[Love a riddle.]

 ――波の音が聞こえる。
 僕は、本当に……君のことが好きなのかな?
 尋ねるシンジに、彼女は不審げな表情を浮かべる。
「なによ? 急に」
「うん……。僕は、僕は……僕はただ、本当は怖くて、アスカが怖くて、アスカにわめかれるのが嫌なだけで、だからアスカの機嫌を取ってるだけなんじゃないのかなって、思ってさ……」
 本当にどうしたのよ、急に……と、彼女はうなだれる。
「そういうところがない……とは言えないと思うけど……」
「うん?」
 アスカは真剣な顔つきで話す。
「二十世紀代の研究の話よ? ……ストレスってのが注目されたときがあったの。ストレスはいけないものではなくて、動物学的には必要不可欠なものなんだってね?」
 一見して関係性がなく思えても、アスカは無駄なことを話さない。
 だからシンジは先を促す。
「人間にも必要なの?」
「もちろん。……そうね、人間で言えば、性善説ってのがあるじゃない? あれを否定する話になっちゃうんだけど、人は元来、誘惑に弱い生き物なのよ。でも人の目、他人の視線がストレスとなって、その人の行動に戒めをかけるの」
「たとえば?」
「いじめとか万引きとか、強盗殺人、なんでもよ。盗みをはたらく自分はどんな目で見られるのか? とかね」
「でもそれだけだと弱くない?」
「そうよ、だから幼少時のしつけの話になるの。悪いことをしたときにきつく叱られたことのある子供は、それをトラウマとして抱えたままで大きくなるの。でね? 悪いことをしようとしたり考えたりしたときには、トラウマが思い出されて悪い行動をさけようと……つまり、悪いことはやめておこうと自然に考えてしまうようになる」
 シンジは思った。
「それが、今の僕?」
「……の、一部じゃない?」
「そっか……」
「あんたはあの頃の……みんながいた頃のことに対してストレスを感じているから、その逃避からあたしを守ろう、あたしにかまおうとしている……。でもその中に愛情があるかどうか、それが見抜けないほどあたしは鈍くない……と思ってるけど、そこはあたしが口にしたって、あんたは納得できないでしょうしね?」
「うん……」
「だから、あたしはあんたを愛してあげるの。それが疑いのない、本当のものだってあんたに伝わるくらいにね?」
 ……でも、と、彼はそれでもと思うのだ。
 それさえも、感謝や失うことへの恐れから来る逃避的行動だとしたら、僕は彼女のなにを信じ、自分のなにを信じて、彼女に伝えれば良いのかと。


 ――本部舎通路を大股に歩く女がいる、葛城ミサトである。
 険しい顔つきで考えているのは、先ほど医者と交わした話のことである。
 ――体調に問題はありません。精神、心理面に置いても問題なし。
 医者の言葉を不審に思う。
「問題なし……って?」
 あれで? と思うのも当然のことである。
 二人はモニター越しに彼女――山岸マユミの姿を見る。
 そこには未だ惚けた様子で、ベッドに半身を起こし、天井を見つめている姿があった。
「だからこそ問題であると言えるのですが……」
 三十代前半の、若白髪の医師は苦悩を伝える。
 ――と、MAGIの映像記録を調べようと進むミサトの前に、人が立ちふさがった。
「加持」
 よぉっと、リョウジは気さくに、だが目には剣呑な光をたたえて彼女を呼び止めた。
「……どいてくんない?」
「避けて通ることもできると思うけどな」
 それほど狭い通路ではない。むしろ広いくらいだ。
 どうせ邪魔をするくせに。そんな目でリョウジを見上げて、ミサトは言う。
「あんたには関係ないことでしょう?」
「微妙な問題なんでね。口出しする権限は与えられてる」
 ミサトはげんなりとして返した。
「司令の指示なの?」
「指示ではないけどな」
 ぽり……と頬を掻いた。
「アレはまだ持ってるか?」
「アレ?」
「マユミに渡してくれって言ったやつだ」
「ああ、これね」
 ミサトはテープを取り出し放り渡した。
「何が入ってるの?」
「それがわからないから、調べるんだ……聞いてないのか?」
「人の手紙の中身を読む趣味はないわ……時と場合にも寄るけどね」
 そういえば、今はその時と場合だったなと考えたが、返した後ではもう遅い。
 まあ、問題のある内容であれば、あとで報告が来るだろうと、彼女は気楽に考えた。
「そういえば……」
 思い出す。
「あんた、あの通路で見張ってたわね?」
「ああ」
「あの時……そう、確か」
 ――浅利ケイタ。
「ケイタ君がうろうろしてるって、それで見張ってた……」
 ぴんと来る。
「逆? 来た後? 戻ってくるかもしれないって、念のため……」
 加持は答えない。
 だがそれがミサトの想像をふくらませる。
「まったく!」
 ミサトは矛先を変更する。
「大人をバカにして!」
 どいてと加持を押しのけ、大股気味に歩き去る。
 その背に対して嘆息し、加持は手の内のテープを指でつまんで持ち上げ、目と同じ高さにして顔をしかめた。
「何がふき込まれているやら……だ」
 加持はポータブル再生機にセットすると、イヤホンを耳に挿し、歩き始めた。ただし……。
 最初の数秒から、加持の顔は歪みを帯びたが。


 シンジはジオフロント地下湖のほとりに立っていた。そこには監視のカメラがないことを知っていたからだ。
 誰かが来るであろうことは予測していたが、それがミサトになるのか、加持になるのか、マユミになるのか、その他の誰かになるのか。それによって、この先のことが変わるだろうなと考えていた。
 そして、その誰かがやってきた。
 日の射さない森林をこえた場所だ。湿気がひどく、また薄暗い。草を踏む足音に首だけを向け、肩越しに確認すると、加持が難しい顔をしてやってくるところだった。
「遅くなったかな?」
「別に待っていた訳じゃないですけどね」
 よくここがわかりましたねと告げると、加持は肩をすくめ、緊張をごまかした。
「わからないから、保安部に問い合わせて、君の携帯の現在位置を教えてもらったんだよ」
「そうですか」
 加持は少しばかり離れた木にもたれかかり、腕組みをした。
 シンジも会話が長くなると踏んで、そばの木にもたれかかった。
 お互いに目を合わせる。
 口火を切ったのは加持だった。
「いろいろと聞きたいことはあるんだが……」
「…………」
「その前に、一つ報告がある。君の言う……アスカ……な。確認できたよ」
 シンジの目が、細く険しくなる。
「やっぱり、生きて……いや、居るんですね」
「ああ」
 大きな呼吸を間に挟む。
「惣流……アスカ・ラングレー。アメリカから現在はドイツに移住しているよ。母親はエヴァンゲリオン開発局勤務だが、エヴァンゲリオンに関わっているのはその母親だけで、彼女自身はスクールに通うただの女の子だったよ」
「お母さんは生きているんですか」
 よかった……とつぶやくのをリョウジはわざと聞き流した。反応を見せるべきではないという態度だった。
「それから、預かっていたテープだがな、これの内容も聴かせてもらったよ」
 最初から聞かれることは織り込み済みである。特に責めもせずにシンジは尋ねる。
「他に聞いた人は?」
「さてな……葛城は聞かなかったみたいだ。俺が聞いた後、赤木博士に渡したよ。総司令と副司令が今頃聞いているかどうか……」
 順当ですねと皮肉をつぶやき、で、と、シンジは先を促した。
「どう思いましたか?」
 加持の顔に、深い困惑が刻まれる。
「正直、信じられないな。君がサードインパクトを経験し、再帰した人間だなんて」
 吹き出す。
「再帰……ですか」
「他に言葉が見つからなくてね」
「でしょうね……」
「だが、そうでなければ納得のできない……そうであれば納得のできることも多いんだ。たとえば君は、エントリープラグの調整を自分でしているな」
 首肯に話を続ける。
「LCLの純度適正値なんてものは……、赤木博士が設定しているものよりも、君にマッチした設定になっているな。それらを確かめるための機材や、プログラムの呼び出し手順、これらは専門の手ほどきを受けていなければ、できないはずのことなんだ」
 なにしろ、エヴァンゲリオン関係のシステムにはすべてネルフオリジナルの、ゲヒルン謹製品が用いられている。これはハード、ソフトの両面に置いてのことであり、機械工学を少しかじった程度の人間では、とうてい太刀打ちのできる代物ではない。
 なのにシンジは、『そこそこ』の調整とセッティングを、知識と経験としか呼べないものでよって、マニュアルも無しにこなしてしまっている。これは多くの所員の目に、とても奇異なものとして映っていた。
「だが……」
 リョウジは眉間にしわを寄せた。半分はパフォーマンスだが、後の半分は違っている。
「だがネルフのバックに、ゼーレなどという組織はないんだよ。アダムというものもここにはないんだ」
 加持はあえて、自分が政府にも繋がりがあるところだけ、ごまかした。
「そして……な。君自身にもわかっていることなんだが、綾波レイという女の子もいなければ、惣流・アスカ・ラングレーに、エヴァに対する適性は認められてないんだよ。なによりも、エヴァには人柱なんてシステムは用いられていないんだ」
 シンジは一点だけ、共通項を突いた。
「でも、使徒がいる」
 そうだとリョウジはうなずいた。
「君の言う……君のテープに吹き込まれていたような使徒が、今後現れるかどうか、それから判断するほかない……正直な」
 これまでの使徒については、いくらでもそれらしい嘘を吹き込めるからだ。
 最後にと告げる。
「君では……いけないのか?」
 シンジの口元に自嘲が滲んだ。
「僕が……いけないんですよ」


 ──本部内大深度エスカレーター。
 いらだちも露わに、ミサトは足踏みを行っていた。
 腕組みをし、眉間にはしわを寄せている。背後にはファイルを抱えた日向マコトの姿があった。
 あちこちに移動するミサト……上司を、ようやくつかまえたところだった。
 彼はミサトの様子を怖々と伺いながら、それでも尋ねないわけにはいかないと、刺激しないように確認を取った。
「それで……実際、マユミちゃん……ファーストチルドレンはどうなんですか?」
 エヴァンゲリオンの修復が遅れていることを理由に、ミサトはマユミを病棟へとあずけっぱなしにした。
 彼女と直接会うことを避けた理由は、今、頭の中で幾つも幾つも浮かんでは消えている最中だった。どれをとっても言い訳のようで、とうてい口にすることができない。
「戦闘は……させたくないわね」
 マコトはそんなにも深刻なのかと驚きを表した。
「でも、二三日も寝てれば治るって……」
「体の方はね」
 ミサトは隠さなかった。
「精神面でもか……問題なのは心理面よ」
「心理面?」
「ええ。エヴァは……心で乗るものでしょう? だからこそ、不安要素の濃い状態でのシンクロは……」
「暴走を引き起こしかねない……ですか」
 暴走にもいろいろあるけどと彼女は告げた。
「シンクロについても、もう一度調べてもらっているのよ。この間の、暴挙とも取れるマユミの行動の原因は、それじゃないかって思ったから」
「エヴァからの侵蝕ですか!?」
「そうじゃないわ。エヴァは思考操作を採用しているから、思い詰めたときに……頭が白くなるって言うでしょう? その状態でなんとかしなくちゃ、なんて考えてしまったとしたら……」
「ダイレクトに反応して……」
 そんなとマコトは青ざめた。だとしたらそれはシステムの問題には収まらないことになる。
 マユミというハードの……適格者としての資質の問題に発展するからだ。
「ただシンクロするというだけで、実戦に投入させてきたこと自体が間違いだったのかもしれないわね。シンクロするという適正と、パイロットとしての資質の問題は別にあるから」
 嘆息する。
「なによりも、マユミには焦りがあるから」
「焦り?」
「覚えてる? シンジ君が零号機に乗ったときの……」
「ああ……あれはすごかったですね」
 もう、ネルフだけじゃなく、あちこちで騒ぎになりましたよと、マコトは調子よく語った。
「凄かったですよね……UN軍だけじゃなくて、戦略自衛隊からも問い合わせがありましたしね」
 UN軍は各国から派遣された戦力による混成軍だ。彼らはそれぞれの自国へと報告したことだろう。これで話が広がらないわけがなかった。
「理論上は人のように走って動けるはずだって言われてる程度だったのが、空まで飛んだんですからね」
 まさに夢のような映像でしたと語った後で、ピーターパンにしては無骨で無気味ですけどと、笑いをそえる。
「技術部や整備班の連中なんて、今でも興奮してますよ」
 そんなマコトに、ミサトは水を差すような形で、問題点を指摘した。
「問題は、それを最も間近に見て、感じたのが誰だったかってことなのよね……」
「は?」
 あっと、マコトは気が付いた。
 それは同乗していたマユミであるのだ。
 理解したなと、ミサトはマコトと目を合わせた。
「つまりね……エヴァには、少なくとも零号機には、あれだけの潜在的能力があるってことが、はっきりと示されてしまっているのよね。その上で、シンジ君はマユミというノイズを混入させたままで、自分用にも調整されていない零号機で、空を飛んでみせたのよ?」
 マユミに力量不足を痛感させるには、十分過ぎた出来事であった。
「なのに自分には、それが引き出せない……」
「でもあれは、力量の問題じゃ……」
「マユミにはわからない……いえ、納得させられる? そういう問題じゃないって」
 だが納得してもらわなければならない。
 次にまたあのようなことをされては困る事情があるのだから。
「シンジ君だけじゃなく、マユミまでとなると、残るのはマナだけになるのよ」
 彼女は一番パイロットとしての資質を備えている。だが、その分だけ適性に欠けている。
「頭が痛いわ」
 マユミ自身の口からは聞いていない。だからすべては想像にすぎない。
 先日のマユミの無謀な行いが、どのような心理面からの表れであったのか?。
「でも……もしね? マユミがあの時の零号機の姿を目標としているのなら……正直、目指す目標としては、高すぎるのよ」
 そうは思わないかと同意を求める。
「シンクロ率も頭打ちの感じがありますしね」
「うん……それもあるけど」
 だからこそ、頭の痛い問題がある。
「あの時……、大事なことなんだけど、空を飛ばせた時ね? シンジ君は、自分を見失ってはいなかったのよ」
「それが?」
「わからない? 我を忘れたからと言って、エヴァの強さは変わるものじゃないってことよ。実際、暴走しているように見えても、シンジ君は非常に高いレベルでエヴァを制御しているわ」
 でなければS2機関は、起動もしなければ安定もしない。
 ただただ暴走するはずなのだ……そしてそれは、サードインパクトへと至ることを意味している。
「わかる? シンジ君の場合は、我を忘れて感情的になることで、リミッターを外して異常な力を引き出しているように『見えているだけ』なのよ。でもね? 実際には、無茶をしてまで敵を倒そうとしているだけで、決して自分ってものを見失っているわけじゃない、非常に強固な目的意識を持って……」
 シンクロ率をコントロールし。
 S2器官を制御して。
「使徒を倒してきた。そういうことなのよね」
 それは無意識の領域のことであったとしてもだが、それでもそれがわかっているのなら、エヴァに対する搭乗能力向上と、必死になることは連動しないとわかるはず……なのだが。
「頭が痛いわ」
「はい?」
 ふぅと彼女は息をつく。
 真実はどうであれ、現象だけを追ってみれば、我を忘れるほどの深い思いこそが、エヴァから力を引き出す安易な方法であるように思われるからだ。
 この点を明確に否定できないようでは、説得力に乏しい。いずれはマナも同じ誤答にたどり着くかも知れないのだ。
 いったいどう歯止めをかければよいというのか?
「まあどのみちね……。零号機と初号機の相似性と相違性、それにシンジ君の異常なまでのシンクロ特質については、考察の余地があったわけだし……ね?」
 まさかとマコトは目をむいて驚いた。
「支部からあった陳情に従うつもりですか!? 実験のためにサードチルドレンをよこせって言う……」
 それこそまさかだとミサトは否定した。
「シンジ君は渡せないわ! もはや彼無しで使徒を討つことはできないもの……」
 マコトはそれ以外の解を思いつけず、困惑気味に尋ねた。
「では……だったら?」
「マユミよ」
「マユミちゃんを……」
 ええとミサト。
「自信をつけ直させるための、環境を変えての再訓練って、けっこう効果的だしね」
 マコトの顔に懐疑的なものを感じて、言葉を付けくわえた。
「大体あの子、シンジ君を……シンジ君の乗る零号機に同乗して、彼の乗る初号機を間近に見てきたことで、エヴァンゲリオンってものに対する理解が、完全に壊れちゃってるのよね。それはわたしたちもそうなんだけど……」
 ああなるほどと納得する。
「だからエヴァって言うものは、こんなものなんだという感触を取りもどさせるんですか?」
「ええ。シンジ君のデータをおまけにつければ、以前とは違った形でのアプローチなんかもためせるだろうし、そうなったらまた違った面白い結果も導き出せるかも知れないし……」
 それでもとマコトは疑念を呈した。
「本部と実戦でも、だめなのに、ですか?」
「マユミは、死中に活を見いだすタイプじゃないと、思うから……」
 ただ、彼女を送りだすためには、彼女に自分を見なおすための旅を必要なものであると認めさせるためには……。
 ひとつの大きな仕事が残されていた。

Bパート

 ──結果的には、ミサトの苦悩は棚上げという形で放棄することとなったのである。
「消滅!? 第2支部が消えたというのか」
 赤い電話の受話器を耳に当て、コウゾウは大きな声で怒鳴りかえした。
 電話の相手は肯定したようだった。コウゾウは電話を叩きつけるように置くと、背後のゲンドウに、眉間にしわを寄せた状態で尋ねた。
「偶然だと思うか?」
「…………」
「わかるわけがない……か」
 彼らの手元にある書類には、最終調整段階に入った機体の所在地として、第二支部の名前があり……。
 そここそが、マユミの遠征先の候補地として、第一に名の挙がっていた土地であった。


 ――大きな騒ぎとなった。
 各所からの問い合わせと対応に追われ、肝心の確認作業が進まない。
 さらには混乱に乗じてのハッキング、クラッキングが相継いでとまらない。
「パニックを起こすのもわかるが……。こういうときは、こちらからの発表を待ってもらいたいものだな」
 コウゾウは重く深い溜め息をこぼした。
「そろそろ臨時ボーナスでも出してやらんことには、サポタージュでぼろぼろになりそうだよ」
 もちろんそんな愚痴をこぼせるのも、ごく親しいトップのものだけで居るからである。
 総司令、副司令、作戦部部長、副部長、技術開発部主任、副主任の総勢六名は、瑣末ごとをサブ以下の人間に押し付けて作戦会議室へと逃げこんでいた。
 床を利用したモニターに、衛星からの像が映し出される。画面の隅に時間がカウントされている。
 ネバダ砂漠のど真ん中にある施設が、ゼロカウントと同時に消えた。そうとしか表現できない様子だった。
「再度再生します、再生速度は百分の一で」
 マヤは手にしている端末機を操作した。
 再び砂漠と施設が映る。今度は施設の中央より、染みが広がり出す様子が確認できた。
 染みは闇、あるいは黒色をしていた。まさに影だった。
 一切の光を放たず、通さず、闇は円を描いて広がり、天に向かっては半円を描いた。
「光さえも呑み込んでいるのか」
 コウゾウがつぶやく。
 球形の闇はコンマ何秒かで直径数百メートルに及ぶ施設を完全に覆い尽くし、そして一秒未満の停滞を持って縮小を開始した。
 消えざまはあまりにもすばやかった。そして元は施設と大地があった空間に、大量の大気が流れこんでいく。渦を巻きつつ、巻きこまれて流れこんでいく雲と大地を這う砂煙の動きがそれを知らしめる。
 ──チカリと、消失した空間の中心点で、なにかが光った。
「爆発が起こります」
 一瞬で画像は光につつまれた。
 電磁波が画面をノイズで埋める。
 絵は地上からの観測映像へと変わった。何十キロも離れての望遠撮影なのであろうが、巨大な粉塵の雲が立っていた。
「同時刻、第2支部では、3号機へのS2機関搭載実験を行っておりました」
「ではこれはS2機関の暴走によるものなのかね?」
「その可能性が最も大きいと思われますが、気になるデータもあります」
「気になるデータ?」
 はいとマヤが答える。
「黒い球体の正体は、物質が……光までも中心へ向かって吸い込まれた事による影ですが、これが発生していたコンマ数秒の間、パターン青が検出されています」
「ではこれは、使徒の仕業なのかね」
 ミサトは首を捻った。
「でも、だとして、最初の消失と次の爆発との関係は?」
「爆発の直前にパターン青が消えていることから、……仮に事故の原因が使徒、あるいはS2機関であったとしても、爆発はそれを要因としたものではないと考えられます」
「……影の中心は? 球状の影から考えてどれくらい地下なの?」
「少なくとも爆発の震源地はさらに地下です」
「核ミサイルでも溜めこんでいたのかしらね」
 リツコである。
「N2兵器の格納庫……あるいは製造所があったとしたら、爆発の説明はできるわね」
「ネルフの支部よ?」
「だから隠して作ってたんじゃない?」
 ミサトは総司令の顔を盗み見たが、表情からはなにも読みとれなかった。
(司令は知っていたの? 知らなかったの?)
 知っていたとすれば、それは司令が作らせていたと言うことだろう。
 だが知らなかったとすれば……。
(N2の保持は国連によって制限されているわ。だからこそ戦闘時には国連軍に要請しなければならない……なのに)
 独自に貯蔵していたとなれば、大ごとになる。
 本部から離反する用意であったのか? あるいは母国と結託しての行為であったのか……。
「ミサト」
 リツコの叱責に、ミサトははっと我に返った。
「ごめん、なに?」
 言ってしまってから、総司令と副司令も居る場であったなと、赤面した。
 彼女は慌ててとりつくろった。
「……爆発の原因はともかくとして、パターン青は、爆発の前には消えていたのよね?」
「ええ。間違いありません」
「ならそれが……変質したエヴァからの反応だったのではなく、出現した使徒による反応だったのだとすれば、爆発に巻き込まれる前に、どこかへ生きて移動したということになるわね……」
 沈黙の戸張が降りる。
「ふむ」
 幕を上げたのは副司令だった。
「だとしたら、どうするね?」
「正直……迷います」
 ミサトは眉間に皺を寄せて続けた。
「原因がS2機関であり、反応の消失がS2機関の停止に伴うものであるのなら問題は解決していることになりますが……もし、この事態を引きおこしたのが使徒であったのなら、不意打ちにもほどがあります。防げません」
 でもとリツコ。
「わたしは初号機が、わたしたちを守ってくれると思っているわ」
「初号機が?」
「ええ」
 リツコの見解は、こうだった。
「エヴァはね……汎用兵器なんて言ったって、しょせんは拾ったもののコピーにすぎないのよ。これはいつ、どこで、どうなるかなんてわからない代物なのよ」
 いまさらそんなことをと、ミサトは不安をあおるような話に口もとを歪める。
 だがリツコは、そんな反応を気にも止めなかった。
「……そんなエヴァの中でも、S2機関を搭載している初号機は、停止しているように見えても実はずっと待機状態でとどまっているの。ATフィールドの発生状態がその事実を示しているわ」
「停まってない?」
「ええ。ATフィールドは、常時展開されているの。これにかからずに本部への侵入を行うなんてことはできないわ」
 ミサトはリツコの解説を聞きながらも、まったくと心中で毒づいた。
 マコトに対してこぼしていたが、マユミを第2支部に送るという考えは、実はかなりの部分で具体的に煮つめていたのだ。
 マユミではエヴァを飛翔させることはできないだろう。だがそれでも現在のマユミの精神的な強さと、実戦で鍛えられた能力があれば、さらに高いレベルの訓練を受け直すことができるはずであると。
 ハード(エヴァ)とソフト(マユミ)、少なくともどちらか一方……、あわよくば双方ともがレベルアップを行えるのなら……。
(考えが……都合良すぎたか)
 そういえばと思い出す。
「第2支部では、二機のエヴァを建造してなかった?」
「ええ」
 目で説明しろと命じられ、マヤが答える。
「『4号機』は、『3号機』の実験に伴い、万が一のためにと、第1支部に移送されていました」
 4号機についてはと、コウゾウが割り込む。
「アメリカ政府より打診があった。以降の開発は本部にゆだねるとな。どうも第1支部までは失いたくないらしい」
 はて? と眉間にしわを寄せ、ミサトは物言いのおかしさをいぶかしがった。
(第1支部まではって……エヴァのない支部に、どんな意味があるっていうのよ)
 しかしそれは、顔には出さない方が無難な気のする箇所であった。
 ともかくと、ミサトは総司令に許可を求めた。
「作戦部としては、早急にファーストチルドレンと零号機の再起動試験を行いたいと思います。S2機関と初号機に関しては、4号機の到着以前に、技術部によって、より詳細なデータの収集をお願いします。パイロットについては」
 ゲンドウが一言で終わらせる。
「再検査だ」
「……ではトライデントと弐号機の改良と修復を急ぎます」


(逃げられない)
 ミサトは、自分が窮地へと追い込まれているような錯覚を受けていた。
 シンジは敵ではない……この勘がなければ、とっくに彼など拘束していた。
 だがしかし現実はどうだ? 彼を信じたことによって、今もこの世にネルフと日本と、世界があるのに。
 彼がいなければ、とっくに使徒によって滅ぼされていたというのに……だ。
 ミサトは事務室へ引きあげると、ノートパソコンを開き、繰り返し第2支部が消える様を流した。
 まるで彼女以外の人間では見つけられなかったものを探すように、食い入り見つめる。
 まさに親の敵を見るがごとくだ。
 ミサトが使徒を思うとき、いつも彼女の脳裏には、南極で見た怪物の姿が思い浮かぶ。
 間近で見た使徒……肌が泡立つ感覚。
 それがこの消滅シーンを眺めるに、蘇ってくるのだ。
 そしてそんな彼女のことを、リツコが横目に監察していた。
 事務室隅の、コーヒーサーバーの前に陣取って、飲み物ができあがるのを待っている。
「でもこれで、エヴァを四機も独占ね」
 突然の軽口に、ミサトは目頭を指で揉みながら顔を上げた。
「……その気になれば、世界征服も夢じゃないわね」
「どうするつもり?」
 笑って応じるミサトである。
「滅ぼすだけなら、初号機だけでできるんでしょうけど」
「そうね」
 これにはリツコも同意した。
「初号機……シンジ君の駆る初号機の力というものは、そういう質のものなのでしょうね。制圧とか、統治には向いてないわ」
「恫喝するという意味では、核以上の怖さがあるんだけど……」
 S2機関とは、それほどのものだと言っているのだ。
「S2機関が、技術部のレポート通りのものなら、今の初号機の力も、まだ全力であるとは言えないのよね」
「その通りよ。……シンジ君のシンクロ率とハーモニクスの値を見ればわかるけど、彼は出力を一定以上には決して上げないようにコントロールしているわ。もし安定させないで、暴走に任せるだけなら、あれほど疲労することも、苦労することも、苦戦することも無く、まさに『殲滅』という言葉通りの戦闘を行うことができるんでしょうね」
 三番目に襲来した使徒のことを思い出す。
「……あの使徒の自爆が実行されていたらと思うと、ゾッとするわ」
「シンジ君が自爆を決意したのは、そのことを『知っていた』からかも知れないわね。もし彼が自爆を選択してでも、使徒の爆発を未発に押さえなければ……」
「日本が消えていた?」
「あるいは、地球が……」
 地殻に達する破壊を受ければ、地球上は、人の手には負えない災害に包まれることになる。
「人を滅ぼし、自然の回復を待つ……そのくらいの時間、使徒にはなんでもないことでしょうしね」
「それよ」
 ミサトは指を突き付けた。
「使徒ってなに? 目的は何なの?」
「さあ?」
「赤木博士?」
「……あなたに渡している資料がすべてよ」
「嘘ね」
「信じて……と言っても無意味でしょうね。でも、本当に詳しいことはわたしも知らないのよ」
 まだそこまでは信用されていないのだろう……そうこぼすリツコに、ミサトは追及の矛を収めた。
 互いに都合よく利用されている。実感もある。そんな疲れが二人を包む。
「技術部は……」
 ミサトはやりきれぬ倦怠感から、話題を変えた。
「4号機が欲しい?」
「……微妙なところね」
 リツコは正直に答えた。
「エヴァ三機の整備と修理だけでも、予算も人の手もぎりぎりなのよ? もしパイロットが見つかったとしても、運用できる状態へとこぎ着ける自信も余裕もないわ」
「予備のパーツとしては?」
「それだって、保管のための整備と管理は必要でしょう?」
 数が多くあれば良いというものではない。
 何よりも困るのは、エヴァも使徒と同様の特性をもっているということだった。


「アポトーシス作業か」
 エヴァの基本的な整備項目に、そのようなものがある。
 加持はどこからか手に入れてきたマニュアルに目を通していた。
 エヴァのベースは使徒である。無限の再生能力を持っている。
 だがこれは危険なことだ。人間の体になぜ自滅因子があるのか?
 細胞が病に犯された場合のことを考えればわかる。病原体となった細胞に、自滅因子による寿命がなければ、悪性細胞は全身にいたるまで自身をコピーし続けるだろう。
 そしてエヴァンゲリオンには、自滅因子が備わっていないのである。
 もしも傷が癌化を起こせば、全身転移はまぬがれない。よってアポトーシス作業というものが行われていた。傷ついた箇所を人為的に死滅させることによって、正常な細胞のみを繁殖させて、自己修復を完了させるようにしむけるのである。
「修復作業とは言えないな。傷ついた部分を切り取って、後は治るに任せてるだけなんだから」
 ふと資料で見た、一番目の使徒のことを思い出した。
 胴部に顔とおぼしき二つ目の仮面。……あれは本当に、傷ついた顔の替わりに生みだされたものであったのだろうか?
 実は修復されたのではなく、異常な再生が行われた結果であったのかもしれないと思い付く。自滅因子がないために、古い顔を異物として排除することのないまま、残したままに、新たな仮面を作り出してしまい、結果、あのようないびつな形で残ってしまっただけなのかもしれないと。
 そのように、顔二つの、奇形化した状態に陥って……。
(だとすれば、使徒の自己進化能力というものも、完全ではないんだな)
 不死と自己進化は、共存できない能力なのかもしれない。
 進化するためには、どうしても古い規格の部位を排除する必要が出てくるからだ。だが不死身の肉体とは、完成された形状が、決して損なわれず、永遠に維持し続けられる状態のことを指し示すのである。
 この両者が混在した場合、あの仮面のように、不必要となった部位までも、残したままで再生してしまうのではなかろうか?
(後から後から、足すことしかできない生き物か……そんなものが、一体なんの用があって、なんのために生まれて来たんだ?)
 ふぅ……と、ため息をこぼす。
 ミサトからテープを取り戻しておいて正解だったと思う。
 もし彼女がシンジの秘密を知ったなら、彼女は……。
「なにをしでかすか、な……」
 自分ですら、震えていると、加持は落ち着かない気持ちをもてあましていた。
「後は、使徒が現れてからになるが……」
 上はシンジをエヴァに乗せるだろうか? そのことが気になっていた。
 シンジが突然に、このような急いだ訳を、上も気がついていないはずがない。それはテープの内容に起因している。
 ディラックの海、クラインの壷。問題となるのはその殲滅法であろう。
 場合によっては、最悪の手前ですら……。
「シンジ君は、犠牲になるつもりだろうな。でなければ、こんな、信じてもらえるかどうかもわからんような話を、皆に広めようとはしないはずだ」
 できれば、シンジの『妄想話』とは違った使徒が来てほしいものだと思う。だが、もしその通りの使徒が来たときは……。
 加持は身震いを禁じ得なかった。そして、初号機のところへと足を向けた。
 なんとなしに、初号機を、今、見ておきたくなったのである。
 ――そして、使徒はやって来た。


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