ネルフの地下実験場では、数時間後に予定されているテストのために、最終調整が急がれていた。
「おーおー速い速い。さすがはMAGIね」
 珈琲を片手に、のんきに感想を述べたのはミサトである。
「最初のテストに二ヶ月もかかったってのが嘘みたいね」
「そうね」
 生返事を返しながらも、リツコは何かしらのチェックに勤しんでいた。
 助手に数人、それぞれが何かを行っている。正面の強化ガラスの向こう側は水であり、ダイバースーツの人間が二人、泳いで見えた。
 ミサトはやることがないなとリツコに訊ねた。
「それで、わかったの? 例の……」
「ASUKA?」
「ええ」
 二人は盗聴記録の内容を思い返した──それは温泉地でのことであった。
「う……」
 全身を襲うひきつれに、彼は苦痛の呻きを発した。シンジであった。
 彼はその痛みによって、失っていた意識を回復させた。
「山岸……さん?」
 眠りから覚めたシンジが見たものは、ぼやけた視界に映り込む、不安げな少女の顔であった。
「よかった……」
 シンジは彼女の頬に『右手』をあてがおうとした。
「無事だったんだ……」
 はいとマユミはその手を取って、自ら頬に当てさせた。
 こんな時にまで人の心配をするシンジのことを、怒鳴りつけてやりたいと思いながらも、彼女は泣きそうになっていた。
「はい……あたしは無事です、生きてます」
「うん……ここは?」
「ネルフで予約していたっていう旅館です」
「そっか……葛城さんが騒ぐとか言ってたっけ」
 頭がはっきりとしてきたのか? 彼はあれっと疑問符を浮かべた。
「でも確か……噴火」
 はいとマユミ。
「今は誰もいません……あたしたちだけです」
「……良いのかな?」
「かまわないそうです……みなさんは撤収作業にかかりきりで、その間、ここで待っているようにって」
 そっかとシンジは力を抜いた。
「今っていつかな?」
「碇君が気を失ってから、丸一日経ってます」
「そんなものか……」
「ずっと眠ってたんですよ?」
「ごめん……、でも、もういいから」
 手を取り戻そうとする……しかしマユミは、その手をぎゅっと握って逃がさなかった。
「山岸さん?」
「……して」
 マユミはうつむき、喚き叫んだ。
「どうして、そんな風に!」
「え?」
 彼女はついに耐えかねたのか? ぶるぶると震えて訴えた。
「こんな無茶ばかりして……っ、あたし、嬉しくないです、全然……それどころか……」
 涙目を向けた。
「辛いです……」
 二人、しばらくの間視線を絡める。
 先に折れたのはシンジだった。
「ごめん……」
「碇君……」
「山岸さんの負担になるつもりはなかったんだ……」
 シンジはマユミの手を握り返した。
「前に……言ったよね? 僕が一番恐いと思ってるのは、臆病風なんだよ。これに負けると、次も次もって、どんどん尻込みして行くようになっちゃうんだよ。そうして誰からも置いていかれるようになって、見向きもしてもらえなくなるんだ。僕はもう、そんなの嫌なんだよ。だから逃げない」
「でも……それで死んじゃったら」
「意味なんてない? でも山岸さんに死なれるよりはずっと良い……」
 ぐっと堪える。
「先に死なれるよりは、先に死にたい」
「碇君……」
「山岸さんを死なせてしまって、それを後悔したくないんだ……僕は、アスカを」
 深呼吸する。
「山岸さんが、重荷に思う必要なんてないんだよ。僕だって、君のことを気にしてやってる訳じゃないんだから」
「でも、碇君は……」
「続けるさ、これを、ずっと」
「そんなの……ずるいです。無視できるわけ……」
「そうだよね」
 嘆息する。
「僕だって知ってるよ……。関係ない、無視しようと思ったって、できないってことはね?」
 ──崩壊した世界を生きて、自分にはアスカだけなんだと言い切れるようになった今でも、滅びた世界で出会ったマユミを、自分はいつまでも忘れずにいる。
 それは、あの日──この街を去ると決めて逃げ出そうとした日の思いに共通している苦みであった。
 結局、逃げ出せずに、自分は戻った。二度ともだ。
「……僕に言えるのは、ただ一つだけだよ」
 真剣な目をしてマユミを見つめる。
「逃げちゃ……だめなんだ、なによりも自分から」
「自分から……」
「そうさ。臆病で、恐がりな自分が出てきても、でもそこで踏ん張って、足を出さなくちゃ、頑張らなくちゃ! いつまでたっても前に歩き出すことなんてできやしないんだよ……。そういう、自分には無理だって思ってるようなことをやろうって決めた、そんな決意のことを勇気って言うんだって、僕はアスカに教えてもらった」
「アスカさんに……」
「そうだよ。だから僕は逃げない、逃げ出したくない……逃げ出したって良いことなんてないって、一番よくわかっているから」
 そして二人は、その会話を盗聴していたのだった。
「結論から言えば……」
 リツコはタバコをくわえようとしてしまい、マヤに睨まれ、慌てて仕舞うことになってしまった。
「ASUKA……実在している存在よ?」
 ミサトはぎょっとした。
「ほんとなの!?」
「ええ……。惣流・アスカ・ラングレー……。カウンセラーが聞き出した名前よ? そしてネルフドイツ支部、技術部の惣流・キョウコ・ツェッペリン博士に、同姓同名の娘が居るわ」
「ドイツ支部……」
「十四歳よ」
「あってるわね」
「ええ……もしかすると、まだここがゲヒルンだった頃に接触があった……と、仮定できるんだけど」
「なに?」
「そうするとあの子たちは(とお)にもならない歳のころの知り合いだってことになるわ。なによりも実在してるのよ? この意味わかる?」
 ミサトはああと納得した。
「生きてる……死んでないってことよね?」
 そうと続ける。
「でもシンジ君は死んでると思ってる。自分が最期を看取ったんだって言い切ってるわ」
「はぁ! どうなってんのよ?」
「やっぱり何かあったのかも知れないわね」
「なにかって?」
「辛いこと」
「辛いこと?」
「そうよ。思わず虚構の世界に逃げ込んでしまいたくなるような辛い体験」
 東京での暮らしのことかと察しを付けた。
「でも妄想癖はないって結果は出てるんでしょう?」
「それこそ彼がASUKAって支えを自分の中に生み出しているからなのかもしれないのよ? 夢の中に現実に知っている少女を登場させて、架空の物語を作り上げた。そうとしか考えられないわ」
 ミサトは顔をしかめた。
「狂ってる……ってこと?」
「だとしても、おかしくないのが、彼の生きてきた環境よ」


 ──京都。
 とある廃工場(こうば)の中に、一人の男の姿があった。
 彼はよれた青いシャツを着ている、無精髭の男だった。長身で、だらしなく伸ばした髪を、首の後ろでまとめている。
「この町でなにかが始まったのか」
 彼はくわえていたたばこを捨て、足で踏み消した。
 廃墟となりはてている町工場は、カラスや野良猫の格好の住みかとなっている。
 彼のような人間が立ち入るべき空間ではなくなってしまっていた。
 加持リョウジは、右足を引いて反転し、工場地を跡にした。
 しきりに時計を気にしながら。


 ──カウンターが増えていく。
 それは深度を示すものだった。いくつもの洗浄室を経て、子供たちはようやく再び顔を合わせた。ただし、裸で。
「きゃー、シンちゃあん!」
「シンちゃんって……覗かないでよ、あ」
「…………」
 最終となるクリーンルームの中で、三人は肩から下を隠す板一枚を挟んで立つこととなった。それ故に隣を覗こうとすれば覗けてしまうのだ。
 シンジの裸を見ようとしたマナ、呆れてそっぽを向こうとしたシンジ。思わず顔を見合わせてしまったマユミ……。
 マユミはぽっと頬を染め、うなじまで赤くなってうなだれた。
 ため息を吐いて、シンジは前を向こうとしたのだが……。
「むぅ……」
 相変わらず仕切り板に腕をのっけたままの状態でマナが居た。
「なにさ?」
「なんか雰囲気おかしくない?」
「なにが?」
「シンジ君とマユミ!」
「仲良いからね」
「ってそれってどういう意味ぃ!?」
 シンジは喚くマナを無視して天井に向かって問いかけた。
「この先に行けば良いんですか?」
 その通りよとリツコの声が答えてくれた。


 通路を抜ければ、その先は三つに別れて、それぞれのエントリープラグへと乗り込めるようになっている。
 プラグの外側にはシミュレーションプラグと刻まれていた。彼らは割り当てられたプラグに乗り込む。
 プラグはジオフロント地底湖の最深部に沈められている模擬体へと挿入された。模擬体は上半身、それも胴部と右腕だけで構成されているものである。先ほどダイバーが泳ぎ回って、なにかをチェックしていたのはこれであった。今はダイバーの姿はない。
「どう? 感じは」
 リツコの質問にはマナが答えた。
「感覚が……ちょっと、右腕だけはっきりして」
「握ってみて」
 模擬体の腕が非常にぎこちなく持ち上がる。重く手のひらを握り込んで見せた。
 そのデータがまたコントロールボックスの大画面に流れていく。とても人の目に追える速さではない。そもそもモニタの表示速度そのものが追いついていないらしく、いつまでたっても表示がとぎれず、終了しない。
「あ〜〜〜あ、退屈ぅ」
 マナはしばらく待ってくれとお願いされて、頭の後ろに手を組んだ。裸なので小さな胸を反らすことになってしまうのだが、見る者はない。通信はサウンドオンリーと限定されてしまっていた。
 滅多なことでは使用しない模擬体である。さらには模擬体経由でエヴァンゲリオンとも接続する予定があるために、調整作業は難航していた。
 マナは暇つぶしにと、マユミとの間に回線を(もう)けた。
「ねぇマユミぃ」
「はい?」
「正直に答えてくんない?」
「はぁ……なんですか?」
「なにかあった?」
「え?」
「もうっ、シンジ君よ! この間、あたし、シンジ君のこと好きって言ったよね?」
 データ接続開始、受信確認。
 主電源、各拘束部異常なし……そんなアナウンスが背後に流れる。
「……なにも」
「ほんとに?」
「はい」
「嘘吐いてないよね??」
「嘘なんて……」
 だが後ろめたい気持ちはあるようだった。
「あたしはただ、シンジ君と……」
「シンジ君!?」
「あ……」
 しまったと露骨にマユミは焦ってしまった。
「なんでもないです! ごめんなさい!」
「あっ、こらちょっとマユ……シンジ君!」
 彼女は通信を繋ぐなり問答無用で怒鳴りつけた。
「どういうこと!?」
「どうって……なにが?」
「どうしてマユミがシンジ君のこと、シンジ君なんて名前で呼んでるの!?」
「気のせいじゃない?」
「どこがどうなったら気のせいってことになるのよ!?」
「良い傾向なんじゃないのかな? 山岸さんが下の名前で人のこと呼べるようになるなんてさ」
「そういう問題じゃないでしょお!?」
 ヒステリーを起こすマナに、シンジはやってられないんだよなとため息を吐いた。
 隠れてリツコからなんとかしろという指示も来ている。小さなウィンドウに文字で送られてきていた。シンクロ率に影響が出てしまっているのだろう。
「……あのさ」
「なに?」
 言い訳なら聞きましょうかという尊大な態度が窺えて、シンジはどこかムッとした表情をマナに見せた。
「そんなに気にくわないなら、もう良いだろう?」
「え?」
「なんでも僕が霧島さんに叱られなくちゃならないのさ」
「叱ってるわけじゃ……」
「……コドモ過ぎるよ」
 あっとマナは声を上げてしまった。通信を切られたからだ。
「コドモ……」
 マナはがっくりとうなだれた。確かに子供じみた嫉妬の仕方であった。──シンクロ率も下降線を一気に辿る。
「これで良いですか?」
 シンジはコントロールボックスへと皮肉を言った。
「僕だってこういうの、苦手なんですから……大人がなんとかしてくださいよ」


 ──発令所。
「なんだか平和なもんだな」
 シゲルである。
「第三使徒が来たときにはさ……本当にやれるのかって空気があったのに」
「碇司令、吹いてたもんなぁ」
 マコトは腰が痛いのか手を当ててひねった。
「そのためのネルフです。なんてな?」
 あははと笑った彼らの背後で、ごほんとコウゾウが咳払いをした。
「碇の耳に入っても知らんぞ」
「副司令!? いつからそこに……」
「今来たばかりだがね」
 それよりもと言って辺りを見渡す。
「……確かになぁ、緊張感のなさがあるな」
「はぁ……まぁ、シンジ君のおかげでしょうね」
「シンジ君か……」
「なんです?」
「いや、存外に優秀すぎるのが難点でね」
「はぁ?」
 コウゾウは腰の後ろに手を組んだ。
「……委員会より、サードチルドレンの出張要請が来ているんだよ。各支部にね」
 そのセリフにシゲルはスッと顔つきを変えた。
「どういうことッスか?」
「ああ……起動実験だよ。最もシンクロ率の高い彼をとね? 期待のフォースチルドレンもまだ候補生の域を出んという話だし」
「それで……」
「でもシンジ君が抜けるとここは……」
「ファーストとセカンドではもたんよ。だかこそ拒否しているが、連中はわかっていない。エヴァが三機もあるのだから、パイロットの一人くらいは……というのが連中の論理だよ」
 だが現実は辛く、戦力と呼べるのは初号機とシンジの組み合わせのみである。
「酷いッスね」
「まあ、いずれはフォースチルドレンが選抜されるだろうからな。その時には要求には応じなければならんかもしれんが」
 無茶苦茶だぁとマコトも嘆く。
「フォースがどれくらい使えるかなんてわかんないんでしょ?」
「ああ。……だが使徒がいつまで来るのかわからん以上は、多少の無理をしてでもエヴァの増産は必要だからな」
「そりゃそうでしょうけど……」
「使徒を倒すのが仕事だとは言え、いつまでもそれを理由にはできんのだよ。ではいつならばと聞かれても、使徒はいつ、いつまで来るのかまったくわからん。こうなると正直にそれを口にしても、口実ではないのかと疑われるだけなんだよ。まったく」
 その状態をシゲルが揶揄した。
「ジレンマッスね」
「ん?」
「サードチルドレンによって確実な開発を行いたいって気持ちはわかります。けれどそのためにはとりあえずの戦力増強が必要で、なのに戦力を増強するためにはやはり開発実験が必要で」
「そうだな、ドイツ支部もぐちぐちとうるさいからな。なぜファーストでなくサードをよこさなかったのかとね?」
「そんな時間ありましたか?」
「碇の息子だというのが問題なんだよ。出し渋っていたのではないかとな、疑われている」
 マコトは呆れた顔をした。
「そんなわけないでしょうに」
 肩をすくめる。
「ま、たとえ戦力の増強が行われたとしても、碇の実子である以上は、おいそれと渡すわけにもいかんのだがな」
 シゲルとマコトは、話が違うじゃないかと目を剥いた。
「それって……私情じゃないンすか?」
 いいやとコウゾウは否定した。
「いや、もっと現実的な話だよ。……碇はシンジ君を切るかもしれん、が、そうなったら君たちはどうするね?」
「はぁ?」
「息子であるサードを政治的な駆け引きの道具として使い、挙げ句無慈悲にも切り捨てたとなれば、各支部や本部の人間からも、碇は信用を失うだろうな……いや、もっと悪辣に、そのような人格であるのだと責め立てて、話を利用する者も出てくるだろうな」
 なるほどと彼らは納得した。
「流言飛語って奴ッスか?」
「上手くでっちあげて流すわけだ……」
 そうだと頷く。
「……苦渋の選択を、さも当然のように下したものなのだとすり替えてしまえば、彼らは労せずして碇から人心を引きはがすことができるだろう、癪な奴らだ」
 あ〜あとマコト。
「シンジ君は道具なんですねぇ……政治の」
 真実はもっとやりきれんよとコウゾウは嘆息する。
「それは彼が知らんだけだよ。もうずっと前からシンジ君は駆け引きのための道具だった」
「はぁ?」


 ──総司令執務室にて、ゲンドウは一人、ジオフロントの森の様子を眺めていた。
 去来する想いがなんであるのか? 表情からはうかがい知れない。だが彼が思い出していることは、まだこのジオフロントに集光窓が設置される以前の、真っ暗だったころに人工池のほとりで妻と交わした会話であった。
「あなた」
 不安がる妻に対して、彼は気丈な態度を保っていた。
「それとなく脅されたよ」
「シンジのことですか?」
 そうだと彼は頷いた。
「……今君の協力を失うわけにはいかんからな……手出しは控えているようだが」
 彼女はうなだれるようにして、そのまま彼に頭を下げた。
「ごめんなさい……わたしが不用心だったんです。シンジのパーソナルデータを検証用に使うなんて」
「エヴァンゲリオンは反応を示した……君にもな?」
「はい……」
「理由はわからんのだな?」
 はいと首肯する。
「なぜわたしとあの子にだけ反応するのか? 遺伝子的なものでないのは確かです」
「なぜだ?」
「わたしよりもあの子に強く反応を示しています。遺伝的なことでいうのなら、あの子はわたしとあなたの合いの子なのですから」
「わたしでも良いはず……か」
 嘆息する。
「魂、霊的なところにまで話を持ち越すしかないのだな」
「エヴァンゲリオンには魂があります。それは間違いありませんから」
「相性がすべてか」
「そうなります……」
「なら遠からずわたしたちは、シンジを巻き込まねばならないのだな?」
「はい……」
 気が重いと彼女はうなだれ……そして、シンジを巻き込まぬよう、無理な調整を行い、彼女はエヴァに取り込まれ、そうしてこの世から消えてしまった。
「…………」
 ゲンドウはただ、静かにジオフロントを眺めていた。
 やはり彼の考えを読むことはならなかった。


 ──実験は続いている。
「あのシンジ君でも怒ることってあるのねぇ……」
 怒った? リツコは少し違うんじゃないかと考えを披露した。
「鬱陶しくなっただけよ……きっとね?」
「マナが?」
「マナだけじゃないわ……みんなが」
「みんな?」
「あなたとか」
「あたし!?」
 ええと彼女は向かい合った。
「だって……あなたって、人間関係を押し付けたがるじゃない? 自分の理想通りになるように、その形をね?」
「そんなぁ……」
「でもそうでしょう? このネルフに、シンジ君が自ら構築できた人間関係って一つもないのよ?」
 でしょう? と責める。
「マナのこともマユミのことも、あなただって、あたしもね? エヴァだの使徒だの、押し付けられたものばかりで、その上責任まで取れと言われたら、少しは拗ねたくもなるんじゃないの?」
 それにと彼女は付け加えた。
「ツボ突いちゃったみたいだしね」
「つぼ?」
「思い出したくもないことよ……って言っても、それも空想上の出来事ってことになりそうだけど」
「ASUKAか……」
 リツコは専門外だけどねと付け足した。人間が思いこみによってどれほど妄想を現実にあったことだと考えるのかはわからないことだったからだ。
 渋い顔を見せていたミサトが、熟考した上で提案した。
「ちゃんとした精神科医に診せるべきだと思う?」
「そこまでするの?」
「うちのカウンセラーだけじゃ足りないみたいだしね。……もしなんでもかんでもアスカって子が言ったんだ、なんて言い出し始めたらどうするの? ただでさえ彼らが負っているものは、ストレスと無縁ではいられないのに」
「そうね」
 思い浮かぶ。
「もし仮にアスカって子が彼の妄想の産物だとしたら、その子の言葉は後から都合良く増やされるものなのかもしれないしね」
 ふっとリツコは、せわしなく通話しているマヤの動きに気が付いた。
「どうしたの?」
「劣化だそうです」
 受話器を置いた。
「劣化?」
「この上の第87タンパク壁だそうです、どうしますか?」
「実験に支障は?」
「ありません」
「状態は?」
「拡大すると染みのようなものがあるそうです」
「つまり目でわからないほどのものなのね?」
 ミサトが横から割り込んだ。
「B棟でしょう? ……あそこは使徒が現れてから工事してるところだもん、ずさんなのよ」
 そうねとリツコは顔を上げた。
「このまま続行しましょう……碇司令もうるさいしね」
「はい」
「では次のフェイズに移行します、準備して」
「では起動レベルを二へ、シミュレーションプラグを、模擬体経由でエヴァ本体と接続します」
 子供たちに通達し、はいと元気の良い返事を確認したところで、マヤはえいっとキーを叩いた。
「……え?」
 だが次の瞬間、つぎつぎとランプが消え、照明が落ち、すべてが闇へと閉ざされていった。
 皆の視線がマヤへと集まる。
「……マヤ?」
 ふぇええんと彼女は振り返った。
「あたしじゃないですぅ」
 リツコはぶざまねと言ってやった。

Bパート

 感に障るほど警報音が鳴り響いている。
「警報を止めろ! エネルギーの無駄だ」
 苛立ちまみれに、コウゾウは遅れてやってきたゲンドウに詰め寄った。
「碇!」
「状況は」
「今、MAGIとケージを優先するよう指示を出した。警備にも動くように人をやったところだ」
「……何分経った」
「七分だ」
「……なら事故ではないな」
「ああ」
 コウゾウは正副予備の三系統の電源が同時に落ちることなどあり得ないと口にした。
「ならば考えられる原因は一つだ、ブレーカーは落ちたのではなく、落とされたのだな」
 ほらぁっと背後から声がした。
「やっぱりあたしじゃなかったじゃないですかぁ!」
 マヤであった、泣きべそをかいている。
「赤木君……どこから来るのかね?」
「すみません、迷子になってしまって」
 指揮所最上段のさらに上のはしごからである。
「下におります」
「それよりブレーカーが落とされたというのは?」
 訊ねるミサト。その間にリツコとマヤは階下に降りた。もちろん塔横にあるはしごをつたってである。
「それ以外には考えられんという話だよ。ただの反抗勢力であるのなら発電施設を破壊するはずだ。それが出力が極端に落ちているだけだということは……」
 下からリツコが確認を取った。
「MAGIにダミーのプログラムを走らせておきます」
「ああ。仕掛けた奴らは、復旧ルートからここの全体像を推し量るつもりだろう」
「しかし……こんな時に使徒が攻めてきたら」
「子供たちは? 今日はそちらで実験していたのではなかったのかね?」
「今、技術部が総出で回収中です」
 ──コプリと泡が漏れて浮かんでいく。
 模擬体の周囲には大勢のダイバーが泳ぎ回っていた。なんとか手動でシミュレーションプラグを排出しようと頑張っている。
「ただ手動でプラグを抜き出すのは至難の業かと……なんと言っても水の中ですから」
「まあそちらは任せるほかなかろう……場合によっては爆発ボルトで吹き飛ばし、プラグの脱出装置を使えばいいだけのことだ」
「はい」
「作戦部は……」
「中継器を本部内に展開。無線を確保しろ」
 それまで黙っていたゲンドウが、急に話に割り込んで命じた。
「物理的な切断箇所を探索すると同時に、不審者の捜索を行う」
「了解です」
 敬礼する。
「赤木博士はプログラム側のチェックを」
「はい」
「保安部と諜報部を総動員する。施設内をくまなくチェックし、安全確保に努めるよう指示を出せ」
「はい」
「……しかし本部初の被害が人の手によるものとはな」
 ゲンドウはにやりと笑って見せた。
「かまわんさ……これを口実に対人設備の増強を計るだけだ」
「まさかそのためになにかしたわけではあるまいな?」
「さあな」
「悪辣に過ぎるぞ? 碇」
「冗談だ」


 上司たちのタチの悪いやりとりにリツコとミサトが引きつったその一時間後、子供たちはようやく外の空気を吸うことができていた。
 何台ものゴムボートが岸に付けられている。そしてダイバースーツの男たちと、あるいはクリーム色の制服の者が銃を持って立っていた。
 子供たちを守るためである。
「まったくもう、ついでに服も持ってきてくれればよかったのにぃ……」
 回収された三人は、裸にタオルをまいただけで、寄り添うようにして一本の木の下に座っていた。
「そう思わない?」
 マナは恐る恐るシンジに訊ねた。寒いと身を寄せ合っているのだが……先ほどのこともあってか、どこか怯えが見て取れた。
「霧島さん……」
 シンジはどうして僕はこうなんだろうと自己嫌悪に浸っていた。
「もっと近寄ってていいよ」
「え? でも……」
「寒いんだろ? 僕も寒いからさ」
「うん!」
 喜び、マナはどんっとシンジを押すほど接近した。
 反対側では、その震動に、マユミが揺れていたりする。
「山岸さんもさ」
「うん……」
 膝を抱えていると大事なところを見られてしまいそうで恐いのだが、寒さの前には敵わないようであった。
 腕に鳥肌を立てている。
「あったかぁい……」
 マナは調子に乗ってすり寄った。
「……地下だからね」
 しかしシンジの反応はとても冷たい。
 上を見上げて白く息を吐いている。
 マナはやっぱりまだ怒っているのかなと迷ってしまった。
「どうかしたんですか?」
 聞くな! っとマユミを睨んでみる。あたしのせいだなんて言われちゃったら、あたし立ち直れなくなっちゃうじゃない! などとコンマ以下の秒数の内に、頭の中で罵ってみせる。
「いや……ただ上着くらい貸してくれたって良いのにさって」
 歩哨たちを見つめていた。
「ほんと、気が利かないよな」
「はぁ……」
 シンジには聞かれてしまった場合の考えがないのだろうか? マユミとマナはおろおろとした。だがシンジの本音は全く別のところに存在していた。
(どうして期待を持たせるようなことをしちゃうんだろうか?)
 嘆息する……嫌われることを厭わない自分になりたいと。
「風邪引いちゃうよ?」
「あ……」
 だから、シンジはマユミの肩に腕を回して引き寄せた。
「もうちょっとこっち来て」
「え? え!?」
「寒いんだ」
 マユミはぽっと赤くなったが、次に驚き固まっているマナを見つけてうろたえてしまった。
 ──ごめんね。
 シンジの声が耳元でした。
 なんのことだろうか? マユミにはわからなかった。
 シンジは素知らぬ顔でぬくぬくとした。
(ごめんね……ほんと。勘違いさせちゃうかもしれないけどさ、霧島さん、牽制しておきたいんだよ)
 迫られるのを避けるためには、別の人間を引き込んで、そちらに敵意を向けさせればいい。
 その分フォローはしてあげよう。そう考えるシンジである。
「マナ!」
 三人は声がした方向に顔を向けた。
「マナ! 山岸さん!」
 最初のがムサシで、次のはケイタだった。
「大丈夫か!」
「大変だったでしょ?」
 どうやら着替えを持ってきてくれたようである。しかし善意で来た彼らは、非常に不評を買うことになってしまった。
 こっち来んなと追い払おうとするマナと、怯えて身を小さくするマユミに、そうじゃないんだと二人は傷つき弁明した。
「やらしいんだから!」
「だから、俺は心配して!」
「べーっだ」
 ビニールでパッキングされた制服を抱き、マナは木陰に隠れていった。もちろんマユミも後を追う。
 タオル姿の少女たちが、森に消えていくという様は、どこかいやらしい雰囲気があった。
「……そんなだから嫌われるんだよ」
「え? なにか言ったか?」
「鼻の下、伸びてるよ」
 おおっとと手で押さえて隠そうとするムサシに、僕の分はとシンジは訊ねた。
「これ?」
「ああ、それだ」
「悪いね」
「ついでだからな」
 そうだろうねとシンジは応じる。
 パックを破いてシャツを取り出し、袖を通した。
 ──茂みの向こうから、悲鳴のように騒がしい声がした。
「……行かない方が良いよ?」
「なんでだよ!」
「なにかあったってわけじゃないよ、きっとね?」
「だからなんで!」
「言ってる場合じゃないよ!」
 二人はナイトを気取って駆け出していった。
「あ〜〜〜あ」
 そしてシンジにはあたりがついていた。
 ズボンを持ち上げて嘆息する。
「パンツないんだもんな」
 もちろん女の子たちの方もそうであるはずだった。


 森を抜けるとまず居住区がある。そこでは被災者たちが暮らしていた。
 プレハブの小屋が建ち並んでいる。彼らの目は通り過ぎようとする子供たちを見て不安に揺れていた。正体を知っているのだろう。
 そんな遠巻きに観察する人間の中には、赤ん坊をあやしている女性の姿もあった。
 一行は本部ピラミッドへと向かった。先頭にムサシとケイタ。二人は絶対に振り返るなと命令されていた。理由は頬の手形にあった。
 マナとマユミは心細そうにシンジの隣を歩いていた。マナは前の二人を唸って威嚇し、マユミはすっかり怯えてシンジのシャツの袖を摘んで歩いている。向かっているのは更衣室で、理由は内股気味になっているところにあった。
「なんでプラグスーツじゃないのよぉ……」
「俺だって服を持っていってやれって、それ渡されただけだったんだよ」
 学校指定の制服である。
「なんでムサシたちが……」
「手が空いてたんだよ、みんなは忙しそうだし……」
 そして更衣室にたどり着いた。マナとマユミはさっそくロッカーの中にあるはずのものを身につけようと消えて行った。
 シンジも男子更衣室に入る。ただ下着を付けるだけだったので、すぐに用事は終わったが。
「どうしたの?」
 外に出ると、二人が真剣な調子で話し合っていた。
「いや……あれがちょっとな」
「あれって?」
 マナたちも続いて出てきた。
「なになに? なに話してるの?」
 何故俺じゃなくてそいつに訊ねる!? ぐっとなったムサシであったが、めげずに避難所のことだよと口にした。
「あんなところに住まわせてないで、疎開させてやった方が良いのに」
 ばっかねぇっとマナ。
「逃げる先がない人たちなのよ」
「どういうことだよ?」
「どっこの土地もセカンドインパクトのせいで汚染されててさ、住める場所なんて限られてるじゃない? 第三新東京市の流入組って、そういうのであぶれた人たちが思い詰めて来てたりもするのよ。……そんな人たちなの。逃げ帰る場所なんてあるわけないじゃない」
 もちろんそのような者たちばかりでもないのだが、多いこともまた事実であった。
「どうしたの?」
 マユミは訊ねられて、顔を上げた。
「あっ、あの……子供」
 子供? マナ、ムサシ、ケイタが首を傾げる。ただシンジだけがそう言えば居たねと返した。
「赤ん坊……泣いてたよね」
「はい……」
「お腹……空いてるのかもね」
「…………」


「むぅ……」
 発令所へと送られたところで、マナは疑惑の目で二人を見ていた。
 茂みの中での会話が思い出されてしまう。
「やっぱりない……」
「みたいです……」
「ムサシのあほぉが、気が利かないんだから!」
 だが持ってきていればそれはそれでいやらしいということになるのだから報われないのだが。
「ねぇ……」
「はい?」
 森の中はシンとしている。
 二人は互いに背を向け合ってシャツに袖を通し始めた。
「シンジ君とマユミって……できてるの?」
 ずがたんとマユミはこけた。
「え!? ええっ!?」
「あ────やっぱり!」
「違います! そんな……」
「でもよく泊まってるんでしょ? シンジ君のところ」
 はぁ、まあと、マユミは要領を得ない答えを返した。
「でも霧島さんが思っているようなことは……」
「じゃあなにしてるの?」
「話を……少し」
「お話しぃ? ほんとにぃ?」
「……はい」
 信じられなぁいとマナは言う。
「さっきだってさ? マユミ、簡単に抱かれちゃって」
 きゅーっと赤くなるマユミである。
「あああ、あれは、その」
「シンジ君って妙にマユミになれなれしくない?」
「そんなことは……」
「じゃあなに?」
「慣れてるだけなんじゃないかって……」
 マナはキッとマユミを睨んだ。
「マユミ……知ってるの?」
「え?」
「アスカさんのこと」
(やっぱり怪しい……)
 なにか通じ合っているように思えるのだ。むろん考えすぎであるのだが……それでもアスカという彼にとって特別な人のことを話し合っているとなると、問題はかなり大きくふくらんでしまう。
 発令所には見慣れない軍服の男たちが、ミサトとなにやら話をしていた。
「どうしたんですか?」
 こればっかり言ってるなと、シンジはとぼけたことを考えた。
「使徒よ」
 答えてくれたのはミサトだった。
「使徒が出たの。でね? こちらの人たちが、非常事態だってことで知らせに来てくれたのよ」
 その顔ぶれを見て、マナ、ムサシ、ケイタの旧戦自組は、姿勢を正し、敬礼した。
「元気にやっているようだな」
 男は目尻をゆるめて笑った。子供たちもだ、喜んだ。
「教官も、お元気そうでなによりです」
「ああ」
 おかしいなと疑問を抱く。
(霧島さんって、戦自で無理させられて、体壊したんじゃなかったの?)
 それにしては、三人ともが懐いて見えた。
「碇君?」
「うん? ああ……なんだか変な感じだなと思って」
「霧島さんですか?」
「嬉しそうだからさ……」
 マユミはそうですねとただ口にした。
 そんなマユミの心理に気が付いたのはリツコだけであったのだが……。
(妬いてるのね、きっと)
 関心が余所に向かうのを面白くないと思っているのだろう、リツコはそう観察した。
 本当に……変わったものだと感心もした。しかしそれは少々的外れな考えであった。
 今のところ、一番自分のことを理解してくれるシンジの考えを、マユミは取り違えて読み取っている……そのマユミを見て感心しているのだから、ずれていた。
「……リツコさん」
「なに?」
「僕たちは?」
 指揮官はあたしだとミサトは声を荒げて命令を発した。
「すぐにプラグスーツに着替え、出撃よ」
「本部の方は?」
「あなたたちには関係のないことよ」
 シンジはムッとした。
「そういう言い方って……」
 慌ててリツコが間に立った。
「テロよ。わかってるのはそれだけなの」
「そうですか」
 シンジの返事はただそれだけである。
 彼女はマユミと見比べて、本当に動じない子だとため息をこぼした。
「エヴァの方は、今、司令たちが発進準備をしているわ」
 何も動かないのにとマユミが口にする。
「大丈夫なんですか?」
「すべて人の力でね……司令の発案よ」


 ケージへと移動する。
「……ここまでやるとは思わなかったな」
「すごいでしょ!」
「さすがに人類の砦と言われてるだけのことはあるなぁ、働く人間の気合いが違うよ」
 ムサシとマナの会話である。
 怪訝そうにリツコが訊ねる。
「どうしたの?」
 シンジはとても気になる表情をしてどこかを見ていた。視線の先を追っていけば、そこには彼の父親が居た。
 ロープを引いて、滑車を使い、エントリープラグを移動している。
「司令がなにか?」
 シンジは別にとかぶりを振った。
「なんでもないです」
「なんでもって顔じゃなかったけど?」
 しかしシンジは頑固であった。
「ほんとになんでもないんですよ」
 シンジはただ不安に思っただけであった。
(父さんには父さんの企みがあって、だから必死にやってたんだろうけど……こっちの父さんはどうなんだろう?)
 それがわからなくなったのだ。
(まあ、わかったからって、どうにかしようってわけでもないんだけど。できるとも思えないしね)
 この世界のことは、この世界の人たちで決めればいい……そんな冷めたことを考える。
「出ます」
「頼むわね」
「戦闘の指揮は……」
「ミサトが頑張るそうよ」
 それとと彼女は付け加えた。
「今回は彼らの機体がサポートしてくれるわ。あなたたちは地図の通りに進んで、下から攻撃して。彼らはUN軍と一緒に地上で待機。あなたたちとタイミングを合わせて同時強襲を行ってくれるそうよ、できる?」
 シンジはしっかりと頷いて見せた。
「やりますよ……やらなきゃならないんでしょう?」
「ではお願いね」
 そんなシンジをムサシも見ていた。
「……さえない奴だと思ってたんだが、意外にしっかりしてるんだな」
「凄いでしょ!」
「…………」
「なに?」
 彼ははぁっと嘆息した。


「地上には戦自と国連軍が展開してくれているわ」
 通信はとてもクリアなものだった、声の主はミサトである。
「それに教官たちも手を貸してくれるって!」
 とても無邪気にマナははしゃいでいた。
「もっともムサシたちと共同ってのが気にくわないんだけどねぇ……」
 狭い横穴をエヴァで這いずり移動する。
 シンジはトライデントと通信が繋がらないなと周波数をいじっていた。
「でも電気が足りないっていうのに、零号機だけじゃなくて弐号機まで出すんですか?」
 もちろんよとミサトは言う。
 彼女はエヴァの先頭をジープで走っていた。
「初号機だけで十分という保証が取れない以上はしかたないわ」
 ウィンドウを開けてマナは訊ねた。
「あたしって……邪魔かな?」
 非常に不安そうな顔色をしていた。
「お邪魔虫?」
「そんなことはないよ」
「ほんと?」
「うん」
「よかったぁ……」
 でも最近冷たいよねと、マナは唇を尖らせて見せた。
「やっぱりあたしって鬱陶しいのかなぁ?」
「うん」
「…………」
「性格的に合ってないんだと思うよ? 僕とはね」
 ますますしゅんとするマナである。
「そっか……」
「そうだよ」
 こらこらと慌ててミサトは割り込んだ。
「これから戦闘だって言うのに、シンクロ率が落ちるような会話はやめてよね」
「でもそろそろはっきりとさせておいた方が良いと思うんですよね、僕は」
 シンジは有無を言わせなかった。
「ミサトさんだって言ってたじゃないですか、これからなにがあるのかわからないんだから、恋くらい経験させておいてやりたいってね?」
 酷いと声を張り上げたのはマナだった。
「そんなこと言ったんですか!?」
「う……ご、ごめん」
「そんなのあたしの勝手じゃないですか!」
「だからごめんって……」
 シンジくぅんと、彼女はうらめしげに逆恨みをした。
「ばらさないでよ……」
「ごめんなさい」
 でもと告げる。
「経験させてやりたいっていうなら、ムサシ君でも良いじゃないですか。なんで僕なんです?」
「それは……だって」
「初号機のパイロットだから? まさか僕に親近感を持ってるとか、情が移ってるんだなんて言いませんよね?」
 だったらと言う。
「前にも言いましたよね? 幸せになる権利は誰にだってあるはずなんだ……でもそれは自分で見つけて、手に入れて、だからこそ嬉しいもので、人に押し付けられて、そういう気にさせられてたなんて、そんなの、後になってわかったら、暗く落ち込むだけですよ。本当に大事に想っているのなら、見守って上げるくらいでいいはずなんだ。普段は一緒に歩いてて、しゃがみ込みたくなったときに、黙って待っててやるような、それくらいで十分なのに……」
 かぶりを振る。
「……ミサトさんを見てればわかりますよ。口出しする人間って、自分の願望とかを言葉に乗せてるから、どうしてもどこか受け入れがたい部分があるんだよな」
 ──アスカ。
「僕は、そう、学びました」
「そう……」
「はい」
 ──あたしはあんたのお人形じゃない! 自分で考えて自分で生きられる人間なのよ!
「家族ごっこは……ごめんだ」
「シンジ君?」
「傲慢なやつはもっと嫌いだ」
 重いな、そう思う。シンジの言葉の裏にある重さはあまりにも量りづらい。
 だが家族とはどういった意味なのだろうか?
「ひとつだけ……教えて」
 マナだった。
「だったらどうして……どうしてあたしの代わりに戦ってくれたの? あたしを庇ってくれたりするの? どうして……」
 くり返す彼女にシンジは言う。
「そんなこと……」
「嫌いなのに?」
「嫌いじゃないよ」
「でも鬱陶しいって……」
「好きだなんて言ってくるからさ」
 シンジはマナのことを突き放した。
「霧島さん? 勘違いしないで欲しいんだ……僕は君のためにやったんじゃない。僕は僕のためにやってるんだ」
「自分のため?」
 そうさとシンジ。
「人が死ぬところを見るよりは、自分が痛い目に遭った方が良い……」
「シンジ君……」
「もちろん、なんで霧島さんのためにって、そういう気分もあるんだよ。僕はアスカのために……アスカのためにだけ生きようって思って、アスカのためにだけ命をかけるって誓ったはずなのにって、だから」
「…………」
「山岸さんは……そんな僕の考えを理解してくれてるから、僕が甘えても勘違いしないで話を聞いてくれるから、だから……いつも一緒にいるんだよ」


 トライデントは陸上用に開発された巡洋艦である。
 足があり、巨大ではある。だが武装はミサイルを主体に機関砲などと、さして目立つものはない。
 移動力に優れてはいるものの、地上兵器としては鈍重であり、巨大で、そのコンセプトは戦艦大和に通じるものがあった。
 ──大艦主義の象徴的兵器なのだ。
 丘で見ると先に尖る姿は鮫の頭部に似て思える。足下には十数台の戦車が並んでいた。瓦礫の山の廃墟の中で、山向こうで蠢いてる奇妙で細長い足を睨んでいた。
 その下には、球体の上部を切り取ったかのような胴体が存在している。
「気を付けろ……」
 教官と呼ばれていた男からの言葉である。
「この間の使徒は確たる姿を持っていなかったそうだからな……鈍いように見えるが、突然割れて、中からとんでもないものが顔を出してくるかもしれん。まだか? ネルフのロボットは……」
 まだですと報告が入る。
「急いでくれると……良いんだが」


「かっこわるーい」
 そのころ三機のエヴァンゲリオンは、ようやく縦穴を登っているところであった。
「しかたないですよ……なにも動かないんですから」
「だからってこれはないと思う〜〜〜」
 なさけないと、とほほと言う。
「でも急がないと……もう作戦時間だ」
 ミサトの姿はここにはない。別のルートで地上へと登っているはずである。
 故に、この場での判断はシンジに委任されていた。
「上からなにか聞こえてこない?」
 ぴくんと反応したのはマナだった。
「砲撃よ! もう始まってるんだ」
 わかったと頷く。
「急ぐしかない……か」
 シンジはマナに先に行けと命じた。
「え? でも……」
「初号機は弐号機と違ってやたらと変なもの積み込まれてて重いんだよ」
「そうなの?」
「そうなんだよ」
 だからと告げる。
「僕が土台になる」
「どだい?」
「そう……二人は山岸さん」
「はい」
「初号機の上に立って」
「え? 上に?」
「そう。山岸さんが弐号機を地上まで放り上げるんだ」
「そんな! そんなこ……」
 わたしには……そう言ってしまいそうになって、マユミはぎゅっと口をつぐんだ。
 ぶるぶるとかぶりを振る。
「……わかりました」
「頼むよ、エヴァの力ならできるはずだ」
「あたしは?」
「上の部隊と合流して使徒を倒して」
「あたしが!?」
「やれるさ」
「でも!」
「エヴァを放り投げるなんてこと、弐号機にはできない。三機の内土台になれるようなのは初号機だけだ。なら、霧島さんが行くしかない」
「…………」
「マナ!」
 マナはビクンと体をすくめた。
「行かないならどいてよ! 初号機でなんとか零号機を放り投げるから」
「行く! 行くから……」
 なによもうとぐじぐじとする。
 ちょっとは優しくしてくれたって……そんなつぶやきまで聞こえてきた。
(余裕……ないんだよ)
 シンジは壁に突いているエヴァの右手を見た。
 小刻みに震えだしている……それは操縦者自身の状況を表していた。
 ──パイロットが怪我を負っているからといって、その状態がエヴァに反映されることはない。
 あくまで脳のイメージだけが重要なのだ、なのに、エヴァの右手が搭乗者の異常を反映して震え出している。それはなぜなのか?
(だめなのか? もう……)
 壊れすぎて、頭がもう、正常な右腕の姿を忘れ去ってしまっているのだ。シンジはそのことを痛烈に感じ取った。潰れる寸前であるこの状態こそが正常であるのだと、脳が勝手に情報を送り、その正常な状態を再現しようと、エヴァが反応してしまっている。
「碇君」
(大丈夫さ……まだ)
 実は、マユミはそのことを知っていた。
 よく泊まり込んでいるのだから、彼が箸を使えないことも知っている。だからこそ心配していた。
「よし!」
 シンジは縦穴に四肢を突っ張るよう、エヴァに指示した。
 その通りに、エヴァはうつぶせになる。
「山岸さん!」
「はい!」
 マユミは零号機を初号機の腰を踏むように立たせた。
「霧島さん!」
 零号機に両手を組ませる。
「ん!」
 マナは弐号機の右足をそこへかけた。
「準備良し!」
「霧島さん!」
 マナは叫んだ。
「霧島マナ、いっきまぁッス!」
 ぐっと手にかけた足に力を入れる。マユミはその負荷を感じて、逆に放り出すようのけぞった。
 ──高く弐号機が撃ち出される。
「来たか!」
 地上に展開していた部隊は、縦穴から飛び出したものに歓声を上げた。
 高く、高く飛翔した赤い巨人は、陽光を背に手に持ったライフルを下方へ向けた。
「やぁああああああ!」
 乱射しながら降下する。
 そこに居たのは蜘蛛、あるいはダニに似た使徒だった。
 パレットガンの弾丸がその体を貫通して大地を穿つ。
 着地──そのままマナは弐号機を駆けさせ、肩からナイフを抜き出し、振りかぶった。
「たぁああああ!」
 接近して、振り回された足を切り飛ばし、そして懐へと潜り込んだ。
「これで終わりよ!」
 新しく配備されたNN爆弾を腰の後ろから取り、ライフルに空いた穴へと突き込んだ。
 ぐっと奥に潜り込ませ、急いで飛びすさり、撤退する。
 ──爆発。
 内部より爆圧によってふくらむ使徒。逆にしぼみながらそのまま倒れ伏し、動かなくなった。
「やったぁ!」
 勝った、あたしがやったんだ。マナは浮かれてはしゃいだ声を出した。
 そこにようやく地上へとミサトたちが姿を見せた。
「終わっちゃったか」
 まあそれも良しと思う。
「シンジ君たちは?」

 ──彼らは穴の底にいた。

「うまくいったみたいだね……」
「はい」
 両機は肩を抱き合うようにしてしゃがみ込んでいた。
「手……大丈夫ですか?」
 訊ねるだけ無駄なのに……それでもマユミは訊ねてしまっていた。
「うん……大丈夫だよ」
 自分ならきっとそういうのだし、彼もまたそう答えるに決まっている。
「よくやったね……山岸さん」
「……はい」
「うれしくないの?」
「そんなことは……」
 うなだれる。
「全然ってことは……でも、碇君のことを考えると、喜べないんです」
「……優しいんだね」
 そんなとマユミは否定した。
「あたしなんて」
「でも僕の右手のことがわかってたから、我慢してくれたんでしょ?」
 やっぱり凄いやとシンジは笑った。
「僕には、取り返しがつかなくなるまで、できなかったことだから……」
 やっぱり凄いよと繰り返し褒めた。
(僕はアスカが苦しんでても、何かをしようだなんてしなかった)
 暗闇の奥底で寄り添い合って、二人は自分の想いへと沈んでいった。


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