エントリープラグに入り込み、慣れた手順を復習するように実行する。
マユミはまぶたを閉じると、わずかに開いた唇から、すぅと息を吸い込んだ。
──足下からひやりと冷たい感覚が上ってくる。
LCLが染み出してくる。背に潰されているはずの髪が浮くのがわかる。
口元を越えたところで、一気に口を開けて息を吐き出す。
入り込もうとするLCLと、肺の空気が、喉につかえてわずかに気分が悪くなる。
小さく、わからない程度にえづいてしまう。
ごふりと最後の一呼吸分をはき出すと、彼女は眉間に皺を寄せたまままぶたを開いた。
LCLの変質と初期設定を連続して行う。
だが頭の片隅ではよけいなことを考えていた。先のマナのことである。
(霧島さんは霧島さんで、迷ってるんだ……)
それも当たり前かと考える。
普段はあれほど冷たく、つれないというのに、涙を見せると、とたんに自分から負けてくれる。
──それが碇シンジなのだ。
傷つけるのは嫌なのだろう。
ならば最初から優しくしてくれたって良いのに……と思わないでもないのだが、それはそれで許されることではないらしい。
やはり、アスカという人への義理立てが絡んでいるのだろう。
(でも、それにつけこむのって、ずるいから)
彼は本来、とても優しい人なのだろう。ところがアスカという人に対しての義理を、義務として課しているために、優しさを不器用に押し殺す他なくなってしまって、苦悩している。
(……と、思うんだけど)
実際にはどうなのだろうかと、外景に焦点を合わせて吐息をつく。どこかに残っていたらしい、小さな気泡が上っていった。
(碇君にかまってもらおうと思ったら……アスカさんのことは避けられなくて、でも、好きなのに、アスカさん越しの優しさしか、分けてもらえないなんて、そんなのないから)
作戦位置に各機が着く。
ただしムサシとケイタの乗るトライデント改は、格納庫での待機を命じられていた。
(マナ……)
小さな通信用のモニターに、発令所経由の映像を呼び出し、じっと見つめる。
──マナは緊張が過ぎる面差しをしていた。
そしてマユミはうつむきがちに、暗く何かを考えていた。
そんな二人の乗る零号機と弐号機は、視界の端に初号機の姿をとらえていた。
──初号機は、身じろぎもせずに、じっと空を見上げていた。
「来るかな……来るな」
マスク越しの『緑の瞳』が、雲の向こうに姿を隠しているなにかを見ていた。
それは電磁、光学、あらゆる観測網から姿をくらませている物体だった。
右手に力を込めたつもりになる。
握力は一桁に割り込んでいた。
『MAGIが使徒の存在を確認』
こののとき、「えっ」という小さな驚きの声が発せられていたのだが、気付いた者は居なかった。発信源はマヤである。
MAGIが発見した使徒の位置と、先ほどから初号機がにらんでいた空の方角が、全く同じであったからである。
『三人とも、良いわね?』
確認の声に、初号機が片膝をつく。零号機と弐号機は、空に向かって銃口をかまえた。
零号機はハンドバズーカーを両脇に抱え、弐号機は両肩に陽電子砲を装備している。
ハンドバズーカーは砲弾を貫通力のない、しかし爆圧の高い弾を装填されている。
そして二門の陽電子砲は、特別に用意されたエヴァ用電源車両からエネルギーを取っていた。
弐号機の背後には、都合三本のケーブルが流れることになっていた。
『使徒接近。軌道を外れます』
『カウントスタート』
──初号機がまず駆けだした。
灼熱の色に染まったものが落下してくる。それは距離二万を割り、一万を切った。
「くっ」
射程距離が最も長いのは弐号機の装備する陽電子砲である。
股を開きぎみに踏ん張って、弐号機は重い砲を二つとも抱え上げた。
「距離六千……発射!」
両の銃のトリガーを弾く。空へ向かい、一直線に二条の光線が伸び上がる。
バッテリーゲージのゲインががくんと減少した。
「くうううう!」
連射の反動によって、じりじりと後ろに下げられてしまう。かかとが地を削る感触が伝わってくる。ビームの出力に負けて体が振られる。
『直撃します!』
オペレーターの声に、砲門の方向を修正する。
モニターは真っ白に焼き付いていて目がくらんだ。補正情報が重なっているものの、それも電磁波の影響によって安定しない。
──グン!
マナはなにかしらの手応えを感じた。
戦時時代に、訓練で感じたものと同じ感覚だった。
的をとらえた手応えである。
「そこぉ!」
マナは直感に逆らわなかった。
電源車両が過度のエネルギー要求に爆発するまで連射した。
「このっ、このっ、このぉ!」
光弾が二つ、三つと雲を突き抜け天へと上った。それは使徒にあたって細かく弾け、流れて消える。
──カメラで見ていた者たちは、使徒が空に制止したような錯覚を覚えた。
陽電子砲が放つ光弾という『障害物』が、使徒の落下速度の減殺に成功したのだ。
『零号機攻撃!』
距離三千。ヘッドマウントディスプレイに顔を隠し、マユミは指定ポイントへと砲撃を開始した。
砲弾は時限信管式であり、弾倉内部でタイマーをセットされている。
わずかに誤差はあったものの、砲弾は理想着弾地点で爆発した。衝撃波が使徒をうまく誘導し、初号機の移動可能範囲内へと押し流していく。
落ちるだけの使徒は、なすすべなく爆風にさらされ、漂い動いた。
『初号機が!』
『シンジ君!?』
ミサトは焦った声を出してしまった。
初号機の足が、わずかに地を蹴りそこなったのだ。再整備のために雑に積まれたがれきがあった。初号機はそれを深く踏み抜いて、よろけてバランスを崩していた。
──バカ!
シンジはミサトのうかつさを呪った。それでもまだ間に合うはずだった。しかしミサトのよけいな声に、マナとマユミが反応を示してしまったのだ。
ほんのわずかな間違いが引き起こした結果は、惨憺たるものだった。
使徒の中心を突き上げていた陽電子が右に逸れた。
これによって使徒はバランスをかたむけた。
さらに砲弾の着弾地点が、予定位置より大きく外れた。
無用の風が、さらに使徒を流す。
(届かない!?)
レーダーで確認する。街の地図には三機のエヴァが光点によって表示されている。
右翼に弐号機、左翼に零号機。
そして中心に初号機を示す光があって、これは二機の間に一本の直線を引いている。
向かう先には、ふらふらと動きの定まらない青い光があった。使徒である。
初号機のスタート位置を中心に、赤い枠が作られていた。それは初号機の移動可能範囲であった。
使徒はこの内側へと流れるコースから外れ、零号機側へと移ってしまった。
「山岸さん!」
マユミでは無理だ。皆が絶望する中で、一人だけ表情の違う者がいた。リツコである。
彼女は険しい顔つきで結末を甘受しようとしていた。
その頭の中には、出撃前に交わした話が渦巻いていた。
──シンクロ率って、本当に上げる方法はないんですか?
これ以上となく思い詰めた様子で訊ねるマユミに、リツコはないとは言えなかった。
言わせない迫力があったのだ。
「碇君を見てると、シンクロ率の上げ方を知っているようにしか思えないんです」
それは常々彼女も思っていたことであったから否定できなかった。
「でもあの子の場合は、火事場の馬鹿力と同じなのよ」
「火事場の馬鹿力ですか?」
「そう……人は極限状態に置かれると、命を守るために必死になるの。人間というものは、普段は不必要なくらいにたくさんの情報を拾っているわ。絵、音、臭い。でも死を予感させるような極限状態に陥ったとき、五感は必要な情報だけを拾おうとするの。処理と判断に手間取らないようにね」
たとえばと例を挙げる。
「事故を起こした人間は、その光景は灰色だったと証言しているわ。身をかばうためには、自分がどうなっているかを知る必要がある。でも、色は必要ないでしょう? そして色彩についての情報が削られれば、その分だけ情報処理にかかる時間は少なくてすむようになる。そんな風に、シンジ君も、高いシンクロ率を記録するときには、余分な思考を排除している……」
「必死になっているってことですよね?」
「それが高シンクロを実現するための鍵よ……でもね? これは危険なことなのよ」
「……でも」
「聞いて」
彼女はマユミの肩に手を置き、懸命に言い聞かせた。
「何かをしなくちゃいけないって、周りが見えていないような状態が、どれだけ危ういか、あなたはそれを見ているはずよ」
シンジのことである。
「シンジ君にだって怖いって気持ちはあるのよ。痛みはあっても、それは嘘の痛みで、本当に壊れるのはエヴァだから……なんて、あの子はそんな風には思っていないわ。あの子は……そうね、たとえば使徒を倒すという目的だけに染まった瞬間、その目的を果たすだけの制御部品になり切ってしまうのよ。エヴァンゲリオンの中にある、たくさんの部品の一つになり切ってしまうの。……どうしてそこまでっていうことについては、今更話すことではないわね」
わかるでしょうと言う。──もちろん、それは、アスカである。
「でもそれは追いつめられていると言うことなのよ。生きていること自体に、そこまでゆとりがないということは、決して良いことではないの。このことも一番よく理解しているのは、あなたのはずよ?」
そうでしょう? ──そう問いかけたものの、説得は失敗したなと、彼女は感じ取っていた。
マユミは雲を散らし、煙を帯びて落ちてくる赤銅の巨体に目を奪われた。
おびえる心が硬直を呼ぶ。
──山岸さん!
どこかでシンジの声がした。
(碇君?)
硬直が解ける。
そして彼女はエヴァを動かす。
このとき、マユミは、逃げてはいけないと歯を食いしばった。
──なにかに縛り付けられて、追いつめられてしまっているからこその力なのよ。それがどれだけ悲しくて、寂しくて、不幸なことかは、あなたにだってわかるはずよ?
でも……とマユミは考える。
(死ぬのは怖いけど、でも、自分だけが無事だなんていうのは、もっと怖いことなんですよ)
そうは思いませんかと、頭の中のリツコに反論し、次にシンジのことを、避難所の人たちのことを思い浮かべた。
自分だけが無事で、なにもかもを失ってしまった人たちが居て、申し訳なくて、いたたまれなくて。
自分がもっとしっかりしていればと思うのは傲慢で、けれどもマナのように体を壊しているわけでもない。
なにもかもを得たから、得られたから、もう満足しているからこそ、シンジは強いのだろうか?
満たされているからこそ、傷つくことは、大したことではないと思えるのだろうか?
それとは違うとわかるのだ。
おそらくは……シンジは自分と同じ種類の人間だと直感する。
傷つくことよりも嫌なことがあると知っている痛がりの人間。だからこそあれほどまでに必死になって、痛みを味合わぬように逃げ回っているのだと。
大きな痛手を負わぬためには、些細な苦しみに浸れば良い。
「マユミ!」
両肩の武装を排除して弐号機が駆け出す。
初号機ほどの速度は出ずとも、距離の近さが彼女を助ける。
「マユミっ、逃げて!」
動かない。
「なに勘違いしてるの! がんばればうまくいくなんて、そんな都合のいい話っ」
『マナ! ATフィールド全開!』
「やってる!」
──がんばれば、うまくいくなんて話。
確かにそうかもしれない、けれども──。
(わたし一人だけ)
マナは体を壊している。
それを押して戦いに出ている。
シンジは心を病んでいる。
なのになおも人を守る。
そんな二人の側にいて、自分だけがなにも懸けず、なにも失わずに、傷つかぬように、無理をせずに済ませるなんてことが……。
(それじゃあ、だめだって)
思うのだけれども、やはり体は動いてくれず……。
(あたしは……)
死ぬ? ……とまで考えて、これまでのことが走馬燈のように蘇ってきた。
シンジとの出会い。かろやかに跳ね飛ぶ零号機。右腕を犠牲にする初号機。かばってくれる背中。無理をした笑顔……。
(だめ……)
気配が近づく。
(だめ)
S2機関と呼ばれる巨大な力の波動を感じる。
(だめ!)
同時に碇シンジが消えていく。
失うのだという恐怖感と、失ってはならぬのだという強迫観念に凝り固まって、盾となるために駆け寄ってくる。
この暴走は、止まらない。
止めるためには……。
「だめ!」
マユミは懸命に、自分がとATフィールドを展開した。
両腕を突き出し、跳ね返そうとした。
シンジが請け負うはずであった仕事を努めようと必死になって、命を懸けるつもりになった。しかし……現実はそう都合良くは動かなかった。
「あ……」
展開したATフィールドが霧散する。
巨大な質量に引きちぎられる。
使徒は彼女の張ったATフィールドなどに、まるでかまわず落下して……。
彼女の乗る零号機の直上で、間に割り込んだ初号機の右拳に打ち壊された。
Bパート
巨大な火球がふくれあがり、三体のエヴァを内に取り込み、白く燃え尽きていった……。
──モニタを染める赤の色に照らされて、ミサトは目を細くした。
「まるでパイ生地だったわね……ピザでも良いけど」
それが感想のすべてであった。
使徒の姿を正確に捉えられたのは、地表到達寸前になってのことであった。
その形状はともかくとしても、初号機の拳に突き上げられ身をゆがませた姿は、くぼみを作られた生地そのものである。
「すっごく間抜け……」
「その間抜けに関東全域は消滅させられる寸前だったのよ」
機嫌が悪いなぁと、ミサトは身をすくませた。
通信の回復に伴う報告会は、総司令執務室にて行われた。
碇、冬月の責任者二名は声のみの参加である。
「それでシンジ君の容態はどうだね」
調子ではなく容態と訊ねたところに問題の重さがうかがえた。
「過剰なフィードバックによって、右腕の神経が切断されました。本人はしびれているだけだと思っているようですが……」
「治るんだね?」
「長期治療が絶対の条件です」
長い嘆息が聞こえた。
それは認められないと言うものであった。
「ファーストチルドレンの様子はどうだ」
これはゲンドウである。
「引きこもっています」
「そうか……」
「……お前な」
ムサシはあきれ顔でケイタを見やった。
「うっとうしいよ」
どうして自分たちだけが相部屋なのだろうかと、ムサシは真剣に吐息をこぼした。
「フラレたからって」
「フラれてないよ」
「でも嫌われたんだろ?」
「追い返されただけだよ!」
「似たようなもんじゃないか」
あきれかえって、言葉も出なくなるムサシであった。
「……しつこくするから」
心配して様子を見に行き、声をかけ、ありきたりな慰めの言葉を口に吐いて失敗した。
並べ立てれば、たったそれだけのことであった。
「お前じゃだめだってことだな」
「じゃあ誰なら良いんだよ?」
……ムサシは親友のことを思ってか、あるいはよけいな敵意を煽らぬためか?
誰とは口にしなかった。
──本部医療棟診察室。
「元気ないね」
「そうかな」
シンジとマナは、そろって点滴を受けていた。
二つある診察台に、並んで横になっている。
……元々丈夫ではないマナは、点滴の大きさに辟易していた。シンジの倍はあって、七百ミリリットルと聞かされていた。
「それってやっぱり……マユミのことが心配だから?」
揺さぶりをかけて隣を見る。しかしそこにあったのはいつものシンジの顔だった。
見えた右腕の痛々しさに目を細くする。ギプスで固められていた。
「入院とか……」
「なに?」
「しなくてもいいの?」
心配顔のマナに、大したことはないよと軽く持ち上げて見せる。
「リツコさんにはしろって言われたけどさ。それが嫌なら、看護士とか付けるからって」
家政婦など、身の回りの世話をする者が必要だろうとも薦められたのだが、シンジはそのすべてを断っていた。
「そう言うの、恥ずかしいし」
マナは目を丸くした。
「恥ずかしい……」
「なんだよ?」
マナは自分へと横向いたシンジを見て、少し笑った。
「シンジ君に、なんか似合わないなって……」
すねるシンジに、ますますにやけてしまい、目が細くなってしまう。
「おかしいんだ……」
シンジはなにも返さなかった。
「……マユミだけど」
マナはそれ以上のものは引き出せないなと、話題を変えた。
「あんなに思い詰めてたなんて……知ってた?」
僕のせいだなとシンジ。
「僕が……勝手にやってることだなんて言っても、それで納得できるわけないんだよな」
ごめんねと続けた。
「霧島さんにも、酷い思いさせてるね」
「え……」
マナは驚き、体を起きあがらせようとしてしまった。
どういう心境の変化かと思ったのだ。
シンジから謝罪の言葉が聞けるなどとは……。
「でも僕にはどうしていいかわからないんだ」
「わからないって……なにが?」
「人を避ける方法」
マナは眉間に皺を寄せた。
「……避けなくても良いじゃない」
「でもね」
シンジはマナの目をじっと見つめた。
「霧島さん……覚えてる? 初めてケージの前で会ったとき、ふるえてたよね?」
「うん……」
怖かったからとマナは正直に明かした。
「本当はしゃべるのも難しかったの。歯がかちかち鳴っちゃって」
「だからだよ……」
「え?」
「おびえてるのがわかるのに、背を向けられるわけないじゃないか……」
そういう恐怖心もあるのだと語る。
「三体目の時もそうだったよね……僕は一人でやるつもりだったけど、霧島さんは出てきた」
「ごめんなさい……」
「責めてるわけじゃないよ。……いや、責めてるのかな? 霧島さんが出てこなかったら、きっと僕は死んでた」
「シンジ君……」
「でも、あの瞬間に……」
寝そべった体勢のまま、恐怖に引きつり、硬直した弐号機がいる。
「僕は、死ぬわけにはいかなくなった……」
マナは言い表せないたぐいの寒気を覚えた。
「だからだよ……」
ふっと気配が柔らかくなる。
「山岸さんも同じなんだ。もし霧島さんや山岸さんが、もうちょっとだけ強かったら……僕は庇おうなんて思いもしなかったと思うんだ。あんなに必死にはならなかった。変な言い方だけど、信じて、任せて、信じたのが失敗だったって、二人が死んでから思ってたかもしれない」
たどたどしい説明であっても、マナにはわかる言葉だった。
「戦自でね」
「…………」
「模擬戦をよくやったんだけど、同じことを言われたことがあるよ。信じたのが失敗だったって。過大評価して任せたのが悪かったって。自分のせいだって言い方で、人を責めるの」
「そっか……」
「軍隊と市民の差もそこにあるって教えてもらった。市民には戦う力も守る力もないから、軍隊があるんだって。もし戦う力や守る力がある市民が居たら、それは戦士になる義務を怠っている人間だって」
「そうなのか……」
「……シンジ君がそうだとは思わないけど」
眉間に皺を寄せるマナに、シンジはどうしてさと訊ねた。
「僕は、戦士じゃないの?」
「戦う人は、気概があるものだと思う……でもシンジ君のあれは」
必死すぎると口にする。
「死に急いでる人は、戦うべきじゃないって、これも教わった。人を巻き込むから」
マナはそのときのことを思い出したのか、また顔をしかめた。
(あのときは……巻き込むって、巻き添えにして被害者を増やすって意味だと思ってたけど)
シンジを見ていて、彼女は間違いに気が付いた。
悪人が、無邪気な赤ん坊を前にしては、らしくない善性を覚えてしまうように……。
残忍な性質の人間が、家族という無条件の愛情を前にしては、穏和な姿を見せてしまうように。
無償の行為は、人に好感と、わずかな罪悪感を抱かせるのだ。故に、人は、惹かれ、その人の生き方を倣おうとして、巻き込まれて行く。
「ねぇ……」
マナは今ならと思ったのか、これまでずっと聞けずにいたことを訊ねた。
「あたしはだめで、マユミには優しいのって……あたしには心配する必要がないからなの?」
そんなことはないさと、じつにあっさりと答えは戻った。
「言ったろ? あのとき、霧島さんが無理をしようとしてなかったら、僕はここには居ないよ」
「でも……」
「霧島さんを避けようとしてるのは、だから、別の理由からなんだよ」
わからないかなと体を起こす。
「人はね……変わりたがり屋なんだよ」
マナは不思議そうにシンジを見つめた。
寝そべったままで、見上げた顔は、とても苦しみに満ちていた。
「みんな……自分が嫌いなんだよ」
シンジは腕に刺さっている針の上を指で押さえて天井を見上げた。
「嫌いなんだ……だから自分でなくなりたいと思ってる。そうじゃなかったら、こんな自分でも良いんだって、誰かに認めてもらいたがってる」
「わかる……気はする」
あたしもそうだと、マナは思う。マユミもそうだろうなと考える。
「そういうのが強い人はね、自分を変えてくれそうな人……影響を受けられそうな人に惹かれるもんなんだよ。僕もそうだった」
「アスカさん……」
こくりと頷き、マナへと目を向けた。
おなかの上に空いている腕を置いているマナの、胸から、喉、そして形の良い顎までの曲線に目を細くする。
「霧島さんは……どっちかな」
わざとらしくシンジは顔を背けた。
「でも、そういうのが強いんだっていうのはわかるんだ……そんな人はね、どうにかして、その人の側にいようって考えるもんなんだよ。近づきたいなって、考えるんだ」
マナは人の気持ちを勝手に分析するやり方に、彼を少々睨んでしまった。
「だから、シンジ君、あたしを……」
またも頷く。
「それも、霧島さんは、一番簡単な方法を取ろうとした。……わかるよね?」
マナには答えようがなかった。
「僕が霧島さんを避けようとしてるのは、だからなんだよ。霧島さんは、パートナーってシステムの効率の良さを理解し過ぎてる。でも山岸さんは、そこまでずるくないから」
マナは傷ついた顔をして目を伏せた。
「あたし……そんなにずるいかな」
「ごめん」
シンジは正直に謝った。
「言い方が悪かったよ……いつもこうだよね」
とても苦しげに口元をゆがめる。
「僕は弱虫で、意気地なしの臆病者だった。卑怯者だった……。だから、アスカに惹かれて、アスカに変えてもらった。でも、だから、好かれるのに必死だったから、嫌われようとか、どうすれば避けられるようになるのかなんて、わからないんだ」
──嫌な間ができあがった。
好かれたがりの少年は、嫌われることが恐ろしかったが故に、人付き合いの中で最も大切な距離のはかり方を、偏った形でしか理解しては居なかった。
「そっか」
彼女は、ふぅっと大きく息を吐いた。
多少シンジよりも、精神的に強かったらしい。
「そっか……わかった。少しすっきりした」
ありがとうとはにかんで見せるマナに、シンジはいたたまれなくなって顔を伏せた。。
「ごめん……」
「いいから!」
ぐしっと右腕で顔を隠して鼻をすする。
腕をどけると、目が赤くなっていた。
「シンジ君って、意気地なしで、甲斐性なしだってことが、ようくわかった!」
「甲斐性なしって……」
「アスカさん、アスカさんって、アスカさんに愛想をつかされないようにするだけで許容量いっぱいで、あたしとか、マユミにまで手がまわんないんでしょ!」
マナは半ば自棄になって、口にしただけであったのだが、この評価はシンジに思わぬ打撃を与えていた。
報告を終えたリツコとミサトが、連れだってエレベーターの到着を待っている。
「神経系統の切断か」
独り言のつもりだろうとわかってはいたのだが、気になって、リツコはつい訊ねてしまった。
「なに?」
「ん〜〜〜、本当にそれだけなのかなぁと思ってね」
横目に鋭い視線をくれる。
「彼のカルテ、見せてもらったわ。ねぇ……右手だけにあれほどの負荷がかかるってのは、おかしくない?」
「そう?」
「確かに攻撃、防御、両方の面で右手を酷使しているわ。でもね、負荷って意味じゃ全身にかかってるものなのよ? なのに右手の過負荷だけがフィードバックシステムを介して肉体を痛めつけてる」
リツコは降参だと白状した。
「あなたの考えている通りよ」
「やっぱり……そうなのね?」
「右手にだけ、エヴァからのダメージが伝わっているのは、彼がそれを望んでいるからだと考えられるわ」
「右腕を……特に右手を酷く傷つけたいわけね……でもどうして」
「たぶん……」
「なによ」
「彼、性衝動に対して、異常なくらい敏感なのよ。そのせいじゃないかって」
はぁっとミサトは首をかしげた。
「彼の歳なら興味があっても……」
むしろ普通の部分あるってわかってほっとしたわ。……そんな具合に笑い話にしようとするミサトに、リツコはそうではないわと話を続けた。
「そういう気持ちになってしまうことが恥ずかしい……そんな風に悩んでいるのなら心配はしないわ。彼の場合は、それは仕方のないことだけれども……それはそれとしてってね? うまく分析して、解析して、理屈で理解できるものにしてしまって、そのまま消化してしまっているのよ。そういう気持ちが抑えきれなくなるくらいに高ぶったり、膨らんだりするまえに、処理してしまっているわけなの」
「それが問題になるの?」
「人間の三大欲求の一つなのよ? いえ、生物のね。ただでさえ彼は食事なんて空腹を覚えなければ良いと思ってる。満腹感を味わうことには興味なんて持ってない……味にもね。それから性欲は今言った通りで、睡眠も惰眠をむさぼると言うほどには遠いわ。まさに、なんのために生きているのかわからない人間の典型ね」
「う〜ん……」
「特に顕著な結果が出たのが性欲なのよ。本人は自分が抑制してしまっていることに気がついてないわ」
「そうなの?」
「『アスカ』への義理立てかとも思ったんだけど、どうもそれ以前の問題のようなのよね」
「義理ねぇ……」
うんうんと唸る。そんなミサトに、じゃあこんな話はどうかと明かした。
「彼、マユミのこと、放っておいてるでしょう? 落ち込んでるのに」
ミサトはケージでの一悶着を思い出した。
なにもできなかったばかりか、無理をしてシンジにまた怪我をさせてしまったと気を滅入らせていた。
ごめんなさい、でもあたしはと言い訳をしようとするマユミの頬をはたいたのはマナだった。
──なに考えてるの!
「マナにはわかってるのよね。そういうところは、さすがに戦自で鍛えられただけのことはあるわ」
マユミは気が弱すぎた。だから犠牲になろうとするシンジが怖くて逃げ出そうとした。
自分も矢面に立つことで……。
「気持ちばかりが先行したって、ろくなことにはならない。そういう自制心は、そうそう身に付くものじゃないからね……。なにを勘違いしたんだか、マユミ」
おかしなことを言うなとリツコは感じた。
「勘違いって?」
「やる気ばかりじゃなんにもできない。それが現実ってもんでしょう?」
でもとリツコは否定意見を述べた。
「シンジ君を見てると、そうでもないと思えるのよ」
「シンジ君は特別でしょう?」
「そう? そうは思わない」
強く主張する。
「彼を見てると、エヴァを動かすのに必要なのは、なんのために動かすのかって、そういう気持ちなんだって思うわ」
「…………」
「エヴァは人造人間なんだって、改めて感じさせられるのよ。乗り手の気持ちがわからないものじゃないんだって」
「心があるってこと?」
「その心に共感して、力を貸してくれる。それがエヴァだと思えるわ」
「そんなの……」
「信じられなくても良いわ。作った人は、わかってて作ったんだか……」
「碇ユイ博士か」
「ええ……」
だとすれば、皮肉なことだと彼女は思った。
「で?」
「え?」
「マユミを放っておいてるって話は?」
「ああ」
そんな話だったなと思い出す。
「止めようとしなかったでしょ? マナのこと」
「ええ」
「ああいうときは、感情が停滞しようとしているから、あれくらいの衝撃は必要なんですって」
「よくわかってるのね」
「一人にさせてくださいって、マユミ、部屋に閉じこもっちゃったでしょ? 浅利君がお見舞いに行って、追い返されたらしいけど……」
青春よねと、不謹慎なことを口にする。
「それについても訊ねたんだけど、ああいうときは、放っておくべきなんですってよ」
「どうして?」
「だってね……気が滅入ってるときに、変に話しかけられたりすると、うっとうしいでしょう? それでも話しかけたりするのが友達だっていう考え方もあるんでしょうけど」
肩をすくめる。
「いつまでも落ち込んでないでとか、泣いてちゃいけないなんて言葉は、どっちかって言うと、周りに居る人間が、見たくないからってかけるような言葉じゃない? そういう姿を見せられていると、こっちが辛くなるからやめて欲しい、勘弁して欲しいって気分になるからって、お願いしているようなものじゃない。けど落ち込んでる人間は、そんな勝手な言いぐさには敏感なものだから」
「…………」
「そんな言葉、責められているようにしか聞こえないものなのよ……って、これが全部、シンジ君の受け売りだって言ったら、どうする?」
どうもこうもないわとミサト。
「あの子、ホントに子供なの?」
「まあ最後は、ほんとは慰め役なんて、嫌われるだけの損な役回りはごめんなだけです、なんて、冗談めかして言っていたけど」
「それでも立ち直らなかったら、どうするつもりなんだろ?」
そのときはとリツコ。
「こういう時こそ、大人の出番でしょう? だって」
「…………」
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