けぶるような小雨の幕が、無機質なコンクリートの建物を灰色にかすれさせていた。
 広大な敷地に車の影はなく、ただただなにもない平らな世界が広がっている。
 雨の中……少女はフェンスの張り巡らされた施設の入り口に立たされていた。
 手を繋いでいる父親の顔は、とても固く、怖かった。
 やがてやってきたのは見知らぬ女で、少女は強く萎縮する。
 そして繋ぐ手を父から女へと引き渡されて……。


「寒い……」
 マナは二の腕をさすった。空を見上げる。廃墟と化した第三新東京市に人の気配はなく、ただ寒々しいだけのがれきの山ができあがっている。
 こんな雨の日にも、仕事をしている人がいるんだと、彼女は雨のカーテンの向こうでうごめく、巨大な重機の影を眺めた。
 コンクリートの破片を掘り起こし、別の場所に山を築き、その下にあるエヴァンゲリオンの射出口を発掘している。
「マナちゃん」
「日向さん」
「はい、これ」
 手渡された缶コーヒーは、温められた物だった。
 ありがたいとばかりに、両手で包んで、手先のしびれをぬぐい去ろうとする。しかし、プラグスーツの特殊繊維ごしでは、あまりぬくもりを得られなかった。
「雨……やみませんね」
 仕方ないとばかりにあきらめ、空を仰ぐ。
 マコトもまた同じようにして空を見上げた。
「悪いね、せっかくの休養日だったってのに」
「いえ……」
「なにか予定はなかったのかい?」
「パン……」
「ん?」
「パン、焼こうと思ってたんですけど、食堂の調理場借りて」
 それはまた、どうして、とは、マコトは訊ねはしなかった。
 思い当たることがあるのか、ただほほえましく、等分に痛ましく、彼女を見下ろしただけだった。

ASUKA / 第五章

「やまないな、雨……」
 純粋な雨ではない。
 配水管や、坑道を経た汚水が、破損部や亀裂から漏れて来ているのである。それは本来、降るはずのない雨であった。
 独立したコロニーとして機能するように設計されているジオフロントには、地下水を利用した人工降雨システムはあっても、汚染されているかもしれない地上水を散布するような間抜けさはない。
 この雨は、度重なる戦闘によって崩壊した地上施設から流れ込むものであった。配管や坑道をつたって地下にしみこみ、風に散らされて降り注ぐのだ。
 そんな不自然な雨粒の乱舞を、シンジはラウンジの窓から眺めていた。
「おい」
 シンジはぶしつけな呼びかけに顔を上げた。
「ムサシ君?」
「暇そうだな」
 マナは働いているってのに──そんな皮肉をこめながら、彼は仏頂面で腰掛けた。
 シンジの正面にである。持っていたボトル入りの飲み物はテーブルに置いた。
「話がある」
「なにさ?」
「マナのことだよ」
 共通の話題など他にはないだろうと、ムサシは小馬鹿にするように吐き捨てた。
 より不機嫌な態度になって、体を斜めにし、足を組む。
 そんな態度に、シンジも友好的にすることはないかと思い直したようであった。
「なんで突っかかられなきゃならないのか、それくらいのことは教えてよ」
 はぁ!? ムサシはシンジの言葉に、理解できないと反応を示した。
「そんなの、決まってる!」
「どこが?」
「俺は、マナが好きなんだよ!」
「だから、なんだよ?」
 いらいらとして、ムサシは正面へと向くよう座り直した。
「マナは、お前が好きなんじゃないか!」
「でも、僕はなんとも思ってないよ」
 ──絶句する。
「それは……そうだろう、けどさ」
「それは、霧島さんにも言ってあるよ」
 だからと真剣な調子で告げる。
「相手にしてないってのに、なんで喧嘩を売られなきゃならないんだよ?」
 ムサシは半分腰を浮かせてしまっていたが、ばかばかしくなったのかストンと落ちた。
「はぁ……」
 気が抜けた顔をして天井を見上げる。そこにあった照明灯に目を細めた。
 しばらくシンジは様子を見ていた。そんなシンジの視線に答える用意が調(ととの)うまでに、ムサシは短くはない時間を要した。
「……わりぃ」
 素直に頭を下げる。
「そうなんだよな……見てりゃわかるんだけど、でも」
 シンジは苦笑して許してやった。
「だからって、好きな人にあたるわけにはいかないよね」
 そうなれば、感情は矛先を求めてさまようのだ。
 そのための言いがかりであろうと、シンジにはわかっていた。
「気持ちはわかるけど、僕をどうにかしたって、霧島さんが振り向いてくれるとは限らないよ?」
「わかってるよ!」
「霧島さんは……」
「上の街だよ。エヴァで土木作業だってさ」
 正しいところは、エヴァンゲリオンを使っての地上施設機能確認である。
 迎撃システムにくわえ、射出機構などには実際にエヴァンゲリオンを使用した、入念な検査が行われていた。
「ぶーぶー言ってたよ、あいつ。山岸さんでも良いじゃないかってさ」
「ふうん……」
「だから、暇なら、お前と山岸さんといちゃつかないように見張っておいてくれ、なんてさ」
 たまんないよなと頭を抱える。
「なんで、俺が」
「そういうものでしょ?」
 ──惚れた弱みとは。
 そんな見かけの歳に見合わない口ぶりで言い諭す。
「でも、その方が良いんだよな……。霧島さん、これで次の戦闘シフトからは外れるはずだし」
 ──神経接続による負荷は想像よりもとても酷い。
 そのため、接続時間に比した休養期間が設けられていた。機体が増えたことによって、戦闘も二機を投入、一機を非常事態用のバックアップとして確保できるようにもなっている。
 ただし、それは表向きの話で、本当のところは体に不備の多い霧島マナを、裏方に回すための方便に過ぎなかった。
「え? なに?」
 頭を抱えたままの状態で、じっと見上げ、ムサシはシンジを観察していた。
「お前さ……」
「なんだよ?」
「なんでもない」
 不機嫌な調子でムサシは話題を変えた。
「そう言えば、山岸さんはどこだよ?」
 あからさまではあったが、シンジは乗った。
「避難所だよ」
「避難所ぉ?」
「配給を手伝うんだってさ」
 ムサシは顔をしかめ、ぶつくさとつぶやいた。
「……そうか、それで、あいつ」
「なに?」
 ケイタだよ、と、ムサシは答えた。
「あいつ、山岸さんに、さ」
「そうなんだ」
 目を丸くして驚いたシンジに、ムサシは鈍いんだなとため息をこぼした。


 鼻がむずむずする。
 ──くしゅん!
 少年は我慢しきれなくなって、大箱を抱えたままくしゃみをした。
 危うくバランスを崩して、倒れそうになってしまう。
「……風邪かな?」
 ケイタは器用に片足を上げて膝で支え、開けた手で鼻の下を軽くこすった。
 軍手で鼻水をぬぐい去る。
「きったない雨……」
 これのせいかなと理由を求めた。
 ジオフロントに降り注いでいる雨は、灰や泥、それに機械油までもが混ざり込んでいた。
 雨粒もばらつきがあって、とても雨とは呼べないような大粒が落ちてくることもある。
「これでまた、騒ぐ人が出るんだろうな」
 避難所の設営と受け入れは、あくまでネルフの好意に過ぎない。
 避難しようにも行く当てのない人たちが居る。だが、ネルフはあくまで迎撃機関である。
 その活動内容に、彼らに対する生活保障などは含まれてはいないのだ。
 だが仮設住宅の住人たちは、そこに当然の権利や義務があるとでも考えているのか、うんざりとしてしまうほどの苦情を申し立てていた。
 この雨にも毒が含まれているとわかれば、責任云々と騒ぎ立てるのは目に見えている。
「はぁ……あ、山岸さん、僕が持ち上げるよ」
 本部ピラミッドの下部には、森へと出られるゲートがいくつか設置されている。
 その中でも一番大きな車両用ゲートを出たところで、ケイタとマユミは働いていた。
 奥の倉庫よりカートで荷物を運搬し、大型車両に移し替えているのである。
 マユミは白の作業着を借りていた。カートは電動方式で、アクセルを踏む、離す、それだけで動かせる物であったから、彼女にも動かせるものであった。
 マユミは手を貸そうとするケイタにそっけなく応じた。
「いえ、これくらいなら自分で運べますから」
「でもさ」
 ケイタは腕の突っ張る感覚に、乳酸がたまっているのだなと疲れを覚え始めていた。ならば同じだけ働いている女の子のマユミが……それも普段力仕事などしていない彼女が疲れていないはずなどはないのだ。
「無理はダメだよ。配給品をぶちまけて台無しにでもしたら、それこそ意味がないじゃないか」
「そうですけど……」
「カートの後ろ、切り離して置いて行ってよ。向こうに新しい荷台があるでしょう? それでまた運んできてくれたら、そのときにはこれ、空にしておくからさ、運んできた荷台と付け替えて持ってかえってくれれば、その方が効率良いでしょ?」
「……わかり」
 しぶしぶ同意しかけたが、マユミは「わかりました」との、いつもの言葉を途中で切った。
 ──嫌だ、と思う。
 疲れているのは確かだが、一瞬、少し楽ができるなと喜んでしまう自分が現れた。
 強制ではなく、自発的に手伝わせて欲しいとお願いしてやっていることなのだ。なのに、手を抜けるなどと喜ぶだなんて……。
「やっぱり、いいです」
「そう?」
「はい。大丈夫ですから」
 よいしょと重い箱を両手で抱え上げる。
 これらの物資は、森林の一部を伐採して作られた仮設住宅の避難民に対して配られる品物である。
 先日、彼らの姿を見たときに、マユミはなにかもやもやとしたものを抱いてしまっていた。それはシンジとの会話によって、より具体的な形を取るに至っていた。
(罪悪感からかもしれないけど、でも、なにもしなかったら、きっとずっと長い間、あのときはって引きずるに決まってる)
 後ろ向きな自分が、そんな否定的な感情にとらわれているところなど、容易に想像ができてしまう。
 そんな思いから逃げ出すために、ここにいるはずなのに……と、大型トレーラーへと荷を積み上げている男に箱を渡す。
「がんばるね」
「いえ……」
「配給たってなぁ」
 そんな声が聞こえてきた。別のトラックに積み込んでいる人たちの会話だった。
「いつまで持つかなぁ……」
「備蓄はあるんだろ?」
「何ヶ月分かはあるらしいけど、基本的には自給自足だろう?」
 ああ、そうかと相づちが打たれた。
「連中が農作業なんて知ってるわけないもんな」
 独立した避難所、コロニーとして機能するよう計算されているからこそ、ジオフロントの土壌には畑に向いた土が積まれている
 ところが今ジオフロントにかくまわれている避難民の多くは、街の人間であり、農作業に明るい者などはいなかった。
「どうするんだろうな……これから」
 そう言って男は首にかけていたタオルで顔を拭いた。
 汗か、雨か、わからないもので布が汚れる。
「ここも戦場になるかもしれないんだよな」
 マユミは雨以外の寒さにふるえて、袖の上から二の腕をさすり天井を見上げた。
 大きな雨粒が顔に当たって、目を細めずには居られない。
「……なんとか、なるって、思わなきゃ」
 耳にしてしまったケイタは、手を止めてマユミを見た。
 黒髪が湿り気を帯びて、緩く波打ち始めている。水を弾かないのは傷むだけ傷んでいるためだった。
 LCLに浸り続けていればそうもなる。
 LCLは肺にも内臓にも入るものだから、化粧も基本的には許されていない。この年頃の女の子が外観を気にするのは当たり前のことなのに。
 軍隊基地で育ったマナですらも、見てくれを気にしている。ならばこの子はどうなのだろうかと考えて、ケイタは彼女の気丈さに思い至った。
 気弱さをこうして必死に押さえつけ、自らを奮い立たせている。それはけなげさを感じさせるものだった。
「…………」
 あ……と、ケイタは声をかけそびれた。マユミは聞こえなかったのか、それじゃあと一言残してカートを操り、本部奥へとゲートを越えて消えてしまった。
「……はぁ」
 ケイタはマユミがしていたように天を見上げた。
 しかしマユミが見ていたものを、彼も見たとは言えなかった。


「浅利君がねぇ……」
 感慨深げな物言いに、ムサシは少し首をかしげ、シンジを見た。
「お前ってさ」
 眉間に深く皺を寄せる。
「どうしてそう淡泊でいられるんだよ?」
 カップに刺さったストローを揺らし、ムサシは言う。
「戦自のカウンセラーに言われたことがあるんだけどさ、人間ってのは、せっぱ詰まってくると生存本能が働いて、性欲を満たしたくなるんだと」
 だからと前に身を乗り出して力説する。
「こういう環境にいたら、普通は欲情するもんなんだとさ。それは普通の性欲とはまた違う、仕方のないものなんだって説明されたよ」
 で、君は……とやり返しそうになってしまって、シンジはどもった。
(人の話なんて聞くだけつまんないしな……)
 それでマナと『つがい』だったなどと聞かされた日には、困るだけの話である。
「まあ……泣き言を言える相手が欲しいって言うのは、本当だろうね」
 実感を込めてシンジは言った。
 昔日(せきじつ)のアスカとミサトのことを思い返しながらである。
「それで?」
「お前、変だよな」
 いきなりそれである。
「我慢強いっていうんじゃなくて、こういう状況でも平気でいられるのは、胆力があるってことになるんだけど……」
「胆力?」
「余力があるってことだっけかな……誰かに泣きついたり、泣き言こぼしたり、みっともないところをさらしたりしてないってことは、ストレスを感じてないってことじゃないか。……怖くないのか? あれだけの目にあって」
 もちろんとシンジは応じた。
「怖いに決まってるだろ? 痛いのだって嫌だし」
「じゃあなんであんな戦い方ができるんだよ、あんな……」
 ムサシは先日の戦闘記録を見ていたのか、ぐっと強く拳を握った。
 火炎を浴びて、なお怯むことなく突き進む巨人の姿があった。
 腕が溶け、灼け崩れていく。その痛みをそのまま搭乗者は味わっていたという。
 シンジはムサシの本音を見た気がして、そっとため息をこぼした。
 彼は、勝てないと感じてしまっている。それが本当のところだろう。
(はりあおうにも、勝てない……。でも、最低でも『あれくらい』のことはやれなきゃ、もう霧島さんの気は引けない)
 彼女が欲している行動や態度、その基準値が彼には高すぎるのだろうが……。
(トライデントであんな真似をしたら、死ぬよ?)
 シンジはもう一度ため息をこぼした。


 ──赤木研究室。
「で、どうなの? トライデントは」
 部屋の主の気などおかまいなしに、ミサトはせっつくように答えを求めた。
「使えそうなの?」
 派手なため息をこぼしてから、リツコは椅子を回し振り返った。
 苛立ちからか足を組む。
 ストッキングに伝線が見られたが、ミサトは忠告しなかった。
「さすが戦自の秘密兵器……ってとこ?」
「そう言いたかったけど」
 かこんとキーを叩いて、データを呼び出す。
「独立兵器という点での仕様にね、かなりの問題が見られたわ……。まあ、仕方のないことだったんだけど」
 ことさら戦自が悪いわけではないと説明した。
「問題は、電算機」
「コンピューター?」
「そうよ。単独行動をさせるためには、どうしたって機体の中に制御回路を組み込む必要があるわけでしょう? でも電算機……コンピューターの容量には限界があるわ。処理速度にもね」
「遅いの?」
「遅すぎるわ。プログラムも汚かったし」
「でも改良できるんでしょ?」
「もう終わってるわ」
 多少の反則技は使ったけどと、明るく笑った。
「種を明かせば簡単な話よ。この街で動かすだけなら、処理機構なんて内蔵しておく必要がない。外にもっと良いものがあるでしょ?」
 ああ……とミサトは了解した。
「MAGIか」
「大正解」
 ぴんと指を一本立てる。
「ただ、回線を繋げておかなくちゃならなくなるから、そのための設備増設がね」
 ずずっと汚らしくコーヒーをすする音が二つ響く。
 二人は地上で働いているはずの、マナのことを考えた。有線にしろ、無線にしろ、運用のためにはどうしても発信施設を作らなければならなくなる。
 土木作業にエヴァを用いているのは、それだけ急いでいるということでもあった。
「でも不自然よね……」
 ミサトはどう思うかと問いかけた。
「次期主力兵器をあたしたちに預けるなんてさ、それもパイロット付きで……どういうつもりなんだろ?」
 嘆息する。
「逆らうつもりはないんだってところを見せたいんでしょう? 油断を誘ってるだけかもしれないけど」
 あきれたもんだとミサトは目を丸くした。ただしあきれたのは、戦自にではなくリツコにであった。
「あんたって、よくもまぁそこまで悪い方に取れるわね」
 ふふんとリツコはやり返してやった。
「あなたほど楽観的じゃないのよ、悪いけどね」
「はいはい」
「それよりいいの? こんなところで油売ってて」
 ミサトは投げやりなところを見せた。
「どうせ仕事なんてないもの」
「書類、溜まってるんでしょう?」
「それもだいぶ片づいてるわ。司令の決済待ちのが山になってるだけよ」
「のんきねぇ……今のここを預かってるのはあなたでしょうに」
「どうせ形だけのものよ。司令と副司令が留守の間のね」
 そのための昇進なんてねと、彼女は襟章を指で遊んだ。
 一尉から三佐に位が上がっていた。ピンと弾く。
「今ごろは南極か……」
「定時報告の時間には発令所に戻りなさいよ?」
 司令に現状報告しなくちゃならないんでしょうと、彼女は軽く脅してやった。




 南半球の海上に、波を割って進む船団の姿があった。
 古い船があれば、新しい船もある。多くがサルベージ船であり、中央に巨大な空母を位置させていたが、この空母の甲板には戦闘機の影はなく、代わりに赤黒い大きな棒状の物体が固定されていた。五十メートルはある。
 長く海底に沈んでいたのか、それはヘドロにまみれていた。


「南極か……」
 内の一隻である巡洋艦の展望室に、ゲンドウとコウゾウの姿があった。
「ここでこうして、再び眺めることになるとはな」
 コウゾウは嫌味とおぼしきことをこぼした。
「まさに死の海だな、ここは」
「死してはいない。ただ捨て置かれただけの世界だ」
「お前と同じにか?」
 痛烈な皮肉であることは、醜悪にゆがみそうになる顔つきを、必死に押さえていることから読みとれた。
「彼女は残された俺たちが、一体なにを思うかなど、考えはしなかったのだろうな」
 そういう自分勝手なところがあったと、吐き捨てた。


「マナ」
「ムサシ」
 マナはげんなりと肩を落とした。
 これがシンジ君だったらと、露骨に顔に出していた。
「あ〜あ、なんかどっと疲れちゃった」
「ひでぇ!」
「なんでこんなとこ、うろついてんの?」
「ちょっとな……」
「ふうん?」
 剣呑な調子に、マナは声音を変化させた。
「あんたまさか」
「なんだよ」
「シンジ君にちょっかい出してたんじゃ」
「…………」
「やっぱり!」
 マナは胸ぐらをつかみ上げて詰め寄った。
「なにやったの!」
「やってないって!」
「じゃあなに言ったの!」
「だから言ってないってばっ!」
 突き飛ばすわけにもいかず、離せと暴れる。
「ほんとに、話しかけただけだって!」
「嘘! とぼけないでよ……前だって」
「あのなぁ……」
 ムサシはがりがりと頭を掻いた。
「ここは、『あそこ』とは違うだろ?」
 ムサシは落ち着けと言い諭した。
 ──お互い、施設出の身の上である。
 セカンドインパクトによって一時的に援助資金を打ち切られた孤児院や養護施設は、その対応策として園児の卒園を早めたのである。
 また世間的な情勢もあった。単純にどこもかしこも人手不足に陥っていたので、子供と言えども中学生であれば十分に働けるとして雇い入れていたのである。
 そんな中、ムサシとマナは、行く先として戦略自衛隊を推薦された。
 未成年の動員は国際法で禁止されている。だが世界的にこうも不安定であれば、戦争は避けられない災害であった。
 ならば……との風潮が流行り、少年少女の動員についても、試験的に手が出されたのである。
 ──戦争は、数を集めたところで勝てはしない。
 剣を主体とした古代戦闘と違い、近代戦に民間人の出る幕はなかった。たとえ市民をかり出したところで、何十キロにも及ぶ武器弾薬を背負い、山野を踏破できる人間が、いったい何パーセント居るのだろうか?
 さらには巨大兵器を運転できる人間が居るのだろうか? それでも、銃とナイフは扱えるだろうが、扱えることと殺し合いができることは別である。
 血が飛び、肉が弾け、脳症と内臓が散らばる現場に、居すくまない『一般人』など存在しない。
 戦争をするためには、十分な肉体的改造の他に、精神構造の『破壊』までも必要とされるものである。人殺しを人を殺すことではなく、敵を倒すことだと刷り込まなければならないのだから、これは大変な手間であった。
 戦争は、それ相応の期間を用いて、教育と訓練を施した兵士を揃えなければできはしないのだ。
 烏合の衆など、むしろ味方の動きを鈍くするだけのお荷物である。
 国家人口をあてにしての徴兵制度の愚かしさがここにあった。一概に無意味というものでもないが、情報化社会に置いては、無駄に死者を増やす政策は行うものではないとの考えも根底にはあった。
 それ自体を悪とされるからである。これは戦争の正義を敵対組織に与えることとなってしまう。
 あげく、後々にまで語り継がれることにでもなれば、国としての威信を失い、敗北以上の結末へと陥ることになるだろう。
 しかし現代法では、成人の志願者を募り、鍛え上げ、兵とするほかを認めていない。
 日常を生きてきた人間に、殺戮を強要するのである。
 これでは異常を(きた)して、破綻し、人格を崩壊させる人間が出てしまうのも、やむを得ないことであった。
 人を傷つけてはいけないと教えられて育ってきた人間が、一線を踏み越えて人殺しを行うのである。壊れてしまわないはずがない。
 ──ならば、どうすることがよいのだろうか?
 どのみち、どこかでは倫理観念を捨てねばならなかったのである。そして戦略自衛隊は、それを捨てた組織であった。
 戦略自衛隊は、セカンドインパクトからなる危機感により設立された組織である。
 この組織には、自衛隊にはない行動力、戦闘能力が要求された。そうなれば、若年教育が一番であるとの結論が出されるまでに、それほどの議論は必要なかった。
 英才教育を施すのであれば、成長期にあたる少年少女を素材とするのが一番である。これは当たり前の理屈であった。
 マナやムサシ、ケイタと言った少年たちは、そんな事情から実験材料として拾い集められた子供たちであったのだ。表向きは戦略自衛隊内部に作られた幼年学校の生徒と言うことになっている。
 彼らが一般教養ではなく、軍事教練を受けていたのは公然の秘密であった。もちろん『人殺し』のための教育が彼らにどのような歪みをもたらしているかも、実験である以上矯正されることなく放置されている。
 観察し、記録されていたのである。
「ここは向こうとは違うだろ?」
 ムサシは優しく繰り返した。
「あそこじゃさ」
「ムサシ……」
 マナはやめさせた。
「わかってない……そんなんじゃない! あたしは」
 二人の言い争いは、けたたましい警報音によって中断されることとなってしまった。
「使徒!?」


Bパート


 発令所はいつにない緊張感に満たされていた。
 司令と副司令が留守にしている。ミサトは自分だけでは不安なのだろうなと思いこみ、よけいに力を入れていた。
「落ち着いて状況をまとめてちょうだい。司令との通信は?」
 繋がりませんとシゲルが応じる。
「使徒によるATフィールドの影響が、電離層全体に広がっているものと思われます」
「……使徒によるジャミング?」
「偶然でしょ?」
 リツコである。
「可能性は否定できないけど」
「ありえるの?」
「そりゃあね……使徒に電波を感知する能力があれば、不自然なほどに飛び交っている電波の規則性に、不信感を覚えないはずがないわ」
「『声』と思われたか……」
「使徒がなんらかの方法で、『次』に収集した情報(データ)を送っているのは間違いないもの」
 ちょっと待ってとミサト。
「それじゃあ使徒には、分析を行えるだけの知能があるの?」
 リツコは軽く首をひねった。
「さあ? それはどうだか……」
「でも」
「音波やフェロモンを利用して生きている昆虫や動物って、たくさんいるのよ? 植物だってそうでしょう? それと同じくらい逆手に取って捕食を行う生き物だっているんだから、その程度の進化なのかもしれないじゃない」
 結局は想像の域を出ないのかと落胆する。
「けど警戒しすぎて、しすぎるってことはないわね」
 事実現在、国連軍の一部とは通信を取れなくなってしまっていた。
「結果的には混乱させられているわけだしね……国内駐留軍はともかく、太平洋、大西洋の艦隊と連絡がつかないのは痛いわ」
「どうするの?」
「国連の動きは?」
 大きな声で返される。
「軍を把握するのに時間がかかっているようですね。指揮権の委譲はその後になるようで」
 ミサトはがりっと爪を噛んだ。
「遅いわ! 使徒は待ってくれないのよ」
「偵察衛星を破壊されましたからね……、あ、追加情報です。アメリカ空軍が独自に作戦を展開。N2航空爆雷を使用した模様です」
 メインモニターにその様子が大写しになった。
 空が黒くなるほどの高い場所で、爆発の華が咲いていた。
 爆炎に隠れるようにして、奇妙な造形物の姿が確認できる。それは単細胞の原始生物のようだったが、大きさはちょっとした小島ほどもありそうだった。
 映像は地上からの撮影らしく、解像度は高くなく、はっきりとはわからないが、爆雷など問題にはしていないようであった。


 ──パイロット控え室。
 空気が悪いなとシンジは襟首を引っ張り、酸素を求めた。
 右を見れば、ぴりぴりとした様子のマナが居る。
 左を見れば、なにか思い悩んでいる様子のマユミが居た。
(はぁ……)
 シンジは仕方なく天井を見た。他に目の持って行き場がなかったからである。
「はぁ……」
 右……マナのため息が耳に障った。
「ふぅ……」
 マユミが返すように吐息をこぼした。
「ねぇ……シンジ君」
 いきなりでマナはマユミを巻き込んだ。
「マユミに彼氏ができたら……とか、いたのかなって、気にしたこと、ある?」
 マユミは顔を跳ね上げた。目を丸くし、口をぱくぱくと開閉させる。
 なにを言い出すのかと言いたいのだろう。
 そんなマユミを横目に確認してから、シンジはあるよと端的に答えた。
「そういうのは、誰だって考えるだろ?」
「そう……よね、やっぱり」
「やっぱり?」
 は〜〜〜あとマナ。
 シンジとマユミは体を傾け、顔を寄せ合った。
「なんだろ?」
「わかりませんけど……」
 マユミはちらりと『アスカ』という少女のことを思い浮かべたが、口に上らせることはしなかった。
 シンジに対するアスカ……という意味での問いかけをしたのかと思ったのだが、そうでもないらしいと気が付いたのだ。
「山岸さんには、いたの?」
「え? ……いえ、そんなの」
「そう言えば、最近、浅利君と仲良いよね」
 それが嫉妬から出たものならばまだ良いのだが、揶揄するものでも気にしていたことでもなく、ただ思い出して口にしただけのものだとわかってしまったから、マユミは気落ちする思いを味わってしまった。
 ──どうでも良いのだろうなと、改めてわからされてしまったからである。


 ──元からマナは隙の多いタイプであった。
 これは生まれ育ちから来たものである。
 孤児院のような施設で育てば、下の者は上の者に面倒を見てもらい、上の者は下の者の面倒を見なければならなくなる。これは半強制的な義務だった。
 集団生活の中に形作られたシステムでもある。
 これを全うするためには、どうしても気安さや親しみやすさという『技能』を身につけなければならなかった。
 それがすさんだ少年たちにとっては、とても甘えたくなる心境を生み出してしまうものらしい。
 だから、マナは、人気があった。
 甘えさせ、あやすことが、とてもうまかったからである。


(でもね……そういうモテかたって、あんまりうれしいものじゃなかったのよね)
 憂鬱になるのも仕方がない。
 マナとしては守ってもらいたい側になるのだが、寄ってくるのは甘えん坊ばかりであったからである。
 それも、下心満載の。
 そうなれば適度に距離を置いたつき合いをするほかないのだが、中には強引な者もいる。
 もちろん最初は突き放していた。だがそうすればひがみ恨まれてしまうのだと理解した。
 だからと言って、我慢をすれば良いというものでもなかった。耐えれば耐えるほど、図に乗って、うっとうしくなっていくことがわかったからだ。
 これ以上近づいてこないでと訴えているのに、それをどうしてもわかってくれない。そうなればうっとうしいから煩わしいへと酷くなり、やがては大嫌いへと変わってしまう。
 嫌いたくはないのにだ。
 ──嫌いたくないのに……どうしてわかってくれないのだろうと思っていた。思っていたから、この間、湖畔で毛布にくるまっていたときに、訊ねたのだ、シンジへと。
 これ以上は、嫌われていくだけですか、と。
「マナ?」
 マナは怪訝そうなミサトの声に、なんでもないですと顔を上げた。発令所である。
 周囲は喧噪に包まれていた。
「すみません、ちょっと、ぼうっとしちゃって」
 ミサトだけでなく、リツコや、シンジ、マユミの視線までも集まっていた。
 無理もないかとミサト。
「さっきまで働いてたんだから……」
 申し訳なさそうなミサトに、もうひとつごめんなさいと言い、今度はちゃんと集中することにした。
 もう一つの嫌なこと……女子にひがまれ、ねたまれ、嫌がらせされたことを、このままでは思い出してしまいそうだったからである。
「……セカンドチルドレンについては、シンクロ率の回復具合を確かめてから、作戦への参加を考えます。いいわね?」
 はいと三つの声が合わさった。


 ──ああ、山岸さん、ちょっと良い?
 リツコはいつも通りにシンジが先に行くのを見越して、彼女だけを呼び止めた。
「確認しておきたいことがあるの」
 不安げな表情を見せるマユミに、リツコはあなたのことではないのよと教えた。一瞬だけシンジの背中に視線を投じて。
 マユミはそれで了解した。なにを訊ねたいかなど明らかであったからだ。
 シンジの姿を追う、やはり彼は興味を示さず行ってしまう。その少し後を小走りにマナが追いかけていく。
 シンジの歩く速度に合わせようと、健気なことをしているようだが、あからさまに彼の態度は冷たいものだ。彼はマユミと歩くときには足を遅める。マナもそのことはわかっているはずであった。
 なぜ自分には優しくしてくれないのだろう? 当然のようにそう嘆いているはずなのに、それを表に出さない彼女はとても可哀想に思えてしまう。
 ……が、マユミはそんな気持ちを傲慢さだと押し込めた。
 自分が口にしても嫌味になるだけだとわかるからだ。
「それで……なんですか?」
「右手のことよ」
 リツコは敵の攻撃方法と、ミサトの作戦について確認を取った。
「使徒は成層圏に居座っているわ。そこから体の一部をATフィールドに包んで落下させている。学習のためにね? だけどこの街にはきっと本体ごと落ちてくるわ。ミサトの考えは、この質量爆弾を直接手で受け止めるというものなんだけど……」
 あれだけのパワーを誇る初号機であればと言うのが勝算だった。
「正直なところ、マナでは過負荷に耐えられないわ。あなたも持たない可能性が高い。シンジ君だって、フィードバックに気を取られたらどうなるか……」
「…………」
「初号機のパワーは、S2機関あってのものなのよ。でもそのS2を起動させるためには、とても高い集中力が必要とされるわ」
「……はい」
「シンジ君は……」
 小さくかぶりを振るマユミに、リツコは「そう……」と落胆した様子を見せた。
「やっぱりね……日常なら、ごまかしも利くでしょうけど」
 でもと続ける。
「壊れるときは、きっと一瞬」
「壊れる?」
「神経接続は、あくまでシンクロに付随する欠陥機能なのよ。本来はない方が良いものなの。でも神経や感覚を共有しない同化なんてあり得ないでしょう?」
「はい」
「理論上は、搭乗者の状態にかかわらず、脳波だけで運用することができるわ。それが今の初号機とシンジ君の関係よ。でもシンジ君が痛みに逆らえなくなったら? その不具合は、きっと初号機の挙動に現れることになるわ。つまり……」
 ──使徒による負荷が限界を超えたら?
 使徒ほどの質量のものが加速を付けて落ちてくるのだ。
 これを両腕で受け止めたとき、どれだけの負荷が腕にかかるか。
 そのきしみを無視できるのか?
 マユミは青くなると同時に、ぐっと騒がないですむようにこらえた。
「碇君は……わかってるんですよね」
「あの子のことだもの、わかっていないはずがないわ。自分がどれだけやせ我慢をしているか、その限界が近いことも」
 ふぅとため息をこぼす。
「彼がこれまで耐えてこられたのは、ただ我を忘れていたからよ。必死になっていた、ただそれだけ……でも今回は違うわ。使徒を待ち受けて、受け止めるのよ。そこにはこれまでのようなプロセスがないの。これまで彼は、あなたたちの危機を見て、頭に血を上らせて、怒り狂って、力を発揮していた。でも今度は違うのよ。気が高ぶっていない状態で、待ち受けて、受け止めることになる。それではS2機関を起動させられるほどには集中力を高めることなんてできないし、いつまで意識が持つかもわからないわ。もし使徒の圧力に負けたなら、集中力なんて簡単に途切れて、きっとぺしゃんこにされてしまう……」
 脅すつもりではないのだが、どうしても不安から口が滑ってしまうようだった。
 リツコは焦るように問いかけた。
「で、どうなの? あの子の右腕、どの程度悪いの?」
 最悪ですとマユミは暴露した。
「このごろ、碇君、パンばっかりなんです」
「パン?」
「今はもう、お肉にフォークを刺すこともできないんです。だから、左手でつかんで食べられるものばかりなんです」
「そう……体重、落ちてるのよね、シンジ君」
 元々線が細いために、見た目にどうということはない。それでも数値はごまかせなかった。
「病気というわけではないから、心労かと思っていたけど……そう」
 マユミはそっとかぶりを振った。リツコの期待する視線に対し、自分ではだめだと返事をしたのだ。
「わたし、おせっかいをしているんじゃないんです。碇君、優しいから……」
「…………」
「落ち込んでちゃだめだって、慰めてくれてるんです。わたしも、悩んだりすると、食欲がなくなってしまう方なんですけど……」
 なるほどとリツコは思った。
 落ち込み、食欲をなくしていても、食事にしようと口にされれば、はいと答えてしまうのがマユミである。
 そんな性格を逆手にとって、自分が食べたいんだと相伴することを強要し、彼女に無理矢理食べさせているのだと想像が付いた。
「案外、面倒見が良いのね、あの子」
「放っておけないって、言ってくれるんです。放っておいて、あとで気になって、なんとかしてあげてれば良かった……なんて、悪いことになってから後悔はしたくはないんだって」
「そう……」
「あの」
 マユミは必死な様子でリツコを見上げた。
「シンクロ率を上げる方法って、本当にないんですか?」
 なにを言い出すのかと、リツコは目を見張って驚いた。


 浮かない顔をして戻ってきたリツコに、ミサトはなにがあったのかと問いかけた。
「赤木博士。なにか問題でも?」
 いいえ別にと、実にそっけなく返し、リツコは話題のすり替えを行った。
「初号機を頼りにしすぎるのはどうかと考えていただけよ。それより退避状況はどうなってるの?」
 発令所に居残っている人数が多すぎる。
 使徒の落下攻撃は一度で終わるとは限らない。
 数度に及ぶかもしれないのだが、最大の破壊力は予測できた。本体すべてを質量爆弾とした時の値がそれである。
 これを元に、関東全域に非難勧告が発令されているのだが、中には従わない人間もいた。
 そしてジオフロントの避難民を含め、ネルフ職員にも退避命令は出されているのだが、ここにも逆らっている者たちが居た。発令所どころか、確認を取ればケージの作業員までも居残っているのだ。
 リツコは思わずほほえんでしまった。
「みんな命知らずね……」
「子供たちだけに任せて、逃げるわけにはいかないでしょう?」
 それを誇りとするミサトの態度に、リツコは片方の眉を上げた。
「今更ながらに、撤退を具申しておくべきだったわ」
「撤退? そんなのあり得ないわ」
「そう思っているだけでしょう?」
「リツコ?」
「この作戦は……あなたのわがままよ、そうでしょう?」
 少しだけ驚きを表したあとで、ミサトはくってかかるように言い返した。
「この作戦は、間違っているって言うの?」
 にらみ合う二人に、一瞬、発令所の時間が制止した。
 凍り付いた空気の中で、皆の視線が集中する。
「使徒への復讐は……あなたの悲願だったものね」
「悪い?」
「悪くはないわ。だって、ネルフに所属している人間の大半がそうだもの」
 ネルフに所属したことで、職員はセカンドインパクトの真相を知ることになってしまった。
 あの惨事の原因、終わることなく続くのだと信じていた日常の破壊者が誰であったのか?
 セカンドインパクトの表向きの原因は、光速の数パーセントで飛来した隕石であるとされている。それでは恨むことも、憎むこともできなかった。
 あきらめるほかなかったのだ。
 しかし実際には、憎むべき対象が存在したわけである──。
 これを知った職員が、どう意識を変化させたかは述べるまでもないことであった。
 恨みつらみを持つ者や、二度と今を失いたくはないのだと逸る者たちがいる。ミサトはその両方だった。
 代表者と言い換えられる人物なのである。
「セカンドインパクトの中心地……南極。使徒にお父さんを奪われたあなたは、使徒を倒すことで、いいえ、使徒を求めることで心の均衡を保って来た。あなたはあなたのお父さんを理解できなかった。そのお父さんが求めたものが使徒だった。だから惹かれているのよ、そうでしょう?」
「それがどうだってのよ」
「あなたのきれいごとが癇に障っただけよ」
 ミサトの視線をかわし、マヤの元へと向かう。
「勇敢な子供たちを置いて自分たちだけが……なんて、そんな美談に仕上げないで。もしわたしたちが逃げ出せば、あの子たちだってだだをこね出すに決まってるわ。だから居残るしかない。それだけでしょう?」
「一応、作戦の拒否権は与えたわ」
「拒否できる雰囲気を殺してね」
 なにが言いたいのよとミサトは唸った。
「結局、いい人ぶるなってこと?」
「そうよ、それだけ」
 マヤになにかの指示を出して、再び彼女は向かい合った。
「使徒がここに落ちて自滅してくれるというのなら、それも作戦の一つでしょう? なにも馬鹿正直に勝負につき合う必要なんてないわ。それなのに、あなたは意地を見せようとしてる。つき合わされるあの子たちには、良い迷惑でしょうね」
 ネルフの本義は使徒を倒すことであって、基地を守ることではないのだ。
 基地は象徴の一つではあるが、『陣取り合戦』をしているわけではない以上、絶対に守らなくてはならないものでもないのである。
「あなたの感情や、思いこみや、こだわりなんて、あなた一人のものでしかないのよ。あの子たちも同じように思っているはずだ、なんて、まさか本気で思っているんじゃないでしょうね?」
「そんなこと、思ってやしないわよ」
「ほんとうに?」
 リツコは疑わしげな目を向けた。
「ほんとうに、確かめてみたことがある? 本当に使徒は、『自分たち』が倒さなくちゃいけない敵だって思ってるのか、って」
「…………」
「誰かが倒さなくてはいけない敵だって、教え込んではいるけど、それはすり込みや洗脳と同じことよ、納得する理由は与えていないんだから」
「使徒を倒さなければサードインパクトが」
「では使徒はどんな条件がそろったらサードインパクトを発生させるの?」
「それは……」
 ミサトは言い返せない自分に唖然とした。
 使徒はセカンドインパクトを引き起こした。
 だからサードインパクトを発生させるかもしれない。
 しかしそれは可能性であって、絶対ではないのである。
「わたしが気にしてるのはね、シンジ君のことなのよ」
 リツコは感情の高ぶりを消すために、ふぅと大きく息を吐いた。
「あなただって、言っていたでしょう? シンジ君には義務感なんて欠片もないわ。ただ自分たちがやるしかないんだって追いつめられている二人が居る。そんな二人のために自分をどこまでも追いつめている。それだけ」
 だがそれだけのことがあまりにも痛ましかった。
「……そんな彼の姿に苦しめられて、二人はまた追い詰められているわ。……悪循環よ、たぶん彼が死んだときが、すべての終わりね」
「リツコ!」
 リツコは体裁を取り繕っている暇はないのだと目を伏せた。
「シンジ君が死ねば、二人の糸はぷつりと切れるわ。彼が見せてくれたもの、それだけが彼女たちをこの場につなぎ止めて居るんだもの」
「だからって、死ぬなんて、冗談でも言わないで!」
「冗談ではないから言ってるのよ」
「リツコ?」
 ようやくミサトは、彼女のあまりのおかしさに気が付いた。
「冗談じゃ……ないの?」
「ええ」
 リツコは先ほどのぞき込んだときに、マヤに指示したデータを読み上げるよう頼んだ。
 それはシンジの今の精神状態を示すデータであり、彼の意識はほぼ右手の苦痛へと向けられていた。


(痛みはあるのに、グリップを握っても握ってる感じがしないんだよな)
 痛覚は生きているのに、触覚は死んでいる。この理不尽さはなんだろうかと、シンジは嫌気を覚えていた。
(右手を捨てるか?)
 痛みは心の痛みと違って我慢ができる──それがシンジの持論であった。そしてエヴァに対する時と同じように、自身の不調もある程度は切り離して味わうことができるようになっていた。
(S2機関を立ち上げないと、話にならないしな)
 起動は難しいが、一度立ち上げてしまえばあとは楽なのがS2機関であった。
 もっともそのことは報告していないのだが。
(あんまり頼りにするのは危険なんだよな、自分でもわかってる)
 使徒による攻撃を防ぐつもりで、自らがサードインパクトを引き起こしたのでは意味がない。
「まったく……」
 左手で前髪を掻き上げて、シンジは目の端にマナとマユミを見つけてしまった。


 二人はまだ乗り込んではいなかった。
 マユミはリツコに引き留められたために遅れたのだが、マナはムサシとケイタに捕まっていた。
「戦闘前にやめてよね」
「最後になるかもしれないから言っておきたいんだよ」
 ムサシはせっぱ詰まった顔をしていた。
「こっちはそっちと違って、バリアーなんてないからな」
「ATフィールドよ……まさかっ、出撃するの!?」
 ああと堅い顔をして頷くムサシに、マナは嘘でしょうとつかみかかった。
「どうして!」
「避難民が逃げないんだよ。連中、俺たちが残ってるのは、ここの方が安全だからなんじゃないのかって、思ってるんだ」
 はっきりと顔をゆがめて、マナはどうしてと唸った。
 ムサシの胸ぐらをつかんだまま、うなだれて。
「なんで……」
「マナ?」
 マナは自分のために必死になってくれたシンジの姿を思い浮かべた。
 そして避難民とムサシの二つに置き換える。
(どうして、わかってくれないんだろう?)
 ムサシは間違っている。
 確かに施設や基地にいた頃、自分は適当な相手とつき合っていた。
 それはいじめを避けるためであり、あるいは不特定の少年に言い寄られるのを防ぐ目的のものでもあった。
 ──あいついい気になってんじゃない?
 そんな声が聞こえて来る。
 施設は良かった。上の者が下の者を守り、助ける。そんなシステムがあったからだ。
 だが戦略自衛隊ではそれがなかった。寄せ集められた集団に、結束や信頼が生まれることなどなかったのだ。
 だから、なにがしかの身を守るすべが必要になった。
 はみ出せば、待っているのは虐待だった。
 だから周りに合わせた。逃げを打った。あるいは強い者に身を任せた。
 ──今度は──だってさ。
 ──次から次って感じね。──が、配置換えになったとたんにさ。
 ムサシはそんな自分のことを心配してくれている。マナにはちゃんとわかっていたが、だからと言って、現在の自分をわかってくれていないことも事実であり、そのことがムサシに対する絶望感を抱かせていた。
 そんなことでシンジに言い寄っているわけではないのだ。
 彼は今までの誰とも違った。今までつき合って来た少年たちは、口先で恰好をつけるばかりであった。
 それが悪いというわけではない。
 実際、その格好良さにあこがれもした。
 しかし、いつも見返りを求められた。夢の代価を払わされた。
 ──なのに、あの少年はどうだろうか?
 アスカ──その少女との間に、どんな制約を交わしたのかはわからない。だがその誓い故に、彼は他人のために命まで懸けてみせるのだ。
 懸けなければならないのだと公言し、実行するのだ。
 もしその誓いを破れば、それは『アスカ』への裏切り行為となってしまう。
 ──そこに、冷たさの理由をうかがえる。
 口から吐き出される言葉はいつもきつく、辛いものだ。
 泣きそうになるほど、つれないものだ。
 彼は必死に自分のことを遠ざけようと振る舞っている。それはアスカへと操を立てているからなのだろう。
 ──彼はアスカだけを愛し、そして死ぬつもりでいる。
 マナはムサシをじっと見つめた。
 ここに居残ろうとする人たちが居る。彼らはマナそのものだ。
 誰かに何とかしてもらおうとしていた自分そのものだ。
 そしてそれを守ろうとするムサシが居る。その姿にシンジが重ねて、比較してみる。
 もし命令が出なければ、ムサシはどうしていただろうか?
 彼はきっと、指示があるまで待機していることだろう。
 親しい人のためになら、命令を無視し、命をかけるかもしれないが……そこがシンジと似てはいても、決定的に違っていた。
 とっさの反応にこそ、本当のその人が見えるものだ。彼は最後まで動かず、結果に対して口惜しさを覚えるだろうが、シンジなら……。
 ――碇シンジなら。
「ムサシ……」
 何事かを伝えかけて、しかしこの気持ちを言葉で伝えることは、絶対に無理だなと彼女は思った。
 単純に好かれたいという気持ちと、彼を呪縛から解き放ちたいという傲慢な想い。他にもだ、入り乱れていて、混じっていて、塊になっていて……、喉に詰まって、とうてい口にはできそうにもなかった。
 ──しかし、一つだけ言えることがあった。
(あたしがまとわりついてるのは、謝りたいから……でも、シンジ君は)
 謝らせてはくれないのだ。
(あたし……バカだった、なにも考えてなかった)
 初回戦──彼は自分の代わりに戦ってくれた。だがそれは『アスカ』との誓いを守るためにしたことであったのだ。
 自分はその意味を知らずにはしゃいで、喜んで、うかれて彼にじゃれついた。
 その行為に彼がどんな気分に陥ったのか、考えることはとても怖い。
 死んだ人との約束に縛られる意味を、彼女は十分に理解していた。
 戦略自衛隊の訓練ともなれば死者は出る。故人が生前によく口にしていた言葉は、遺言となっていつまでも残るものだった。
 自分は、『アスカ』が彼に誓わせたものを、勝手に彼が自分に好意を抱いてくれたのだと解釈し、汚したのだ。
 嫌われるのも当然だった。
 彼の抱いているアスカへの想いを、自分への気持ちなのだろうと口にしてしまったのだから……。
 彼がどんな印象を抱いたのか? 今更ながらに怖くなる。
(それでも、シンジ君は許そうとしてくれている)
 だから、嫌っていながらも、優しくしようとしてくれている。
(冷たいことを言った後、絶対申し訳なさそうな顔するもん。シンジ君って……)
 罪悪感に駆られているのがわかるのだ。
 あれほど嫌な思いを抱かないようにと、気を付けているシンジなのである。ならなぜ罪悪感を抱くような行為をするのか?
(あたしが、悪いから……)
 ムサシは見当違いなことを考えている。これまでつき合ってきたみんなのように、彼のことも『防波堤』として欲しているのだと勘違いしている。
 しかしそうではないのだとわからせようにも、マナには口に出せなかった。
「マナ……」
 呼びかける声に、マナは顔を上げた。
「ムサシ……」
 あたしは……と、彼女は続けようとしたが、できなかった。
「お前、嫌われるの、慣れてないもんな」
 わかっている風を装った言葉に、やはりわかるわけがないのだなとマナは落胆した。
「ごめんね」
 軽く少年を押しのける。
「あたし、退くわけにはいかないの」
 ──許してもらえる、そのときまでは。
 どうしてそこまでと思うムサシをその場に置いて、マナは戦場へと向かうべく踏み出した。
 そして一部始終を聞いてしまったマユミとケイタは、それぞれに別の思いを抱いたのだった。


[BACK][TOP][NEXT]