなだったから将来なりたいものとか、夢とか希望なんて考えられなくなってたよ。特にアスカに出会うまで……この街に来るまではね?」
(──え?)
「それまでなんとかなってたんだから、これからもなんとかなってくんじゃないかなって、今思えば甘いことを考えてたな……」


「はぁ……」
 マユミは引き出しから着衣を一通り鞄に移すと、その上に手を置いてため息を吐いた。
 白のキャミソールに赤のミニスカート、それにソックスという珍しい格好でいるのは自宅だからだ。ぺたんとしゃがみ込んでいる。憂鬱なのはこれからはネルフの宿舎に住まわなくてはならなくなってしまったからであった。
 地上の治安状況を考えると、これ以上彼女を地上に置くわけにはいかなくなってしまったのである。
「お父さんに……書き置きしておかなくちゃ」
 それから元栓を閉めて、戸締まりを確認してと、酷く現実的な算段を立てる。しかし心の内は別のところに飛んでいた。
(この街に来るまで、出会うまでということは……)
 アスカという人は、この街で出会い、この街で死んだのだろうか?
 なにか時系列がおかしい気がする。しかし訊ねるわけにはいかないし、誰かに相談できるものでもなかった。
(こんなこと……他の人に話すのは)
 自分だったらきっと、裏切られたって気持ちになって、それでも責めるよりは話してしまった自分を馬鹿だと思って……。
 ──心を閉ざして。
 ぶるぶるとかぶりを振って、それからずれた眼鏡を元に戻した。
「行こう」
 彼女はバッグを持って立ち上がった。
 時計を見る。外で待っているはずの護衛の人──加持リョウジとの約束の時間が迫ってきていた。


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