「なんであの二人だけ温泉旅行に行っちゃうのよぉ!?」
 叫ぶマナを、ムサシたちはまあ落ち着けと手で制した。
「温泉旅行じゃなくて、作戦だろ? 作戦」
「葛城さんなんて洗面器にタオルまで持ってったのよ!? ビールなんて四ケースも用意してぇ!」
 そんなマナの発言は、非常に有益な証言となった。
「碇」
「ああ」
「減俸は一ヶ月で良いか?」
「一ヶ月半だ」
 コウゾウはうむと頷いた。
「残りの予算も少ないからな」


 ──浅間山。
「これが今の使徒の様子よ」
 特設テントのリツコのもとには、シンジとマユミ、それにミサトが集っていた。
「なんだかよくわからないんですけど」
「今フィルタをかけるわ」
 彼女が指を走らせると、画面は温度差を表示するものとなった。
「使徒の方が低いんですね」
 そんなマユミの発言を耳にし、リツコはおやっと顔を向けた。
「そうね、おそらく内部の組織を破壊されないよう、外殻部分が断熱効果を持っているのだと考えられるわ」
 今度はシンジが口を開く。
「結局、引き上げてみなければわからないってことですね」
「そうね」
「マユミは準備に入って頂戴」
「はい」
 ミサトの言葉に、マユミは小走りに駆け去っていった。
 どこか動きが機敏になっているのは気のせいではあるまい。
「あなた……良い保父さんになれるわ」
 シンジは眉間に皺を寄せて反論した。
「僕はそんなに大人じゃありませんよ」
 でもねぇとミサト。
「誰が見たって今までのマユミじゃないわ、それは明らかよ」
 このこのと肘でつつく。
「やめてくださいよ……」
「人間、特に女の子ってのは、やっぱり男で変わるもんなのね」
「ミサトさんでもそうだったんですか?」
「ミサトの場合は、加持……」
「だぁあああ! うっさい!」
「……なんです?」
「さあね」
 白を切るリツコである。
「でもわたしも今後のために聞いておきたいわ。何を話したの?」
「なにをって……」
「あのマユミをあんなにも変えるだなんて、ただの話じゃないんでしょ?」
「知りませんよ」
「言いたくないの?」
「おかしいですか?」
「あの子は責任が伴うようなことには人一倍臆病だったもの。それなのに口を挟むまでになるなんて……」


 ──約半日前のことである。
 彼らはネルフ本部中央にある、作戦会議室に集められていた。
「使徒が見つかったんですか?」
 先頭を切ってマナが質問した。
「ええ、まだデータでしかお見せできないけど」
 そう言ってリツコは床面に浅間山を表示させた。
「この中よ」
「この中って……」
「マグマの中ですか」
 驚きもしないシンジに、そうよと頷く。
「でも確認できたのは存在だけよ、活動はまだ認められていないわ。おそらくはサナギのような状態にあると推察されます。そこで……」
 一同を見渡す。
「マユミ」
「はい」
「あなたには、火口に潜ってもらいます」
「え? ええ!?」
「目的は使徒の捕獲。できるだけ原形をとどめて回収するように、なにか質問は?」
 あくまでも淡々と話すリツコに対して、マユミはあたしには無理ですと泣きついた。
「こんなのあたしにできるわけないじゃないですか……」
「でもダイブ用のD型装備は初号機には合わないのよ。なら零号機か弐号機ってことになるんだけど……」
「あたしが潜っちゃだめなんですか?」
「溶岩の中はかなりの高温の世界になるわ。LCLも温度が上昇するし……直接肺に入るものである以上、少なくとも気管に損傷を負うことになります」
「だから……あたしには無理だってことですか」
「そうね」
「僕が行きますか?」
 横からの言葉に、リツコは露骨に顔をしかめた。
「あなたが?」
「僕でも零号機は起動するはずです」
「それはそうだけど……」
 いいえやっぱりと彼女は却下した。
「S機関の搭載以来、初号機はあなた以外のパイロットを受け付けなくなってしまっているのよ。あの機体の重要度を考えるとね」
「それじゃあまるで、山岸さんだったら死んでもかまわないって言ってるみたいですよ?」
「そうじゃないわ……そうじゃ、でも」
 リツコは本当のことを言えないと顔を歪めた。
 マユミであれば泣き叫んでくれるだろう。そうなれば収容を決意できる、回収指示を出せるのだ。
 だがシンジでは無理をしようとするかもしれない。平然と死を手段として用いる彼のことだ。リツコはそれを懸念していた。
「もし使徒が活動を開始した場合、なにが起こるかわからないもの……。最悪サードインパクトという状況もあり得るのだから、S機関という武器を持っている初号機には待機をお願いしたいの」
「……わかりました」
「マユミ、お願いね」
「……はい」
「山岸さん」
「……なんですか?」
「恐いと思ったら、引き上げて」
「え? でも……」
 彼女はおろおろとシンジとリツコを見比べた。
「……デリケートな作業なんだから、無理をするよりは手出しを控えた方が良いはずだよ。そうですよね? リツコさん」
 リツコはそれを認めた。
「ええ、そうね」
「それにね? 思うんだ……人類のために戦えっていうのはわかるよ。でもね? それなら使徒は倒すべき相手なんじゃないのかな? 少なくとも捕獲と調査なんて僕たちの仕事じゃないよ」
 リツコは同調するべきではないのだろうがと思いながらも、甘い言葉を付け加えた。
「無理だと思ったら、正直に言って頂戴、中断するから」
「……でも」
「迷いながらできることじゃないのは確かよ。あなたに死んで欲しくないのもね?」
「はい」
「頼むわ。……終わったら温泉、連れて行って上げるから」
 え────っと横から悲鳴が上がった。


「あ────もうムカツクぅ」
 なにさと訊ねたケイタに噛みつく。
「マユミよマユミぃ! ぜったいシンジ君と混浴なんかしちゃったりして!」
「山岸さんには無理なんじゃないかなぁ……、ねぇ?」
「俺が知るかよ」
「のぼせて、気絶しちゃうんじゃないのかな?」


 シンジも居なくなったことで、リツコとミサトはマグカップを手に、さらに深い話をしていた。
「でも実際なにを話したんだと思う?」
「シンジ君?」
「マユミちゃん、かなり怯えてたんでしょ?」
「ええ……こちらへの移動前に、少し話をしてたみたいなんだけど」
 それだけでと、彼女たちはシンジの『力』を再認識した。それは決して物理的なものではないが、大きなものだ。
 そう言えば……と思い出す。
「あの子、時々シンジ君の部屋に泊まってるみたいね」
「知ってるわ……止めた方が良いと思う?」
「あなたが……というよりも作戦部が反対しないなら、個人的には許しておいてもらいたいのよね」
 はてととミサトは首をひねった。
「行きすぎるんじゃないかって心配してるの?」
「まさか。そりゃ子供が出来たら……可愛そうだけど」
「堕ろさせる?」
「それこそまさかよ。まあ考えられるのは受精卵を摘出して冷凍保存し、折を見てお腹に戻して出産か……あるいは試験管で育てるか」
「現実的な意見ね、抵抗感あるけど……じゃあなにを心配してるの?」
「シンジ君よ」
 黒い液体を口に含んだ。
「情が移れば少しは行動を改めてくれるかもしれないじゃない? あの子、決して冷たいわけじゃないから……」
「むしろ保護欲が強すぎるくらいよ……隠そうとしてるみたいだけど」
 でもそういうことかと、彼女は作戦部の意見とも合致するわねと了承した。
「シンジ君に必要なのは理由だってわかってるでしょ? だから戦う理由……同時に自分を大切にしようと思ってくれる理由もできるのなら大歓迎よ」
「マユミには悪いわね」
「案外喜ばれるんじゃない? ……まああの子は気づいたりしないだろうけど」
「シンジ君は、きっと気づくわ」
「うん。それでもあの子は割り切るんじゃない? そういうところは、わりとあっさりとしてるから」
「監視のこととか?」
「そうね。その上で、それでもマユミを悲しませないように振る舞うことを覚えてくれたら」
「むしろマユミがシンジ君に対して泣きわめいてくれることを祈るわ……そうすればいくらシンジ君でも理解するはずだもの。自分が傷つくなり死ぬなりすると、この子は潰れかねないほどに泣くに違いないってね?」


 そんな大人たちの勝手な希望が働く中で、シンジはマユミへと話しかけていた。
「どうしたの?」
 駐機する巨人機。片膝をつく状態にある二機の間には、それぞれエントリープラグへと乗り込むための鉄塔が組まれていた。
 シンジはその上で膝を抱えていたマユミの隣へと腰掛けた。
「まだ恐い?」
「はい……でも恐いけど」
 マユミはじっとシンジを見つめた。
「恐くて当たり前なんだって、碇君が許してくれたから……」
 マユミはまた前を向いた。その方角には噴煙を吐き出す山がある。浅間山だ。
 セカンドインパクトの折には大噴火を起こしたらしく、この辺り一帯は土塊(つちくれ)だらけとなっている。さらには降り積もった灰が固まり、踏めば壊れて滑るような、地層までも作り上げていた。
「……恐いとか、嫌だって言えば、幻滅されるから」
「言えないよね、僕たちみたいな人間には、それが一番堪えるんだから」
「うん。碇君は……その、アスカさんには?」
「恐かったよ。だから必死に隠そうとしたな……でもそのおかげで僕は鬱陶しいって言われるような、そんな卑屈な人間になってしまった。おかしいよね? 嫌われたくなかったのに、嫌われるような人間になって……結局、馬鹿みたいにさらけ出すのが一番だったんだよ、そうすれば楽になれたんだ」
「でも……恐いです」
「そうだね、本当の自分を隠して守りたいって思うのは当然だよ」
「碇君は……いい人が見つかったんですね」
「そうだね」
 シンジはマユミへと微笑んだ。
 あるいはアスカへと微笑した。
「真剣に聞いてくれる人……笑ったりしない人、僕たちに必要なのは、きっとそういう人なんだと思うよ?」
 マユミはうらやましいなと素直に告げた。
「優しい人だったんですね……アスカさんは」
「ぜんぜん!」
「え!? でも……」
「優しくなんてないよ。アスカも僕たちと同じ側の人間だった。あたしのこと、ちっともわかろうとしてくれなかったくせに、優しくしろなんて言うなって言うんだよ。でも聞いたってさ、なにも話してくれなかったんだ……勝手だよね」
 おかしいだろうと苦笑する。
「けど、それは甘えだから……甘えてくれてるってことだったんだ。甘えさせてよって訴えてるってことだった……だから、僕がするべきことは簡単だったはずなんだよな」
 マユミはぽつりと正解を放った。
「甘えさせて上げること……」
「そのために、わがままに付き合ってやれる人間になるってことさ」
 だからとシンジは口にした。
「この間、話したよね? 山岸さんたちを甘えさせてあげることくらいはできるんだよ。でもアスカのことを考えるとだめなんだって。驕ってるわけじゃないよ。僕は頼れる存在なんだって、アスカは保証してくれた。僕はアスカの言葉を信じてるから」
 ああ……とマユミは羨望の目でシンジを見つめた。
 その時になって、ようやくマユミは、どうしてシンジのことが気になっていたのか悟ったのだ。
(これなんだ……)
 自分はやれると……できる人間なのだと保証してくれる人。
 絶対的に信頼の置ける、実力を持った人。そんな力のある人に認められたのなら、それは自信となって当然なのだ。
 シンジはそんな人を得て、確信して、ここに居る、だから。
(でも……そんな贅沢)
 それでもマユミが前向きになるには、まだまだ時間が必要であった。


 沈降する零号機のデータが忙しく流れていく。
 この情報は本部のMAGIにも送られているはずだから、発令所も緊張の局地にはあるのだろう。
 それでもやはり、現場には叶わないはずだ。
 そんな緊張感が漂う中で、一人場違いな質問をシンジへと投げかけた女性が居た。
 ──ミサトであった。
「シンジ君?」
 彼女は初号機との間にだけ通じているチャンネルを開くと、誰にも聞かれないようにと注意を払った。
「聞こえてる?」
「はい、なんですか?」
「聞いておきたいことがあるの」
 彼女はリツコへと意味ありげな視線を送った。
 リツコがなにかを操作する。
「このチャンネルは零号機には通じていないわ。だから詳しいことを話してくれない?」
「詳しいことって?」
 シンジは不自然な間に気づかなかった。
「あなたがなにを抱えているのか……それを教えて欲しいのよ」
 ミサトはまじめな話なのだと真剣な調子で先を続けた。
「わからないのよ……マナはいつだってOKだって感じじゃない? なのにどうしてマユミなの?」
 返されたものは戸惑いであった。
「こんな時にですか?」
「こんな時だからよ……。だってこの作戦が失敗すれば、サードインパクトが起こるのよ?」
 呆れた調子で、シンジは不吉なことを言わないでくださいよと彼女をなじった。
「だったらこんな作戦、中止してください」
「それもできないわ……必要なことでもあるもの、でも」
 言い訳をする。
「あたしはね? できればあの子たちに、悔いが残らないようにしてもらいたいのよ。いつ命を落とすかわからない以上は、ね?」
 そんな勝手なとシンジは言った。
「だからって、どうして僕に押し付けるんですか」
「あの子たちを意識することはできないの?」
「ミサトさんは勝手すぎますよ」
「あたしが?」
 そうですよとシンジは断言した。
「先のことはわからないから、手短なところで恋愛を経験させておいてやりたい。そんな傲慢な話がありますか? ないでしょう?」
「そうだけど……」
「ミサトさんも女だっていうんなら、キスだってなんだって、最初はいつか現れるかもしれない、一番大事な人のために取っておきたいんだって気持ち、理解できるでしょう?」
 でもとミサトは告げた。
「現実は、そんなに綺麗なものじゃないわ」
「それは現実を知ってスレた大人だから言える言葉ですよ」
「…………」
「山岸さんも霧島さんも、まだ夢を持ってるっていうのに、それを汚すような真似を人にやらせようと計画するなんて、酷すぎやしませんか?」
「だけど……」
「あの二人が大事だから、僕の気持ちはどうでも良いと? 僕にだって大事に想ってる人が居たんだ。その人との想い出を捨てろって言うんですか?」
「それは……」
 そうねとミサトは謝った。
「ごめんなさい」
 しかし、シンジは許さない。
「……謝ったからって、言った言葉が無くなるわけじゃないでしょう? 最初から自分の話がどういう風に受け取られるか? それくらいわからないんですか?」
 傷つきましたよとシンジはなじる。
 ミサトはけどねと言い逃れをしようとした。
「でもマナははっきりとシンジ君が良いって言ってるのよ? あの子の気持ちに答えて上げたって良いじゃない」
 シンジの嘆息が耳障りな音を立てた。
「答えましたよ」
「うそ……」
「答えました。僕にはその気持ちには応じられないってね」
 だがそれはマナが気持ちを固めるずっと以前、まだ興味を抱くにとどまっていた頃の話である。
「僕にだって大事な思い出があるんだ、それを守ろうとしちゃいけないんですか?」
「マナから聞いてるわ……」
「おしゃべりなんですね」
「…………」
「僕は、この胸に……大事な思い出だから、大切にしまっておきたいんです」
 話に割り込んだのはリツコだった。
「でもあなたはそのために他のことまで隠してない?」
「他のこと?」
「わたしたちが心配しているのは、なにもあの子たちだけじゃないのよ? あなたのことだって」
「僕のことなんて……」
「そうやって壁を作ろうとする」
「…………」
「一番怪我が酷くて、人を心配させてるのは誰?」
「……注意しますよ。通信、切ります」
 逃げられたとリツコはぐっと手に力込めた。
「リツコ?」
「なんでもないわ」
 ミサトは嘆息した、リツコもまたなにか彼のことで隠しているとわかったからだ。
 彼女は視線で『零号機』への送信を切れと伝えた。無言でマコトがそれを実行する。
 リツコが繋いでいたのだ。
「どう思う?」
 彼女はリツコへと訊ねた。
「やっぱり『アスカ』だと思う?」
「多分ね」
「でも彼の過去をどんなに辿っても、アスカなんて名前の子は現れなかったわ」
「もちろん想像上の人物だってことも考えられるけど……」
「生活環境から逃避するために作り出した虚像の友達ってやつ?」
「そうよ」
「そうよってねぇ……」
「誰も頼れない、信じられないって環境じゃあ、友達の一人も欲しくなるものよ……。人は楽しいことを夢描いて生きていく生き物なのよ? だったら空想の世界に逃げ込みすぎて、それを現実にあったことだと錯覚していたとしてもおかしくはないわ」
 ミサトは露骨に顔をしかめた。
「とにかくもう少し具体的な……容姿でもわからないことには話にならないわね」
「その通りよ」


「…………」
 開かれたままだった通信が、今になって打ち切られた。
 マユミはそのことに、大人たちに対する不審を感じた。まるでここからは都合の悪い相談をしようとしているのだと、人払いを受けたように感じられたからだった。
(でも葛城さんたちは勘違いしてる……)
 彼女は憂鬱なものを抱いて気落ちした。
(マナさんは碇君のことが好きなのかもしれないけど)
 思い出す……本部を出るときに交わした会話を。


「どうしたの?」
 シンジは浮かない顔をしているマユミに話しかけた。
「緊張してるの?」
「あ……違うんです」
 ええととどうもはっきりとしない。
 そういうところが嫌われる要因になっているんだけどなぁと思いつつも忠告はしない。
「なにかあったっけ?」
「霧島さんが……」
「ああ、残念そうだったね……」
「はい」
 マユミはおどおどと問いかけた。
「あの……」
「なに?」
「霧島さん……のこと」
「……何が聞きたいのかはわかるけどね」
「ご、ごめんなさい!」
「謝らなくてもいいよ」
「……ごめんな、あ」
 くすくすと笑う。
「ほんと、癖なんだね、それ」
「はい……」
「ま、いいさ……霧島さんが僕のことどう思ってるかって……、それは、そうなんだけど」
「碇君は……」
「好きだよ? 友達としてはね」
「…………そうですか」
「僕にはアスカが居る……今もね? 霧島さんには霧島さんにあった人がいるはずさ。僕じゃないよ……」
「そんなことないと思います!」
「山岸さんは……どうして僕に敬語を使うの?」
「え? だって……」
「それが答えになってるんじゃないのかな?」
 寂しげに語る。
「自分の周りにいる人たちが持ってない雰囲気……そういうのって、気になるよね?」
「はい……」
「そういうのと、恋愛感情っていうのは、きっと違うんだよ」
 ──加持さん。
「男の子だって、男の人にはあこがれるし、女の子だって、女の人にあこがれたりするだろう? それが男の子が女の人にあこがれたり、女の子が男の人にあこがれたりすると、とたんに恋とかそんな話になるんだよ。それと同じだよ」
 ──それでもと思う。
(霧島さんは、碇君のことが好き)
 なのにと思う。
(あたしの気持ちは、きっと碇君が言った通りのことだと思う……あたしは憧れてるんだと思う。ううん、うらやましいんだ、碇君が)
 しかし、なにがうらやましいのか? そのことが上手く口にできない。
 その上シンジは、確かに相談相手としては、これ以上となく貴重な相手なのだ。笑ったり、呆れたりしないで、ちゃんと話を聞いてくれる……たったそれだけのことをしてくれる人が現れてくれないのが、現実なのだ。しかし、シンジは、ようやく現れてくれた、それくらいのことはしてくれる人なのである。
 だから、変に掻き乱されて、失いたくないというのが、マユミの正直な気持ちであった。
(そんな間柄になりたいんじゃないのに)
 とりとめもなく思考を錯綜させる。
 無駄に時間を浪費する。その内にアナウンスが入り、彼女は意識を引き戻された。
「はい」
『状況の確認を願います』
 マユミはあらかじめ用意されていたプログラムを起動した。
 投影ウィンドウが開かれて、そこに様々なレベルメーターがマークされた。
「現在、深度七十です。沈降速度は二十、各部問題なし、視界ゼロにつきCTモニターに切り替えます」
『了解』


 ──ネルフ本部。
 メインモニターには、浅間山の様子が映し出されている。その背景である青空に、飛行機雲がいくつもたなびいていた。
「UN軍も必死だな」
 コウゾウである。
「サードインパクトを懸念していれば、これもまたやむなしか」
 ふんと司令があざけりを浮かべた。
「使徒を耐熱爆雷程度で処理できるものか」
「内部は想像以上の圧力が働いているはずだからな……バランスが崩れればわかるまい。それよりも問題は噴火だ。なぜ初号機をバックアップに付けた?」
「問題ない」
「初号機を失うわけにはいかんのだぞ?」
 コウゾウは沈黙を保つ年下の上司に、なにか企みがあるのだなと目を細めた。
 この男が無口になるのは、後ろめたいことがある時なのだと決まっているのだ。追及されるとまずい問題が浮上すると、とりあえず黙り込むという習性を持っている。
 コウゾウはそのことを知っていた。
 無言の姿が、どれほど威圧感のあるものなのか自覚している。それを熟知しているからこそ、このようなポーズを取って、なんとか相手が去るのを待つ。
 コウゾウは、卑怯者めと罵った。


 計器に反応が現れる。
 コンピューターがあらかじめ用意されていたデータとの検証を行い、誤差を修正し、報告してくる。
 マユミはこれ以上は潜らずに済むとわかってほっとした。
「目標を確認、電磁柵を用意します」
 本部で受けた即席講習通りにこなしていく。
(大丈夫……大丈夫、碇君に教わったじゃない。だからきっと、大丈夫)
 マユミは薄く唇を開いて、何事かを呟き始めた。


 ──頑張ってるんだ、一生懸命僕はやってる。
 シンジは唐突にそんなことを言った。
「なんですか?」
 言い訳だよと、おどけて見せた。
「いっつもそういうことを言ってたんだよな。でもみんながやってくれなくちゃ困るっていうのは、もっとレベルの高いことばっかりでさ、いつも僕はそんなの無理だってごねてたよ」
 自分にも覚えのあることなのか? マユミはほんの少しだけ顔をしかめた。
「そうですか……」
「うん、いっつもさ。僕はだけどね? でも山岸さんだって似たようなもんなんじゃないの?」
 マユミはドイツで関わっていた実験のことを思い返し、うなずいた。
「はい……」
「でも、本当に恐かったのは、上手くやれないことじゃないんだよな」
「え?」
「恐いのは、どこまで頑張ればいいのか、誰も教えてくれないってことさ。頑張れ、頑張れって言うばかりで、なにをどう、どこまで頑張ったら良いのか? 誰も具体的には教えてくれないんだ、やり方もね?」
 だから際限なく、見えない高みを目指すしかなくて……。
「そんなの、途方に暮れちゃって、やる気なんて起こせないよね?」
 マユミには芸のない返事をすることしかできなかった。
「はい」
「だからさ」
 教えておきたいんだとシンジは告げた。
「アスカのことは……今は忘れる」
「碇君!」
 それはいけないと叫ぼうとしたマユミに、良いんだとシンジはかぶりを振った。
「でも、あたしなんかのために」
「山岸さんが死ぬようなことになったら、そっちの方が僕は落ち込むよ……激しく後悔することになる。それならこの程度の申し訳ないって気持ちを我慢して行く方が良い」
「碇君……」
 マユミはもう十分によく理解していた。
 シンジがアスカという少女との間に培ってきたものを、人のために用いることにどれだけの抵抗感を抱いているのか? それは苦痛で言い表せる程度ではない。
 なのに、我慢してくれようと言うのだ、信念を曲げてまで。
 こみ上げてきたのは、感謝の念であったのだろうか? ともかくマユミは、シンジの気持ちに強迫観念を抱いてしまった。
 無駄にしてはいけないのだと。


 ──良いことを教えて上げるね?
 ミサトとリツコは、マユミがなにかを口ずさんでいることに気が付いた。
「あの子、なにを……」
 小さく、小さく……しかしそれは、歌だった。


 ──ロンドン橋落ちた……落ちた……落ちた……ロンドン橋落ちた……ロンドン橋……。


「歌詞間違ってるじゃない……」
 呆れるミサトに、そういう問題じゃないわとリツコは教えた。
「心拍数が下がってる」
「ほんとに?」
「ええ……こんなことで」
 マユミは淡々と歌い続ける。


『鼻歌でさ……つい歌っちゃう歌ってないかな?』
『歌って言われても……』
『単調で、調子が良ければなんでもいいよ』
『ロンドン橋とか……』
『良いね、そういうので良いよ』
『でも』
『そういうのをさ、口ずさんでると良いよ……。色々と考えすぎるから失敗するんだよ。だったら体に任せてしまえば良いんだ。ぼうっとしてる間に最後までやっちゃってたってこと、あるだろう? その応用さ』
 ほんとだ……とマユミは気が楽になるのを感じていた。
 ぐっと集中しようとして、力を入れすぎたりしないでいられる。マユミはもうすぐ終わると、それこそ無心に作業をこなしていった。
 ──そして。
「使徒、捕獲しました」
 よくやったわとミサトの声。
 マユミはほっと一息抜いた。
(碇君……)
 彼にちゃんとお礼を言って、褒めてもらおう……そんな風に体をシートに預けた直後だった。
「え?」
 電磁柵が内側からの圧力によって打ち破られた。

Bパート

「きゃあああああっ!」
 マユミは衝撃に悲鳴を上げた。
 マグマが渦を巻いて流れを形作る中を、不格好に防護服姿の零号機が泳いだ。
 孵化した使徒の尾に打たれたのだ。
「きゃああああ!」
 激震は収まらない。
 マユミは目を見開き、目尻に涙をにじませた。血走る。
 正面モニタには、張り付いている使徒の姿が大写しとなっていた。うねうねと口の触手が蠢いていた。気持ち悪かった。
「早く巻き上げて!」
 ミサトは喚いた。
「無理です! これ以上は……」
「くっ」
「マユミ、ナイフを!」
 マユミはひぃと悲鳴を上げながら、ミサトの指示に従っていた。
 防護服の足に設置していたナイフを引き抜き、使徒の顔に突き立てる。
 ──弾かれた。
「これだけの高温高圧に耐えているのよ? プログナイフじゃ無理よ!」
 リツコは考えてしかるべきことだったと歯がみした。
 そのような環境下で戦闘となる可能性があったからこそナイフを持たせたのだ。ならば環境に適応した使徒の硬さも想像しておいてしかるべきであった。
 ──熱膨張だ!
 天啓が下された。
「マユミっ、パイプを一本千切って使徒の口に突っ込んで! マヤ!」
「はい!」
 不細工に踊って、零号機がなんとかパイプの一本を手につかんだ。
 切り離し、使徒の口に突き込む。
「三番よ!」
「はい!」
 冷却液が使徒の口から逆流して溢れる。ミサトは今よと刺せと叫んだ。
「くうっ!」
 マユミは無我夢中でナイフを使徒の背に突き立てた。今度は弾かれることなく半ばまで刺さった。
「やった!?」
 ミサトは驚喜した。使徒は激しくもがいたが、やがて徐々に力を失い、零号機から剥がれて沈もうとした。それに連れてナイフが甲羅を裂いて、切り口を広げていく。
 ──まだだ!
 気を抜こうとする彼ら彼女らを、シンジは大声を発して叱りつけた。
「え?」
 次の瞬間、マユミは理解不能の事態にさらされていた。
 使徒の背の裂け目より、透明に思える何かがずるりと這いだした。
 それは細く長く跳ねるように伸びて、零号機の顔面にぶつかった。


「マユミ!?」
 地鳴りが始まった。
「なに? 地震!?」
「浅間山です!」
 マコトのセリフに重なって、爆発音が鳴り響いた。
 音という音を飲み込んで、彼らの鼓膜を痛めつけた。そして同時に大地が跳ね上がり、彼らの足を取って転ばせた。
 椅子に腰掛けていた者たちも転ばされる。さらにはモニタやパソコン、計測機器などが倒れかかった。
「噴火だなんて!」
 ミサトは爆発が収まるのを待って台を頼りに立ち上がろうとした。
 震動は収まっていくのだが……。
「マユミは!」
「マユミ!」
 リツコは悲鳴を上げた。D型装備の零号機が、火口から宙へと舞い上がっていた。
 噴火の勢いに飛ばされたのだろうが、冷却剤を送るケーブルが尾を引いている。その下にはタンクがぶら下がり、零号機の体を引き戻すように働いて、失速を促し、落下体勢へと入れていた。
「初号機が!」
「シンジ君!?」
 降りしきる溶岩の雨の中を、初号機が一直線に駆け抜けていく。
「間に合うの!?」
「だとしても零号機の重量を!」
 シンジに迷いなど無かった。
 音速を突破した初号機の展開するATフィールドは、後方になびいて三角形を作り上げ、描いていた。
 初号機は斜面をできる限り駆け上ると、地を蹴って空中にある零号機の体を抱き受けた。
 ──ぐぅ!
 諸共に地面に転がり落ちる。ビキ、バキと嫌な音が鳴った。
 シンジの両腕と、腹に、フィードバックによる異音が響いた。
「シンジ君が!」
 壊れていないモニタを地面から拾い上げて机に置く。
「フィードバック過多ですっ、死んじゃいます!」
「シンクロ率も上がってる? ゲインを下げて!」
「待ってください! 使える端末が……」
「早く戻して!」
 だが被害は指揮所だけではなかった。
 噴火による地震はパラボラアンテナも倒していた。その上電磁波が発生していて情報の収集を妨害している。初号機の状態も途切れ途切れに確認できるだけであった。
 皆が必死に働き、まだ使えるものを使えるようにしようとする。
「なによ、あれは!」
 そんな彼らの動きをミサトが止めた。
「なに?」
 目を丸くし、マヤは呻いた。
 吹き上がるマグマに紛れて、より赤黒いものが踊っていた。
 伸び上がり、蛇のように身をくねらせて舞っているのだ。それはまるで竜に思えた。
「使徒が成長したんだわ」
 リツコの言葉にぎょっとする。
「あれが使徒だって言うの!?」
「他に考えられない……いえ、考えたくないでしょう?」
 あんなものが、使徒以外にも存在しているだなんて……そんなリツコの言外の文句に、彼女たちは納得せざるを得なかった。
「でも使徒はあの固い殻を持った……」
「蛹だったということよ、あれが成獣なんだわ」
「くそ!」
 だがそんな彼女らと違い、シンジには考察しているだけの悠長な時間は残されてはいなかった。
 噴火しているのだから、当然溶岩は流れてくる。D型装備の零号機は、このまま放置しておいても大丈夫だろうが、標準装備の初号機には、問題のあり過ぎる環境であった。
(エヴァが耐えられたとしても)
 装甲が持たないのである。
 一万二千枚という多層構造の装甲である、これが溶ければ最悪の場合、エヴァの関節は固められてしまうことになる。
 またシンクロ機構にも影響が出かねない。シンジは迷わなかった。内蔵電源からエネルギー供給元を切り替えた。
 ──初号機のS機関が作動しています!
 マヤの悲鳴がノイズまじりに聞こえた。火山の噴火に伴うこの電磁波の嵐の中で、よく聞こえるものだと感心する。
 ──シンジ君っ!
 リツコとミサトの悲鳴が重なって聞こえた。
 リツコはシンジを心配していた。S機関を使用するためには高いシンクロ率と高いハーモニクスを必要とするのだ。
 見上げれば火を吹く火口が……空からは焼けた岩石が降り注ぎ、足下には赤黒い溶岩が流れている。
 そんな環境でシンクロ率を高め、ハーモニクスのリミッターを解除するなど、正気の沙汰ではなかった。
 ATフィールドで、熱波のような二次現象は防ぎきれないのだ。ATフィールドによって防御できるものは、衝撃度の強い物理接触が主である。
 ──その一方で、ミサトはエヴァンゲリオンとS機関の関係に怯えていた。
 セカンドインパクトは使徒が起こしたものである。だが使徒がそれをなし得たのは、S機関と呼ばれる永久機関を持っていたからだ。
 初号機……エヴァは使徒のクローンである。そのクローンが永久機関を起動した。これは同時にサードインパクトの危険性を示唆していた。
 コントロールを誤れば?
 機械制御である電気供給と違って、生体機関であるS機関は、完全にパイロットの集中力がすべてであるのだ。
 危険すぎた。
「う……」
 そんな中、マユミはようやく意識を取り戻した。
「……あたし」
 頭を振って起きあがる。
 シートに体を預けてぼうっとする。
「……碇君?」
 いつかもこんなことがと考えて、彼女は正気付いた。
「碇君!」
 気が付いたかとシンジは言った。
「大丈夫?」
「はい! でも、碇君は……」
 マユミはエヴァに起きあがるよう指示を出して、上手く動けないことに気が付いた。
「あ、D型装備……」
 それも冷却用のパイプは繋がったままだった。
 根本はどこに消えているのかわからないが、冷却剤はまだ送られてきていた。
「だめだ!」
 外そうとしたマユミにシンジは叫んだ。
「外気の温度を見て! 零号機じゃ持たない」
「え!?」
 慌てて温度計を呼び出す。針は危険域を指していた。
 もちろん火口内での作業を目的に追加されたものであるから、レベルメーターのパーセンテージとしては非常に低い。しかし通常装備のエヴァにとっては危うすぎるものだった。
「碇君!」
「こっちは大丈夫だから」
 ちりちりと何かが初号機の周囲で弾けていた。それは空から岩石が降ってきたことで明らかとなった。
「ATフィールド」
 火山弾が金色の壁にぶつかって砕けるのがよくわかった。弾けるものは干渉光なのだ。
 見れば足下の溶岩流も、ATフィールドによって割いている。
「すごい……」
「でも、ない」
「え?」
「これじゃ、戦闘なんてできない」
「戦闘って……」
 マユミはようやく使徒の存在に気が付いた。
「そんな……」
 延々とマグマが噴き上がっている。そんな中から、鎌首をもたげて睥睨しているものがあった。
『マユミ、聞こえてる?』
 リツコだった。
「はい」
『相手は特定の形状を持っていない可能性があるわ、注意して』
「形状?」
『こちらで取れたデータから察すると、流体構造を持っていると考えられるの。頭部にコアかそれに相当する核があって、下に伸びている体はその核に吸い上げられているだけの溶岩よ』
「じゃあ、あの使徒は……」
『ええ。液状物質を自在に自分の体とすることができるみたいね』
 そんなのを相手に、どうやって……。
 マユミが思い悩んでいると、使徒は気弱な反応を見抜いたのか? 先端部に亀裂を生んで伸び上がった。
「なにを……」
 シンジがその先を見ると……噴煙を切り裂く機体が見えた。
「戦闘機……UN軍の?」
 ぎょっとしたのはマコトだった。
「NN爆弾の投下を確認!」
「なんですって!?」
 光の玉が落ちてくる。
 ああとミサトは絶望した……それは死を予感したものであった。
 初号機と零号機をも巻き込んで、衝撃波は地を這って、熱波を届けてくれるだろう。
 死ぬのだ、誰もがそう思った。だがそれは早計というものであった。
「使徒が!」
 炎を吹いた。
 長大な火炎放射だった。紅蓮の炎は黒く染まる空を貫き、光の玉を消滅させ、さらに退避行動に入っている戦闘機を追いかけ、破壊した。
 黒煙の中に機体は消えた。爆発光が最後を知らせる。
 炎は一キロは伸びていた。
「危ない!」
 シンジは肌にチリとしたものを察して、マユミの前に立ち盾となった。
「碇君!」
 使徒は再び炎を吹いた。何百メートルもの距離を長く炎が伸びて初号機を包んだ。
「碇君!」
 ──ぁああああ!
 ハーモニクスの高さ故に、シンジは肌が焼けて溶け落ちる錯覚を覚えてしまった。
 フィードバックにより、味わってしまう。
「ハーモニクスのレギュレーターを一桁下げて!」
「だめです! 既に内蔵電源は切れています。ハーモニクスを下げるとS機関の使用に重要な問題を発生させます!」
 マヤの言うとおりだった。S機関が停止してしまえば元も子もない。
「シンジ君!」
 火が途切れたことで、初号機はがっくりと膝を突いた。
 使徒はとどめをさすためにか? ついに火口より動き出した。
 身をくねらせて空へと伸び上がり、溶岩の川にばしゃりと倒れる。胴を打ち付け、山肌を削りながら下り、恐ろしい勢いで火に包まれている初号機へと襲いかかった。
「ああ!」
 マユミには悲鳴を上げることしかできなかった。
 とっさにシンジは右腕を犠牲にした。使徒に噛みつかせて振り払おうとする。だが使徒のあぎとは予想以上の圧力を持っていた。
 逆に初号機を咬み上げて、人形のごとく振り回したのだ。
「使徒が……大きくなってく!?」
 使徒は初号機の重みに負けぬようにか? 足下を流れる溶岩を吸い上げて身を太らせた。取り込み、膨れあがり、肥えていく。
(でもあの使徒には本体があるはず……幼体であったあの体の中に収まっていただけのはずよ)
 ミサトは冷静に状況を分析しようと試みていた。
 机に手を突き、額に嫌な汗を浮かべながら、双眼鏡でじっと使徒を睨みつけている。
(その本体が溶岩を吸い上げて、衣として身にまとっているだけなのよ。なら、なにか方法があるはず、方法が……)
 ミサトは上半身を起こそうともがいている零号機に目を付けた。
(これだ!)


 初号機の腕を咬み、持ち上げ、頭上で振り回し、竜型使徒は、エヴァを人形のように放り投げた。
 地に叩きつけられ、初号機は一転二転と跳ね上がった。
 斜面をわずかに滑り落ちる。
「ぐっ、あ!」
 そこは溶岩が川となって流れている場所からは外れていた。プラグ内部のモニターはあちこちが死んで暗くなっている。インテリアが壊れたのか、カメラが死んだのかは微妙なところであった。
 満身創痍で、初号機は降り積もる灰の中を立ち上がろうとする。溶岩によって焼けた装甲に灰が張り付き、燃え上がる。
 人の生きられる世界ではなかった。
 初号機は人のようにがくがくと痙攣する膝を手で押さえつけて立ち上がった。──シンジは悲鳴を上げている体に鞭を打った。
 そんな初号機の下へと、使徒がゆっくりと迫っていく。ずるずると長大な胴を引きずりながら、赤い川を渡って行く。
 ──先端部の、横に走っている切れ口の両端が、どこかつり上がっているように感じられた。
「あ……」
 ──それがシンジの意識に引っかかった。
「お……まえ」
 シンジはフラッシュバックを味わった。


 ──空を舞う白い巨人たち。
 手に槍を、肉をつかみ、囓る唇。
 その口の形。
 食われていた物……。


 シンジは朦朧とする意識の中で、ぼやけた視界にそれを見た。その笑みが……シンジの持つ嫌な記憶を呼び覚ます。
 ──使徒の口からは炎が溢れて燃えていた。
 (ブレス)によって大気が燃えているのか? それとも炎を吹いているのか判別は付かない。だが、シンジには一つだけわかったことがあった。
 似ているのだ。
 ──もう、しつこいわね! 馬鹿シンジなんてアテにできないのにぃ!
 幻聴が聞こえて、ますますシンジは思い出してしまった。
『シンジ君!』
 ミサトの声だった。なにかを伝えようというのだろう。だがそれはシンジに死に際のミサトの微笑を思い起こさせただけとなった。
 エレベーターの、別れ際の。
「おまえ……」
 シンジはうつむいて震えた。グリップを持つ手にありったけの力を込めて歯ぎしりをした。
「……らうな」
 彼の脳裏に、幾つかの絵が浮かび上がっていた。
「笑うな」
 いやらしく口元を開いた目のない人形。
「笑うな……笑うな、笑うな、笑うな笑うな笑うなぁ!」
 カッと目を見開いて、身を乗り出してシンジは叫んだ。
「笑うなよぉ!」
『シンジ君!?』
「うわぁああああああああ!」
 初号機はシンジの意思のままに駆け出した。
 シンジの耳には誰の声も届きはしなかった。
 それほどまでに彼は我を忘れていた。彼には笑っているようなその口の形に、最悪の想い出を引きずり出されてしまっていた。
「うわぁあああああああ!」
 無惨な弐号機の幻影が彼を狂わす。
 情けなくも自暴自棄になってしゃがみ込んでいた自分のことを顧みる。
 もしもあの時、しゃがみ込んでなどいないでいたら……。
 後のこと想像して、いつものように怯えて、嫌な思いを抱かないように戦っていれば。
 その後悔の念を払拭するために、どれだけの時間が必要だったか……。
 ──うっ、ぐ!
 廃墟の中で、シンジは右手を石で潰そうとしていた。
 やめてとしがみついたのはアスカだった。
「やめてっ、やめてよ! なんでこんなことするのよ!」
「だってアスカが汚らしいって言ったんじゃないか! そんな手で触るなって言ったんじゃないか!」
「そうだけど!」
「その通りだよ! この手でアスカを汚したんだ! それだけじゃない! アスカが辛かったときも、この手は伸びてくれなかったんだ、引っ込もうとしたんだよ! そんな臆病な手なんてもういらないんだよ!」
「だけど!」
 アスカは涙を散らして懇願した。
「あたしを助けてくれたのもその手だったじゃない!」
 ──だから、彼は、常に右手で身をかばうのだ。
 彼女を心から抱きしめるためには……穢れていない、左の腕を、まっさらなままに残しておかなくてはならないのだから。
 右手がどれだけ痛むことになったとしても。
 もはや汚物同然の利き手であるから、使い捨て同然に、盾とする。
「うぉおおおおおお!」
 火炎放射を右手で受けて払いのける。
 無茶よとミサトが悲鳴を上げた。
 炎を割って、シンジは使徒に飛びかかっていった。初号機は暴走時のように両手を開いてつかみかかった。
 ──どうして!?
 ミサトの疑念を無視して状況は進む。
「マユミ!」
 やむなくミサトは指示を出した。
 楕円軌道を描きつつ、冷却剤の詰まったタンクが使徒の側頭部へと飛来した。直撃し、タンクは壊れて、残されていた大量の冷却剤を振りかけた。
 ブシュウッと白煙が広がった。
 上半身のみ装甲を外して、不格好に零号機が体を起こしていた。両手で冷却パイプを束にしてつかみ、それを振り回してタンクを叩きつけたのだ。
 頭部を白く凍らされて使徒はもがいた。胴部は黒く固まり強ばっていく。その間隙を縫って初号機は間合いを詰め、懐へと潜り込んだ。
「うわぁあああああ!」
 初号機は右腕を引いた。拳を固める。
 使徒は苦しみから頭を振った。あちこちがビキバキと割れて壊れる。  初号機は使徒の頭部が一旦上がり、そして下がって来たところを待ち受けて狙い打った。
 ──固めた拳が突き刺さる。
 破砕された頭部が、氷の破片となってきらきらと舞った。赤の世界を荘厳に彩る。しかし初号機は止まらない。腕を上腕部まで突き込んで、何かを握って、力任せに引き抜いた。
「コア!」
 ミサトとリツコが歓声を上げる。
 ──ウォオオオオ!
 初号機の顎部ジョイントはいつの間にか外れていた。雄叫びを上げて、冷却剤の粉雪が降る中で、初号機はそのコアを両手に持ち高く掲げて──。
 ゴガン!
 ──力の限り、握りつぶした。
 主に左手の力によってそれは割れた。コアは焼けていたのか初号機の右手に癒着して剥がれなくなっていた。
 前後して、使徒の体であった溶岩が形を失い、ドザァと崩れた。マグマの奔流となって流れていく。どろどろと粘土を持った川となって静まっていった。
 ぐらりと揺れる初号機に、マユミは悲鳴を上げて泣き叫んだ。
「碇君!」
 下半身の装甲も排除する。
 降り来るものだけでも確かに熱い。ちりちりと肌が焼けるような感触がある。だがそんなものはフィードバックによる錯覚に過ぎないのだ。
 痛がり、怯えていられる余裕は失われていた。マユミはあの時のように──使徒に体当たりをかけたときのように、溶岩溜まりを水たまりのように踏みつけて、しぶきを上げて、前に揺れ、今度は逆に背後に傾いて、坂を転がり落ちようとした初号機の身を確保した。
「碇君っ、碇君、碇君!」
 マユミは初号機を揺さぶって呼びかけた。
「碇君!」
 泣き声で彼を呼ぶも、返事はない。
 そんな具合に取り乱すマユミに、リツコとミサトは声を揃えて怒鳴りつけた。
 早くここまで降りてこいと、彼を助けたければ安全な場所まで移動しろと……。
 初号機を捨ててエントリープラグだけを回収してでも、彼をここに運んでこいと、彼女たちは叱咤し、そんな一同の錯綜の中で……。
 浅間山が、二度目の噴火を行った。


 蝉の声。
 旅館の一室。
 布団のシンジ。
 そのそばにマユミ。
 彼女は団扇で彼を仰いでいた。
 窓の外にはまだ噴火を続けている浅間山の姿がある。
 灰の雨が降っていた。


 大型ヘリが四機がかりで初号機をつり上げ運び去ろうとしている。
 ぐったりとしている様は、まるで貼り付けにされた罪人のようである。
 渋い顔で、ミサトとリツコが見上げていた。
「シンジ君、危なかったわね」
 独り言のようなつぶやきを、リツコは聞き逃しはしなかった。
「本当なら病院送りにしたいくらいよ」
 より一層眉間に深く皺を寄せる。
「フィードバックは確実に彼の神経組織を痛めているわ……。今回は焼き切れなかったのが不思議なくらいよ」
 そうとそっけなく応じるミサトである。
「治るんでしょ?」
「じっとしてればね? そうでなくても治すわ。まだ乗ってもらわなくちゃ困るんでしょ?」
「そうね」
 だからと彼女は付け加えた。
「シンジ君の心理鑑定、お願いできる?」
 もちろんよとリツコは答えた。
「碇司令の許可はわたしが取るわ」
 頼むわねとミサト。
「これ以降も、彼がこんな無茶な行動を取るようなら、降ろすことも考えなきゃいけないから」
 やはり彼はおかしいのだと、二人は共通の認識を抱いていた。
 もしあれが自己犠牲の精神によるものであったとしても、あの取り乱しようは、人類の命運を賭ける戦いには、非常に危険過ぎるものであった。


「う、う……」
 うなされるシンジの額の汗を、マユミはそっと手ぬぐいでぬぐった。
 唇をぎゅうっとかみしめている。眉間には酷く皺が寄せられていた。
 彼女もまた気がついてしまったのだ、シンジが持っている狂気の深さを。
 いや、とっくに気が付いていなければならなかったのだ……彼がアスカという人に、どれだけの想いと気持ちを抱いて尽くしていたのか?
 その身をどこまで捧げていたのか?
 そんな彼の、思い詰めた果ての想いは、今は向かう先を失って、荒れ狂うだけのものとなっている。
(碇……君は)
 その一端とは言え、自分に向けてくれると、そう言った。
 彼は誓ってくれたのだ。
(恐い……)
 だがマユミは怯えていた。
 とてもその気持ちに応えることなどできはしないからだった。彼女は臆病になっていた。
(溶岩なんて、恐くなかった)
 シンジのために駆け出せた。熱くても踏めた、走れた……それはすなわち戦うこともできたということだった。
(なのに……あたしは)
 シンジが言った。
 しなければならないことがある時に、体を動かすためには勇気がいると。
(あたしは、見てるだけだった)
 本当の勇気があれば……。
 この人がこんなになることはなかったのかもしれない。
 これもまたすでにシンジに言われていた。
 自分が傷ついた方が気が楽なものだ、と。
(ずるい……)
 あたしは、ずるい。彼女は自分を弾劾する。
 使徒を恐れ、シンジを失うことを恐いと思った。自分が持っている勇気の大きさ、その線引きは、そこの辺りにあるのだろう。
 彼が言うように……こんなに嫌なことはない。なら必死に逃げるしかないのだ。強くなってでも、避けて生きられるようになる他はないのだろう。
 これもまた、シンジの教えにあったことだ、だから。
「卑怯よ……こんなの」
 こんな自覚の促し方ってない……と。
 マユミはシンジに、涙した。


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